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デカルトの《我》は検証可能か?

おまけデカルトの《我》は検証可能か?

[qualia:7434] デカルトの《我》は検証可能か?

はじめまして、たけ(tk)と申します。

[qualia:7432] 自己プログラミング(Re: 「科学性」) にて ジャック天野さん曰く:

> 問題はやはり、一人称的体験と三人称的観察との対応でしょう。
> 他者が観察できることのすべてが自分の中で体験できるとは限らない。
> その違いがどこにあるのか明らかにするだけでも大きな進歩でしょう。

同感です。 しかし、そのためには、まず、

  1. 一人称的体験を、科学的な検証の対象となりうる形で記述することは可能か?
  2. 一人称的体験をどのような形で記述すれば、科学的な検証の対象となりうるか?

といった検討が必要だと思います。 これはおそらく、

  1. 一人称的体験を数学的モデルとして提示することは可能か?

ということと同値になるのではないかと考えています。

* なお「科学的命題」は「複数のヒトによって検証されるべき共有知」というような意味で使っています。

* たけ(tk)は、一人称的体験の記述のためには極座標、射影幾何自己言及、虚数軸といった数学的モデルが利用可能であろうと見ているが、これは、後回し。

一人称的体験の記述の例をデカルトの『省察』から捜してみると。デカルトの「クオリア体験」とおぼしき記述もあります。(http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/library/descartes/med001.html

「まつたく疑ひ得ぬ他の多くのものがある。例えば、いま私が此處に居ること、暖爐のそばに坐つてゐること、冬の服を着てゐること、この紙片を手にしてゐること、その他これに類することのごと。まことにこの手やこの身體が私のものであるといふことは、いかにして否定され得るであらうか」

この「クオリア体験」の後にデカルトは「私は存在する」ということを発見していますが、この「私」はむしろ《思惟しつつあるモノ》とでも言うべきモノであろうと思います。

「思惟することは?ここに私は發見する、思惟がそれだ、と。これのみは私から切り離し得ないのである。私は有る、私は存在する、これは確實だ。しかしいかなる間か。もちろん、私が思惟する間である。何故といふに、もし私が一切の思惟をやめるならば、私は直ちに有ることを全くやめるといふことが恐らくまた生じ得るであらうから。」

「しからば私は何であるか。思惟するもの、である。これは何をいふのか。言ふまでもなく、疑ひ、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なほまた想像し、感覺するものである。」

そこで、次のような疑問を提示してみたいと思います。

(1)「クオリア体験があり得る」、という命題は科学的命題たりうるか?

(2)「《思惟しつつあるモノ》がある」という命題は科学的命題たりうるか?

* 「科学的命題」は「複数のヒトによって検証されるべき共有知」というような意味で使っています。

[qualia:7444] 『我』の情報論的定義とメタ認識。

たけ(tk)です。

[qualia:7437] 「主体性」と「私」なるものは、「メタ性」の概念を組み込むことで実現可能ではないだろうか にて "nomoto" さん 曰く:

> 私は、「主体性」、あるいは自己同一性の概念は人間固有のものであると思っていま
> す。したがって、人間以外の生物一般には「主体性」の概念が存在するとは思ってお
> りません。もちろんロボットやコンピュータもそうです。ロボットやコンピュータが
> 主体的な行動ができないことは誰もが認める事実だろうと思います。

たけ(tk)は、ロボットにも主体性があり得るという=《アニミズム》の立場=だったりするので・・

> そうではなく、逆に、論点を次のように設定し直したいと考えます。仮に「主体性」
> や「私」を情報理論で(科学的に)記述できたとしたらそれはいったいいかなる事態
> なのかと。

『我』を情報論の立場で次のように定義してみたいと思います。

あるシステムが『そのシステム自身』を、そのシステムにとっての情報として処理する時に、その情報『我』情報という。

これは、具体的には、たとえば、ロボットが空間把握を行って、その空間の中に『我』を置くなら、その情報『我』情報である。ということになります。一般に移動するロボットは、空間把握とその空間の中でのそのロボット自身の位置を把握していることでしょう。

ロボットの空間把握情報の中の『我』情報は、『我』が単なる空間的な点の位置として把握されるかぎりは、たいした問題は生じない。

問題は、『我』情報の中身が空間的な点としての性質に加えて、その『我』情報が「『我』情報を知りつつあるモノである」という意味合いを含めて、情報として処理しようとした時に生じることになります。

> ところで、「主体性」をもっているかのようなヒューマノイド、「私」という自己意
> 識を持っているかのようなヒューマノイドを実現するいくつかの条件の中で、重要な
> そのひとつに「メタ性」をあげることができると考えています。
・・
> 私の想定している「メタ」概念は、複雑な現象の背景に奥深く潜んでいる原則のよう
> なもの、自由の背景に隠れているある種の規約的なもの、複雑なカオス現象を構成す
> るある決定論的な法則のような概念を意味しています。

たけ(tk)の理解する所のメタ認知とは

「「『我』はxxを認知する」ということを『我』が認知する」ことをメタ認知という。

【メタ認知の次数】

メタ認知には次数があります。

  1. 「『我』はxxを認知する」というのは次数0のメタ認知。
  2. 「「『我』はxxを認知する」ということを《我》が認知する」というのは次数1のメタ認知。
  3. 「「「『我』はxxを認知する」ということを『我』が認知する」ということを『我』が認知する」というのが次数2のメタ認知・・。

【無限次数のメタ認知とカオス

メタ認知の次数を上げていくと「ロジスティック写像」と対応関係のあるカオスが生じると思われる。(http://ja.wikipedia.org/wiki/カオス理論)

「方程式X(n+1)=a*X(n)*(1-X(n))はコントロールパラメータaを変えていくと、分岐現象を起こす。aが十分小さいときには、安定な不動点が一個現れる。aを徐々に大きくしていくと不動点は不安定化し、2周期解が安定になって出現する。さらにaを大きくすると2周期解は不安定になり、2**2周期解が安定になる。このことが繰り返され、2**∞周期の解が不安定化したとことでカオスが出現する」(『カオス的脳観』津田一郎、p.44)

ロボットにおいても、メタ認知が必要となる場面が予想される。 ロボットにおいて『我』情報にかんするメタ認知が生じる状況は、他のロボットとの協動が必要になる場合だろう。つまり、

ロボットAは別のロボットBの動作を予測しながらみずからの動きを決定しなければならない、という状況。この状況は容易に想定可能である。

しかし、ロボットBもまたロボットAの動作を予測しながらみずからの動きを決定する、とするなら、 ロボットAは「ロボットAの行動を予測しながら動くロボットB」の動きを計算をすることになる。

ここにいたって、『我』が情報として現れてこざるを得ないことになる。

* ミラーニューロンが自己認知に関係があるということとパラレルであろう。

このような『我』情報は(論理的には)ただちに、無限次数のメタ認知を生じさせることになる。

ロボットAは「「「ロボットAの行動を予測しながら動くロボットB」の動きを予測して動くロボットA」の行動を予測しながら動くロボットB」の動きを計算をすることになる。・・

これは無限ループになるので、計算不能、動きを決定不能、ということになるだろう。

【無限次元のメタ認知の解としてのメタメタ認知】

ロボットAの解としては、

一つは、メタ認知を適当な次元で止めること。

  1.   たとえば0次元のメタ認知で止める=メタ認知をしない、もしくは、
  2.   1次元のメタ認知:ロボットAの『通常の動き』をロボットBが予想するであろうと、予想することで止める。

もう一つは、無限次数のメタ認知の無限ループカオス=に陥ったという自己認識=メタメタ認知=を行うこと、であろう。

* ロボットに無限ループの検出回路を組み込むことは、簡単だろう・・。

* 現象学的還元=思考停止=が、このメタメタ認知に対応するだろう。

情報としての『我』と、一人称的体験としての《我》

ちなみに、上での『我』は情報としての我の意味で、『[qualia:7434] デカルトの《我》は検証可能か?』で使った《我》は一人称的体験としての我という意味というように使い分けています。

問題は、

  1. 情報としての『我』はロボットにもあり得るが、
  2. ロボットの情報としての『我』と、私の一人称的体験としての《我》とがどういう関係にあるのか、座標変換は可能であるのか、どのようにして座標変換の規則を発見し、記述するのか、

であると考えています。

情報としての『我』」と「一人称的体験としての《我》」の間での座標変換の規則を記述するためには、何よりもまず、

一人称的体験としての《我》を、複数の人によって検証可能な方法で記述する方法を開発しなければならない。

[qualia:7451] 「一人称的体験の共同検証可能な記述」の可能性〜「デカルトのクオリア体験」

茂木先生、はじめまして。新参者の、たけ(tk)と申します。

たけ(tk)さんの問題意識としては、野元さんがまとめてくれたように

> たけさん(tk)の問題意識は、ロボットの情報としての『我』と、私の一人称的体験と
> しての《我》との変換規則を記述することにあり、その変換規則を記述するために
> は、まず、一人称的体験としての《我》を、複数の人によって検証可能な方法で記述
> する方法を開発しなければならない、ということのようです。

ということなのですが、「一人称的体験の共同検証可能な記述」の可能性の探究の手始めとして、デカルトの『省察』の記述をターゲットにしたいと考えています。

『[qualia:7434] デカルトの《我》は検証可能か?』で次のように書いてみたのですが、これを、「デカルトのクオリア体験の記述」とか、「デカルトの一人称的体験の記述」と呼んでも問題ないでしょうか?

> 一人称的体験の記述の例をデカルトの『省察』から捜してみると。デカルトの
> 「クオリア体験」とおぼしき記述もあります。
>
> 「まつたく疑ひ得ぬ他の多くのものがある。例えば、いま私が此處に居ること、
> 暖爐のそばに坐つてゐること、冬の服を着てゐること、この紙片を手にしてゐる
> こと、その他これに類することのごと。まことにこの手やこの身體が私のもので
> あるといふことは、いかにして否定され得るであらうか」
> (http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/library/descartes/med001.html)

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それでよければ、「デカルトのクオリア体験の記述」を「他者のクオリア体験の記述」の例として分析して、次のように進んでみたいと思います。

(1)《私》《他者》クオリア体験の記述を読んで、《他者》クオリア体験を追体験したような気になることができる。しかしながら、

(2)《他者》クオリア体験は、《私》クオリア体験ではない。《他者》クオリア体験は、《あの時・あの場所の・あのヒト》の体験であり、《私》クオリア体験は《今・ここの・このヒト》の体験である。

(3)《他者》クオリア体験ないし一人称的体験の記述の「《私》による検証」とは、たんなる読書中の追体験ではなく、その記述内容が《私》クオリア体験として《今・ここの・このヒト》の体験として再現可能であることを言う。

(4)《他者》クオリア体験ないし一人称的体験の記述の共同検証とは、《私》にとって再現可能であるというばかりではなく、《私》が再現報告をなし、また、著者たる《他者》以外の第三者からの再現報告がなされることが必要である。

(5)一人称的体験の記述が「共同検証可能」であるためには、それを再現するための手順が明記されたものでなければならない。デカルトの『省察』には再現手順(方法的懐疑)が明記されているので、適切な記述の例であろう。

* 「聞慧・思慧・修慧」でいうところの「修慧」の報告が蓄積されることが 「一人称的体験の共同検証可能な記述」の実現に繋がる。ということ。

* 再現報告は必要条件だが、十分条件ではないだろう。十分条件は?

* 《私》から見て《他者》クオリア体験は、《あの時・場所の・あのヒト》を極座標の原点とする体験、極座標の原点に《視点》を置いた体験であるように思われる。それは原点からの方向と距離の世界であり、原点から見通せる範囲での事物への体験である、ように、見える。「一人称的体験」と「極座標」として捉えることによって、客観的観察の「直交座標」との相互変換が可能になるのではないか?

[qualia:7469] Re: デカルトの《我》は検証可能か?

たけ(tk)です。

[qualia:7435] Re: デカルトの《我》は検証可能か? にて ジャック天野さん 曰く:

> > 一人称的体験を、科学的な検証の対象となりうる形で記述することは可能
> か?
> > 一人称的体験をどのような形で記述すれば、科学的な検証の対象となりうる
> か?
>
> クオリアとニューロン発火系列の関係についていえば、
> 一般的関係が分かったとして、クオリアを介さずに
> ニューロン発火のメカニズムだけでその整合性を
> 検証することはできそうです。
>
> つまり体験を脳内現象にコード化し、さらにその人が
> 自己の脳を観測する状況もコード化する。
> この二つのコード化が物理的に矛盾なくつながるなら
> 少なくとも整合性が取れていると確認できますから。

「体験」を、

海の向こうから雲間をついて朝日が昇ってくる様子に感激している《私》の体験にたとえるなら、

「脳内現象にコード化」というのは、 《私》の天動説的な感動を、地動説的な現象として再構成して理解する、というのと同じでしょうね。

「自己の脳を観測する状況もコード化する」というのは、 朝日に感激している《私》地球上の一点に置いて、その《私》地球と太陽との関係を地動説的に配置しなおす。ということに相当しそうですね。

たしかに、

  1. 《私》は海の向こうから雲間をついて朝日が昇ってくる様子に感激しながら、
  2. 頭の中で地球と大気と雲と太陽との関係を地動説的に配置しなおして、《私》地球上の一点に置いて、そこから観測すれば、《私》の体験しつつある現象が生じるはずだ、という地動説的理解を、

同時に行うことができる。

クオリアを介さずにニューロン発火のメカニズムだけでその整合性を検証することはできそうです。」

なんで朝日が昇ると感激するのか(クオリアがあるのか)、は地動説(脳科学)では説明できない、ということですかね?

地動説的理解の中に《私》という観測者を置くこと。 地動説的理解の中に天動説的に世界を観測している観測者を置くこと。

その観測者の《視点》で表現された「陽が昇る」という表現は、観測者を原点として、「太陽」の方向が変わることを意味している。そこでの観測者は極座標的な《視点》をもった観測者ということになるだろう。

それに対して、地動説的な理解は、直交座標で理解されている方が普通だろう。

直交座標的な理解の中に置かれた極座標的な《視点》を通じて世界を見ると、最初の、《私》の感動の世界に至ることができる。

脳科学的な理解の中に、極座標的な《視点》を置いて、その《視点》を通じて世界を見れば、一人称的な「クオリア体験」が見えてくるだろう。

* モノの中に《視点》を置く、というのは、そこに鏡があると思えばよい。鏡を通して見る、ということは可能だろう。

[qualia:7477] ノイズとしての『神』《視点のパラメータ》

たけ(tk)です。

[qualia:7476] 水幡氏、Q5の答えはまだかいな にて ジャック天野さん 曰く:

> 意識する心―脳と精神の根本理論を求めて
> デイヴィッド・J. チャーマーズ (著)
> David J. Chalmers (原著)
> 林 一 (翻訳)
> http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4826901062/ref=pd_bxgy_text_1/503-6936609-7834361

書評の中にこんなのがあった。

>   著者は、どうしても精神がどこかに実在し、それが神とつながっていることを、
> 証明したいようです。 そのために、あらゆる思考法を駆使して証明しようとし
> ています。

デカルトでも同じなのだが、自我探究のカオスの中に『神』というノイズを持ち込むと、『それなりの証明』ができたような気になってしまうのだろう。

デカルトの『省察』では「さりながら私の心には或る古い意見、すなはちすべてのことを爲し能ふ神が存在し、そして私はこの神によつて現に私が有る如き性質のものとして創造せられたといふ意見が刻みつけられてゐる。」というノイズが、デカルトの後半の『それなりの証明』を導いている。

ノイズというのは、「ノイズ・インデュースド・オーダー」のノイズのこと。

http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/~yasutomi/complex.html

> 津田の提唱するノイズ・インデュースド・オーダーという概念がある。これはあ
> る種のカオスにノイズを加えることで、秩序を作り出すことができるという観察
> に依拠している。「ノイズがある」ということは、カオスになんらかの「外部」
> が接続されている、ということであり、カオス単独の場合よりもシステムは複雑
> になっている。ところが、カオス単独の場合よりも、「カオス+外部」というよ
> り複雑な場合の方により高い秩序性が見られるのである。(金子・津田 1996、
> 59〜68頁)

たとえば「ロジスティック写像」の「方程式X(n+1)=a*X(n)*(1-X(n))」がカオスを作り出している時に、その微小部分に四捨五入の回路をノイズとして加えれば、カオスが消滅してしまうだろう。

同様に、自我を探索する者は、自己言及無限ループが作り出すカオスに怯えるが故に、「古い意見」をノイズとして持ち込んでしまうのである。

我々であれば、さしずめ、(というか、たけ(tk)さんは)「山川草木悉皆有仏性」という日本的アニミズムの観念をノイズとして持ち込んでしまうだろう。

科学者であれば「現象を客観的に記述する」という「古い意見」にすがろうとするだろう。

ノイズを持ち込まないことには、カオスへの怯えに震え続けることになる。

ノイズが自己探索のカオスを秩序化する様子を観察するのは、かなり難しそうだ。 しかし、

  1. 自己探索が主観的体験の中にカオスを作り出すこと、
  2. そこにノイズを持ち込むとコスモスが現れること、

記憶しておいてよいだろう。

ノイズによってコスモスが現れるということは、公理によって公理系が決まるのと似ている。

ノイズによってコスモスが現れると、世界の見え方が決まる。 現れたコスモスによって、世界の見え方・世界を区分けする輪郭の決め方が、異なってくる。

モノの見え方・輪郭が変わるということは、《視点》の位置によってモノの輪郭が決まるということだろう。 一般に、モノの見え方・輪郭は、正面の《視点》から見る場合と、上の《視点》から見る場合とでは異なる。《視点》によって、モノの見え方・輪郭は異なる。

  1. 科学者は検証可能な仮説の蓄積という《視点》世界の輪郭を描きだす。
  2. 『神』《視点》では『神』が絶対的な原因者として世界の背後に現れる。
  3. 日本的アニミズム《視点》では、モノたちが《私》と同様の主体として《私》を取り囲むことになる。

同じ樹木を見るにしても、ベンチにすわって人を待っている時にちらっと見た樹の意味と、その樹木のオーナーにとっての意味と、清掃人にとっての意味とでは異なる。《視点》が違えば、見え方が異なる。そのモノの意味的な輪郭が異なる。

問題は、《視点》をかき集めること、《視点》を分類すること、《視点》を分析すること、ではないだろうか。

思うに、《視点》の集合の中で、ある《視点》がどのような位置になるのか、その《視点》の位置を記述するパラメータ(《視点のパラメータ》)をどのように捜していくのか、が当面必要な課題の一つではないだろうか。

* そーかー、これがフーコーの《視点》なのか・・。

[qualia:7478] 「《思惟しつつあるモノ》がある」という命題は科学的命題たりうるか?〜体内感覚と体外感覚

たけ(tk)です。

[qualia:7434] デカルトの《我》は検証可能か? にて take_tk <ggb03124@nifty.com> さん 曰く:

> (2)「《思惟しつつあるモノ》がある」という命題は科学的命題たりうるか?
>
> * 「科学的命題」は「複数のヒトによって検証されるべき共有知」というよう
> な意味で使っています。

これに対して、

  1. [qualia:7435] でジャック天野さんからは「これはいえると思います」。
  2. [qualia:7445] で野元さんからは「「《思惟しつつあるモノ》があるという命題は科学的命題」たりえていないと考える」

という回答をいただきました。

ジャック天野さんが「これはいえると思います」といった趣旨はよくわからなかったので、野元さんの「科学的命題たりえていない」について、その理由を想像してみたいと思います。

思うに、デカルトは、彼の一人称的体験において、《思惟しつつあるモノ》の輪郭とクオリアを感じていたに違いない。

しかし、たけ(tk)からみると、デカルトが感じた《思惟しつつあるモノ》クオリアは、彼の体内における感覚の外に出るものではない。デカルトの《思惟しつつあるモノ》クオリアは、彼の体内の感覚の世界の中で感じたモノなのである。

では、科学者が仮説を検証するために実験をするときに、実験道具や対象物を「そこにあることは疑いがない」と信じることと、デカルトが「《思惟しつつあるモノ》はある」と信じたこととの違いは何だろうか?

科学者の実験においては、彼の体外感覚の世界に実験道具があり、その実験道具は同僚も同様に「ある」と確信していることを、言語的コミュニケーションを通じて相互に確認し合っているが故に、「ある」と確信しているのだろう。

では、体内感覚において確信されたモノも、《私》が確信し、同僚も確信し、相互にその確信を確認し合うことができるならば、「ある」と確信してもよいのではないだろうか?

これは、心理学者が《他者》を観察して、《他者》からの報告を聞くこととは異なる。

心理学者自身がみずからの体内感覚世界の中にモノを発見することが第一歩となるような手法である。

そういう形で「複数のヒトによって検証されるべき共有知」の意味で、「《思惟しつつあるモノ》がある」という命題は科学的命題たりうるか?

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* 実を言うと、たけ(tk)《思惟しつつあるモノ》というモノにはクオリアを感じないんだよね。ぼけっと感じているだけのモノである時間のほうが長い。思惟というのは意志の力が必要なので、苦手・・。

* 《思惟しつつあるモノ》=《思いこみを噴出しつつあるモノ》+《噴出した思いこみの意味を理解しつつあるモノ》+《思いこみの噴出を操りつつあるモノ》+《それらを知りつつあるモノ》というように分解してしまうのです。

[qualia:7488] 虚数の主観的意味

[qualia:7434] デカルトの《我》は検証可能か? で『虚数軸』というコトバを出したのですが、 「一人称的体験をしつつあるモノとしての《我》」の分析で、 2通りの経路で虚数概念が出てきたのですが、 関係ありますかね?

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一つは、「情報としての『我』」の自己言及性と《我》との関係の場面です。

    1. (1)「一人称的体験をしつつあるモノとしての《我》」がそれ自身を分析しようとすると、それ自身を「情報としての『我』」として捉えることになる。
    2. (2)「我」というコトバは、「《「我」というコトバを発しつつあるモノ》自身を指し示すコトバ」という自己言及的なコトバである。
    3. (3)自己言及には、肯定的自己言及と否定的自己言及がある。分かりやすい例としては「私は本当のことを言います」というのが肯定的自己言及で、「私はウソをついています」というのが否定的自己言及
    4. (4)肯定的自己言及は、真でもあり得るし、偽でもあり得る。「私は本当のことを言います」というコトバは、彼が正直者であれば真であり、彼がうそつきであれば偽である。
    5. (5)否定的自己言及は、真と偽とが振動するので、真でも偽でもない、真偽値を持たない、と言われている。
    6. (6)関数がある範囲では二つの値をとり、ある範囲では値がない、というのはX**2=A の式と似ている。A=1ではX=1とX=-1の二つの値を取り、A=-1ではXには実数値がない。しかし、この場合には、Xの値は虚数値+iと-iをとると言われている。
    7. (7)論理値の自己言及は、肯定の肯定→肯定、否定の否定→肯定、ということなので、X*X という演算を意味する。従って、X定のX定→否定となるような、論理値を想定することができるならば、否定的自己言及の解を得ることができる。この解に「虚定」という名前をつけておく。虚定の虚定→否定となるような、第三の論理値である。
    8. (8)デカルトの「懐疑的我」は否定的自己言及である。否定的自己言及における解は、真・偽だけからなる実数的な論理の世界には解がない。しかし、虚の値を導入すれば、解があるということになる。
    9. (9)アリストテレスの形而上学を読んでいたら「離存性」というコトバが出てきた。おそらくこれは、「情報としての『我』」から「一人称的体験をしつつあるモノとしての《我》」という「実在(ウーシア)」をみると「離れて存するもの」というコトバでしかあらわすことができないモノ、すなわち(コトバの)論理の世界には取り込むことができないモノ、上のコトバで言えば、真でも偽でもないモノ、虚であるモノ、であることを意味しているのではないか?

「離れて存するものであること(離存性)と《これ》を指し示しうるものであること(被指示性)とは最も主として実体(ウーシア)に属すると認められている」(『形而上学・上』岩波文庫版p.232)

「偽とか真とかいうは、たとえば善は真であるとか悪はただちに偽であるとかいうように、自体そのものののうちに存することではなくて、ただ思想(ディアノイア)のうちにあるにすぎない。のみならず単純な概念や事物のなにであるかを示す実体概念については、その真偽は思想のうちにさえ存しない」(『形而上学・上』p.224)

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虚数が出てきたもう一つの場面は、極座標的な世界にかかわる場面です。

    1. (1)「一人称的体験をしつつあるモノとしての《我》」は世界の中にある。《我》世界の中に、極座標の原点として存在する。すなわち、《我》世界の中のモノ《我》からの方向と距離とで見通す。
    2. (2)世界の中に在るモノ《我》との間には距離がある。その距離は実数のプラスの値をとる。
    3. (3)「一人称的体験をしつつあるモノとしての《我》」は《他者》の中にもある、と推定される。《他者》《我》を分析すると、《我》の背後には心理学的な無意識とか、脳科学的なニューロンの発火といった構造があり、《他者》《我》はそれの《背後者》によって駆動されているはずである。
    4. (4)私の《我》にも《背後者》があり、《我》《背後者》によって駆動されているはずである。
    5. (5)ところが、私の《背後者》は私の《我》によって知られつつある世界の中には存在しない。
    6. (6)《背後者》が存在する場所は、《我》の背後であり、それへの距離がマイナスであるような場所に位置していることになる。
    7. (7)マイナスの距離というのは、直感的には分かりやすいが数学的には曖昧である。数学的には、「距離の二乗がマイナスであるような距離」というべきだということになる。すなわち、虚数の距離の位置に、《我》《背後者》=心理学的な無意識とか、脳科学的なニューロンの発火=があると考えればよいことになる。
    8. (8)虚数の距離は、複素平面の考えを導入するなら、実数軸とは異なった軸=虚数軸を導入することになる。
    9. (9)虚数軸を想定すると、《我》からみて虚数軸の方向に《背後者》があり、実数軸の方向に世界がある、ということになる。《我》は極座標の原点にあることは変わりはないが、その「方向」の一つとして虚数軸への方向を追加した時空=複素数の時空=のなかに《我》があることになる。《我》複素数の時空の中に置かれた極座標の原点として存在する。
    10. (10)《他者》も同様に、複素数の時空の中に置かれた極座標の原点として存在する。私から《他者》《背後者》を見るということは、実数の方向にある《他者》の虚数方向にある《背後者》を見るということである。実数方向+虚数方向を複素数方向と呼ぶなら、私は、《他者》《背後者》=心理学的な無意識とか、脳科学的なニューロンの発火といった構造=を、私から見て複素数の方向の場所に見るということになる。《他者》が私の《背後者》を見る場合も同様である。

[qualia:7498] モノたちの向こう側の《背後者》

たけ(tk)です

[qualia:7492] 全てを目の前に出せるか? にて ジャック天野さん曰く:

> take_tk氏の虚数云々ですが・・・
> 「虚定の虚定→否定」とかいう喩えは
> 確かスペンサー・ブラウンも「形式の法則」
> という本のなかで述べてましたが・・・

まあ、誰か唱えているだろうなとは予想していました。単純な話ですから・・。

> 私の我に関しては、他者を観測するのと全く同様に
> 自己の肉体を観測できるので、その背後要因を調べる
> という方策は取れるでしょう。

同様ではないです。

  1. 《私》《私》《身体》を内部から知ることができるが、
  2. 《私》《他者》《身体》を内部から知ることが(通常は)できない。

《私》《私》《身体》を知る経路には3種類ある。

  1. (1)《私》《身体》《私》の近傍の物理空間の中のモノの一つとして知ること。
  2. (2)《私》体内感覚によって、《身体》の内部から知ること。
  3. (3)《私》《視点》の背後にあるはずの《身体》を推測すること。

です。

> ただし、問題は、クオリアの謎を解くための背後要因を
> 目の前に出せるのかということです。
> つまり、観測もまたクオリアあってのものであって
> 赤い色と脳のニューロンの状態の対応は分かるかもしれない
> けれどもそれらは、畢竟2つの「クオリア」の関係でしかなく
> クオリア抜きの裸の現象を知りえない以上、裸の現象と、
> クオリアとの関係は分かりえないのではないですか?
> (そもそも「裸の現象」というものを考えること自体
> 適当かどうかわかりませんが)

《私》の主観において「クオリア抜きの裸の現象」に接近する方法は、《私》が見ているモノたちのクオリア《私》の脳神経的回路によって作り出されているということを、《私》が見ているモノたちの向こう側に見る、ということだと思います。

ここでの「モノの向こう側」というのは物理的な4次元の時空の軸の方向ではない。モノクオリアはそのモノの背後からやってくる。そのモノを極座標の原点においた、そのモノマイナスの距離の方向からやってくる。そのモノの虚数軸方向からやってくる、ということを意味する。

《私》が主観的体験において知りつつあるモノたちの回りに虚数軸を配置して、その方向からのクオリア噴出を感じ、その虚数軸方向に《私》の脳神経回路を見るということ。モノたちの虚数軸方向の背後にあるのは《私》の脳神経回路であり、それは、《私》《視点》の背後にある脳神経回路と同様なものだろう。

結局、《私》《視点》も主観的体験におけるモノたちも、《私》の脳神経回路が《私》《視点》に提供する情報だということになる。これは、常識的な結論だろう。

もちろん、《私》の主観世界に現れるモノたちの虚数軸方向に《私》の脳神経回路を見る、というだけでは、「クオリア抜きの裸の現象」に半歩近づいたにすぎない。

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クオリア抜きの裸の現象」というのは、おそらくは、《私》《背後者》としての《身体》がその外部の世界から情報を取得している状態を言うのであろう。

モノたちの向こう側には《私》の脳神経回路があり、 《私》の脳神経回路の向うには《私》《身体》の感覚器官があり、 その向うには《私》《身体》の外部の世界があるはずである。

モノたちの向こう側に、そこまで見通すことが出来るかどうかは、やってみなければ分からない。

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ちょっと、話は変わるが、クオリアというのは感覚異常のような気もする。

《健常者》の普通の感覚では、質感と輪郭とは統合されており、さらに、そのモノの3次元的なイメージとか、そのモノの意味、名前、そのモノから生じる感情、衝動、そのモノに対する評価、使い方、そのモノから連想される思い出、までもが統合された状態で、そのモノを感覚するのではないだろうか? そのような一種の「ステレオタイプな認識」のほうが《健常者》の普通の感覚のような気がする。

* もし、《健常者》モノへの感覚がそのようなものであるとするなら、《健常者》それらの「モノの意味」を4次元的な時空とは別の座標軸において感じているのではないだろうか? 虚数軸とか《複素数の時空》とかいうのは、案外《健常者》の普通の感覚の世界かもしれない。

《健常者》の統合された感覚というのは、脳神経回路で分断されて処理された情報が、再統合されて《視点》に提供されている、ということを意味しているだろう。

逆に、クオリアを(輪郭や意味から切り離して)感じるというのは、脳神経回路で分断されて処理された情報が、再統合される直前の状態で《視点》に提供されている、ということではないだろうか?

とするなら、クオリアを分断された形で感じたり、《健常者》のように統合された感覚で感じたりすることを往復することによって、《私》は脳神経回路が作り出す情報の分断や統合を、《私》の主観的体験において感じることができる、ということを意味するのではないだろうか?

それを、モノたちの向こう側に感じるように思考実験をしてみる、というのも一興だろう。

Last modified:2006/04/05 20:35:00
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