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古い概要1

概要。2007-06-04。再開

古い概要1。廃棄=2007-03-17(土)

  1. 《知りつつあるモノの背後者》
    1. 《他者》《知りつつあるモノ》を背後から撹乱する。
      1. 《知りつつあるモノ》の背後には何かが在る。これを《知りつつあるモノの背後者》と呼ぶことにする。《知りつつあるモノの背後者》がある。
      2. 《他者》《知りつつあるモノの背後者》の先にある。
    2. 《呼吸停止の実験》を行うと、《知りつつあるモノ》は錯乱状態になる。
      1. 《身体》の状態は《知りつつあるモノの背後者》を通じて、《知りつつあるモノ》に影響を与える。
      2. 《身体》《知りつつあるモノの背後者》の先にある。
    3. 《身体》は、それが知ったモノ《知りつつあるモノ》も知る。《知りつつあるモノ》が意図すると《身体》動く。その《繋がり》は、《近傍物理空間》を媒介として行われてはいない。その《繋がり》《知りつつあるモノの背後者》を通じて行われる。
  1. 《体内感覚世界》
    1. 《近傍物理空間》モノとしての《身体》の内部にあたる部分を観察すると《体内感覚世界》が現れる。
    2. 《体内感覚世界》には《痛み》や《ちから》がある。これらを体内感覚と呼んでおく。
    3. 《体内感覚世界》には、
      1. 《痛み》や《ちから》といった体内感覚の他に、
      2. 《身体》の内部で《動きつつあるモノ》《息しつつあるモノ》
      3. 《ちから》《思いこみ》《噴出しつつあるモノ》
      4. 《近傍物理空間》モノたちや、《体内感覚世界》モノたちから《意味を受け取りつつあるモノ》、
      5. 《思いこみ》動き《操りつつあるモノ》、を見つけることができる。
    4. これらをまとめて《諸々のxxしつつあるモノ》と呼んでおく。
    5. 《思いこみ》《体内感覚世界》の中にある。
    6. 《体内感覚世界》の中のモノたちは空間定位が曖昧である。意図的に努力すれば、《近傍物理空間》での空間定位を行うことができるが、目をつぶるとどこにあるのかも分からなくなる。大きさも分からなくなる。《体内感覚世界》の中の他のモノとのトポロジカルな関係は分かる。《思いこみ》との親和性が強い。
    7. 《混濁の世界》《近傍物理空間》《体内感覚世界》とに分かれる。と修正しておこう。《思いこみ》《体内感覚世界》の中のモノの一つである。
    1. 《混濁》
      1. (1)《知りつつあるモノ》
      2. (2)《近傍物理空間》モノとしての《他者》
      3. (3)《近傍物理空間》モノとしての《身体》
      4. (4)《近傍物理空間》の他のモノたち、
      5. (5)《知りつつあるモノの背後者》
      6. (6)《体内感覚世界》モノとしての《思いこみ》
      7. (7)《体内感覚世界》モノとしての《諸々のxxしつつあるモノ》
      8. (8)《体内感覚世界》の他のモノたち=体内感覚=、に分離する。
    1. 《知りつつあるモノ》の、より近くにあるのは、《近傍物理空間》よりも、《体内感覚世界》であると思われる。
  1. 認識限界
    1. 《近傍物理空間》には《認識限界》がある。モノの表面、無限遠点《他者》《身体》の表面が《認識限界》となる。《知りつつあるモノ》は《認識限界》の手前しか見通すことができない、というより、《認識限界》の表面しか見通すことができない。というのは、見えたモノの先のモノは(通常は)見えないからである。
    2. 《体内感覚世界》にも《認識限界》がある。
    3. 《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》自身を知ることができない。《知りつつあるモノ》は《認識限界》の先にあるモノである。しかし、《知りつつあるモノ》の全方向はその直近に至るまで《混濁の世界》で満たされている。《知りつつあるモノ》《混濁の世界》との間に何かがあるようにはみえない。《知りつつあるモノ》《混濁の世界》と密着しており、かつ、《混濁の世界》の《認識限界》の先にある。《知りつつあるモノ》は、《認識限界》の表面の裏側に密着しているのであろう。
    4. ----
      1. しかし、《知りつつあるモノ》《混濁》の中心に在る。
      2. 《知りつつあるモノ》は絶対的な中心であり、他の場所に移動することはできない。
    5. 《混濁》《知りつつあるモノ》との関係では、《知られつつあるモノ》である。《混濁》は「《知られつつあるモノ》としての《混濁》」と《知りつつあるモノ》とに分かれる。
      1. 《混濁》から分離した直後の《知られつつあるモノ》《混濁の世界》と呼んでおこう。
      2. 世界」というのは或るモノ(この場合は《知りつつあるモノ》)が置かれている場所という意味で使う。
  2. 《混濁の第一次分離》
    1. 《混濁の世界》を観察する。
    2. 《混濁の世界》《近傍物理空間》とそれ以外のモノとに分かれる。《近傍物理空間》《知りつつあるモノ》が直接に知ることができる《モノの世界》であり、モノとしての確からしさを持った《モノの世界》である。
    3. それ以外の部分は《思いこみ》であるとしておこう。《思いこみ》はその確からしさを持たないモノの集合である。
      1. ここで言う「モノとしての確からしさ」というのは「《知りつつあるモノ》の存在の確からしさに近い確からしさを持つ」という意味である。
      2. 持続性と反復性とが確からしさを導く。
      3. 《近傍物理空間》はその持続性と反復性において、かなりの確からしさを《知りつつあるモノ》に確信させる。
      4. しかし、それ以外の部分=《思いこみ》の部分は、その確からしさが、《近傍物理空間》の確からしさに比べて、多少劣る。大幅に怪しい部分も、かなり確からしい部分もあるが、確からしい部分においても、《近傍物理空間》の確からしさに比べれば、劣る。
    4. 《近傍物理空間》には《他者》《身体》という特殊な部分がある。
    5. 《他者》《知りつつあるモノ》を撹乱するという特徴をもった部分である。
    6. 《身体》の特徴は《知りつつあるモノ》と直結しているように見えることである。《知りつつあるモノ》が意図すれば《身体》動き《身体》が感じたモノ《知りつつあるモノ》が感じることができる、ように見える部分である。(《身体》《知りつつあるモノ》とが「どのように」繋がっているのかは、この時点では不明である)
    7. 《身体》は、一見すると、《近傍物理空間》の中にあるように見える。
    8. しかし、《身体》を観察すると、《身体》への認識には体外感覚による認識と体内感覚による認識とがあることがわかる。
    9. 体外感覚と体内感覚を観察していくと、《混濁》の分離は別の形の分離になる。
  3. 《混濁の第二次分離》::《混濁の世界》《体外感覚世界》《体内感覚世界》とに分かれる。
    1. 体外感覚によって認識される世界《体外感覚世界》体内感覚によって認識される世界《体内感覚世界》と呼んでおこう。
    2. 《体内感覚世界》は空間定位が曖昧である。
    3. 《体内感覚世界》《思いこみ》とを比較してみる。すると、前に《思いこみ》として規定したモノは実は《体内感覚世界》の一部であることが分かる。したがって、《混濁の世界》《体外感覚世界》《体内感覚世界》とに分かれる。
    4. 《体外感覚世界》《知りつつあるモノ》が直接に知ることができる範囲の空間、すなわち《近傍物理空間》である。《体外感覚世界》にはモノたち、《他者》たち、及び体外感覚で知られつつある《身体》が含まれる。
    5. 《体内感覚世界》には、《身体》体内感覚の部分と《思いこみ》とが含まれる。
  4. 《混濁の第三次分離》::《混濁の世界》の《認識限界》と《背後者》 "limit of view" and "behinders" of "opacity field"
    1. 《混濁の世界》は《認識限界》を有する。《体外感覚世界》であれ《体内感覚世界》であれ、現れ方は異なるが、同様に《認識限界》を有する。
    2. 認識限界》を中心にして《混濁の世界》を観察すると、《混濁の世界》は「《認識限界》の内側」と「《認識限界》の表面」と「《認識限界》の先のモノ」とに分かれる。
      1. 「《認識眼界》の内側」が《知られつつあるモノ》としての《混濁の世界》である。
      2. 「《認識限界》の先のもの」を《背後者》と呼ぶことにする。
    3. 《体外感覚世界》の《認識眼界》には「モノの表面」と「《近傍物理空間》の認識可能な限界面」と「無限遠点の面」とがある。
      1. 認識限界》としてのモノの表面::モノの表面は《認識限界》である。《他者の身体》の表面も《認識限界》である。体外感覚によって知られつつある《身体》の表面も同様の《認識限界》である。《身体》以外のモノの表面の内部は、原理的に不可知であろう。表面を切り開いて見えるモノは、切り開いた結果として現れた表面である。レントゲンなとによって透視した場合に見えるモノも、その方法で現れるに至った表面である。
      2. 認識限界》としての《体外感覚世界》《身体》の表面::《私》《身体》を体外感覚によって知る場合には、《私》の外から見た《身体》の表面が《認識限界》となる。《体外感覚世界》モノとしての《身体》の《認識限界》の先のモノ《背後者》)は《身体》の内部である。自分の手を見れば、その表面の皮膚は見えるが、骨は見えないだろう。《体外感覚世界》の中のモノとしての《身体》の表面の内部は、おそらくは、《体内感覚世界》であろう。
        1. しかし、《体内感覚世界》《身体》の表面にまでは到達しないように思われる。
        2. (右手で左手を触った場合、右手で感じる左手は《体外感覚世界》《身体》であり、右手が右手自身を感じるのは《体内感覚世界》《身体》である。のだが、左手が『右手に触られている』と感じるのは??、触られる、ということから生じる体内感覚だろうな。「手当て」の問題。手を当てられると体内感覚が活発になるようだ)。
      3. 認識限界》としての《近傍物理空間》の面::《近傍物理空間》《知りつつあるモノ》を中心にした凸凹の球状に広がっている。それを遮るモノは建物の壁や塀であり、ドアであり、地面であり、空である。
        1. 《知りつつあるモノ》は空間の中を移動すると、そこには別の《近傍物理空間》があり、今ここの《近傍物理空間》と繋がっており、大きな物理空間を構成していることを知っている。従って、《私》は今ここの《近傍物理空間》の《認識限界》の先には、客観的な物理空間があることを知っている。ここで、「客観的」というのは《知りつつあるモノ》の有無にかかわらず、《知りつつあるモノ》が知るか知らないかにかかわらずそ存在するモノ、という意味で使う。
      4. 《背後者》としての《宇宙史》::科学的な知識によると、《客観世界》を最大限に拡張すると宇宙というモノになるらしい。宇宙の全歴史、というように時間的にも最大限に拡張すれば、その極限は《宇宙史》に至るであろう。宇宙の全時間における宇宙を、四次元的なモノとして捉えたモノ《宇宙史》と呼ぶ。《宇宙史》は「全体」としての一つのモノの有力な候補である。しかし、もちろん、直接に確認することはできない。
      5. 認識限界》としての無限遠点::次に青空の下で《近傍物理空間》を観察してみよう。《近傍物理空間》のはるか遠くの地点を眺めてみよう。《近傍物理空間》には無限遠点も見えているだろう。無限遠点というのは遠近法で道路や建物を見たときの平行線の交点である。無限遠点《近傍物理空間》の《認識限界》である。デカルト的な直交座標の世界では「あり得ない」はずの、無限に遠くの先の「あり得ない」交点が、具体的な点として目の前に見えてしまうというのは奇妙である。無限遠点を認める幾何学を射影幾何学という。《知りつつあるモノ》にとっては《近傍物理空間》射影幾何学の世界なのであろう。デカルト的な直交座標に対して極座標の世界であると言ってもよい。
        1. 無限遠点の先には何があるのだろうか? 脳科学的には《近傍物理空間》《身体》世界から感じ取ったデータを神経回路が再構成したモノであると言われている。無限遠点の先にあるモノは、その脳科学的な神経回路なのだろうか? この《近傍物理空間》の先にある脳科学的な情報処理の仕組みを《背後者回路》と呼んでおく。
    4. 《体内感覚世界》には、《身体》的な感覚によって感じられるモノ(痛みや熱や動きや力など)が感じられるモノと、それらの感覚を作り出している部分とがある。《思いこみ》の場合も《思いこみ》として知られつつある部分と、《思いこみ》を作り出している部分とが在る。
      1. 体内感覚の《認識限界》::《身体》的な感覚によって感じられるモノ(痛みや熱や動きや力など)が感じられる範囲の限界が《認識限界》である。この《認識限界》は空間定位が曖昧である。眼をつむってしまうと、《体外感覚世界》の中の《身体》に比べて巨大な感覚として感じられるだろう。《体内感覚世界》の《認識限界》が《身体》の表面の内側、というわけではなさそうである。
      2. 体内感覚入り込んだ場合の《認識限界》::《知りつつあるモノ》体内感覚(痛みや熱や動きや力など)に入り込んでしまう場合がある。熱にうなされたり、動きに熱中したるすると、《知りつつあるモノ》はその体内感覚と一体になってしまうように思われる。
      3. 《思いこみ》を外から眺める場合の《認識限界》::《思いこみ》を冷静に眺めている場合には、《身体》内部の《ちから》の作用であり、想像力によって描き出された世界であることがわかる。冷静に眺めている場合には《知りつつあるモノ》《思いこみ》の外部から《思いこみ》を眺めているのである。
      4. 《思いこみ》入り込んだ場合の《認識限界》::《知りつつあるモノ》《思いこみ》の内部に入り込むことがある(というか、通常は《思いこみ》の中に入り込んでいる)。《知りつつあるモノ》《思いこみ》の中に入り込むと、《知りつつあるモノ》のまわりに《思いこみの世界》が広がってくる。そこにも《認識限界》がある。しかし、《思いこみの世界》ルールはそれぞれの《思いこみの世界》自身が決める。従って、『無限に広がった世界』などという《思いこみ》も可能である。
    5. 認識限界》としての《諸々のxxしつつあるモノ》::《身体》内部で感覚されるモノ(痛みや動きや力)と《思いこみ》は共に、《身体》的な原因によって作り出される。その《身体》的な原因とそのモノとの繋がりの部分は、《認識限界》となる部分である。それらの部分を《諸々のxxしつつあるモノ》と呼ぶ。痛みを生み出している部分、《ちから》《動き》を生み出している部分が体内感覚《諸々のxxしつつあるモノ》である。
      1. また、これまでは《知りつつあるモノ》《混濁の世界》から除外していたが、《知りつつあるモノ》の根源部分も《諸々のxxしつつあるモノ》の一つとして、《体内感覚世界》の《認識限界》の表面にあることになる。ここにおいて、《混濁の世界》《知りつつあるモノ》との対立は消えて、《知りつつあるモノ》は第三次分離の構造に組み込まれる。
      2. 認識限界》としての《知りつつあるモノ》::《知りつつあるモノ》は《認識限界》の表面にある。
        1. 《知りつつあるモノ》は原理的に知り得ないモノである。《知りつつあるモノ》は知るという作用の始点を意味する。知るという作用は知るという作用の終点に対象を置くことである。知るという作用の終点に置かれた《知りつつあるモノ》は、もはや知るという作用の始点ではありえない。従って原理的に《認識限界》の表面にではなく、《認識限界》の先にあるように見える。
        2. しかし、《知りつつあるモノ》《知られつつある世界》と直接の関係を有していることも明らかである。《知りつつあるモノ》《知られつつある世界》の間に何かがあるようには見えない。
        3. このことから、《知りつつあるモノ》は《認識限界》の先にあるというより、《認識限界》の表面にあると考えられる。
      3. 《知りつつあるモノの背後者》::《認識限界》としての《知りつつあるモノ》の先には何があるのか? それはもちろん直接には知り得ないモノである。が、それを《知りつつあるモノの背後者》と呼んでおくことにする。
        1. 《知りつつあるモノ》の背後に在るモノは何か? 《知りつつあるモノ》が後ろを振り向くと前方を同じような《知られつつある世界》が広がっている。しかし、それは《知りつつあるモノの背後者》ではない。
        2. 《知りつつあるモノ》から見て《知られつつある世界》は、プラスの距離の世界である。これに対して《知りつつあるモノの背後者》世界マイナスの距離の位置にあるはずである。ただし、マイナスの距離というのは、数学的には問題が生じるので、むしろ、距離の二乗がマイナスになる世界、と言うべきであろう。すなわち虚数の距離世界ということになる。(虚数を英語でimage=《思いこみ》=というのは偶然かもしれないが面白い)。
      4. 《息しつつあるモノ》《背後者》と、《知りつつあるモノ》《背後者》との関係::《諸々のxxしつつあるモノ》というのは、一時的であったり、不明確であったりする。そのなかで、《息しつつあるモノ》というのはかなり存在がはっきりしている。
        1. 《息しつつあるモノ》《知りつつあるモノ》より持続的である。
        2. 《知りつつあるモノ》《息しつつあるモノ》を感じることができ、それは《知りつつあるモノ》とは別の場所にある。
        3. 《息しつつあるモノ》《知りつつあるモノ》によって《知られつつある世界》の中にある。
        4. しかし、呼吸停止の実験をしてみると、30秒もしないうちに《知りつつあるモノ》は錯乱状態に陥る。《息しつつあるモノ》《知りつつあるモノ》に影響を与えたことは明らかである。しかし、《知りつつあるモノ》《知られつつある世界》を通じて何らかの影響を受けているように見えない。むしろ、《知りつつあるモノの背後者》から巨大な《ちから》によって撹乱されるのである。
      5. 《諸々のxxしつつあるモノ》はそれぞれの《背後者》によって駆動されている。《身体》内部のモノへの《見通し》において、それを発生させつつある部分までは知ることができるが、そこまでが《認識限界》であり、その先は《認識限界》の先のモノ《背後者》=である。それぞれの《諸々のxxしつつあるモノ》《体内感覚世界》《背後者世界》の境界にあって、《体内感覚世界》情報《背後者》に伝えたり、《背後者》の何者か(《隠れた思いこみ》)を《思いこみ》《動き》や感覚の形で《体内感覚世界》噴出する。
    6. 認識限界》としての今::《認識限界》を時間的に見るなら、《今ここ》は見通すことができるが、過去も未来も直接に見通すことはできない。従って、《今》と過去との間、《今》と未来との間には《認識限界》が在る。「今」は時間的な意味での《認識限界》である。その先にある《背後者》は「未来」と「過去」と呼ぶ。未来や過去は今の《私》《思いこみ》の中に在る。今は永遠に今である。(今は持続し、今は過去になり、未来は今になる。今の持続を時間の流れと捉えて、時間を座標軸として想定し、今を時間軸の上を移動するモノとして捉えることもできる)。
  5. 《背後者》への《見通し》の方法。
    1. 《背後者》は《認識限界》の先のモノであるから、直接に知ることはできない。しかし《背後者》という《認識限界》の先のモノへの《見通し》は、いくつかの方法で可能にすることができる。たとえばこの部屋のドアの向こうに隣の部屋があることを知っているのは、《知りつつあるモノ》が移動した経験があり、その記憶と推論によって知っているのである。また、《背後者》からの噴出兆候として観察することによって可能である。ドアの向こうから人の声が聞こえてくれば、隣の部屋の様子が分かる。人の声は兆候であり、兆候を知ることによって隣の部屋の様子が見えてくる。《背後者》からの噴出を観察することにより、《背後者》が透明化されて、見通しが可能になる。これを《透明化》とか《浄化》とか《噴出》と呼ぶ。
  6. 《共振しつつある身体》への見通し
    1. 《諸々のxxしつつあるモノ》《背後者》を見通すと、《背後者》の先には《共振しつつある身体》があることがわかる。《共振しつつある身体》というのはモノたちを感じ、モノたちを動かし、モノたちに動かされるという、モノたちとの共振関係に在る《身体》を言う。《背後者》としての《身体》《知られつつある世界》《体外感覚世界》《体内感覚世界》=の中での《身体》と区別する必要がある。そこで、《背後者》としての《身体》《共振しつつある身体》と呼ぶことにする。
      1. 脳科学の知見によるならば、《近傍物理空間》《身体》が受容した情報を脳の回路によって再構成したモノである。《近傍物理空間》の《認識限界》の先にあるモノ脳科学的な《背後者回路》であり、その先には《共振しつつある身体》がある。
    2. 《共振しつつある身体》はその世界《共振しつつある世界》=と共振し、その世界の中のモノたち=《共振しつつあるモノ》や《共振しつつある他者の身体》と共振している。共振というのは《私》の身体の物理的な動き(アウトプット)と知覚(インプット)とモノたちの物理的な動き(アウトプット)と知覚(インプット)との関係を意味する。
  7. 《共振しつつある世界》への見通し
    1. 《知りつつあるモノ》の周辺にある《身体》が、他のモノヒトとの相対関係にあるときに、《知りつつあるモノ》の周辺のモノ《私》と呼ぶ。《私》と相対関係にあるモノを広義の《他者》と呼ぶ。狭義の《他者》は、それがヒトであるような《他者》である。また、《背後者》としての《共振しつつある身体》の先の《共振しつつある世界》の中の《他者》=すなわち《背後者》としての《他者》=を《近傍物理空間》の中にある《他者》と区別して、《共振しつつある他者》と呼ぶ。
    2. 《他者》《私》《知りつつあるモノ》を背後から撹乱する。《他者》《知りつつあるモノ》を撹乱するというのは、《他者》《近傍物理空間》の中の《知られつつあるモノ》として現れるからではない。《私》《共振しつつある身体》《共振しつつある他者》《他者の身体》共振し、その結果として《知りつつあるモノ》を背後から撹乱するのである。これは《共振しつつある身体》《共振しつつある他者》との共振関係によって《他者》を検知し、《知りつつあるモノ》《背後者》《共振しつつある他者》との関係に対応する準備状態に入り、その結果として《知りつつあるモノ》をその背後から撹乱するのである。
    3. 《私》《他者》の出現と同時に、《他者》の意図や内心の状態を感じる。感じるということは《私》《体内感覚世界》の中に《他者の思いこみ》が生まれるということである。《私》《共振しつつある身体》《他者の身体》共振して、《私》《身体》の中に《他者の思いこみ》を生成するということである。
    4. 《私》《共振しつつある身体》《他者》共振しつつあるばかりではなく、《他者》以外のモノとも共振する。
    5. モノモノとの共振関係は、《私》《共振しつつある身体》モノとの関係ばかりではなく、《私》以外のモノモノとの間にもある。モノとしての共振関係は物理世界の全体としての《宇宙史》にまで広がるはずである。
    6. モノ共振関係は、そのモノを包含するモノ包含システム)とその内部のモノ(内部システム)との間でも成立する。それゆえに、全体としての包含システムである《宇宙史》《私》《共振しつつある身体》との間にも共振関係がある。はずである。
  1. 《浄化球》・・がないと見通しを得られない・・ぞ、という話。は・・やめといたほうがよいか? 道具に過ぎないし・・。他の方法が在るかもしれないし・・。
    1. しかし、《共振しつつある身体》とその世界である《共振しつつある世界》への《見通し》は一筋縄ではいかない。《身体》の内部からの《見通し》では、曖昧模糊とした情報しか得られないのである。
    2. そこで、道具的な《思いこみ》として、《浄化球》というモノを想定する。足元の下、土踏まずに接するように50cmほどの球状の領域を想定する。その部分からの《思いこみ》噴出を捉えて浄化してみようというプランである。《浄化球》を浄化するためには《息しつつあるモノ》の協力が必要なようである。「ジョウキュウ・イシモ」といった呪文を唱えることによって、《浄化球》の部分と《息しつつあるモノ》への関係の《思いこみ》を作り出す必要がある。これを維持することによって、《浄化球》を浄化することが可能になるだろう。
    3. 《私》がなすべきことは、《息しつつあるモノ》によって《浄化球》を浄化することと、《浄化球》のまわりの世界を観察することである。
    4. 《浄化球》を浄化すると、5個の方向から《浄化球》への噴出が観察される。
      1. 地球内部からの噴出。・・実体は『地球内部』という《思いこみ》である。
      2. 《身体》外部から《身体》を経由した噴出
      3. 《身体》内部の《背後者》からの噴出
      4. 《身体》内部から《身体》の外部を経由した噴出
      5. 《思いこみ》の先にある《浄化球》への噴出
    5. 《浄化球》《息しつつあるモノ》《浄化球》を使うと、《思いこみ》を排除して、《見通し》が得られるようになる。しかし、《思いこみ》を捨てていくと、同時に生きる意味も失われていき、絶望的な気持ちに沈んで行ってしまう。何らかの生きる《ちから》見通しておかなければならない。《息しつつあるモノ》という好都合のモノを発見済みである。《息しつつあるモノ》はその存在と継続性が保障された、最低限の生きる《ちから》を有するモノである。《見通し》によって得られたモノは、そのモノ《息しつつあるモノ》との《繋がり》においても《見通し》を得ておくべきである。
  1. 《同質者公理》による再構成
    1. 以上は、《私》を中心とした世界への見通しである。その見方を《特別者公理》という。
    2. それに対して、《他者》《私》とが同質であるという見方を《同質者公理》という。《同質者公理》のもとでは、《私》に成立した事柄が《他者》においても成立し、《他者》において成立した事柄は《私》においても成立する。
    3. 《他者》は、広い意味ではモノである。モノとしての《私》と、たのモノたちとは同じ性質を有する。《私》《思いこみ》を持つが、他のモノたちも《思いこみ》を持つ。モノが有する《思いこみ》《アニマ》と呼ぶことにする。《アニマ》モノに内在する《思いこみ》である。
    4. 《他者》は、狭い意味ではヒトである。ヒトとしての《私》《他者》とは同じ性質の《ヒトの個体》であり、複数の《ヒトの個体》《ヒトの群れ》を構成する。
  2. ヒトヒトとの関係は主として、それぞれのヒトが持っている《思いこみ》によって支えられている。『私は彼の親であり、彼は私の子供である』という《思いこみ》《私》も《彼》も同時に持っているときに、《私》と《彼》との間に《親子関係》という《ヒトの群れ》が形成される。
  3. 《ヒトの群れ》が形成されると、『ヒトの群れ』の《思いこみ》が生じる。『私は『親子関係』の親である』という《思いこみ》《私》の中に生じ、『私は『親子関係』の子である』という《思いこみ》が《彼》の中に生じる。(帰属意識)
  4. 《ヒトの群れ》は個体とは別のモノである。システム論的には包含システムである。
  5. 《私》包含システムとしての《ヒトの群れ》の中のサブシステムとなる。
  6. 《私》《私》『群れの中の私』として認識することによって、《私》《ヒトの群れ》という包含システムの中のサブシステムとなる。
  7. 《私》《他者》を『群れの中の他者』として認識する。『群れの中の他者』は『群れのルール』と彼の群れの中の位置によってその行動が予想しうるモノとしての《他者》である。
  8. 《他者》は必ずしも予測可能ではない。しかし、『《他者》が『群れのルール』に従っているはずだ』という《思いこみ》の下で、《私》は『群れの中の他者』を予測可能なモノとして認識する。
  9. 《他者》もまた『《私》が『群れのルール』に従って行動する』ことを期待する。それによって、《私》《他者》にとって予測可能な、安心感のある存在となる。
  10. 《私》『群れの中の私』として行動し、《他者》が『群れの中の他者』として行動することによって《ヒトの群れ》は秩序化され、システム化される。包含システムとしての《ヒトの群れ》は、要素としての《ヒトの個体》が群れのルール従って行動することにより。《ヒトの群れ》自体の《背後者回路》をもつに至る。
  11. 《ヒトの群れ》モノであり、《ヒトの群れ》《背後者回路》は、モノとしての《ヒトの群れ》が有する《思いこみ》であるから、《ヒトの群れ》《背後者回路》は、《ヒトの群れ》《アニマ》である。
  12. 《背後者回路》というのはシステムの振る舞いを記述するコトバであり、システムの内部において実行され、回路構成を決定するコトバである。(システムの内部を流通するコトバではなく、流通するコトバの流れを決定する回路である)。
  13. 《私の背後者回路》、《他者の背後者回路》、《群れの背後者回路》を見通しておく必要がある。また、回路間の共振関係を見通しておく必要がある。
  14. そのような見通しを得たうえで、では、《私》は何をすべきか。
  15. 《見通し》《ちから》を奪い、《ちから》《見通し》を妨げる。
  16. 《私》は《私の身体》の中に、《息しつつあるモノ》を見る。《息しつつあるモノ》《知りつつあるモノ》よりも根源的であり、持続的であり、自覚的にも無自覚的にも成りうるモノである。
  17. 《私》は、《息しつつあるモノ》と、《見通し》によってモノたちとの間の共振関係を見通すことによって、《私》がなすべきことを知るだろう。
  18. 《私》は、《私》に内在する《思いこみ》《私》《アニマ》を知り、《私》を取り巻くモノたちの《アニマ》《他者》《アニマ》を知り、その共振関係を見通していかなければならない。その《私》《状況》との関係への見通しの中に、《私》のなすべきことが見いだされるのである。
  19. 《私》《状況》の中のモノたちの《アニマ》を知るたびに、『なすべきこと』《思いこみ》、衝動を感じる。《私》は、《私》が感じ取った彼らの《求める思いこみ》の中から、《私》が為しうる、最良の行動を選択していかなければならない。

---- ゴミ ----

  1. 《息しつつあるモノ》無限遠点の灯明
  2. 《息しつつある虚数空間》。《息しつつあるモノ》《背後者》の《虚数空間》。《思いこみ空間》。
  3. 虚数空間の中の《極座標の原点》としての《息しつつあるモノ》。複素時空の《極座標の原点》としての《息しつつあるモノ》《息しつつある複素時空》《息しつつあるモノ》《極座標の原点》とする《複素数の時空》《息しつつある複素時空》と呼ぶ。イシフ・エントウ。
  4. 《想世界》《虚数空間》における《私》(の《身体》)とは、《思いこみ》表出能力であり、《思いこみ》表出パターンである。
  1. 《息しつつあるモノ》無限遠点の灯明
  2. 《息しつつある虚数空間》。《息しつつあるモノ》《背後者》の《虚数空間》。《思いこみ空間》。
  3. 《他者》とは、《私》《背後者》が、彼の内部から彼を追体験しつつあるようなモノである。ミラーニューロンの働き、無意識的な追体験。
  1. 《息しつつあるモノ》無限遠点の灯明
  2. 《共振しつつある他者》無限遠点の灯明。100億の《共振しつつある他者》無限遠点の灯明。
  3. 《他者》《思いこみ》の選択回路である。・・客観的認識は不可。
  1. 《息しつつあるモノ》《体内世界》と《体内思いこみ》→《体外世界》と《体外思いこみ》、《私からの思いこみ》→《近傍物理空間》と《モノたちからの思いこみ》。→モノたち、ヒトたち。
  2. 《息しつつあるモノ》《身体》《肉の塊》《近傍物理空間》モノたち・ヒトたち
  3. 今・ここ》に《息しつつあるモノ》がある。
  4. 《近傍物理空間》には、《私》からの《体外思いこみ》、モノたちからの《体外思いこみ》、ヒトたちからの《体外思いこみ》がある。
  1. たけ(tk)」というコトバで指し示されるモノはある。
  2. たけ(tk)」というコトバで指し示されるモノ《肉の塊》である。
  3. この《肉の塊》《近傍物理空間》の中に在る。
  4. この《肉の塊》にとっての『一切』とは、この《肉の塊》、その《近傍物理空間》、その《動き》《繋がり》、および、それらの時間的持続、そして、時間的総体である。
  5. 《近傍物理空間》の中にはモノたちが在る。
  6. この《肉の塊》には《孤独相》《群生相》のふたつのモードが在り、モード間の相変異時間も在る。
  7. この《肉の塊》の中には《思いこみ》が在る。《思いこみ》はこの《肉の塊》の内部の状態であり、それへの体内感覚であろう。
  8. この《肉の塊》《他者のコトバ》を受け取る。この《肉の塊》は、この《肉の塊》のまわりのモノたちへの《感じ合い》を持つ。この《肉の塊》は、《他者のコトバ》《感じ合い》の、二通りの《繋がり》を持つ。
  1. 《モノの世界》アレーテイア)というコトバで指し示されるモノは在る。それしかない。
  2. 心の作用」、《思いこみの世界》は、モノの中に在る。
  3. 《私》は、モノの内部の作用である。モノの内部の作用点である、知ることの作用点、動くことの作用点である。
  4. 《私》が何かをするとき、モノの内部の作用点が何かをするとき、《私》にとって《私》世界の絶対的中心である。モノの内部の作用点が何かをするとき、その作用点にとって、その作用点は作用の絶対的中心である。或るモノは、そのモノにとって、そのモノ世界の絶対的中心者である。すべてのモノは、そのモノにとって、そのモノ世界の絶対的中心者である。
  5. 「xxにとって」どうであるか、というのは、モノへの《入り込み》《視点》である。そのモノの内部からの《視点》である。モノからの《視点》である。
  6. モノモノを視る。モノモノを知る。
  7. モノモノを感じる。感じ合う。モノからのモノへの《感じ合い》は在る。
  8. モノが何かを知る、というのは、モノからの《知った思いこみ》への《感じ合い》である。
  9. ヒトは『《モノの世界》しかない』などという真実(アレーテイア)に堪えることはできない。ヒトは、行動の指針を与える、もっと単純なウソ、『心地よいウソ』、を愛する。ヒト『心地よいウソ』を求めるモノである。ヒトは、自らの動きを決断しなければならないものであるので、その決断の指針となるウソを必要とする。
  10. 真実(真)は『悪』であり、『なすべきこと』(『善』)は偽である。『善』を為そうとするなら、真実には眼をつぶらなければならない。『善』は、それが不存在であるが故に、それをなすことが『善』なのである。
  11. 『善』は、「心の作用」である。モノの内部の作用である。モノ動きの作用の前段階である。
  1. たけ(tk)」というコトバで指し示されるモノはある。
  2. たけ(tk)」というコトバで指し示されるモノ《肉の塊》である。
  3. この《肉の塊》《息しつつあるモノ》である。《動きつつあるモノ》である。
  4. この《肉の塊》は、その内部に、主観、《視点》《知りつつあるモノ》を持つ。この《肉の塊》《知りつつあるモノ》である。《視点》と《感点》。《視点》の裏側で、内部を感じる点を《感点》と呼ぶ。《視点》は外部を視る。獲物に対する《視点》と、仲間に対する《感点》。《肉の塊》の中に《視点》と《感点》とがある。《視点》と《感点》とは本来的には《肉の塊》の表面にある。黙読、思考において、体内への《視点》が確立され、《視点》と《感点》が《肉の塊》の表面から《肉の塊》の内部に移動する。
  5. この《肉の塊》《思いこみ》を持つ、「心の作用」を持つ。
  6. この《肉の塊》の中には『この《肉の塊》《ヒトの群れ》の中の《群れの中の個体》である』という《思いこみ》がある。
  7. この《肉の塊》は、《他者》との《繋がり》を有する。《他者》との情報循環を有する。《他者》から情報を得、《他者》からの情報を内部に蓄積し、処理し、動く。この《肉の塊》《動き》は、《他者》情報として伝わり、《他者》はこの《肉の塊》の疎きからの情報を蓄積し、処理し、《他者》動く。その《他者》《動き》からこの《肉の塊》は、情報を取得する。
  1. (根本的懐疑、絶対的懐疑)懐疑は《混濁》を生む
  2. 《混濁》は、懐疑にもかかわらず、在る。
  3. 《混濁》を在るがままに放置していると、《近傍物理空間》と《体内空間》とに分かれる。《混濁》《混濁しつつある身体》に縮小し、そのまわりに《近傍物理空間》があることに気がつく。
  1. 混濁せよ。すべてをミキサーにかけて、一つの混濁に溶け込ませよ。
  2. 《混濁》《身体》の内部と外部とに分かれる。
  1. 確実に在ると言うべきモノ
    1. 《今・ここの・このモノ》は在る。《今・ここの・この肉の塊》は在る
    2. そのまわりに《近傍物理空間》は在る。《近傍物理空間》の中にモノたちは在る。
    3. 《モノの世界》は在る。モノたちは《近傍物理空間》の《認識限界》を越えた所にもある。
    4. モノの相互作用は在る。モノ動きは在る。モノの他のモノへの認知は在る。モノの内部状態は在る。
  1. 《混濁》への見通し insight to "opacity"
    1. これは《混濁》である。"opacity" exists.
    2. 《混濁》は、ノイズによってさまざまに分離する。《混濁》の分離は《視点》の現れである。《混濁》をさまざまに分離するさまざまな《視点》がある。
    3. 《視点》は移動する。《視点》には位置がある。《視点》の位置を記述する《視点のパラメータ》を探索すべきである。さまざまな《視点》を、その《視点のパラメータ》によって、空間的に配置する《多次元輪郭空間》を想定しておく。
    4. 《混濁》を記述するためには「知る」というノイズが必要になる。《混濁》に「知る」というノイズを付加すると、《知りつつあるモノ》と「《知られつつあるモノ》としての《混濁》」とに分離する。《知りつつあるモノ》《知った思いこみ》を生じさせる。《知った思いこみ》コトバに変換するモノを《コトバにしつつあるモノ》と呼ぶ。《知った思いこみ》コトバにすることが「記述する」ということである。このような分離を生じさせる《視点》は《記述者の視点》と言うべきだろう。
    5. 《混濁》に「時間」というノイズを加えると、《混濁》時間の中で持続するモノとなる。そこで我々は、3次元的な空間を発見する。また、《今・ここの・このモノ》というべき一定の範囲をもったモノ《身体》)を発見する。《身体》の外部への感覚(《体外感覚世界》)と《身体》の内部への感覚(《体内感覚世界》)を発見する。
    6. 感覚には視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・幻覚がある。《今・ここの・このモノ》の視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・幻覚の統合体を「統覚」と呼ぶことにする。この《視点》を《統覚者の視点》と呼ぶことにする。
    7. 幻覚」には《体内感覚世界》にある正常な《思いこみ》への感覚や《体外感覚世界》にあるモノや他者の意味や音声や文字(コトバ)の意味への感覚も含むことにする。感覚が正常か異常かは、感覚の時点で区別することはできない。のちのちの検証によって判明するだけである。
    8. ----
Last modified:2007/07/07 09:39:14
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