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《内からの視点》

《内からの視点》《外からの視点》に関連する疑問

  1. スピノザの心身並行説:心と《身体》とはコインの裏表のように並行して進んでいる。?○:。×:《身体》《内からの視点》で見た姿が「心」である。《外からの視点》でコインの裏を見るのではなく、コインの中から《内からの視点》で見た場合の見え方が「心」である。しかし、実際には、我々はコインの《内からの視点》世界を見ることはできない。しかし、私の《身体》だけは《内からの視点》で見ることができるのである。
  1. 《内からの視点》での《体細胞の群れ》情報作用が《知りつつあるモノ》であり、そこから知られつつある私の世界である。か?
    1. ○:《内からの視点》は客観的は物言いではない。《座標変換》への試みである。
    2. ×:客観的な物言いは無意味である。

記述

  1. いかなるモノであろうと、そのモノに関連する視点には、そのモノ《内からの視点》《外からの視点》とがある。
  2. ただし、両方の視点で直知可能であるわけではない。
  3. この身体は両方の視点で直知可能である。が非常に見え方が異なる。
  4. 他者の身体は、《外からの視点》でしか、直知可能ではない。他者の身体の《内からの視点》は推知するのみである。
  5. 一般に、この身体の外部にあるモノたち=体外時空のモノたち=は、《内からの視点》では直知できない。体外直知時空にあるモノたちは《外からの視点》直知可能である。体外背後者時空にあるモノたちは、直知限界の先にあるのであるから《外からの視点》でも直知できない(推知するのみ)。?(トンネルに入って山の《内からの視点》、列車に乗りこんで列車の《内からの視点》…)?(トンネルの内側の壁の《外からの視点》、列車の内装の《外からの視点》)。

《内からの視点》《外からの視点》とは

  1. トンネルの中に入って、トンネルを見るということは、山を《内からの視点》で見る、ということである。
  1. 車の中に入って車の内部や窓の外を見るということは、車の《内からの視点》世界や車の内部を見る、ということである。
  1. https://ja.wikipedia.org/wiki/等価原理。「局所的に観測される重力は、非慣性系にいる観測者の疑似的な力と同じである」あるいは「無限小の領域では、運動の加速度と重力加速度は区別できない」という、アルベルト・アインシュタインが一般相対性理論を構築するときに発見した原理を指す。
  2. 宇宙船の中に居て、外部を観察しない観察者にとっては、加速度と重力とを区別できない。宇宙船の《内からの視点》では加速度と重力とを区別できない。
  1. 《内からの視点》は、モノの内部からの、そのモノ自身の内部(・表面)・外部への視点。《内からの視点》で表面を直知できるとは思えない。モノの外部への直知は《表面からの視点》でしか、出来ないか?
  2. 《外からの視点》は、モノの外部からの、そのモノの表面(・内部)への視点。通常は内部への直知は出来ないであろう。

《内からの視点》《外からの視点》には?

  1. 《思い描き》《内からの視点》《思い描き》《外からの視点》《知りつつあるモノ》《思い描き》への《入り込み》《思い描き》《噴出》を感じる場合には《外からの視点》《思い描き》に中に入ってその世界を感じ始めれば《内からの視点》。醒めてから、『今。××を思い描いていたね』と感じれば《外からの視点》
  1. モノ《内からの視点》モノ《外からの視点》
  1. 《混濁》《内からの視点》《混濁》《外からの視点》
  1. 素粒子の《内からの視点》と素粒子の《外からの視点》
  1. この身体の《内からの視点》とこの身体の《外からの視点》《内からの視点》《体内直知時空》《外からの視点》=自分の手足を眺める場合。
  1. 他者の身体の《内からの視点》と他者の身体の《外からの視点》
  1. 樹木の《内からの視点》と樹木の《外からの視点》
  1. 『視点を変える鏡』という《思い描き》
  1. 《混濁》《知りつつあるモノ》は、《混濁》の内部に在って、《混濁》の内部から《混濁》の内部を《知りつつあるモノ》である。
    1. 《混濁》が、《近傍物理空間》《体外感覚世界》)と《体内感覚世界》とに分離すると、《知りつつあるモノ》《体外感覚世界》の中に在るモノたちを、そのモノの外部から見る。すなわち《外からの視点》で見る。ただし、《知りつつあるモノ》《体内感覚世界》《内からの視点》で見る。
    2. ヒトは、健常者は、自分の《身体》の内部にある《体内感覚世界》を、知っているのに、知らないフリをしている。健常者《思いこみ》を知っているのに、それが自分の《体内感覚世界》に在るとは、信じない。健常者は、《体外感覚世界》にあるモノたちを《外からの視点》で見ることだけが、唯一正しい見方であると信じている。・・健常者の思考様式はよくわからぬ・・。

区別

《群生相》《孤独相》

  1. 《群生相》《私》への《外からの視点》であり、
  2. 《孤独相》《私》への《内からの視点》である。

《内からの視点》『精神哲学』

  1. 『精神哲学』ERG理論の《内からの視点》でのトレースである。
  2. 《内からの視点》で絶対精神にいたるというのは結構なことである。しかし、その次がない。《内からの視点》の出発点は《絶対者公理》なのだから、その帰結が絶対的精神に至るというのは初めから見えていたことである。

《外からの視点》《身体》表面からの《視点》

  1. 《外からの視点》というのは、《身体》の表面からの《視点》であり、『汝自身』を忘れた・捨象した《視点》である。
  2. 純粋な《外からの視点》が可能なのであれば、それはそれで結構なことである。しかし、通常は、「ウチ」にあるバイアスに変更された《まなざし》を、《外からの視点》=『客観的認識』=であると誤解していることが多い。というか、『汝自身』を捨象しているかぎり、『汝自身』の「ウチ」にあるバイアスを逃れることはできないのである。

《群れの中の個体》《群れ》《内からの視点》

  1. 《群れ》αの中の《群れの中の個体》Aからの、《群れ》αの中の別の《群れの中の個体》Bへの《外からの視点》《他者》への《まなざし》。批判、非難。
  2. 《群れ》αの中の《群れの中の個体》Aからの、《群れ》αの中の別の《群れの中の個体》Bへの《内からの視点》《他者》への《共感》。
  3. 《群れ》αの中の《群れの中の個体》Aからの、《群れ》αの中の《群れの中の個体》A自身への《外からの視点》《他者》の眼を通した反省。受動的反省の《視点》
  4. 《群れ》αの中の《群れの中の個体》Aからの、《群れ》αの中の《群れの中の個体》A自身への《内からの視点》。??。《他者》の眼を通した反省の後の、主体としてのA自身への《共感》?。能動的反省の《視点》
  5. 《群れ》αの中の《群れの中の個体》Aからの、《群れ》αへの《内からの視点》。帰属する《群れ》への《共感》。帰属意識。集団への一体感。
  6. 《群れ》αの中の《群れの中の個体》Aからの、《群れ》αへの《外からの視点》。帰属する《群れ》への《まなざし》。批判、憂国。
  7. 《群れ》αの中の《群れの中の個体》Aからの、《群れ》αの外部の《世界》への、《内からの視点》《群れ》の「ウチ」からの、《群れ》の「ソト」への《視点》
  8. 《群れ》αの中の《群れの中の個体》Aからの、《群れ》αの外部の《世界》への、《外からの視点》。??
  9. 《群れ》αの中の《群れの中の個体》Aからの、《群れ》αの外部の中の《群れ》βへの《外からの視点》。《内からの外からの視点》。《群れ》αの表面の壁と、《群れ》βの表面の壁の二つが在る。
  10. 《群れ》αの中の《群れの中の個体》Aからの、《群れ》αの外部の中の《群れ》βへの《内からの視点》。《共感》。《群れ》βへの内部に鏡を置いた状態なので、壁は一つ。・・さらにその《視点》から自分の《群れ》αへの《外からの視点》《まなざし》を置くなら、《内からの外からの視点》となる。相手国から見た自国への《まなざし》の分析。
  11. 《群れ》αの中の《群れの中の個体》Aからの、《群れ》αの外部の中の《群れ》α自身への《外からの外からの視点》。《群れ》としての受動的反省の《視点》
  12. 《群れ》αの中の《群れの中の個体》Aからの、《群れ》αの外部の中の《群れ》α自身への《内からの外からの視点》。《群れ》としての能動的反省の《視点》
  13. 《群れ》αの中の《群れの中の個体》Aからの、《群れ》αの外部の中の《群れ》βの中の《群れの中の個体》Bへの《内からの外からの視点》。《まなざし》、批判、非難。
  14. 《群れ》αの表面からの、《外からの視点》。《個体》と《群れ》との完全な一体化の《視点》《群れ》の『代表者』からの《視点》

「ウチ・ソト」と《内からの視点》《外からの視点》

  1. モノAからのモノBへの《まなざし》
  2. モノAの「ウチ」からの、モノBの「ソト」からの、モノBへの、《視点》
  3. 両方とも《内からの視点》である。「ウチ」への《内からの視点》と「ソト」への《内からの視点》である。
  4. モノB(「ソトのモノ」)への《外からの視点》である。
  5. 「ソト」というモノへの《外からの視点》である。
  6. 《内からの外からの視点》。モノAからモノBへの《視点》であって、モノAの《内からの視点》《世界》の中のモノBへの、モノBの《外からの視点》モノAの内部の《視点》モノAの表面→モノAの《世界》モノBへの《外からの視点》
  7. モノAの「ウチ」からの、モノAの「ウチ」への《視点》。《内からの内への視点》。
  8. モノAの「ウチ」からの、モノAの「ソト」への《視点》。《内からの外への視点》。
  9. モノAの「ウチ」からの、モノAの「ソト」の中のモノBへの、「ソト」からの、《視点》。《内からの外からの視点》。集団的思考においては、個体は集団の《内からの視点》を通して、集団の「ソト」を認識し、「ソト」の中の別の集団Bを《内からの外からの視点》で認識する。「われわれ」というコトバは集団Aの《内からの視点》であることを示している。《群れの中の個体》Aからの《群れ》αの外部の《群れ》βへの《まなざし》。外集団、内集団、帰属集団。
  10. モノAの「ウチ」からの、モノAの「ソト」への《まなざし》の中のモノBへの、モノBの「ソト」からの、《視点》。《内からの外からの視点》。
  11. モノAの「ソト」からの、モノBへの、「ソト」からの《視点》。《外からの外からの視点》。《健常者》は、《私》《身体》の表面において《体外世界》を感じるらしい。

たけ(tk)訳「The Fool On The Hill」での《内からの視点》《外からの視点》

  1. 《内からの視点》から《外からの視点》を見通すことは可能だが、《外からの視点》から《内からの視点》を見通すことは困難である? ○:。×:。

《まなざし》・100

  1. 《まなざし》は厄介である。《まなざし》は恐怖である。《まなざし》は憎しみである。《まなざし》は獲物を殺す意図である。《まなざし》は破壊する意図である。
  2. 《まなざし》は鏡の恐怖である。《まなざし》は鏡の憎しみである。《まなざし》は鏡の軽蔑である。
  3. 1:《息しつつあるモノ》
  4. 《まなざし》《息しつつあるモノ》への《破壊欲求》である。《思い描き》としての《まなざし》であれば、力は弱い。しかし、現実の《まなざし》は、《息しつつあるモノ》を停止させる。《息しつつあるモノ》を忘れさせる。《息しつつあるモノ》《世界》から追放する。
  5. 現実の《世界》《まなざし》は、《息しつつあるモノ》《世界》から追放しない。追放したように見えるのは、《知りつつあるモノ》《思いこみの世界》入り込ませるので、《息しつつあるモノ》が忘れられるだけである。《思いこみの世界》からは追放されても、《モノの世界》からは追放されない。
  6. 《まなざし》は純粋で強力な《思いこみ》《ちから》である。ということは、《知りつつあるモノ》《思いこみ》《ちから》なのか?
  7. 《まなざし》はと《外からの視点》であり、《知りつつあるモノ》《内からの視点》である。

《混濁しつつある他者の身体》《生きモノたちの群れ》

  1. 《混濁しつつある他者の身体》の前提は、《混濁しつつある身体》《他者》への共感だな。『無意味の世界』ではない。
  2. 《生きモノたちの群れ》《外からの視点》である。《混濁しつつある他者の身体》《内からの視点》である。

《作り手》の視点と、《使い手》の視点

  1. 《作り手》の視点は《内からの視点》である。《使い手》の視点は《外からの視点》である。

『よい設計』=(材料の)寄せ集め+《見通し》

  1. 《作り手》の視点は内からの視点である。使い手の視点は外からの視点である。
  2. 設計者の視点は、材料をどのように配置するか、という内からの視点。設計者にとっては素材は《身体》である。《身体》を、外からの視点で審美的に評価するとしても、それは、内からの視点《身体》をどのように動かすか、という視点での、鏡像イメージである。
  3. 輪郭の両義性。地と図の反転。モノの形なのか、空間の形なのか。モノの形はモノ《外からの視点》。空間の形は空間の《内からの視点》

『よい』と『こころよい』

  1. 《エウドクソスの「善」》
  2. 『ニコマコス倫理学』上、p.15。「万物の希求するところ」を『よい』と定義する。
  3. 『ニコマコス倫理学』下、p.149。ひとびとはそれぞれ、自らの快とするところを選び、自らの苦痛とするところはこれを避ける。
  4. 広義の善と広義の快とは一致する。善にもいろいろあり、快にもいろいろある。いろいろの種類があり、優劣がある。『よい』と『心地よい』『こころよい』、日本語では、そもそも、同じ分類なのだろう。
  5. 『こころよい』は《内からの視点》である、『よい』《外からの視点》である。
  6. 《私》に関しては『よい』『わるい』はない。《私》に関してあるのは『こころよい』かどうかだけである。《私》に関しては《外からの視点》はない。《私》《私》を見るときには、常に、《内からの視点》だからである。
  7. 如悪悪臭、如好好色

「外集団同質性バイアス」と《内からの視点》《外からの視点》

  1. http://ja.wikipedia.org/wiki/外集団同質性バイアス
    1. 外集団同質性バイアス(がいしゅうだんどうしつせいバイアス英:Outgroup homogeneity bias)とは、自分の所属する集団の多様性が他集団よりも高いとみなすバイアスのこと。
    2. このバイアスは、集団内外のメンバーをどれだけ知っているかとは無関係である。つまり、自分の集団の事をよく知っているから多様性や違いを認識しているという解釈は誤りである。この外集団同質性バイアスは、男性と女性など、明らかによく触れ合っている集団間でも観察された。 すなわち、このバイアスは明らかにステレオタイプ化と何らかの関与性があり、さらに確証バイアスとも関係があると考えられる。

『役割』と『現実』

  1. 『現実』というのは《生きモノ》たちの主観世界、彼らの主観を中心にした極座標の世界である。横からみれば、《生きモノ》たちが自分で勝手に編み上げた繭のようなモノである。繭の内側から繭の内側に描いた絵を繭の内側から眺めた姿が、《生きモノ》たちの『現実』なのである。
  2. その『現実』の姿がお互いに同じであることを確認しようとすることが「主観世界の共有の確認」という行動様式である。環世界『現実』共有確認行動。現実共有確認行動。
  3. 『役割』は《外からの視点》である。『現実』《内からの視点》である。
  4. 『役割』は『他者への評価』という《思い描き》である。『他者への評価』における『他者』は繭の内側に描かれた《思い描き》である。まあ、ある程度、繭の外にある《他者》が投影された《思い描き》であろう。その《思い描き》も、彼の《欲求》によって取捨選択された情報によって構成される。
  5. 『他者の役割』は《私》『現実』の一部である。
  6. 《私》『現実』は、《生きモノたちの群れ》からの《私》への『他者の役割』である。
  7. 《生きモノたちの群れ》には《私》も含まれている。自己暗示で、《私》からの《私》への『他者の役割』を思い描きつづけると、《生きモノたちの群れ》からの《私》への『他者の役割』の《思い描き》を変化させることができる。つまり『私の役割』を自己暗示で思い描くことによって、《私》《私》『現実』を変化させることができる。
  8. 《生きモノ》たちが、彼らの『現実』の中で生きていることを《実感》できるか?
    1. ○:《生きモノ》たちは妙に偏った《動き》をする。《認知》段階ですでに偏っている、と見るのが早い。《欲求》が《認知》にも影響を与える。IT大工たちは、顧客を捜さなければ、飯を食えない、という『現実』を抱えている。公務員たちは、それらしく振る舞わなければ、飯が食えなくなる、という『現実』を抱えている。《群れ》の中で個々の《個体》に与えられた『役割』が、その《個体》の『現実』である。
    2. ×:まだ《動き》しか《実感》できていない。まだ、《認知》→《背後者回路》《動き》、という構造が《実感》できていない。《生きモノ》たちの《動き》の偏りは、彼らの《欲求》の影響が強いように感じられる。《背後者回路》→《認知》→《動き》、ではないのか? 《欲求》→《認知回路》→《認知》→《動き》《欲求》

《息しつつあるモノ》《息しつつある身体》

  1. 《息しつつあるモノ》《内からの視点》であり、《息しつつある身体》《外からの視点》である。

《体内直知時空》《内からの視点》

  1. 《体内直知時空》《内からの視点》であり、《体外感覚世界》《外からの視点》である。
  2. 《体内感覚世界》での《身体》への視点は、《身体》《内からの視点》であり、《体外感覚世界》における《身体》への視点は、《身体》《外からの視点》である。

コトバ《内からの視点》

  1. 私的言語は、彼の《内からの視点》からの『世界』を描き出す。環世界

《内からの視点》《鏡の向こうからの眼》

  1. 《鏡の向こうからの眼》は外部のモノ《内からの視点》である。

ヒト』と《内からの視点》

  1. 《サル山のサル》『現実』を『ヒトである』と思っている《サル山のサル》、と、《サル山のサル》『現実』とは異なる、もうちょっと理想的な状態を『ヒトである』と思っている《サル山のサル》、がある。
    1. 《サル山のサル》『現実』を『ヒトである』と思っている《サル山のサル》『現実』正当化概念としての『ヒト』、慰めのコトバとしての『ヒト』。存在概念としての『ヒト』。ヒトへの《外からの視点》『私』『現実』としての『ヒト』。慰めを求めるサル。『動かされること』を求めるサル。他律的人格。他律を求めるサル。
    2. 《サル山のサル》『現実』とは異なる、もうちょっと理想的な状態を『ヒトである』と思っている《サル山のサル》当為概念としての『ヒト』。ヒトへの《内からの視点》《私》のあるべき姿としての『ヒト』。励ましを求めるサル。『自ら動くこと』を求めるサル。自律的人格。自律を求めるサル。
  2. 《私》《外からの視点》において観察した時に、《私》《内からの視点》をもつモノである、ということが分かる。《サル山のサル》《内からの視点》をもつモノである。
  3. 《サル山のサル》は自らの『類』を当為概念としてもつ。((なんで?))。当為概念であるが故に、その当為レベルを下げることによって、自らを慰めることができる。
  4. 《サル山のサル》にとっての『自らの類』は《思いこみ》当為《思いこみ》である。『自らの類』の《思いこみ》は、《群れ》に参加するための規範である。『《群れ》に参加するためにはxxでなければならない』という規範的《思いこみ》が『自らの類』の《思いこみ》である。《群れ》への参加条件という《規範的思いこみ》が『ヒト』の《思いこみ》である。

《思い描き》《内からの視点》

  1. 《思い描き》《思いこみ》の鏡像である。対象化された《思いこみ》である。対象化することによって《外からの視点》でみた《思いこみ》である。
  2. 《思いこみ》《内からの視点》である。
  3. 《思い描き》《外からの視点》である。
  4. 「点滅キー追跡の実験場面」『ニホンザルの心を探る』p.145。鏡を見ながら、直接には見えないモノを操作する実験。(自分の姿も写っている)。

《内からの視点》とドロップアウト

  1. 社会の中に居る人は、その社会を客観的に見ることはできない。
  2. ドロップアウトしなければ、社会を客観的に見ることはできない。

主体と《内からの視点》

  1. 主体は《内からの視点》であり
  2. 客体は《外からの視点》である。
  3. 《内からの視点》は主体からの《視点》であり、
  4. 《外からの視点》は客体への《視点》である。

《内からの視点》《外からの視点》

  1. ヒトが、生まれにおいて、《内からの視点》しか持っていないとすると、何故に、ヒトの成体は、ほぼ、《内からの視点》を放棄しているのか?
  2. ヒトの社会化の過程において、《内からの視点》を放棄させられている。タテマエとして放棄させられている。ホンネでは《内からの視点》である。タテマエは《外からの視点》であり、ホンネは《内からの視点》である。
  3. 個体利益は《内からの視点》であり、《群れ》の利益は、個体からの《視点》においては、《外からの視点》である。((《群れ》の利益は、《群れ》からの《視点》においては《内からの視点》である))。
  4. 《群れ》からの《内からの視点》は、個体からの《内からの視点》が放棄させられたことの代償である。残存物、変形物である。《内からの視点》は形を替える。人類からの《内からの視点》に到達すべきだろう。

自由主義と平等主義と《内からの視点》

  1. 自由主義は《内からの視点》であり、平等主義は《外からの視点》である。
  2. 独占暴力団における暴力と正当性・・。暴力《内からの視点》では『自由』という可知からの正当性をもつ。しかし、『暴力の自由』は、《外からの視点》ではけっして、『正当性』を認められない。

《感じ合い》《内からの視点》

  1. 《感じ合い》は、《繋がりの先のモノ》《内からの視点》を可能にする。

《息しつつあるモノ》《内からの視点》《外からの視点》

  1. イシモ・ウトシ(《内からの視点》《外からの視点》・100
  2. 《今・ここの・この肉の塊》《内からの視点》からの、《世界》を経由した、《モノたち》への《外からの視点》

永遠の今《内からの視点》

  1. 《サル山のサル》の曰く「昔と今とは違う」。
  2. 『昔』は記憶の中にあり、『今』は《永遠の今》であり、未来への選択・不安と、過去への記憶・後悔の間にある。
  3. 2100年から見て、2007年と1900年とでは違う、というのは想像力の欠如に他ならない。
  4. 『今』は《内からの視点》である。『昔』は《外からの視点》である。
  5. 永遠の今《内からの視点》である。
  6. 今を《宇宙史》の1点と見るのは、《外からの視点》である。

《入り込み》《内からの視点》

  1. 《思いこみ》への《入り込み》は、《思いこみ》《内からの視点》である。

クオリア《内からの視点》

  1. クオリア《内からの視点》である。
  2. 脳科学《外からの視点》である。

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