FrontPage  Index  Search  Changes  wikifarm  Login

《混濁》

《混濁》に関する疑問

  1. 人間の赤ん坊が独我論者であって、自己の周囲の世界を自分の一部であると思い込んでいるのは、その生涯の最初の数週間に過ぎない。p.20『ソクラテス以前以後』。であるとしても、母体の中の胎児は《混濁》のうちにある独我論者である。か?○:。×:。
  1. 《混濁》を一望しつつあるモノ《混濁》である。か?
    1. ○:
      1. 《知りつつある混濁》《知られつつある混濁》
      2. 一望されつつある《混濁》と一望しつつある《混濁》とは、物理的に同一であり得る。認識経路がループすればよい。
      3. 《知りつつあるモノ》という分離はない。
      4. 《混濁への一望》(コダイボ)は《この身体が知り得た一切への一望》の始まりである。
    2. ×:
      1. 一望されつつある《混濁》と一望しつつある《混濁》とは、物理的に同一ではあり得ない。
  1. 「太極とは天地未だ分れざるの前、元気混じて一と為るをいう」(易経1、p.42、孔頴達)
  2. 《混濁》は「太極」である、か?○:「太極」→「陰」/「陽」は《混濁の分離》の一つである。×:「太極」なんて《他者からの思いこみ》の極みじゃ。
  1. 《混濁》《思惟しつつあるモノ》は在る。か?
    1. ○:。
    2. ×:《知りつつあるモノ》《思い描き》《噴出しつつあるモノ》コトバ(内語)を噴出しつつあるモノ《思い描き》コトバを操りつつあるモノがばらばらに感じられる。場所も違う場所に感じられる。《知りつつあるモノ》は目の後ろ。コトバ噴出しつつあるモノは喉のあたり。《思い描き》噴出しつつあるモノは胸の辺り。操りつつあるものは目の下あたり。
  1. 《混濁》《私》が在る。か?
    1. ○:
    2. ×:
      1. 《他者》が無ければ《私》無し。
      2. 《混濁》の中に《知りつつあるモノ》はあるが、《知りつつあるモノ》がいわゆる「私」であるとは思えない。

記述

  1. 《たけ(tk)の思いこみ》《混濁》から始まる。

《混濁》の否定は?

  1. 《混濁》の否定は、一切一望である。か?○:。×:。
  2. 《混濁》の否定は、《一切》である?○:最終目標は《一切への一望》である。解像度ゼロの最初の《一切への一望》が《混濁》である。《一切》は対象であり、《一切への一望》は視点である。スタート地点はゴール地点によって否定される。《混濁》とは《一切への一望》の不存在である。無明とは明智の不存在である。×:。
  1. 《混濁》の否定は、「スーハー《混濁》・否定・100」という数息観である?
    1. ○:
      1. スーハー》という動き、それを取り巻く《混濁》、「否定」という内語、その息を数える意識とコトバ、が在る状況である。
      2. スーハー《息しつつある身体》《混濁》→《体内混濁》と《体外混濁》。「否定」、「100」。
      3. 《混濁》《この身体が知り得た一切》(コシイサ)の混濁した状態。
      4. 《混濁》《この身体が知り得た一切》《混濁》の状態で保持しつつある《体内時空》。《混濁》状態の《この身体が知り得た一切》を保持しつつある《この身体》。
      5. 《混濁》→《他者からの混濁》。他者の身体が知り得た一切を知りつつある、他者からの《混濁》
    2. ×:。
  1. 《混濁》の否定は、スーハーである?
    1. ○:
      1. スーハーは《息せよと呼びかけたモノ》の呼びかけに応じて動き始めた動きである。スーハー《内からの視点》での《息しつつあるモノ》である。
      2. 《息せよと呼びかけたモノ》は正体不明であるが、スーハーは明らかな実体験である。
      3. 実践的にはスーハーでしょ。
      4. 《混濁》の否定」も「スーハー《混濁》・否定・100」で決まる。
    2. ×:スーハーの実態が情けなさ過ぎる。息している音の擬音でしかない。
  1. 《混濁》の否定は、《混濁》《外からの視点》である?
    1. ○:《混濁》だと思っていたものは、《混濁》《内からの視点》での《混濁》である。その否定は、《外からの視点》での《混濁》である。
    2. ×:《外からの視点》での《混濁》直知できない。《混濁》《外からの視点》に至るためには、想像力の『鏡』が必要である。
  1. 《混濁》の否定は、《知りつつあるモノ》であるか?○:《混濁》の分離は《知りつつあるモノ》《知られつつある混濁》との分離である。×:《混濁の分離》の一種である。
  1. 《混濁》の否定は《たけ(tk)の思いこみ》であるか?○:《混濁》から始まる記述が完成すれば、《たけ(tk)の思いこみ》の記述が完成する、という意味で、YESでよい。×:。
  1. 《混濁》の否定は、《群生相》であるか?○:《孤独相》における《混濁》《群生相》における《混濁》《群生相》における《混濁》は《一切への一望》の不存在である。×:《群生相》における《混濁》は無い。
  1. 《混濁》の否定は、《他者》である?○:《混濁》《他者》の出現によって破壊される。孤独相、群生相(待機相、対話相、共同想念相)×:本物の《混濁》においては、《他者》の出現は認知されない。救急車の中で他者のコトバは聞こえたが、《混濁》を破壊するようなモノではなかった。
  1. 《混濁》の否定は、《思いこみのミックスジュース》である?○:《混濁》は《思いこみのミックスジュース》のようなモノであり、沈静化すると、個々の《思いこみ》が現れる。《思いこみ》の存在の確実性は色々であり、比較的その存在が確実な《思いこみ》を「モノ」と呼ぶことにした。×:《混濁の分離》の一種である。
  1. 《混濁》の否定は、「混濁」というコトバである?○:《《混濁》というモノ、「混濁」というコトバ、『混濁』という思い描き。×:これは《混濁の分離》の一種である。
  1. 《混濁》の否定は、《混濁の分離》である?○:《混濁》《混濁の分離》によって否定される、というのは、分かりやすい。×:。
  1. 《混濁》の否定は、《息しつつあるモノ》であるか?
    1. ○:《混濁》において最初に現れたのが「生きろ。息をしろ」という呼びかけであった。「生きろ。息をしろ」と呼びかけたモノを、のちに《息しつつあるモノ》略してイシモと呼ぶようになったというだけの話である。。
    2. ×:。

どのようなモノ

  1. 《混濁》《一切》である。ただし解像度はゼロである。
    1. 我々は《一切》を知るべきである。《一切》を知るものは全知者である。(しかし、もちろん、全知者が全能者であるわけではない)。
    2. 我々は《混濁》を知ることによって、全知者になる。ただし、解像度はゼロであるから、《一切》《混濁》以外の何かを知ったことには、全然ならない。
    3. 《一切》の解像度を上げていくことが必要である。
  1. 《知られつつある混濁》は、《知られつつある世界》と、《認識限界》と、《背後者》(=《認識限界》の先の世界)とに分離する。
  1. 《混濁》《視点》によってさまざまに分離する。(《混濁の分離》
    1. 《息しつつあるモノ》とそれ以外の《混濁》との分離・・
      1. 最初の分離は、《息しつつあるモノ》とそれ以外の《混濁》との分離だった。《混濁》の中で、《息しつつあるモノ》は『生きろ。息をしろ』と呼びかけていたのである。・・これはしばらく忘れていた。
    2. 《知りつつあるモノ》《知られつつある混濁》との分離・・
      1. 息をすると、落ち着いてきて、《混濁》《知られつつあるモノ》であることに気がついた。《混濁》《知りつつあるモノ》と「《知られつつあるモノ》としての《混濁》」とに分離した。「《知られつつあるモノ》としての《混濁》」を《混濁の世界》と名付けた。《混濁》《知りつつあるモノ》の周りの《世界》であったからである。
    3. 《モノの世界》《思いこみ》の分離・・
      1. 《混濁の世界》はあやふやなモノであった。その中で、おそらく、確かに存在するであろうモノ《近傍物理空間》と呼び、その他のあやふやなモノ《思いこみ》と呼ぶことにした。《混濁の世界》《近傍物理空間》《思いこみ》とに分離した。《近傍物理空間》は、デカルトの暖炉の部屋である。目で直接にその存在を確認できるモノたちの世界である。
      2. ただし、《思いこみ》というコトバの指し示すモノ《近傍物理空間》というコトバが指し示すモノの中間に、《体内感覚世界》と呼ぶべきモノも分離すべきであると気がついた。たとえば、身体の痛みや力み(りきみ)は《思いこみ》でも《近傍物理空間》の中のモノでもないからである。(《身体》の内部も《知りつつあるモノ》にとっては近傍の物理空間と言ってもよいかもしれないが・・。また、《近傍物理空間》以外のモノという定義から《思いこみ》に含めても良かったかもしれないが・・、コトバの意味から見て適切ではないだろう)。
    4. 《近傍物理空間》《体内感覚世界》との分離・・
      1. 《体内感覚世界》を観察してみると、《思いこみ》《体内感覚世界》の中に《噴出》してくるモノであることに気がついた。
      2. 《思いこみ》《体内感覚世界》の中のモノであるとすると、《混濁の世界》《体外感覚世界》(=《近傍物理空間》)と《体内感覚世界》とに分離したということになる。
      3. なお、広義の《思いこみ》《思い描き》も含んでいた。広義の《思いこみ》から《思い描き》を除いた部分を狭義の《思いこみ》と言うことにする。《思いこみ》《体内感覚世界》《噴出》して《思い描き》を形成する。《知りつつあるモノ》はその様子を観察し、《思い描き》をその《外からの視点》で見ることもある。さらに、《知りつつあるモノ》はその《思い描き》の中に入りこむことがある。《思い描き》への《入り込み》が生じると、《思い描き》《内からの視点》で《思い描きの世界》を見ることになる。《視点の移動》が生じるわけである。
    5. 認識限界》、《知られつつある世界》《背後者》との分離・・
      1. 《知りつつあるモノ》を観察していると、《知りつつあるモノ》の背後に何かが在るように感じた。《知りつつあるモノ》の関心を決めているモノは何か背後にあるモノのようである。ためしに、呼吸停止の実験を行うと、《知りつつあるモノ》はその背後からの影響によって錯乱した(止まっている腹から《体内感覚世界》を通して錯乱の力が伝わってきたわけではない)。《知りつつあるモノ》が背後からの力が働いていることは確かであった。それに《背後者》という名前を付けた。《背後者》は原理的に言って《直知》できないモノであり《認識限界》の先にある。先といってもゼロより小さい距離、マイナスの距離の先にあるモノである。管理カメラは監視カメラの内部を撮影できないが、監視カメラに写った映像の背後には監視カメラの内部がある。
      2. また、《近傍物理空間》を観察してみると、《近傍物理空間》には《認識限界》があり、その先にも物理的な世界が広がっていることは確かであるように感じられた。《認識限界》はドアや建物の壁であり、また、モノの表面であった。ドアや建物の先には同じような《近傍物理空間》が広がっていた。モノの表面の《認識限界》の先にあるものはモノの内部である。モノの内部は原理的に言って《直知》することはできない。モノを割って中を見ようとしても、見えるのはモノの表面(切断面)である。
      3. 《知りつつあるモノ》《背後者》と、《近傍物理空間》の《認識限界》の先にあるモノは、同じであるのか、違うのかは分からないがどちらも《背後者》と呼ぶことにした。《知りつつあるモノ》《背後者》モノの内部の《背後者》とは繋がっているかもしれないと思ったからである。
    6. 《体内世界》と《体外世界》との分離・・
      1. 《知りつつあるモノ》《背後者》との関係を観察していると、《知りつつあるモノ》《身体》の内部のモノであり、《背後者》《身体》内部の《背後者》《身体》外部の《背後者》とに分離する(であろう)ことが分かった。
      2. 《知りつつあるモノ》の分析では二つの《背後者》の関係は不明であったが、《息しつつあるモノ》、これも《体内感覚世界》の中のモノであるが、を中心に、もう一度《混濁》に戻って分析すると、《知りつつあるモノ》《背後者》《身体》の内部に在ることはほぼ確実であった。
      3. 《混濁》《体内世界》と《体外世界》とに分離した。
    7. モノコトバ《思い描き》の分離・・
      1. 《混濁》の分離はそれだけではなかった。《混濁》を「混濁」というコトバで呼んだ時、《混濁》というモノと「混濁」というコトバが分離していた。コトバ《思い描き》を生じさせる。「混濁」というコトバは『混濁』の《思い描き》を生じさせる。しかし、『混濁』という《思い描き》は、《混濁》というモノとは別のモノである。『混濁』という《思い描き》《混濁》というモノを指し示すことができるだけである。
    8. 《視点》・関心による任意の分離・・
      1. 《混濁の分離》はそれだけではない。何かに強い関心を持った状態で《混濁》に戻ると、《混濁》はその関心に従って分離していく。時間に関心を持っていれば時間に対する様々な考え方によって《混濁》が分離する。《欲求》に関心を持って《混濁》に戻れば、《欲求》《混濁》の根源的な区別であるように分離する。『よい』『わるい』に関心を持っていれば、《混濁》『よい』『わるい』『無関心』によって分離する・・・・。
      2. 《混濁》がさまざまに分離することに関心を持って《混濁》に戻ると、《混濁》は《混濁の様々な分離》という形で分離する。
  2. 《知りつつあるモノ》による《混濁の分離》