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梵我一如と《めまい》

《たけ(tk)の思いこみ》おまけ梵我一如と《めまい》

梵我一如と《めまい》 http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/451.html 投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 2 月 11 日 15:28:52: SjhUwzSd1dsNg

梵我一如と《めまい》

他者を観察すれば、他者が《宇宙史》の一部分であり、人と《宇宙史》とは部分と全体との関係にあることがすぐに分かる。梵「他」一如であることは自明である。

私と他者とが同質のものであるとするならば、当然に《我》もまた《宇宙史》の一部であり、梵我一如であることになる。

しかし我々は、梵我一如であることを容易には認めようとしない。梵我一如は特別な宗教的認識であると、我々は信じている。 では、何故に我々は梵我一如であることを認めないのであろうか。

この矛盾は次のように整理することができる。

  1. 《我》は客観的には梵我一如であることを認めるが、
  2. 《我》は主観的には梵我一如であることを否認する。

したがって問題は、

  1. (1)《我》が主観的に梵我一如であることを認めることができるどうかか、
  2. (2)主観的に梵我一如であることを認めるというのはどういうことなのか、であろう。また問題は、
  3. (3)「梵我一如であることを否認する《我》」とは何か、であろう。

梵我一如であることを否認する《我》」は《知りつつあるモノ》である。

《知りつつあるモノ》《知られつつある世界》を知りつつあるモノである。それは《知られつつある世界》の中心にあり、《知られつつある世界》を超越した、別個の、外部の存在である。

しかしひるがえって《他者》を見るなら、《他者》においては、《他者》《知りつつあるモノ》は、《他者の身体》の内部にあり、《他者の身体》の内部的な作用である。

さすれば、私の《知りつつあるモノ》も私の《身体》の内部にあり、《身体》の内部的な作用であると思われる。(《同質者公理》

《知りつつあるモノ》が「《身体》の内部的作用」であることと(《同質者公理》)、《知りつつあるモノ》《知られつつある世界》の超越的認識者であること(《特別者公理》)の矛盾はどう理解すればよいか。

《同質者公理》による説明は簡単であろう。 「《身体》の内部的作用でしかない《知りつつあるモノ》が、勝手に、その《知られつつある世界》の超越的認識者であると思いこんでいるだけだ」という説明で十分である。

しかし、《同質者公理》による説明は《我》にとっては意味がない。《我》は主観的存在だからである。《特別者公理》の発展によって矛盾を解消すべきなのである。

《知りつつあるモノ》《知られつつある世界》の超越的認識者である」という《特別者公理》の説明には欠けているものがある。

《特別者公理》の説明には「《知りつつあるモノ》《身体》の内部的作用である」という視点がない。《特別者公理》の体現者としての《知りつつあるモノ》は、自らが「《身体》の内部作用である」ということを知ることができないのである。

これを《知りつつあるモノの背後者》と呼ぶことにしよう。「《知りつつあるモノ》《身体》の内部作用である」という事情は《知りつつあるモノ》の認識作用の背後にある事情だからである。

《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノの背後者》直観によって知ることはできない。なぜなら、知るという作用は矢印の始点から終点を知るという作用であり、認識作用の始点から見てマイナス方向にある《背後者》は、原理的に見て、認識作用の終点とは別のものだからである。

しかし、《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノの背後者》兆候によって知ることができる。

《知りつつあるモノ》の興味・注目を決定するのは《知りつつあるモノの背後者》の作用である。

《知りつつあるモノ》は自らの興味の赴く様子、どういう時に何を注目するかを観察し、それを《知りつつあるモノの背後者》兆候として観察することにより、《知りつつあるモノの背後者》の実体を推知することができるようになる。(「兆候による《浄化》」「《背後者》への見通し」)

しかしながら、《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノの背後者》への見通しを獲得していくと、《知りつつあるモノ》は重大な危機に陥る。 《知りつつあるモノ》は深刻な《めまい》に襲われるのである。

《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノの背後者》を見通すということは、《知りつつあるモノの背後者》から《知りつつあるモノ》へともたらされる《ちから》を破壊することである。《知りつつあるモノ》は自らを動かす《ちから》を破壊し、《知りつつあるモノ》は自らの《ちから》を失う。《知りつつあるモノ》《背後者》を知ろうとすればするほど、《知りつつあるモノ》は知る《ちから》を失う。《知りつつあるモノ》《背後者》に迫れば迫るほど、自らの存在原因を失う。

《知りつつあるモノ》は《めまい》に襲われるであろう。 では、《めまい》に対してどう対処すればよいのか?

《身体》の内部作用には、《知りつつあるモノ》よりももっと確実なものがある。《息しつつあるモノ》である。《身体》内部の《息しつつあるモノ》《知りつつあるモノ》が知っていようが知っていまいが、《身体》が生まれてから死ぬまで、《息しつつあるモノ》であり続ける。《息しつつあるモノ》《知りつつあるモノ》よりも根源的でありはるかに強力なモノである。《息しつつあるモノ》が30秒間その動きをサボれば、《知りつつあるモノ》はたちまちに錯乱状態に陥るのである。

《知りつつあるモノ》が《めまい》に襲われたら、自らの《身体》の中に《息しつつあるモノ》があることを思い出そう。《知りつつあるモノ》は、《息しつつあるモノ》によって《生かされつつあるモノ》であることを思い出そう。そして、それを実感として取り戻そう。そして《息しつつあるモノ》の意思に従って、深呼吸をしよう。そうすれば《めまい》は治まるであろう。

《知りつつあるモノ》は、自らが《身体》の内部作用であることを実感しながら、《息しつつあるモノ》によって《生かされつつあるモノ》であることを実感しながら、《背後者》を見通さなければならない。そのような実感を背後に感じながら《背後者》見通していかなければならない。

《知りつつあるモノ》《身体》の内部作用である実感を背後に感じながら、《知りつつあるモノの背後者》への見通しを得る時、《知りつつあるモノ》は自らが《身体》の内部の作用であることを知る。また、その《身体》は、《宇宙史》のいまここという、《宇宙史》の一部分であることを知る。《宇宙史》は全体であり《身体》はその一部であり、《知りつつあるモノ》《身体》の内部の作用であることを知る。

《知りつつあるモノ》梵我一如であることを知るのである。

しかしながら、この梵我一如はいささか哀れなモノである。

《知りつつあるモノ》は、広大無辺な《宇宙史》の中のちっぽけな地球の中の、地球の表面のカビのような人類の中の、何十億分の一の個体の、《身体》の内部のいまここという点に置かれた作用でしかないのである。

カバラ的な降神術には頼るまい。カバラはいんちきである。《他者》をだまくらかす力はあるが、いんちきである。いんちきに頼るものは自らも騙されるのである。

ちっぽけな《身体》であることを認めたうえで、《ちから》を取り戻そう。

私の《身体》はちっぽけであるが、同じくちっぽけなモノたちと共にある。同じくちっぽけな《他者の身体》とともにある。私の《身体》モノたちや《他者の身体》共振しつつある。共振によって私の《身体》モノたちや《他者の身体》たちと対話し、影響しあう。

私の《身体》の中にある私の《ちから》モノたちや《他者の身体》たちに広がっていく。さらに、そのモノたちや《他者の身体》たちを通じて、私が知らないモノたちや《他者の身体》へと無限に伝わっていく。

また私の《身体》の中の《知りつつあるモノ》モノたちや《他者の身体》を知る。私の《身体》モノたちや《他者の身体》たちと対話することによって、彼らの《知りつつあるモノ》が知った世界を知る。

私の《ちから》は、私の《身体》の中にありながら、モノたちや《他者の身体》との対話を通じて、《宇宙史》全体に広がっていくのである。私の《ちから》の伝わりは微々たるものである。私が知っているモノたちへ伝わる《ちから》は私が持っている《ちから》の何十億分の一であろう。彼らから別のモノたちへと間接的に伝わる《ちから》はさらにその何十億分の一であろう(何百京分の一)。しかし、確実に私の《ちから》《宇宙史》全体に広がっていくのである。


阿修羅への投稿を一部変更して、アップしました。

http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/451.html

如往さんのレス

Re: 梵我一如と《めまい》 http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/462.html 投稿者 如往 日時 2005 年 2 月 14 日 05:10:48: yYpAQC0AqSUqI

 たけ(tk)さん、こんにちは。

 【『夜と霧』について。如往さんへ】といったスレッドを建てていただきながら、回答が遅れていますことをお詫び申し上げます。以前、この件についてはたけ(tk)さんと少しやり取りをしたと記憶していますが、ログしたものが見つからず愚図愚図している間に時間が経過してしまいました。ただし、ガス室問題に関する私の認識はその時と今と然程変わっていないと思っています。

 そして、省察的に自他の世界認識の風景を再構成しようとする試みは、おそらく、【主観的価値絶対主義と客観的価値相対主義と天上天下唯我独尊と公理主義http://www.asyura2.com/0403/idletalk9/msg/819.html投稿者 たけ(tk) 日時 2004 年 6 月 06 日】以来ではないでしょうか。

 >《我》は客観的には梵我一如であることを認めるが(《客観公理》)、《我》は主観的には梵我一如であることを否認する(《主観公理》)。

 これは、「《我》は客観的には梵我一如であることを認めるが」を「《我》は客観的には梵我一如であることを意識することがあるが」に、「《我》は主観的には梵我一如であることを否認する」は「《我》は主観的には梵我一如であることを忘却している」に、書き換えた方が理解し易いのではないしょうか。

 そして、以下、 《知りつつあるモノ》=ノエシス[思惟することの作用の(側面)]、《知られつつある世界》=ノエマ[思惟されるもの(の総体)]、さらに《我》=サブジェクト[思惟の主体]と置き換えるともっと解り易くなると思います。

 たけ(tk)さんは、《我》が梵の先端的顕現であり、末来に投影されている《我》の振る舞い(兆候)の中に《知りつつあるモノの背後者》(=超越的認識者[自己完結的存在])を見通すことが可能だと考えられていて、さらに梵と《我》とが恰もフラクタルな繋がり(関係性)を有している模様を叙述しようとしているのだと受けとめています。

 しかしながら、見通しを獲得していくことが「《知りつつあるモノ》は自らを動かす《ちから》を破壊し、《知りつつあるモノ》は自らの《ちから》を失う」ことに繋がり、さらには《知りつつあるモノの背後者》を無化し、結果として《我》にたいし脱力感・無力感を伴なった深刻な《めまい》に襲われるとしています。

 この《めまい》から回復するためには、「自らの《身体》の中に《息しつつあるモノ》があることを思い出そう。《知りつつあるモノ》は、《息しつつあるモノ》によって《生かされつつあるモノ》であることを思い出そう。そして、それを実感として取り戻そう。」と、身体性に潜む強靭な自然性(=《息しつつあるモノ》)に目覚めよと語っています。その上で、自身(=《身体》)の内部で脈打っている自然の息吹を実感しながら、その源に想いを馳せていくならば、やがて「《宇宙史》は全体であり《身体》はその一部であり、《知りつつあるモノ》《身体》の内部の作用であることを知る。」ことになり、すなわち「《知りつつあるモノ》梵我一如であることを知るのである。」と導かれています。

 アートマン・プロジェクトは一人一人が目覚めて、一人一人が始める他に道はないのでしょう。そして、プロジェクトの一つ一つがシンクロナイズし、人々の《ちから》が伝播することによって宇宙史が再構成されていくとしたら、そこには素晴らしい世界が生まれると想像できます。そんな世界の現出を信じられ、もし死に臨むことができたら、この上なく幸せに思います。

 また、会いましょう。

如往さんのレスへのレス

Re: 梵我一如と《めまい》

http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/477.html

投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 2 月 17 日 00:42:53: SjhUwzSd1dsNg

(回答先: Re: 梵我一如と《めまい》 投稿者 如往 日時 2005 年 2 月 14 日 05:10:48)

・・・

> これは、「《我》は客観的には梵我一如であることを認めるが」を「《我》は客観的には梵我一如であることを意識することがあるが」に、「《我》は主観的には梵我一如であることを否認する」は「《我》は主観的には梵我一如であることを忘却している」に、書き換えた方が理解し易いのではないしょうか。

これは「山川草木悉皆成仏」の思想ですね。「忘却している」というのは「もともとは知っていたのに、今は忘れてしまった」という意味ですね。「もともとは知っていた」と言えるかどうかが分からないので「否認する」という表現にしました。

また、「否認する」というのは、強い潜在的な意思によって否認しているのではないかというニュアンスも含んでいます。我々は「梵我一如であることを認めたくない」から認めないのではないのだろう、という気がしています。

何故に、我々が「梵我一如であることを認めたくない」のかというと、一言で言えば「梵我一如を認めると人格を破壊する(という気がする)から」だと思います。お坊さんがたは「無我」などと平然と説教していますが、やはり「無我=人格破壊」はこわいのだと思います。

* 人格(ペルソナ=仮面)は《思いこみ》に過ぎない。人格破壊の決意をしても、実際には現実生活に変化はない、ような気がする。

* 日本人が気軽に「無我」というのは、それが「身近な小集団への同化」を意味しているからだろう。

> そして、以下、 《知りつつあるモノ》=ノエシス[思惟することの作用の(側面)]、《知られつつある世界》=ノエマ[思惟されるもの(の総体)]、さらに《我》=サブジェクト[思惟の主体]と置き換えるともっと解り易くなると思います。

フッサールの用語が分かりやすいとは言えないでしょう。たけ(tk)はヤマト言葉にこだわっております。(ドイツ人の研究者に「日本では下宿のおばさんが哲学用語で喋っている」と言わせたい)

たけ(tk)は「思惟」は「《思いこみ》を操ること」であると定義しているので却下。「知覚することの作用」ですね。これに関しては、たけ(tk)《知りつつあるモノ》とフッサールの「ノエシス」とはおそらく似たようなものでしょう。ただし、たけ(tk)の場合は、捨ててしまうべきもの、他の《諸々のxxしつつあるモノ》との相対関係にあるモノ、それを《我》と思うのは誤りであるようなモノ、というニュアンスで使っていますので、おそらくフッサールのニュアンスとは異なってくると思います。

・・・

> アートマン・プロジェクトは一人一人が目覚めて、一人一人が始める他に道はないのでしょう。そして、プロジェクトの一つ一つがシンクロナイズし、人々の《ちから》が伝播することによって宇宙史が再構成されていくとしたら、そこには素晴らしい世界が生まれると想像できます。

たけ(tk)はあんまり、人には勧めたくないですね。『人格』を引きちぎって奈落の暗闇に何度も飛び込まないと奈落の底にはたどりつかない。奈落の底にたどりついて始めて、自分が自分の足で立っていることに気がつき、光が見えてくるという感じです。

でもまあ、多くの人がアートマンプロジェクトに参加してくれて、「プロジェクトの一つ一つがシンクロナイズし、人々の《ちから》が伝播する」ならすばらしいことだとは思います。

裏話

復刻版: http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/kakolog2/past-tetsu.htm

http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi

10 名前:たけ(tk)(レス魔見習い)さん 投稿日:2/11-17:19 No.4435

実を言うと 2005-01-26(水) に猛烈な目眩に襲われて、ぶっ倒れてしまいました。タクシー代わりに救急車を呼んでもらって日赤に行きました。CTとか血液検査をやった後に、脳に異常はない、救急ではないと言われて追い出されてしまいました。でも救急車の中での血圧は普段の倍近くあったようです。

身体的な原因ではないとすると、(↓)を書きはじめたせいではないかと思いまして、

http://wiki.fdiary.net/moikomi/?FrontPage

病院のベッドの中で、深呼吸=《息しつつあるモノ》《生きつつあるモノ》を感じ続けなければならない、と「悟った」わけです。

http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/451.html

でも、この梵我一如の「悟り」はかなり「哀れなモノ」でありました。

でもまあ、このような冴えない梵我一如が、ホンモノ梵我一如かもしれないな、とも思っています。その後も《めまい》は止まりませんので、お蔭様で、そのたびに「梵我一如」を感じ続けております。

「梵身一体」と言うべきであった

12 名前:たけ(tk)(レス魔社長)さん 投稿日:2/11-19:02 No.4439

「わたし」というコトバは、「わたし」という記号と、《私》というモノと、『わたし』に関するイメージから成り立っている。

たけ(tk)が「わたし」という記号を使う時、それが指し示すモノは《たけ(tk)》というモノであり、そのイメージはたけ(tk)たけ(tk)というモノに関してもっているイメージである。

宮本さんが、たけ(tk)が発した「わたし」という記号を聞いて思い浮かべるモノは、たけ(tk)というモノであり、そのイメージであろう。

宮本さんが、自らを指して「わたし」という時には、そのモノは《宮本さん》というモノであろう。

「わたし」というコトバには「自己言及」という論理学上の難題が含まれている。

「わたし」は《「わたし」というコトバを発しつつあるモノ》なのか、《「わたし」というコトバによって指し示されつつあるモノ》なのか、それは同じであると考えてよいのか、という問題である。

さて、『「わたし」と言う場合にそれを可能にする原理、「自己原理」とも言うべき「我」(アートマン)』があるのか?

ブッダは「無我」だといっている。デカルトは「思いつつある我」と言っている。(たけ(tk)の理解によれば『《「疑わしいモノは全て偽である」と断定しつつある我は》ある』)

たけ(tk)思うに、「《知りつつあるモノ》はある」が「『我』の存在は疑わしい」。デカルトが実際に発見したものは《知りつつあるモノ》であろうと考えている。

そこで、《知りつつあるモノ》を出発点として、個体原理であるアートマンを構成的に理解する、という試みを行っている。

梵我一如」というコトバは、したがって、《たけ(tk)の思いこみ》においてはふさわしいものではない。あの投稿の段階では「梵身一体」(《宇宙史》と私の《身体》とは一体のものである)と言うべきだったと思います。

《知りつつあるモノ》《宇宙史》のすべてのモノに内在するモノであり、かつ、その正体が判明した時に、梵我一如となるでしょう。

Last modified:2007/09/23 23:46:23
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