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《直知》

《直知》と《推知》とは

  1. 兆候知?○:兆候を媒介とした知。兆候知が習熟すると直知になる。×:。
  1. 直知と推知との境界は曖昧である。兆候直知して、内部を推知して、検証する、という経験を重ねると、内部を直知できるようになる。兆候知。
  1. 直知は、コトバ《思い描き》の推測を媒介としないでモノや事象を直接に知ること。直接知、直観のこと。
    1. 直観のほうが一般的な用語だが、直感、直勘と紛らわしいので「直知」という。
    2. 「直接知」でもよいが、動詞的な用法が「直接知する」というのは不自然で、「直知する」なら自然なので「直知」のほうがよい。
  1. 推知は、《思い描き》コトバを媒介として知ること。
  1. ヒトの生物学的進化の過程で、他者の意図や内心を直知する能力が備わっているのではないかという気がする。物理時空を直知するといっても、身体が感受した感覚情報を身体が再構成して、我々の意識に身体が提示しているに過ぎない。そう考えると、他者の意図も身体レベルで再構成されて我々の意識に提示されている可能性は否定できない。

区別

  1. 直知と意味
  2. 直知で知りえた《世界》に意味がある。か?
    1. ○:
      1. 意味への直知はある。『意味』という《思いこみ》への直知はある。
    2. ×:
      1. 《モノの世界》に意味はない。意味は、ヒト《思いこみ》であり、ヒト《モノの世界》重ね合わせて、勝手に、『それはxxである』という思い込んで生じるモノである。

  1. 《モノの世界》を観察した後に生じる『意味』はあるか?
    1. ○:《モノの世界》への観察は、コトバを生じさせてしまい、コトバは意味を生じさせてしまう。
    2. ×:《モノの世界》への観察から生じたコトバから生じる『意味』《モノの世界》から、かけ離れている。離存性
  1. http://ja.wikipedia.org/wiki/パラダイム
    1. 実証主義の科学論は1960年代から徐々に疑問にさらされるようになってきた。その先鞭をつけたのが、ノーウッド・R・ハンソン(Norwood R. Hanson)である。ハンソンは、観察の概念を再検討し、観察を、感覚データを受動的に知覚するだけの単純な経験ではなく、理論的背景や先行的知識をもとにして事象を意味付ける能動的行為であることを明らかにした「観察の理論負荷性」テーゼを提唱した [Hanson1963=1986]。このテーゼに従えば、「生の事実」とか「堅固な事実」といった概念、あるいは公正中立な観点から得られた純粋無垢なデータと理論の間に、検証ないし反証の手続きを介在させることによって非対称的な関係を想定していた実証主義的な科学論は、大きな打撃を受けざるを得ない。
  2. たけ(tk)《直知》が偏見に満ちていることは認める。
  1. 《直知》《混濁》
    1. たけ(tk)は、《混濁》において、《直知》ということを学んだのだが、一般に、《直知》《混濁》によってしか体験できないのかもしれない。というのは、《思いこみ》を媒介としない認識、というのは、《健常者》の普通の状態では無理だ。
    2. 「啓示」といったモノは、《直知》のように思われるが、そうではなく、強い《思いこみ》によって生じた幻だ。たしかに、対象物との間には操作可能な《思いこみ》は無いかもしれないが、そもそも、《思いこみ》に駆動されており、その《思いこみの世界》入り込んでしまったがゆえに、媒介物としての《思いこみ》が見えなくなった状態に過ぎない。というか、媒介物の《思いこみ》の中に入り込んでしまったから、見えなくなった、というだけ。
  1. 『大学』の「格物」と《直知》
    1. たけ(tk)の解釈では、同じモノ。かな? ○:。×:。
  1. ベルグソンの「哲学的直観」と、たけ(tk)の「直知
    1. 『哲学的直観ほか』p.101:
      1. 哲学と科学という二つの認識方法が存在するのは、経験が二通りの仕方で現われてくるからです。一方では経験は、事実に並列して出てくる事実、だいたい似た形で繰り返され、だいたいのところ計測可能であり、ついには判明な多様性と空間性との方向へ展開される事実という形をとります。他方、経験は、法則や計量を許さない純粋持続の相互浸透という形でも現われます。
  2. この部分の見解が違う。認識の二通りの仕方というのは、《体外世界》への経験と《体内世界》への経験の二つの領域の違い、二つの《世界》への経験の違い、による、という気がする。我々は身体を内部から知ることができる、ということの意味を、我々はよくは知っていなかった、ということだと思う。哲学はそれにうすうす気がついていて、その二つの経験を統合した確信を持っている。科学は、《体内世界》への経験の存在を否定する。そういう違いだと思う。
  3. 「常識的な思考の態度」はよくわからぬ。目的的であることは確か。迷信的である。仮説と検証によって得られた知識ではなく、偶然的な個人的な体験(や信頼するボス猿からの教授)によって確信に至った行動様式、思考様式、認知様式で形成されたモノが「常識的な思考の態度」であろう。
  4. というか、カオス科学・数学は「法則や計量を許さない純粋持続の相互浸透という形」の経験も科学に取り込もうとしている、から、それは哲学の特徴とは言いがたい状況になりつつある。
  5. そのうち、《体内世界》の経験も、科学のメスが入るかもしれない。瞑想の科学みたいなのはあるだろうね。瞑想するヒトの脳波や fMRI(機能的磁気 共鳴画像装置)で解明する、ってね。でも、それはあくまで、《他者》の内部、というか、《他者》の報告と脳現象との対応関係であるね。《私》《知りつつあるモノ》からの《私》《身体》《体内世界》への経験ではない。
  6. 脳科学者は、自分自身を、脳科学しつつある自分自身を脳科学しないのか?
  1. 直知《知りつつあるモノ》《極座標の原点》《視点のパラメータ》
  2. たけ(tk)は、現在のところ、《直知》《知りつつあるモノ》《極座標の原点》《視点のパラメータ》という思考経路をたどっております。
  1. 直知と神秘主義
  2. 直知は、《コトバの世界》の住人に言わせれば、神秘主義である。理解不能な《世界》、思考様式、認知様式である。
  1. 直知と禅定
  2. 禅定は直知のための手段である。

直接知と直知

  1. 「直接知」で項目を作って、「直知」をaliasにするか? ○:。×:。

検索

《モノの世界》 - [#聞慧・思慧・修慧コトバを聞いて思い描く、《思いこみの世界》の中で吸収する、《モノの世界》直知する。]

モノ - [#「モノ自体」が認識でないのではなく、直知によって認識することはできるが、それをコトバによって「それ自体であるようなモノとして」は認識することはできない、ということではないか? コトバによる認識は《思いこみ》を指し示すことしかできないから、モノを指し示すとしても、間接的であり、離れて存在している、から、「モノそれ自体」と1対1で対応するようなモノとして、指し示すことはできない。コトバ《思いこみ》は、誤って指し示すこともあるから、1対1ではあり得ないのである。離存性。]

《繋がり》 - [#《他者》の個性も『伝聞世界』の《思いこみ》なのだろう。直接の《繋がり》を有する《他者》の個性は直接知で知られる。『直知世界』の中のモノである。《他者のコトバ》《噴出しつつあるモノ》への直知によって知られた《他者》は『直知世界』の中に在る。《他者のコトバ》の意味内容によって知られた『他者』は『伝聞世界』の中に在る。直知された《他者》Aについての《他者》Bからのコトバによるうわさ話は??。たとえば「A君はケガしたらしい」というコトバによって生じた『ケガをしたA君』は『伝聞世界』の中のモノである。じっさいに見舞いに行って、直知すると『直知世界』の中に入る。か?。直知の経験による記憶の中の『A君』は、《今・ここの・この肉の塊》にとって《知られつつあるモノ》としての《A君》ではない。記憶の中の『A君』は『伝聞世界』の中のモノなのではないか?]

『精神哲学』 - [「自己を規定する」ってなんじゃらほい。モノに対してコトバ(名前)を与えること。かな? しかし、名前を与えることによって生じる認識作用、ってなんじゃらほい。命名作用、モノへの《思いこみ》《重ね合わせ》を「認識作用」と呼んでいるのか?。モノ直知すること、モノ《指し示す思いこみ》を固定すること、《指し示す思いこみ》に名前を与えること、名前→《指し示す思いこみ》モノ《重ね合わせ》をすること。このようなモノ《思いこみ》コトバモノ循環をヘーゲルは「概念」と呼んでいる。たけ(tk)の《xx》も概念である。《知りつつあるモノ》というモノ→『知りつつあるモノ』という《思いこみ》→「知りつつあるモノ」というコトバ《知りつつあるモノ》というモノ。]

伝聞世界』 - [『伝聞世界』の反対物は?、『固有世界』『感覚世界』『直知世界』]

『ニコマコス倫理学』 - [##直知(ヌース)]

《モノの世界》 - [#《モノの世界》への《見通し》アレーテイアへの実感である。アレーテイアへの直接知である。→『哲学の根本的問い』]

《身体》 - [#《体内感覚世界》《体外感覚世界》の違いは、モノに格る認識経路の違いである。格る、いたる、格物モノへの直観、直接知。]

《思い描き》 - [#直接知における《知った思いこみ》《思い描き》ではない。]

《繋がり》 - [#《他者》の個性も『伝聞世界』の《思いこみ》なのだろう。直接の《繋がり》を有する《他者》の個性は直接知で知られる。『直知世界』の中のモノである。《他者のコトバ》《噴出しつつあるモノ》への直知によって知られた《他者》は『直知世界』の中に在る。《他者のコトバ》の意味内容によって知られた『他者』は『伝聞世界』の中に在る。直知された《他者》Aについての《他者》Bからのコトバによるうわさ話は??。たとえば「A君はケガしたらしい」というコトバによって生じた『ケガをしたA君』は『伝聞世界』の中のモノである。じっさいに見舞いに行って、直知すると『直知世界』の中に入る。か?。直知の経験による記憶の中の『A君』は、《今・ここの・この肉の塊》にとって《知られつつあるモノ》としての《A君》ではない。記憶の中の『A君』は『伝聞世界』の中のモノなのではないか?]

ゴミ箱2007-06 - [#《絶対者公理》曰く:「ワン・オブ・ゼムである」というのは直接知覚されることではなくあくまで期待にすぎない。そもそも「ワン・オブ・ゼム」はワンがあってこそ意味がある。意識を肯定してこそ意味がある。ワンぬきでゼムだけ考えることは意味がない。]

伝聞世界』 - [#《コトバ》に対する感覚、直接知であれば、『感覚世界』『直観世界』『直知世界』。]

『論語』 - [#自灯明格物《モノの世界》への直観、直接知。]

《知りつつあるモノ》 - [#そもそも《知りつつあるモノ》の直接知は《思い描き》の一種なのではないか。]

《客観世界》 - [#《客観世界》は直接知が不可能であるから、経験と記憶、または想像力によって構成された世界である。つまり、《思いこみ》によって構成された世界である。]

《思い描きつつあるモノ》 - [#そもそも《知りつつあるモノ》の直接知は《思い描き》の一種なのではないか。諸感覚との整合性に最大限の配慮を伴った思い描きを、直接知であると感じる。《身体》の感覚の再構成が《モノの世界》である。とするなら、《モノの世界》噴出された《思い描き》である。]

《肉の塊》 - [#この《肉の塊》は、《知りつつあるモノ》の《直接知の世界》を、《知りつつあるモノ》を通して知る]

「対話の悲劇」 - [直接知、直観「対話の悲劇」]

『省察』 - [#「《思惟しつつあるモノ》は存在する」という知識は、それ自体として自明な知識として《思惟しつつあるモノ》自身に知られたモノであって、何らかの前提から演繹された結論ではない。という意味。OK。《思惟しつつあるモノ》の存在は、直接知、直観によって知られたモノであって、《思いこみ》を媒介にして間接的に知られたモノではない。OK。]

『一切』 - [#《客観世界》=直接知されない物理空間は推測として『一切』の中に在る。推測としての《客観世界》《今・ここの・この肉の塊》の中の《思いこみ》である。《今・ここの・この肉の塊》《客観世界》の中に在る。無限包含関係。]

《思いこみ》 - [#モノ自体は、直接知はできない。モノの現れを知ることができるだけ。ではあるが、モノの現れを透明化することによって『モノ』を知ることができる。モノ自体というよりは、モノの現れから再構成されたモノ《思いこみ》である。]

したいこと』 - [#イシコは推測である。直接知ではない。]

《共振しつつある身体》 - [#《息しつつある身体》というのは、《体内感覚世界》の中のモノとしての《息しつつあるモノ》《身体》全体に拡張したモノ、のはずだが、直接知ができない。]

直観 - [直接知のこと。コトバ《思いこみ》を媒介にせずに対象を知ること。]

極座標モデル - [#《視点》《身体》の外部の世界《体外感覚世界》=を直接知っているように思っている。]

クオリア - [ただ、他者の《我》が感じているクオリアを私が直接知ることはできないので、それが私の《我》が感じているクオリアと本当に同じであるかどうかは確かめようがない、ということはあります。また、他者はウソをついていて、本当はクオリアなど感じていないのかもしれない、ということも検証しようがありません。 ]

《宇宙史》 - [直接知が可能な《近傍物理空間》の《認識限界》を越えて存在する《客観世界》時間的空間的に最大限延長したモノ《宇宙史》という。]

『ミリンダ王の問い』 - [#直接知・直観は把持を特質とし、コトバによる理解は離存性を特質とする。]

《他者の知りつつあるモノ》 - [#《他者の知りつつあるモノ》は、あるとしても、《他者の身体》の中にあり、直接知は不可能である。]

《知りつつある混濁》 - [#《知りつつあるモノ》の直接知の《視点》では、《知りつつあるモノ》の正体が分からない。しかし、《知りつつあるモノ》の存在、に関しては明らかになる。]

ゴミ箱2006-04 - [#《視点》《身体》の外部の世界《体外感覚世界》=を直接知っているように思っている。]

主観的価値絶対主義と客観的価値相対主義と・・ - [!!!(4)《禅定》の方法による直接知]

ゴミ箱2006-02 - [##もちろん通信内容は暗号化されている。代理中の通信内容を見ることは困難である。経路も多重化、暗号化されている。何台ものサーバを経由して通信を実現するが、直接知ることができるのはランダムに選ばれる前後のサーバの情報の僅かな断片である。誰が何をしているのかは、ユーザには分からない。]

《モノの思いこみ》 - [《思いこみ》 - [#モノ自体は、直接知はできない。モノの現れを知ることができるだけ。ではあるが、モノの現れを透明化することによって『モノ』を知ることができる。モノ自体というよりは、モノの現れから再構成されたモノ《思いこみ》である。]]

ゴミ箱2005-08 - [#他者の《求める思いこみ》は不可直観的だが、《群れの求める思いこみ》は直接知が可能? ]

《混濁》への見通し - [《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》の存在を直接知によって知ることはできない。]

《混濁の世界》の《認識限界》と《背後者》 - [しかし、もう一ひねり必要である。というのは、《知りつつあるモノ》は、それと《混濁の世界》との間の《認識限界》が見えないのである。《知りつつあるモノ》《混濁の世界》を直接知っているのである。すなわち、《知りつつあるモノ》《混濁の世界》と直接接していると言うべきである。これを考慮すると、《知りつつあるモノ》《混濁の世界》の《認識限界》の表面にあると言うべきであろう。]

ゴミ箱2005-06 - [#語るために、モノとの接触によって知る。直観、直接知。]