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私は誰なのか?・・《群有思いこみ》としての『私』

復刻版: http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/kakolog2/past-tetsu.htm

当初板: http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi?mode=all&loadno=4223&resp=1&page=

→「「わたし」と《知りつつあるモノ》と梵我一如

→「《知りつつあるモノ》の人間的意味

15 名前:たけ(tk)(レス魔社長)さん 投稿日:2/12-00:43 No.4446

私は誰なのか?・・《群有思いこみ》としての『私』

>私は誰なのか?

この問いは、たけ(tk)にとっては非常に奇妙なものである。というのは、「私」は生まれてからことかた、そしておそらく死ぬまで、《私》は「私」以外のものであったことはないし、《私》は常に私の世界の中心に鎮座ましましていたモノだからだ。したがって、「誰なのか」という疑問は生じない。(どういうモノなのか?という疑問はある)

おそらく、ここでいう「私」というのは、たけ(tk)が思う所の《群有思いこみ》としての「私」であろうと思う。《群有思いこみ》というのは、「その個体が属する《ヒトの群れ》の全員がそのように思いこんでいる(はずだ)」という《思いこみ》を伴う《思いこみ》を言う。《私》たけ(tk)である」というのは、かなり多くの人がそう思いこんでいるに違いない。したがって、《私》が「たけ(tk)」であるというのは《群有思いこみ》である。

《群有思いこみ》《ヒトの群れ》を成立させるための虚構である。《ヒトの個体》《群有思いこみ》を信じることによって《ヒトの群れ》に参加することができ、他の《ヒトの個体》が同じ《群有思いこみ》を信じていることを前提にして始めて滑らかに交渉することができるのである。(お金も《群有思いこみ》である。お金が相手に通用しないのではないかと不安になれば買い物はできない)

おそらく、「私は誰なのか?」という問いは、《群有思いこみ》における「私」のイメージと、《私》自身が感じている「私」のイメージとにギャップがあるということではないか? 《私》自身が感じている「私」のイメージが他の個体が感じている「私」のイメージとが異なっているために、《個体間関係》が滑らかに進行していかない、という状況を反映した問いではなかろうか?

「私は誰なのか?」という問いの答えは「そこで言う『私』《群有思いこみ》である」ということになる。

ペルソナ

23 名前:たけ(tk)(レス魔社長)さん 投稿日:2/15-12:52 No.4487

宮本さんの言うところの『私』は、「他者の他者」としての『私』でしょう。ペルソナ(仮面)としての『私』です。

落語家が熊さん、八っつぁん、大家さんの3人の人格を演じるとき、観客にとってはその3人が『現実』となります。

仮面としての『私』は演じられつつあるものです。それとは別に演じつつあるモノとしての《私》もあります。

たけ(tk)にはどうしても《演じつつある宮本さん》が見えてしまうんですよね。

演じられつつある虚構としての『私』の視点からみれば、『私』世界もまた虚構ということになるでしょう。『私』世界は《舞台》という虚構の世界だからです。

Last modified:2007/09/23 23:28:46
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