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『科学』

予備知識『科学』

定義

現代における『科学』とは体系的で実証的な『ソクラテス以前』の学問の総称である。

『科学』 は「『汝自身』を捨象することによって成立した、体系的で実証的な《思いこみ》の総称」である。

  1. 科学は『世界』に関する知識らしい。その『世界』には『汝自身』は入っていないらしい。
  2. 『科学』とは、『私は科学者である』という《群有思いこみ》を持った《ヒトの個体》《ヒトの群れ》のなかで、『それは科学的である』という《群有思いこみ》を付加された《思いこみ》の集合である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/科学

科学 (かがく, science) は、ラテン語のスキエンティア(scientia、知識)に由来する概念で、体系的で実証的な学問の総称である。

20世紀の科学哲学者、カール・ポパーは科学が満たすべき条件として「反証可能性」を提示した。すなわち、ある理論が科学であるとみなされるためには、その理論が間違っているか検証する手段が提示されなければならないというものである。検証する手段が存在しないのならば、その理論はむしろ疑似科学と呼ばれるべきものである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/科学的方法

    1. 科学的方法 (かがくてきほうほう) とは、科学者が世界を調査し、世界に関する知識を生み出す方法である。 日常用法では通常理想化され、科学的な調査を全て特徴付ける系統的なアプローチを指す。 科学的方法は、制御された実験の使用、および実験結果が再検証可能であるという前提要求により、知識に至る他の道(方法)から区別される。
    2. 科学がどのようにオペレートされるかのモデルを以下に示す。 科学的方法のとるステップ:
      1. 観察 現象を観察する、あるいは読み取ること。観測、調査、測定。
      2. 仮説 (Hypothesis)観察事象について思索巡らし、仮説を考案すること。(仮説とは、推測ではあるが、観察した現象や事実の束を説明できるもの)
      3. 予測 (Prediction)仮説の論理的結果を使い、新しい現象や新たな実験の測定結果を予測すること。
      4. 確認 予測が正しく生じるかどうかを検証するために予測の検証実験を実施すること。
      5. 評価 推測が確実な説明であると確信が示せるまで、観測結果に対する可能性ある別の説明を探すこと。
      6. 公表 結果を他者に伝えること。良質の科学雑誌では、論文の査読を第三者(専門分野での独立した科学者)が論文を出版する前に行う、このプロセスはピア・レビューという手法(2000年イギリスで行政の業績評価手法として採用)として知られる。
      7. 追証 他の科学者が、公開された論文を調査し、結果が再現することを追証すること。追証できないときは元の論文は認められない。

(一般に)科学は存在のみを対象とし、しかも「どうあるか」のみを対象とする。すなわち、「何をなすべきか」という当為を対象とせず、「何故あるか」という存在理由も対象としない。また、《今ここの我》という認識主体も対象としない。当為や存在理由や認識主体は、それらを扱うこと自体が非科学的であるとして排斥される。

しかし、我々がいま、もっとも必要としているのは、科学ではなく、《今・ここの・このヒト》『なすべきこと』という当為の問題である。科学は、我々の必要性の度合においては、2次的もしくはそれ以下の必要性をもった知識である。

区別

《私》『科学』

  1. 科学者の《私》は、科学の対象となる世界の中に在るか? ○:。×:《私》をすり潰して実験することはできない。
  2. (a)そもそも対象外なのか? (b)本来は対象にすべきだが、諸々の理由で、今のところ手つかず、なのか?

《科学信仰》科学

  1. 科学ヒトが生きるために必要な知識を与えてくれる。科学的でないことは信じない』という考えを科学信仰という。
  2. 科学信仰科学ではない。むしろ正反対の思考様式である。しかし・・。
  3. 「この商品はxx科学のxxを応用しています」とか「マイナスイオン効果」とかに乗せられる人々はいる。
  4. 科学信仰を生み出した責任は科学にあるか?
    1. ○:
      1. 科学は、緻密で客観的で説得力がある。それゆえに、『信じてしまう』人々を生み出すのである。
      2. 自分の言説がもたらす結果には、責任が生じる。
      3. 《私》の感覚と思考で生み出したコトバを、《私》を捨象した理論として語るのは無責任であり、ウソツキである。
    2. ×:
      1. エピゴーネンを生み出した責任は、提唱者にはない。
      2. 他人に責任を持てるヒトはいない。
  5. 存在認識として信じるのは一向に構わないが、科学当為認識まで与えてくれると信じると、とんでもないことになる。「当為に関する言説は非科学的である」として排斥し、「科学に救いを求める」というナンセンスな思考様式が流布している。
  6. 当為に関する言説は非科学的である」というのも正しい。しかしこれは、当為に関する言説が誤りである、という意味ではない。「科学が取り扱う対象の範囲に当為を含まない」という科学の側の取扱範囲の狭さの故に「当為に関する言説は非科学的である」ということになるのである。
  7. 当為に関する命題の判定方法は、「真偽(正しい/誤り)」ではなく、「善悪(よい/わるい)」なので、「当為に関する言説は『正しくない』」というのも正しいかもしれない。しかしもちろん「当為に関する言説は『誤りである』」というのは誤りである。「当為に関する言説は『正しい』とも『誤りである』とも言えない」というのが正しい。
  8. 科学に救いを求める』ヒトはいないのではないか?
  9. 科学を信じる』という思考様式を『科学信仰』と呼ぶ。
  10. どういう『意味』で信じるのか、世界認識として信じるのか、当為・命令の『意味』で信じるのか?
  11. あほの心理分析などしたくないぞ・・。小人論。的確な《思いこみ》は数が少なく体系的だが、的確でない《思いこみ》はいくらでも(無限に?)出てくる、か? ○:どのように、どの程度、信じているかは、千差万別だろう。×:。

科学原理主義』と『科学』

  1. 科学を信じれば『よい』科学以外は信じないほうが『よい』』という《思いこみ》を『科学原理主義』と呼ぶことにしよう。
  2. じつは、人々は『科学原理主義』ではない。科学も信じない。自分の直接の体験しか信じていないのである。
  3. 科学者も『科学原理主義』ではない。彼もまた、自分の直接の体験と利害しか信じていないのである。
  4. 科学原理主義』は、一部の、頭のいかれた、昔の、たけ(tk)のような人びとである。

反証可能性と『科学』

  1. http://ja.wikipedia.org/wiki/科学
    1. 20世紀の科学哲学者、カール・ポパーは科学が満たすべき条件として「反証可能性」を提示した。すなわち、ある理論が科学であるとみなされるためには、その理論が間違っているか検証する手段が提示されなければならないというものである。検証する手段が存在しないのならば、その理論はむしろ疑似科学と呼ばれるべきものである。
  2. どーでもいーけど、「ある理論が科学であるとみなされるためには、その理論が間違っているか検証する手段が提示されなければならない」という理論に反証可能性は在るのかい? 検証する手段が存在しないのならば、その理論はむしろ疑似科学と呼ばれるべきものである。

『科学』か、《科学》か?

  1. 『科学』か? ○:《たけ(tk)の思いこみ》からみれば、科学《思いこみ》である。科学 (かがく, science) は、『汝自身』を捨象することによって成立した、体系的で実証的な学問の総称である。×:。
  2. 科学》か? ○:《モノの世界》の中のモノである人々の《体内世界》の中の《思いこみ》というモノである。科学は文字・情報の集積である。×:。

科学《思いこみ》

  1. 科学《思いこみ》であるか? ○:。×:《科学》はコトバ・文字の集積である。《饕餮》である。『科学』《思いこみの世界》には《私》《思いこみ》もない。『科学』《思いこみ》であり、科学《思いこみ》ルールによれば『科学《思いこみ》ではない』。

『科学』『よい』『わるい』

  1. 『科学』『よい』『わるい』を超越している、か? ○:『科学』《思いこみ》である、《思いこみの世界》の中では、《思いこみ》ルールを決める。『科学』《思いこみ》ルールによれば、『科学『よい』『わるい』を超越している』。『科学』《思いこみの世界》の中には『よい』『わるい』という《思いこみ》はない。×:。

『感覚の『科学』的定義』と体内感覚

  1. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9F%E8%A6%9A
    1. 現在広く認められている感覚の定義は「特定の物理的エネルギーに応答し脳内におけるシグナルが受容・解釈される決められた部分に一致する、感覚細胞の型(またはそのグループ)を含む一つのシステム」だろう。
  2. 《他者からの感覚》とやらの定義になるのかな?
  3. 感覚ならざるモノの定義だな。
  4. まあ、地動説的な定義なのか・・。《私》には無関係な定義だな。
  5. 簡単に言えば、「感覚細胞が活性化した」とでも言いましょうか・・。
  6. 『敷居につまずいて痛かったので、今後気をつけよう』と思ったとき『感覚細胞が活性化したのか』と納得して、なにか、『意味』があるのか?
  7. 動物の感覚を実験している科学者の、実験しつつある感覚は、問われているのか?
  8. 動物の感覚を実験している科学者の、実験しつつある感覚は、「特定の物理的エネルギーに応答し脳内におけるシグナルが受容・解釈される決められた部分に一致する、感覚細胞の型(またはそのグループ)を含む一つのシステム」で理解可能なのか?
  9. 《特定の物理的エネルギーに応答し脳内におけるシグナルが受容・解釈される決められた部分に一致する、感覚細胞の型(またはそのグループ)を含む一つのシステム》から「特定の物理的エネルギーに応答し脳内におけるシグナルが受容・解釈される決められた部分に一致する、感覚細胞の型(またはそのグループ)を含む一つのシステム」というコトバ(定義・理論)が生まれる仕組みはどうなっているのか?
  10. まあ、理論から《私》を捨象する体系が誤っている、と言うわけではない。たんに、多数の真理系のなかの一つとしては成立可能だ。
  11. 科学者は《私》を中心に考えているのに、《私》を捨象した理論を語る。これはウソツキというタイプの人間とは異なるのか?

科学」と《科学

  1. たけ(tk)キーワードとして定義しなおす必要がある。
  2. 科学者が、「自分自身」を観察対象とするような科学を形成するとするなら、現在の既存の科学とは別のモノであることになる。そのような「汝自身を知る」科学を含むかどうか、などで、概念を明確にしておく必要がある。

科学者とヒト

  1. 科学者はヒトではない。科学者にとってのヒトとは、観察対象としてのヒトであって、決して科学者自身ではあり得ない。

科学と善悪

  1. 『形而上学』上、p.83、995a30。ソフィストたちの或る者、たとえばアリスティッポスのごときは数学を馬鹿にしていた。そのわけは、他の学芸(テクネー)においては、のみならず大工や靴屋のような卑賎な手工業においてさえ、つねに物事の善悪優劣が言われているのに、数学的諸学科では善いことと悪いことについてなんらの言説もなされていないから、というにあった。

科学と騙し

  1. 嗅覚物質・嗅覚受容体・嗅覚の脳処理の分析が進むと、合成が可能になる。嗅覚ディスプレイも可能になる。が、これは、騙しでしかないのではないか?
  2. 本来、嗅覚は、生存に必要な物質をかぎ分けて、危険や好ましい場所を捜すためだったのだろう。これを、合成して、操るということは、騙すということになる。
  3. 欲求は、満足されるのだろう。騙されることによって、欲求も騙されて満足するのだ。
  4. これは、麻薬と同じではないか。脳内麻薬を注入すれば、幸せになれるだろう。それが、善いことなのか?
  5. 科学の発達ってのは、結局、ヒトヒトを騙す技術の発達なのではないのか?

科学と実用的思考

  1. 科学を担っている大多数の科学者たちは、実用的思考の延長で科学を捉えている。
  2. 実証可能ということは、実用可能ということだ。
  3. 実用的であることは悪いことではない。食べ物を獲得するのは実用的行動様式だ。
  4. 実用的思考では、汝自身を知ることはできない。
  5. そもそも、汝自身を知るということは、大多数のヒトにとって、実用的な目的ではない。
  6. ((汝自身に疑問を持った人間にとっては、最大の実用的問題である。なぜなら、実用的行動の主体への疑問は、実用的成果の意味を失わせてしまうから。実用の意味を回復するためには、まずもって、汝自身を知ることが実用的問題となる))。
  7. 「実用的思考」というのは、「汝自身に疑問を感じない人にとっての実用的思考」という意味になる。「我を忘れた人びとにとっての実用的思考」。
  8. 「我を忘れた人びと」にとっての『我』とは・・。「我を忘れて動く主体」のことである。ふーむ。無我の境地の人びと。《健常者》というのは「無我の境地の人びと」なのか。
  9. 「我を忘れた人びと」にとっての『我』とは・・。知ることの対象ではなく、感じることの対象なのだろう。「飯を食っているときに『我』を感じる」。「仕事をしているときに『我』を感じる」「xxをしているときに『我』を感じる」といった類いのものであろう。感じることと知ることでは違う。→『形而上学』。感じること→《知った思いこみ》→知ること。

科学と善

  1. 科学道具としての価値を有する、地図としての価値を有する。
  2. 道具や地図を作り出すのは善である。
  3. 道具や地図の、それ自体には善悪はない。
  4. 使い手の使い方の善悪が在るだけである。
  5. プロパガンダは、どうにも・・。
  6. 《科学信仰》が問題だ。
  7. 必要なのは、善い、悪い、を判断する基準であり、それを得るためには、すべての事象に対して、善い、悪いを判断し続け、判断を蓄積することである。
  8. 感情を命題化せよ。己の感情を、世界の事物に対する評価として、命題化せよ。
  9. 科学は悪い。《科学信仰》を生み出すが故に悪い。《科学信仰》は悪い。コトバへのすがりつきは悪い。善悪も状況による。コトバによる善悪の判断などできはしない。そのモノにとっての《モノの世界》状況によって、善悪の判断はかわってきる。善悪はない。善悪は存在ではない。善悪は当為である。
  10. 科学が善である』と思い込むのは『悪』であり、かつ、誤りである。『科学が善である』と思い込むのは悪しき結果を生む、また、『善』への努力を行う時間を減少させ、『善』への努力の道を謬らせる。故に、『科学が善である』という《思いこみ》『悪』である。

科学と測定器具

  1. 科学ってのは、或る現象を数字で表示する測定器具を、人類が偶々入手した場合にのみ、成立する知識だろう。そういう測定器具を入手できない現象に関しては、科学は近づかない。
  2. V1〜V4野が提供する3次元空間の感覚においては、偶々、物差、時計、重量計、天秤、プリズム、電流計などの測定器具を入手できた。だから、その分野では科学が成立する。

科学と、《他者》コトバ

  1. 科学というのは、結局のところ、「他人のコトバを信じる」ということで成立している。

科学と「主観的世界の不可観測性」

  1. うんざりする理由は、知識の先に(イデア的)実在を求めようとするヒトが大多数である、ということだ。イデア実在論の、心地よいウソ、を求めるヒトが大多数だ、ということだ。
  2. 解釈問題」。科学は存在に関する真実探究から、道具的な知識に変質した。というが、科学的な存在、科学的な真実、というのはイデア実在論の幻覚である。
  3. 主観的世界における「観測」とは? 普遍的命題として記述すること?。 仮言命題? 
  4. 科学的命題は仮言命題である。「ここに酸素と水素の混合気体があるとして、マッチで火をつけると、爆発する」というのは仮言命題。「或るモノxxがここにあるなら、それはxxという性質を有する」というのも仮言命題。科学は対象物があることを前提としない仮言命題の集まりだ。
  5. 地図は仮言命題か? 「もしも、ここが地図上のこの点であるとするなら、ここから、この方向に行けばxxがあるはずだ」という仮言命題だ。
  6. 一般に知識は仮言命題である。知識は、その知識で語られているモノがなければ意味がない。
  7. 科学は(一般に知識は)、それだけでは、いつまでたってもモノにたどり着かない仮言命題でしかない。コトバモノとの離存性
  8. 科学の観測、検証はコトバモノとの対応関係の検証。仮言命題と「モノモノとの関係」の対応関係の検証。「原因というモノと結果というモノの関係」、「物質Aというモノと物質Bというモノとの関係」とそれを記述した仮言命題との関係の検証。
  9. 我々の生の世界は、定言命題の世界モノ世界。「ここにコップがある」と記述することができ、そのコトバモノとの関係を検証することもできる。が、それは知識ではない。仮言命題ではないから、科学ではない。歴史的事実の記述は、科学的知識ではない。クオリアは歴史的事実に属する。《あの時・あの場所の・あのヒト》がxxというクオリアを感じた、というのは歴史的事実に属する。歴史的事実は科学ではない。
  10. 我々の生の世界は、歴史的事実の世界であって、科学世界ではない。
  11. ヒト《他者のアニマ》を感じる」というのは仮言命題であり、科学的命題であり得る。検証可能性はあるか? 「《他者》は別の《他者》と出会った時に、《他者のアニマ》を感じる」という命題は検証可能か? 我々は「《他者》がxxを感じる」ということを感じることができる。我々はyyを感じる、ということが検証の前提であり、全てではないのか? ヒトによっては、感じない、と言う。しかし、化学の実験を見て、「見えない」というヒトが居るのと同じではないか? 鈍感なヒトが否定する場合がある、なら、検証が失敗する、というのでは、科学のすべての命題は検証に失敗するだろう。科学者集団の仲間うちで「検証できた」という合意が成立すれば、「検証された」というのでは、単なる(実際には検証されていない)《思いこみ》の共有でしかない。
  12. 科学は、実験室と工場で利用可能な知識である。科学は、生の世界においてはつかえない知識である。
  13. 問題は知識信仰、《科学信仰》のほうなのだ。信仰は生の世界見失わせる阿片である。ヒトは阿片と暴力によって奴隷化される。うーむ、脳内麻薬。脳細胞を脳内麻薬によって奴隷化することによって、我々の脳は成立しているのかもしれない。科学者は《ヒトの群れの麻薬》の製造業者である。
  14. まあ、はっきりいって、たけ(tk)科学には興味がない。というか、興味はあるが、期待していない。
  15. 《他者》の意識の不可観測性。
  16. 本当に不可観測的なのか? 我々は物体に色を感じるように、《他者》《他者のアニマ》を感じる。
  17. 我々は物体の色は観測可能である、と、言う? 色のクオリアは数値化不可能である、とも言う。色はプリズムで分解することができる、数値化することができる。色覚細胞を観察することができる。色覚細胞がどの波長に反応するかを調べることができる。ミラーニューロンを観察することができる、ミラニューロンが《他者》に反応することを調べることができる。
  18. しかし、《他者》の色のクオリアも、《他者のアニマ》クオリアも、観察することができない。観察ができないのだから解釈が可能なだけである。
  19. しかし、我々には、解釈が必要なのではないか? 解釈はいろいろあっても構わない。可能な解釈の中から、我々にとって有用な解釈を選べばよい。
  20. 残念ながら、科学は、リンゴの実が何時落ちはじめるかを正確に予測することができない。リンゴの樹の内部状態を調べれば、リンゴの樹に人間が作用を加えることになるだろう。調査して、正確に内部状態を把握したとしても、予測は確率的にしかできないだろう。
  21. 科学は、後追いの説明を可能にするだけである。
  22. しかし、科学はその程度の「予測可能性」で満足する。後追いの説明ができれば、科学的な説明としては十分なのである。
  23. 問題は、我々が感じたクオリアを、万人が納得し、理解し、イメージの中で再現し、自らの体験で追試できるように記述することができない、ということのほうだろう。
  24. 記述可能であれば、追試によって検証可能な科学的命題にしていくことができる。
  25. うむ。科学は、実験室や、管理された工場では予測可能性を提供する。
  26. 科学は、我々の主観的世界の中の日常生活においては、予測可能性に貢献しない。
  27. 《他者》の主観的世界を観測できない、という点では、素粒子の不可観測性と同じだ。
  28. 《健常者》は平然と、自信をもって、しかもおそらく適確に、《他者のアニマ》を観察している。本当に不可観測的なのか? 我々だって、MLでの対話において、平然と《他者のアニマ》=発言意図=を観察している。本当に不可観測的なのか?
  29. 農家であれば、後何日後に収穫時期を迎えるかを適確に予測している。
  30. リンゴの落ちる時期も、「あのリンゴは今週中には落ちるだろう」というような予測はできる(だろう)。
  31. 《他者》が怒っているから、ここは刺激しないほうがよい、とかいう、予測は、あたっていることが多いのではないか。(たけ(tk)は、苦手だが・・)。

《他者》の主観的体験と科学

  1. 《他者》の主観的体験を科学的に記述することは可能か? というのが、テーマなのか。
  2. 《他者》という現象を観察して科学的に分析し、記述することは可能であるが、その「記述された内容が《他者》の主観的体験である」かどうかを検証することができない。
  3. 主観とは絶対者としての体験である。《他者》の主観性とは、《他者》《他者》にとっての絶対者であると認識することである。
  4. モノは、そのモノにとって絶対者であり、そのモノ世界の中心であり、他のモノと交代することができない絶対者である。
  5. 自他の非対称性。
  6. 自他の非対称性、《私》の中心性・絶対性は、すべてのモノについて成立している。
  7. モノの客観的現象としての、モノの絶対的中心性。絶対者性。
  8. モノに、そのモノにとっての世界があるということ。
  9. モノの客観的現象としての、そのモノにとってのそのモノ世界
  10. 科学は、科学者の主観的体験をコトバにしたモノでしかない。科学者にとっての彼の主観的世界があるということ。科学者が『客観的理論』の《思いこみ》に悦に入るのも、実は彼の主観的世界である。科学者というモノの客観的現象としての、科学者というモノにとっての、そのモノ世界
  11. モノは、そのモノにとっての《楽しみ》のために存在している。科学者というモノは、そのモノにとっての《楽しみ》のために科学を研究するのである。
  12. モノの群れ》は、《絶対者の群れ》である。《絶対的中心者の群れ》である。《極座標の原点の群れ》である。客観的な直交座標の空間に配置された《極座標の原点の群れ》である。座標変換が可能な座標の《群れ》である。
  13. fMRIの被験者にとっての、脳機能の活動状況とは何か? それがリアルタイムに映像化られているとして・・。それは、《私》《私》《身体》を外部から観察するのと同じだろう。《体外感覚世界》における《身体》でしかない。
  14. 極座標モデルと射影空間モデル。それも座標変換可能な数学的モデルだろう。

科学《楽しみ》

  1. 科学科学者の《楽しみ》である。科学者の《楽しみ》でしかない。
  2. 共有知を生み出すという、働き者の《楽しみ》である。
  3. 生み出された共有知が、人びとを地獄に突き落とすとしても、生み出すことは《楽しみ》である。奴隷主の召し使いに過ぎないとしても、働くことは《楽しみ》である。たとえそれが地獄への道であろうとも、道をつくりだすことは《楽しみ》である。
  4. 知るべきことへの無知と嫌悪・恐怖を生み出す悪しき知であろうとも、知ることは《楽しみ》である。
  5. 「悪用可能な科学は、必ず悪用される」・・知識・技術の悪用に関する、たけ(tk)のマーフィーの法則

科学《視点》

  1. 直交座標的な《視点》はどこにあるのか? 無限に遠いところから、同じ角度で世界を見る《視点》世界の各場所において、同じ角度で見る《視点》世界の外から見る《視点》世界のある場所で近くから見る場合にも、その世界の外からの角度で見る《視点》世界の中には存在しえない角度からの《視点》。虚数軸の方向からの《視点》
  2. 《私》《視点》は極座標的である、その《視点》から、直交座標的な脳科学《視点》を通して見た《思いこみ》世界の中に、極座標的な《視点》をおいて、《私》の極座標的《視点》科学の直交座標的《視点》『私』の極座標的な《視点》という合わせ鏡的な、二つの鏡を通して《私》『私』《他者》の《他者》)の《視点》を獲得する、ということ。
  3. 『私』《他者》の《他者》)の《視点》から見た世界は、《私》《視点》から見た世界と同じか?
  4. 《他者》の《他者》というのは、《私》世界の中の《他者》《視点》から見た世界の中の《他者》としての『私』。そこにみえる『私』《他者》を鏡としてみた《思いこみ》としての『私』である。

《視点のパラメータ》科学

  1. 科学科学者の《群れ》《アニマ》である。《ヒトの群れのアニマ》の一種である。
  2. 科学は一つの《視点》である。多次元輪郭世界の中の一つの《視点》である。科学《視点のパラメータ》科学的理性の《視点》科学的理性の《アニマ》
  3. 科学コトバの自動運動に過ぎない。コトバの原理で《モノの世界》コトバにしつつあるコトバである。《モノの世界》を記述するコトバ。絶対者の高みから《モノの世界》を記述しつつあるコトバの自動運動。コトバの自動運動が有する《視点》
  4. 《ニーズ・イーター》としての科学《ニーズ・イーター》という《視点》
  5. 科学道具的理性である。《道具的な思いこみ》である。自然を調べ、使うための理性である。
  6. 科学は地図を生み出すことはできるが、どこに行くべきか、『なすべきこと』を示すことはできない。
  7. 地図は有用である。まあ、それだけの話である。
  8. 地図を悪用して儲けようとする人々は多い。
  9. 問題は、地図づくりの人々が権威をもってしまったので、『なすべきこと』については語るべきではない、という風潮が出来てしまったこと。手段の目的化の弊害。

科学《見通し》

  1. 《見通し》科学的に記述することはできないのか?
  2. 《知りつつあるモノ》科学的に記述することはできないのか?
  3. 主観的な現象を科学的に記述することはできないのか?
  4. 科学者の《視点》は、《思惟しつつあるモノ》《視点》だから、自己言及がもたらすコスモスの崩壊への《怯え》に駆動されている。
  5. 実験によって、一つ一つ、仮説を検証していく、という作業。
  6. 主観的な現象についての、実験、思考実験。思考実験は科学的実験たりうるか?
  7. 思考実験は、どのようにでも思いこむことができる、とはいうが、実は「どのようにでも」ではない。一定の範囲内の《思いこみ》しかできない。
  8. 複雑系の科学、は科学か? カオスに関する法則性。

科学と思考実験

  1. http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/setumeisouti.htm
    1. 4)思考実験:
    2. 文字の通り思考上の実験。なんらかの理由で実験が不可能なときのみ許される論理的実験装置。
    3. 例えば、「光にまたがって他の光を眺めたら、その光は停止して見えるか」というアインシュタインの問いは、実験不可能であり、この代表的な例である。
    4. 5)歴史に関わる理論:
    5. これまでのモデル、アナロジー、メタファー、思考実験はすべて現象や反復可能な事象の例を理解しやすくする為に考えられた説明装置だ。
    6. しかし、宇宙の起源、地球の起源、生命の起源など歴史に関わる理論になると、難しい。例えば、ある理論をあてはめて、真に生命を言える物を創り出したとしても、歴史がその通りに実行されてきたかは、やはり帰納法的限界を突破できない。
    7. つまり「説」にすぎなくなる。
    8. それ故、この分野の論争は絶えないのである。
  2. http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/Catastrophe.htm
    1. 1968年 カタストロフィー Catastrophe Theory R.トム
    2. 原因がわずかずつ変化すると、結果も正比例的にわずかずつ変化する」本当だろうか?
    3. 例えば、水蒸気をある温度以上の条件で圧力を少しずつ上げていくと少しずつしか水に相転移しない。
    4. しかしそれよりほんの少し低温の水蒸気に圧力を加えると急激に一気に水に相転移する。
    5. こうした急激な変化によって、物事が不連続的に移りゆくようすを数学的にあらわすため、フランスの数学者R.トムがトポロジー(位相数学)を科学全般に応用しようとしてとなえた理論がカタストロフィーだ。カタストロフィーとは、大変動、破滅といった意味である。
  3. たしか、7種類しかない、とかいうのではなかったっけ?

科学者の《視点》《視点のパラメータ》

  1. 科学者の《視点》は、自らの《見通し》科学コトバに翻訳する《視点》である。
  2. 仮説というコトバを操る《視点》である。
  3. 仮説というコトバと、実験という技巧的な《動き》を通じて、《モノの世界》を操る《視点》である。
  4. 科学者の《視点》《操りつつあるモノ》《視点》である。
  5. 科学者の《視点》は、科学者によって生み出された科学コトバがもたらす《視点》とは異なる。科学《視点》は、科学者が生み出したコトバが生み出す《知った思いこみ》《思いこみの世界》《視点》である。
  6. 《操りつつあるモノ》《視点》で作り出した《知った思いこみ》は、人々を操ることへの、傾向を強めるだろう。《ヒトの群れ》を、人々を操る人々と、人々に操られる人々に分離する傾向を作り出すだろう。

科学科学信仰

  1. 科学的用語を使ったコマーシャル。「プロテイン」と言えば「科学的」で「良い」商品であると思いこむ。
  2. 科学《科学信仰》とは別のものとして考えるべきである。
  3. 別のものだが、関係がある。

システム論的自我概念

  1. あるシステムの入力装置が、入力装置自体(もしくはシステム全体やそれらの状態)を情報として(自己言及的に)入力しつつあるときに、その入力装置(主我)または情報として入力された内容(客我)を、《我》という。
  2. 『そのシステム自体』を自己言及的にフィードバックするシステムにおける、そのシステムもしくはそのシステムの入力装置(主我)または、フィードバックされた情報内容(客我)を《我》という。
  3. じつは、ヒトは、『汝自身を知らない』のである。にもかかわらず、《我》を知っていると思っている。《我》《思いこみ》でもよいのである。《我》があることを知っている。
  4. 自己言及的フィードバックがあるシステムであるかどうか。単純な制御システムにおけるフィードバックは、システム自身の状態の極一部分の情報のフィードバック、というか、情報のアウトプットのフィードバック。
  5. 世界表象』をシステム論的に定義する必要がある。
  6. エアコンの世界は外部の温度と自分の排気温度で構成される世界
  7. 赤ん坊が自分の手を(動かして)見て《我》を知る。動かすことができる手とそれを動かしているモノであり、かつ、それを知っているモノとしての《我》の存在を知る。
  8. チンパンジーは《我》の存在を知ることができるが、興味がないらしい。ヒトも実は興味がない人も多いだろう。生活上の必要がなければ《我》に関する興味が生じない。

科学《アニマ》

  1. 科学《アニミズム》の天敵である。
  2. 科学《ヒトのアニマ》である。
  3. 《知りつつあるモノ》世界の中心から逃れることはできない」というのは、《ヒトのアニマ》である。ヒト《身体》の中の《思いこみ》に過ぎない。ヒト《モノの世界》の中の《身体》の中の《知りつつあるモノ》世界を知るのである。
  4. 科学》はヒト《アニマ》である。ヒト《身体》の中の《思いこみ》に過ぎない。
  5. 科学《絶対者公理》に基づいているが、《絶対者公理》《ヒトのアニマ》である。
  6. 科学コトバの自動運動に過ぎない。コトバの原理で《モノの世界》コトバにしつつあるコトバである。《モノの世界》を記述するコトバ。絶対者の高みから《モノの世界》を記述しつつあるコトバの自動運動。
  7. 科学は一つの《視点》である。多次元輪郭世界の中の一つの《視点》である。科学《視点のパラメータ》科学的理性の《視点》科学的理性の《アニマ》
  8. 科学科学者の《群れ》《アニマ》である。《ヒトの群れのアニマ》の一種である。

科学《我》

  1. 《今・ここの・このモノ》に認識主体性があるのだから、モノには認識主体性がある、という仮説。「確認 予測が正しく生じるかどうかを検証するために予測の検証実験を実施すること。」確認方法がない、という問題。モノに認識主体性がないなら、モノ《ちから》を加えても、そのモノはその《ちから》を認識できないので、モノは動かないはず。素粒子が《知りつつあるモノ》を持たないなら、引力も斥力も知ることができない。知ることができないなら影響を受けることができない。引力や斥力の影響を受けた《動き》をすることができない。
  2. 「評価 推測が確実な説明であると確信が示せるまで、観測結果に対する可能性ある別の説明を探すこと」。別の説明方法は可能である。「モノは知ることを必要とせずに外部からの力で動かされる」という説明方法。しかし、このデカルト的説明方法はもう一つの、説明方法である。どちらでも説明できるなら、デカルト的説明方法が正しい、ということにはならない。どちらかというと、「知る」というコトバの定義、適用範囲の問題である。違うのは超越的な《神の視点》で記述するか、《共感的な視点》で記述するかの違い。《特別者公理》で記述するか、《同質者公理》で記述するかの違い。
  3. 科学《我》』概念はあり得るか? 『生物学的《我》』概念はあり得るか? 《我》をシミュレートできるか? 《我》をシミュレートするということは、コンピュータに《我》を作り出すことができるか、ということになる。ライフゲームにおける個体のプログラムは《我》か?
  4. http://ja.wikipedia.org/wiki/ライフゲーム
    1. 各セルは8つのセルと接している。各セルには「生」と「死」の2つの状態があり、あるセルの次のステップ(世代)の状態は周囲の8つのセルの今の世代における状態により決定される。
    2. セルの生死は次のルールに従う。基本的な考えは「過疎状態でも過密状態でも生き残ることはできない」というものである。
      1. 誕生: 死んでいるセルの周囲に3つの生きているセルがあれば次の世代では生きる(誕生する)。
      2. 維持: 生きているセルの周囲に2つか3つの生きているセルがあれば次の世代でも生き残る。
      3. 死亡: 上以外の場合には次の世代では死ぬ。
    3. (この規則では、あまりにも単純化し過ぎ)。
  5. 科学《モノの世界》の法則性を説明する、はずなのであるが、《私》の目の前に広がる《モノの世界》が、何故、このような形で広がっているのかを、全く説明できない。
  6. [qualia:7357] Re: 「種の保存」も「適応度」も機構論なき結果論
    1. 私のような臨床家はハードウェアに相当する脳がどのように学習していくか、どのようにしてニューロンネットワークを作っていくのか、そこに一番興味があります。そしてそれらの経験から、分かる範囲で、逆に人間を見ています。その点で議論がすれ違うことをお許し下さい。
    2. >「意識」を機構論的に説明することなど論理的に・・永遠に・・不可能です。
    3. これも誤解した発言をしてしまうかも知れませんが、私のような臨床家は顕在意識にとても興味を持っています。そして不十分ですが、少しずつ顕在意識の意味を、生じる仕組みを知ることができてきているようです。それらを元に私なりに顕在意識の間違っているかも知れませんが、モデル化をしています。その私なりの顕在意識についてのモデル化を利用して現在まで、心理分析を行っていて、私なりに成果を出しているつもりです。私の思いこみなのかも知れませんが、顕在意識を説明することが、だんだん可能になっていくように感じています。
  7. [qualia:7359] 生物学的「我」成立の要件について
  8. コンピュータでエミュレート可能な《我》のモデルを作成して検証すること。
  9. 科学《我》を研究対象としない。主観的現象は、科学が対象とすることができない、と科学者たちは信じているからだ。
  10. 主観的現象は、人によって異なる、ので、検証ができない、と信じている。
  11. 心理学は、生物からみると、科学ではない。
  12. 心理学と生物学とでは《ドメイン》が異なる。《我》と生物学とでは《ドメイン》が異なる。
  13. 複数の《健常者》(『私は異常ではない』と思いこんでいるヒト)が反復して観察可能であること、を『客観性』だと信じている人びと。
  14. 《我》は、複数の《健常者》が反復して観察可能ではない、?? 《健常者》《我》のアポリアを知っているから、《我》を見ないのである。《健常者》自己言及のアポリアが『私は異常ではない』という《思いこみ》を破壊することを恐れるのである。《健常者》自己言及のアポリアに《怯えつつあるモノ》である。

科学『なすべきこと』

  1. http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7734/profile/mybase.htm
    1. (9)活動家(実践家)と研究者(理論家)の協働
    2. 活動家と研究者はそもそも「言語」が異なる。それはこれまで同じ目標に向かいながら、異なる公共圏として存在していた。しかし21世紀の社会では、両者が包含されたよりおおきな公共圏を形成せねばならない。
    3. 前者は後者より多くの現実と実践的技術を身につけている。それに対して後者は前者ほど現実を知らないし、実践的な技術を持ち合わせていない。しかし後者には前者が知らない過去の遺産、つまり人類がこれまで積み上げてきた知の体系を現実に照らし合わせることができる。
    4. そのような意味で、活動家と研究者は相互補完的である。逆に協働がなければ、活動家は行き当たりばったりの一面的な実践から脱出することはできず、研究者は非現実的な知の迷路から脱出することができなくなる。

科学と再魔術化

  1. http://www.aromagroove.jp/a-groovlog/archives/2005/10/post_34.html
    1. 2005年10月10日
    2. 世界の再魔術化
    3. 魔術化→脱魔術化→再魔術化・・・
    4. いったいなんのことだろう。
    5. 昨年の4月、日本ホリスティック医学協会で自然治癒学プロジェクトというプロジェクトを行った。
    6. そのときのシンポジウムの、上野圭一氏の講演内容が世界の再魔術化ということだった。
    7. 魔術の時代、病気になると悪霊の仕業だと思われた、
    8. そして、近代では科学が発達し、魔術のベールがはがされた、
    9. しかし近代化はすべてを科学てコントロールできるという幻想にとらわれ、
    10. 世界を持続不可能なものに破壊していった。
    11. そこで、再び魔術化することが必要。
    12. そんな内容。
    13. でも、また魔術の時代に戻るのではない、
    14. 残せるテクノロジーはもちろん、残してもいい。
    15. 魔術と脱魔術の2極ではなく、3番目の選択肢ってことですかね。
    16. それから、上野氏の公演ではこんなことも言っていた。
    17. 「魔術の時代は、魔術を使える人は限られた人、
    18. 再魔術化するこれからは、誰もが魔術を使える」
    19. 世の中のパラダイムが変っていくのにはどれぐらいかかるのだろうな。
  2. コンピュータは魔術師が運営しているのだ、マスコミは魔術師が運営しているのだ。ヒトの錯覚を利用してヒトを操る技術が発達したのだ。
  3. カウンセラーやヒーラー(?)はヒトの深層心理を操る技術を持っている。
  4. http://www.culturestudies.com/fasthudo/fasthudo12.html
    1. 私は、昨年9月に『ファスト風土化する日本』という本を上梓した。大型店の出店規制が事実上解除された近年、日本中の地方のロードサイドに大型商業施設が出店ラッシュとなり、その結果、本来固有の歴史と自然を持っていた地方の風土が、まるでファストフードのように全国一律均質なものになってしまっているのではないか、というのが「ファスト風土」という言葉に込めた意味である。言うまでもなく、それは風土の「マクドナルド化」Mcdonaldizationであり、「再魔術化」Reenchantmentを意味する。
    2. 経済のグローバル化は、世界中の地域を消費基地化(=ファスト風土化)し、世界同時的な大量宣伝によって世界同時に消費者を魅了し(=再魔術化)、世界同時に同じ物を売る戦略を強めているのだ。ニューヨークでもパリでも東京でも、GAPは同時に同じポスターを世界中の都市中に貼り、同じ新製品を売っている。アディダスもナイキもそうである。オリンピック等様々なイベントはまさに世界同時的再魔術化の手段と化している。
  5. http://www.law.keio.ac.jp/~hagiwara/lawsemi12.html
    1. <客観性>、<価値自由>(M.ウェーバー)を理想とする近代の科学は理論知(theoria)に一元化されることで、真・善・美が渾然一体となったかつての神話的・形而上学的な世界像を破壊し、意識的に目的合理的な思惟と行動からなる近代世界像を形成することができたのである。これによって、以前には人知の及ばぬ神の意志であるとか、運命の盲目的摂理として甘受するしかなかったものが予見可能で、制御可能なものとなった。「避雷針はジュピターからその武器(稲妻)を奪ってしまった」(4)のである。だがこの科学による「魔術の園からの解放」(ウェーバー)は、政治学にとっては皮肉な事態をもたらした。政治学が科学であろうとする限り、「政治的」であること、実践的であることを放棄しなければならなかったからである。ウェーバーは燃え立つ政治的情熱に冷水を浴びせかけるように言う。「経験科学は人が何をなしうるか、何を欲しうるかを教えることはできても、何をなすべきかまでは教えることはできない」(5)と。
    2. かくして近代における知の脱魔術化、脱政治化が必然であったとしても、実は話はそこで終わらない。なぜならその知は、それにもかかわらず再魔術化し、再政治化してしまうことになるからである。
    3. 科学の再魔術化:啓蒙の弁証法
    4. 原始的な呪術社会から、科学が生み出されてくるプロセスは人間と自然の分離と、その人間による自然支配の歴史でもある(6)。本来、人間の生存を脅かす最大の驚異は、その前ではなすすべもなかった自然の猛威であった。そしてその猛威を振るう自然の背後には、神々の怒りや神秘が存在すると信じられていた。しかし神が人間を創ったのではなく、人間が神を創ったことが暴露され、他方で自然はそれ自体が持っていた意味と質を失って、量化され、人間によって利用されてはじめて意味を獲得する客体にすぎないとする考え方が出てくる。こうして人間が万物の主人の地位に登りつめることになる。ところで注意しなければならないのは、人間の論理(言葉)によって対象(自然)を再構成し、統一的体系にしたてあげるという点では「神話」と「科学」の間に本質的差がないことであろう。差があるとすれば、「神話」のそれが不徹底なことくらいである。血縁関係にある者の間でいざ紛争が起これば、その争いは泥沼化するというのは法律実務家にとっての常識であるが、「科学」が「神話」をことさらに敵視するのにも同じ様な事情があったのである。
    5. 自然の猛威に対処するためには人間は結束しなければならない。そのためには分業が必要になる。そうなると必然的に、プランをたてる「考える人間」と、実際にそのプランを「実行する人間」の分離が生じ、それが主人と奴隷の、命令者と服従者の分離になる。この分業はしかし、不幸な結末をもたらす。思考を独占する支配者は自己の自然的欲求も肉体的感覚も犠牲にしなければならないし、実践を担う奴隷は自分の経験を意味づけることができなくなる。かくして人間は、主人であれ、奴隷であれ、その主体的自立性を失ってしまう。自然を支配する主人であった人間は客体であったはずの自然に呑み込まれてしまう。
    6. 人間の自然支配は、人間の人間支配を必要とするが、それを行うことによって、人間は<社会>という、より根源的な自然に、また<分裂した自我>という自己の内なる自然に服従することを余儀なくされる。かくして主人は奴隷と同一になる。また、あらゆる自然的なものを自己支配的主体のもとへ従属させるというその道徳原則(道徳の完成者カントが理想とした「自律」)は、盲目の自然の支配下に服すること(道徳の破壊者マルキ・ド・サドの絶対的無道徳性)と同一となる。
    7. このような事態が生じるのも、「科学」が「神話」と同じ手口、すなわち人間理性があらかじめ対象である自然の中に自分で埋め込んで置いたものを「発見する」という手法を用いておきながら、「神話」とは異なり、自分自身がどうなろうとも自然を支配しようとする点では一歩も引かないという、その徹底化を追求することにある。「抽象化」と「普遍化」は近代科学の方法的原理であるが、その前ではあらゆる「具体性」と「個別性」は沈黙せざるをえない。科学とは全体(主義)的である(7)。「科学的に思考する」とは、数と量という数学原理を貫徹させることであり、「数量化不可能なもの」は「存在しないもの」と同義である。早稲田の大槻教授ではないが、「超常現象」なるものは存在しない。なぜならばそれは「科学的に」説明がつかないからである。科学は自分が自分で作った土俵に上って勝負することをすべての「知」に要求する。そして必ず「勝つ」。勝って当たり前である。自分が自分に有利なように作ったルールなのだから。これ以上の八百長はない。
    8. 話がこむずかしくなりすぎたかもしれないが、実感レベルとしても、近代人たるわれわれの生活は科学・技術の恩恵によって<豊か>なものとなっている反面、まったく<再魔術化>されてしまっている。例えば私は今、コンピュータを使ってこの原稿を書いているが、「こう操作すればこういう文字が出てくる」ということを知っているものの、「なぜそうなるのか」私には分かっていない。プロセスは分からないが、結果に満足しているだけである。私のコンピュータの中にいるのがマイクロチップスか、それとも天才的小人なのか、神なのか本当は私には分かっていない。私は盲信しているだけである。とんでもない漢字変換をされた日には、悪魔でも潜んでいるのかという気にすらなる。星占いだって、コンピュータを持ち出されれば、ありがたみが増すのも近代人の情けなさである。
    9. また近代人は大なり小なり、社会的役割期待を演じる「自己内他者」と、それに反発しながらもそれに従属している「真の自我(と自分で思っているもの)」の分裂に悩まされている。近代人はすべて、精神分裂病予備軍なのである。
    10. ・・
    11. フーコーはこの監獄モデルに近代の権力テクノロジーのあり方を重ね合わせてみる。支配者が自らの力をこれみよがしに誇示するのではなく、このテクノロジーによって、自分は姿を隠したままで(「見られる」ことがないのだから、そもそも存在しなくてもよい)支配を全領域化することが可能となるし、被治者の個別化をすることもできる。
    12. コンビニエンス・ストアでアルバイトをすると、店長が必ず、「従業員室には誰にも見えないように監視ビデオカメラが仕掛けてあります」と釘を差すそうである。これなど、まさにこの権力テクノロジーの活用とみなせるだろう。実際にカメラがあろうがなかろうが、またそのカメラの先に監視人がいようがいまいが、従業員は「見られているかもしれない」という他者の視線を感じることによって、自らに規律を課す。自分を監視しているのは、他ならぬ自分自身なのである。学校、家庭といった日常個人生活にまでくまなくはりめぐらされたこの不可視の権力装置は実に強力かつ巧妙である。それは何らかのイデオロギーを強引に押しつけるのではなく、われわれの知の枠組みを規格化し、一切の「権力」の痕跡を消し去るからである。
    13. ・・
    14. 啓蒙主義哲学者に代表される近代の知識人たちは「神なき時代」の認識論的不安−−普遍的なものを担うのが個人でしかないこと、また客観的なものを把握する主体が主観的でしかないこと−−の前に、自分が神の立場に立つことで<真理>を把握し、あくまでヒューマニズムと善意から、国王を、また後には無知蒙昧な大衆を「上から」啓蒙しようとしてきた。彼らは自らが権力を握ろうとしたのではない。社会を治療し改良する医者、エンジニアになろうとしたのである。<真理>を知っている自分たちには当然、その資格があると彼らは信じていた。「医者」という比喩は示唆的である。患者よりも患者のからだのことを熟知していると思っている医者の助言は絶対である。素人は口答えせず従うしかない。かくして民主主義という「素人による討論の政治」は、善意の知識人によって骨抜きになる。
    15. ・・
    16. 今回が最終回だが、「テメー、萩原、ラビリンスワールドの出口についにたどりつけなかったじゃないか」とお怒りの皆さんへ。
    17. だから言っておいたでしょ。知識人は地図制作者であって、どこに行くべきかを決めるのは皆さん自身であると。しかも私は、一知識人として地図を作る役目を任されていながら、同時に一市民としてゲーム参加者でもあるので、実は歩きながら次の道筋を半ばあてずっぽに予想していたにすぎないのである。そもそもこのゲームに出口があるのか、私は知らない。多分ないのだろう。
    18. 何を隠そう、このインチキ地図制作者の私こそが、このラビリンスワールドの暗黒大魔王、最大の隠れボス・キャラだったのであった。どうだ、まいったか、ワハハハ。では諸君、さらばじゃ。また会おう。ワハハハ・・・・・
  6. ヒトヒトを知るようになったから、ヒトヒトを操ることができるようになって、ヒトヒトに操られるようになった。というのが、再魔術化か?
  1. 「合理化によって魅力がなくなったもの・・(を)再び魅力的に見えるようにすることを再魔術化という」。科学には魅力がない。ということか・・。
  2. 「再魔術化」というコトバはおかしい。ヨーロッパの中世は魔術がはびこっていたが、日本の中世は合理的だった。まあ、ちょっと、合理的過ぎて、諦め的ではあった。
  3. 「再び魅力的に見えるようにすること」・・。騙しのテクニック。魅力的でないモノを魅力的にみえるようにするテクニック。詐欺的権力。21世紀は詐欺の世界になるかも・・。
  4. 《群れの身体》と詐欺的権力。体内麻薬を分泌する臓器。脳内麻薬:アドレナリン、エンドルフィン、ドーパミン、オピオイド、アドレノクロム、・・。

科学射影幾何

  1. 客観主義的科学はデカルト座標に対応する。(直交座標?)
  2. 主観主義的科学射影幾何の座標に対応する。(極座標?)
  3. http://ja.wikipedia.org/wiki/座標
    1. 座標系の種類としては
      1. 直交座標系
      2. 極座標系
      3. 一般化座標系
        1. 球座標系、円筒座標系
    2. などがある。
  4. 客観主義的科学は、客観的であり、正確である、また、コトバによる《思いこみ》モノへの《重ね合わせ》の方法による理解が容易である。が、ヒトの視線ではない。
  5. ヒト《知りつつあるモノ》は主観的存在である。ヒトが行う見通し《知りつつあるモノ》を中心に置かない限り不可能である。従って、客観主義的科学から主観主義的科学への座標変換を行うべきである。

科学体内感覚

  1. 科学には体内感覚という視点が皆無なのだな。実験できないから・・。
  2. 科学は「検証可能な事象」しか扱わない、「検証可能でありそうな事象」しか扱わない。
  3. 科学者たちを検証対象とする科学がない。
  4. 科学は「自ら」を扱うことが苦手である。
  5. 科学は「自らがない」「自己がない」「《我》がない」ことを前提とした認識を求める。認識主体のない認識を求める。コトバが認識主体であるような認識を求める。コトバの論理的自動運動が思考であるような認識を求める。
  6. 科学は、人にとって最も重要な《我》に関しては沈黙をまもる。むしろ、《我》などないという結論を押しつけようとする。
  7. 科学者は、《我》があることを知っている。にもかかわらず、科学者は「《我》など無い」という(誤解を招く)コトバを発する。科学者は嘘つきなのである。語るべきことを語らない、という意味で嘘つきなのである。ヒト『正しいコトバ』を語るヒトを尊敬し、そのヒトコトバに従おうとする。そのヒトが語らなければ、聞き手は『ない』と判断する。
  8. http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/sociology/1095285947/
    1. 6 :名無しさん@社会人:04/09/17 07:05:52
    2. ・・
    3. 社会の何が悪いかと言うと、社会学者に多いんだが、 嘘つきが原因
    4. 社会には不条理が満ちてる癖に、「なんとかしろー」と叫ぶ。今、一線で活躍してる社会学者は、何とか出来る程、所謂エリートと呼ばれる大学の出身者の癖に、なんともせず、「なんとかしろー」と叫んで、不条理に打ちのめされてる人間から、金を奪ってる。

当為科学

  1. ヒトには当為が重要である。しかし、科学当為に対しては沈黙を守る。
  2. ヒトは、科学信仰をもつと、科学当為に沈黙を守るのを見て、当為が非科学的であり、当為に関する言説を「非科学的である」と蔑視するようになる。
  3. 「「なにゆえに」という問いで求まられているのは、これらの質料がこれらのものであるゆえんの原因、すなわち形相である。そして、これがまさにそのものの実体(本質)である。・・これらを知るにはこのような問い求めの仕方とは異なる方法によるしかない」(『形而上学・上』p.292)・・アリストテレスが「形相、本質」と言っているのは、イデアである。そのモノに対する、ヒト《思いこみ》であり、《ヒトの群れの思いこみ》であろう。

科学多次元輪郭空間

  1. 《私》《私》の視点から離れることはできない。《私》は鏡を通じて鏡像を見ることができる。《私》が他のモノに写った鏡像を見る時、《私》は一時的に、疑似的に、そのモノの視点に立つことができる。この疑似的な視点の移動は、《思いこみ》への《入り込み》の場合と同じである。
  2. 《思いこみ》への《入り込み》によって生じる世界への認識も、鏡像として、その《思いこみ》の外部から見通すべきであろう。科学世界は、科学《思いこみ》に写った鏡像である。

科学《アニマ》

  1. 科学は「ヒト《アニマ》」の一部分である。
  2. 科学者は自らの内の《思いこみ》の存在を観察できないのだろうか? 仮説は《道具的な思いこみ》もしくは《知った思いこみ》である。検証は《知った思いこみ》モノとの弁証法である。検証への意欲は《求める思いこみ》である。実験のプランは《道具的な思いこみ》である。実験結果の予想は《道具的な思いこみ》である。実験結果の認識は《知った思いこみ》である。実験結果と実験結果の予想との突き合わせは《思いこみつつあるモノ》の作用である。実験結果と実験結果の予想との突き合わせから出てきた結論は《知った思いこみ》である。公表への意欲は《求める思いこみ》である。論文への記述は《知った思いこみ》コトバに載せることである。
  3. 科学は《神の視点》から《モノの世界》を客観的に観察して記述したコトバの体系である。
  4. ヒト科学コトバを使って、《神の視点》から《モノの世界》を客観的に見下ろすことができる。
  5. 科学コトバ科学的な《知った思いこみ》の入れ物である。
  6. ヒト《知りつつあるモノ》は《科学的な知った思いこみの世界》に入り込むことができる。
  7. 科学的な知った思いこみの世界》はヒトというモノの内在する《思いこみ》ヒト《アニマ》=である。
  8. ヒト科学コトバを使って《モノの世界》を認識するということは、《モノの世界》に《科学的な知った思いこみの世界》を重ね合わせることを意味する。科学的な認識とは《思いこみ》モノへの重ね合わせによる認識である。
  9. 《神の視点》とは外化された特別者の視点である。外化される前の特別者の視点とは、《我》の視点である。世界の中心としての《知りつつあるモノ》の視点である。外化された視点とは、鏡である。《知りつつあるモノ》世界の中心から逃れることはできない。《知りつつあるモノ》は鏡としての《神の視点》に移った世界を見るのである。《神の視点》の《思いこみ》の中に入り込むことによって、《私》は《神の視点》から世界を見る。
  10. ヒト《アニマ》は、《思いこみ》入り込むことによって新たな視点を持つことができるような《アニマ》である。『新たな視点を持った』という《思いこみ》を持つことができる《アニマ》である。モノの内部に内面化された鏡の《思いこみ》を通じて、その鏡に写った世界についての《知った思いこみ》を持つことができるような《アニマ》である。
  11. 追従ザルは、ボス猿コトバを通じて、ボス猿の視点を内部的な鏡として内面化して、『ボス猿』という鏡を通じて世界を認識する、という《アニマ》を持ったモノである。
  12. http://oak.zero.ad.jp/nexus/TERA8.9.10.html
    1. この物理学的世界像は、神の感覚たる人間理性が創造し構成したものなのである。
    2. ・・
    3. ちなみに古典物理学においては、因果律が厳密になりたつように構成されたモデルの世界がきわめて有効な力をもつ。これに対して現代物理学の、とくに素粒子の世界においては因果律はなりたたない。そこでプランクの主張するような線からは、物理学的世界のより深い段階というのを想定することにより、因果的解釈がなりたつとする発想がでてくるのである。
    4. ・・
    5.  なお、寅彦は「法則」と書かずに「方則」といつでも書くクセがある。
    6.  法則の「法」という字を嫌うらしい。おそらく仏教における「法」(ダンマ)などを連想して、絶対普遍的といった臭みがするからであろう。それにたいして「方」を使うのは、やはり仏教でいうなら「方便」(ウパーヤ・コウシャルヤ)の方を採ったのではあるまいか。
    7.  それについて寅彦は何もいっていない。しかし「方則について」(1915年)や「物理学と感覚」を読むと、このように解釈してもさしつかえないと思われる。たとえば中学校で物理の初学者に教える場合、事実や法則を暗記させるよりも「方則の成立や意義や弱点を暗示」し、さらに「科学というものの方法や価値や限界などを多少でも暗示する」ほうが有益だとしている。そのほうが「かえって理解と興味を助長し研究的批評的の精神を鼓舞する」からである。
    8.  科学技術に対する不信や拒絶がまんえんするこの現代の風潮のなかで、初学者にこんなことをすれば、鼓舞どころか不信や拒絶を増進するばかりだと反論(あるいは歓迎?)されるかもしれない。しかし、最近の反科学技術の運動などをみると、そこには原子力や化学などに対するいたずらな恐怖心があるだけで、打開策への意欲的な希望らしきものはあまり見られない。
    9.  これも科学の初等教育において、法則を絶対のものとして強制して暗記させるだけ、という長年のやり方のツケが回ってきているからであろう。科学の方法や価値や限界からまったく無縁のところで生きていれば、恐怖心をあおられるのはあたりまえである。
    10. ・・
    11.  物理学の法則は、プランクの嫌っている、人間の作った便宜的相対的なものでいいじゃないか、というのが寅彦の意見である。神とか絶対をもちだすことはないというのである。そのかわり、人間とか便宜とか相対という言葉に大転回がある。とくに方便に近い便宜に、転回が起こらなくてはならない。
    12.  単なる便宜(間に合わせ)ではなくて、人間のための便宜である。人間のための便宜、それは思考あるいは思想の節約である、という。
    13.  節約の反対は浪費であろう。「ただ一筋の系統によって一糸乱れぬ物理学の系統を立てよう」などというプランクの試みは、その思考・思想の浪費でしかない。人間はこういった壮大な体系にとかく幻惑されやすい。だが、そうなってしまうと身動きできなくなり、創造力が破壊されてしまう。
    14. ・・
    15.  壮大な体系だけがあって自分がいないというのを、人間がいない、というのではないだろうか。人間の便宜というのは、だから、自分が思う・自分で考えるという基盤、そして人間をしっかりと確保するということになる。

説得と科学

  1. 「話し手のエトス(ethos)」による説得(http://www.hicat.ne.jp/home/mickmar/ethos/ethos1.html
  2. 話し手を信頼せよ、というのがエトス。科学は「信じるな、疑え」という思考態度。
  3. 「信じるな、疑え」という説得は自己矛盾である。か? 追従ザルの思考様式によれば、「「信じるな」と説得するヒトを信じろ」という意味になり、自己矛盾であると判断される。「「疑え」と説得するヒトを疑う」ので「「疑え」と説得するヒトは信じない」となる。
  4. 追従ザル科学を生み出した思考態度には興味がない。追従ザル科学が生み出した結果に興味をもつ。子供は「答え」を聞きたがる。「答えなんかどうでもよい、それを導く考え方が重要なのだ」というコトバも、追従ザルにとっては自己矛盾である。「「答えなんかどうでもよい、それを導く考え方が重要なのだ」という答えが重要だといっている」ということになる。
  5. 追従ザルの論理とは、コトバを語るヒトを信じるか、信じないか、という判断基準。ヒトボス猿をみなす(信じる)か、みなさない(信じない)かという世界

科学と真理

  1. 「1.科学は何も証明しない。科学は過程を向上させたり反証を加えることはできるが、それ自身の正しさを証明することは出来ない。これはポパーの考え方と同じ。オッカムの剃刀でより単純な答えを正しいと思っているだけ。原文ではこういってる。"Science probes; it does not prove."」(http://pooneil.sakura.ne.jp/archives/cat2/
  2. 「真理」というコトバで、ヒトは何を求めているのだろうか? どのようなコトバを求めているのだろうか? 『信じるに値する正しいコトバ』か? 「1+1=2」というコトバは『信じるに値する正しいコトバ』だと思うが、「1+1=2は真理である」で満足するのか? 『絶対的に正しい命令』を求めているのではないか? 『真理』は《他者の思いこみ》である。
  3. 科学的な思考態度とは、「信じるな、疑え」である。「仮説と検証」というのは「仮説は永遠に疑わしい」がゆえに「検証を永遠に継続しなければならない」ということ。
Last modified:2008/02/21 01:27:46
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References:[『よい』『わるい』] [『科学』] [《体内感覚》]