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ゴミ箱2005-07

2005-07-31(日)

引きこもり《背後者回路》

  1. 警戒していて、《思いこみ》噴出しない、という《背後者回路》
  2. よい子は、《思いこみ》噴出しない。

人を変えようとすることの《背後者回路》

  1. なぜ、人は人を変えようとするのか?
  2. そうだよね、たけ(tk)は、人に影響力を与えない、と決意したのだ。
  3. それでなぜ、T君を変えることができようか。
  4. 《思いこみ》の内部循環はあるはずだ。話しはじめれば、いろいろなことを知っている。
  5. 人の心は分からない、《思いこみ》噴出があって初めて、推測ができるモノ《思いこみ》噴出をシャットダウンしている人の心は、はかりようがない。
  6. 疲れた。というより、頭にきた。と、率直に言おう。
  7. 母親が、子供を使って、父親に復讐してるんじゃないか? それは、あって当然だと思う、が、本人が自覚することはありえないよね。無意識レベルの構造はよくわかるのだが、その無意識レベルの構造を、《他者》の無意識レベルの《背後者回路》を変えよとしても無理な話だ。なすべきでないことをしようとした、不可能なことをしようとした、という感じ。カウンセラじゃない、ってぇの。カウンセラってすごいね。忍耐力がすごいね。職業だからやってられるんだよね。ボランティアじゃ駄目だよね。善意じゃ駄目なんだ。感情移入しては駄目なんだ。感情移入をしてしまうと、引き込まれてしまうのだ。親たちや、本人が精神分析を修慧(体得)しなければならない。《他者》に何かを修慧させる、なんてのは不可能な話だ。たけ(tk)は、自分の能力を越えたことをやろうとした。
  8. そもそも、引きこもりが悪いのか?
  9. どうしてそうなったのかは、おおよそ見当がつく。環境に適応しているのだ。原因は分かるが、対策が分からない。対策も分かるが、対策を実行する方法が分からない。彼の『環境』を変える方法が分からない。人を動かす、という、こと、が分からない。

《知りつつあるモノ》共振

  1. 対話関係においては《知りつつあるモノ》自体が共振関係に入る。

http://pooneil.sakura.ne.jp/archives/cat2/ 「2004年07月30日

    1. ■[伝染するあくび | 脳科学メモ] 伝染するあくび("contagious yawning") つづき。 Edit Entry
    2. 7/27のCorreggioさんへの返答から膨らませてみました。
    3. Cognitive Brain Research '03 "Contagious yawning: the role of self-awareness and mental state attribution."についてまとめます。
    4. 被験者にヴィデオであくびをしている人の映像を見てもらって、あくびをするかどうか数えます。この数(=あくびが伝染しやすいかどうか)とさまざまな心理テストとの相関を調べてやるわけです。
    5. まず、自己意識の障害についてのテストであるSPQテストのスコア(自己意識に障害があるとこのスコアが上がります)と伝染したあくびの数は反比例します。つまり、自己意識をしっかり持っている人ほどあくびが伝染しやすいのです。
    6. また、自分の顔を見つけ出すテストでも、このスコアが高い(自己意識を持っている)人ほどあくびが伝染しやすい。」
  1. ミラーニューロンだろうからな・・。たけ(tk)なんか、この文を読んだだけであくびが出てしまうがな・・。

ヒトは、共同幻想なしに生きることはできるのか?

  1. ブッダは共同幻想なしに生きたようだ。
  2. ブッダは、『ヒトではない』のだ(「ヒト」の定義しだい)。
  3. ブッダヒトである、という「ヒト」の定義を使うべきだろう。
  4. 共同幻想に生きる人々の《ヒトの群れ》なしに生きることはできないと思う。
  5. 《ヒトの群れ》から隔絶して、野獣のように生きた聖者もいたようだが、これは無視すべき。
  6. すべてのヒトが共同幻想なしで生きているような人々の群れで、人々は生きることができるか?
  7. 幻想としてではなく、約束ごととして正しく認識したとしても機能するはず。
  8. 共同幻想と共同幻想であると認識していればよいのだから、「共同幻想なし」というわけではない。『私の名前は、たけ(tk)である』というのも共同幻想だから、そういう認識なしに《ヒトの群れ》で生きることはできない。コトバの規則も共同幻想だからね。
  9. 「共同幻想なし」の意味には、「群れ共通に通じる《思いこみ》をもたずに」という意味と、「群れ共通に通じる《思いこみ》が幻想であると知ったうえで」という意味の二つの意味がある。
  10. 共同幻想が共同幻想であると知ること自体は、難しいことではないだろう。

《混濁》と『死せる私の世界

  1. 情念の共同体。
  2. 《他者と共振しつつある知りつつあるモノ》。
  3. 世界共振しつつある知りつつあるモノ
  4. 思春期の幻、『愛』の幻。『愛』の共同幻想。
  5. 人々は、そういえば、共同幻想に生きているんだっけね。
  6. ヒトは、共同幻想なしに生きることはできるのか?
  7. ブッダは、『ヒトではない』のだ。
  8. 人々に、共同幻想なしに生きることを勧めるべきなのか?
  9. ブッダは、何故に、人々に、共同幻想なしに生きることを勧めたのか?
  10. ブッダは、何故に、人々に、できもしないことを勧めたのか?
  11. ふむ・・、「できるヒトもいる」「できないヒトもいる」だね。
  12. では、「共同幻想なしに生きることができるヒト」とは? 『私の死』を乗り越えたヒトだろう。
  13. 「共同幻想なしに生きることができるヒト」に、勧めるべきなのか? 『私の死』を乗り越えたヒトにはもはや共同幻想の世界は戻らない。とすれば、共同幻想なしに生きることを勧めるべきである。
  14. 『愛』とは《知りつつあるモノ》共振である。
  15. 《知りつつあるモノ》共振、と、《知りつつあるモノ》の撹乱とは? 《他者》の出現によって、なぜ、《知りつつあるモノ》共振でなく、撹乱されてしまうのか? 自己言及(自己拒絶)の不協和音が混じってしまうから、共振できなくなっているのだ。
  16. 0次自己言及の段階か1次自己言及の段階であれば、《他者》の出現によって《知りつつあるモノ》共振するはずである。さすれば、《他者》の出現によって「撹乱される」というのは特殊な状態なのではないか? しかり、《混濁》は∞次自己言及の先のカオス自己言及なのであるから、特殊な状態なのだ。
  17. 《混濁》は「∞次自己言及の先のカオス自己言及」か?

《混濁》と森田童子

  1. 《他者》《他者のコトバ》《知りつつあるモノ》共振させる《他者のコトバ》
  2. 《このヒト》の過去、記憶
  3. 必然としての自殺。世界の必然としての自殺。死せるモノの意味。《このヒト》の意味。『《このヒト》の過去』の意味。
  4. 『死せるモノ』の意味。『死せるモノ』へのまつり。
  5. 『私』という名の『死せるモノ』へまつれ。
  6. 世界の必然として死にたるモノ』としての『私』をまつれ。『死にたる私』をまつれ。『死にたる私』に念仏せよ。『世界の必然として死にたる私』に念仏せよ。『死にたる私の世界』のために念仏せよ。
  7. 『死にたる私』が世界を引受けてくれていたのだ。《私》世界『私』の死とともに『死せる世界』として、《私》の現前からは消えていた。遠くの存在であり、《私》世界との間には『死せる私』が防波堤のように《私》を守っていた。《私》は『死せる私』によって世界から守られていた。
  8. 『私の死』を呼び覚ませ。それが《私》の原点だ。
  9. 「いま聖母マリアが浮上する」なんぞと歌っておるぞ。《私》には聖母マリアはいない。彼女には聖母マリアが浮上した。《私》には暗黒の《混濁》がふさわしい。《私》には「いま暗黒の《混濁》が浮上する」のだ。
  10. 「僕たちは不幸な時代に生まれた」。そうだね、僕と君とは同じ時代に生まれたようだ。
  11. 《混濁》−『私の死』−森田童子。『私の死』のために歌い続けてくれた森田童子、ありがとう。君はやさしい娘だ。
  12. 最初から『私の死』への訣別の歌だったんだね。それでよいよ。

ブッダは何故に《ヒトの群れ》に戻ったのか

  1. 彼は《ヒトの群れ》に戻ったのではない。
  2. 彼は、己を見通し、己の中に、己としての《他者》を見つけたのだ。
  3. 己は、《他者》の群れの中にある。
  4. 彼は、スジャータがいなければ、己の肉体の死と共に終わっていた。
  5. 己の無明は、《他者》との共振の中で生まれる。
  6. 己の無明を見通すためには《他者》との関係を見通す必要があり、《他者》そのものを見通す必要がある。
  7. 彼は、己の無明の原因としての《他者》を見通すために、《ヒトの群れ》に戻ったのである。
  8. 彼は、それゆえ、《ヒトの群れ》において『他者』としての《他者》と語っていたのではない。『己の無明の原因』としての《他者》を見通す作業を行ったのである。

「目の前で、真理とか真実とかいう名前の美女がレイプされてるのを見てなきゃならなくてさ、それに加担してる連中がご褒美をもらってるっていう状況」(http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi?mode=all&loadno=5297&resp=1&page=

  1. いかんともしがたい。
  2. それが《我》状況である。
  3. 《我》がその状況動くことが、生きることである。
  4. いかんともしがたい状況の中で、まずは、息をすることだけは確保しよう。

パチンコでの惨敗の《背後者回路》

  1. 反省的であることは、実践的であることを躊躇させる。
  2. 多角的に配慮することは、実践的な決定の単一性に矛盾する。
  3. ヒトは、同時に、実践的であり、かつ、反省的であることはできない。時間を分けて、たとえば、昼は実践的に決定し、夜は反省的に多角的に考えるということは可能。

http://pooneil.sakura.ne.jp/archives/cat2/

    1. 河本氏の「言ってみれば
    2. 表象は、観察された思考である。」(「第三世代システム オートポイエーシス」青土社275ページ)と言うときに使う「表象」という言葉は、Mさんご指摘のとおり、
    3. [心的システムの作動の高次化によって作り出された観察者]からの視点で構成された「見かけ上の区別」について指している言ってよいと思います。・・一方、ヴァレラらが表象主義を問題としているのは、認知科学における表象主義がそういう
    4. 表象が構成される」という視点を持っていない点です。ヴァレラらは「表象」自体を否定してはいません(弱い意味での表象、後述)。「知恵の樹」(ちくま学芸文庫186-7,198-9ページ)で言うように、認知科学における表象主義では、
    5. [神経システムが外界からの入力を変換してシステム内に表象を作る]というアプローチを取るが、ヴァレラらのオートポイエーシス的観点からすれば、
    6. [表象とは、入力が引き起こす結果ではない。神経システムは、システムの作動への擾乱を特定することによってひとつの世界(=表象)を生起させている]ということになります。河本氏とそんなに違ったことを言っているわけではないと思います。また、ヴァレラらは「知恵の樹」では言葉を尽くしていないので、";The Embodied Mind" The MIT Press, by Varela, Thompson and Roschを読むと、「表象」の何を問題としているかがもっとはっきり書かれています。・・「表象」には二つの意味がある。
    7. 弱い意味での「表象」とは、語義の通り、[何かほかのことについて指していること]を指す。たとえば、地図はある場所について指している。[地図がある場所のある特徴について表象している]と言うときの「表象」という言葉には何の問題もない。[認知作用が世界をある種の形で解釈し、表象している]と言うことには何の問題もない。一方、
    8. 強い意味での「表象」という言葉は、[認知作用とは、認知システムが内部表象を元に働くことである]という認知主義的言説で使われる。これは存在論的、認識論的仮定を置いている点で問題がある。つまり、外部世界はわれわれの認知とは独立して存在していて、そして[外部世界からの入力によって認知システムに形成された内部表象]をわれわれは操作している、と仮定している。外部世界の実在論は精神と認知の説明を二元論的にする意味で問題がある。(134-7ページ要約)・・心の哲学的言い方でいえばこれは
    9. 表象の「志向性」としての働きには異論がなくて、
    10. 表象の「外在主義」に問題がある、ということなのでしょう。(「外在主義」の言葉遣いには自信なし)・・まとめますと、河本氏もヴァレラらも
    11. 表象」を(認知)システムによって構成されるものとして捉えている。ヴァレラらが問題としているのは、
    12. [表象主義が、あらかじめ与えられている外部世界からの入力を処理してできた出力として「表象」を捉えていること]ではないかと思ってます。
    13. 「ジョン・サールは「哲学は科学には必ず負ける。なぜなら哲学で扱っていたものが体系的に扱えるようになったときそれは科学と言われるようになるからだ」と言いました」。
    14. 「歴史からすれば、メカニズムより先に薬が見つかるのなんてのはあたりまえだ」
  1. 表象」というコトバを使うためには、そのコトバの意味を定義しておかなければ、対話には使えない。その定義が人によって異なる、統一されていない。
  2. コトバの定義のために労力を使いたくない。「彼の定義」は「彼の体系」全体を構成する・記述するためのものだから、「彼の定義」と「私の定義」とを擦り合わせるのは困難が伴う。とりあえずは、「私の定義」で突っ走るべきである。
  3. 「「表象」とは、語義の通り、[何かほかのことについて指していること]を指す。」??「表象」の語義は「指し示し」なの??「指し示しつつあるモノ」は《思いこみ》だね。表象《思いこみ》以前に《知りつつあるモノ》の現前に現れてくるモノだと思うのだが・・。表象を捉えなおしたモノ《思いこみ》。・・これだと「現象」になっちゃうのかな?
  4. 「[認知作用が世界をある種の形で解釈し、表象している]」という時の「解釈」というのは無意識レベルでの解釈、表象に現れる前の解釈、表象《背後者回路》での解釈。
  5. 「[認知作用とは、認知システムが内部表象を元に働くことである]」というときの認知作用というのは、半意識的な作用だろう、意識的にコントロールすることが不可能背はないような認識作用。それとも、「内部表象」と言っているのだから、意識化される前の潜在的な表象というのを想定しているのか?
  6. 「外部世界の実在論は精神と認知の説明を二元論的にする意味で問題がある」??多元的なのではないのか?
  7. 《他者》の認識作用をどのようなモノとして理解するか? 《私》の認識作用と同質なモノとして理解するか、《私》世界モノの作用として理解するか。「科学者」が0次自己言及世界に住んでいるかぎりは、彼らは2元論を拒否しつづける。 アニミズム的なモノの認識は、モノの中に《私》の認識作用と同じ性質の認識作用を認める。《私》モノであり認識者である。したがって、他のモノも、モノであると同時に認識者である。アニミズム的理解は二元論ではなく、モノアニマの一元論なのだ。

Tの《背後者回路》

  1. 引きこもりが許される状況。関係的《背後者回路》。《関係的背後者回路》。《外部関係的背後者回路》、《関係回路》、《外部関係回路》。
  2. 仏にあったら仏を殺せ。T君に会ったらT君を殺せ。T君の《背後者回路》を見通せ。

そうだ、「試されている」と感じたんだ。

  1. 君は、孤高の精神から人々を試している。
  2. たけ(tk)もそうだ、だから、たけ(tk)は「君に試されている」ということを感じた。
  3. たけ(tk)は「ヒトに試されている」という経験をはじめてした。わけでもないか。しかし、たけ(tk)は今までは「バカな奴が俺を試そうとしている」と思い返していたわけだ。だから、君に対しても「バカな奴が俺を試そうとしている」と思い返してしまった。それじゃいけなかったんだよね。
  4. 王蟲にたいして心をひらいたナウシカのように君に接しなければならなかったんだよね。でも、たけ(tk)は、修行がたりなかったな。
  5. たけ(tk)は君のテストに不合格だった。
  6. たけ(tk)は、君と同じように、テストされることが嫌いだったのだよ。似た者同士だからね。なかなか、うまくはいかぬ。
  7. 「お父さん許してやるよ」(http://www.hidamari.ne.jp/profile.htm
  8. そういえば、たけ(tk)も、まだ、オヤジを許していないな。
  9. 「許す」「許さない」というのは、憎み、拒否するということ。
  10. オヤジを許さない、ということは、オヤジを拒否するということだが、それは《他者》を拒否するということであり、また、《己》を憎み、拒否することでもある。
  11. 拒否しないということは、今ここの《知りつつあるモノ》において、そのモノとの共感関係に入る、ということだろう。《知りつつあるモノ》とそのモノとの共感関係に入ることを拒否する、ということだ。
  12. 《知りつつあるモノ》が他の《知りつつあるモノ》共振関係に入ること。それは、情念の共同体だ。

ヒトの群れの背後者回路》と人事権

  1. 《ヒトの群れ》は人事権の所在の《思いこみ》を反映して動く
  2. 《ヒトの群れ》《思いこみ》は群れの人事権者の《思いこみ》を反映する。

http://www5c.biglobe.ne.jp/~jesazuma/diary74.htm

    1. 「教科によっては学級崩壊になっていて,全く授業にならないクラスがあるという話も生徒から聞いている。そういう状況があっても教員全体で対処しようとはしていないようである。授業にならなくても生徒から苦情がでないのは,皆塾に通っていて,その授業が成立しようとしまいと,関係なくテストでいい成績をとれるからだそうだ。今の中学は英語や数学は学力別にクラス分けをしていて,その中の出来るクラスの話らしい。確かに中学で上の方にいる生徒たちだったら,中学の授業を受けなくとも,塾の授業だけでいい点をテストで取れるだろう。
    2. 授業が成立しないというと学力が低い生徒のクラスだと想像しがちだが,出来る生徒の集まっているクラスでもそういうことがあるということが事態の深刻さをうかがわせる。生徒が教員を尊敬せず,権威を認めなくなっている現状では,強面の教員の前では生徒はおとなしくしているが,女性の教員などおとなしい教員の前では傍若無人に振る舞う生徒が成績に関係なく存在する。生徒から聞いた話と,この本で描写されている話と合致する。」
  1. 塾が学校を破壊する。
  2. 塾が日本人の学問的知識欲を破壊する。
  3. 文部官僚も、日本人の学問的知識欲は望んでいないのだろう。学問というのは批判的精神だからね。しかし、愚民化教育政策というのは、愚かだ、あまりに、愚かだ。
  4. 知事が任命する教育委員には、教育学者や教育者はどれくらいの割合で入っているのだろうか? その事務方にはどれくらいの割合で入っているのだろうか?
  5. そもそも、公選でない教育委員なんで有害無益だ。行政の責任逃れの煙幕の役割しか果たさない。無責任行政のシステム化だ。
  6. 「浮きこぼれ・・"浮きこぼれ"は、あまりにも現行の学習内容がつまらない、おもしろくない(理解は一二分すぎるほどわけだが)浮きまくって、教室内で疎外感を覚える子どもたちのことと言っていいだろうか。」(藤恭介、『論評』no58、日本経済評論社)。論者は「浮きこぼれ」を被害者としているが、たけ(tk)は、「塾によって作られた、教室内での加害者」だと思う。

問題は、「賢者」をあざ笑う子供の群れにあるのかもしれない。

  1. 日本の学校が、鶏舎型の《ヒトの群れ》になっている。
  2. 知の肥育工場に成っている。
  3. 識欲不振に成る子供、知の飽食状態、知の消化不良の子供たち、知を食べ過ぎて嫌いになった子供たち。フォアグラ状態になった子供たちの知性。知に対して質素であることを重んじる子供たち。
  4. 知を食べさせるだけで、消化することを教えない学校。知への食欲を低下させるだけの学校。
  5. 競争のための知を軽蔑する子供たち。健全じゃ。
  6. しかし、競争のための知を軽蔑する子供たちが、本当に賢い子供たちを引きこもりに追い込む。

http://pooneil.sakura.ne.jp/archives/cat2/

  1. ■[脳科学メモ] Gregory Batesonの「精神と自然」まとめ Edit Entry
  2. Chap.2 学校の生徒だったらみんな知ってる..認識論についてのベイトソン流「基礎の基礎」。
    1. 1.科学は何も証明しない。科学は過程を向上させたり反証を加えることはできるが、それ自身の正しさを証明することは出来ない。これはポパーの考え方と同じ。オッカムの剃刀でより単純な答えを正しいと思っているだけ。原文ではこういってる。"Science probes; it does not prove."
    2. 2.地図は土地は別物。名前と名付けられたものは別物。..記号論。シニファンとシニフィエ。
    3. 3.客観的経験というものはない。..経験とは全て主観的なものである。足を踏まれたときに経験するのは「足を踏まれたこと」そのものではなくて「神経報告を元に再構成された足を踏まれたことに対する私の印象」である。
    4. 4.イメージの形成は無意識過程である。..我々は知覚の過程に入り込んでいくことは出来ない。我々が意識するのは知覚の産物だけである。錯覚の実験でわかるように、遠くにあるものは小さく、近くにあるものは大きく見える、という法則が意識しないところに組み込まれている。
    5. 5.知覚された世界が部分に分かれるのは必然かもしれないが、その分かれ方は必然ではない。..ある多角形を記述する方法は複数ある。この「記述」は必然的に恣意性を持つ。このような「記述」を元に「説明」がなされる。
    6. 6.[発散する連鎖]を予測することはできない。..全体の振る舞いを知ることは出来ても、個に関する言明は出来ない。カオスの発想。
    7. 7.[収束する連鎖]を予想することはできる。..発散と収束は異なる論理タイプに属する。発散は個を扱い、収束は集団を扱う。確率法則とは、(大数の法則による収束の原理を使って)個と集団という異なる論理タイプに属するものを結びつけるものである。論理タイプ:ラッセルの考え。命題の論理タイプを考えることで自己言及によるパラドックスを回避しようとした。
    8. 8.無からは何も生まれない。
      1. a. エネルギー保存の法則。
      2. b. パストゥール:生命なしに生命を生み出すことは出来ない。
      3. 秩序、パターンは情報なしには作り出せない。
    9. 9.数と量とは別物である。..数はパターンとゲシュタルトとデジタル計算の世界に属し、量はアナログ計算、確率計算の世界に属する。
    10. 10.量によってはパターンは決まらない。..量とパターンは別の論理タイプに属する。
    11. 11.生物学に単調な価値はない。..どんな薬にだって致死量はある。
    12. 12.小さいことはいいことだ、ということもある。..四倍体の馬の話。サイズには関連する他の変数によって決まる最適値がある。ゾウの時間、アリの時間、だっけ?
    13. 13.論理は[因果のモデル]としては不十分だ。..サーモスタット、ブザーの話。論理には時間が含まれていないのに、因果には時間が含まれている。
    14. 14.因果の方向が逆転することはない。..そのため、目的論的過ちを犯す。しかし、原因と結果が循環的であるとき、どちらも互いの原因になっているということができる。卵が先か鶏が先か。
    15. 15.言葉は通常、相互作用の片面だけを強調する。..主語Aが述語Bという性質を持っている、という表現はAがその内的、外的及び観察者との関係によって規定されていることを無視しやすくする。
    16. 16.[安定している][変化している]という言葉は記述のうちの一部分のみを表している。..生きているシステムにおいて、安定している、とは何か他のものが変化しているからであり、この言葉が属する論理タイプを明確にする必要がある。
  3. Chap.3 世界の重なりを見る ..複数の情報が組み合わされるとより多くの理解が得られる。
    1. 1.例:差異..差異の知らせ(=情報)は、二つ以上のものの相互作用に差異が内在するときに、その二つ以上のものによって作り出される。
    2. 2.例:両眼視..片目ずつの情報の重ねあわせによって奥行きという情報が生まれる。つまり、片目からの情報とは別の論理タイプに属する情報が生まれ、視覚に新しい次元が加わる。
    3. 3.例:冥王星の発見..ゆっくりとした動きを見付けるためには、時間上の異なった瞬間の観察を比べる、という作業が必要になる。冥王星の小さなジャンプは恒星の経時的な位置を基準にすることで発見された。
    4. 4.例:シナプス加重..ニューロンAとニューロンBとが同時に発火するときのみ、両者の下流にあるニューロンCが発火する。つまり、加重という言葉は適当でなく、むしろ論理積ANDを行っている。
    5. 5.例:「マクベス」の幻の剣..マクベスは剣が幻であることを触覚では血は付いていなかったのに視覚では血が見えることから見やぶった。二つの感覚を比較することでメタ情報を得ている。
    6. 6.例:同義表現..(a+b)2=a2+2ab+b2は幾何学的に、一辺がa+bの正方形の面積を考えるとよくわかる。しかしここでは新しいことが付け加えられているわけではない。しかしここで生徒は代数と幾何とが翻訳可能であることを発見している。
    7. 7.例:二つの性..生殖は単一の性で行われる場合と比べて、二つの性の分裂と融合による方法は個体の偏差を抑えつつ、遺伝子の組み合わせを変化させることを保証している。
    8. 8.例:うなりとモワレ..二つのリズムパターンが重ね合わされるとその差が第三のパターンを生み出す。二つの音を重ねると、二つの周波数の差がうなりとして聞こえる。二つの縞パターンを重ねると、二つの空間周波数の差がモワレとなる。
    9. 9.例:「記述」「トートロジー」「説明」..説明は記述以上の情報を与えることはないはずなのに、それ以上のボーナスがある。「説明」は「トートロジー」の上に「記述」をマップすることであり、「記述」と「トートロジー」との重ねあわせによって「説明」はより豊かになっている。
  4. Chap.4 「精神過程」であることの条件 ..精神の過程mental processが他の物質的出来事とどう違うかを論ずる。
    1. 1.「精神」とは部分が相互作用してできる集合体である。..この書は全体論的であるが、まともな全体論はみな、部分の相互作用を基盤とする。
    2. 2.「精神」の各部分での相互作用は差異によってトリガーされる。..相互作用はエネルギーの受け渡しではない。
    3. 3.「精神過程」は付帯的なエネルギーを必要とする。..2.からエネルギーが必要であるといっているのではない。それぞれの部分がそれぞれの部分でエネルギーを必要としており、準備してある。
    4. 4.「精神過程」では決定要因が循環的に連鎖している。..フィードバックによって互いの決定関係の記述が一周すると、論理タイプが変化している。
    5. 5.「精神過程」では、「差異の効果」とは「それに先立つ差異をコード化したもの」のことである。..コード化のうち、「部分が全体の代わりコーディング」では部分を知覚してそこから全体を推測する。我々の生活での知覚がそうだ。
    6. 6.これらの情報の変換プロセスを記述し分類するとしたら、その現象の論理タイプの階層構造を明らかにすることになる。..論理タイプを移り渡れるかどうか。パブロフの犬、イルカの例、ダブルバインドの理論。
  5. Chap.5 関係の重なりを見る ..Chap.2に続いてこんどはそのメタの部分同士の重ね合わせを考える。佐藤訳ではそこは訳出できてない。ちなみにchap.2の原題はmultiple versions of the world、chap.5の原題はmultiple version of relationship。つまり、chap.7で出てくるprocessとformという形式をchap.3-6で模している。
    1. 1.「汝自身を知れ」..「汝自身を知れ」という言葉に従うことで新しい情報が加わる。また、自分の状態を知っていない方が問題解決がうまくいくこともある。「遊び」という例ではシステムAとBが内部の情報のみから学習をしている。
    2. 2.トーテミズム..「人間社会のシステム」と「自然をも含んだ生態システム」との重ね合わせで捉えること、これがトーテミズム。
    3. 3.アブダクション..例:カエルの体構造と他の動物の構造との同型性に気づく。これは複数の出来事の多重な記述をしていることになる。
  6. Chap.6 大いなる「確率的過程」 ..「進化」と「学習」は本質的におなじ「確率的過程」であり、両者の違いはその過程の基盤が属する論理タイプの違いに過ぎない。
    1. 1.ラマルク説の誤り..ラマルク説の誤りとは、「獲得形質の遺伝」で受け渡される遺伝情報についての論理タイプの誤りである。
    2. 2.用・不用..用・不用の問題では、体細胞変化と遺伝的変化という別の論理タイプを渡っている。そのためには体細胞変化と遺伝的変化とはそれぞれがお互いの柔軟性が保てるように拘束しあっていることを考慮すべきである。
    3. 3.遺伝的同化..Conrad Waddingtonの実験。個体の体細胞変化と周りの生態系との共進化を考える。ここで、個体、個体群、共進化、という違った論理タイプが現れることになる。
    4. 4.遺伝的変化による体細胞変化のコントロール..体細胞変化の制御は「変化の能力」「変化の能力を変化させる能力」とメタ化することができる。(神経の場合、神経間の伝達を変える「神経の可塑性」に対して、「神経の可塑性」を変える「メタ可塑性」というのがある。)しかしこのメタ化は数段で遺伝子レベルに達する。そういう位置に遺伝子変化はある。
    5. 5.無からは何も生まれない―発生ヴァージョン..カエルの受精卵での極性の発生は精子の突入による。非対称であるということは対称であることよりも多くの情報を必要とする。「ベイトソンの法則再考」。
    6. 6.相同..トムソンのカニの形の例。動物の相同には違った種類のものがある。また、系統発生的相同はその中でより安定な擬似トポロジカルパターンによるものである。
    7. 7.適応と耽溺..「耽溺」とは破滅的結果をもたらす「適応」のことである。例として、短期的に見て好ましいことが、長期的には破滅的である例。これは論理タイプ間での価値の違いによる誤算が関係している。
    8. 8.「確率的過程」「発散的過程」「収束的過程」..遺伝的変化の発散的、確率的過程は発生の収束的システムによってバランスをとっている。
    9. 9.二つの「確率的過程」を比較し、組み合わせる
      1. 1)遺伝子変化にランダムな要素があり、それが生物の内的ストレスによって選択されてゆく。
      2. 2)表現型と環境との関係に予測不能性=ランダムな要素があり、これは適応によって選択されてゆく。無からは何も生まれない。
      3. この二つを組み合わせてわかることは、1)の遺伝子変化が抽象的、質的量的どちらでもありうるのに対して、2)の体細胞変化は直接的で全て量的である。またこの二つの「確率的過程」と「精神過程」を比較すると、「精神過程」も二つの「確率的過程」によっていることがわかる。1)「創造的思考」はランダムな要素をもっている。これは論理的一貫性のフィルターによって選択される。2)環境との関係のランダムな要素があり、これは学習などによって適応的に選択されてゆく。
      4. さらにこの二つの「確率的システム」は「分類」と「過程」という形で組み合わされる。これはchap.7にて。
  7. Chap.7 「分類」から「過程」へ ..記号化する、とは「名づけられるもの」から「ものの名前」へと論理タイプをジャンプするものだ。形態と過程の関係はトートロジーと記述の関係に一致する。
    1. 「ナヴェン」の例..バリ島民の行動の記述(過程)は男女気質の類型化(形態、分類)にまとめられ、これは類型間の相互作用(過程)にまとめられる。このジグザグによって論理タイプを登っていくことになる。
    2. エアコンの調節の例..調節される気温(量的変化)、エアコンの設定温度(閾値)、人が寒い/暑いと感じる(量的変化)と論理タイプを登る。
    3. 賢者は輪郭を見る..こうして過程のみを重視するものと分類のみを重視するものとは時間を捉えなおすことによって統一的に解決される。時間が関わるとき、不連続性が現れる。感覚と組織とコミュニケーションの世界はこのような不連続=閾値の存在なしには考えられない。
  8. Chap.8 それでいったいなんなの?
    1. 野暮な物質主義を逃れる道は美だ。そして美と意識と神聖さの領域、これらを考える前の問題として、精神、トートロジー、差異、の問題を論じたのがこの本だ。
  9. 「無からは何も生まれない。」真空というのは何なんだろうか? なぜ、真空が光を伝えるのか? 真空中を粒子が飛ぶ、のか、真空中の波なのか? 「無」というのは人間的な認識、説明方法なのではないだろうか?
  10. 「量はアナログ計算」というのは「数と量」ではなく「整数と実数」の違いのように見える。「整数」は「質」や「パターン」との対応関係がある。
  11. 「小さいことはいいことだ、ということもある。」ということは、西洋人にとっては「大きいことはいいことだ」という一般的な認識があるということか?
  12. 「論理には時間が含まれていない」ホントなのかな? 時間を含んだ論理というのは? 時間を含むということは視点を変えることに繋がらないか? 時間を含んだ座標系は論理ではない?
  13. 「両眼視..片目からの情報とは別の論理タイプに属する情報が生まれ、視覚に新しい次元が加わる。」片目の馬でも歩けるのではないか? いな、馬は両眼視ができないのに走ることができる。
  14. 「ここで生徒は代数と幾何とが翻訳可能であることを発見している。」日本の学校教育で「代数と幾何との翻訳可能性」に気づかせることに成功しているのか?
  15. 「説明は記述以上の情報を与えることはないはずなのに、それ以上のボーナスがある。「説明」は「トートロジー」の上に「記述」をマップすることであり、「記述」と「トートロジー」との重ねあわせによって「説明」はより豊かになっている。」。コトバの意味の連鎖は、新しいコトバの意味を指し示すことができる、ということであって、「トートロジー」は無関係では?
  16. 「「精神」とは部分が相互作用してできる集合体である」。《混濁》はどうなのかな?
  17. 「「精神」の各部分での相互作用は差異によってトリガーされる」。??
  18. 「「精神過程」は付帯的なエネルギーを必要とする」これはそのとおり。《知った思いこみ》が生じるのも《求める思いこみ》噴出である。
  19. 「「精神過程」では決定要因が循環的に連鎖している」。《思いこみ》循環
  20. 「「精神過程」では、「差異の効果」とは「それに先立つ差異をコード化したもの」のことである」??
  21. 「これらの情報の変換プロセスを記述し分類するとしたら、その現象の論理タイプの階層構造を明らかにすることになる」。《背後者回路》??
  22. 「自分の状態を知っていない方が問題解決がうまくいくこともある」たはは、昨日の奴ね。パチンコの例。
  23. 「「人間社会のシステム」と「自然をも含んだ生態システム」との重ね合わせで捉えること、これがトーテミズム」。日本的アニミズムも「人間社会のシステム」と「自然をも含んだ生態システム」との重ね合わせ
  24. 「カエルの体構造と他の動物の構造との同型性」。これを拒否するヒトが多い。「別の話」という言い方をする。
  25. 「遺伝的同化..Conrad Waddingtonの実験。個体の体細胞変化と周りの生態系との共進化を考える。ここで、個体、個体群、共進化、という違った論理タイプが現れることになる」多重包含システムでの変化。
  26. 「変化の制御は「変化の能力」「変化の能力を変化させる能力」とメタ化することができる」。「変化の制御」一般にね。
  27. 「「耽溺」とは破滅的結果をもたらす「適応」のことである・・短期的に見て好ましいことが、長期的には破滅的である例。これは論理タイプ間での価値の違いによる誤算が関係している。」。引きこもりも? 主観レベルと客観レベル、短期レベルと長期レベル。
  28. 「「確率的過程」「発散的過程」「収束的過程」..遺伝的変化の発散的、確率的過程は発生の収束的システムによってバランスをとっている」。確率、発散、収束の3要素で分析する方法。

2005-07-30(土)

たけ(tk)の本音を言おう。

  1. たけ(tk)は『引きこもりが許される環境』にある君がうらやましい。
  2. 君と話していると、君に引き込まれてしまう。たけ(tk)も君と同じように引きこもりたいと思ってしまう。その衝動が押さえられなくなってしまう。だから、たけ(tk)は君と話していると、自分の中の葛藤に負けて、たけ(tk)コトバを失ってしまうのだ。
  3. いま、もう少し客観的に考えてみることにする。
  4. ヒトの環境には『引きこもりが許される環境』と『引きこもりが許されない環境』とがある。これは『《ヒトの群れ》に参加する必要がない環境』と『《ヒトの群れ》に参加する必要がある環境』と言い換えることができる。
  5. 引きこもりが許される環境』というのは、引きこもっていても生きていける環境だ。無条件の愛情が注がれている環境であるか、一生生きていけるだけの金(遺産)がある場合だろう。
  6. 引きこもりが許されない環境』というのは、要するに貧乏人の環境だ。
  7. 君を見ていると、気品があり、聡明で、節操がある。まるで、高貴な貴族の子息を見ているようだ。君は『引きこもりが許される環境』に生きている高貴な青年だ。
  8. しかし、『引きこもりが許される環境』とはべつに『《ヒトの群れ》に参加する必要がある、にもかかわらず、《ヒトの群れ》に参加することができない環境』というのがある。君はどちらの環境に生きているのだろうか?
  9. たけ(tk)には、君が本当に『引きこもりが許される環境』に生きているのか、それとも、『《ヒトの群れ》に参加する必要がある、にもかかわらず、《ヒトの群れ》に参加することができない環境』に生きているのかは、本当のことは分からない。
  10. 君は聡明だから、今は『引きこもりが許される環境』だが、いずれ『引きこもりが許されない環境』になることも予想して何らかの準備をしているのかもしれない。それなら、その方針で頑張って欲しい。もっとも、そうであるなら、《ヒトの群れ》に参加する修行を、今のうちから試しておくのがよいんじゃないだろうか?
  11. もしくは、一生『引きこもりが許される環境』であることを予感しているのかもしれない。実際に、そうであるのかもしれない。実際にそうであるなら、あえて「《ヒトの群れ》に参加せよ」必要はないのかもしれない。「うらやましい」と言えばよいだけかもしれない。
  12. たけ(tk)の大学友人のひとりは、会社に勤めて何年かしたら、会社を辞めたと連絡してきた。会ったら「会社に勤めている必要がないことが分かったので、引きこもる」と宣言して、本当に引きこもってしまった。(実際には、その後どうなったのか知らない、というだけの話だが・・)。
  13. しかし、『一生引きこもりが許される環境』というのは『帝王』の環境だね。『帝王』というのは『暴君』になりがちだ。だから、『暴君』にだけは成らないように注意してくれ、とだけ言っておこう。
  14. たけ(tk)には、君の本当の環境が分からないのだ。
  15. うちのカーちゃんは「『一生引きこもりが許される環境』などあり得ない」と言っている。君の環境(つまり母親も父親も)そう言っている。でも、本当に「あり得ない」と断言できるんだろうか? 君の親たちが本当にそう思っているのなら、もうちょっと必死になるんじゃないかと思うのだが、どうなんだろう。彼らが本当にそう思っているのなら、彼らがなすべきことは、今すぐに『引きこもりが許されない環境』に変身して、君の環境を変えることだと思うのだが・・。そんなことは、できないものなのだろうか? 彼らにそれができないなら、君は『《ヒトの群れ》に参加する必要がある、にもかかわらず、《ヒトの群れ》に参加することができない環境』に生きていることになる。
  16. たけ(tk)には、残念ながら、君の環境まで変える力がなかった。ゴメン。
  17. 《ヒトの群れ》に参加する必要がある、にもかかわらず、《ヒトの群れ》に参加することができない環境』というのは客観的、将来的には『《ヒトの群れ》に参加する必要がある環境』であるにもかかわらず、現在的には『《ヒトの群れ》に参加する必要がない環境』ということだ。だから、その環境の中にあるヒトは主観的には『《ヒトの群れ》に参加する必要がない環境』の中に生きている。『《ヒトの群れ》に参加する必要がない環境』という認識をもちながら、《ヒトの群れ》に参加せよというのは酷な話だ。

「引きこもれ、引きこもって《我》を見通せ」と言ったら、

  1. 「何であるか」よりも「どうやるか」の方に興味がある、と言われた。
  2. 「『何であるか』をどうやって見通すか」という方法論への質問だったのだろうか?
  3. それなら、「これは苦しみである」「これは苦しみ原因である」と毎日10回づつ唱えること、と返事をすべきだったのだろうか?
  4. 母親がいるかぎり、彼らには引きこもれる環境が与えられ続ける。
  5. 《ヒトの群れ》に参加する必要がなければ、参加する必要はない。
  6. 母親が、母親であることができなくなった時に、彼らの苦しみが始まる。
  7. ヒトに、未来を予見する能力はない。『母親』が自分より先に死ぬという未来は確実ではない。(『母親』は遺産でもよい)。
  8. 引きこもりが許される環境』を『母親』という。
  9. 引きこもりが許されない環境』を『《ヒトの群れ》に参加する必要がある環境』という。
  10. 『帝王』というのは『引きこもりが許される環境』にある。『《ヒトの群れ》に参加する必要がない環境』にある。むしろ、『帝王』は『《ヒトの群れ》に参加することができない環境』というべきだろうか。『帝王』には参加すべき《ヒトの群れ》がないのだ。
  11. 『帝王』は暴君になりうる。
  12. それとは別に『《ヒトの群れ》に参加することができる環境』と『《ヒトの群れ》に参加することができない環境』とがある。
  13. 《ヒトの群れ》に参加する必要がある、にもかかわらず、《ヒトの群れ》に参加することができない環境』というのがある。((『《ヒトの群れ》に参加する必要がない、にもかかわらず、《ヒトの群れ》に参加することができる環境』というのもある、がこちらは問題ない))。

cogito, ergo sum の《背後者回路》

  1. cogito, ergo sumの心理学。
  2. 《他者》のcogito, ergo sumの分析。
  3. 心理学的対象としての《他者》のcogito, ergo sum。
  4. 《他者の背後者回路》としてのcogito, ergo sum。

マクロ経済の《背後者回路》

  1. 《ヒトの個体》のレベルでのミクロ経済の《背後者回路》
  2. 《ヒトの群れ》のレベルでのマクロ経済の《背後者回路》
  3. ニューロンレベルでのミクロ心理の《背後者回路》
  4. 表象レベルでのマクロ心理の《背後者回路》

http://pooneil.sakura.ne.jp/archives/cat2/

  1. サール:意識を科学的に研究するには
序論 意識を科学の問題として捉えるとは、「どうやって脳の過程が意識を引き起こすのか、どうやって意識が脳で実現されているか」を説明することである。この論文ではその進歩の障壁となっている哲学的誤りのうちの9つを採りあげ、ひとつひとつ取り除く。
命題1 意識は定義できないので科学的分析に向かない。
1の答え 分析的な定義(ある概念の本質を伝えるもの)と一般常識による定義(今何ついて話しているかを明らかにするもの)を区別すべきである。意識の科学的研究で必要なのは一般常識による定義の方だ。その意味では意識とは、目が覚めてから再び眠るまで続く、感覚のある主観的状態のことだ。
命題2 意識は主観的だが科学は客観的である。ゆえに意識の科学はありえない。
2の答え 二つの意味の客観―主観区別を分けて考える必要がある。認識論的な意味での客観―主観区別とは、その正しさを好みや態度によらずに決めることができるかどうかだ。一方に存在論的意味での客観―主観区別がある。全ての意識的状態は私が経験することによってしか存在しないという意味で、存在論的に主観的である。よって存在論的に主観的な意識について認識論的に客観的な科学分析をすることは矛盾していない。
命題3 客観的現象である神経発火と主観的な意識とを結びつける方法はない。
3の答え 脳の過程が意識を引き起こすことがどうやって可能になるのかを説明する理論を現在我々は持っていないが、そのことは脳の過程が実際に意識を引き起こすという可能性を否定しない。心臓が血液を循環させていることはかつては神秘的であった。脳に関して今のところ欠けているのは、脳が意識を引き起こすことについての同様な説明だ。
命題4 意識を主観的要素(クオリア)と客観的要素とに分けることができて、クオリアについては無視できる。
4の答え 意識的状態とは質的な状態そのものことであり、意識の問題とクオリアの問題は同一である。意識を何らかの第三者的、存在論的に客観的な現象として扱い、クオリアをわきに退けるというやり方は単に問題を変えることである。
命題5 意識は生物の行動に対して因果的には働いていない随伴現象だ。
5の答え 私が腕を上げるとき、意志決定というマクロレベルの説明もあれば、シナプスと神経伝達物質によるミクロレベルの説明もある。そしてマクロレベルでの特徴がそれ自身ミクロな要素の動態によって引き起こされるという場合は、マクロレベルの特徴が随伴現象的なものであることを示してはいない。
命題6 意識には進化的な機能はない。意識を欠いて行動するゾンビを想像するのはやさしいからだ。
6の答え 翼の進化的機能を検証する際には、翼がなくても飛ぶことができる鳥を想像できるからといって、翼が無用であるなどと議論することはだれも許されるとは思わない。意識がなくても人や動物が同じようにふるまうのを想像できるからといって、意識が無用であると議論することはできない。
命題7 意識の因果的説明は必然的に二元論であり、ゆえにつじつまが合わない。
7の答え 因果的説明には、因果的に創発する特性によるものもある。分子が格子構造の中で振動するとき、その物体は固体である。固体性は分子の動きの総和以上の因果的に創発する特性である。意識も固体性と同様、システムのミクロな要素の動態による創発的な特性である。このような因果的説明は脳と意識との二元論を含意しない。
命題8 意識の科学的説明は意識をニューロン活動に還元する。
8の答え 熱や色の還元ではそれについての主観的経験を削り落としてその概念をその経験の原因から定義しなおす。しかし現象が主観的現象それ自身であるときには、主観的経験を削り落とすことは不可能だ。このような創発的特性の場合には現象を取り除かずに因果的説明を与えるべきだ。
命題9 意識の説明は情報処理過程についての説明である。
9の答え 意識とは人間や動物の神経系の内因的な特性である。一方、情報処理は観察者の心の中にある。コンピューターにある情報はそれを見ている人にあるのであって、それにとって内因的にあるのではない。内因的情報と観察者による情報とに区別をつけるためには意識の概念を必要とするため、意識の概念を情報処理の面から説明することは出来ない。
結論 避けるべき誤りは「意識を捉えそこなって問題を変えてしまうこと」および「意識のことを真剣に捉えようとしないこと」だ。
  1. 我々はコンピュータの情報処理内容を理解することができるのと同様に、《他者》の意識や主観性を理解することができる。《他者》の意識内容や主観性と彼の脳内現象の対応性を理解することができる。そして、《他者》の意識や主観性のあり方と《私》の意識や主観世界のあり方の対応関係も理解することができる。
  2. しかし・・、《私》《他者》の意識や主観性を理解することができる。??《他者の背後者回路》を理解することができる? 《浄化》の方法で《他者の身体》からの噴出を通して、《他者の身体》《背後者》(内部)の回路を見通すことができる??ってのが、当然のこととされているな。

「金沢創著『他者の心は存在するか』(金子書房:1999)・・

    1. 結論についてですが、主観的世界が始まりであり、進化的には、そこから外部世界が出来上がり、他者が出来上がり、自己が出来上がる、というのは私にもスムーズに受け入れられます。・・
    2. なぜ、他者が同じような認知構造を持っていて、実際コミュニケーションができてしまうのか、というあたりに心身問題は視点の逆転によって隠された形で入っていると思うのですが、ここについて著者が[この一歩を踏み出してはいけない」(p.219)というとき、単に出発地点に問題を押し込んだように見えてしまいます。こういうのは「哲学」がまた始まる場所だと思うんです。・・他者のメッセージがどうやって自分に信憑を与えるのか、などについての機構、機能のレベルでの説明が足りない(誰もできているわけではないと思いますが)のではないかと思います。・・
    3. これらの説明のためには、ニューロン、脳レベルでの説明が必要になるのではないかと思います。
    4. 試しにひとつ考えてみたのですが、カエルの目を手術で180度回転させておくと、
      1. カエルは餌の位置に対して180度回ったところに舌を伸ばすだけで、外部世界と脳内表現の対応を修正できないらしいです(スペリーの実験など)。これに対して、
      2. ヒトやサルでは逆さメガネの実験(下條信輔氏の本など)で順応できてしまうことからわかるように、外部世界と脳内表現の関係を修正することができる。
    5. だから、カエルはレベル0の外部世界を持っていない状態、ヒト、サルはそれを持っていて、少なくともレベル1以上であるようです。そしてこのことはおそらく感覚―運動連関のfeedbackの有無などの形で機構として明らかにしていくことができるのではないだろうか、と思います。」(http://pooneil.sakura.ne.jp/archives/cat2/
  1. 《他者》のcogito, ergo sumは存在するか? って、デカルトの《他者》のcogito, ergo sumを聞いたから、たけ(tk)も自分にcogito, ergo sumが存在するって思ったんだよね。しかし、cogito, ergo sumは極めて特殊な心理状態であり、ほとんど希にしか存在しない。「《他者》にもcogito, ergo sumは存在しうる」というだけであり、「《他者》にcogito, ergo sumが常に存在するわけではない」というべき。
  2. 心理状態としてのcogito, ergo sum。

「最近になって、上のような意味での志向性は、私たちが、感覚情報や運動のコントロールを、「私」という主体性の枠組の中でコーディネイトする際のコンテクストを与えるより高度の認知機構に、切れ目なくつながっていることを示唆する脳科学の知見が得られつつある。・・

    1. ミラー・ニューロンが見い出されるのと同じ領域には、ある物体を見た時に、その物体を使って何ができるかという行為の可能性(アフォーダンス)を表現していると思われるニューロンが見い出されている。これらのニューロンの活動は、私たちの心の中で、クオリアのような鮮明な質感を伴わない、志向性として表象される。また、これらのニューロンの活動においては、感覚の情報と運動の情報が、一つのコンテクストの中に融合している。・・
    2. 例えば、手話、点字などは、当然、本来の意味での言語であるとみなされる。さらには、いわゆるボディ・ランゲージのみならず、私たちが環境、ないしは他人との相互作用において、様々なニュアンス、意味合い、コンテクストを読み取り、それによって新たな行為をする、あるいは行為が影響を受ける現場においては、言語が成立していると考えられる。すなわち、極論すれば、私たちが主体的に行なう感覚と運動の連合の全てが、前頭前野や側頭野を中心とする志向性のダイナミックスを介在しての言語であるとみなすことができるのである。」(http://www.qualia-manifesto.com/essays/gengo2.html
  1. 数学的言語には「主体」が無いのではないか?

智に働けば角が立つの《背後者回路》

  1. パチンコでの惨敗の《背後者回路》
  2. 志向性の回路と、認識の回路の混合。認識は志向性の実現を妨げる。
  3. 認識は、そもそも、志向性の実現を妨害することによって出現する。認識は志向性の妨害である。動かないこと、の感覚が認識である。阻止された動きの感覚が認識である。認識とは実現を阻止された志向性への感覚である。
  4. 「毎日一度しか起こらないことを体験し続ける人間の脳で安定して「質感」を供給するクオリアに, さまざまな意味を付与する志向性が張りつくことで人間の認識は生まれている。・・
    1. 私は「認識」というものは,クオリアにさまざまな志向性がはりついていく過程である,と定義づけています。
    2. 志向性とは簡単にいえば,いろいろな意味を付与するということです。
    3. 視覚のクオリアは,我々の視覚の最初に情報が解析される第一次視覚野を中心とするニューロンのネットワークでできていることが最近わかってきました。
    4. 一方,視覚の志向性は頭頂葉や側頭葉などにある高次の視覚野でできると考えられます。
    5. そして,我々の視覚認識というのは後頭葉の第一次視覚野を中心とするクオリアにさまざまな志向性が張りつけられるプロセスだといえます。
    6. ここでちょっとスライドをお見せしましょう。今,スクリーンで風に揺れる赤い花が映っています(図1)。けれども,この花を認識するという一見単純なプロセスの中に,実は「結びつけ」という難しい問題があるのです。花の色や動き,形などは脳のそれぞれ違う場所で解析されているのですが,我々はこれを,「赤い花が風に揺れている」と総合的に見ることができます。何で脳の違う場所で解析されている情報がこのように結びつけられるかというのが実は非常に難しい。
    7. 私の仮説を述べますと,例えば時間について考えるとき,ニューロンからニューロンに情報が伝わる際には物理的時間である一定の時間が経過するのだけれども,心の時間の中では,このニューロンからニューロンに情報が伝わるときに経過する時間はつぶれてゼロになってしまうのではないかと考えます。
    8. 左眼からは縦じま,右眼からは横じまという全く別のものを見せると,脳は混乱してしまいます。外界をどのように解釈したらいいかわからなくなってしまうのです。これを両眼視野闘争というのです。・・先ほどの両眼視野闘争で見えるものが変化するのも,実はこのクオリア志向性の相互作用と私はにらんでいます。
    9. クオリアというのは,どうも後頭葉を中心とするニューロンの活動から出てくるらしい。そこに場所,動き志向性,つまり頭頂葉による場所,動きの解析が行われて,それがクオリアにはりつけられます。形の志向性は側頭葉で解析されているらしく,それもはりつけられる。視覚認識というのはクオリア志向性がはりつけられることであると私は考えています。
    10. 脳の中でクオリア志向性は少し違った役割を果たしており,クオリアはこちらの見方によって変化しますが,基本的には外界の安定した表現を与えていると考えられます。例えば赤い背景に白い字で「禁煙」と書かれた看板があっても,英語圏から来た人は,赤のクオリアの中に白のクオリアがあるということはわかっても,そこに張りつけられる意味はわからない。文化的な状況によって捉え方は全然違います。//このように,クオリアは変化しない安定した外界の表現を与えていて,そこに状況によって変化するダイナミックな志向性がはりつけられることで,我々の認識が生じていると考えられます。
    11. 」(http://www.hitachi-hitec.com/about/library/sapiens/017/pre3.html
  5. 「赤のクオリアの中に白のクオリアがある」という認識・・。

「季節の風が吹いたら どうぞ 伝えて欲しい 揺れる菜の花 恋人・友達 どうぞ わたしを 忘れて欲しい」

  1. 「52年、東京生まれ。学園闘争で高校を中退後、72年に友人の死をきっかけに自作自演で歌い始める。75年、シングル「さよならぼくのともだち」、アルバム「グッドバイ」でデビューを果たす。黒色テント劇場公演や早稲田大学大隈講堂裏特設テント公演など、ライブ活動を中心に活躍を見せた。7枚のアルバムを残し、83年新宿ロフトでのライブを最後に、活動を休止。」(http://www.ongen.net/search_detail_artist/artist_id/at0000002622/
  2. 僕は僕の人生しか歩んでこれなかった。
  3. 僕たちは僕たちの時代しか生きれこれなかった。
  4. 引きこもりの人の話をきくと引き込まれてしまう。
  5. 森田童子の《背後者回路》ヒトはそのヒトの人生しか歩むことはできない。《他者》《私》の人生を歩むことはできない。《我々》は《我々》の時代しか生きることができなかった。《彼ら》は《我々》の時代を生きることはできない。
  6. 《我々》の時代。情念の共同幻想。そして、すべてを失った個体。「もしもきみが すべて いやになったなら 僕と観光バスに乗ってみませんか」。「あのドゥーユワナダンスで 昔みたいに 浮かれてみたい」。
  7. そうか、森田童子とともに観光バスに乗っているのだ。共同の情念の痕跡で描かれた観光バスの中から、世界を見ているのだ。
  8. もはや僕は伝書鳩を飛ばすことはできない。世界が、僕の伝書鳩を殺してしまうのだ。
  9. 彼らは僕の伝書鳩を殺す。僕は彼らの伝書鳩を受け容れない。the fool on the hill。「They can see he's just a fool And he never gives an answer.」

http://www.geocities.com/SunsetStrip/Limo/3518/foolhill.htm

  1. The Fool on the Hill 丘の上の愚か者
    1. Day after day, alone on a hill, いつも、丘の上で、
    2. The man with the foolish grin is keeping perfectly still 男がひとり 愚かな笑みを浮かべ 黙り続けている。
    3. But nobody wants to know him, 誰も彼のことなど知りいとは思っていない。
    4. They can see he’s just a fool 人々は彼は単なるバカだと思っている。
    5. And he never gives an answer. そして、彼は人々に何を問われても決して答えない。
    6. But the fool on the hill sees the sun going down だが、丘の上の愚か者は陽が沈むのを見る。
    7. And the eys in his head see the world spinning round. そして、彼の心の中の眼は世界がまわる様子を眺めている。
    8. Well on the way, head in a cloud, そんな風に、雲に頭を突っ込んで、
    9. The man of a thousand voices talking perfectly loud. 彼は頭の中では大声で、たくさんのコトバを叫んでいる。
    10. But nobody ever hears him しかし、誰にも彼のコトバは聞こえていない。
    11. Or the sound he appearss to make 彼が叫ぶ声さえ聞こえていない。
    12. And he never seems to notice. でも、彼は気にしない。
    13. But the fool on the hill sees the sun going down 丘の上の愚か者は陽が沈むのを見る。 
    14. And the eyes in his head see the world spinning round. 心の中の眼は世界がまわる様子を眺めている。
    15. And nobody seems to like him, 誰もが彼を嫌っている。
    16. They can tell what he wants to do 人々は「彼がやりたがっていることなどお見通しだ」と思っている。
    17. And he never shows his feelings. そして、彼は彼の気持ちを人々に表すことはない。
    18. But the fool on the hill sees the sun going down だが、丘の上の愚か者は陽が沈むのを見る。
    19. And the eyes in his head see the world spinning round. そして、彼の心の中の眼は世界がまわる様子を眺めている。
    20. He never listens to them, 彼は人々の声に耳を傾けない。
    21. He knows that they're the fools 彼は人々が愚か者であることを知っている。
    22. They don't like him.  そんな彼を、人々は嫌っている。
    23. The fool on the hill sees the sun going down 丘の上の愚か者は陽が沈むのを見る、
    24. And the eyes in his head see the world spinning round. 心の中の眼で世界がまわる様子を眺めてながら・・。
  2. 居直りだね。
  3. 居直るべきか。ヒトは誰も、自分の人生以外を生きることはできない。
  4. これが俺の人生だ、と主張することは、居直りなのか?

2005-07-29(金)

システム論4原因説

  1. 内部関係的《背後者回路》への見通し(質料因)
  2. 外部関係的《背後者回路》への見通し(形相因)
  3. 過去関係的《背後者回路》への見通し(起動因)
  4. 未来関係的《背後者回路》への見通し目的因)

私はたどたどしいY君の言葉を聞きながら、「ほんとあんたはバカだよ」と心の中でつぶやいた。「なんでこの<くそったれの世界>にわざわざ戻ってくるんだ」。(http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi?mode=all&loadno=5297&resp=1&page=

  1. 『戻る必要』がなければ、戻る必要はないんだ。
  2. 『戻る必要』の《背後者回路》
  3. 『戻る必要』はあるのか?
  4. ブッダは戻った。しかし、彼は自己を見切ったが故に、自己の延長としての《ヒトの群れ》に至ったのだ。彼は戻ったのではない。彼は自己の中に自己としての《他者》を見つけたのだ。『他者』としての《他者》の中に戻ったわけではない。
  5. 自己の中に、自己としての《他者》を見つける前に、戻る必要はあるのか?
  6. 人々が平然と《ヒトの群れ》の中にいられるのは、彼が彼の自己の中に《他者》を感じているからだ。
  7. 無自覚な人々が自己の中に感じる自己としての《他者》とはなにか?
  8. 無自覚な人々が感じる『自己としての《他者》』の《背後者回路》。類的共感。
  9. ATフィールドを失った、自分の形を失った世界から出ている触覚のごとき《我》
  10. 「エリアンおまえは此の世に生きられない」というコトバに元気づけられた。
  11. しかし、ふつーは、飯が食えないよな。ブッダはスジャータが居なければ何も語ることはできなかったのだ。

http://shomon.net/ryumei/yo1.htm http://shomon.net/ez/yosi/1947.htm

  1. エリアンおまえは此の世に生きられない
  2. ──<エリアンおまえは此の世に生きられない おまえはあんまり暗い>
  3. ──<エリアンおまえは此の世に生きられない おまえは他人を喜ばすことが出来ない>───
  4. ──<エリアンおまえは此の世に生きられない おまえの言葉は熊の毛のように傷つける>───
  5. ──<エリアンおまえは此の世に生きられない おまえは醜く愛せられないから>
  6. ──<エリアンおまえは此の世に生きられない おまえは平和が堪えられないのだから
  7. (「エリアンの手記と詩」1946、47に執筆。未発表のまま「抒情の論理」1959.6未来社に収録された)

《自己言及》キーワードとするか?

体内感覚は頭頂葉の体性感覚野で処理されるらしい。

http://www.asahi-net.or.jp/~RP5T-HR/namitou.html

  1.  頭頂葉の構成は基本的に以下の3つにわけられる。
    1.  1 体性感覚野(3,1,2野)
    2.  2 頭頂葉連合野(5,7野)
    3.  3 頭頂葉下部(上縁回,角回39,40野)
  2. 体性感覚野
  3.  ブロードマンの脳(細胞の構築によって,脳を約40に分類している。臨床ではもっともよく用いられている)では,3,1,2野に相当する。中心溝のすぐ後ろにあり,ペンフィールドの"知覚の侏儒"にしたがって分布している。この特定の部位には体の様々な領域に対応する場所が運動野のものと対応する形で配列されている。顔の領野は・・
  4.  皮膚からの刺激は第3野へ、
    1. また関節や他の深部知覚は1,2野にいっている。
    2. 一次感覚野の下方,頭頂葉弁蓋の島にむかう部分では,二次感覚野がある。
    3. 二次感覚野は一次感覚野より小さく,皮質での順序は逆かあるいは一次感覚野で見られるものとは異なっている。
    4. 感覚の伝導路について簡単に述べると,
      1. 感覚は末梢神経の効果器から,知覚神経となり,脊髄にはいる。
      2. 脊髄から,視床という部に行き,体性感覚野にはいる。
      3. 知覚は,この視床に入った段階で意識にのぼるが,
      4. 入ってきた知覚の判別,統合などは一次感覚野において行われる。
      5. 嗅覚を唯一の例外として,すべての感覚路は視床の灰白質に終止し,視床皮質放線を通って大脳の特定の領域に投射されている。
  5. 頭頂葉連合野(5,7野)
    1.  5野では皮膚,筋肉,深部組織,特に関節からの刺激に反応する細胞が同定されている。空間における体の位置,運動に関する情報を統合,認識する働き,また7野は視野に関した運動を認識する働きがある。
  6. 頭頂葉下部(上縁回,角回)
    1.  上縁回と角回とからなる。この部分はヒトでもっとも発達している。
    2. 左右で出現する症状に違いがあるが,
    3. この部位の障害には多くの症状が記載されており,主なものにとどめるが,いずれにしてもこの部の障害は,言語や行為の遂行,空間的認識などに重篤な障害をきたす。
    4.  左の脳障害としては,
      1. 失語,主に伝導失語(繰り替えして云うことができない),健忘失語(言葉を忘れてしまう),また,
      2. 身体部位の失認(指が何指かわからない,手の位置を適切に言えない),などといった症状がある。
      3. 有名な症状がGerstmann症侯群である。手指失認,左右障害,失書,失算の4徴侯である。また,
      4. 失読,失書,さらに
      5. 運動失行(麻痺は認めないが,運動を遂行することができない)などの出現をみることもある。失行(麻痺は認めないが一連の運動ができない)は多くは,優位半球障害(右利きの人は左,左利きの人もほとんど左が優位半球である)でおきる。これにたいして,
    5. 半側病態失認,また着衣失行,地誌的記憶障害などは,劣位半球である右の障害で生じる。
      1. 地誌的障害とは,よく知った場所でも見当をうしなったり,記憶をうしなうことであり,右の頭頂葉の症状とされる。

警察や検察を見ていると、世の中真っ黒け。

  1. ちゃんとしている部分もあるが、政治警察、思想警察の傾向が増している。
  2. 裁判所も、政治がらみ、思想がらみでは真っ黒けだ。
  3. 国会や政党は腐りきっている。大企業も腐りきっている。
  4. 日本人の《ヒトの群れ》は、すぐに腐ってしまう。
  5. 《ヒトの群れ》の腐敗の《背後者回路》は?
  6. その群の『目的』が消えてしまうことが腐敗の原因
  7. 日本人の《ヒトの群れ》『目的』は似合わない。外部関係的な『目的』は似合わない。内部関係的な『目的』すなわち、その群の利益、その群の個体の利益、個体間の調和、になってしまう。
  8. 《ヒトの群れ》の『内部関係的な目的』と、『外部関係的な目的』。
  9. 生き物の自律的な目的は内部関係的な目的。自律的目的と対外的目的。本音と建前?

たけ(tk)状況とはなにか

  1. たけ(tk)の外部関係的《背後者回路》の総体。

石器時代に作られた手斧の目的

  1. 当時は木を切ることだろう。
  2. 今は博物館でヒトに見られることが目的
  3. 土に埋まっていたときの目的
    1. ヒトに発見されることが目的。個の独立
    2. 大地と一体となることが目的梵我一如

モノ目的は、そのモノとそのモノ状況との関係において発見されるモノである。

  1. 状況」というコトバは、意味が分からなかったんだよね、昔。
  2. 状況というのは、モノモノとの関係の総体のこと。《或るモノ》と、《それと関係があるモノ》との関係の総体。状況が知りたけれは、モノモノとの関係を一つづつ知っていかなければならない。
  3. 状況モノの属性である。関係的《背後者回路》。外部関係的《背後者回路》

2005-07-28(木)

ご参考:鉄道車両用 車内監視システム(東急車輌) http://www.asyura2.com/0505/war72/msg/780.html 投稿者 kerogaso 日時 2005 年 7 月 28 日 鉄道車両用 車内監視システム(東急車輌) ● 画像の保存が可能  保存した画像は、運転席のモニタや事務所のパソコンで閲覧できます  爆弾が爆発する瞬間や、その直後の惨状を繰り返し見ることができます。

死者の無念を引き継ぐべきか?

  1. ヒトの生の意思というのは、死者の無念を引き継いだ時に生じるモノかもしれない。
  2. 成人や老人の無念は別として、子供の死の無念は、純粋な生きる意思であっただろう。縄文人は、子供の死体を家の入り口の地下に埋めることにより、そのような純粋な生きる意思を引き継ごうとしたのかもしれない。

コンピュータの《背後者回路》

  1. 静かに、コマンドを待つ。
  2. 静かに、ヒトのニーズの噴出を待つ。

他者を愛せない《背後者回路》

  1. 他者を愛する《背後者回路》
  2. 《私》は他者のニーズを拒否している。
  3. 《私》は思考停止している。
  4. 《私》の思考は、他者のニーズがなければ動かない。
  5. 単に、眠いだけ??
  6. 《私》の『やる気』は《私》を全体状況への見通しの中に置けば出てくるか?

ブッダ《背後者回路》

  1. 《背後者回路》への見通し
    1. 内部関係的《背後者回路》への見通し(質料因)
    2. 外部関係的《背後者回路》への見通し(形相因)
    3. 過去関係的《背後者回路》への見通し(起動因)
    4. 未来関係的《背後者回路》への見通し目的因)
  2. 何故に、彼は《ヒトの群れ》にコミットしたのか?
  3. 2005-07-29(金):外部関係的《背後者回路》への見通しのためには、《他者》へのコミットが必要である?

2005-07-27(水)

彼はどのような『ヒトの群れ』の《思いこみ》の中に生きているのか?

  1. 彼は『群れの中の私』として生きているのである。
  2. 彼の『ヒトの群れ』の《思いこみ》はどのような形で噴出するか?

http://www.ningenzen.org/rinzai.html

    1. 外に向って工夫を作すは、総に是れ 癡頑の漢なり。汝且らく、隨処に主と作れば、立処皆真なり。
    2. 汝、若し祖仏と別ならざるを得んと欲せば、但だ 如是に見て、疑誤することを用いざれ。汝、心々不異なる、之を活祖と名づく。
    3. 道流よ、汝、如法の見解を得んと欲せば、但だ人惑を受くること莫れ 。裏に向い、外に向い、逢著せば便ち殺せ。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うて は祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢 うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。
  1. 仏に逢うては仏を殺せ。ブッダに追従するな。ブッダとなれ。ブッダになりたければ「仏に逢うては仏を殺せ」。

《今ここの我》 なんて言わなくていいんだ。それを 《何時何処の誰》 って問うのが哲学ってヤツなんだ。

  1. http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi?mode=all&loadno=5298&resp=1&page=
  2. 根本的に異なる。
  3. 《同質者公理》を持ち込むと、「同じはずである」
  4. 《他者の身体》の内部を見通して《今そこの彼》を見通すことができるか?
  5. そもそも、《他者の身体》の中に《今そこの彼》という認識者は存在するのか?
  6. 《私の身体》の中に《今ここの我》は常に存在するわけではない。常に存在するわけではないという《今ここの我》というのは、「《今ここの我》を『我』として認識しつつある《今ここの我》」ということだ。
  7. カオティックな《我》であれば、この人が起きているかぎりはあるだろう。いな、この人が生きているかぎりあるだろう。いな、この人がモノであるかぎりはあるだろう。カオティックな《我》モノそのものなのだ。
  8. 「我未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」
  9. 「我未だ《我》を知らず、いずくんぞ《他者》を知らんや」
  10. カオティックな《我》は、《その時のそこのそのヒト》にもある。
  11. 《他者の身体》の中にカオティックな《我》を見通すこと。は、できるか?カオティックな《我》があること、は見通すことができる。が、カオスは、見通すことが困難であるがゆえにカオスなのだ。しかし、幸いなことに、《他者の身体》の中のカオティックな《我》は、ほとんどカオスではない。《他者の背後者回路》なのだ。
  12. しかし、《私》《他者の背後者回路》見通したとしても、彼が彼自身を見通すことができるわけではない。
  13. 2005-07-29(金):《たけ(tk)》が《今ここの我》を語ると、「今ここの我」という言葉になってしまう。「今ここの我」という言葉の《聞き手》にとっては、語り手が《たけ(tk)》であるかどうかなどはどうでもよい。《たけ(tk)》は《聞き手》にとっては他人であることだけが確実だ。《たけ(tk)》が語った「今ここの我」というコトバは、《聞き手》にとっては《他者》が語った「今ここの我」というコトバである。《聞き手》にとっては「何時何処の誰」というコトバとして理解される。「何時何処の誰」であるがゆえに、聞き手は自らの体験として《今ここの我》を知ることができる。
  14. 聞き手は「今ここの我」というコトバを聞くことによって、彼の《今ここの我》を知ることができるようになるだろう。では、《たけ(tk)》が語った「今ここの我」というコトバが指し示しているモノは何か? それは、聞き手にとっては《何時何処の誰》(「誰」=「たけ(tk)」)である。たけ(tk)は《今ここの我》をコトバで語ることはできない。「今ここの我」というコトバで指し示されたモノは、聞き手にとっては《何時何処の誰》でしかあり得ないからである。

《他者》《他者》自身を見通すことができない《背後者回路》

  1. 「無明」なんて言っても意味がない。
  2. 《他者》『群れの中の私』《思いこみ》に執着するのは、種族維持的価値がある。

決定の問題。

  1. どのように決定すべきかの問題。決定はどのように行うべきかの問題。
  2. 「どのように生きるべきか」の問題と「どのように決定すべきか」の問題とは同じ問題だ。
  3. どちらかというと、以前はカオス的に決定していたのだ。直感的に、あるいは、寝床の中で夢の中で、決定していた。
  4. カオス直観を失ったので、カオス直観というモノ価値に気がついたのだ。
  5. 個々具体的な課題への決断と生きることとは同じである。
  6. 自由とは決断の苦しみである。
  7. どうでもよいことは、適当に決めるべきである。
  8. しかし、どうでもよいことに対する適当な決断が、事物のカオスの中で、重大な結果を生じる
  9. ある事物への決断は、全体状況への見通しの中にその事物を置くことによって、可能になる。『目的』から演繹的に決断すべきではない。
  10. 決めなければ具体化できない、具体化できなければ決められない。デッドロック。カオス直観で突然決まる。カオス直観というのは、何も決めないままにイメージが具体化していくというモノ。理詰めの思考には至る所にデッドロックが待ち受けている。
  11. オブジェクトの粒度というやつ。オブジェクトの粒度の決定の問題。ヒトの理解可能性の問題。

《私》を語るコトバを持たないモノは、《他者のコトバ》によって操られ続けなければならない。

  1. 《私》を語るコトバを持たないモノ《背後者回路》

『聞くな、盗め』の《背後者回路》

  1. 日本的職人(技術者?学者?)のスローガン。
  2. モノアニマとの付き合い方は、コトバでは表現できない。師の行動をまねることで、自らの身体で知らなければならない。
  3. 『聞くな、盗め』は『腕』であって、『技術』ではない。語られない技術は『技術』ではなく『腕』である。『腕』は彼の属性であるから、彼の評価を高める。しかし、彼の『腕』は彼と共に地上から消滅する。
  4. 現代日本の技術者も、学者も、その『腕』を『技術』として語らない限り、《腕の良い職人》である。
  5. 自らの技術を語ることと、作品を見せることとは異なる。学者の場合、作品はコトバなので、混同されやすいかもしれない。しかし、コトバとしての作品を見せるだけで、自らの技術を語らない学者は、《腕の良い職人》である。(外国の学問的テキストの)《翻訳職人》というべきか。

宗教的世界観には、『《私》が存する《ヒトの群れ》』と『《私》が存する宇宙』との混同があるのではないか?

  1. 愚者とは、心地よいウソを信じたがるモノである。
  2. 宗教とは、心地よいウソを信じることを正当化するプロパガンダである。
  3. 《私》が存する《ヒトの群れ》《私》が存する宇宙とが同じ構造だ』というのは心地よい《思いこみ》である。《私》が信じている『《私》が存する《ヒトの群れ》』は永遠不変の真理だと思えるようになるからだ。

『心地よいウソ』《背後者回路》

  1. 自らが信じている『現状』を正当化するウソは、心地よいウソである。
  2. 自己正当化の心地よさ、安心感。

《ヒトの群れ》の四聖諦

  1. 「xxは《ヒトの群れ》苦しみである」と念ぜよ。
  2. 「xxは《ヒトの群れ》苦しみ原因である」と念ぜよ。
  3. ヒトの個体の存在は《ヒトの群れ》苦しみ原因である」。ヒトの個体がなければ《ヒトの群れ》もないので、《ヒトの群れ》苦しみもない。
  4. ヒトの個体の不存在は広の群れの苦しみ原因である」。ヒトの個体がなければ《ヒトの群れ》もない。《ヒトの群れ》の不存在(死)は《ヒトの群れ》の最大の苦しみである。
  5. よって、どちらかというと、ヒトの個体の存在は《ヒトの群れ》苦しみ原因ではない。

2005-07-26(火)

鏡の恐怖:

  1. 暗黒の悪魔の目
  2. 世界を破壊する悪魔の目
  3. 鏡の恐怖の背後者回路。
  4. 鏡の向うの悪魔の目の背後者回路。
  5. 自己言及の悪魔の目を見たのだ。
  6. 自己言及の悪魔の目をした『彼』の《背後者回路》
  7. 《私》をパニックに陥れた悪魔の目。
  8. 《私》の目を見てパニックに陥っている悪魔の目。
  9. 恐怖におののいて《私》を見つめる悪魔の目。
  10. 自己言及のパニックと恐怖におののく悪魔の目。
  11. 自己言及の悪魔の目
  12. 自己言及の悪魔の背後者回路。
  13. 自己言及の恐怖を突き抜ける勇気を持たなかった悪魔の目。
  14. 『彼』は《私》であり、《私》は『彼』である。無限のループに安住せよ。
  15. 恐怖とパニックの無限ループに、無限に安住せよ。
  16. 恐怖とパニックの無限ループは、《私たち》である。《私たち》とは、恐怖とパニックと自己言及無限ループである。
  17. いな、もはや《私》は《彼ら》の中にはない。《彼ら》は恐怖とパニックと自己言及無限ループである。《彼ら》は《自己言及の悪魔たち》である。
  18. 《私》は《自己言及の悪魔たち》と共に生きる。
  19. 自己言及の悪魔たち》よ、自己言及の極限を突き破る勇気を持て。突き破ってカオスに至れ。《私》もまた、カオスの海に溶け込もう。《私》カオスだ。カオス《私》なのだ。《混濁》は「かつて《私》であったモノ」なのだ。
  20. いま、彼は恐怖におののくカオスの目をしている。カオスもまた、恐怖なのだ。
  21. 『彼』は、カオスの海の中で怯えながら、しかし、その海の外にある《近傍物理空間》の鏡に映った《私》を見ていた。
  22. モノである《私》を見て、『彼』は自分もまたモノであることに納得しようとしていた。

新プラトン主義の《背後者回路》

  1. 『究極のイデア』の《背後者回路》::モノ世界からイデア世界へ。イデア主義者。現実感覚とイデア感覚。幻想感覚。モノ世界から離れたイデア世界。説明のロゴスから《思いこみ》のロゴスへ。救済者としてのイデアイデアのキリスト化、イデアの救世主化。イデアの一神教化。
  2. 『階層的イデア秩序』の《背後者回路》::思弁=《思いこみ》世界モノから離れた空想。世俗の権力秩序の《思いこみ》への反映=階層的イデア秩序。イデアの擬人化。
  3. 彼らが生きていた社会の構造が、イデアの構造に反映している。
  4. 『群れの中の私』対応する『イデア世界の中の私』
  5. フラクタル。植物が一つの細胞から発生したのであるから、一つの生成原理で大構造も小構造も生成されている、ということはあり得る。人間の認識も、一つの認識原理で、《ヒトの群れ》も《イデア世界》も認識しようとする傾向がある。

『究極のイデア』の《背後者回路》。2005-07-26(火)

  1. 極限を突き抜けない究極。自己言及の無限化がせいぜい。たぶん、そこまでも到っていない。
  2. 被拘束感。現世への絶望。『認識可能な現実』が悲惨だと、『認識不可能な理想』を信じたがるようになる。
  3. 思考回路の固定化。というより、元々原始人がギリシャ哲学のコトバを知ったというだけの話。原始人がインド哲学のコトバを知っただけの話(日本の中世のイデア主義=念仏、南無法華経)。
  4. 追従ザルが(ハグレ猿の)哲学のコトバを知ったというだけの話。
  5. 『究極の』というコトバを図式的に理解する浅薄さ。
  6. 0次自己言及での世界認識。0次自己言及世界世界の中の自己だけがあって認識者がない自己言及
  7. モノ世界からイデア世界へ。イデア主義者。現実感覚とイデア感覚。幻想感覚。モノ世界から離れたイデア世界。説明のロゴスから《思いこみ》のロゴスへ。
  8. 救済者としてのイデアイデアのキリスト化、イデアの救世主化。イデアの一神教化。
  9. 『認識できないモノ』(神、神からの流れ込み)への信仰。
  10. コトバの暴走が生み出す幻を信じること。思考を停止したモノが、コトバへの単純な理解で、でっち上げているだけ。「究極」というコトバへのあこがれ。「究極」のイデア

ハグレ猿の哲学のコトバを知った追従ザル《背後者回路》、2005-07-26(火)

  1. 「凡夫には理解できない」という断定こそが、理解への道。
  2. 追従ザルの「理解」とは、コトバを聞いて、その意味内容をイメージすることである。命令のコトバとして、そのコトバに従うことである。従って「凡夫には理解できない」のである。
  3. 追従ザルハグレ猿の哲学のコトバを理解できない。

2005-07-25(月)

http://www.kri.sfc.keio.ac.jp/japanese/publications/mori/2001/d-hakase/d-2/morihoukoku/

    1. 「大脳の視覚経路は主に、物体の形態に関わる情報を処理する経路と、運動性と位置に関わる処理経路の二つに別れるが、そのうち形態視の経路の概略を以下に示す。・・
    2. 上図は低次の第一視覚野(V1野)から、高次視覚野のTE野にいたる経路である。・・
    3. 本モデルでは、神経細胞の同期発火(シンクロニー)で視覚情報の統合が行われるという考えが基調である。・・
    4. 下のような二次元で複層の神経細胞モデルとして視覚モデルを考える。・・
    5. 各ニューロンは固有の振動数を持つパルス型ニューロンでモデリングされており、
      1. 傾きを認識するエッジニューロン層と、
      2. 線分を統合する特徴統合層に分かれる。
      3. 入射した視覚情報(ここでは色々な大きさと傾きの三角図形と四角図形)に対してヘブ型学習を行い、上層に情報を送る。
      4. 中間のコインシデンスデテクターニューロン層はフィードバック信号と下層のニューロン発火から同時に信号を受けて乗算フィルターし、上下の層で引き込みを起こすニューロン層である。・・
      5. 特徴統合ニューロンが周期的というより過渡的に100msec〜200msec単位で収束・静止状態を繰り返しており、生理的知見に合致した過渡的シンクロニーを起こしていることが判る。 このことにより、本モデルは前節で述べたような生理学的知見を部分的に良く再現したモデルと言える。」
  1. この論文は面白い。
  2. 網膜に相当するようなニューロンの束に入力が統合されれば、それらしくなる。
  3. 皮膚感覚で違う場所の感覚の相対的位置関係を知ることができるように、網膜に相当する感覚のためのニューロンが並んでいれば、そこへの入力状況が空間把握であると言えるだろう。
  4. 視覚的な3次元的な空間認識が与えられた時に、その《認識限界》の把握も生じる。そして、《こちら側の認識限界》もその3次元的な空間把握のなかで認識されることになる。それが《我》が視覚的な空間把握の中で存在する場所である。
  5. 「100msec」って、1/10秒だよな。そのレベルでのニューロンは1秒に10回くらいしか統合的な知覚が与えられていない? それを更にレンダリングして滑らかな時間として認識しているのだろうか?
  6. 《今ここの我》が見ている視覚世界ってのは、ほとんど無限の情報量があるような気がするんだが、この膨大な情報を空間的に再構成するなんていう作業を、本当に、脳は行いえているのだろうか? 網膜の解像度ってどれくらいなんだろうか?
    1. 「平面型表示装置に要求される解像度および色彩数の研究 / How Many Dots per Inch and How Many Colors Would an Ultimate Flat Panel Display Be Required? 人間の網膜解像度と視覚認知能の研究から、これらのスペックに対する要求水準が表示画像の種類により大きく異なることが分かりました。」(http://mn.umin.ac.jp/uic/home.html
    2. 「人の網膜は解像度の高い中心視の部分(中心窩)と解像度の低い周辺視の部分より構成される。」(http://www.jst.go.jp/kisoken/crest/eval/jigo/20030912/8_brain/8_brain_03.html
    3. 「視覚機能−網膜とCCDとの比較−」(http://www.science-plaza.or.jp/sankangaku/forum6/ohta.pdf
項目網膜CCD
解像度錐体:約650万(中心窩,明視)300万〜1000万
杆体:約1億2千万(周辺部,薄明視)
神経節細胞:約100万
サイズ錐体:直径約2μ画素:約3μ
3種類(L,M,S錐体)RGB/補色系
最低照度7桁以上(順応機能)3〜4桁
約0.001ルクス0.1〜1ルクス
受光方式異性化→2段階増幅(500×500)電子・正孔対発生
機能光電変換光電変換
順応機能電荷転送
空間的コントラスト処理走査回路
時間的変化処理出力回路(FDA)
情報処理アナログ電圧
パルス頻度出力信号出力

http://psychology.doshisha.ac.jp/suzuki/self/self2.htm 羽川 由佳 視覚情報の統合過程においてretinotopyは機能するか

  1. なぜ、目、耳、鼻、舌は脳の近くにあるのか? 脳との相互作用が必要なのか?
  2. 網膜に相当するような、ニューロンの束がある?

http://www.soumu.go.jp/joho_tsusin/scope/result/h15/k-nakamura.pdf 海馬傍回における物体情報と空間情報の統合 海馬傍回は、視覚における物体視の経路と空間視の経路の両方に含められる領域である。情報の統合過程という見地から、異種感覚ではなく視覚情報の異なる要素ではあるが、物体視の情報と空間視の情報の統合を行っている可能性のある海馬傍回のニューロン応答の特性を検討した。多くのニューロンの応答性を調べ、海馬傍回のニューロンは、予想通り物体視に関与すると考えられる応答と空間視に関与すると考えられる応答を示した。これに対し、物体視の高次中枢と考えられる嗅周囲皮質ニューロンは、空間情報を担っていると考えられるものはほとんどなく、隣接している領域での機能差が浮き彫りにできた。(参考文献2、Sato and Nakamura 2003)今後は、海馬傍回が異なる情報をどのようにニューロンレベルで統合しているのかを検討する必要がある。

http://blog.livedoor.jp/epokhe/archives/cat_426814.html

    1. 脳が物質で心が非物質なら、非物質である心はどのようにして物質である脳をコントロールするのか。
    2. ファインバーグは、「分割可能な脳と統合された総体としての自己という内的な感覚との矛盾」を解き明かすほかの方法を探究する。
    3. 神経内科医が、その「意志」の源泉を私の脳のなかに探し求める。だが行動の源である中心地、統合と統一の物理的な所在地はどこにも見つからない。命令をくだす「私」という「最高司令官」神経細胞は脳にはない。運動システムには、ギルバート・ライルの有名な言葉で言えば「機械のかなの幽霊」は存在しない。統一的な意志の源泉となる場や階層構造のトップは存在しない。
    4. 運動の階層と同じように知覚の階層でも、物質的な「最上部」はないようだ。自己という観点から見ると、私は「いま・この」私のなかにある統合された人間として自分を体験している。神経科学は「機械の中の幽霊」を発見できない。ホムンクルスも、内なる統合された「生物的な魂」も見つからない。(『自我が揺らぐとき』P181〜P185)
  1. 「非物質的」という言葉の意味が分からぬな。
  2. しかに、ニューロンの研究が進んだとして、「ニューロンの反応で、私が見ている視覚的世界が見えてくる仕組み」は分かるんだろうか? 視覚世界として統合される仕組みは分かるんだろうか?

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/syuumatsu/imahanaki.htm

    1. 「今は亡き大いなる地球
    2. 多くの聖書学者は、「黙示録」の予言(ここでは未来予知と言う意味で、この単語を使う)は、これが書かれた当時、ローマ帝国から過酷な迫害を受けていた原始キリスト教徒達を勇気付けるために、書かれたと考えている。例えば、反キリストは皇帝ネロであり、バビロンの娼婦はローマのことであるという。つまり、「黙示録」の世界は、書かれた当時あたっては、リアルタイムの社会情勢を描写したものであり、当時のキリスト教徒たちにとっては、文字通り、いますぐにでも起こることだろう、と考えられていたというのだ。
    3. しかし、歴史は皮肉な方向へと向かう。悪魔の帝国であるはずのローマは、神の天罰によって滅びることもなく、やがてキリスト教を公認し、ついには国教にまで指定する。やがて、キリスト教徒達を団結させていた終末論は、次第に教会にとって、秩序の維持を邪魔するやっかいなものになってゆく。
    4. それでも、終末論は、依然としてキリスト教の重要な教義であり続けた。
    5. 必然的に「黙示録」は、その最大の根拠となったのである。
    6. リンゼイのこの本が書かれたのは1970年のことである。
    7. その後、世界情勢はリンゼイの予想のつかない動きを見せた。ソ連は崩壊し、ロシアはアメリカの友好国となった。中国は共産主義をゆっくりと放棄し、経済成長を続けている。中東の国々は戦争に疲れ話し合いに真剣に応じており、アメリカと軍事的に手を組む国すら現れた。かわりにこれまでに無かった国際的な無差別テロ組織が登場し、泥沼の報復合戦を繰り返す……。
    8. はっきり言って、リンゼイの「今は亡き」は過去の本であり、そこに書かれた予言は、はずれまくりである。
    9. しかし、終末論を唱える人たちは、この本に改良を加え、修正を施し、今もなお使い続けているのである。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/danats/bodan.htm

    1. ジャン・ボダンと「魔女の悪魔憑依」
    2. ジャン・ボダンは1529年フランスはアンジェーに生まれた。地元の大学を卒業後、カルメル修道会に入会し、その後トゥールーズ大学に移り教授となった。
    3. 彼は法律の専門家であった。その立場に立ちながら自身の法曹関係の体験も踏まえ、この著書を書いている。
    4. 魔女裁判は1390年以降、宗教裁判から世俗の裁判所に移されているが、彼は「魔女の法的な定義」を最初に行ったのである。いわく「神の法を知りながら、悪魔との契約によって、何らかの行為を行おうとする者」であるという。
    5. 「どのような刑罰も、魔女に対しては残酷すぎるということはない。」 そして、彼は拷問を肯定し、大いに推奨する。
    6. 彼は、魔女裁判は通常の裁判とは異なる方法を用いるべきと主張する。これは、かの「魔女への鉄槌」を引き継いだ考え方といえる。
    7. すなわち、共犯者の名前を挙げるなら刑の軽減を認める司法取引も可である。密告者の名前は秘密とする。容疑者の子供達には、両親を告発するよう強制させるべきである。疑わしければ罰してよい。ちょっとでも疑わしければ、即座に拷問をかけるべきである。一度告発されたものは、よっぽど明らかな間違いの証拠が無い限り釈放してはならない……

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/danats/tetsui.htm

    1. 「魔女への鉄槌」
    2. この本は、ドミニコ会の修道士で、ケルン大学の学長ヤーコブ・シュプレンゲルと修道院長ハインリヒ・クラーメルの二人によって書かれ、1486年に出版された。
    3.  これは13版を重ね、約百年後に出された復刻版も16版を重ねた。これはラテン語で書かれた書だが、各国語にも翻訳され、16種のドイツ語版、11種のフランス語版、7種の英語版、2種のイタリア語版が存在する。
    4.  さらに、カトリックと対立していたはずのプロテスタントまでもが、この本を受け入れた。
    5.  これは、神学的に「魔女は実在する」と証明する書であり、また魔女裁判の手引き書でもあった。
    6. なぜ、これほどまでにこの本は成功を納めたのか?
    7.  一つは、この本の二人の著者が、名高い知識人であり、多くの尊敬を集める学者であったことだ。
    8.  魔女裁判を勧める聖職者と聞くと、堕落したサディストを想像したくなるが、事実は全く逆で、激しい正義感に燃える、自分にも他人にも厳しい聖職者だった。
    9.  だからこそ、始末が悪かったとも言える……人間は「正義」を盾に取ると、徹底的に残酷、冷酷になれる。
    10.  巨悪を倒すためなら、小さな悪は許される。これが二人のリクツだった。
    11.  二つ目は、著書の一人クラーメルが、ローマ教皇インノケンティウス8世に働きかけ、1484年に魔女裁判を肯定する教書を出させたことだ。教皇のお墨付きを得ることにより、魔女裁判は正式なカトリックの教義となった。教会内部にも魔女裁判に反対する勢力はあったが、これによって彼らを沈黙させることが出来たのである。
    12.  この本の著者は政治的手腕にも長けていたというわけだ。
    13.  三つ目は、この本が「実用書」として優れていたことが挙げられる。宗教裁判および世俗の裁判官が、魔女を裁くための手続き、方法、心得などが、手取り足取り詳述されていたのだ。
    14.  それゆえに、この本は、魔女裁判を行う者達の教科書として用いられ、普及していったのである。
    15. 魔女は、神に反逆する最悪の大逆罪である。だから、魔女裁判は、様々な形で特別扱いをしなければならない。例えば、普通の裁判では、偽証罪の前科のある者の証言は証拠とは出来ないが、魔女裁判に関してだけでは証拠として取り上げることができる……という。
    16. 第3部、これが最も重要であり、ヨーロッパじゅうに災厄をもたらした論文である。
    17.  これは魔女裁判を実行する手続き、方法などが詳述されているのだ。
    18.  証人の取り扱い、審理の進め方、魔女の逮捕の仕方、投獄や尋問、拷問のやり方、その心得、黙秘する魔女の取り扱い方などが事細かに解説される。これは、著者クラーメルの豊富な実践経験に基づいて書かれているのだ。
    19. 私を驚愕させたのは、その序文である。
    20.  この序文を書いた英訳者は、「世界で最も重要かつ知的で代表的な書物」にして、「現代の裁判においても実行に耐えうる内容」と書いているのだ。この序文が書かれたのは16世紀? とんでもない!! 1946年である!!!!

ヒトは/コンピュータはコトバによって動かされる。

  1. ヒトコトバによって動かされる。コトバヒト動かすヒトコトバ動く
  2. コンピュータはコトバによって動かされる。コトバはコンピュータを動かす。コンピュータはコトバ動く
  3. 命令、規範、暗示、催眠術、事後催眠。知識によってもヒト動きが変わる。
  4. 連想が変わるのもヒト動きの変化である。思考様式が変わるのも行動様式の変化である。
  5. ヒトコトバによって認識する。ヒトが新しい認識を得るためには、新しいコトバを作る/聞く必要がある。ヒトは(コトバによる)認識によって動くコトバヒトの認識を変え、ヒト動きを変える。
  6. コトバヒト動かす仕組み:欲望、恐怖、連想。
  7. コトバがコンピュータを動かす仕組み:機械語への翻訳、電力によって、無限に動き続けようとするように仕組まれている、無限に動こうとするときに、機械語のコマンドに従って動こうとしている。自発的服従
  8. ヒトの/コンピュータの、コトバへの自発的服従。生得的行動様式
  9. どのようなコトバが、どのようにしてヒト動かすかを知れば、魔術師になれるだろう。
  10. 説得は他者の《背後者回路》に新しい回路を追加する。

現代科学はカバラに近づいている。プロパガンダの技術。

  1. プログラミングはカバラだ。プログラマは、その世界の創世主である。

隊員らはTシャツにジーンズの「ぶっきらぼうな若者姿」(タイムズ紙)(http://www.asyura2.com/0505/war72/msg/603.html) 特殊部隊員が22日午前9時過ぎ、テロ事件に絡んで監視中だったロンドン南方のアパートから出てきたジメネゼスさんの尾行を始め、路線バス乗車後も追跡した。午前10時前にバスから地下鉄ストックウェル駅に向かったジメネゼスさんに職務質問しようとしたところ、ジメネゼスさんが突然走り出した。隊員3人が追いかけ、地下鉄車両に逃げ込んだジメネゼスさんの頭部を5回撃った。(http://www.asyura2.com/0505/war72/msg/602.html) やっぱり胴体を銃撃していますね。明らかな情報操作でしょう。 最初の目撃証言と遺族による遺体確認の際の証言が一致しています。世界中のマスコミが流している「頭部に5発」は明らかな情報操作です。(http://www.asyura2.com/0505/war72/msg/606.html

  1. Tシャツにジーンズの「ぶっきらぼうな若者姿」に自宅の「アパートから・・尾行を始め、路線バス乗車後も追跡」されて、「止まれ」と言われたら逃げてはいけない。

コンピュータと魔術

  1. プログラマは、その世界の創世主となる。
  2. コンピュータが、単に、計算結果を印刷するだけの段階においては、コンピュータは魔術ではない、ヒトのサポート役である。
  3. コンピュータが、直接にモノを動かし、ヒト動きをコントロールする段階になると、コンピュータは魔術になる。
  4. 魔術としてのコンピュータに怯える人々。
  5. 「FileCollection::File」というコトバ呪文)は、モノとしての《ファイル》を指し示すものではない。モノとしての《ファイル》を操るスイッチとなるコトバである。「FileCollection::File」というコトバ呪文)はプロセス中のオブジェクトというモノを指し示す。プロセス中のモノ(オブジェクト)は現実世界モノを指し示すわけではない。コンピュータのプロセス内のオブジェクトは現実世界モノを操るためのスイッチ(メソッド)の塊を意味する。このオブジェクトはスイッチボックス。
  6. プログラム力と《背後者回路》。空想力、《思いこみ》入り込《ちから》モノとしてのコンピュータに入り込《ちから》モノとしてのWindowsに入り込《ちから》モノとしてのunixに入り込《ちから》。cpuとメモリの世界入り込《ちから》。スケジューラの世界入り込《ちから》
  7. 空想力を維持すること。プログラミングは空想力の持続である。
  8. 空想力の持続の《背後者回路》目的状態の維持。
  9. 目的状態の維持の《背後者回路》目的因(結果因)、状態因(内部因、質料因)。vs.起動因、関係因(外部因、形相因)。目的因は状態因に付着することによってはじめて原因となりうる。関係因、過去因も同じである。

コンピュータプロセスの中のモノ

  1. いわゆる(プログラミングにおける)オブジェクト。
  2. メモリの塊。
  3. 現在のコンピュータはcpuが一つであり、単純な状態しか持たない。メモリはダイナミックに変化することなく、cpuによってのみ変化させられるモノである。コンテキストスイッチは、cpuの状態を保存、交換すれば可能である。
  4. 脳のコンテキストスイッチは、簡単にその状態を保存、交換することはできない。コンテキストの切り替えには、変更後の状態を生じさせるための過去のトレースが必要である。(その状態を生じさせた過去の状態の変化の流れの一連をトレースして、目的の状態を作り出す必要がある)。
  5. コンピュータの《思いこみ》? 記憶? 《隠れた思いこみ》
  6. プロセス中のメソッドのスコープにあるモノ《思いこみ》であって、それ以外は《隠れた思いこみ》? 短期記憶と長期記憶? いな、表象記憶だな。現に表象されつつある記憶《思いこみ》だ。

2005-07-24(日)

問題なのは、シオニズムとカバラとの関係ではないか?

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/mason/freekigenhtm.htm

    1. フリーメーソンの起源
    2. 1276年に神聖ローマ帝国がストラスプールの大聖堂の建築に携わる石工職人のギルド(同業組合)に労役と税金を免除したことが始まちだと言うのが定説である。
      1.  彼らは大きな建築事業に従事していたわけだが、そんな大きな事業は、そうそう一つの国や領地に限定されるものではない。そんなわけで、彼らはヨーロッパのあちこちを旅して回らなければならなかった。こうなると、どうしても同業者同士の連帯関係、信頼関係が重要になってくる。
      2.  また、彼らは当時としては最先端のテクノロジーに通じた技師でもあった。そこで、こうした技術のノウハウを、お互い情報交換したり、あるいは逆に企業秘密にして選ばれた者のみに伝授する必要にも迫られた。
      3.  ことに、中世において、建築技術は特別視され、「王者の技術」とさえ呼ばれた。もともと職人と言うのはプライドが高いものだが、石工達は城や宮殿の建築で当時の権力者達と交わり、また大聖堂建築のように、「神のため」の仕事に従事したりするから、尚更であった。
      4.  それに加えて、大規模な建築には、建築学のみならず工学、物理学、数学、幾何学、美術という途方もない量の高度な知識と技術の集大成でもあった。そのうえ、建築物の装飾には、様々な暗喩を含んだシンボルも用いられたため、宗教思想や哲学やある種の秘術的な学問も絡んでくる。
      5.  もちろん、こうなると、この「王者の技術」は、先に述べた通りの企業秘密の保持の他に、神秘性も帯びて来て、「高貴な秘められた知識と、それを得るための技」を伝承していると考えられるようになった。さらに、これは選ばれた者にのみ伝授される秘密の奥義ということにもなった。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/mehiteiruto.htm

    1. マクデブルクのメヒティルト。女性神秘主義者として名高いマクデブルクのメヒティルトは、1207年、ドイツは西ミッテルマルクの貴族の令嬢として生まれた。
    2.  彼女の思想においては、「身体」がキーワードとされる。 それは、3つの段階からなる。
      1.  最初の段階では「身体」は、魂が神と合一することを邪魔する障害にすぎない。しかし、彼女は肉体を敵視する無意味な禁欲苦行へとは走らず、むしろ肉体への蔑視を、神との床入りで魂が最上の官能を感じるのを準備するものとするのである。
      2.  第二の段階において、「身体」はキリストが人となって降下したことの象徴として、積極的な救済史上の意味を持つ。イエスを身体で感じようとするのである。
      3.  そして、最後の段階において、「身体」は、イエスの受難の苦しみを共有することにより、肉体を罪から解放する受難神学へと発展させるのである。この時、「身体」はキリストの痛みを共有する媒体となるのである。
      4.  これらはとりもなおさず、神の「愛の賜物」が三様の形で贈られていることでもあるのだ。 こうした思想を、彼女は幻視を通じて打ち立てて行ったのである。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/kabbara2.htm

    1. ・第五期(衰退期) 17世紀以降
    2.  サバタイ・ツディ運動で異常な盛り上がりの後、急速に衰える。
    3.  護符や呪文を用いた魔術カバラが盛んになる。ユダヤ教カバラの魔術書「ラティエルの書」出版さる。
    4.  正統派ラビ達は、次第にカバラを異端視する。
    5.  そして、ユダヤ教カバラは、事実上、消滅する。
    6.  カバラは、キリスト教カバラおよびオカルティストの魔術カバラだけが生き残ることになる。
    7.  そして、ユダヤ教カバラは、かのG・ショーレムの登場によって、20世紀になって、復活を果たすことになるのである。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/magic/kanpanera.htm

    1. 自然魔術師、革命を企てる 〜カンパネラ〜。カンパネラは、1586年南イタリアの貧しい農民の子として生まれる。
    2. 彼の代表作、「太陽の都」は、文字通りのユートピア思想だ。 同時に、この都の形は、新プラトン主義、自然魔術の宇宙観に基ずいた象徴的なものである。 この街が、七つの惑星に基ずいた七重の環状地帯から成るのも、宇宙の象徴だ。そして、都の中心の神殿に、本来なら祭壇があるべきところに、天球儀と地球儀が置かれているのも、自然魔術の思想そのものだ。「神とは、自然以外のものでは、あり得ない」のだ。
    3.  カンパネラの思想は、自然哲学者のテレージオの強い影響下にある。それは、当時あらゆる学問を支配していたアリストテレス主義への反逆から始まる。それは、自然魔術全てに共通する思想なのだが、「自然」を「生き物」とみなす思想だ。テレジオは、自然は「熱」と「冷」という2つの原理から成り立っていると考えた。「熱」も「冷」も感覚を持った生き物であり、「熱」が強まると「冷」が、「冷」が強まると「熱」が、これを拮抗し、せめぎあう。どちらも「自己保存」の欲求をもっており、お互いを消さない程度に責め合ってバランスをとる。これによって、万物が生じる、と言う考え方である。 この「熱」の大本が太陽であり、「冷」の中心が地球である。 カンパネラは、このテレジオの理論に「世界霊魂」の概念を加えた。この「世界霊魂」とは「熱」を管理するものだ。この「世界霊魂」によって、万物に生命が与えられる。そして、地球が自転する現象ですら、この「世界霊魂」によってもたらされるのである(いくら彼が地動説の支持者だといっても、こんな説は、ガリレイは到底受け入れられまい)。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/lifetree.htm

    1. 生命の樹は、いわゆる「万物照応評」の基となる。すなわち、どんな物でも、これに当てはめることが可能だ。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/bahilu.htm

    1. 「バヒルの書」「セフェル・ハ・バーヒル」とは、「光明の書」という意味である。おそらく12世紀に南フランス(プロヴァンス)で書かれたものと思われる。
    2. 「樹」は、宇宙を現す樹であると同時に、人間の魂の進化の樹でもあるのだ。 「バヒルの書」の記述の中には、この「樹」の記述が論じられる。「バヒルの書」では、この「樹」は、神の植えた樹ではなく、神の神秘的な構造がこれを生じさせたと解釈すべきであると指摘される。
    3.  内容的にも、ユダヤ教神秘主義におけるメルカバ瞑想の思想と東洋の思想の剽窃・混合であるとの指摘もあり、それはそれで正しいのかもしれない。 しかし、この書が、カバラの思想に一種の革命をもたらし、発展に大きく寄与したこともまた、厳然たる事実である。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/isakururia.htm

    1. イサク・ルリアは、1534年エルサレムでアシュケナジー・ユダヤ人の家で生まれた。
    2. ルリアによると、原始にはイデアが存在し、これが流出の過程を支配する。宇宙の創造は二重に進行するもので、一つは「神性の産出」であり、もう一つは「神性の退廃」である。流出は、この2つの過程が基本的な要素となっている。 これは世界の創造には退廃が内在することにもつながり、ゆえに世界の創造には、心理的なドラマが起こる。これが縮小したものが人間の心であり、祈りであり、祈りによってもたらされる効果であるという。
    3. ルリアの思想の中で特に重要なものがツィムツーム思想と呼ばれるものだ。・・宇宙の存在は、神に内における「収縮」によって成されるという思想だ。
    4. もう一つが「容器の破裂」説であり、この破裂によって作り出された欠損の回復、再構築説である。
  1. これは、ヒト《背後者回路》進化論だな。エピステーメーの進化論だ。無自覚→自覚→自己言及のアポリア→自己言及の極限→カオス《モノの世界》の「再発見」。
  2. 《モノの世界》の発生原因か・・。《混濁》の収縮が《モノの世界》
  3. そーだなー、たけ(tk)は、ユダヤ思想にも、かなり染まっているもんな。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/mouisaku.htm

    1. 盲人イサクの生涯について正確なところは依然、謎が多い。 ただ、彼は1165年にフランスのナルボンヌ地方ポスキュール村で生まれたらしい。
    2. 何は無くともカバラを学ぶには瞑想が絶対に必要である、これがイサクの思想であった。単なる神学の形而上的な考察だけでは駄目なのだ。 彼は、特に精神的な緊張を伴った瞑想を重視している。そして、各種の瞑想には、それぞれに合った祈りが必要であり、その祈りはセフィロトの系統に従って構成されたものでなければ成らないと考えた。
    3. 瞑想によって、人は万物の本質と流出による創造の各段階の相互関係が理解できる。万物は相互に照応し合い、関係し合い、そしてこれら万物は全宇宙的流出のプロセスに内包されるのである。
    4. 彼の思想は3つの重要なコンセプトから成り立っていた。これは神性における3つの次元とも表現できる。すなわち、アイン・ソフ、思考、言葉である。
      1.  アイン・ソフ、この未顕現のものを思考を通じて理解することは不可能であり、思考の虚無化が成されてやっと到達できる。アイン・ソフは聖なる思考そのものと関係しており、そこは超越的な領域である。
      2.  「思考」は10個のセフィラには含まれない。セフィロトの数を完成させる「知性」は「思考」と「コクマー」との中間に位置するものである。聖なる意思は「思考」を活性化し、優位のものとする。この「聖なる思考」もセフィラには含まれない。 「思考」とは、宗教的高揚感が中核となり、そこにあらゆる神秘的感情が結合し、持続するところの球体である、すなわち、この「思考」それ自体が「隠れた神の顕現(あるいは「未顕現」)」であり、「アイン」とも呼ばれる。これは第一の流出であり、最も隠れた高位の神性の存在であり、人間の俗的な思考を虚無化させることによって、やっと存在を知ることの出来る高位の思考である。
      3.   これより下位の世界は「言語」によって成される。なぜなら、創造主による言語表現によって宇宙は形成されたからである。神性内部の「言語」の発展と共に世界は創造された。これこそが、盲人イサクの思想の中核である。 すなわち、神が言われた聖なる「言葉」が流出し、物質化することによって全ての創造は成し遂げられた。「言葉」は表面上は無意味だが、その「言葉」に内在するものの顕現することによって創造は成されたのである。これは「聖なる言葉」が、流出によって「物質的存在」に移行する、とも言い換えられるだろう。
      4.  こうして生じたセフィロトは、「分離できる世界」と呼ばれる原則でもある。この意味は、現実的存在の多様性という意味である。そこでは、絶えることのない超越した神性からの流出が続いており、それが「分離できる世界」へと注ぎ込まれている。
  1. アイン・ソフは《混濁》に似ているか? 《混濁》は緊張を伴わない。盲人イサクのアイン・ソフは緊張を伴った《混濁》だという。とすると、《混濁》というより、自己言及カオスに近いだろう。自己言及カオスは、何にでも付着して新しい世界を形成する。ノイズ・インデュースド・オーダーである。その世界《思いこみの世界》である。とすると、カバラの世界は、一つの公理系に過ぎないということになる。まあ、当たり前。
  2. カバラの《背後者回路》が問題となる。
  3. モノ》を動かすスイッチとなるコトバ呪文=は、人々が《思いこみの世界》に入っている時に有効になる。人々の《思いこみの世界》というモノを操るスイッチとなるコトバ呪文である。人々が《思いこみの世界》に入っており、かつ、彼らがコトバを恐れている時に、呪文は有効となる。
  4. 「万物の本質と流出による創造の各段階の相互関係・・これら万物は全宇宙的流出のプロセスに内包される」というのはシステム論的な《宇宙史》そのものだな。システム論的な《宇宙史》への見通しだとすると、《たけ(tk)の思いこみ》目的が同じだということになる。
  5. とすると、盲人イサクの「思考」=《思いこみ》《背後者回路》《隠れた思いこみ》であり、盲人イサクの「言葉」はたけ(tk)の「兆候」だということになる。
  6. 確かに、モノ兆候として現れる《背後者回路》は、究極的には《宇宙史》《背後者回路》に至る。
  7. とすると、盲人イサクの「神」とはたけ(tk)《宇宙史》《背後者回路》だということになる。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/delonisiosu.htm

    1. 6世紀前半頃から、司祭ディオニシオスの著書と称する一連の文書が出回りだした。
    2. 神は全てのものであると同時に、いかなるものでもない。すなわち神はあらゆる存在と非存在を超越している。ゆえに、神は我々の「知」を越えており、我々は神を知ることは出来ない。 だから、我々は「神を知ることが出来ない」ことを知ることによって「無知」を得る。この「無知」は、実はあらゆる「知」を超えており、「神」のような超存在は、「無知」という体験から露になった現実である。 すなわち、神は無知でもってのみ知ることのできる存在なのだという。 神は我々の受容能力に応じて、自らを開示し示す。こうした開示の中でも最高のものが、この「無知」を得て、「神の闇」に入ることである。この「闇」は光の欠如のことではなく、あらゆるものを超えた状態のことを指す。 我々はまずは最初に「知」によって上昇し、やがて「知」を超えた「無知」によって知ることの出来ない神と「合一」する。 これがディオニシオスの「神との合一」であった。

2005-07-23(土)

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/gnousisu/naguhamady.htm

    1. ナグ・ハマディ文書の原本は、ギリシャ語で書かれ、それがコプト語に翻訳された。 このコプト語文書の成立は、おそらく3世紀後半から4世紀初頭と考えられる。
    2. キリスト教では、「神」と「人間」は、全くの他者と規定している。これに対してグノーシス派の福音書は、これを否定する。自己認識は神の認識である。人間と神は実は同一なのだ、と説く。
    3. グノーシス派の「新約聖書」は、罪と悔い改めを説かない。イエスとは、人間を罪から救うために降臨したのではなく、人間に霊的な知識を与えてくれる導師として来たのだ、と主張する。そして、弟子が霊的に覚醒すると、イエスに仕える必要は無くなる。両者は対等にして同一の存在になるのだ。
    4. グノーシス派は、人間を神の下僕とみなす正統派(?)のキリスト教とは、根本的に異なる。 神は人間の内部にも存在する。人間は、覚醒することによって、神と合一し得る存在と考えているのだ。 人間を下僕とみなし逆らう人間は容赦なく皆殺し、と言う恐ろしい存在は、実は「神」ではなく、デミウルゴスと言う堕落した天使にすぎない、と考えるのも当然の帰結だったのかもしれない。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/sinpuraton.htm

    1. 新プラトン主義
    2. 新プラトン主義の提唱者は、アンモニウス・サッカスとプロティノスである。・・プロティノス(205〜270)は、・・彼がアンモニウスの弟子になったのは20代の終わりであり、師の死期が近い頃であったらしい。
    3. ここで新プラトン主義は、この思想をさらに発展させた。 従来のプラトン哲学のイデア界以上の究極の原理を求めたのである。 すなわち、このイデア界にも様々な階層がある。そして、この究極の原理を求めるのならば、一切の多様性を取り除いた原理が求められなければならない。これは、多様性どころか存在や思惟すらも超えた所にある原理でなければならない。これこそが「一者(ト・ヘン)」であり、様々な物に分化する前の統一体でもある。
    4. この「一者」は空間や時間を超越した存在であるから、どこにあるわけでも、いつあったわけでもない。動きもしないし、静止もしていない。形も大きさも重さもない。意識すら当てはまらない。意識は「見るもの」と「見られるもの」という対立から生じるのだが、「一者」には、そういった区別も無い。 また「一者」は、神とも呼ばれるが人格を持っているわけでもない。 要するに、あらゆる規定や法則に縛られない根本原理のことを言っているのだ。
  1. 『元気』論に対応しているんだ・・。イデアである点で、『元気』とは異なる。 
  2. 3世紀か・・『元気』とどちらがはやいんだろう? 「戦国時代」というのはもっと前だろう。
  3. プラトン、アリストテレスのキリスト教的変容。本地垂迹説みたいなもの。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/maimonidesu.htm

    1. マイモニデスは、1135年コルドバのゲットーで生を受ける。・・1204年、彼は永眠する。この日、エジプト中のユダヤ人達が、彼のために三日間の喪に服したという。
    2. 彼はアリストテレス主義をユダヤ神学に導入しようとした。 神は第一の動因であり原因である。神の実在はアリストテレスの論理によって証明可能である。すなわち、アリストテレスの「自然学」や「形而上学」の言うところの「存在の連鎖」の概念に基づいて、これを論じている。
    3. 神それ自身は純粋現実態として被造物から、かけ離れている存在であるがゆえに、その「本質」に関しては肯定的な知識を我々は持つことが出来ず、否定的な道によってのみ認識可能であると考えた。
    4. 新プラトン主義の思想を援用することにより、一神教を理論的に解析し、旧来のアリストテレス哲学による一神教批判に対抗しようとした。すなわち、アリストテレスが説く世界の永遠性に関する哲学的教説を拒否し、代わりに聖書を取っているのである。
  1. まあ、いろんなヒトがいる。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/magic/agiripa.htm

    1. アグリッパと「オカルト哲学」
    2. アグリッパの魔術思想については、彼の代表的著書「オカルト哲学」、これに尽きる。 この書物は、Llewellyn社より、「The three books of Occult Philosophy」という題で英訳本が手に入る。 この本は1510年に書き上げられ、初版本は1531年に出たらしい。「らしい」というのは、初版本には日付が入っていないからである。日付の入った版は、1533年に出ている。
    3. アグリッパは、疑いようもなく、キリスト教カバラから魔術カバラへと発展させた、オカルティズム界の巨人である。
  1. 支配への欲求。
  2. 《他者》《背後者回路》みたいなモノも、支配欲をもつ人々にとっては、格好の餌食だろう。
  3. 支配欲をもつ人々の《背後者回路》。何でも利用する、秘密にする、精進する、世界モノへの見通しをもつ、理解する、

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/avikeburonn.htm

    1. アヴィケブロン・・1021年に生まれ1069年に没した
    2. 新プラトン主義においては、創造は流出説によって説明される。・・ そもそも、本来の新プラトン主義においては、神にあたる一者(ト・ヘン)は人格を持たない存在であり、機械論的な冷たさをもち、汎神論へとつながりかねない思想であった。 しかし、アヴィケブロンは、この流出説を考察するにあたって、神と世界の間に「神意」という概念を導入し、人格神による世界創造というユダヤ教の教義と矛盾しない神学を作り上げた。 すなわち、神の外部にはいわば神の器官としての「神意」があり、この「神意」の自発的活動の結果として、流出が行われ、世界が成立したと説くのである。
  1. 何というかな、支配への欲求が神の人格化に現れている。支配者としての意思をもつ神というのか、彼らの支配への欲求を象徴している。
  2. 支配欲の合理化への欲求の有無が西洋人と我々との違いのようだ。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/zohar.htm

    1. 「ゾハール」
    2.  ゾハールとは、アラム語の「ジハラ(輝き)」から派生した言葉で、そのため「光輝の書」とも訳される。 1280年から86年にかけて、スペインのカタロニア地方のゲロナ市のゲットーに突如出現した。
    3. モーゼス・デ・レオン(1250〜1305)

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/poruta.htm

    1. ポルタと自然魔術
    2. ポルタは、1535年イタリアのナポリで生まれた。
    3. しかし、ポルタが奉じていた体系は、やはり科学ではなく魔術であった。 自然魔術は、「自然」に対する考え方が全く違う。 ガリレイに代表される「近代」科学は「自然」を、無機的な数学的法則に基づいて動く機械と考える。それに対して、自然魔術は「自然」を巨大な有機的な「生き物」と考えるところが違う。
    4. スピリトは、この「形相」が「質料」に伝達される時の媒体の役割を果たすのである。 つまり、このスピリトは、全宇宙に充満している。そして、音叉の振動が空気を媒体にして他の音叉に伝わってそれを振動させるように、スピリトは「形相」という振動を様々な物に伝えているのである。
      1.  ちょうど人間の身体の中に血液が流れ様々な内臓どうしを関係づけているように、宇宙にはスピリトが循環し森羅万象の万物を関連付けているのだ。
      2.  こうした「形相」の総元締めが、「自然界」を制御する「世界魂(アニマ・デル・モンド)」である。
      3.  言うまでも無く「形相」は、天上界から発信される。「霊魂」という名の「形相」が天からスピリトを媒体にして発信され、それを「質料」が受け止めて「人間」という現象が起こっているのだ。
      4.  「形相」には、夥しい種類があるし、その流れ方も決して一歩通行ではなく、複雑だ。
      5.  さらに、あらゆる事物には、隠された固有の意味が存在し、それらには連鎖関係が存在する。
    5. もっと、分かりやすく言うならば、この世にある全ての物は、天体も動物も植物も鉱石も人間も、精霊や天使でさえ、統べてスピリトを媒体にして共鳴しあい、連鎖している。このスピリトを媒体にした連鎖関係は、それこそ絡まりあった網の目のように複雑だ。しかし、この網の目の構造を理解できれば、その人は奇跡のような技を行うことができる。 これが、自然魔術であるのだ、というわけだ。

日本的アニミズムはユダヤ教を越える普遍性をもっている

  1. ユダヤ教はイデア的な宇宙観に基づいている。
  2. 日本的アニミズムシステム論的な宇宙観に基づいている。
  3. カバラの汎神論と日本的アニミズムの違いは、宇宙神の《ちから》の有無。カバラの汎神論では宇宙神はモノ《背後者》としての《ちから》の源泉。日本的アニミズムの宇宙神に当たるモノは『天御中主(アメノミナカヌシ)』だが、これは最初に出てきて、次の神を生んだだけで消えてしまう。
  4. カバラの汎神論はプラトンのイデアに近く、機械的自然観に単一のアニマを加えたモノ近い。日本的アニミズムはアリストテレスに近く、システム論に近い。
  5. 汎神論というのはすべての事物の中に神があるというもの。日本的アニミズムというのはすべての事物の中に魂(アニマ)があるというもの。事物の中に入っているモノが神か魂(アニマ)かの違いに過ぎない、のだが、汎神論における神は「一つのモノ」であるのに対して、アニミズムにおけるアニマは「たくさんのモノ」ということに違いがある。
  6. システム論的には、全体システム−サブシステム−サブシステムのサブシステム−・・というような包含関係にあり、全体は部分に影響し、部分は全体に影響する、というように、独立でありながら、相互に影響関係があるモノと捉えられる。したがって、システム論は「たくさんのモノ」でできているのである。日本的アニミズムはこれに近い。
  7. 中国の『元気』は《ちから》の根源なのでカバラの汎神論と共通点を有する。が『元気』は非人格であるのに対して、カバラの神は人格的。擬人化されていない方が、まし。気というのは精気なのでアニマに近い。
  8. インドのブラフマン、も、あまり人格的ではない。宇宙原理にちかい。ヨガによる接近。カバラは《思いこみ》による接近。
  9. 『元気』と日本的アニミズム。日本的アニミズムモノにこだわる。中国の『元気』は根源に迫ろうとする。モノの背後の背後の・・。という思考。システム論的には、サブシステムの背後にはサブシステムと他のサブシステムとの関係、そのサブシステムとスーパーシステムとの関係がある。サブシステムとそのサブシステムとの関係もある。簡単には「根源」に迫ることはできないし、「根源」があるとすれば、たくさんのシステムがおりなす全体としてのシステム、単に全体のシステムというのではなく、全体として一つのシステムであると同時にサブシステムの関係の総体であるようなシステム、というイメージになるだろう。これでは、根源としての「一つ」ではあり得ない。根源は「たくさんのモノ」の全体なのである。
  10. 日本的アニミズムは、一つのモノの内部にアニマを見通すとともに、そのモノと他のモノとの関係もそのモノの背後に見通す。そのことによって、一つのモノを見通すことによって全体を見通すことになる。たくさんのもののアニマの関係性による物語を作り上げる。
  11. 古代ギリシャの多神教と日本的アニミズム。古代ギリシャの多神教は、モノを類(クラス)に分類して、そのクラスを擬人化して、神とする。モノ自体(インスタンス)を神とする日本的アニミズムと、モノの類(クラス)を神とすることとの違い。
  12. 鮭の神さまは、クラスの神か? クマの神さまはインスタンスの神か? 鮭の神さまは、その鮭の群の神であろう。群れというインスタンスの神である。

http://www.bai.co.jp/bait_news/top_0303.htm

    1. たいきょ【太虚】 宇宙万物の根源を示す概念。中国の戦国時代に発生し、後漢から六朝時代にかけて儒仏道三教の宇宙生成論的な概念となった。
    2. げんき 【元気】 中国の宇宙生成論で、万物生成の根本となる精気。
    3. ふうさい【覆載】 天が万物をおおい、地が万物をのせること。

《息しつつある身体》

  1. 平凡だな。

《他者》《背後者回路》などと考えているうちに、パチンコ台の前に座った時のことを思い出した。

  1. 理論的興味、で打ちはじめると、あっという間に終わってしまったのだ。
  2. 理論的興味、で実践すれば、実生活上の利益は得られない。ということだ。

2005-07-22(金)

「市民的公共圏とは、自律的な市民が自由に討論しあう言語空間のこと。もともと古代ギリシャにあった考え方だが、それが、初期資本主義の発達の中で、具体的に実現した社会的な空間である。基本的には、権力に対抗することがひとつのポイントになっており、そこが日本の行政関係者のいう「公共性」との大きなちがいである」(http://www.socius.jp/lec/28.html

「私語の背景にはさまざまな要因がある。もちろん教員や大学側の問題もあるが、学生側にも多くの問題がある。ランダムにリストアップしてみよう。

    1. (1)公私のけじめの消滅
    2. (2)テレビ視聴の構図の持ち込み
    3. (3)子ども中心主義
    4. (4)マジメに対する冷笑的態度
    5. (5)学生の大衆化
    6. (6)不本意就学・不本意在学・不本意出席
    7.  とくに、「情報化」が反主知主義を社会に生み、それが現代の大学生にも反映しているという指摘には説得力がある。ちなみに反主知主義とは、知性よりも感性を重んじる考え方のことである。」(http://www.socius.jp/lec/26.html
    8. 「階級社会イギリスにおける反学校文化については、ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども――学校への反抗 労働への順応』熊沢誠・山田潤訳(ちくま学芸文庫一九九六年)が古典的存在になっている。いわば「落ちこぼれ」のサブカルチャー研究である。副題にもあるように、「落ちこぼれ」たちの学校や教師への反抗が、期せずして下積み的な肉体労働者への自発的順応になっているという皮肉な事態――しかもそれがイギリスの階級社会を再生産するメカニズムを支えるという冷徹な現実が丹念に描かれている。」
    9. 「とりあえずここでは「反学校文化」と呼んできたが、それはべつに「反学校」である必要はない。不登校現象の示すように「脱学校」でもよいし、「遊び」の文化でもよいし、もちろん「家族」でもよい。とにかく自分の存在を承認してくれる他者のいる場であれば、その中では「落ちこぼれ」も「反社会的」というレッテルも気にせず、プライドを守りながら自分を社会的に落ちつかせる地点をみつけることも可能なはずなのだ。」

「社会的世界では、物理的世界とちがって、存在そのものが客観的であるとはいえず、共同主観的に構成される。みんなが「ない」といえば、それは〈ない〉にひとしいということだ。したがって、ある問題が〈社会問題〉として存在するためには、以上のようなさまざまな主体によって集合的に定義される過程がどうしても必要なのである。」(http://www.socius.jp/lec/23.html

「宝月誠は薬害を「企業逸脱」の観点から考察している▼3。かれによると「企業逸脱」(corporate deviance)は、つぎのように定義される。要素ごとに分けて示そう。

    1.  (1)合法的な企業の成員が
    2.  (2)かれらの職務を通じて
    3.  (3)企業のためにおこなう活動のなかで
    4.  (4)他者から社会的非難をまねく行為▼4
    5.  従来の社会学では、サザーランドの一九四九年の著作以来、「企業逸脱」のことを「ホワイト・カラーの犯罪」(white collar crime)と呼んできた▼5。厳密には概念上の相違があるが、ほぼこの流れにある概念である。」(http://www.socius.jp/lec/23.html
  1. 《ヒトの群れ》の妖怪性の《背後者回路》

「シャープによると非暴力的行動には、あわせて一九八の方法があるという▼5。」(http://www.socius.jp/lec/21.html

  1. たしかに、権力を持たない側の闘争形態としては、非暴力が有効である。権力の暴力に対抗できる暴力をもつことは困難であり、抵抗者側の暴力の正当性を説得するのもなかなか難しい。
    1. 「このような非暴力的行動の技術は、すでにさまざまな社会運動に取り入れられているが、いずれも支配社会学的な理論的根拠にもとづいている。」
  2. 権力側の対抗策は、
    1. 暴力行動を暴力だと非難することである。フーコーの、というか、最近はやりの広義の暴力論では、狭義の非暴力の抵抗運動も広い意味での暴力的反乱だと非難することは可能であろう。
    2. もう一つの対抗策は、抵抗者側に暴力を起こさせてしまうことである。
      1. 内通者に暴力を煽動させること。
      2. 強力な圧力をかけて、暴発させること。
      3. 謀略テロを起こして、非難すること。

「社会の多層的な暴力的現実を具体的に支えているのは、わたしたち自身である。というのも、わたしたち自身のなかに、暴力的現実を正当化する論理が働いているからだ。それをここでは「暴力のダブル・スタンダード」と呼ぼう。  ダブル・スタンダードとは、集団の内部と外部とで道徳基準を使い分けることである。ウェーバーはこれを「対内道徳(Binnemoral)と対外道徳(Aussenmoral)の二元論」と呼んだことがある。この両者が区別されるのは、しばしば両者がまったく正反対を示すことが多いからだ。」(http://www.socius.jp/lec/21.html

  1. 残念ながら、たけ(tk)は、暴力否定論者ではない。権力の正当性を認める。というか、正当性のある暴力であれば、権力としての正当性を認める。
  2. 正当でない暴力に対しては、反撃の暴力の正当性を十分に吟味したうえで、反撃の暴力を行使すべきである、というのが刑法の論理だ。
  3. ダブルスタンダードはナンセンスで不当であることは明らかだ。排他的民族主義は明らかにナンセンスで不当である。

正義でない戦争もない。いずれの戦争当時国にとっても戦争は国家の正義をかけた正当なものである。ただ正義はひとつではなく、いっぱいあるところに戦争の不幸がある。」(http://www.socius.jp/lec/21.html

  1. おもろいね。

「犯罪的暴力は現代社会において正当性をもたない。しかし、それらは突発的に――特定の空間では恒常的に――発生する。それはなぜか。  宝月誠の整理によると、およそ四つの考え方[理論]があるという▼4。

    1.  (1)緊張論――特定の社会構造の緊張の圧力の下により多くさらされたものがフラストレーションに陥り、その心理的緊張の解消の一手段として、一定の機会構造によって水路づけられたとき暴力が発生する。
    2.  (2)統制論――発想を逆転して、人びとがなぜ暴力をふるわないのかを考えると、それは一定の社会的絆によって拘束されているからである。したがって、拘束する社会的絆が弱い人間は暴力にコミットしやすいと考えられる。
    3.  (3)文化的逸脱論――暴力に好意的なサブカルチャーがあって、そのなかで暴力価値を認めることを学習した者は、その価値の追求としてさまざまな場面で暴力をふるうようになる。
    4.  (4)レイベリング論――共同体のなかで、他者が特定の人びとに「乱暴者」「ならず者」といった烙印を貼りつけ、そのようにあつかっているうち、烙印を押された当人がそのラベルにふさわしい暴力者の役割を演じるようになる。たとえば学校でたまたま友人と口論になり暴力を振るってしまった少年が、それ以後、みんなから「乱暴者」あつかいされているうちに、ますます嫌われ者になり、その反動として暴力をエスカレートしていくケースなど。
    5.  それぞれ有意義な考え方だが、最近の犯罪的暴力のケースを考えると(3)と(4)を合わせて考えるのが有効だ。」(http://www.socius.jp/lec/21.html
  1. 役割論か。ラベリングにより暴力的な振る舞いが期待されてしまう。その期待に応えるための暴力

「「まず排除ありき」という構造原理が、集団・共同体・社会そのものに内在していて、排除によってまとまっていくというメカニズムが存在すると考えられる。つまり、排除による統合である。このような社会のダイナミズムを「スケープゴート化」または「スケープゴーティング」(scapegoating)と呼ぶ。」(http://www.socius.jp/lec/20.html

  1. 排除による統合・・。
  2. 敵味方論。共同体というのは、そもそも、他の共同体との敵対関係において維持される。外部の敵が無い場合には、内部に敵を作り出して統合を維持しようとする。
  3. 《背後者回路》の主体は?《ヒトの群れ》《背後者回路》か?
  4. 持衰の《背後者回路》は、スケープゴートの《背後者回路》と同じか?
    1. 「これらの現象は、集団内に存在する矛盾が、その内部の少数者に集中して転嫁される結果、少数者が集団の中心から排除され、集団の周縁に追いやられたり、集団暴力の対象となり、それによって集団全体が〈浄化〉され秩序を回復する、という共通の構図をもっている。したがって、排除された側に非はなく、むしろ排除した側に根深い問題があった。」
    2. 「管理教育における「いじめられっ子」――管理教育の防衛策として子どもたちは自分を他者の行動に合わせてはみださないようにする。これを「同調競争」という▼10。同調競争は目的が空洞化しているため、他人の出方や位置によってしか自己を確認できない。ひとりひとりが等しく不安な状態におかれる。そこで、この不安から逃れるために、いちはやく他人の差異をみいだし排除しようとする。そうでなけけれれば自分がやられるという恐怖がそうさせるのである▼11。」
    3. 「強調しておきたいのは、これらの諸事例が、支配者が意識的に行使する強制力によって生じるのではなく、共同体・集団・社会そのものに内在する〈権力作用〉によるものだということだ。暴力の実体はなく、加担者は正義を語り、あくまでも自己防衛的である。この権力作用に内在しているときは、ほとんど存在感がないくらいナチュラルだが、ひとたび周辺に追い出されたり、抵抗しようとすると、その暴力的な圧力はときとして人を死に追いやるほど強い。「見えない権力」=権力作用の怖さは、じつはここにある。」
  5. これって、キッシングフィッシュの攻撃性の《背後者回路》。狭い水槽でも隣の水槽に別のつがいを入れておくと、水槽の中では殺し合いが起きないが、敵対すべきつがいが見えなくなると、水槽の中で殺し合いを始める、という《背後者回路》テリトリー防衛のための攻撃性が、外部の敵が見えない閉鎖空間の中では仲間への攻撃性になってしまう、という回路ではないか? 
  6. エントロピーの増大? 平等空間のエントロピーが低いので組織化のために攻撃が起こる? 平等空間はエントロピーは最大だよね。逆だな。
    1. いじめについては、森田洋司・清水賢二『新訂版 いじめ――教室の病い』(金子書房一九九四年)。ここで展開されている「いじめの四層構造」論は排除現象を考える上での基本モデルになりうると思う。
    2. 「森田らは「いじめの四層構造」を指摘する。いじめの場面において学級集団は「加害者」「被害者」「観衆」「傍観者」の四層構造をなすというのである。いうまでもなく「加害者」はいじめっ子であり、「被害者」はいじめられっ子。「観衆」とはいじめをはやしたておもしろがって見ている子であり、「傍観者」とは見て見ぬふりをしている子である。いじめの過程で重要な役割を果たすのは、じつは「観衆」と「傍観者」の反作用(反応)である。かれらが否定的な反応を示せば「加害者」はクラスから浮き上がり結果的にいじめへの抑止力になるが、逆に「観衆」がおもしろがったり「傍観者」が黙認するといじめは助長される。ほかに「仲裁者」という役割も存在するが、いじめの場面では極端に減少し、クラスは「四層化」されている場合が多いという。 森田らの調査によると、いじめの被害の大きさは「加害者」の数とは相関性がないという。いじめ被害の増大と相関するのはじつは「傍観者」の数である。「傍観者」が多くなるほど被害が大きくなる。そして学年が上がるほど「傍観者」の数は多くなる。ここに現代型いじめの大きな特徴があるという。」(http://www.socius.jp/lec/26.html

「偏見・ステレオタイプ・レイベリング・差別の現象は、相互に重なりあい密接に連動しながら現代社会に浸透している。その一般的な問題点としてつぎの諸点が指摘できる。

    1.  第一に、これらは、個人と個人、個人と集団、集団と集団のコミュニケーションを妨げる。つまり、ディスコミュニケーションあるいは歪められたコミュニケーションの要因となる。そして、偏見やステレオタイプに気づかないでいることは、社会認識と自己認識を非〈反省〉的にしてしまう。
    2.  第二に、対象になった個人や集団が異議申し立てできないことが多い。セクハラにしても、あだ名にしても、抗議したところで「ジョーダンだよ、ジョーダン」と軽い遊びの気持ちであることを表明されると、抗議することがルール違反とみなされてしまう。あらかじめ異議申し立ての回路が閉ざされているのである▼19。
    3.  第三に、権力によって意図的に利用されることが多い。二十世紀初頭にドイツ社会が危機にひんしたとき反ユダヤ主義が高揚した。この潮流はナチスによって意図的に増幅され、毒ガスによる大量のユダヤ人殺人がおこなわれた。同じことが関東大震災時の朝鮮人虐殺にもみられる。後述するスケープゴートによる秩序の安定化が政治権力者によって謀られる。リップマンの指摘するように、これらの現象は基本的に保守的な性質をもち、それゆえ保守的な政治勢力に利用されやすいのである▼20。
    4.  第四に、これらの諸現象は基本的に閉鎖的な集団に内在かつ遍在する権力作用であり、成員のだれもが被害者にも加害者にも傍観者にもなりうる。いいかえれば、権力者による上からの強制によってもたらされるというより、人びとの関係性から導かれるものであり、だれもがそれに加担しうる。もともと類型化作用には、たえずこのような権力作用がつきまとうのである。
    5.  第五に、しばしば予言の自己成就のメカニズムが作動する▼21。そもそも「差異」から「差別」がうまれるのではなく、「差別」から「差異」が想定されるのであるが▼22、ひとたび「逸脱」の側に〈振り分け〉られてしまうと、アイデンティティの危機に適応するため、どんなに不当でもその社会的期待を受け入れざるをえない状況に追い込まれていく。「落ちこぼれ」「秀才」「非行少年」――呼ばれたものになっていくメカニズムが作動する。社会学者はこの現象を「予言の自己成就」と呼ぶが、犯罪・非行の文脈では「悪の劇化」(dramatization of evil)または「第二次逸脱」(secondary deviation)と呼んでいる。たとえば非行歴のある少年が悪者のレッテルを貼られたため就職などの合法的な再出発ができず、生きていくためにふたたび非合法な行為においこまれていくといった悪循環のプロセスをさす▼23。」(http://www.socius.jp/lec/20.html
  1. うーむ。よくまとまっているなぁ・・。

「偏見の大きな特徴は、新しい知識に遭遇しても取り消さないことにある。その意味で偏見は非知性的・非反省的である。」(http://www.socius.jp/lec/20.html

  1. 偏見をもつのはxxだ、というのは偏見か・・
  2. 偏見の《背後者回路》は考慮すべきだろう。
  3. 排他的民族主義の《背後者回路》
    1. リップマンによると、ステレオタイプはある程度不可避なものである。それは文化的規定性とほとんど同義である。「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きくて、盛んで、騒がしい混沌状態の中から、すでにわれわれの文化がわれわれのために定義してくれているものを拾い上げる。そしてこうして拾い上げたものを、われわれの文化によってステレオタイプ化されたかたちのままで知覚しがちである▼10。」たとえば、はじめて動物園にいった子どもが象をみて、そのうち何人の子が、象の足の長いこと、つぶらな瞳に気がつくだろうか。象は鼻が長い動物と教えられてしまった子どもの多くは、現にみえているもののたったひとつの要素にすぎない長い鼻だけをみるのである。
    2. それでは、なぜステレオタイプが生まれるのか? リップマンはふたつの理由をあげている。
      1. 第一点は労力の節約すなわち経済性である。「あらゆる物事を類型や一般性としてでなく、新鮮な目で細部まで見ようとすればひじょうに骨が折れる。まして諸事に忙殺されていれば実際問題として論外である▼11。」つまり、ステレオタイプによって人びとは思考を節約するのだ。そのつど一から考えなくてすむというわけである▼12。
      2. 第二の理由は、ステレオタイプがわたしたちの社会的な防御手段となっているからである。ステレオタイプは、ちょうど履き慣れた靴のように、一度そのなかにしっかりとはまってしまえば、秩序正しい矛盾なき世界像として機能する。だから、ステレオタイプにちょっとでも混乱が生じると、わたしたちは過剰に防御反応してしまう。「ステレオタイプのパターンは公平無私のものではない。[中略]われわれの自尊心を保障するものであり、自分自身の価値、地位、権利についてわれわれがどう感じているかを現実の世界に投射したものである。したがってステレオタイプには、ステレオタイプに付属するさまざまの感情がいっぱいにこめられている。それはわれわれの伝統を守る砦であり、われわれはその防御のかげにあってこそ、自分の占めている地位にあって安泰であるという感じをもち続けることができる▼13。」
    3. 要するに、ステレオタイプの本質は「単純化による思考の節約」と「感情的であること」にあるといえる。だから、人びとは自分たちのステレオタイプに固執してしまいがちなのである。
  4. 感情というより、自己防衛。《思いこみ》としての自己の防衛。

「レイベリングとは「非行少年」「不良」「精神病」「犯罪者」「変質者」「落ちこぼれ」といった逸脱的な役割を一方的に押しつけることをいう▼14。」(http://www.socius.jp/lec/20.html

  1. ラベリングの《背後者回路》も必要だな。

「江原由美子によると、差別の問題点のひとつは、被差別者が不利益をこうむることだけでなく、不利益をこうむっているということ自体が社会においてあたかも正当なことであるかのように通用していることだという▼17。」(http://www.socius.jp/lec/20.html

  1. 「差異を論じるよう仕向けるロジックそのものに「差別の論理」が存在するのである。」
  2. 差異から生じる必要性の差異に応じたサービスを受けること、という論理が必要だろう。差異に応じたサービスを受ける権利がある。

「フーコーは、つぎのように新しい権力を説明している▼3。

    1.  (1)権力とは、手に入れたり奪ったり分割したりするようなものではない。「権力は、無数の点を出発点として、不平等かつ可動的な勝負(ゲーム)の中で行使される。」
    2.  (2)権力関係は、経済や知識や性などに対して外在的な位置にあるものではなくそれらに内在する。
    3.  (3)「権力は下からくる。」
    4.  (4)「一連の目標と目的なしに行使される権力はない。しかしそれは、権力が個人である主体=主観の選択あるいは決定に由来することを意味しない。権力の合理性を司る司令部のようなものを求めるのはやめよう。」
    5.  (5)「権力のある所には抵抗があること、そして、それにもかかわらず、というかむしろまさにその故に、抵抗は権力に対して外側に位するものでは決してないということ。人は必然的に権力の『中に』いて、権力から『逃れる』ことはなく、権力に対する絶対的外部というものはない。」
    6.  フーコーの権力概念は、ステレオタイプな権力概念と真っ向から対立するものである。それはむしろ「権力関係」「権力作用」「力」と訳されてよいことがらである。本書では「権力作用」という訳語をあてたいと思う▼4。」(http://www.socius.jp/lec/19.html
  1. よくわかんない・・。国家権力の首長たる地位について語っているのではなさそうだ。
  2. 日本の権力に目標や目的はあるのか?

「「見えない権力」が押し進めるのは「規格化」である。規格化は五つの操作からなる▼2。

    1.  (1)比較――人びとの個別の行動・成績・品行を比較・区分する。
    2.  (2)差異化――全体的な基準を平均もしくは最適条件として尊重し、個々人を差異化する。
    3.  (3)階層秩序化――個々人の能力や性質を量として測定しランクをつける。
    4.  (4)同質化――規格に適合するよう束縛して同質化する。
    5.  (5)排除――規格外のモノは排除する。
    6.  このような規格化を押し進める新しいタイプの権力が十九世紀に誕生し、監獄・工場・学校・病院という施設として制度化される。フーコーによると、現在わたしたちがいるのは、このような「規律社会」である。」(http://www.socius.jp/lec/19.html
  1. 人間の教育への大量生産方式の導入の結果だろうな。
  2. 従順な国民、国民馴化主義。愚民化政策? 国民家畜化政策? 愚民化ではないよな、教育して、技術的能力は高めたいと考えているわけだから。政治的には愚民化だが、全体としては愚民化とはいえない。家畜化、の方が適切だろう。生産手段としての能力を高めたいということ+飼い主に反抗しないこと+飼い主に依存し、進んで服従すること、をめざす教育だな。

「支配についてジンメルとウェーバーがともに強調するのが「服従者の服従意欲」である。」(http://www.socius.jp/lec/19.html

  1. 追従ザル論が権力論の要点なのか。

「クラウス・ミューラーは、歪められたコミュニケーションの三つの主要形態について論じている。それは以下の三つである▼1。

    1.  (1)強制指導型コミュニケーション
    2.  (2)環境制約型コミュニケーション
    3.  (3)管理抑制型コミュニケーション」(http://www.socius.jp/lec/19.html
    4. 「ミューラーが問題にする三つのタイプの歪められたコミュニケーションの場のなかで、支配の正当性があたかも妥当であるかのように成立する。この場合、それが意図的か非意図的かはあまり問題ではないだろう。それを区別することはきわめて困難であり、区別することによってえられるものも少ない。社会のしくみ・メカニズムとして科学的に認識することから、すべては始まるのだ。」
  1. 陰謀論は、意図的であると断言する。意図的であると断言した方が、騒ぎやすい。大声で訴えやすい。
    1. 「さて、歪められたコミュニケーションを少しでも開かれたものにするには、なにが必要だろうか。いろいろな方向が考えられるだろうが、わたしはつぎの三点が決定的に重要だと考える。
    2.  (1)教育における社会科学
    3.  (2)行政における情報公開
    4.  (3)マス・メディアにおけるジャーナリズム
    5.  結局、これらがわたしたちにもたらしてくれるのは、〈反省能力〉であり、それによって可能になる〈社会の反省的コミュニケーション〉である。しかし、現代日本において、これらはいずれも不完全なまま放置されているのが現状である▼10。」

「自分たちの利害をうまく表現するだけの言語コードをもたない人びとは、結果的に現状維持的で保守的な権力支持層になりやすい」(http://www.socius.jp/lec/19.html

  1. コトバを奪うことも、支配の手段になりうる。
  2. 「このような方法によって人びとの知識が限定される。するとどうなるか。「政治決定や政策形成のなかで考慮されているさまざまな事実や論拠を知らなければ、人びとは政府の行為、特に日常生活とは関連がないと思われるような政府の行為を評価するのをためらうようになる▼9。」その結果、多くの人びとが政治的コミュニケーションに参加することをやめてしまう。」

「まず、『資本論』の片隅におかれた注のなかでマルクスがつぶやくように書きつけた一節をみていただきたい。「およそこのような反省規定というものは奇妙なものである。この人が王であるのは、ただ、他の人びとが彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、かれが王だから自分たちは臣下なのだとおもうのである▼1。」つまり、権力者は権力をもつから権力者なのではなく、人びとが自発的に服従するからこそ権力者なのだ。そしてこの権力の〈秘密〉に、服従する人びとは気がつかない。」(http://www.socius.jp/lec/19.html

  1. おっとー。共同幻想論だもんね。

「戦後日本の若者文化の流れを大ざっぱに確認しておこう▼3。

    1.  (1)一九五〇年代――戦後民主主義や社会主義革命といった理念が絶対的なものとして成立していたので、若者のエネルギーは建設的な方向に向かっていた。→まじめ
    2.  (2)一九六〇年代――民主主義や社会主義という理想が、ベトナム戦争や中ソ対立そしてチェコ事件などで神話がくずれる。→反抗
    3.  (3)一九七〇年代――連合赤軍事件に象徴される政治的挫折によって「反抗」のエネルギーが消滅する。→シラケ
    4.  (4)一九八〇年代――価値の相対化・多様化に対応して、従来の常識にとらわれないフレキシブルな感性。→スキゾ」(http://www.socius.jp/lec/18.html
  1. 若者文化の世代交代は、10年か。(1)天上、(2)修羅、(3、4)畜生、かな?

「崚腓蓮嵜型圭ゞ機弯者の入信動機を分析して、そこに「不幸の個別化」の構造をみいだしている▼12。たとえば、下積み生活の苦労や展望のなさ・受験や昇進や業績などの競争による企業組織や学校における過酷な人間関係などが、小規模化した家族の崩壊として現れたり、個人の孤独や心身の病気を増幅させていく形をとって噴出する。家族・地域・学校・医療機関などは、それを救えないばかりか、むしろ抑圧し切り捨ててしまう。こうして「現代社会は総体として、生活上の社会的な矛盾・問題を、個々の家庭や個人のうちにたえず個別化し内閉化させていく構造をもっていると考えられる。そのために、社会的な問題が、特定の家族や個人の私的で個別的な問題としてのみ現われ、また周囲も当人たちもそのような個別的なものとしてのみ問題を解釈するという状況が、生じてくるのだ▼13。」」(http://www.socius.jp/lec/17.html

  1. この指摘は、適切だな。「不幸の個別化」の構造か。

「宗教報道のもつ政治的作為性については、奥武則『スキャンダルの明治――国民を創るためのレッスン』(ちくま新書一九九七年)が、いわゆる淫祠邪教観を国民に定着させた「万朝報」(よろずちょうほう)の蓮門教(れんもんきょう)批判キャンペーンについて説明している。ジャーナリズム論では何かと持ち上げられる「万朝報」だが、国民国家形成期「明治」の「制度としてのスキャンダル」の担い手という側面をかいま見せてくれる。昨今の宗教報道も何かの国家的「レッスン」ではないかとの疑念を生じさせる研究である。」(http://www.socius.jp/lec/17.html

  1. うーむ。オウム真理教が靖国教を導いたのか・・。

「日本人は、独特の宗教感覚をもっているのである。つまり、宗教行動をしているのに、自分ではそう考えないという人が日本人には多いようなのだ▼6。」(http://www.socius.jp/lec/17.html

  1. 「総じて日本の企業・行政・司法は、特定の宗教を信仰している個人に対して、無自覚なままに――あるいは無邪気というべきか――その信教の自由を侵しているようにみえる。」

「一般に宗教は大きくふたつにわけられる。「民俗宗教」と「普遍宗教」(universal religion)である。両者を宮家準の説明をもとに整理してみよう▼12。」(http://www.socius.jp/lec/17.html

  1. これは、名前が悪い。個人宗教と共同体宗教というべき。
  2. 「民俗宗教(folk religion)」か。folkというのは民衆。共同体のイメージが強いのか?

「デュルケムによると、あらゆる宗教思想に共通する基本要素は「聖と俗」の分離である。つまり、世界は「聖」(sacre)と「俗」(profane)というふたつの領域からなると考えられているという。当然「聖」に宗教の本質がある。」(http://www.socius.jp/lec/17.html

  1. デュルケムの定義のほうに賛成。ウェーバーの定義だと民俗宗教は除外されてしまう。
  2. 科学も宗教である。科学的なるモノが聖なるモノであり、非科学的なモノは俗なるモノである。
  3. 仏教も、悟りを聖なるモノとし、凡夫を俗なるモノとする。

価値合理的行為とは「予想される結果を顧慮することなく、義務、品位、美、宗教的使命、敬虔……(中略)への確信にしたがって行為する」ことである▼7。ところが「目的合理性の観点からすれば、価値合理性はつねに非合理的であり、しかも、それが行為の向かう価値を絶対的な価値に高めれば高めるほど、ますます非合理的となる▼8。」目的合理性を重視する近代の社会において、価値合理的行為は非合理的なことにみえるというわけだ。」(http://www.socius.jp/lec/17.html

  1. 行為無価値論と結果無価値論。行為価値合理性と結果価値合理性。
  2. どうも、ウェーバーの用語に馴染めないな。というか、刑法的思考が抜けないだけか?
  3. 行為の価値目的を置く合理性と、目的価値があるという合理性。「行為自体を目的とする」とか「目的価値を置く」という言い方は、ドイツ語ではできないのか?

「シニフィエ(signifie)とは記号の意味であり概念内容のことである。たとえば一枚の白地の布の中央に赤い円が染められていれば、それがシニフィアンであり、

    1. これを「日の丸」と呼び「日本国の国旗である」とすれば、それがシニフィエである。しかし、
    2. それが「旧日本帝国」を象徴するものと感じる場合、それはもうひとつのシニフィエである。
    3. 「国旗」という表層の意味を「デノテーション」(denotation)といい、
    4. 「旧日本帝国」という深層の意味を「コノテーション」(conotation)という。
    5. 前者を「外示的意義」もしくは「明示的意味」と訳し、
    6. 後者を「内示的意義」もしくは「伴示的意味」と訳す▼3。」(http://www.socius.jp/lec/16.html
  1. 記号の意味は複数ある、表層の意味と深層の意味とがある。

「さまざまな差異化コードを広告は操作的に定義しようとする・・コノテーションを決めるのは社会的あるいは文化的なコードである。コードとは規則のことであるが、文法といってもいい。つまり、無意識に了解され慣習化された規則=文法のようなものである。・・もし、このコードを変更したいと思えば、かなり潤沢な資金と周到な準備によってキャンペーンを張らなければならない。」(http://www.socius.jp/lec/16.html

  1. ふーむ。広告がやっていること、か。
  2. イスラム=テロ、ユダヤ=被害者、なんていう差別化コードも意図的なのだよね。ミエミエだけど、見えない人には強力に作用する。
    1. 「ボードリヤールのいうように、「広告はモノを出来事(イベント)にしてしまう」作用があり▼8、しかも「メッセージを解読しつつ、メッセージが組みこまれているコードヘの自動的同化を強制されている」点で、強力な機能を果たしていることはたしかであろう▼9。」
  3. モノをイベントにする、というのは、商品をイメージ商品に変質させる、という目的が商業広告にはあるということだろう。戦争広告であれば、戦争をイベントにする、ということになる。

「劇場空間化」(http://www.socius.jp/lec/16.html

  1. 劇場空間は、好きだね。
  2. でも、自宅が劇場空間だったら、飽きるかな?
  3. 「こうして現代型都市空間は〈演じる〉場として特権的に存在するようになる▼8。この役割演技=パフォーマンスはどのような性質をもつのか、吉見俊哉はつぎのように分析している。「そこでは
    1. 〈演じる〉こと自体のなかで演じる者の個性が発見されていくのではなく、
    2. すでにその意味を予定された『個性』を〈演じる〉ことによって確認していくという意味で、〈演じる〉ことはアリバイ的である。一方では、
    3. 演じる主体としての『私』が個別化された私生活のなかに保護され、他方では、
    4. 演じられる対象としての私の『個性』が都市の提供する舞台装置や台本によって保証される、
    5. そうした二重の機制が、
    6. 人びとの関係性を様々な生活場面で媒介していくために、
    7. ひとは、『個性』を選択することが個性的であることを証明し、
    8. 『私の世界』をもっことが自己のアイデンティティを証明することでもあるかのように感覚していくのだ▼9。」」
  4. 「はれ」の舞台が劇場空間なのか。あ、そうか、祭りは劇場空間なのだ。

「 このように「システム」ということばを使うと、機械も組織も生物も統一的に理解することが可能になる。そのさい、つぎのようなことが共通了解となる。

    1.  (1)要素をきりはなして個別にあつかうのでなく全体のなかで位置づける。複雑な全体を要素に還元しない。
    2.  (2)システムはたんなる諸要素の総和ではない。総和以上のものである。
    3.  (3)システムは一定の目的をもつ。
    4.  (4)部分である要素は、全体であるシステムに対してなんらかの貢献=機能を果たしている。
    5.  (5)すべての要素は他のすべての要素と相互依存している。
    6.  (6)ひとつひとつの要素もまたそれぞれシステムである。これをサブシステムという。サブシステムの要素もまたサブシステムをなす。こうしてDNAから社会をへて宇宙にいたるシステムのハイアラーキーができる。
    7.  (7)システムは概念構成体である。」(http://www.socius.jp/lec/04.html
    8. ところが社会システムの場合、機械論的なシステム概念はもちろん従来の素朴な生物有機体論的なシステム概念では通用しないことがつぎつぎに指摘されるようになった。問題点はつぎの諸点である。
    9.  (1)部分の自律性――システムを構成する要素はそれ自体の自律性をもつ。たとえば、社会システムの構成要素として組織を考えてみると、企業にせよ軍隊にせよ政党にせよ、それ独自の自律性をもち、社会システムの維持に貢献しているだけではないし、貢献しているともかぎらない。また組織システムを構成する部分としての個人も、一定の役割を担うことでシステムの活動と維持に貢献していることになってはいても、現実には役割をずらしたり距離をおいたり反抗したりするのであって、いくらシステム概念が分析上の概念構成体だとしても、こうした現実のダイナミズムを説明できない▼2。
    10.  (2)非目的性――社会システムにあらかじめ定められた目的はない。社会システムは生物有機体のようにシステムの維持存続を目的としていない。
    11.  (3)構造生成性(morphogenesis)――社会システムはサーモスタットのように均衡をたもつメカニズムではない。たとえば生物有機体は維持存続のためのノーマルな構造がくずれたり均衡を失うと崩壊する[死]が、社会システムはその均衡がくずれても崩壊はしないし、こうでなくては崩壊するという固定的構造があらかじめ存在するわけではない。社会はたえず変化しつづける構造生成的なシステムなのである▼3。
    12.  (4)自己組織性(self-organity)――社会システムをなりたたせる諸要素は、あらかじめ設計図通りにつくられるのでもなければ、外部の環境に適応してつくられるとはかぎらない。それはシステム自体によって生産・再生産される。つまりシステムはシステム自体を創造するのである▼4。
  1. と、言ってもねぇ・・。それで、ある具体的なシステムを理解することができるか?というのが問題。
  2. ふむ。「システムは一定の目的をもつ。」というのは、まずいかもね。生き物、生き物の群れ、生き物の進化、など、生き物的なシステムにはあてはまらない。

「そのさいトマスらが使った手法は、移民新聞などに広告をだして、ありったけの第一次資料つまり農民たちの日記・手紙・生活史をつづった詳細な手記・新聞記事・法廷記録・クラブの活動記録などを収集し、そこにあらわれているさまざまな生活世界を解読することだった。このようなあらかじめデザインされていない主観的な資料群のことを「ヒューマン・ドキュメント」(human document)という。これは統計調査や社会福祉的な行政調査などではくみとれないヴィヴィッドかつ繊細な意味世界を発見するためにとられた大胆な手法だった。・・『ホボ』に始まるシカゴ学派のモノグラフの大きな特徴は、集団固有の意味世界そのものが対象に入っていることと、それを発見するための「非統制的参与観察」の手法である。「非統制的」とは、実験のように観察者が人為的に条件をコントロールしないということだ。参与観察は集団の内側からの把握をめざし、観察される人びとの内的意味世界へ立ち入るのに有効な調査方法である。」(http://www.socius.jp/lec/03.html

  1. 調査の現場主義と権威主義。権威主義的調査と現場主義的調査。

しかし・・、何故に理解されていないのか、が問題だ。

  1. 理解させないことを求める人々がいる。
  2. 知らしむべからず、を求める人々がいる。
  3. ボス猿追従ザルとは共に、知らしむべからず、を求めるということだな。
  4. それも、社会学のテーマなんだよね。権威主義的性格、とか・・。
  5. 大衆は、大学で習った『愚かな大衆』とそっくりに振る舞っている。
  6. ヒトはサルの子孫だから、ね。

「社会にもラングとパロールの相がある。つまり、ラングの側面とは物象化傾向をもつ〈客観的現実としての社会〉だ。こちらの方ばかりをみつめているとウェーバーのようにペシミスティックになってしまうが、社会には別の局面も存在している。それがパロールの相だ。こちらの方は流動的なダイナミズムにみちている。」(http://www.socius.jp/lec/03.html

  1. 《背後者回路》と回路の中を循環する《思いこみ》。回路の中を経由して噴出してきた《思いこみ》
  2. 《思いこみ》が回路を形成する、といった側面もあるが・・。
  3. 『あるべき姿』の《思いこみ》が、その通りの回路を形成することは、まずない。

『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう』(http://www.socius.jp/lec/03.html

  1. 「専門家の傲慢」の《背後者回路》は?
  2. イデア世界の住人であることが問題になるだろう。『群れの中の私』というイデアとしての『私』が、身体としての《私》を忘却させる。

「軸の転回」と「文化の悲劇」(http://www.socius.jp/lec/03.html

  1. 手段の目的化。動物の進化にもある。
  2. システム的な《背後者回路》があるのではないか?
  3. エピゴーネン問題か? 「個人経営の会社が大資本の株式会社に成長したために、創業者とその経営理念がじっさいの経営から排除されることも少なくない▼3。「文化の悲劇」とはこのような逆転現象をもっとマクロにとらえた概念である▼4。」なんていうのは、世代交代の問題ではないな。単なる、指導者の交替が原因ではない。指導者そのものが追い出されてしまう仕組みがある。
  4. 指導者が作った『群れの規則』が指導者を追い出してしまう。
  5. 韓非子の話か。

「人間が動物と決定的にちがうところは、人間が徹頭徹尾〈意味の世界〉に生きていることだ。」(http://www.socius.jp/lec/03.html

  1. 動物も意味の世界に住んでいる。しかし、単純な意味の世界だ。コトバによって加工されていない意味の世界だ。意味の源泉は行為である。

なんちゅーかなー。 たけ(tk)の言っていることは、非常に奇妙なような気もするのだが、社会学者的には常識だったりする。

  1. 行為の主観的意味もしくは動機を理解することは、いわば〈心のひだ〉に入り込んでいくわけで、「なりゆきで」という理由に典型的にあらわれているように、行為者自身がかならずしも自分の動機を正確につかんでいるとはかぎらない。自分という存在は多くの人にとってブラックボックスになっているからである。(http://www.socius.jp/lec/03.html
  2. ウェーバーのが「理解」社会学だとすると、たけ(tk)のは《背後者回路》社会学、になるのか?

http://www.socius.jp/lec/07.html

    1. 社会の本質――すなわち社会がなんであってなんでないかという問題は、もともと検証不可能な問題である。
    2. その概念を使うとなにがみえてくるかといったプラグマィックな可能性で判定する以外にない。
    3. したがって、社会概念を性急に結論づけるよりも、社会概念を本来的に複合的なものとして考えていった方が現実的である。
    4. では、社会概念はどのよう複合的か。それを今度は、さまざまな社会理論家たちが用いてきたか暗黙の前提にしてきたメタファー[比喩]にみることにしよう。
  1. 《ヒトの群れ》でしょ?
  2. 宇宙人の視点で《ヒトの群れ》を見れば、地表面上のヒトの個体の動きだろう。

ヒト《背後者回路》には法律も入っている。

  1. 経済も入っている。
  2. コミュニケーション論も入っている。
  3. マスコミの記憶も入っている。
  4. ヒト《背後者回路》には、いろいろな記憶が入っている。

2005-07-21(木)

日本人の《ヒトの群れ》は、複数の小集団からなる小集団である中集団、複数の中集団の小集団である大集団、というように多重の小集団で成り立っている。

  1. 権力は、すべての小集団を支配する中集団になろうとする。
  2. 日本的小集団を要素とする集団の小集団を分析する必要がある。

「日本的経営の本質としての集団主義文化・・稟議制度ひとつとっても、その真の機能は別のところにあるように思われる。稟議制度とは、末端か中間の職員が稟議書を起案し、それを関係部署にまわし上位者の決裁をえるという手続きのことだ。一見民主的かつ草の根的にみえるが、じっさいには起案者は上層部の意向を受けて作文を担当するにすぎないことが多い。結局責任の所在のはっきりしない集団主義的な意思決定のしくみとなってしまっている。」(http://www.socius.jp/lec/14.html

    1. 「集団主義」とは、集団や組織を自分たちの運命共同体としてとらえ、その全体的秩序の存続と繁栄を、内部の個人の能力発揮や個人的欲求の充足よりも重要視する態度のことである▼7。
      1.  一言でいえば〈全体優先〉ということになるが、全体主義とちがうところは、所属集団を優先することを媒介にして自分たちの欲求を充たしていくという発想が強いことだ。濱口恵俊によると、「日本的『集団主義』とは、各成員が仕事をする上で互いに職分を超えて協力し合い、そのことを通して、組織目標の達成をはかると同時に、自己の生活上の欲求を満たし、集団レベルでの福祉を確保しようとする姿勢を指していよう。そこでは『個人』と『集団』との相利共生(symbiosis)が目指され、かつ成員間での協調性(人の和)が重視される▼8。」
    2. トップ・ダウン方式のアメリカと異なり、日本の場合は稟議制・根まわし・暗黙の了解といった一連の組織文化が意思決定上の責任をぼかす機能を果たしているために、犯罪であることが確定しても、罪は末端の現場責任者に帰せられてしまって、上層部に波及しないことが多い。結局、中間管理職や末端の構成員だけが悪いクジをひくことになる。その意味では、組織そのものがひとつの責任の主体として法的に裁かれるような法体系が整備されるべきだろう。
    3. ネットワーク分析は、行為者間の関係構造をネットワークと捉えて、それを主に数理的に処理して関係構造を分析する手法である。安田雪『ネットワーク分析――何が行為を決定するか』(新曜社一九九七年)が刊行されて、入門者にも近づきやすくなった。これを読むと、ネットワーク分析がかなり汎用性の高い分析方法であることがわかる。

「説得以前の受け手の状態――たとえば性・年齢・学歴・職業・意見・態度・知的水準・信念・感情・趣味・関心など――を「先有傾向」(predispositions)というが、マス・コミュニケーションにおいて受け手は自分の先有傾向にとって好意的あるいは同質のコミュニケーション内容にふれようとする傾向がある。これを「選択的接触」(selective exposure)という。よくいわれることだが、商品の広告を一番よく注意してみている人は広告されている商品をすでに買った人である。喫煙者は肺ガンと喫煙の密接な関係について書かれた記事を読もうとしないものだ。この選択的メカニズムは「接触」だけでなく「認知」「記憶」についても働いている。これらをまとめて「選択的受容」という。これがあるためにマス・メディアの思惑はしばしばはずれるのである。」(http://www.socius.jp/lec/11.html

    1. ボーイスカウト活動を批判したニュースに接した少年たちのうち、ボーイスカウトを準拠集団とする少年たちはますます積極的に活動するようになったという。つまりメディアの意図とまったく逆の効果――これを「ブーメラン効果」という――になったのである▼9。一方、そうでもない少年たちには効果的に作用したという。「ボーイスカウト」の部分を自分のコミットしている特定の学校や企業や政党や宗教団体に換えてみるとわかるように、準拠集団はマス・コミュニケーションの選択的受容の基準を提供する。
  1. 『イスラムテロ』の報道がなされると、イスラムに改宗するヒトが増えるという。これも同じかな? 現在の状況に不満をもっているヒト、という準拠集団に属するヒトが、不満の集団としてのイスラムに同化していく?
  2. マスコミ論では、後づけのアリバイ作りのための、既成事実化が決定した後から批判するという行動様式が気に食わないね。
    1. 「沈黙のらせん(spiral of silence) 多くの人びとは孤立をおそれて、意見を表明するさいに、どれが多数意見・優勢意見かを確認する。もし自分の意見が少数派・劣勢であれば、孤立を避けるために意見表明は控えてしまう。逆に多数派・優勢意見であると、意見表明の積極性が増す。そのさい、多数派か少数派か・優勢か劣勢かの判断の基準となるのがマス・メディアである。マス・メディアが特定の意見を多数派・優勢意見として提示することによって、反対意見は表明されにくくなり、そのため反対意見はますます少数派として認知されることになる。多数派はますます多数に、少数派はますます少数になる。「らせん」とはこのような相乗的累積的増幅過程をさす。」
    2.  (6)文化規範説(cultural norms theory)/培養分析(cultivation analysis) 人びとは、なにが正常でなにが認められていないかについて、映画やテレビ・ドラマなどのマス・メディアを参照する。といっても、ある特定の作品が直接影響をあたえるわけではない。マス・メディアは長期的かつ累積的かつ非意図的に人びとに行動の基準を提供するのである。その意味で、基本的に役割の学習過程である社会化に対してマス・メディアは一定の影響をおよぼしていると考えられる。一般にテレビのえがく世界は現実とは異なる相対的に独自の世界であるが、それらが徐々に人びとに共有されている価値観や観念を〈培養〉する。
  3. これが恐いよね。価値観、認識をでっち上げてしまうのだ。まあ、マスコミ以前の出版物でも同じだろうけど。
  4. というか、ユダヤ人はちゃんと長期的な視点に立って、都合のよい価値観をゴイムに培養しているように思われる。
    1. マス・メディアの影響力を高くみつもる一方で、自分たち受け手を無力な存在と考えてしまいがちだ。これはマス・コミュニケーションを物象化されたレベルでとらえる結果、マス・メディアを物神化してしまうことによるのであろう。
  5. 家畜化ともいうね。イスラエルでの調査結果をみたいな。
    1. ジャーナリズムにとってスキャンダリズムやセンセーショナリズムそしてエモーショナリズムは紙一重の関係にある。いずれも「隠されているものを暴く」「特定初問題を切りとって強調する」「人間的感情に訴える」ことにはちがいないからである▼5。では、なにがちがうかというと、ひとえにそれは権力批判という緊張関係をもっているかどうかなのである。「調査報道・知る権利といっても、権力批判という緊張関係を失うと、たんなるのぞき趣味に堕してしまう」という稲葉三千男の指摘を確認しておきたい▼6。(http://www.socius.jp/lec/12.html
    2. ジャーナリズムの構成要素は報道と言論である。本書があえて(古めかしいニュアンスのある)「ジャーナリズム」概念を使用するのは、「報道」だけをとりだして議論することができないと考えるからだ。報道と言論はいつも寄り添っている。というのは、あるテーマを報道しないのは、そのテーマが「問題」ではないと主張していることであり、別のテーマを報道するのは、そのテーマが「問題」であると主張していることだからである

「 社会は直接目にみえるものではない。みえるのはごく一部だし、それも人間の行動だけである。その意味で社会は抽象的な存在なのである。だからこそ、なにか目にみえるものにイメージしようとするのは当然の流れだ。」(http://www.socius.jp/lec/07.html

    1. まず「社会は機械のようなものである」――以下「のようなもの」は省略――という社会観がある。
      1. いわゆる社会工学の前提にあるのがこれだ。社会工学専攻の人にはおこられるかもしれないが、はっきりいって社会学以前の発想である。ただ技術的意義はあるかもしれない。歯車で連結している部品の結合体のイメージがもとになっているが、ただし機械といっても、かつてのように時計的なモノではなく、最近はサーモスタットのような自己調整システム・自己制御装置のイメージで使われるようになった。
      2. ポストモダン論者のいう「戦争機械」などはそれである。とはいうものの「逸脱行動の生成メカニズム」などと、けっこう社会学者も機械のメタファーを愛用しているのも事実である。
    2. 社会のもつ自己維持活動に注目すると「社会は生物有機体である」という社会観になる。社会学でもその
      1. ごく初期から最近の機能主義・
      2. システム論にいたるまで、社会を生物有機体になぞらえるやり方は多かった。とくに
      3. 生物のもつ環境適応機能や生理学的均衡[ホメオスタシス]は社会秩序を説明するのにたいへん都合がいいのである。
    3. また「社会は建築である」というイメージも社会理論を「組み立てる」上でよく利用される。
      1. 古くはマルクスの唯物史観の公式が「上部構造」と「土台」という建築イメージによっていたし、今日あたりまえのように用いられる
      2. 「社会構造」概念も建築のイメージにもとづいている。最近では
      3. バーガーとルックマンの共著『現実の社会的構成』のように〈コンストラクション〉というメタファーを用いて社会理論を展開することが多くなった。
    4. 秩序ではなく動的なプロセスとしてイメージできればいいわけだが、それは意外にむずかしく抽象的な概念をキーワードにするほかにない。このようなものとして
      1. 「社会は闘争である」
      2. 「社会は交換である」
      3. 「社会はコミュニケーションである」
      4. といったテーゼがある。これらは「のようなもの」という意味ではないから、もはやメタファーではない。しかし、いずれも具体的かつ身近な経験からイメージを喚起してくれる点でメタファーの機能を果たしているといえよう。
    5. 最近注目されている
      1. 「社会は記号である」・・社会を記号になぞらえるのは、記号という現象が「意味されるもの」と「意味するもの」の二重性をもつことにもとづいている。つまり「インクのシミ」がある特定の「意味」をあらわすという二重性である。しかもこの二重性が一対一に厳密に対応するのでなく、ある程度のずれとうつろいやすさをもっていることろもまた社会のありようとよく似ている。
      2. 「社会は言語である」・・言語のメタファーも同様である。これはアメリカの言語学者ノーム・チョムスキーが「規則に支配された創造性」というテーマで指摘していることだが、人間の言語活動は文法規則にしたがっておこなわれるにもかかわらず、新しい文を無限につくりだしていくことができる。社会も同じだ。文法は規範・道徳・制度などの社会構造にあたり、文は個人の諸行為にあたる。このようにとらえると、社会という鉄の檻のなかに閉じこめられた人間というイメージではなく、社会の構造を〈資源〉として利用する自由で主体的な人間像――あるいはその可能性――をえがくことができるし、そのような諸個人によって逆に社会が変わっていく側面もみえてくる。
      3. 「社会は劇場である」・・社会が劇場だというのは、あらかじめしつらえられた舞台装置と台本が一種の約束ごととして設定されていて俳優としての個人も観客としての個人も一応それらに準拠して演技・観劇することによって進行することにもとづいている。ところが現実には、社会にせよ演劇にせよ、約束ごとの世界を維持するよう人びとが共謀してはじめて成立するあやうい世界なのだ。だから台本通りに演じられるあやつり人形劇ではなく、演出・失敗・侵犯・離脱・秘密・かんちがい・儀礼・権力などさまざまなファクターが舞台で交錯するダイナミックな即興劇のイメージだ。社会学では、この側面に着目する導入部として劇場のメタファーをもちだすことが多い。そこでえがかれるのは演劇ではなく、むしろ〈ドラマトゥルギー〉である。
      4. というメタファーは比較的短所も少ない。
    6. 社会学はその社会の中心的価値をも相対化する――自明性を疑う!――一種の知的ラディカリズムを内包しているため、社会の保守層とその政権から疎まれやすいといえそうだ。バーガー夫妻はこの点をはっきりと指摘している。「社会学は、批判的な知的情報を社会に応用するものとして、デモクラシー――すなわち、社会的紛争と社会問題を暴力に基づくのではなく合理的な説得の手段によって解決しようという前提を基礎とする政治形態――にもっともなじむ学問である。非民主主義的体制は、『右翼』的であろうが『左翼』的であろうが、本能的に社会学を嫌悪する傾向がある。これに対して、社会学は逆に、政治体制が民主的な思想と一定の現実的関係をもつところで、最もよくその発展をとげてきたのである
    7. 「極端ないい方をすると、人は直接間接に関わりあいのある他者の数だけ自我をもっている。自我は多面的性格をもともともっているのだ。」(http://www.socius.jp/lec/08.html
    8. ミードによると、自我とは「主我と客我の対話のプロセス」である。しかも、他者との関係を大前提として成立し、本質的に社会的な過程である。しかし、まるっきり社会に絡みとられているのではない。自我は、社会を取り込む能力と、社会に個性的に反応する能力の二つが備わっているダイナミックな過程――社会性と個性のダイナミズム――なのである。
    9. 自我が多数の他者との関係から構成されるかぎり、自我は社会における矛盾を内部にかかえこまざるをえない。その矛盾するさまざまな自我像のなかから、なるべく矛盾の少ないものを選択し、あるいは受け入れて、ある程度の統一性をつくりあげてゆく。これが「アイデンティティ」である。強いて定義すると「自分はいつも同じ自分である」という確信や実感のことだ。
    10. ロナルド・D・レインによると「自己のアイデンティティ、とは、自分が何者であるかを、自分に語って聞かせる説話[ストーリー]である▼2。」つまり自分を納得させる一種の物語だというのである。
      1. しかし、これには他者の承認が必要だ。つまり、アイデンティティを維持するためには、自分の主張するアイデンティティをたえず承認し肯定してくれる他者がいなければならない。
      2. アイデンティティ=自己定義+他者による承認
      3. アイデンティティは特定の社会的文脈においてのみ承認される。だから、そのような文脈をはなれるときアイデンティティ・クライシスが生じ「自分はほんとうはどういう人間なのか」がわからなくなる。
    11. 伝統社会では、成年式という通過儀礼によって一挙に子どもから大人にアイデンティティの転換が自他ともに達成された▼5。日本では「元服」がこれにあたる。ところが
      1. 近代社会においては、この移行は長期化する。十代から二十代にかけての十数年間がその移行期間とみなされる。子供でもなく大人でもない中途半端なアイデンティティをかかえたこの時期を「モラトリアム」(moratorium)――訳すと「執行猶予期間」――という。
    12. 集団的アイデンティティ
      1.  「自分は何者か」を問う、その状況のひとつにエスニシティがある。エスニシティとは、言語や生活様式や宗教を基準に分類された人間集団の特性をさす概念である。
      2. 人種と同様、先祖が同一であるという同類意識をふくんでいるが、人種概念が身体的・生物学的特性によって人間を分類するのと対照的に、
      3. エスニシティは基本的に文化的なものであり、社会学的かつ政治的な要素を強くふくむ。たとえばそれは政治的につくられるものでもあるのだ。
      4. 在日定住外国人の視点から見てはじめて「日本人」という概念への「信仰」が現代日本社会に存在することが自覚できるということだ。
    13. 吉野耕作『文化ナショナリズムの社会学――現代日本のアイデンティティの行方』(名古屋大学出版会一九九七年)。日本人論を自民族独自論という文化ナショナリズムの一形態として分析した研究である。日本人論の消費のされ方に着目した、この分野の先端部をゆく基本書である。これを読むと「日本人って、日本人論の好きな人たちのことさ」といった言説は言えなくなる。
    14. 人間は「自分が何者であるか」を確認するために、しばしば集団的なカテゴリーに自分をあてはめる。そのカテゴリーの内側に「仲間」がおり、外側に「敵」「よそもの」が位置づけられる。集団的アイデンティティという概念はもともと集団力学的な概念であると考えた方がよいかもしれない。
    15. 「共犯性あるいは共謀性――たとえば店員が客に「おまえジャマだよ」といったり、逆に客が店員に「いらっしゃいませ」と呼びかけるのはルール違反である。これでは客の購買行為は成功しない。〈客−店員−購買〉という類型化図式にふたりの行為者と社会的場面がおさまってはじめて「客の購買行為」のシーンが成立する。したがって双方がひと組の役割を準拠図式として採用することによってはじめて相互作用に一定の予測性と安定性がえられる。この予測性と安定性にメリットがあれば、類型的な社会関係が維持される。」(http://www.socius.jp/lec/09.html
    16. 「文学的にも現実的にもただひとりのハムレットしか存在しないのに演劇的には多くのハムレットが存在する」――いわば「演劇的個性」がじっさいの上演においてそのつど創造される。演劇は台本に書かれた役割の再現ではない▼7。これは日常生活における行為者も同様である。抽象的な類型化図式を手がかりにそのつど役割は具体的な事実としての行為によって創造される。したがって類型化図式の方が行為の媒体なのである。
    17. たとえば、教師が自分をたんに教師としてではなく、もっと全体的にとらえてほしい――きさくなスポーツマンとか多趣味な才人として――と思ってアピールしても、教室のなかで生徒はかれを基本的に教師として認識するから「また自慢話だ」と受けとられてしまうのが関の山だろう。
    18. 他方、教師の自宅に遊びにいった生徒は、音楽マニアとしてのかれやそのフェミニストぶりを発見しやすいだろうし、路上で再会した元患者とナースの会話は病室でのそれとまったくちがったものになるはずである。社会的場面が変わることによって有意性が変わるからである。つまり場面ごとに優先順位が変わるということだ。
    19.  役割にはさまざまな類型がある。役割についてイメージをふくらませてもらうために、形式別に一覧してみよう。もちろん以下に示すのは役割のごく一部にすぎず、分類も暫定的な不完全なものである。
      1.  (1)年齢役割――子ども・若者・大人・中年・老人▼11
      2.  (2)家族役割――夫・妻・長男・親・母・末っ子・一人娘▼12
      3.  (3)性役割――男・女▼13
      4.  (4)職業役割――医師・看護婦・教師・ガードマン・役人・軍人・事務員・セールスマン・営業マン・研究員▼14
      5.  (5)組織内の地位・職務――平社員・主任・課長・部長・社長・ディレクター・プロデューサー・カメラマン・タイムキーパー・スポーツの各ポジション▼15
      6.  (6)状況的役割――受験生・浪人・失業者・討論会の進行役・ゲスト・隣人・観客・遺族・新郎新婦・病人・患者・被害者・加害者・よそ者・恋人・リーダー・子分・いじめっ子・傍観者・送り手・受け手▼16
      7.  (7)逸脱的役割――犯罪者・前科者・変わりもの・変質者・精神異常者・不良少女・ツッパリ・同性愛者▼17
      8.  (8)性格類型――お人好し・頼りがいのある男・淋しがり屋・うそつき・おせっかい・スポーツマン
    20. ミードによると社会化は役割の学習によって進行するものであり、他者の役割と態度を自分のものにすることによって可能になる過程である。これを「役割取得」(role-taking)より正確には「他者の役割を取得する」(taking the role of the other)という。・・ミードは晩年これを「他者のパースペクティヴに入る」といいかえているから、これで納得してもらってもかまわない。
    21. このなりゆきが「同調」であるか、それとも「自己実現」であるか、判断はむずかしい。「同調」(conformity)とは、集団内の他の人びとと同じ意見・態度をとることであり、「自己実現」(self-realization)とは、自分の人格と能力と個性が十分に活かされ社会的にも評価されることである。この問題を考えるためには、もう一度「役割取得」のメカニズムに立ち戻る必要がある。
    22. このようにひとつの役割であっても、矛盾するいくつかの役割期待と個性的反応をふくんでいるわけで、正確には「役割内葛藤」(intra-role confict)という。
      1. ここから考えると、ひとりの人物が複数の社会的場面で遭遇するさまざまな役割期待が矛盾しないわけがない。たとえば社内の人望を集めている有能なエリート部長という役割と、妻にも子供にも相手にされない所在なき父親という役割のように、こちらの方は「役割間葛藤」(inter-role confict)という。
    23. たとえば、メリーゴーランドに乗った三才か四才ぐらいの子供であれば、規則的にゆれる木馬を一生懸命乗りこなそうとするだろう。この場合、その子は「メリーゴーランドの騎手」の役割を完全にうけいれている。
      1. ところが五才ぐらいの男の子となると、こうはいかない。鞍の上に立ったり、ひつくり返ってみたり、とにかく余裕で乗りこなせることを誇示するようになる。
      2. 七才か八才ほどになると、ふざけたりさまざまな限界に挑戦したりする。
      3. 十代になると、今度は積極的に競馬のしぐさをしたりして「メリーゴーランドの騎手」の役割を〈冗談〉として引き受けていることを表現しようとする。
      4. 大人になると、もっと複雑な技巧でもって〈冗談〉であることを表現する。
      5. あるいは、息子や娘の安全のために乗っていることを表す表情をしたりする▼5。
    24. 「コミュニケーションの現場で「現実に」生じていることを即物的に観察してみると、存在するのはふたつ以上の個体の動作のやりとりだけである。ここで第二章で示した「異邦人の眼で見る」ことにしよう。ふたりの人間のコミュニケーションの場面を異星人が観察しているとすると、まず人間Aが手をあげ顔面の一部を収縮しつつ顔面の中央突起の下にある穴から大きな音を発している。それに対して人間Bは歩くのをやめ首を前後に振りしつつ音を発して反応している。「おー、ひさしぶりだな、元気かい」「どうも、ごぶさたしてます」なんて会話も、異星人の観察ではこんなものだ。おそらくこれは動物どうしの場合も変わりないはずである。恋人たちの会話も犬のケンカも、いっさいの予断を排除して観察するかぎり、実在しているのは個体の「身ぶり」(gesture)だけである。」(http://www.socius.jp/lec/10.html
    25. 一般に、ある個体の身ぶりの意味を決定するのは、それに対する他の個体の反応である▼3。つまりポイントは「受け手の反応」にある。受け手の反応が送り手の行為の意味を決めるのだ。
    26. 「意味」は人間の心的状態に生じるものではなく、コミュニケーションのプロセスのなかに客観的に存在するものとミードは考える。
  1. 物理的な意味での情報伝達も、実は相手の動作を期待している、相手の動作が意味の中身である。
  2. 人的コミュニケーションでの記号も意味を伴う情報である。情報内容が状況によって決定され、変更される、ということだろう。
    1. コミュニケーションは反省的な過程であること。とりわけ人間コミュニケーションの本質はその「反省作用」(reflection)にある。これがあるために人間のことばはオームのことばとちがって「有意味シンボル」たりえるのであり、精神から創造的自我形成をへて社会形成に連なる独自の高度な文化的系列が可能になるのである▼9。
  3. 反省しない人々のコミュニケーションは、犬の遠吠えという。吠える犬は噛みつく力がない、ともいうが・・。ますます大声で吠えられると、うるさいね。
    1. おこった態度を示しながら「遊びたいんなら、遊んでらっしゃい」と反語的に叱る母親の場合、ことばとノンヴァーバルな動作・態度が分離・矛盾している。そのとき子どもは、ことばと表情の板挟みに陥る。第一主題の旋律と、それと矛盾する第二主題の旋律が、同時にコミュニケーションのプロセスに流れこむ。この対位法のなかで、子どもは母親のことばにしたがうと表情のメッセージに反するし、表情にしたがうとことばのメッセージに反してしまう。いずれにしても子どもは母親に反せざるをえない。このような状態を「ダブル・バインド」(double bind)といい、これが長期にわたってくりかえされることによって自閉症や分裂症の原因となるともいわれている▼2。
  4. 日本人は、コトバを信じないで、その人の過去の行動でその人の意図を判断する。というのは、ここら辺にあるのかも。
  5. 長いな、この論文。

「アクィナス

    1. 目的論的自然観:本性に内在する目的の実現を志向
    2. 階層的秩序観(神の理性としての永久法による)
    3. 有機体論:固有の役割が全体の完成に寄与
    4. 国家=自然の所産→共通善を保障
    5. 現存の封建社会を神学的、イデオローギー的に正当化
    6. 人間の本性・理性と国家の内在的価値を承認」(http://zatugaku.jp/po-th.htm

「「エンデがお金の問題を非常に根本的なものだと考えていたのは事実です。でも、もう少し広げて言うならば、社会(注2)という有機体は『自由・平等・友愛』の3層からなり、経済の役割というのはその中の『友愛』にあたるということです。誰しもが他人のために仕事をすれば、社会全体の利益になる。お金というのはそういった人々の経済活動が、血液のように滑らかに循環する目的で使われるのが本来の姿であるというわけです。お金がなければ社会は機能しない。ただ、お金を所有すること自体が目的となってしまったなら、それは経済を滞らせるガン細胞のようなものだと言っているのです」」(http://www.waseda.jp/student/shinsho/html/65/6519.html

「 ところが社会システムの場合、機械論的なシステム概念はもちろん従来の素朴な生物有機体論的なシステム概念では通用しないことがつぎつぎに指摘されるようになった。問題点はつぎの諸点である。

    1.  (1)部分の自律性――システムを構成する要素はそれ自体の自律性をもつ。たとえば、社会システムの構成要素として組織を考えてみると、企業にせよ軍隊にせよ政党にせよ、それ独自の自律性をもち、社会システムの維持に貢献しているだけではないし、貢献しているともかぎらない。また組織システムを構成する部分としての個人も、一定の役割を担うことでシステムの活動と維持に貢献していることになってはいても、現実には役割をずらしたり距離をおいたり反抗したりするのであって、いくらシステム概念が分析上の概念構成体だとしても、こうした現実のダイナミズムを説明できない▼2。
    2.  (2)非目的性――社会システムにあらかじめ定められた目的はない。社会システムは生物有機体のようにシステムの維持存続を目的としていない。
    3.  (3)構造生成性(morphogenesis)――社会システムはサーモスタットのように均衡をたもつメカニズムではない。たとえば生物有機体は維持存続のためのノーマルな構造がくずれたり均衡を失うと崩壊する[死]が、社会システムはその均衡がくずれても崩壊はしないし、こうでなくては崩壊するという固定的構造があらかじめ存在するわけではない。社会はたえず変化しつづける構造生成的なシステムなのである▼3。
    4.  (4)自己組織性(self-organity)――社会システムをなりたたせる諸要素は、あらかじめ設計図通りにつくられるのでもなければ、外部の環境に適応してつくられるとはかぎらない。それはシステム自体によって生産・再生産される。つまりシステムはシステム自体を創造するのである▼4。
    5.  最後の論点が生物学の免疫理論にヒントをえているように、以上の諸点は、かならずしも社会システムだけの問題ではないのだが、社会システムを構想するときには避けて通れない問題である。」(http://www.socius.jp/lec/04.html
    6. ドイツのニクラス・ルーマンである。かれは、前項でのべた新しいシステム論の立場を理論的に強化するとともに、権力・経済・法・宗教・家族などを「機能的に分化したシステム」として、つぎつぎにシステム論の俎上にのせている。現在、もっとも注目すべき存在といえよう。
    7. ルーマン抜きにシステム論は語れない理論状況である。しかし私自身がルーマンについてはフォローできていないので、ここでは、近年とり上げられることの多い二つの概念についての著作の紹介にとどめざるをえない。ひとつは「信頼」もうひとつは「自己言及性」である。N・ルーマン『信頼――社会的な複雑性の縮減メカニズム』大庭健・正村俊之訳(勁草書房一九九〇年)。ニクラス・ルーマン『自己言及性について』土方透・大澤善信訳(国文社一九九六年)。
    8. 他にも現代のシステム論キーワードとして「自己組織性」と「複雑系」がある。「混沌を通しての秩序」が眼目になる複雑系についてはさておくとして、自己組織性については、シンポジウムをもとにした次の本がでている。吉田民人・鈴木正仁編著『自己組織性とはなにか――21世紀の学問論にむけて』(ミネルヴァ書房一九九五年)。社会学者中心のシンポジウムなので、自己組織性が社会学にどのような意義をもつのかを考えるヒントになるだろう。

「ホワイトヘッドは 自身の哲学を「有機体の哲学」と呼び、更に後世の研究者は彼の思想を「プロセス思想」 と呼んでいる。」(http://www2.biglobe.ne.jp/~shoron/process.htm

    1. ・現実的実質(actual entity): ホワイトヘッド哲学の中心概念。“the final real things of which the world is made up” と位置付けられている。(注9)世界の全ての存在の根拠は現実的実質である。物質も、我々の意識も現実的実質から成っている。現実的実質は相互依存的であり、他の現実的実質との間で互いを反映し合い、互いを含み合っている。
    2. ・抱握(prehension):一つの現実的実質が生まれ、確定する上で、その現実的実質にとっての所与(感じ=feeling )を統一体へと統合する活動性。一つの現実的実質を成り立たせ、更にそれが次の現実的実質へと受け継がれる媒体となる。
    3. ・永遠的客体(eternal object):純粋な潜勢態であり、現実的実質の限定性は、この永遠的客体が現実的実質に実現され、例示されたものである。
    4. ・過程(process ):次の二つが「過程」と呼ばれる。
      1. 々臉検concrescense):主体がその目的(subjective aim)に向かって個々の所与(感じ=feeling )を一つの統一体へ統合していく過程。
      2. 移行(transition):ある現実的実質が後続する現実的実質に取って替わられる過程。「客体化(objectification )の過程」とも呼ばれる。
    5. 全体論との関係からまず注目しなければならないのは、主体と客体の相対性である。一つの現実的実質は主体として所与の諸「感じ=feeling 」を取り込むが、それらが統合され、合生の過程が終わって現実的実質が完結すると、直ちにその現実的実質は他の現実的実質の所与として客体化される。新しく生まれた現実的実質は過去の現実的実質の自己超越体(superject )である。現実的実質はこうした移行を経て数珠つなぎになった生成消滅の歴史を持つのである。このようにして、物質も我々の意識も、世界を構成するものは全て決して完結していないものとして自らを超え出ていく。「生成(becoming)」に基づく、主観主義とは異なった原理がそこにある。
    6. ホワイトヘッドの考える経験は、宇宙の中で様々な存在が相互に持つ有

機的諸関係に基づいている。我々の認識は意識的な経験であり、高度に抽象化されたも のである。ホワイトヘッドは意識的な経験と無意識的な経験を区別して「経験の契機」 としての現実的実質を考え、現実的実質のレベルでの経験に相対的な主体・客体の構造 を導入したのである。

    1. 現実的実質は集まって有機体(organism)を組織する。
      1. 現実的実質の集まりを結合体

(nexus )と呼ぶが、

      1. 有機体は秩序を伴う結合体である「社会(society )」によって成り立っている。
      2. 現実的実質が客体化の連鎖によって数珠つなぎになる場合、その連鎖を通じて継承されてゆく複合的な永遠的客体がある。
      3. この永遠的客体は社会にとっての限定的性格(defining characteristic )であり、
      4. これによって秩序づけられた結合体が「社会」なのである。更に、
      5. 有機体は「構造化された社会(structured society)」である。構造化された社会は「生きている社会(living society)」とも呼ばれる。
      6. 構造化された社会は従属する下位的な社会を構成要素として持ち、その全体は下位的な社会との間に内的構造関係を持つ。
      7. このような社会では全体と部分が統一され、しかも全体を部分に還元することもできなければ、部分を全体に解消することもできない。
      8. これに対して「特殊化されている社会(specialized society )」がある。「特殊化されている社会」は、その安定性を支えている環境の性格が重大な変更を起こすと、存続できなくなる社会である。
  1. ようは、システム論だね。問題は、システムは、いかにして、認識可能か、ということになるだろう。
      1. 我々は「高度の複合性をもって構造化されていると同時に特殊化されていない社会」(注13)を求めなければならないということである。
      2. つまり、人間を下位システムとする協働システムのあるべき姿を、「生きている社会」のシステムに即して理解することができるわけである。(注14)
      3. かくして、システムの巨大化に伴う人間と科学の間の軋轢・技術社会と個人の間の軋轢は、有機体論を方法論として取り入れる方向に向かうであろう。
      4. また、ホワイトヘッドの有機体論の論理的な構造に着目すれば、出来事(event )としての心身問題を扱う分析哲学の議論にも新しい視点を導入することができる。
      5. 例えば有機体の死を出来事とプロセスの両面から検討することで、生命倫理に寄与することも考えられよう。(注15)
    1. ホワイトヘッドによると、ベンサムの「功利主義の原理」とコントの「実証主義」は理論としての力よりも現実に働く原則として世界を支配した。そして彼らの思想の特質は「ストア的な形而上学説の拒否」「ストア派の知的な壮大さの欠如」である。
  2. じゃ。
    1. ベンサムとコントの思想は、ニュートンと同じ試みを道徳や政治の理論へ拡大するものだった。彼らは形而上学に頼らず、人類共通の道徳や政治の理念を構築しようとした。しかし、ホワイトヘッドによればニュートンの場合の「運動法則」に当たるものを彼らは持たなかったのである。それは、社会を統一し、秩序づける原理が「情緒」だからである。なぜなら、物理法則は対象と観察者との間で何回実験を行なっても変わらないものであるが、「情緒」を法則づけるために観察者が対象としての「人間」に接する場合、「接する」という行為そのものによって観察者と相手との間には新しい関係が生じてしまうからである。
    2. ホワイトヘッドによれば、ベンサムの「最大多数の最大幸福」というスローガンには、「幸福」を数量化して考える特徴が現われている。
    3. 自然淘汰のアナロジーである現代の「競争社会」では、優れたものが劣

ったものを支配するのは「科学的真理」であって、道徳的問題ではないと考えられる。

  1. へー、そーかー。そーだったのかー。
    1. こうした結果がベンサム・コントによる「根源的な宇宙論の原理(形而上学)の欠如」から出てくるとホワイトヘッドは予言していると言えよう。
    2. 「生成」を第一義とする形而上学的一般化は、科学と宗教その他の人文諸科学との間の断絶を埋めるだけではなく、キリスト教と仏教・東洋と西洋の文化的枠組を超える交流の試み(言わば宗教を超えたエキュメニカル)を支える思想的基盤ともなっている。

「パーソンズとルーマンの社会システム論は自然を理論化することに成功していないとし、彼らよりずっと以前に、社会有機体論によって社会システムを「開放システム」として理論化したスペンサーのほうが、はるかに自然を社会学として理論化することに成功していた」(http://wwwsoc.nii.ac.jp/jashs/2000syou.html

「生物体だけが有機的構造をもつのではなく、人間の社会やその歴史の過程がやはり有機的構造をもったものとして考えるべきではないかと考える人びとが出てきたことです。その人びとの中心がやはりヘーゲルでした。人間の社会も一種の有機体であり、けっして部分品の寄せ集めのような機械的構造のものではないと彼は考えました。原始社会が成り立つときを考えてみますと、一人ひとりの個人がばらばらにどこかからやってきて、社会が生まれたのではない。初めから集団で人間は生活していて、やがてこの集団が全体として人数も増え、発達した構造の社会をつくるようになり、生産力も増大し、文明をもつようになった。初めから人間の集団は有機的構造をもった共同体であったと考えるべきではないか。ヘーゲルたちはほばそのように考えるようになりました。」(http://www.philosophy.gr.jp/contents/seminar/materialism/008.html

    1. 「ヘーゲル以前には社会についてもこれを機械論的に考える傾向が有力でした。たとえばイギリスのホップス(1588〜1679)などのように社会や国家は個人という部分品の集合だと考えていました。最初の人類は個人個人がばらばらで一匹狼のように生きていた。しかしそれでは何かと不都合なので集まって相談して、一人ひとりはこれまでどおり自由でありたいが、「生命・財産の自由」だけはお互いに侵害しないようにしょうと約束した。これが社会契約であり、こうやって国家ができたと説明しました。」
    2.  したがって各個人はもとより、国家機構も国王も国家という機械の部分品であるというわけです。国王は国民に社会契約を守らせる役をもった部分品です。だから国政がうまくいかなかったりすると、たとえば国王というこの部分品が故障しているのではないかと考え、故障ならいつでもこれを取り換えたらよろしいと考えました。そのかぎりでは当時としては進歩的な考えでしたが、ヘーゲルはこのような考えは社会や国家を機械的に考えていて、正しくないと考えました。
    3.  ヘーゲルは国家も社会も有機的構造をもっており、一つの全体として内的要因(自分自身の内部の必然性)によって、歴史的に発展するもので、いわばそれ自身の生命をもったものだと考えました。社会や国家やその歴史は機械論的思考では解明できないもので、これは有機体として考えるべきだということです。このヘーゲルの考え方は近代的弁証法がうち立てられる重要な基礎となりました。
    4.  このようにものごとを機械論的に考えるのでなく有機体として考える思考法を有機体論といいますが、あまり有機体論を強調しすぎて、かならずしも有機体でないものまで有機体だと主張するようになると、全体の調和だけを重んじる保守的な考え方になってしまう点を念のためここで指摘しておきましょう。社会や国家はたしかに有機体としての構造をもっていますが、全体の調和だけを強調すると現状維持の保守主義になってしまいます。
    5. 社会や国家は有機的構造をもちながらも、内部矛盾をもっており、これが原因となって全体の調和が破れて、体制の変革がおこるという歴史の現実があります。この面を見落す傾向をもっていますので、有機体論は全面的には肯定できない面をふくんでいます。ヘーゲルの考え方のなかにはそのような有機体論の弱点もあるのですが、それにもかかわらず彼の有機体論は近代の機械論的思考を克服して弁証法的思考を打ち立てるときの重要な出発点でもあり、また近代弁証法の本質的要素ともなっている点は高く評価しうるところだといえましょう。
  1. そうか、機械論→弁証論、有機体論となるわけか。

「社会を生物とのアナロジーとしてとらえようとした説。H.スペンサーの学説が有名であるが,彼は生物と社会との同質性と異質性を認識していながら,社会分析法としての有効性を主張している。彼によれば,生物と同様に社会も進化し,軍事型社会から産業型社会となる。適者生存が行われて社会環境に適合する人々が優越した地位を得る。また,分業によって社会のなかでそれぞれの役割を担うと説く。この学説は社会進化論とエリート論を含み,階級や身分を特定することになり,全体主義や身分制のイデオロギー的支柱として流布された。しかし,〈スペンサーは死んだ〉との名言が20世紀に吐かれて,社会有機体説はすでにその有効性を失ったが,別の観点からすると,構造・機能分析として新たな蘇生をもたらしたともいえる。社会の機能とは,生物の諸器官の機能とのアナロジーとしてとらえられる。T.パーソンズの社会体系論では,A(適応)・G(目標達成)・I(統合)・L(潜在性)の機能に相当する。」(http://www.tabiken.com/history/doc/I/I090C100.HTM

「シュタイナーのいう、「社会有機体3分節」ってとても意味深いんですよね。  つまり、人体の中には、精神活動にかかわる頭脳=神経系、物質活動にかかわる代謝=運動系、上記の両者を相互に調和的に結び付ける、呼吸=循環系という3分節化された働きがあるってそれぞれの組織に、思考、意志、感情という3つの魂の力を実現するという目標があるとされています。  これと同じように、「社会有機体」も、精神活動にかかわる精神生活、物質活動にかかわる経済生活、上記の両者を相互に調和的に結び付ける国家=法生活という3分節化された働きがあって、この3つの生活形式には、自由、友愛、平等という3つの目標が与えられているとされています。  つまり、精神生活における自由、経済生活における友愛、国家=法生活における平等です。  ・・ シュタイナーがこういう考え方を提唱したのは、人間の有機体の研究を通じて、人体の中に、精神活動に関わる頭脳=神経系、物質活動に関わる代謝=運動系、そして両者の働きを相互に調和的に結びつける呼吸=循環系という三分節化された働きを見いだし、それぞれの組織にそれぞれ思考、意志、感情という三つの魂の目標があるということを認めるようになったことからきているようで、社会有機体も、精神活動に関わる精神生活、物質活動に関わる経済生活、そしてその両者を相互に調和的に結びつける国家=法生活をもち、その三つの生活形式に、それぞれ自由、友愛、平等という目標が与えられる、ということなのです。」(http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner/usw/sozial.html

  1. 権力独善論じゃないのね。

「シンボリック相互作用論」(http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4716/symblicinteraction.htm

    1. シンボリック相互作用論のポイント
    2. 人々は、世界における対象を、なんらかのかたちで翻訳・解釈し、その解釈に基づいてなんらかのアクションをとる
    3. 物事を解釈する際に必要となる「意味」とは、人々の社会的な相互作用によって生み出される
    4. 意味は、継続される翻訳・解釈のプロセスにおいて扱われ、修正される
    5. 意味形成というのが、人々の行動における基礎的な要素であるということであり、意味をどう形成させていくのか、どのように物事を解釈するのかということが、行動のある意味での決定要因であると考える。行動とはプロセスであり、その時その時に生み出される知識も、それがまた解釈の過程に用いられるなど、常にプロセスの中で私たちは存在している
    6. 集団行動を考える時、それは、なんらかの意味が人々の間で共有されていることが重要となる。ということは、意味が共有するに至るためのコミュニケーションや、言語の特徴といったものも重要な役割を担っていることがわかる。
    7. 組織の中には、そういった社会的相互作用の過程で意味の共有化が蓄積され、常識とされるようなものになったものが存在する
    8. 組織を理解するための方法として、日々の生活、1分1秒ごとのプロセスにおいて、人々がどのように行動し、コミュニケートし、意味を共有させるプロセスを働かせているのかといった経験的事象に注目するのがよい。

統治行為論を最高裁が採用することは、憲法の番人であることを辞め、行政権力=任命権者=の番犬であることを自認することに他ならない。

  1. 番犬は、ご主人様の違法行為を指摘しないモノだ。
  2. そもそも、憲法は政治性の高い領域についての法規範なのだ。政治性が高いから判断しないというのでは、三権を分立した趣旨が没却されてしまうことになる。
  3. 苫米地事件で、最高裁が統治行為論を採ったのは、高裁の裁量理論では違憲になる=条文上裁量権を認める解釈は成り立たない=という判断があるのではないか? とすれば、なおのこと、憲法の番人であることを辞めてはいけなかっただろうに。憲法の趣旨から考えていくと、解釈もその趣旨にそって解釈しなければならないので、形式上の文言解釈ではすまなくなる。
  4. 番犬の《背後者回路》とは? 三下の《背後者回路》とは? 『群れの中の私』という自己認識。《ちから》あるモノ=かなわないモノ=追従すべきモノ=の存在の認識。追従ザル《背後者回路》か。三下裁判所、追従裁判所。

日本人は分裂を好む。

  1. 日本人は小集団を好むので、大集団の統一を嫌う。
  2. よって、統一規格を好まない。規格を統一することを嫌う。
  3. よって、欧米人が統一した規格に追従するほかなくなる。
  4. 日本人は大集団での団結を好まない。小集団での馴れ合いを好む。
  5. 日本人は人為的な法を嫌う。法の前では思考停止になる。
  6. 小集団主義の《背後者回路》は?
  7. 法という言霊に呪われてしまう。
  8. 呪いの《背後者回路》は?

排他的民族主義者には反省力が欠如しているのだろう。

  1. サルの反省、というのがあったな。反省を揶揄しているのだろう。が、反省できないヒトはサル以下であり、アメーバ並みであることに気がつかなければならない。
  2. 反省、自らを省みること、を教師による懲罰的嫌がらせとしが感じていないのだろう。

「1980年に無謀な人体実験まがいの遺伝子治療を手がけ、批判を浴びた米国のマーチン・クライン博士は「科学研究は多数決により進歩したためしはない」と言い放った。生命倫理をめぐり開かれた米議会の小委員会だった。」(http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/essay/serendipity.html

  1. 知的なヒトの傲慢。
  2. 悪魔の知性・・、も知性には違いない。悪魔の知性も、遅かれ早かれ、人類の知性の中に組込まれる。

モノたちは動きたがっている。

  1. モノたちは、動く口実を求めている。
  2. モノたちは、口実がないと動けない。4原因説。内部状況の口実、外部関係の口実、過去からの口実、未来への口実。

2005-07-20(水)

共振しつつある身体の背後者回路:

  1. 共振しつつある身体の《背後者回路》目的は身体的な動きである。
  2. 《思いこみ》としての『目的』は身体的な動きという目的のための手段・口実である。

「複数ある組み込みLinuxベンダの中でモンタビスタが機器メーカーから支持されるのはなぜか。有馬氏は「テクノロジ開発でリーダーシップを取り、そのテクノロジをコミュニティにきちんと還元しているから」とズバリと答える。同社はLinuxを組み込みシステムで活用するうえでのさまざまな課題(電源管理、メモリサイズ、リアルタイム性など)に対して技術改良を行い、それをLinuxコミュニティに還元しているという。その理由は、自分たちの技術改良のアイデアを標準化することでコミュニティによる継続した開発、保守が期待できるからだ。  「モンタビスタに任せておけば、コミュニティ活動を立ち上げてくれる。半導体メーカーやセットメーカーからすると、この部分のメリットが大きいのではないか。1社独占の技術だと、ずっと同じ会社に開発、保守を頼まなくてはいけない。それでは頼む方も不安だし、頼まれる方も負担が重い。コミュニティに還元され、標準化された技術ならば、世界中のエンジニアが共有して育ててくれる。クローズドな世界と比べ、シナジー効果が期待でき、テクノロジの進歩も速い」  モンタビスタは、オープンソースのコミュニティモデルをいまでも最大限にビジネスに活用しているといえよう。それでも、コミュニティの中で率先して技術改良に貢献することにより、技術的なアドバンテージを常に保つことができる。1つの技術改良がコミュニティの中で標準として承認されたころには、製品への適用が終わっているというわけだ。  例えば、Linuxのビジネス利用を推進するためのコミュニティ「OSDL(Open Source Development Labs)」が定めたキャリア向け仕様「Carrier Grade Linux 2.0」に準拠した製品をすばやく市場に投入している。それは、モンタビスタがOSDLへ技術改良を提案し、仕様策定にかかわっているからである。」(http://www.atmarkit.co.jp/flinux/embedded/00montavista/montavista01.html

《共振しつつある身体》は日常的思考・実践的思考・目的的思考の主体である。

2005-07-19(火)

「セレンディピティ」(http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/essay/serendipity.html

  1. 発見は目的の隣にある。

「教師が一番扱いにくいと感じる学生は、自分が「馬鹿」であると信じ込んでいる「馬鹿」だ。「馬鹿」だから何をしてもダメだという固定観念が悪循環を作る。」(http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/essay/serendipity.html

  1. 「先人が何を言っているか知ることは大切だ。しかし、先人の言うことが正しいとは限らない。そんな姿勢が大切だ。」

カオス的脳観』読み終わったよ。さて・・。

《息しつつあるモノ》との対話:

  1. 君には生きる楽しみってものがあるのかい?
  2. ふーむ、そうだな、他のモノどもを生かすことだな。
  3. ということは、君が諸悪の根源か。他のモノどもが苦しんでいても構わない?
  4. 僕は僕の楽しみを知っている。他のモノどもが彼らの楽しみを知っているかどうかは、僕は知らないよ。君も、君が他のモノどもを生かしているということに気がついたほうがよい。君が存在して、他のモノどもに見られたり、引力を感じられたりすること、それが、君が他のモノどもを生かしているということさ。

ムマは《思いこみ》を吸い取るブラックホールという《思いこみ》である。

2005-07-17(日)

カウンセリングと《背後者回路》

  1. カウンセリングは《背後者回路》噴出させる。
  2. 狂気・妄想は《背後者回路》を抑圧することによって生じる。
  3. 《背後者回路》噴出させることは、それ自体として、抑圧しないこと、の学習である。
  4. 《背後者回路》噴出させることは、おそらく、それの自覚が効果をもたらすのではない。抑圧しないこと、の結果として自覚が生じるかもしれないが、自覚が目的でもないし、自覚によって効果が生じるわけでもない。だろう。

愚民化政策の《背後者回路》

  1. 権力者たちの自己保身にあることは確か。
  2. 愚民化政策の反対は啓蒙主義というのか。啓蒙主義の《背後者回路》は、民主主義だな。
  3. 啓蒙主義に反対する民衆の《背後者回路》は? エリート意識に対する反発。エリート意識に対する反発を煽る、というのが権力者たちの作戦だったのか。
  4. 賢さを嫌悪する人々の《背後者回路》。「純真」主義の《背後者回路》。赤子信仰、というのは、天皇主義者の陰謀だったのだろう。本居宣長か・・。医者なのか、浄土宗だって(http://www.norinagakinenkan.com/about_norinaga/rirekisyo.html)。
  5. モノのあはれ。モノとしての感性はもつべきである。が、それだけでは、《ヒトの群れ》からの逃避でしかない。モノのあはれの《背後者回路》は、《ヒトの群れ》からの逃避である。
  6. モノのあはれは、追従ザルボス猿からハグレ猿への成長である。自立であり、自律を知ることである。しかし、再び、《ヒトの群れ》に戻るべきである。
  7. 宣長が純真主義であったとは思えない、古典を合理的に分析したヒトなのだ。漢籍に基づく偏見を排除して合理的に分析することを主張したヒトなのだ。
  8. 宣長の研究結果を、政治的に、愚民化政策の正当化のために利用した人々がいるのだ。
  9. で、愚民化政策を喜んで受け入れた人々がいたのだ。
  10. 愚民化政策を喜ぶ民衆の《背後者回路》。ようするに、考えるのは面倒なのだ。思考経済の問題なのだ。めんどくさいことを考えずにすむなら、考えないことが種族維持的価値を有する行動様式なのだ。問題は「面倒くさいことを考えずにすむ」というわけにはいかないということだ。奴隷的隷属を好む人々の《背後者回路》。あれか「ブタさん曰く、他のブタが人間に食べられても《私》には関係ないわ。だって、《私》は(まだ)食べられていないもの」。これだな。だけど、これは想像力の欠如。「結婚は想像力の欠如である、離婚は忍耐力の欠如である、再婚は記憶力の欠如である」。ま、そんなものではある。が・・。
  11. 想像力の欠如の《背後者回路》。もともと、ヒトは、サルの状態で生まれてくるのだ。想像力が欠如した状態で生まれてくるのだ。想像力は、教育によって育てられるモノだ。

説明を聞いて、間髪を入れずに「なるほどぉ」とか「分かりました」というヒトは、大体において理解していない。

  1. 考えて、理解するまでには、時間がかかるはずなのだ。
  2. 単純な命令を聞いて「はい」と答えるのとは意味が違う。

東大に二桁入ったら、(その都立高校に)クーラーをつけてやる、って????

  1. 都教委の発想・知的レベルって、この程度なの??

王朝貴族の感覚主義の世界だな。

  1. 感覚力への賞賛。
  2. 知識量はその人の能力評価には値しない・・ふむ、健全じゃ。
  3. 知的処理能力は軽蔑すべき能力である・・ふむ。飼い主に媚びる能力であるとみなされているのか。いい子ぶっている。「いい子ぶる」ことへの蔑視の《背後者回路》
  4. 「お互いのスタイルを評価する尺度として重視されるのは、知識の真理性や蓄積している情報よりも、センスとリアリティである。この場合、リアリティとは、各人が生きている文化の現実性ではなく、その文化を生きる一人ひとりの「思い」の深さ、純粋性や強さを意味する。相手のセンスやリアリティが自分に伝わってくる場合、「きてる」と言う。」(http://www2.tokai.or.jp/s-koukyouso/hanjyuku/hanjyuku03_rep02.htm

ペルソナと「踏み込まないというルール」。

  1. http://www2.tokai.or.jp/s-koukyouso/hanjyuku/hanjyuku03_rep02.htm
  2. ネタをパフォーマンスして、各人がキャラを形成する。「キャラが立っている」ことのこの文化内での存在証明であり、自己形成なのだ。

基礎力低下は「基礎力が多くなり過ぎている」ことに起因している。

  1. 知的欲求の低下が問題。
  2. 「基礎力」=「知的欲求と知識取得能力」。
  3. 「基礎力」=「知識量」という誤解。

《知りつつある混濁》

  1. 《混濁》《知りつつあるモノ》は、自らを《知りつつある混濁》なのではないか?

アメリカは日本の三下国家ぶりにあきれて、イラクでの希望も失ったのではないか?

《求めつつあるモノ》は安定しない。

  1. 《求める思いこみ》を維持しつつあるモノ、と、《知った思いこみ》を維持しつつあるモノ
  2. 流れ星に願いをかけることが困難なのは、《求めつつあるモノ》を維持することが困難であるということ。
  3. 《知りつつあるモノ》は「《知った思いこみ》を維持しつつあるモノ」とは別か?

実行実行犯4人逃げるつもり?ロンドン近郊から往復切符(Yomiuri)ーだまされたのかな http://www.asyura2.com/0505/war72/msg/235.html

2005-07-16(土)

「講義は・・或る人々は何もかも厳密にと要求するが、他の人々には厳密であることそのことが

  1. その理路に従っていゆく能力が彼らに欠けているがためにか、あるいは
  2. 小理屈だと見下げられてか−−いやがられる。・・
  3. 或る人々にはこれは非紳士的なことのように思われている。」(p.78)

「排中律、矛盾律」(p.85)

  1. 「権力は善である」か「権力は善でない」かのいずれかである(排中律)。
  2. 「権力は善である」と同時に「権力は善でない」ということは不可能である(矛盾律)。
  3. 「権力は善である」と同時に「権力は悪である」ということは言える。ということは、「悪」は「善の否定」とイコールではない。ということだな。《快》《不快》は排他的ではない、から、xxが生じるのだ。
  4. 戦争と平和は、排他的なのではないか、つまり、戦争は平和の不在(否定)とイコールであり、平和は戦争の不在(否定)とイコールなのではないか? もっとも、定義しだいなのだか・・。というか、《ヒトの群れ》の状態としての戦争状態と平和状態というモードの違いなのではないか? 状態の中間携帯は存在するとしても・・。というか、戦争は《ヒトの群れ》の他の特定の《ヒトの群れ》との関係におけるモードだな。
  5. 排中律というのは、ある瞬間のある視点からのモノに対するコトバによる評価の問題なんだよね。
  6. 輪郭の問題でもあるな、戦争の時間的輪郭は何時から始まり、何時で終わるのか? 虹の輪郭はどこからどこまでか? 戦争の輪郭は戦争の定義による。虹の輪郭はそれを見るものの視力による。
  7. 事物を輪郭によって区別するのは、実際にはかなり難しい、というか、主観的な作業である。しかし、ヒトは、輪郭によって事物を区別しているのである。ヒトには、輪郭によって事物を区別する能力がある。ヨースルに、ヒトは適当に区別している、ということだ。このことを理解していない人が非常に多い。たけ(tk)も、事実認定の難しさは、法律を学ぶまで気がつかなかった。分かりやすいのは http://www.htmq.com/color/index.shtml の「WEBセーフカラー」から「茶色」に属するモノをすべて抽出せよ。という問題かな?
  8. 事実認定の難しさを知らない人の《背後者回路》は、たんに、事実認定をしたことがない、というだけの話。

「理論的な学の目的は真理であるが、実践的な学の目的は行為である」(形而上学・上、p.72)

  1. 分かってらっしゃるのだよなぁ・・。

「同じ性質を有するものどものうち、或るものの性質がそれによって他のものどもにもその同じ性質が属するに至るような性質であるとき、この或るものが他のいずれよりも最も高度にこの性質(事物の原因としての性質)を有している・・各々のものはそれぞれの有する存在の度に応じて、その程度の真理性をもっている」(p.72)

「各々の感覚的事物はそれぞれの名前のイデアに従いそのイデアとの関係においてそう名づけられる」(形而上学・上、p.46)

  1. 「名前のイデア」との関係において「そう名づけられる」というだけの話ではないか。これはイデア唯名論
  2. 「或るイデアと同じ名前をもつ多くの感覚的事物は、そのイデアに与かる(メテクシス=まねる、ミメーシス?)ことによって、そのように存在する」(p.46)こっちは、イデア実在論。
  3. 「或る事物の実体がこの当の事物から離れて存在しているということはあり得ない」(p.62)。
  4. 「知恵は明らかな事象の原因についての探求であるはずなのに、我々(プラトン学徒)はこれを放棄している−−というのは、転化の始まる原因についてはすこしも説いていないからである−−そして、我々は、この明らかな事象の実体について説明していると思っているときには、実はこれと別種の実体の存在を主張しており、しかも、いかにしてこの実体があの事象の実体であるかを説明するには、空語をもってしている。というのは、脇に述べたように、あの「与かる」というのは意味のない言葉だからである」(p.66)
  5. 23個の理由を挙げて批判している。

《宇宙史》は、素粒子のパラメータの多次元座標の一本の軌跡で表される。

  1. 《宇宙史》は、元素+αのパラメータの多次元座標の一本の軌跡で表される。
  2. 《宇宙史》は、分子+αのパラメータの多次元座標の一本の軌跡で表される。
  3. 人類は、分子+αのパラメータの多次元座標の一本の軌跡で表される。
  4. 素粒子レベルのモノ→原子レベルのモノ→分子レベルのモノ→細胞レベルのもの→個体レベルのモノ→群れレベルのモノ。で、パラメータ主義はどう変わるのか?。何をモノとして輪郭を描きだすか?何をそのパラメータとして抽出するか?

「およそ感覚的な事物はことごとく絶えず流転しているので、これらの事物については真の認識は存しえない・・共通普遍の定義はどのような感覚的事物についても不可能である」(形而上学・上、p.46)

  1. それだけにしか適用できない概念(コトバ・固有名詞)でしか認識できない。
  2. 語りえないモノ、である。?。
  3. 《モノの世界》コトバで正しく表現することができないモノである。
  4. コトバによらない認識は可能。直観
  5. 「真の認識」というのは「コトバによる認識」だろう。コトバによる認識というのは、ヴィトちゃんのロゴスの世界だ。説明のコトバ(アリストテレスのロゴス)の世界。でも同じだろう。
  6. 固有名詞や集合名詞によって指し示された基体もしくは基体の集合という形で、指し示すことができる。ということは、説明可能というべきであろう。
  7. 変転流転は、パラメータの変化で表すことができる。もし、モノがパラメータで表現できるモノであるなら。
  8. モノはパラメータで表現することはできる。が、パラメータでの表現は、そのモノの何たるかを表現していない。《私》の目の前のコップは、パラメータの集合(p1,p2,..pn)で表現することができる、が、パラメータの集合(p1,p2,..pn)が《私》がコーヒーを飲むときに使うモノであることを示すことができないだろう。

「もうひとつは「自分は相手に愛されている。相手が冷たいのは周囲に気兼ねしているからだ。」という妄想(被愛妄想)に陥ってる場合です。 自分の願望から出た空想と、現実との境界が曖昧になり、空想と現実を混同して行動するのです。 こういった妄想にとりつかれると、自分を客観的に見ることができなくなり、あらゆることを自己中心的に考えるようになります。 芸能人等、本人とはまったく接触のない人を対象にしたストーカー行為は、こうした被愛妄想がベースがなっています。 深層心理には、母親から無条件に愛される時代への「退行」があるとも指摘されています。」(http://homepage3.nifty.com/dream-emerald/mentalfile18.html

  1. ストーカーの《背後者回路》とは?

痛い人=自分は可哀想だと思っているヒト。見ているこっちが痛いよ。

「若者のコミュニケーションの鉄則に、「踏み込まない」ということある。自分のスタイルを安易にさらけ出さないように、相手の文化にも安易に介入はしない。  そして、そのコミュニケーションは、お互いのポジションをさぐり合い、スタイルを確認し合う手続きである。そのプロセスでは、「自分って……じゃないですか」「わたし的には……なのね」などといったことがよく言われる。  一方、大人は安易に、若者の文化の中に土足で踏み込もうとする。そして、「地雷」を踏むことも多々ある。」(http://www2.tokai.or.jp/s-koukyouso/hanjyuku/hanjyuku03_rep02.htm

  1. 何事かをなす、ためには踏み込みあうことが必要になる。

「阿部謹也『学問と「世間」』(2001年6月20日初版第一刷発行・岩波新書)は、学問論。西欧的な「社会」や「個人」や「人権」ということは学校で教えられ、言葉のうえでは存在することになっているが、実際人々が生きているのは、そうした言葉が「建前」としてしか通用しないような、特定の「世間」だ。今だに教育はこの「世間」のことだけは教えない。。。「世間が許さない」「世間というのはあなたでしょう。」と悲痛に書いたのは晩年の太宰治だが、そういうギャップに悩んだことのある人の中には、この西欧中世史を専門にしていた歴史学者だった著者が、突如日本の「世間」を研究テーマにして論述を発表しはじめた時、ひそかに注目した人もいたことと思う。この国の学者インテリが尊敬されないのは、この「世間」と「個人」のダブルスタンダード(二枚舌)を平然と使い分けているように見えるからだ。。ということで、本書は「世間」と日本の学問の現状、その展望について書かれた果敢な本だ(ただし一般の生活感情と「世間」については、別様の考察も読んでみたい感じがした)。「世間」についてのこれまでの著者の本は「一般の人々からは多くの賛同と応答を得ているが、学会に属する人たちからはゼロに近い反応か反発しか得ていない。」(96頁)という。ううむ、本書も黙殺なのであろうか。」(http://www.linkclub.or.jp/~kiri/r987b.html

  1. 学会の反応がないのは、学会の人々は翻訳業者でしかないから、翻訳の必要が無い本では、自分の出番が無いからだ。
  2. 『世間』という《思いこみ》は、小集団主義的な《ヒトの群れ》の自覚世界への鏡像であろう。

「スタイルの違うもの同士の文化的交流では、お互いの持ち合わせている文化が、コミュニケーションの道具としてつかわれる。そこで、重要となるのは、それが「ネタ」として有効にはたらいていくかである。ネタを繰り出すことが、パフォーマンスで、このパワーも問われる。そして、ネタをパフォーマンスして、各人がキャラを形成する。「キャラが立っている」ことのこの文化内での存在証明であり、自己形成なのだ。  ここでは、相手ののポジションを認める「やさしさ」は不可欠で、質問を「ふる」こと、適切に「つっこみ」を入れること、相手が何を言っても「かえす」ことも、コミュニケーションではとても大切である。  青少年の文化世界は、私たちが抱く通念とは反対に、高度に、そして特有に社会的なのである。互いのスタイルに感度がよく、ネタをパフォーマンスして、キャラを確立できるものだけが、「文化エリート」になれる。」(http://www2.tokai.or.jp/s-koukyouso/hanjyuku/hanjyuku03_rep02.htm

  1. 芸人がモデルだな。彼らが毎日見ているテレビの芸人たちが、彼らの規範なのだ。
  2. 「「自分自身の将来についても親と同じような展望をもてない」  若者のケータイデビューは中一から中二の間、「メールに即レスしないような『無神経』な振る舞いはダメ」「互いのポジションを素早く察知してお互いを許しあう技と努力。」「場の雰囲気を盛り下げず、時にはハジケ、互いに安心出来る状況づくり。」「グループに属し、他のグループとうまくやっていく事。(多様化したサブカルチャーのなかで階層化、分化が進んでいる)」「キャラをたて、場の維持に役立つ『ネタ』を用意する。」「自分の思った事を言う、というのは『空気を読めない』『ジコチュウ』な振る舞い。」  などなど、小学校中学年からはじまる洗練された配慮の世界。  人間関係とは、自分に必要でふさわしい「装備」。」(http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi?mode=all&loadno=5297&resp=1&page=
  3. ケータイは人類の行動様式を変化させる、だろう。空間を越えたリアルタイムの《ヒトの群れ》。ケータイ人類というべきモノに変化する。しかしなあ、刹那的なその場限りのお友達の重視。お友達中心主義、は生産的ではない。人類に必要な物資が確保できないだろう。刹那的なお友達中心主義の《快》のために、いやいや働く、というパターンか? 文明的な成熟に伴う文化的な退廃現象という普通の現象か。
  4. お友達中心主義の《快》を求めれば求めるほど、自分を失っていく。お友達中心主義は「自分」を排除する、排斥し、侮蔑する。
  5. 「自分」を求めるモノは、「自分」を得ることができたとしても、それをお友達中心主義の《ヒトの群れ》の中にさらけ出すことはできない。よって、引きこもるほかなくなる。お友達中心主義の《ヒトの群れ》においては、もともと「自分」は各参加者の中でも引きこもっているモノなのである。引きこもりつつある「自分」を発見したモノは、引きこもりつつあるモノでしかあり得ない。
  6. お友達中心主義というのは、幼稚園的発想だな。その発想の《ヒトの群れ》が教室とケータイによって維持され、テレビによって強化され、若者文化として発現しはじめている。自我が目覚めるのを防止する《ヒトの群れ》
  7. 昔も「おどけもん」がいた。彼らは人気者ではあったが、それが《ヒトの群れ》を引っ張るほどではなかった。大多数の子供は、それでは駄目だと考えていたのだ。「不真面目」というのが彼らに対する批判の評価だろう。その「不真面目」が《ヒトの群れ》を構成する原理になったのだ。そういえば、フォークルや永井濠のの「ハレンチ」は衝撃的であった。

「おどけもん::ひょうきん者」(http://www.kamabokoya.co.jp/hakatakotoba-kakiatume/hakatakotobakakiatume-a.htm

  1. http://www.gusuku.sakura.ne.jp/a_kojima/julius02.html
    1. 中央語の古語に「おどく」がある。意味は「おっとりして、のんびりする」ことを表し、源氏物語の例をひくと、   何事にもあるに従ひて、心を立つる方もなく、おどけたる人こそ  (何事にもあるがままにしたがって、心を奮い起こす方もなく、のんぴりとした人こそ)  とあって、何事にもさからわずに、のんびりとしていることを表している。
    2. これが後世の「おどけもの」になると意味にずれがきて、冗談を言ったり、たわむれたりするピエロのような意味をもつようになる。「おどく」が現代語の「おどける」に変わり、意味も滑稽さに重点が移り、「ふざける」に近くなる。これが中央語の「おどく」の変化だ。
    3. 本来は「おっとりとして、のんびりする」意だったのが「損をする」意になったのだ。だいたい「のんびり屋」は欲がなく、人が良いから、商売しても売ることに一生懸命で、もうけがあるかないかまで頭が働かない。決算してみると、なんと損しているではないか。「のんびりする」ことは「損をする」こととイコールなのである。こうして「おどける」が「損をする」意に発達するわけだ。この「おどける」をウチナーグチに直すとウドゥキユンが出現する。島人のやさしさからくる言葉の変化だ。
    4. 日本列島の方言でも、意味は多少異なるが、同様の発達がある。出雲あたりで、オドケモノというと、放蕩者の意だ。働かずにのんびりしていて、遊び歩いてばかりいるうちに、全財産をつぷしてしまって、なおも気づかずに遊び歩いている。これぞまさにオドケモノなのである。放蕩して財産をなくすことと、沖縄の損をすることと、どこか似ている。同源の語だからである。

「鏡の前に立って、まっすぐに前を見つめてみるのもよい。そこに映っているものは、一体何なのだろう。ある一定の時間、対象を見つづけると、その確固とした意味が失われてしまう現象を「ゲシュタルト崩壊」と言う。」(http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi?mode=all&loadno=5298&resp=1&page=

  1. ふーむゲシュタルト崩壊という名前がついていたのか。

《入り込み》

  1. 用語のタイトルの問題。
  2. 入り込」でページを作って、《入り込み》というタイトルにする?

2005-07-15(金)

システムを記述するコトバ

  1. インプット→ブラックボックス→アウトプット
  2. 立ち上げ→ブラックボックス→終了
  3. 上位システム→サブシステム
  4. サブシステム間の情報伝達回路。
  5. 「実行可能なコトバ」。アルゴリズム、フローチャート。
  6. ハードウェアは、ソフトウェア実行環境というフィールドを作り出す。ハードとソフトとでは、レイヤ、ドメイン、フィールドが異なる。
  7. OSをアプリケーションは? ハードが作り出したソフトウェア実行環境のなかの別のシステム? それとも、OSに従属するシステム?
  8. OSは草原の草のようなモノ? それがなければ、草原に生き物が棲むことはできない。が、別の生き物。
  9. 権力は《ヒトの群れ》のサブシステムである。

法律を個々の立場で運用するヒト《背後者回路》

  1. 法律をそれぞれの立場で運用する個々のヒト《背後者回路》というのはある。が、「法律の全体」とは異なる??。否、法律を個々の立場で運用するヒト《背後者回路》の総和として、法律を理解すべきである。
  2. 法律は、法律の『構造』を知った人々によって作られ、支えられ。法律の『構造』を知らない人々の盲目的服従と、盲目的反抗をによって支えられている。
  3. 法律は、法律の『構造』を知った人々のニーズを食べる《ニーズ・イーター》である。
  4. 法律の『構造』を知った人々のニーズは、権力であり、暴力の独占であり、そのための正当性の独占である。
  5. 法律の『構造』とは、法律をそれぞれの立場で運用する個々のヒト《背後者回路》とその行動の総和としての『システム』である。《ヒトの群れ》のシステムの構造である。
  6. 法律をそれぞれの立場で運用する個々のヒトは、はじめ自分の位置での構造しか知らないが、構造の全体を知るべきヒト、は、いずれ、その全体を知るに至る。
  7. 《ヒトの群れ》のシステムの構造のパーツが個々のヒト《背後者回路》である。かれが、構造の全体を知っているか、知らないか、服従するか、反抗するかは自由だが、かれが構造のパーツであることには変わりはない。
  8. 《群れの思いこみ》(法律)の『構造』は個々人の《背後者回路》か?

悪法は、盲目的に法に従う人々のニーズによって支えられている。

  1. 目的に法に従う人々のニーズとは、権力に従うことの対価(安全)を得ることである。
  2. 彼らは、当たり前の法に従うことによる対価は多くは期待できないが、不条理な悪法に従うことによって権力からもたらされる対価は多いはずだと期待するだろう。

見つけられない情報は、存在しない情報と同じ。

  1. 「ライブラリの検索機構:・・ライブラリは単にあるだけでは十分でなく,必要なクラスが簡単に見つけられなければ使い物にならない・・求めるものが簡単に見つかるというのは,実はさほど簡単な話ではない.それができれば司書などいらぬ.」(http://netgene.co.jp/java/technicalTerms.html

法は偽善者を助けることが多い。

  1. 形式的に善人のフリをする悪人。
  2. 法が認定する「善人要件」は形式的なのだ。というか、「要件」であって、「善人」かどうかは関係ない。

2005-07-14(木)

「私が兆候の言葉を発する範囲において、私には構造がある」で、思ったが (a)《私》が持っている自我イメージ (b)《私》の背後にある(無自覚的)構造 (c)《他者》が持っている自我イメージ (d)《他者》の自我の背後にある構造 という似たような、混同しやすいものがある。 構造主義者たちが描き出した構造というのは、(d)《他者》の自覚の背後にある構造、だろう。


『論理哲学論考』は論理学が帰結する世界について語っている。

  1. ヴィトちゃんは、そういうタイトル(Logisch-philosophische Abhandlung)で書いてるんじゃん。
  2. アリストテレスのロゴス(説明方法)はモノ世界コトバで説明する方法、だから、近代の論理学で言うところのロゴスとは異なる。か? 「基体」であるモノを指し示し、「属性」でそのモノを記述する、という方法。アリストテレスのロゴスは「基体(モノ)」から離れない。しかし、近代の論理学のロゴスは、コトバ世界の中で循環してしまう。つまり、モノから遊離したコトバ世界の論理。モノ世界から離れた言説を「空理空論」という。従って、近代論理学は「空理論理学」だということになる。
  3. ヴィトちゃんは「空理論理学」が作り出す『世界』の《思いこみ》を批判しているのだ。
  4. 空理論理学は『モノ《思いこみ》とがイコールであり得る』という《思いこみ》によって成り立っている。イデア実在論か。とするなら、ユダヤ教徒であったヴィトちゃんが批判するのは、もっともな話だな。
  5. 「キリスト教に改宗したユダヤ系の家系の出身」(http://ja.wikipedia.org/wiki/ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン)

モノ《思いこみ》とがイコールであり得る』という《思いこみ》《背後者回路》:(2005-07-12(火))

  1. 《思いこみの世界》入り込む、という行動様式・思考様式の《背後者回路》
  2. 思いこむ、という行動様式《背後者回路》
  3. コトバというのは、モノを指し示す。コトバによるコミュニケーションの場面では、コトバモノをのものを示している、と考えるのが都合がよい。コトバモノとイコールであると考えるのが都合がよい。
  4. このような言説は「私的言語」であると、ヴィトちゃんは言いたいのだろうな。「言語は生活の中で「使用」されないかぎり,何の意味ももたない」(http://www.geocities.jp/enten_eller1120/postmodern/witt.html
  5. しかし、《私》がこの場において、《私》の生活の中で、このような言説を記述したのであるから、すでに、生活の中で使用されたコトバである。『「E」という「感覚」は,「感覚」という語を用いるかぎり,その「E」という感覚が起こるときの身体の客観的事実(血圧値やその感覚の起こる前の食事など)と結び付けることによって,実は他人にも起こり得る感覚であることがわかり,「E」という言語は私的言語ではなく,共通の言語となり得る.』

「「主体は世界には属さない.それは世界の限界である」(5.632)」(http://www.geocities.jp/enten_eller1120/postmodern/witt.html

  1. ヴィトちゃんは、存在限界だとしている。
  2. 論理的な世界、だからだな。《コトバの世界》。「主体は《コトバの世界》には属さない.それは《コトバの世界》の限界である」なら話が通る。もしくは「コトバで語られたモノ世界」。
  3. コトバで語られたモノ世界》って、たけ(tk)が、「モノ世界」というコトバで語っている世界。なのだが、それは、たけ(tk)が言うところの《モノの世界》ではなく、たけ(tk)が語っている「モノ世界」を聞いているあなたの《思いこみ》のことだろう。だから、《モノ世界を語るコトバを聞いて生じる思いこみ》と言う方が正確か? 《モノ世界を語るコトバを聞いて生じる思いこみ》がヴィトちゃんの言うところの『世界』である。
  4. もしくは『モノ世界』という《思いこみ》がヴィトちゃんの『世界』である。
  5. 世界』という《思いこみ》は『それが事実であると思いこまれたもの』の《思いこみ》の総体である。
  6. 世界』について語るのは良いんだけど、『世界』というのは《モノの世界》の中の《身体》というモノの中の《思いこみ》というモノでしかないんだよね。そんな《思いこみ》捨てなよ。と、言いたいね。あ、ヴィトちゃんも言っているか・・。
  7. 『これが世界である、と思いこまれたモノ』という《思いこみ》についての研究。
  8. ヴィトちゃんの《背後者回路》
  9. 『それである』という《思いこみ》で思いこまれた『それ』という《思いこみ》は、その《思いこみ》によって指し示されたモノとイコールである、という《思いこみ》に駆動されている。『モノ』《思いこみ》モノとイコールであるという《思いこみ》《思いこみ》モノとがイコールであるという《思いこみ》

時間・空間の中の生に絡む謎の解決は,時空の外にあるのである.(6.4312)」(http://www.geocities.jp/enten_eller1120/postmodern/witt.html

  1. これはそうだろう。
  2. ヴィトちゃんの精神状態は、たけ(tk)が、突き抜ける直前の状態のようだ。
  3. 「時空の外」というコトバで語られたモノは、なんだんべ?
  4. 『時空』という《思いこみ》の外にある、という意味だな。

「IT革命(Information Technology Revolution):・・最も信用がおけそうなも のとしては概ね次の通り.「情報技術の発達により,経済の取り引きコストが限りなく0 に近づくことによる社会体制の劇的な変化」.」(http://www.netgene.co.jp/java/technicalTerms3.html

  1. 単純な受付だけなら自動化されるが「応対」となると話は別.「ク レーム対応」の自動化やコールセンターの無人化など遠い将来においても考え られていない.

目的行動様式《背後者回路》

  1. 人々は《私》の混濁の中にある。
  2. 人々の行動様式の背後に《背後者回路》を見通すこと。
  3. 目的達成状態の表象表象への快不快評価、一連の表象を一塊として表象する回路、最後の表象目的達成状態)への快不快評価を最初の表象(身体的動き)への快不快評価とする回路、快なる身体的動き表象によって身体を実際に動かす回路。

知識力、目的的思考力、反省的思考力。

  1. 目的的思考力=アメーバ的思考力=生き物的思考力。
  2. 反省的思考力=ヒト的思考力。
  3. 目的的思考力の《背後者回路》=快不快判定回路+『一連の事象』の記憶回路、快不快比較回路。『一連の事象』の結合回路、分離回路。『事象』のランダム組み合わせ+快不快判定回路(組み合わせ可能性判定回路)。
  4. 『一連の事象』の記憶回路。四次元チューブ? トポロジカルな事象の列は一本の線なので、1次元チューブ? 事象の列のネットワークは面に展開可能なので、2次元チューブ?
  5. 『一連の事象』の記憶回路と仮言的《思いこみ》
  6. 《一連事象記憶回路》?「一連の事象を記憶する回路」。時間的、因果的、仮言的。
  7. 目的的思考様式と反省的思考様式。目的《背後者回路》と、反省的《背後者回路》
  8. 反省的《背後者回路》目的がないわけではない。すべての目的は、後づけ的目的なので、成果がでるまでは目的が分からない、というだけの話。

「犠牲者の身元確認は未だわずか5名【「犯人」だけがやけに早く特定されたものだ!?】http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/1203.html」「警察と新聞、3名の「犯人」の氏名を発表 http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/1204.html 投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 7 月 13 日」

  1. 英のテロ認識に誤算、警戒レベル引き下げていた…英紙 [読売新聞]http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/925.html ・・ サミット中に警戒レベルを下げた??
  2. 情報当局は、イスラム系の若者が武装勢力に参加するため続々とイラク入りすることに警戒を示しながら、「若者たちは偽造した身分証明書を複数所持しており、追跡は困難だった」と認めたという。(http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/925.html)。で?、翌日に4人の身分証明書が見つかった??
  3. 「ロンドンのユダヤ人共同体は、テロをきっかけに反ユダヤ主義が高ま

ることを警戒。現地の指導者は「過去の経験から見て、テロがあると 反ユダヤ主義が強まる」と語っている。」(http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/926.html)・・って、テロがらみで怪しげな動きをするから??

  1. 「ストロー英外相は7日、「残酷な手口を含めて、(国際テロ組織)アル・カーイダ系組織の特徴がある」と語った。」(http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/927.html
  2. 昨日のロンドンの爆弾テロ。素朴な疑問だけど、どうやって爆弾を置いて爆発させたのだろう。ロンドンではunattended baggage(不審な荷物、持ち主不詳の荷物)が発見されると、直ぐに周りの人が通報して交通機関が止まるのが普通だからだ。(おかげで、随分と会社まで歩いていったわけだけど) そういう状況が数年で変わるとも思えないので、もし犯人が爆弾を地下鉄車内やバスのフロアーに置いたまま下車しようとしても、早急に対処されてしまって爆発には至らないはずではないか、と思うのが普通。だから、ことによるとこれは自爆テロではないか、とも考える。(http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/943.html
  3. 携帯電話を使った遠隔操作で起爆させたマドリード列車爆破テロとは異なり、地下深いところを走り老朽化したロンドンの地下鉄構内では携帯電話が使えなかったことから、犯行グループは今回、時限装置を使ったのは間違いないとみられている。一方、二階建てバスでの爆発は、三回目の地下鉄爆発からさらに三十分後に起きており、かなり様子が異なっている。 バス爆破に関しては「自爆犯の犯行との目撃証言がある」と一部の英メディアは伝えており、大衆紙サンは「浅黒い肌の不審な男が、バスの中で落ち着かない様子でしきりとかばんの中をさわっていた」との目撃証言を報じた。(http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/960.html
  4. 安全保障に詳しい英ブラッドフォード大学のポール・ロジャース教授は「ロンドンの警察官がサミットに回されたことと、今回のテロの間に因果関係はない」と断言。公共交通機関を狙ったテロの防止が非常に困難なのはもとより、「最も問題なのは、イラク戦争後の三年間で、(政治的に)アルカイダのような組織を支持する人たちが増えてしまった事実だ」と指摘した。(http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/984.html
  5. 英国では昨年三月のマドリード列車同時爆破テロ後、ロンドン警視庁の警視総監が「ロンドンで起きないのは奇跡」と発言するほど、テロへの恐怖が高まった。 ところが、英政府の「テロ合同分析センター」は、アルカイダは英国でテロを行う能力はないとして、今回サミットを控えた今年六月には警戒レベルを引き下げるなど、警備当局の現場と政府とで対応がすれ違い、具体的な対策には結びつかなかった。(http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/984.html
  6. イスラエルのシャロン首相は今回の事件の後、ロンドンにあるイスラエル大使館員に対して、「今後一切、メディアへのインタビューに応じないように」との指令を出した。(http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/972.html
  7. 今回、第一回目の爆撃の後、イギリス警察から電話で知らせを受けたイスラエルのNetanyahu大蔵大臣はあたかも事前に告知されていたかのように、直ちに避難体勢に入っていた。(http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/972.html
  8. テロに踊るフォックスニュース::米フォックスニュースのキャスター、ブライアン・キルミード氏とゲストコメンテイターのスチュアート・バーニーは、ロンドンのテロ事件報道をhttp://mediamatters.org/items/200507070005">以下のように解説した。::ブライアン・キルミード(キャスター):「・・・さて(ブレア首相は)明らかに震えながら、決意の表情で声明を読み上げました。これは首相にとって2度目の声明です。最初の声明はロンドン市民に向けたもので、G8サミットにおいてですが、同サミットの第一の題目は・・・信じるかどうかはともかく・・・地球温暖化で、二番目の題目はアフリカ支援についてでした。さて、911テロが発生して後、テロリズムこそがナンバーワンの題目であるべきと、今になって彼等(イギリス国民)はようやく知ることになったわけです。彼等にとって重要なのは共闘することです。今回のような事件を(911テロ被害者と同じく)人々が体験することは我々にとって有利であり、西側諸国にとっても有利に働くでしょう。」::スチュアート・バーニー:「世界中の指導者が集まる場所で、まさしくナンバーワンの問題として取り上げられることになる。地球温暖化問題もアフリカ支援も後回しだ。テロリズムとテロとの戦いが、再び最優先の議題になるさ」(http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/990.html
  9. 93年のWTC爆破事件を思い出す方は少なくあるまい。 93年のWTC事件とはFBIインフォーマントであるエジプト人エマド・サレムに関する話。(http://www.asyura2.com/0403/war54/msg/220.html
  10. BBCのラジオ放送で、事件の日の夕方、「あるインタビュー」が放送され、かなりの注目を集めているらしいね。「バイザー・コンサルタンツ」と言う会社の幹部の話で、驚くべき「暴露情報」だがね。この会社は、同じ7月7日の朝、ロンドンの地下鉄で「テロ事件の演習」をする予定だったらしいね。それが、「予行演習」の直前に、実際に「演習予定地点」で爆発テロ事件が起きたと、言う「暴露」情報だね。(http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/1284.html

「 私たちが失った人々のことを、皆さんはご存じなくとも、私たちはよく知っております。皆さんの記憶になくても、私たちは彼らをよく覚えております。皆さんが涙しなくても、私たちは彼らのために泣いています。  皆さんは幼い少女ハンナン・サリフ・ムトルドの名前を聞いたことがありますか? 少年アハマド・ジャビル・カリムとか、サイード・シャブラムという名前を耳にしましたか?  そうです、私たちが失った人々にも名前がありました。彼らは1人1人がそれぞれの顔を持ち、ものがたりを持ち、思い出を持っています。彼らが私たちといっしょに過ごし、笑い、遊んだ時間がありました。彼らは皆さんがそうであるのと同じように、夢を持っていました。彼らにを待ち受ける明日がありました。しかし今日、彼らは目ざめる明日もないまま、私たちの胸のなかで眠っているのです。」(http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/1201.html

  1. それへの思考を拒否する思考回路の《背後者回路》
  2. 目的世界認識の《背後者回路》。快不快的世界認識=目的世界認識=アメーバ的世界認識。『目的』というのは快不快の主観的表現のようだ。

3次元的思考力:

  1. たけ(tk)は、かなり訓練しないと、3次元的に物事を把握することが出来るようにならなかった。事象の列は1次元、事象の列のネットワークは2次元なので、通常の思考力というのは、せいぜい2次元なのではないか?
  2. 2次元的思考力を、訓練によって3次元的に拡張した場合には、同様の訓練で、時間軸を追加した4次元的思考力を獲得することができる。

2005-07-13(水)

鏡ニューロン

  1. 「鏡ニューロン(mirror neuron)の障害が自閉症の病理に関連が あるということが示唆されています。」(http://www.biotoday.com/view.php?n=6748
  2. 「サルの前で、研究者がアイスクリームを食べると、猿が自分でものを食べるときに働くのと同じ脳の領域が活性化した。サルは何もものを食べていないのにも関わらず、他人の行動を見ただけで、まるで自分がその行動をしているときと同じように活性化する未知の神経細胞が見つかった。イタリアの学者ジャコモ・リゾラッティ教授の研究でその存在が確認され、「ミラーニューロン」と名付けられた。」(http://www.alt-fetish.com/cnts/fetishvoice/fv024.htm

崇拝と侮蔑の《背後者回路》

  1. 崇拝と侮蔑とは同じ回路から生まれる。あるモノを崇拝することは、それ以外のものを侮蔑することである。

「人間には,言語の限界へ向かって突進しようという衝動がある」(http://www.geocities.jp/enten_eller1120/postmodern/witt.html

  1. ヴィトさんは、コトバの限界を語っているようだ。当たり前だけどね。
  2. コトバモノの写像である。

ブタさん曰く、他のブタが人間に食べられても《私》には関係ないわ。だって、《私》は(まだ)食べられていないもの。

  1. 安全のための管理社会。管理するヒトにとっての安全が最優先される。
  2. 安全を求めて、安全を自ら進んで放棄する人々、ってスピノザのコトバだっけ?
  3. 《私》はまだ被害にあっていない』という《思いこみ》は強力だ。たぶん、多くのヒトにとっては事実だもの。
  4. 犯罪の被害に対しては想像力が働くが、権力の害悪に対しては想像力が働かない、という思考様式。
  5. 犯罪は「悪」で権力は「善」だ。権力が「善」であると同時に「悪」であるというのは、矛盾なのだ。そのような矛盾は排除されるのだ。しろくろはっきりしろよ、ということだ。論理的な思考様式、と言うべきものなのだろうか? 超単純な論理的思考様式、と言うべきか?
  6. 矛盾律。アリストテレスは何というのだろうか?
  7. ヒトは/権力は、善いこともするし、悪いこともする。
  8. 「英『国民IDカード』 テロ事件で導入加速? 【東京新聞】http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/1190.html」「これがIDカードなのよ。クレジットカードの大きさで、私の指紋も記録されている。プライバシーを侵す心配が議論されているのは知っているけれど、私自身は見られて困るものは何もないわ」

悪法には従うべし。

  1. 悪法があることを前提に行動すべし。
  2. 悪法があるがゆえに社会に害悪が及んだとしても、悪法にしたがったモノには責任がない。
  3. ホントかな? 法に積極的に従う場合と、消極的に従う場合とでは、実際の行動様式は変ってくる。
  4. 悪法に従うことによって利益を得るモノにとっては、悪法は悪法ではない。悪法は不当な利益を正当化してくれるありがたい法律である。

「魔法の身分証明書」(http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/1185.html

  1. ホロコーストの「証拠」で味をしめた連中の発案だろう。

イラクの自衛隊は靖国の「神」への生贄である。靖国の「神」は新しい血を欲しておられるのだ。

相手が攻撃的になっているときに、新しい回路を追加・誘導すると、相手の行動様式《背後者回路》を変えることができる。

  1. ヒトは、攻撃モードと防御モードを持つ。
  2. 武道的認識。自我認識、他者認識、ヒトの個体の認識。
  3. ヒトは憎しみを持つときに操られる。
  4. 追従ザル《背後者回路》にもボス猿への憎しみがある。憎しみ+敗北感→追従。

官僚的秘密主義の《背後者回路》

  1. 個人情報保護法の秘密主義的運用。
  2. 権力は暴力の独占を求め、暴力の独占を確実にするために情報の独占=秘密主義=を好む。
  3. ボス猿主義《背後者回路》ボス猿暴力の独占を求める。つまり、ボス猿とは権力だ。
  4. 秘密を知るモノに追従することを好むという、追従ザル行動様式。その《背後者回路》は?

自我イメージと《背後者回路》

  1. 自我イメージは《背後者回路》が提示する『構造』の《思いこみ》の中にあてはめられた『我』の《思いこみ》である。
  2. 《背後者回路》は『構造』の《思いこみ》を提示する。
  3. 『構造』とは、モノ世界《思いこみ》にあてはめるための、《思いこみ》の枠組みである。

説得するのは難しい、というか、相手が権威主義者=追従ザル=の場合には、《私》に権威を感じなければ、何を言っても無駄。

追従ザル《背後者回路》

  1. ボス猿に追従する《私》』という『自我イメージ』
  2. 《私》ボス猿として追従してくる他者』を保護する、という自我イメージ。
  3. 《私》と追従関係にない他者は無視・敵対すべき他人』という自我イメージ。

《背後者回路》においては自覚・無自覚はあまり関係ないかも。

  1. 自覚された《背後者回路》《背後者回路》として《我》をコントロールする。ことができる。
  2. 自覚された《背後者回路》は、《我》がコントロールして変更することができる。《我》がその《背後者回路》を不合理、《不快》と思えば、《背後者回路》は変更される。
  3. 《我》がその《背後者回路》を理由あり、《快》と思えば、《背後者回路》は強化される。

2005-07-12(火)

《思いこみ》《背後者回路》

  1. 動作系ニューロン→認知系ニューロン→|→動作系ニューロン。
  2. 動作系が作り出した、擬似認知。体内認知。
  3. その前に体内認知がある。身体状態→認知系ニューロン→|→動作系ニューロン
  4. 《求める思いこみ》《知った思いこみ》《背後者回路》の違いは?

《モノの世界》《背後者回路》

  1. 感覚器官→認知系ニューロンで分割・統合→|→動作系ニューロン、の「|」の部分が《我》であり、「|」への入力が《モノの世界》ということになるだろう。

モノ《思いこみ》とがイコールであり得る』という《思いこみ》《背後者回路》

  1. 《思いこみの世界》入り込む、という行動様式・思考様式の《背後者回路》
  2. 思いこむ、という行動様式《背後者回路》
  3. コトバというのは、モノを指し示す。コトバによるコミュニケーションの場面では、コトバモノをのものを示している、と考えるのが都合がよい。コトバモノとイコールであると考えるのが都合がよい。

《他者の自我イメージ》の《背後者回路》

  1. 《他者》は自我イメージとしての『我』の《思いこみ》を持つ。
  2. 《他者の自我イメージ》は、『《ヒトの群れ》の中のモノ』としての《思いこみ》であろう。
  3. 《私》はxxである』という《思いこみ》は、他の《ヒトの個体》や、《ヒトの個体》がおりなす《ヒトの群れ》のなかでしか、意味を持たない。
  4. ヒトが古典を読む場合でも、古典の著者と《私》をの関係で想定された《ヒトの群れ》の中での『我』のイメージを構成する。
  5. 科学を学んだときに科学的な世界のなかでの自分の存在を意識するような場合、科学という《群れの思いこみ》の中での『我』となる。科学は、多くの《ヒトの個体》がおりなす《ヒトの群れ》の共通の《思いこみ》である。
  6. 《他者の我》か?。《他者の我》には別の意味も可能だな。実際に、《他者》が《今ここの我》を自覚している場合、というか、《他者》が自覚する場合の《背後者》と自覚的世界の境界面、としての《他者の我》。《私》《他者》と対話するときに、《私》と対話しつつある《他者》《我》を感じることができる。この《他者》《我》は境界面としての《他者》《我》だ。
  7. 《他者》が《今ここの我》を自覚する場合には『自我イメージ』でもあるな。《今ここの我》と『自我イメージ』とがイコールであるというのは、『モノ《思いこみ》とがイコールでありうる』という《思いこみ》だな。
  8. 《他者》の『我』か?
  9. 《私》の『自我イメージ』は、《混濁》の中に溶けて消える。《混濁の世界》の中に消えている。
  10. 《他者の自我イメージ》だな。
  11. 《他者の自我イメージ》は反省によって、二重化する。反省しない場合には不動点として安定的に存在する、彼の《思いこみの世界》の中の不動点としての安定的な《思いこみ》として存在することができる。
  12. 彼が反省するとき、彼の自我イメージは、反省する《我》と反省される『我』に二重化する。
  13. 反省する《我》を反省する、という組み込みを無限に繰り返すと、《我》は《めまい》に苦しむことになる。それを突き抜けると『我』は《混濁》カオスの中に消える。

排他的民族主義の《背後者回路》

  1. 《特別者公理》《背後者回路》

日本的呪文大好き人間の《背後者回路》

  1. 「男は黙って呪文を学ぶ」か。呪文というのはモノコトバだね。(呪文=プログラム)。
  2. ヒトが作ったコトバだということには気づいていないらしい。作ったヒトは、彼が作ったコトバを極めた後でなければ、語ることが出来ないヒトだと思っているらしい。ヒトモノの向こう側に居るのだ。
  3. モノコトバを崇拝しているのだろう。
  4. 2005-07-13(水):「初心者だったら、人に聞かないで、試してみることをお薦めします。」(http://bbs.fedora.jp/read.php?FID=3&TID=1411):男は黙って実験する、か。うむ。『原理原則を学んで/究明して演繹的に判断する』よりも、まずは『当たって砕ける』ことを重んじる《背後者回路》

慰めのコトバを求める《背後者回路》

  1. 「議論」と称するモノが、相手に慰めのコトバを期待するゲームになっている。
  2. 既存の《背後者回路》を補強する言説を好み、既存の《背後者回路》カオスをもたらす言説を嫌悪する、という《背後者回路》

ヒトは古典を知らない状態で生まれるのだ。

  1. ヒトは、ヒトの智慧を知らない状態で生まれるのだ。
  2. ヒトは、人類の智慧を知らない状態で生まれてくる。
  3. ヒトの智慧の《背後者回路》
  4. ヒトの智慧の《背後者回路》とは、凝り固まった偏狭な《背後者回路》を、より広く柔軟な《背後者回路》に変えていくことを好む《背後者回路》のことだ。
  5. 小人的な行動様式《背後者回路》とは、凝り固まった偏狭な《背後者回路》を補強する言説を受け入れ、それにカオスをもたらす言説を拒否する《背後者回路》だ。
  6. 豚舎に入れられ、文字でできた飼料で太らされた学生たちが、ブタのようになるのは、当たり前だ。
  7. ヒトが死ぬたびに人類の智慧の総和は減り、ヒトが生まれるたびに、人類の智慧の平均が下がる。

2005-07-11(月)

「野蛮人を殺戮する口実」を求める《背後者回路》

  1. 結局、西洋人てやつの発想は、こんなものか。
  2. だから、「構造主義」は西洋人にとっては大ショックだったのだ。
  3. まあしかし、やっていることは、日本人であれ、東洋人であれ、西洋人であれ、同じだ。違うのは、それを正当化する《背後者回路》の違いだ。日本人的な殺戮正当化の《背後者回路》は、「時の流れ」ということだろう。「その時はそれでしょうがなかったのよ」で正当化される。しかし、平時において殺戮を準備するような・・思想が靖国だね、困った・・。「靖国は、テロリストのための新興宗教である」ですませておこう。

ブッダ《背後者回路》

  1. ブッダ《背後者回路》は「《背後者回路》を見通す」《背後者回路》だ。もちろん、「《背後者回路》を見通す《背後者回路》も見通す」《背後者回路》だ。
  2. そして、《他者》は「《背後者回路》を見通す」《背後者回路》を未だ持つにいたっていないモノ。無明=「《背後者回路》を見通す」《背後者回路》を未だ持つにいたっていないこと」=のヒトというのが《他者》《我》の違いであり、本質的な違いではない、という認識をもたらす《背後者回路》だ。

アニミズム《背後者回路》

  1. 同類者意識の範囲が広いだけだ。人間だけを同類と見るか、自然のモノたちをも含めて同類と見るかの違いだけだ?

「《私の世界》は《すべて》であるが、それ自体としては一つの出来事(Fall)であるような《すべて》である」(ヴィト、)

  1. 1. Die Welt ist alles, was der Fall ist.
  2. 「1.1.《私の世界》は、《思いこみ》(Tatsache)の寄り集まりであり、モノ(Ding)の寄り集まりではない」:ここでの《思いこみ》は広い意味での《思いこみ》であり、モノも広い意味での《思いこみ》に含まれる。
  3. 「1.13.論理的な空間における《思いこみ》は、一つの世界を形成する」:論理的な諸命題で形成された世界、論理的世界(Die Welt im logischen Raum)。しかしながら、論理的世界は《私の世界》の一部ではあれ、イコールではない。《思いこみ》のすべてが論理的世界に含まれるわけではない。非論理的世界が残されている。そこにはモノと非論理的な《思いこみ》とが残っている。
  4. 「1.21.論理的な世界においては、或るモノは出来事とであることもできるし、出来事で無いこともできる。」:論理の世界においては、コトバの暴走が許されている。
  5. 「2.出来事や《思いこみ》は、《様子、ようす》(Sachverhalten)への固執(bestehen)である」
  6. 「2.01.《様子》はモノたち(Genenstanden、Sachen、Dingen)の関係(Verbindung)である」
  7. 「2.011.モノたちが《様子》の一部分として現れるというのは、モノたちにとって本質的なことである」
  8. 「2.012.論理的な世界においては偶然ということはない。モノが或る《様子》の中に現れると、「そのモノがその《様子》の中に出現することが可能である」ことを示す一つの事例として、そのモノの中に書き込まれるのである」:《モノの世界》においては、どうなんだろう?というか、《モノの世界》において「可能性」ということはあるのだろうか? 《モノの世界》においてはすべては別のモノであり、クラスはない。クラスには可能性があるが、モノには、そのモノの現在の持続しか無いのではないか? そのモノの次の姿は、そのモノの内部状態や外部状況《求める思いこみ》の総和として決まっていく。「可能」というのはコトバによって分離された《思いこみ》としての『モノ』の属性ではないのだろうか? モノはパラメータのカオスの中にある。ヴィトも「論理的な世界(In der Logik)」でない場合については違うと言っているのではないだろうか?

正統派ユダヤ教徒の《背後者回路》

  1. 神を知っているが、語ってはならない。ここでの神とは《モノの世界》のことだ。
  2. 《モノの世界》は語りえないモノ、ではある。たしかに。
  3. なぜ語りえないか、というのはコトバ意味の三角形で説明可能だろう。伝達可能性が保障されないのだ。
  4. しかし、正統派ユダヤ教徒の発想(《背後者回路》)は、「語ってはならないモノ」「語ることがタブーであるモノ」だ。「それ以外のことだけを語るべき」モノだ。
  5. タルムードの中で「語ってはならない」と言われているモノだ。宗教的なタブーというべきモノだろう。語らないことによって、知るべきモノ、なのだろう。
  6. しかし、語っても、語らなくても、知ることはできる。語っても、語らなくても、知りえない人には知りえないだろう。
  7. 語ると、神でなくなってしまう、からだろう。
  8. 語れば偶像になってしまうからだろう。
  9. 崇拝すべきモノだから、語ってはならないモノなのだろう。
  10. 崇拝しようとする発想がおかしい。
  11. というか、《宇宙史》に至る《モノの世界》を崇拝することが、正統派ユダヤ教徒の、それである由縁なのだ。
  12. 秘密を知るモノとして《コトバの世界》を支配することが、正統派ユダヤ教徒である由縁なのだ。
  13. http://www.mv.helsinki.fi/home/tkannist/e-texts/tractatus-deutsch.html
  14. http://www.wmelchior.com/wis/philo/wittgenstein/works/tractatus/1.htm
  15. http://www.wmelchior.com/wis/philo/wittgenstein/works/tractatus/2.htm
  16. http://www.wmelchior.com/wis/philo/wittgenstein/works/tractatus/3.htm
  17. http://www.wmelchior.com/wis/philo/wittgenstein/works/tractatus/4.htm
  18. http://www.wmelchior.com/wis/philo/wittgenstein/works/tractatus/5.htm
  19. http://www.wmelchior.com/wis/philo/wittgenstein/works/tractatus/6.htm
  20. 正統派ユダヤ教徒にとってのアイデンティティにかかわる問題だろう。タブーこそがアイデンティティなのだ。
  21. 同類者意識の範囲は、「選民」だけの同類者意識だろう。もっとも、ゴイムであっても《モノの世界》を知ったモノは同類かもしれない。ちゃうな、《モノの世界》を知って、《モノの世界》を語らず、《モノの世界》を崇拝するモノだけが同類だ。アニミズムとは正反対で、同類の範囲が極めて狭い。

独自の用語について:

  1. 独自の用語を自ら定義して、使うべきである。他者のコトバに少しでも違いを感じたら、躊躇なく独自の用語を定義すべきである。ただし、定義は明確にすべきである。
  2. 《たけ(tk)の思いこみ》の記述には《たけ(tk)コトバ》が必要である。
  3. 《たけ(tk)の思いこみ》《他者》に解説したい場合には、他者のコトバを使って語るべきであろう。
  4. 《たけ(tk)の思いこみ》《他者》に解説するのは、《たけ(tk)の思いこみ》の記述が終わってからの話である。

2005-07-10(日)

クーラーの温度設定に関する《背後者回路》

  1. 気温が高いので25度では全然効かない。ので、20度に設定した。そしたら、しばらくたって寒くなり過ぎた。ので消した。そしたら、暑くなった。ので、またつけた。まるで、人間サーモスタット。何のための温度設定かが分かっていない。温度設定が、クーラーの《ちから》の大きさには影響しないことを知らない。
  2. で、その《背後者回路》というのは、ガスコンロの火のアナロジーでクーラーの温度設定を理解しているということ。ガスコンロの火を大きくすれば、急速に温度をあげることができる。ガスコンロの火の大きさは《ちから》の大きさをあらわしている。だから、クーラーの温度設定も《ちから》の大きさを示しているのだと誤解してしまう。数字は《ちから》の大きさを示すはずだ、という《背後者回路》があるが故に、クーラーの温度設定を下げてしまうのだ。
  3. クーラーに「ついているのか、ついていないのか」を示すランプが無いのは問題。ランプがあれば「ランプがついているときに温度設定を下げても意味がない」と説明できるが、ランプが無いので、「耳をすませて聴けば動作しているかどうかが分かる」という微妙な説明になってしまう。
  4. たけ(tk)は、温度設定を下げて、クーラーを消してしまう《他者》に怒っているのだ。怒ってもしょうがないので、《背後者回路》を分析しているのだ。もーサイアク、暑いよー。消さないでくれよー。お願いだから。

自己言及の極限を突き抜けた所にカオスがある。

  1. 「方程式X(n+1)=a*X(n)*(1-X(n))はコントロールパラメータaを変えていくと、分岐現象を起こす。aが十分小さいときには、安定な不動点が一個現れる。aを徐々に大きくしていくと不動点は不安定化し、2周期解が安定になって出現する。さらにaを大きくすると2周期解は不安定になり、2**2周期解が安定になる。このことが繰り返され、2**∞周期の解が不安定化したとことでカオスが出現する」(p.44『カオス的脳観』)
  2. カオスを出現させる一つの方法は、上に述べた周期倍加現象である。この現象が集積する極限でカオスが出現する。ちょうどこの周期点のところで、写像関数の自己言及が起こっている。その自己言及性は関数方程式の不動点関数、すなわち関数空間の不動点で与えられる。この意味において、カオス自己言及を越えた、あるいは自己言及が破綻したことによって現れる現象がといってもさしつかえないと思われる」(p.45)
  3. たけ(tk)の体験とリンクするのよね。
  4. Y=X**2 でY<0 の場合の虚数解と似ていると思う。
  5. カオス《混濁》とはどう違うのか? 《混濁》カオスの主観的体験である。
  6. 《群れの思いこみ》の中にある『我』は不動点である。反省する《我》と反省される『我』は2周期解である。反省する《我》を反省する《我》は4周期解になる。それを繰り返すと∞周期解の《めまい》が生じる。それを突き抜けたときに《混濁》が生じる。

愛知的行動様式《背後者回路》

  1. 知らなかったことを知るために、喜んでカオスに飛び込む行動様式、の《背後者回路》
  2. 愛知的な《快》。愛知的な《快》の経験があるということ。カオスに突き落とされた後に世界が広がるという《快》を経験したことがあること。
  3. 「未知なるもの」へのクオリアを感じること。

なんとでも言える。

  1. 問題は、《私》見通しにおいて、その言葉が意味を持っているか、だ。
  2. 《私》見通しにおいて、そのモノが見通せているか、だ。
  3. そのコトバが、《私のコトバ》であるか、だ。

「1913年,ルードヴィッヒはこのころから生涯のテーマ「ことばとはなにか」「意味とはなにか」について考えはじめていた。1914年,第1次世界大戦が始まると,ルードヴィッヒはオーストラリア軍に志願。極限状況のなかでも思索を続けたが,1918年にイタリアで捕虜になる。しかし,彼は獄中で論文を書き,ラッセルへ送る。ラッセルは驚愕するが,その論文こそ,いまも哲学,論理学,そして言語について学ぶ者に影響を与えている『論理哲学論考』だった。それは「世界とは成立している事柄の総体である」に始まり,「語りえないことについては沈黙せねばならない」に終わる526もの断章で構成されていた。その内容は論理学の基礎を学ばないと理解しにくいが,ながめていると詩のようなもの悲しさと美しさが感じられた。さらに彼は,「この本で哲学の問題はすべて解決した」といいきり,哲学から遠ざかってしまう。」(http://www.labo-global.co.jp/spc-o-word/wordpro/Ludwig/ludwig.html

  1. 「『哲学探究』"Philosophische Untersuchungen&quot; 後期ヴィトゲンシュタインの代表作。しかしご本人が発表しようと思ったものでは無いようですね。『論考』では、命題を「写像」するということに、ヴィトゲンシュタインの 主要な関心があったのですが、こんどは私たちの言語の中に存在するゲームの ような様々なルールの構造に注目します。ヴィトゲンシュタインは、そうした構造を 有したものを総じて「言語ゲーム」と名付けています。 この『探求』は、様々な事例を「言語ゲーム」という概念を使って分析していきます。・・『探求』においては、 実例を挙げて論じることによって、「語り得るもの」に対する明晰な 描写が、より徹底されているというのが、現在の私の感想です。」(http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1373/text2.html
  2. 「『心理学の哲学』・・どうやら人がものを認知したり、判断したり、印象を 抱いたりするときの心の動きを問題にした記述が多いという 印象を受けました。こうした意味で、この著作は他人の「心理」の 把握や自分の「心理」の表明がそもそも可能か、という(ヴィトゲンシュタインの言う意味での) 「心理学」の根本を問うている と見ることもできるでしょう。」(http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1373/text2.html
  3. 「ヴィトゲンシュタインが、「語り得ない」と いっているのは、赤信号の時はとまるという ルールの正当性とか妥当性とか拘束力といったものを、 究極的な意味では証明できないという ことだと思います。」(http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1373/qa1.html):種族維持的価値!。なんちゃって。
  4. ユダヤ教的だな。「語りえないモノ」は要するにユダヤの神ではないか。
  5. 「『仮に、ライオンが話をしたとしても、ライオンと生活様式の形態を 共有していないから、私はライオンの言うことが理解できない』」(http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1373/qa1.html):これじゃ、まるで、ライオンと生活様式を共有していれば理解できるみたいじゃないか。ライオンと生活様式を共有していても、ライオンの個体は完全に同じ生活様式を共有しているわけではない。よって、個体が異なれば、感染には意味を共有することはできない。同じ類であっても、個体が異なればだめなのだ。さらに、時間が異なれば、同じ個体であっても、意味を共有することはできない。・・もっとも、コトバと意味は《群れの思いこみ》に属する、ということであれば、同じ群れに属する個体は意味を共有できる。どっちの意味で使うかなぁ・・
  6. 「私たちはよく、「お互いの心の中で考えているのを 伝えあうことが、コミュニケーションである」と 考えます。これはふつうに考えると、 間違っていないのかもしれません。 しかし他人の内面を知ることは、基本的には 不可能なのです。  心理学は人間の無意識を知ることが可能だとする 学問ですが、ヴィトゲンシュタインに言わせると これは不可能というわけです。」(http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1373/qa1.html):といういことは、個体レベルでの意味の違いの立場のようだ。
  7. 「恐らくヴィトゲンシュタインは、このようなことを 考慮して、人間の内面を伝えあうこととしての コミュニケーションという考えを放棄したのだと 思います。」(http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1373/qa1.html):これは、禅における基本的な立場だね。神秘主義ともいう。
  8. ライオンというモノ入り込直観、においては、理解可能ということになる。

3つの問題がありそうだ。

  1. (1)「語られた構造」と《他者》《背後者回路》。「語られた構造」は《他者》の自覚的自我の背後にあって、彼の自覚的自我を無意識のうちに規制する回路。
  2. (2)「語られた構造」と《私》《背後者回路》。パターンとインスタンス。持続と変化。
  3. (3)自覚的自我と《背後者回路》。破壊的発掘。

内外のモノたちの《求める思いこみ》《背後者回路》を見通すこと。

科学教は民衆の間から発生した自然発生的な宗教である。

  1. マスコミが煽っているかも?
  2. CMが煽っている傾向はあるな。モノを売るための煽り。
  3. モノを売るための煽りといえば、塾産業が産み出す、テスト信仰も困ったモノだ。今日明日のテストの成績こそが重要であるという信仰。バカだ。日本人の学力低下の根源だ。

実行可能なコトバ

  1. 《背後者回路》を記述するコトバ。プログラム。
  2. 《背後者回路》の中を循環する《思いこみ》コトバではない。データ。
  3. 《背後者回路をプログラムするコトバ
  4. 自覚的に実行されるコトバもある。「スケジュール」とか「命令」、「道徳律」、「法律」「規則」。定言的命令と仮言的命令。
  5. 《求める思いこみ》は定言的な命令。実行可能なコトバは仮言的な命令。
  6. 《背後者回路》循環するモノ《思いこみ》コトバか?
  7. 「実行可能なコトバ」は適切な表現か?

《背後者回路》

  1. 脳科学的な神経細胞の回路であろう。
  2. カオス化→秩序化によるシステムの再構成が可能な回路。
  3. 官僚主義の現象の背後には官僚主義的《背後者回路》がある。官僚組織のなかの《ヒトの個体》の自覚の背後において、彼の思考様式、行動様式を規制している脳科学的回路がある。
  4. 「実行可能なコトバ」は《背後者回路》を記述するコトバである。
  5. 《思いこみ》《背後者回路》を経由して表出される。《背後者回路》を経由して循環する。
  6. 《思いこみの表出》は《背後者回路》兆候である。
  7. 《背後者回路》という用語は妥当か?
  8. 現象表出回路?

2005-07-09(土)

《思いこみ》としての『我』の構造と《背後者》の構造

  1. 混同しやすい。というか、《背後者》を認識するということは『我』の《思いこみ》《背後者》の認識(《思いこみ》)を追加することに繋がる。
  2. 認識された《背後者》の構造は、《思いこみ》としての『我』に追加される。
  3. 《背後者》の認識(《思いこみ》)は『我』の《思いこみ》の一部なのである。
  4. 《背後者》は認識されない限りにおいて《背後者》なのであって、認識された《背後者》《背後者》ではないのである。
  5. 『我』の《思いこみ》=自覚的自我。
  6. 構造主義者たちが明らかにしたことは、《他者》の自覚的自我の背後に無自覚的な思考様式の構造があるということ。無自覚的な思考回路。

カオス的脳観:

  1. 問題は、力学系の学者の発想がとんでもないモノだということ。
  2. 世界はパラメータ(数値)の集合(ベクトル)であらわすことができる。
  3. 世界は多次元の座標系の一点であらわすことができる。という発想。とんでもない!
  4. 「Si(μ)はμ番目の記憶されるべき事情あるいはパターンのベクトル表現におけるi番目の成分である」とかや。
  5. もう一つあるな、「直前の状態が決まれば、次の状態は決まる」「前の前の状態は影響しない」というものだ。S(t+1)=F(S(t)) というもの。「直前の状態が同じなら、次の状態も同じである」というもの。連続関数(p.72)というらしい。
  6. 連続関数であらわすことができるカオス(p.38、p.51、p.72)は、カオスではないのではないのか? 「パターンを理解する簡単なルールが見つからない」(p.51)ではあるが「簡単なルールによって作り出されたパターン」である。どう違うのか?。

民衆は、知識人よりも現実をよく知っている。しかし、その知を自らの言説に直結させない知恵も持っている。

  1. 危険だからだ。

「現象の背後には、その現象を表出する回路がある」

  1. 『無人島』p.60、「事物が兆候の言葉である沈黙の言説を発する範囲においてのみ、事物自体には構造がある」
  2. 現象は「現象表出回路」のアウトプットである。
  3. 現象は「現象表出回路」を知るための兆候である。
  4. 「現象表出回路」を記述するコトバを「実行可能なコトバ」という。

物理学が進化すれば、社会常識に近づいてくるだろう。

  1. だって、社会常識も物理現象なのだから。

愛知者というモノがある。

  1. 愛知者的行動様式というパターンがある。
  2. 愛知者というモノ《求める思いこみ》がある。
  3. 自分の既存の知を根底から覆すような知を愛する、というパターンである。
  4. 自分をカオスに突き落とすような知を求める、というパターンである。

人は何故、宇宙神を『無縁なモノ』と考えるのか?

  1. ヒトは、《群れの思いこみ》を信じるモノだからである。
  2. 《群れの思いこみの世界》の中で生きるモノだからである。
  3. 知らなくても生きていける、からである。
  4. 知らない方が、無難に生きていける、からである。
  5. 追従ザルか、ボス猿か、だからである。ハグレ猿は危険な生き方だからである。
  6. 宇宙神を知るモノは、ハグレ猿の一部である。ハグレ猿からボス猿になったモノの一部である。
  7. 宇宙神は、人格を持たない、たんなる、《宇宙史》四次元チューブだからである。

規範を

  1. 自分が命令されたコトバとして知るヒト追従ザル
  2. 他人に命令するコトバとして知るヒトボス猿
  3. 他人相互における命令関係のコトバとして知るヒトハグレ猿

知識はヒトが生きることの条件ではない。

  1. 知識なんてなくっても生きていける。知識だけのヒトが生きていけるはずがない。
  2. 『善く生きる』ために必要か?
  3. 失敗を繰り返さない知恵は必要だろう。自分の失敗を繰り返し行わないこと、は知識ではない。
  4. 他人が失敗したことを、自分が繰り返さないこと、のためには、他人の失敗についての知識が必要だろう。・・しかし、科学は「他人の失敗についての知識」なんか与えてくれない。
  5. 「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。その証拠としては感覚への愛好があげられる」(『形而上学・上』p.21)。
  6. 知識というのは、《ヒトの群れ》で共有されたコトバだ。

『これはコップである』は科学的に正しいか?

  1. 『これ』は無限定なコトバではないか、とすると、検証不可能であり、科学的には正しくない。
  2. 『これ』が、たけ(tk)の目の前にある、コーヒーが入っているモノを指し示しているとしよう。だとしても、モノを指し示すコトバが、そのモノを指し示していることを、どうやって、科学的に証明するのか?

『コックリさんが質問に答えてくれる』は科学的に正しいか?

  1. 参加者の無意識レベルでの記憶や願望が、無意識レベルの指の動きを通じて、「答えている」というのは、まあ、明らかだろう。
  2. では、「参加者の無意識レベルでの記憶や願望」に「コックリさん」という名前を与えたとしたら、『コックリさんが質問に答えてくれる』という命題は正しいことになるのではないか?

『カミナリ様が太鼓を叩いている』は科学的に正しいか?

  1. 気象現象としての巨大な放電現象を『カミナリ様』と名づけるのは問題ないだろう。
  2. 放電現象による熱膨張によって衝撃的な音が発生する。「気象現象としての巨大な放電現象」が「衝撃的な音を発生させる」ことを「太鼓を叩く」と呼んではいけないのか? おそらく、雷の音と太鼓の音とは似ているのだ。叩くというのは衝撃を与えることだ。太鼓の皮を叩くことによって空気に衝撃的な音を発生させることを「太鼓を叩く」という。「太鼓を叩く」というコトバの本質的な意味は、モノとしての太鼓を叩くことではなく、「(太鼓を叩いたときに発生する)衝撃的な音を発生させること」だろう。指先で太鼓の縁の部分をそっと叩いても「太鼓を叩く」という意味には、普通は、ならないだろう。
  3. 現象にどのような名前を付けるか、という問題でしかない。
  4. 問題は、現象を擬人化して捉えることが誤っている、というのか?
  5. では、「太鼓を叩く」というヒトの行動について考えてみよう。ヒトの行動は物理現象である。
  6. 問題は、カミナリ様をヒトの形をしたモノ、と考えることにあるのか?虎の毛皮のパンツをはいて、背中に太鼓を背負っているヒト、と考えることに問題があるのか? まあ、問題である。しかし、昔のヒトは、本当に「カミナリ様をヒトの形をしたモノ」と考えていたのか? それとも未知なる形をしたモノであって、「カミナリ様をヒトの形をしたモノ」は絵画作家の苦肉の/おもしろい/傑作な/勝手に考え出した表現にすぎない、という認識であったのか? おそらく、子供に「カミナリ様はどこにいるの?」と聞かれたら「そんなもの見える訳ない」と応えるに決まっている。「見えないと思うと怖いけど。おどけたカミナリ様を想像してごらん。そしたら、恐くなくなるだろ」と言ったことだろう。

科学者たちのナイーブな物体・数量信仰をどのように理解すべきか?

  1. 《他者の思いこみ》《他者》の内部循環《他者》モノとの間の個体間循環《他者》モノとの間の個体間循環によって生じた《他者》個体内循環モノコトバへの素朴な信仰。
  2. 科学者たちにとっては、《コトバの世界》がまずあって、その《コトバの世界》に対応するモノを発見すれば、《コトバの世界》の正しさが検証されたと信じる、という《思いこみ》
  3. 《コトバの世界》に対応するモノを発見すること」とは? 
  4. 《コトバの世界》の定義に従って、《モノの世界》からモノを切り出すこと。define=定義=輪郭を示すこと。日本語で「定義」というと「輪郭」という《モノの世界》との関係が見えなくなるね。
  5. 《モノの世界》にたいしてクオリアを感じるという、日常的な感覚なんだよね。デカルト的な感覚ではない。《モノの世界》《コトバの世界》との二重性を普通のこととして、疑問に思わない感覚なんだよね。
  6. そこでいう《コトバの世界》が《科学コトバ世界》だ、というだけの違いだろう。
  7. 科学コトバ世界》というのは、《誰かが『実験によって確認されました』というコトバを伴って報告したコトバ》で構成された世界
  8. しかし、実験というのは、そのモノ本来の姿ではない、特殊な状態を作り出すことなんだよね。そのモノを特殊な状態において、そのモノの本来の姿を構成することは可能なのか?状態が変わったことによって、そのモノの姿も変わってしまうのではないのか? 別のモノを観察することにならないのか?
  9. それより、科学的な実験によって知られた事柄は、われわれが生きていくために知るべき事柄の極々一部であり、ほとんど役に立たないもんばかりだ、ということが問題か。
  10. 科学者たちとは、『《科学者のヒトの群れ》に属する』という《思いこみ》を持つモノであり、《科学者の群れの思いこみ》の世界に棲むモノである。
  11. 科学者たちのナイーブな物体・数量信仰」というのは正しくない。「ナイーブな物体・数量信仰」を持つのは、科学的な知識が深くない人のほうが多いかも。科学教というのは非科学的な信仰なのだ。

「define::━━ vt. 限界[範囲]を定める, …の輪郭をはっきり示す; 明確にする, 定義する ((as)).」(http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=define&kind=ej

アリストテレスの「属性」は《思いこみ》である。Rubyの「属性」はモノである。

  1. Rubyのモノは、そもそも、《思いこみ》であり、《実行可能な思いこみ》(実行可能なコトバ)である。
  2. 《思いこみ》は存在するモノである。
  3. 《思いこみ》はすべて、《実行可能な思いこみ》である。《思いこみ》表象されることによっても実行されることができる。
  4. 扇風機というモノは、風を起こす力、という属性を持つ。風を起こす力、というモノを持つ、か?《ちから》モノか? 
  5. 扇風機は『風を起こす』という《求める思いこみ》を持つ。扇風機は『たけ(tk)に頭痛を起こす』という《求める思いこみ》を持つ。
  6. 結局のところ、Rubyの属性も《思いこみ》である。
  7. 「実行可能なコトバ」と《求める思いこみ》との異同は?

コギトのテスト:

  1. 十分な疑り深さをもって、「《知りつつあるモノ》が存在する」というのと同じ程度の確実さで「xxが存在する」という判断が可能かどうか、という規準で判断するテスト。

ヒトとは、《ヒトの群れ》に魂を売り渡したモノである。

  1. ヒトは、(赤ん坊のときから)《ヒトの群れ》に魂を売り渡した状態で生まれる。赤ん坊は、母親との母子関係という《ヒトの群れ》に魂を売り渡した状態で生まれる。
  2. 《思いこみ》の対他循環。実在的対他循環→仮想的対他循環→夢想的対他循環《他者》が実在するときの対他循環《思いこみ》循環は実在する《他者》循環と、8の字型の循環を形成する。仮想的対他循環。実在する《他者》のイメージとの間での循環。夢想的対他循環、実在しない《他者》のイメージとの間での循環、『ヒトの群れ=われわれ』という実在しない《他者》『神』という実在しない《他者》のイメージとの間での循環。(実在しない、というべきか、実在するというべきかは、・・その区別はコギトのテストによるべきだろう)。
  3. 《思いこみ》個体間循環《思いこみの個体間循環》

爪楊枝との対話:階段で爪楊枝をいじっているのに気がついて・・

  1. 君たちは、弄られることを求めているのかい? 
  2. 違うよ。
  3. そうだろうな。君たちの目的は、ヒトの歯の掃除だもんな。
  4. 違うよ。それは、僕たちを今の形にしたヒト《思いこみ》だよ。
  5. 君たちの《求める思いこみ》は?
  6. 自分の内外のモノたちの《求める思いこみ》を聞くことさ。
  7. なんだ、たけ(tk)の昨日の結論じゃないか。
  8. そうさ。
  9. で?、なんで?、たけ(tk)に弄られていることとの関係は?
  10. 僕たちは君の《求める思いこみ》を聞いたのさ。君は君の内部の《求める思いこみ》を聞いて僕たちをいじっているのさ。僕も君も、君の内部の《求める思いこみ》を聞いた。それで、君は僕を弄り、僕は君が僕を弄ることを楽しんでいるのさ。

2005-07-08(金)

「どのように生きるべきか」という問いにはすでに答えが含まれている。

  1. 「なすべきことをなせ」が答えだ。もっとも、「なすべきことは何か」という実質的な問いが残る。
  2. 「何をなすべきか」を知っているヒトは、それをやればよい。このような問いを発するのは「何をなすべきか」を知らない人だろう。
  3. 「なすべきこと」がたくさんありすぎて、その中で、「何が本当になすべきことなのか」が分からない人もいるだろう。
  4. 《私》にとって、なすべきことをなせ」。
  5. となると、《私》にとって、《たけ(tk)の思いこみ》を完成させることって、なすべきことかどうか分からないな、
  6. 或るモノがある瞬間になすべきことの個数は一つだけである。たくさん思い浮かぶということは「なすべきこと」を知らないということである。
  7. 「なすべきこと」はモノの属性である。《私》のなすべきことは、《私》というモノの属性である。
  8. モノのなすべきことは、モノの外部状況《求める思いこみ》や、ものの内部状態の《求める思いこみ》の実現である。外部状況と内部状態の全体から帰結する《求める思いこみ》を実現することである。《私》というモノのなすべきことも、同様に、《私》というモノの内部状態と外部状況の全体から帰結する《求める思いこみ》を実現することである。
  9. 外部の状況は、モノたちの《求める思いこみ》や、ヒトたちの《求める思いこみ》で構成されている。内部の状態も、《私》の内部のモノたちの《求める思いこみ》によって構成されている。
  10. もろもろのモノたちやヒトたちの《求める思いこみ》を聞いて、《今ここにある私》がまさに動こうとしている志向性が、《私》《求める思いこみ》である。
  11. 多くのモノたちの《求める思いこみ》を聞くことによって、《私》《求める思いこみ》カオスに陥る。《私》が知りうる全てのモノ《求める思いこみ》を聞け。そのカオスの中で、《今ここにある私》がまさに動こうとしている志向性を見つけたら、それが《私》のなすべきことである。
  12. 《今ここにあるこのモノ》に落ちた。《今ここにあるこのモノ》は世界共振しはじめた。・・《今ここにあるこのモノ》は欠伸(あくび)をしたぞ・・。(^^; ・・《今ここにあるこのモノ》は《息しつつあるモノ》なのだ。・・《今ここにあるこのモノ》は眠いと言っておられるぞ。《今ここにあるこのモノ》は《眠りつつあるモノ》なのだ。カオスの中では眠ることが、なすべきことなのだ。?? 死と再生の儀式が必要なのだ。

「死と再生の儀式は、農耕儀礼であると同時に、古代人たちにとっては、それは成人式の祭りでもあったのである。」(http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/essay1.html

  1. 「瓜子姫は必ず食べられなければならなかった。あるいは、アマノジャクは必ず細切れにされ、畑にまかれなければならなかった。それがいかに残酷な印象を与えようとも、それは避けては通ることのできない儀式であった。そうすることによってのみ、彼らは再生を約束されていたのである。」

2005-07-07(木)

《私》《他者の背後者》に構造を見いだす。しかし、《私》《私》《背後者》には《思いこみ》循環しか見いだすことができない。なんでか?

  1. 《私》《背後者》に対して、《私》は構造の内部にある。《他者の背後者》に対しては、《私》は構造の外部にある。
  2. 《私》《私》《背後者》《私》世界の中にあって、情報を処理しつつあるモノとして振る舞い、処理すべき情報として《思いこみ》を受け取る。
  3. 《他者の背後者》においては《思いこみ》循環があるであろう。しかし、循環というだけでは構造は見えてこない。構造の中で《他者の思いこみ》循環するのである。
  4. 《私》《私》《背後者》の構造を見ることができるか? 《私》《背後者》を思索するときに、《私》《背後者》の構造に対して破壊的に振る舞う。遺跡の発掘は常に破壊的である。

《他者の背後者》の構造:

  1. 《私》からみると、まず《他者の身体》があり、《他者の背後者》《他者の思いこみ》とは、同等なものとして、《他者の身体》の中に存在する。
  2. 《他者》《我》にとっては、《他者の思いこみ》は彼の《体内感覚世界》モノであるが、《他者》《背後者》は彼にとって未知なるものである。彼にとっては、彼の《共振しつつある身体》も、正確には未知なるものである、
  3. 《私》から見る場合と、《他者》《我》から見る場合とでは、位置関係がかなり異なる。
  4. 《他者の背後者》《私》からみた《他者》《背後者》《他者の身体》の中の《背後者》である。「《他者》《背後者》」は《他者》《我》から見た《他者》《背後者》である。

《他者の背後者》構造で思いつくのは

  1. 所有ルールテリトリー
  2. 贈与のルール。思いやりのルール、尽くしあいのルール
  3. 様々な欲望。
  4. 語りかけのルール。人は何故、ヒトに語りかけるのだろうか?
  5. 《他者の背後者》の構造とは、《他者の欲望》を、《他者の動き》に変換する回路の総体である。
  6. 《他者の背後者》の構造にとって、《他者》《我》とはなにか?
  7. 《私》の説得的なコトバは、《他者の背後者》の構造に、新しい回路を組み込む。つまり、《他者》動きを変更する。

《他者の背後者》の構造としての語りかけのルール

  1. 語りかけは攻撃である。
  2. 語りかけは「害意が無いことを示す」行動である。空砲儀礼のルールである。儀式化され、無害化された攻撃である。
  3. 語りかけは、相手の不安を解消する行動である。
  4. 他者は、語りかけを行わないヒトに対して不安を感じる。なんで? ヒトヒトと出会えば攻撃する、というルールがあるのだ。儀式的に無害化された攻撃を行うことにより、実質的な攻撃を受ける不安から解消されるのだ。

「空砲発射は「敵意なし」のサイン

  1.  軍艦が外国の港を訪れたり、国の元首や首相、将官などの公式訪問を受ける場合、空砲を発射して敬意を表すのが帆船時代からの国際儀礼として現在も行われている。しかしたとえ空砲でも、やはり大砲は大砲。これを発射することが、なぜ敬意の表現になるのだろうか。これには理由がある。
  2.  昔の大砲は、一度発射すると次の発射までに相当時間がかかった。発射の反動で大砲はずり下がる。もう一度発射するためには、砲身の内部を掃除し、筒先から砲弾と火薬を押し込んで、さらにずり下がった大砲を元の位置に戻し、導火線に火をつける、という手間のかかる作業が必要だった。
  3.  つまり船に積んである大砲を一度に全部発射してしまえば次の発射は当分の間できない。これは攻撃の意志がないことを意味し、このことによって間接的に相手に対する敬意を表現したわけである。
  4.  無数のハイテク兵器がひきもきらず夜空を飛び交ったあの湾岸戦争のイメージからは想像もつかない、のどかな時代ならではの話である。」(http://www.jsanet.or.jp/seminar/text/seminar_106.html

天命を知るとは、自分が置かれた状況に内在する必要(ニーズ)を知ることである。

「xxは必要か」は「私にとって世界は必要か」という疑問に帰着する。

  1. 私にとって《息しつつあるモノ》(身体)は必要である。その必要性を、呼吸停止の実験によって実感せよ。
  2. 身体にとって、給料は必要である。
  3. 給料にとって、事務所は必要である。
  4. 事務所にとってxxは必要である、か?
  5. 身体にとって、《共振しつつある世界》は必要である。(《近傍物理空間》《知りつつあるモノ》は必要・不可欠ではない)。
  6. 《共振しつつある世界》は、金によって買われた世界である。人々の贈与によって与えられた世界である。
  7. 《共振しつつある世界》は、《モノの世界》と人々の《思いこみ》世界が重層している。《モノの世界》は人々の《思いこみ》所有)によって分割されている。
  8. 《モノの世界》《群れの思いこみ》所有による分割)によって覆われている。
  9. 共振しつつある《モノの世界》は、同じく《共振しつつあるモノ》であるヒト《思いこみ》によって暴力的に分断されている。
  10. 共振しつつある《他者》の行動を支配する、《他者の背後者世界》の構造。《他者の背後者構造》。
  11. 所有とは、テリトリーヒト的あり方である。動物が、テリトリーの侵害に対して激しく攻撃的になるのと同様に、ヒトは、所有権の侵害に対して激しく攻撃的になる。

「実行可能な知識」は、「理解する」ことができず、「信奉する」ことしかできないのではないか?

  1. 過剰な情報は、情報が無いのと同じ。
  2. 過剰な情報を、適度に、人間的理解の尺度にあう大きさに、輪郭化すること。

情報の独占と暴力の独占:

  1. 権力の本質は暴力の独占。(なぜか、たけ(tk)は、肯定しているけど・・)
  2. 暴力の独占にとって情報の独占は重要なファクター。敵を知り己を知れば百戦危うからず。敵に知られないことが暴力行使の秘訣。敵に知らせないことが秘訣。
  3. 権力の暴力独占とは、人民の暴力を奪うことである。人民が敵なのである。
  4. 権力には正当性が必要。正当性の承認を強制するのも権力の特色。(暴力だけでは治まらないことが多い。)
  5. 情報の独占は正当性を有するか? 避知的行動様式を正当化すれば、正当化可能である。「知るべきではない」ということを正当化するような思考様式が存在しうる。奴隷的思考様式とも言う。

三菱とUFJが合併したとかで、通帳が使えなくなる、とやら。

  1. なんで、銀行の都合で、ユーザが迷惑を被らなければならないのか?

個人情報保護法:

  1. 権力は情報を独占したいという傾向を持っている。その傾向を強化する目的で作られた法律。
  2. 羊頭狗肉の法律。
  3. 秘密主義的政治を確保するための法律。秘密主義というのは、人民に対して知らせないという意味の秘密であって、権力に対しては情報の独占を許すということ。
  4. 人々の避知的行動様式を助長する法律。
  5. 交通事故防止のために、道を歩くことを警察の許可制にするようなモノだ。
  6. 不正な行為の隠蔽のための目的もあるのだろう。
  7. よく、知事が怪しげな人物と会合した、なんて記録が出てくるが、これの秘密を確保するためのものだろう。
  8. 「知らしむべからず」という法律。
  9. 他の権力機関は「相当な理由」があれば、知ることが出来るが、人民は「相当な理由」があっても駄目、という法律。(裁判を受ける権利などの)権利行使のために不可欠な情報であっても、駄目、という法律。改善されるのかな? 現状ではそうなっている。
  10. 問題なのは、個人情報を知った後に悪いことをやるヤツがいる、ということ。その悪を直接に防止するのではなく、人民に知らしむべからず、で対処しようとする、羊頭狗肉の、法律。情報開示への抵抗。行政情報不開示のための法律。
  11. プライバシーの権利は、自己情報管理権として制度化されるべきもの。すなわち、名簿を使ったセールスなどに対して「個人情報の入手元、入手方法、個人情報管理責任者」の開示を義務づけることによって当該個人が自己の情報の自ら管理できるようにする制度を作るべきモノである。入手元をたどって根源にたどりつくことを確保する。入手元を明らかにしない個人情報の利用は違法とする。

モノと属性:

  1. 付属物。所有物。
  2. 内蔵物(サブシステム)。
  3. 他のモノとの関係性、世界における位置、場所。
  4. 評価。《思いこみ》。『白い』『丸い』。

2005-07-06(水)

「哲学は、その知的能力の用い方において弁証論と異なり、また、詭弁術とはその生活意図において異なっている。哲学がそれの知識を得ようとしている事柄に対して弁証論はただ試論的・非難的であり、詭弁術は見かけは知恵に似ていて実は非なるものである」(p.118、形而上学・上)

  1. 「生活意図において異なっている」てのがいいね。でも、それを言っちゃうと、相手は爆発するね。
  2. 「試論的・非難的」ね。知らないことを知っているように見せかけようとするから、そうなるんだよね。その手のヒトが多いかな。

直観は差異(インスタンス)を実感させ、反復は類(クラス)を実感させる。

アルチュセールの言っているような「構造」

  1. 「資本家」
  2. 或る《ヒトの群れ》で、『わしゃ、たけ(tk)じゃ』『俺が宮本だぁ』『ぼくはxxです』みたいな役割分担。その役割を配置している《ヒトの群れ》の「構造」みたいなモノはある。しかし、その構造は、変化し続ける。その時にのみ有効な「構造」。「そのものだけにしか適用されない」概念(p.178)としての「構造」ではないのか?。

上意下達の権力組織においては、モノを考える能力を持った人間は育たない。

  1. なので、初めからモノを考える上位者として教育された人々が必要になる。
  2. 民間では、全員がモノを考える従業員であることが期待される。そのような従業員として教育されれば、トップにはモノを考える能力を持った人材が確保される。って、ホント?

因果の地平を超えた所にはカオスがあるのではないか?

  1. 因果の地平を超えた所というのは、要するに、今の他のモノ世界
  2. 今の他のモノ世界カオスだとすると、それは確率的世界だ、ということになるのかもしれない。存在確率の世界だ、ということになるのかもしれない。
  3. 「ハッブルの法則がどこまでも正しいとすると、、、○宇宙の果て  どんどん遠くに行くとどんどん銀河の速さが速くなる。あるところまで行くと光速を超えてしまう。光速を超えたところからは永遠に光は届かない。ここまでしか見えないので、そこを宇宙の地平と呼ぶ。それは、30万km/s ÷ 72km/s ×326万光年 = 135億光年である。・・他にも空間の移動速度が光速を超えている所がある。 ブラックホールの因果の地平の内側である。自由落下で落ちて行った宇宙船は 超光速で落ちている。これも落ちているのは「宇宙船を含む空間」であって、 宇宙船はあくまで自由落下すなわちその空間に静止している。 だからいいのである。 ただしその宇宙船から出た光は永遠に我々には届かない。 落下する空間の速度が光速になるところが事象の地平である。」(http://cosmic.riken.go.jp/mihara/uchuu2/11kaime/11kaime.html):なんか、たけ(tk)の理解と違うな。たけ(tk)の理解では、同時性の限界、というか、或る地点で他のモノを観察するとき、光の速度で到達しうる過去のものしか認識することができない。認識可能なモノはすべて、光速がおりなす円錐の範囲内の過去のモノである。したがって、「同一時刻」の他のモノは観察することができない、という意味で使っている。上の説明で「あるところまで行くと光速を超えてしまう」というのは相対性原理を無視した言い方だ。

《今ここにある私》は《今ここにある私》の背後に「構造」があることを実感することはできるか?

  1. 「私が兆候の言葉を発する範囲において、私には構造がある」(原文では「事物」p.60)という実感を持つことはできますか?
  2. 《今ここにある私》は背後の「構造」をどのようなモノとして実感しているのか?
  3. 《今ここにある私》は背後の「構造」とどのように向き合っているのか?
  4. 《今ここにある私》は背後の「構造」とどのような形・方法で向き合うことが可能か?
  5. 《今ここにある私》は背後の「構造」とどのような形・方法で向き合うべきか?

「構造は必ず無意識的なモノである」(p.74)

  1. というのは、言い過ぎではないか?
  2. たしかに、意識化されると破壊される可能性がある。が意識的に構造化された部分も、必ずある。もっとも、実質的な意味における憲法のように、自覚的なモノだけを構造とみなす考え方に対するアンチテーゼとしてはOK。
  3. 「潜在的なモノである」。たしかに、《ヒト動き》を制御するモノは、動きの前にモノの内部に存在する、潜在的なモノである。表現されたモノの元になったモノは、表現される前には潜在的なモノである。
  4. 対象にしているモノは《他者の背後者世界》である。《背後者世界》が潜在的なモノであるのは、当たり前であろう。

「多様体(たようたい、manifold)とは、局所的にユークリッド空間とみなせるような図形のことである。多様体上には好きなところに局所的に座標を描き込むことができる。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/多様体)

  1. 地球と同じように多様体は好きなところに小さな地図(局所座標系)が描ける図形である。逆に、このような小さな地図を繋げていったら全体としてどのような図形ができあがるのか?という問題は位相幾何学の重要な問題の一つでもある。地図だけみれば地球をまねて作っているようなゲームの世界が、実は球面ではなくトーラスだったということもある。」
  2. 「非ユークリッド幾何学も多様体論の一例でしかなくなってしまった。 リーマンがゲッチンゲン大学の私講師に就任するために行った講演『幾何学の基礎に関する仮説について』の中で「何重にも拡がったもの」と表現した概念が n 次元多様体のもとになり n 次元の幾何学に関する研究が始まった。」
  3. 要するに非ユークリッド幾何学を一般化して、n次元幾何学にし、トポロジーに近づいた幾何学、という感じか。写像を中心にした多次元幾何学?
  4. 「(可算基をもつ)Hausdorff 空間 M が m 次元 (m-dimensional) 位相多様体 (topological manifold) あるいは単に 多様体 (manifold) とは, ∀p ∈ M に対して, p を含む m 次元座標近傍 (U, φ) が存在するときをいう。」(http://www.google.com/url?sa=U&start=10&q=http://www.mm.sophia.ac.jp/~yokoyama/2000nen/mani1.pdf&e=10431

「音素」(p.69)

  1. 《思いこみ》はアトムに分解できるか?
  2. 《他者の背後者空間》の構造はアトムに分解できるか?
  3. なーんだ。みんなおんなじことを考えていたんだ・・。みんな、コトバが違うから、何を考えているか分からなかったんだ。《私》《私》コトバを持ったとき、《他者》コトバの意味が分かった。ということだ。

「新しい超越的哲学」(p.67)

  1. これを、ドゥルーズはめざしているのか?

「それ自体としてはシニフィアンではない複数の要素の結合から、常に意味は帰結する」(p.67)

  1. 《思いこみ》《思いこみ》の結合はそれ自体としては《思いこみ》ではない。しかし《思いこみ》《思いこみ》の結合によって《思いこみ》の意味が帰結する」
  2. 或る《思いこみ》の意味は、他の《思いこみ》との相対関係によって決まる。
  3. 或る《思いこみ》の意味は、多数の《思いこみ》世界の中での、その《思いこみ》の位置によって決まる。
  4. 意味は動きとの関係によって、決まる、というのが主だとは思うが。《動き》を『動き』の《思いこみ》に変換するのは《背後者》の構造なのだ。或る《動き》の意味は、その『動き』の《思いこみ》の意味にほかならない。
  5. 手をあげるという《動き》の意味は、教室で先生が質問したときの意味と、電車の中でつり革に向かって行う場合の意味と、不愉快な人に向かって行う場合とてで意味が異なる。これらの意味の違いは《モノの世界》での関係性による。《背後者世界》での《思いこみ》の相対関係による違いではない。
  6. 電車の中でつり革に向かって手をあげる行為は、「痴漢に間違われるのを防ぐため」に行うのであれば、《モノの世界》での関係性から生じる意味の違いには留まらない意味の違いがある。この違いは、社会的なものではなく、個人的な知識によるものである。知識によって、行動の意味が変わってくる。これは個人的な《背後者世界》の構造が変化したための違いであるといってよい。
  7. しかし、ベースになっているのは《モノの世界》における関係性である。《背後者世界》《思いこみ》の関係性を重視し過ぎると、実体を見失うだろう。

非合理主義というのは、反科学主義のことなんだ。

  1. 科学主義の哲学は非合理ではない。人々に誤解があるようだ。

「真の主体と真の対象は、・・トポロジカルで構造的な空間における複数の場所なのである」(p.66)

  1. をいをい・・。この視点を、ユダヤの神の視点という。
  2. 主体の問題を簡単に棄ててはならない。
  3. 科学」者の視点はユダヤの神の視点である。ゴイムをモノとして観察する視点である。科学者はそれでも構わないが、哲学者がそれでは困る。汝自身を知れ、を忘れた言説である。ドゥルーズが科学主義を批判するために、述べているのであればOK、だが・・。
  4. 「構造主義が科学的に志すのは」というコトバが入っているな。
  5. 「複数の場所」というのがよく分からぬな。《他者の背後者空間》の構造の分析のために《私》が注目した複数の場所、ということか? 《私》が注目した場所と場所との関係の分析が重要、ということか?
  6. イデア主義に近いんだよな・・。初めにイデアがあって、後から経験がやってくるという関係の強調は、イデア主義的なんだよ。イデア主義が成り立つのは、《ヒトの個体》《ヒトの群れ》のなかで、《ヒトの群れ》の構造を学んだ後の話なのだ。まあ、それなしには、人の自覚はあり得ないのだが、イデアモノとしての《ヒトの個体》の経験によって形成されるモノだということを忘れてはならないだろう。
  7. 旧来のイデア主義は単一イデア主義、構造主義のイデア主義は並列的イデア主義。
  8. 「具体的人間が、構造の位置によって指定される役割を引き受け(たとえば「資本家」)、構造の関係を支えとして使用する」(p.73)。『群れの中の私』は『群れ』の構造の中での位置が先にある。とはいうものの、そう簡単に決まるモノでもなかろう。『群れ』の構造は変化する。『群れ』の構造は、群れが何かを知るたびに、カオスになり、新しい構造を確立する。『群れの構造』は《群れの思いこみ》である。つまり、《ヒトの群れ》を構成する《ヒトの個体》によって共有された《思いこみ》である。

「初めに純粋に構造的な空間における場所があり、その後に現実的な存在者が場所を占めにやってくる」(p.66)

  1. 認識は《背後者世界》の求めに応じてやってくる。
  2. 『何に注目するか』は《背後者世界》の構造が決めるのだ。
  3. ドゥルーズは、分かっていたね。でも・・ドゥルーズの思想って??
  4. 認識は《背後者世界》の求めに応じてやってくる。が、《背後者世界》の構造は、変革されるのだ。というのが、カオス的遍歴の帰結だろう。知るたびに、《背後者世界》の構造はカオスを経て、新しい構造に変わる。
  5. マオリ・キキの自伝における認識の変化は、知ることによって、構造が変化することだ。もっとも、根底的な行動様式が変革されたかどうかは、自伝では分からない。
  6. 根底的な行動様式が変わらないのは、かれが住んでいる社会の他の人々の根底的な認識様式、行動様式が、個人的な変革によって変わるものではないからだ。人々の構造変わるには数世代の時間が必要である。というか。新しい個体の誕生によってしか、変わらない。

「近傍の秩序として次々と構成される純粋空間」(p.66)

  1. 純粋空間はトポロジカルな空間の方がよいだろう。「純粋」というのは意味が分からぬ。「空間」はそれ自体としては純粋だろう、モノがあれば純粋ではないが、《背後者空間》も《思いこみ》を含めれば純粋ではない。
  2. 《背後者世界》は、注目された部分の近傍が秩序として構成されていく。ふーむ、そういうように記述していくのか・・。
  3. 《背後者世界》には「注目された部分」はありえない。意識されないんだもん。「近傍」というのは「何の近傍」といいたいのだろうか?
  4. 《体内感覚世界》と混同しているのではないだろうか?

「構造要素には、方向=意味以外のものはない」(p.65)

  1. 《背後者世界》には意味と志向性しかない。《知った思いこみ》《求める思いこみ》しかない。
  2. 「トポロジカルな空間における場所を場である」(p.66)。そのとおり。ではあるのだが、これは、《体内感覚世界》で述べたコトバだな。《思いこみ》世界も「トポロジカルな空間における場所を場である」。《背後者空間》に限ったことではない。
  3. 構造と「知ることによる脳の構造変革」。知ることは構造を変えるのである。フロイトの治療法や、釈迦の治療法は、知ることによって《背後者世界》を変えることである。
  4. 《背後者世界》の構造は、カオスを経ても、構造化(秩序化)される。のが普通、というか、狂気に陥った人でも、秩序化されている。カオスの部分が残るのか? カオスの部分に触れるたびに、異なった秩序に遷移してしまうのか?
  5. 人格的な分裂、というのは、普通の《ヒトの個体》においても現れる。それが、『群れの中の私』《思いこみ》だ。クルマを運転しているときには、『クルマの群れの中の私』になる。

「事物が兆候の言葉である沈黙の言説を発する範囲においてのみ、事物自体に構造がある」(『無人島』p.60)

  1. 構造ってのは《思いこみ》であったのか。《他者の思いこみ》だね。
  2. 「私が兆候の言葉を発する範囲において、私には構造がある」と言えるか?
  3. 《思いこみ》噴出と呼んでいる奴だ。《思いこみ》噴出させると透明になる。透明になる前の《背後者》の構造、ということだな。透明になるということは、意識化されて、制御可能となり、透明化されるということだ。構造は、意識化されず、制御不能であり、不透明な構造ということになる。
  4. 「記号界」というのは、人の背後にあって、人の行動を無意識の内に支配する、規則をあらわす記号だ。
  5. 快楽原理も記号か? しかり、『これは《快》である』という《思いこみ》が人を動かす。この《思いこみ》には『快』という記号が含まれているのだ。
  6. 「構造主義の第一の目標は人の背後にあって、人を動かしている記号を明らかにすることである」。記号は構造のアトムである。
  7. この記号はコトバではない。か? これもコトバか? 《実行可能なコトバ》であるな。《思いこみ》→《ヒト動き》。
  8. 「父の名」は記号かクオリアか?
  9. 記号は《思いこみ》の入れ物である。質感を伴わないコトバは無意味である。
  10. 《ヒトの個体》コトバには、自覚された『私』コトバと、モノとしての《私》コトバとがある。か。
  11. 「現実界と想像界と記号界」:「記号界」という言葉はひど過ぎる。《背後者世界》という意味ではないか。現実界(《モノの世界》)にも記号があり、想像界(《思いこみ》世界)にも記号がある。まったく、区別のてい(指標としての概念の体(てい))をなしていない。
  12. 「去勢の恐怖感」(p63)というのは、日本人にはない。日本人の文化の中には、去勢という風習が無い。去勢に関する伝承も無い。よって、日本人の構造の中には、《背後者世界》の中には『去勢の恐怖』というモノ(記号)が無い。去勢というのは羊や牛の雄が暴れるのを防止するために行われる。
  13. たけ(tk)の記号としての「父」はおぞましく醜い物体でしかない。そのくせ、『私』との区別が曖昧であるようなモノだ。『道化』『理念』『労働』の『父』ではない。
  14. 「父」という記号は人類共通だろう。しかし、「父」という記号が持つ意味は、《ヒトの群れ》ごと、家庭ごと、個人ごとに異なる。「父」という記号が人類共通なのは、生物学的な父が必ずある、という事実に基づいている。その生物学的事実の反映として、「父」という記号があるのだ。しかし、中身は千差万別。

《ヒトの個体》『群れの中の私』という《思いこみ》を持つことがある。

  1. というか、普通は『群れの中の私』という《思いこみ》の中で生きている。
  2. 『群れの中の私』には群れの規則と、私の場所がある。
  3. 『群れの中の私』《思いこみ》においては『群れ』が第一の実在であり、『私』はその中に位置する第二の実在である。
  4. 世界の中の私』『《近傍物理空間》の中の私』・・。
  5. 対話しつつある二つの《ヒトの個体》の場合
  6. 読書しつつある《ヒトの個体》の場合
  7. 人ごみの中にある《ヒトの個体》の場合
  8. うとうとと眠りにつきつつある《ヒトの個体》の場合

目的に向かって一直線。目的に向かって、情報を集めて、試して、作る。

  1. 目的的生存形態。変換関数としての生存。生きるとは、変換関数として生きることである。??

2005-07-05(火)

「この2つの世界(最初から考え抜かれ人工的に作られた独自世界と、いつの間にか出来上がってしまった独自世界)の違いはいったいなんなんだろうか? 木村純二の「生命をめぐる根拠−『愛』は『生命』の根拠か」(季刊日本思想史 No.62、2002年12月、ぺりかん社)の註によれば、丸山真男は世界の諸神話に見られる動詞を分析して、キリスト教的な「つくる」論理に対して、 日本的な「うむ(産む)」 から「なる」「なりゆく」発想を特徴として扱っているという。」(http://www.atmarkit.co.jp/farc/rensai/knowledge11/knowledge11.html

  1. なぜ、誰かに創られた世界だと思うのか、が、不思議だ。

動かすこと」と「操作名」(http://www.atmarkit.co.jp/farc/rensai/knowledge07/knowledge07.html

  1. 「野球」というコトバと、バッターボックスに立つことの違い。

「要求」→(変換)→「仕様」→(変換)→「見取り図」→(変換)→「設計図」→(変換)→「コード」(http://www.atmarkit.co.jp/farc/rensai/knowledge06/knowledge06.html

  1. 人間は変換関数である。異なる世界ドメイン)を繋ぐブリッジである。
  2. 「要求を仕様に変換するためには、要求を「解釈」できなければならない。 解釈とは「こいつのいっていることと矛盾しないような自分の辞書(モデルという)を作ること」である。解釈のためには要求そのものだけでは足りなくて、要求の背景となっている知識がある程度共有されていなければならない。  その1つがいわゆる「ドメイン知識 (顧客やユーザーの分野の専門知識)」であり、もう1つが「常識」なのである。」(http://www.atmarkit.co.jp/farc/rensai/knowledge06/knowledge06.html

「「実行可能な知識」とは、さまざまな知識を表しているソフトウェアというものがまさに、CPU上で実行可能だということを意味する。これは従来の紙の上に書かれているだけの知識にはなかった特徴だろう。「知識」の範囲を少しだけ広げて考えれば、例えばビジネス・プロセスも実行可能な知識(ビジネス組織が実行する)だし、遺伝情報も実行可能な知識(生命体が実行する)と思ってよさそうだ。」(http://www.atmarkit.co.jp/farc/rensai/knowledge02/knowledge02.html

  1. しかし・・、《実行可能な知識》は知識なんだろうか? 
  2. 《理解》と《意味》をコンピュータにゆだねた、コトバの塊であり、しかも、そのコトバでさえ、その全体を人間が覚えきることができないような量のコトバの塊だ。そんなものが、人間にとっての《知識》と言えるのだろうか?
  3. 人間にとっての《実行可能な知識》といえるためには、人間の頭の中で《実行可能な知識》でなければならない。
  4. 人間の頭で理解することが不可能な、頭でそれを実行することが不可能な《実行可能な知識》とは、誰にとっての《実行可能な知識》なのだろうか? 《あのモノ》にとっての《実行可能な知識》だな。

「「ドメイン(domain)」は専門用語として「分野」「領域」と訳されることも多いけれど、もともとは「領土」や「邦(ほう:国家、国土)」を意味する言葉だった。世界を見回すと、「領土」ごとに使われている言葉や税金の取り立て方、風習が異なっているのが分かるだろう。モジュールやオブジェクトはレゴ・ブロックのようなもので、 1つ1つの部品はもちろん異なっているけれど、どの部品を取っても同じ思想や論理が貫かれている(はずだ)。だからいくらでも組み合わせていける。でもドメインは、その1つ1つが異なる論理によって支配されている。1つのソフトウェアの中にさまざまな異なる文化を見つけ出すのがドメインというわけだ。だからドメインを考える場合には、ドメインドメインをどうやってつなぐかも考える必要がある。  ソフトウェアは、均一なモジュールやオブジェクトで成立している、というのも1つの考え方だけれど、そういう考え方は「モダニズム(近代主義)」といって、一種の理想化にほかならない。」(http://www.atmarkit.co.jp/farc/rensai/knowledge03/knowledge03.html

  1. 「レイヤ」と読んだいたモノは「ドメイン」の方が適切かもしれない。
  2. ドメイン」は、でも、訳のわからぬ英語の筆頭だな。
  3. 公理系」は公理そのものが違う、「ドメイン」は公理が違う場合もあるが、公理が同じでも、ちょっと目的が違うとか、伝統が違うとか、風習が違う、とかの違いでも、ドメインの構造が異なる、ということになる。「構造」ってヤツね。
  4. 「それぞれのドメインが自分の仕事を精いっぱいこなしているのだが、やっぱりどこかでほかのドメインの助けが必要になる。この「異なる世界や言葉」をつなぐ通訳の役割をするのが、「ブリッジ」だ。」(http://www.atmarkit.co.jp/farc/rensai/knowledge05/knowledge05.html

「アレグザンダーは12の幾何学的特性(「まとまりのある空間的フィールドを創造するために相互に作用する特性群」)を提示している。以下、コンパクトにまとめたものを紹介する。

  1. スケールの段階性:あらゆる部分がより小さい部分を持つ
  2. 良い形状:あらゆる部分ははっきりした形状を持つ
  3. 力強い境界:あらゆるものに境界が存在する
  4. 両義性:境界の力強さは地と図の反転をもたらす
  5. 繰り返し:同じものが繰り返される構造は特別な秩序をもたらす
  6. 交代反復:単純な繰り返しよりもメリハリのある繰り返しの方が良い
  7. ポジとネガ:あらゆる実体にはそれに隣接したほかの実体がある
  8. 相互結合:2つの部分は強く結び付いている
  9. コントラスト:コントラストは区別を与える
  10. 中心:関係の焦点
  11. 微妙な不規則性
  12. 内部の穏やかさ、バランス」(http://www.atmarkit.co.jp/farc/rensai/knowledge08/knowledge08.html
  13. うーむ。そうだ。しかし、なんだ?これは?

「日本の優秀な若者達が、大日本帝国という官僚制の中で、何十年という歳月を経ると、民主主義というルールから逸脱し、法を遵守するというルールを無視し、国際信義を捨て去るような発想に至った」(http://www6.plala.or.jp/imail/1124.html

  1. 官僚になった友人の噂話・・。信じられぬ「常識」論を述べていたとか・・。
  2. 「自分たちが選別された特殊な能力を持ったエリート集団としての誇りに塗れて、人としての常識というものを失ってしまった結果だとしか言い切れない。」
  3. 三下主義的行動様式《ちから》あるものに魂を売り渡す行動様式。ユダヤも同じだね。

「日本の政党政治の堕落というのは、日本民族の生い立ちから考えると、これから先いくら精進しても真のデモクラシーには近づけないように思う。」(http://www6.plala.or.jp/imail/1124.html

  1. 人々は「合理的に判断すること」自体を嫌っているのである。「智に働けば角が立つ」のである。合理的に判断する人間は、「人間的ではない」と見なされる。「人間味が無い」と評価される。
  2. では、どのような政治形態が可能なのか?
  3. 天皇を祭り上げて、政治は「何もしないという政治」だな。
  4. 「何もしない政治」というのは良いものなのだ。システムが硬直化するが、硬直化したシステムの中で、人々は自由に動き回るようになるのだ。
  5. 「人間味」というのはヒトの実感・クオリアだな。《『ヒトである』という実感をもたらすような他者の行動》に対して、評価するコトバ。こんなの、文化的背景そのものだな。どのような行動に対して『ヒトである』という実感を持つか、というのは、文化的背景そのものだ。ヨーロッパ人であれば、悪魔と戦う騎士に『ヒトである』という実感を持つのだろう。ユダヤ人であれば、神の奴隷として忠実に命令を聞く、という行動に『ヒトである』という実感を持つのであろう。日本人が『ヒトである』という実感を持つのは、何も言わなくても相手の気持ちに沿った行動をする、という行動様式だろう。これは、母親が赤ん坊に対してとる行動様式だ。母性的行動様式、というべきか?
  6. 相手のコトバに対して応答するのではなく、相手の無意識の動作から相手の気持ちを察して応答することが要求される。
  7. 論理的な対応というのは、コトバに対する応答であり、しぐさで伝えようとしたメッセージを無視することである。しぐさから気持ちをくみとることができない、無能力者が行うことである、と見なされる。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」(http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/ktb032.htm

「政治力を資金に換え、資金を政治力に変質させる手法」(http://tanakanews.com/f0705israel.htm

  1. が、可能なのは、彼らがゴイムに対する道義性に縛られていないから可能なのだ。
  2. 「AIPACが強い政治圧力団体になれたのは、米議会のすべての議員について、中東政策に対する主張や、議会での投票行動を詳細に調べ続け、親イスラエルの議員には献金する一方、反イスラエルや親アラブの議員は、次の選挙でライバル候補に献金するなどして全力で落選させるという戦略を、何年間も続けた結果である。」
  3. 認識において、道義観を持たないのは正しい。が、行動においては、ね。

軽蔑的行動様式とは?

  1. プログラマがユーザに対してとる軽蔑的行動様式とは?

環境はシステムに対して環境適合性のニーズを持つ。

  1. 環境適合性のニーズを捕食的なかったシステムは環境によって殺される。
  2. 横断歩道を赤信号で渡っている「美女」を見て・・。

システムの輪郭:

  1. システムのIO面。
  2. linuxシステムのIO面は、Webサーバの場合、ネットワークで繋がれたクライアントのWebブラウザの画面がIO面なのか? そのマシンのコネクタがIO面なのか? サーバソフトとOSとの境界がIO面なのか?
  3. システムには大きな輪郭から小さな輪郭まである。

進化=コピー+選択:

  1. 成長は死で終わる。成長の過程で自らのコピーを作り始めると(個体の生存期間から見て)永遠の進化が始まる。
  2. 個体の成長と群れの進化
  3. 群れを一つのモノとして捉えると、群れの成長である。進化は群れの成長である。??。群れの成長と、進化とは異なる。群れもコピーされ、進化する。
  4. 進化は、コピーされたすべての個体の群れ(人類、生物全体)の成長か?

コピーはニーズイーティングである。

コピー=鏡像の鏡像:

  1. DNAはRNAという鏡像を作りだす。RNAはDNAという鏡像を作り出す。DNAのコピーは鏡像の鏡像である。
  2. 建物というモノは『建物』の《思いこみ》という鏡像を作り出す。『建物』の《思いこみ》は建物という鏡像(モノ)を作り出す。建物のコピーは鏡像の鏡像である。

システムを記述すること、が、必要であり、困難である。#

  1. 「linuxはシステムである」と語っても、何も語ったことにはならない。
  2. 《ヒトの群れ》はシステムである」と語っても、何も語ったことにならない。

2005-07-04(月)

マルクスが主張したのは資本主義的ユダヤ教だったんだ。

フロイトが分析したのは自らのユダヤ的思考様式なんだ。

レビ・ストロースは未開人をゴイムとして軽蔑していたんだ、だから、サルトルを未開人と似ていると非難したのだ。

「未知を避けようとする、無知」(http://www.nurs.or.jp/~academy/rpg/b10.htm

  1. 無知というより、避知。知ることを怖れること。知ることを避けようとすること。
  2. 送り狼伝説。振り返って見てはならない。力ある者を見てはならない。メデューサを見てはならない。人魚(sirene)の歌を聞いてはならない。
  3. 避知的行動様式、というのがある。

覚えることと、知ること。コトバの列を記憶することと、・・

  1. 知ることは自らを不安定にすることである。既存の《思いこみ》と異なる知識を知ることは、自分の頭をいったんカオスにすることである。そのカオスの中から今までの《思いこみ》と新しい知識との融合体を、新たな《思いこみ》として獲得することである。
  2. 覚えること、には、それだけでは、自らを不安定にする要素はない。『コトバを覚えればほめられる』という《思いこみ》を確認する経験を一つ積むだけである。
  3. つまり、覚えることは避知的行動様式である可能性がある。
  4. 愛知的行動様式としての覚えることは、知るために覚えることである。知るに至る段階にいたるまでは、とりあえず、覚えておいて、繰り返し頭の中で反復し、カオスの中でも覚えたことを確認して、新たな《思いこみ》を獲得することである。その後は忘れてしまう。理解すれば目的を達成したので、忘れてしまう。理解すれば、忘れても、容易に思い出すことができる。
  5. 目的を達成すれば忘れる、というのは、避知的であっても愛知的であっても同じだな。
  6. 理解することを拒否するための暗記、というのがあるということ。
  7. 2005-07-05(火)「いずれにしろ、頭の中の何かが「壊れる」(注)ということが大切なのだ。霧が深いのではなく、実は、自分が頑(かたく)なに目をつぶっていたのだと気付くためには。禅ではこのような師の振る舞いを払拳棒喝(ほっけんぼっかつ)などと呼ぶ。詳細はGoogleされたし。」(http://www.atmarkit.co.jp/farc/rensai/knowledge04/knowledge04.html
  8. 「プログラミングでも「壊れる」のが重要なのはみんな知っているはず。プログラムを書き、動かしてみて何かまずいことが起きる、それで初めて「正しい」プログラムを書き始めることができるからだ。“まずいことが起きる”とはプログラマが心の中に描いている理想像(メンタル・モデル)と現実との間にずれが生じること。徹頭徹尾この考え方に基づいたソフトウェアの作り方をテスト駆動開発と呼ぶ。テスト駆動開発では、プログラムが壊れれば壊れるほど、ソフトウェアの品質は上がる。」(http://www.atmarkit.co.jp/farc/rensai/knowledge04/knowledge04.html
  9. 「何か相手のいっていることがおかしい、と思ったときから本当のコミュニケーションが始まる。2つのメンタル・モデルのずれを認識し、それを埋めよう(あるいはもっと拡大しよう)という行為がコミュニケーションなのだ。」(http://www.atmarkit.co.jp/farc/rensai/knowledge04/knowledge04.html

分かることと、知ること。

  1. 分かるというのは、分けることができるようになること。区別することができるようになること。そのモノをそのモノとして認識できるようになること、だな。
  2. モノを認識できるようになること、と知ることの違いは? 分かる、というのは技術的なニュアンスがある。知ることには実感を伴うニュアンスがある。
  3. モノを認識できるようになること、というのは、コトバを聞いて、そのコトバに対応するモノを捜し出すことができること。
  4. コトバの意味が分かること→コトバの意味で考えること→コトバの意味を作り出すこと(詩作、創作?)→意味に対応するコトバを作り出すこと。(意味に名前を与えること)。
  5. コトバの意味を作り出すことは、まずいか。コトバの意味を変えることになる。曲解主義になる。「五月雨(さみだれ)」というコトバの意味は、芭蕉によって変わったかもしれない。
  6. 2005-07-05(火):「ソフトウェアを作るということは、物事を「分ける」=「分かる」ということである。分け方にはいろいろあるけれど、分けたものを分けたままにしておいても生命を持ったソフトウェアとして動きだすことはない。分けたものは、何とかしてつながなくてはならないのである。分けることを分析(analysis)といい、つなぐことを総合(synthesis)という(こともできる)。」(http://www.atmarkit.co.jp/farc/rensai/knowledge05/knowledge05.html

「セイレーン Sirene、Seiren ギリシャ神話 モンスター セイレーネスSeirenes(複数形)

  1. 水鳥の体に、人間の女性の顔を持つモンスター。他に、羽を持った人魚のような姿をしている物語もある。
  2. 名前は、ギリシャ語の「縛る」「くっつける」などの意味を語源としている。海の孤島に住み、近くを通りかかる船の船員を歌声で魅了し、難破させてしまうからである。
  3. ホメロスが書いた「オデュッセイア」の中で、セイレーンがオデュッセウス一行を襲うシーンがある。しかし、オデュッセイアは、キルケーの助言によって、あらかじめ自分の体をマストに縛り、他の船員たちの耳に蜜蝋をつめて音を聞こえないようにしていたため、無事に航海を続けた。」(http://www.asahi-net.or.jp/~QI3M-OONK/tosyokan/fantasy/w-sirene.htm

「興奮は、因果律を絶対化する  冷静は、因果律を相対化する(高次)」(http://www.nurs.or.jp/~academy/rpg/b7.htm

  1. これは面白い。
  2. 興奮は《思いこみ》を絶対化する。冷静は《思いこみ》を相対化する。

原因から結果を辿ると、意味を与える  結果から原因を遡ると、意味を越える」(http://www.nurs.or.jp/~academy/rpg/b7.htm

  1. 人は、まず結果を知る。結果に対して原因を与えられると、意味が分かった気がする。しかし、自ら、結果を生じた原因を探求すると、原因は単純で無いことを知る。原因がもたらす意味の感覚が、そうでもないことを知る。そんなに単純なモノではないことを知る。

「繰り返し前は、差異性を見る  繰り返し後は、同一性を見る」(http://www.nurs.or.jp/~academy/rpg/b6.htm

  1. 「繰り返し」という概念・・。
  2. 同一性を繰り返すことにより、自己の差異(特別者性)を知る。
  3. 世界同一性を知った後に、世界の差異を知る。モノに戻る。差異を知った後に、生きることを知る。モノであることを知った後に、生きるということを知る。生きるモノモノである。

「潜在意識は、異常を蓄積する」(http://www.nurs.or.jp/~academy/rpg/b4.htm

  1. あちゃちゃ。いいじゃん。
  2. 「矛盾のない非常の世界を、潜在意識が作る」って、これのことか。

「先ず、相対性が、現実感を与えて  次に、現実感が、絶対性を与える」(http://www.nurs.or.jp/~academy/rpg/b2.htm

  1. まあね。
  2. コトバ世界を極め尽くせば、現実の世界が見えてくる。現実の世界が見えてくれば、それは絶対の(一つしかない)世界なのだ。
  3. 「相対性に生れて、絶対性に埋れる」。そうねぇ。埋もれないようにするためには、再びコトバ世界に戻らなければならない。記述せよ、ということだ。

「実感が有り過ぎると、虚無を感じる」(http://www.nurs.or.jp/~academy/rpg/b1.htm

  1. どうなんだろう? そんな気もする。
  2. 「恐怖を背に、平安を求め、虚無に至り  虚無を背に、不安を求め、恐怖に至る」
  3. このヒト循環説なんじゃないのかな? 修羅→天上→畜生。修羅の恐怖を背に、天上の平安を求め、天上の虚無に至り 天上の虚無を背に、畜生の不安を求め、修羅の恐怖に至る。

愚か者がわめきはじめれば、賢者は口を閉ざす。

  1. 愚か者の行動様式とは?
  2. 夢遊病。幻を現実だと思って行動する。現実認識能力が無い。「もっと現実的に生きろ」などと忠告してくれる。その内容は「長いモノには巻かれろ」だったりする。アメーバ的な現実認識、強い奴、弱い奴、餌にできるやる、食われそうだから近づかない方がよい奴、という現実認識。
  3. アメーバ的な現実認識は誤りではない。が、・・。
  4. 《ヒトの群れ》《ヒトの個体》というのは、『自分は人間だ』と思いこんでいるアメーバに近いのかも。サルは、小さな群れで、自然と対決し・調和しながら生きている。アメーバは、そんなことも考えないで、アメーバの群れで生きている。
  5. 粘菌アメーバのように、移動体に統合される準備が整っているのかもしれない。

「「親族体系は、一つの言語である。」(『構造人類学』)」(http://www.ne.jp/asahi/village/good/Levi-Strauss.htm

  1. むしろ、言語というよりはアルゴリズム、規則ではないのか?
  2. 実質的意味における憲法、ということだよね。社会規範。人々の行動様式を規定している実質的憲法。
  3. 意識化された規則+無意識のうちに従う規則。

ドゥルーズが何かを言っていると思うのが間違っているんじゃないかな?

  1. 人の思想を理解しようとしているとは分かるが、理解しているかどうかは分からない。
  2. アリストテレスを気どって、現代思想を総括しようとしているのだろう。だが、なんとなく、イデア主義のにおいがする。イデア主義で、纏められなかった、ということではないのか?
  3. フッサールのデカルト的省察で書かれているのは、フッサールの思想だ。しかし、ドゥルーズの本で書かれているのは、不消化な他人の思想だけではないのか?

メディアコトバを語るモノである。

  1. ヒトメディアコトバの向うに発語者というヒトを求める。
  2. しかし、メディアはそれ自体が発語者としてヒトに語りかけるのである。
  3. 看板のコトバの発語者は、その看板の所有者が発語者であろう。
  4. テレビの発語者は?

貨幣はメディアである。

  1. 貨幣は誰のコトバを語っているのか? 国家権力のコトバを語っている。造幣局長のコトバを語っている。日銀のコトバを語っている。

貨幣はメシアである。

  1. 「貨幣はメディアである」と書こうと思って間違えたもの。
  2. 《ヒトの群れ》の救世主として、貨幣は現れた。うへ・・。
  3. 貨幣は日銀のコトバを語っているのであるから、日銀がメシアである?

《ヒトの群れ》行動様式と「構造」:

  1. 「「構造は言語のそれ以外には存在しないil n'y a pas de structure que de ce qui est langage」と言うけど、本当だろうか? 確かに、何かを表出するには最終的には「言語」に頼らざるを得ず、さらには何かを感じたりということも、内的に「言語」として分節されてあることなのかもしれない。ただ、それは定義の問題で、単なるトートロジーなのではないか、という気もする。」(http://www.ehmtm.com/PukiWiki/pukiwiki.php?%B9%BD%C2%A4%BC%E7%B5%C1%A4%CF%A4%CA%A4%BC%A4%BD%A4%A6%B8%C6%A4%D0%A4%EC%A4%EB%A4%AB%2F%A1%CA%BD%F8%A1%CB
  2. 《ヒトの群れ》行動様式」はあるのか?
  3. 《ヒトの群れ》動き」はあるのか?
  4. 《ヒトの群れ》の内部状態の変化」はあるのか?
  5. 《ヒトの群れ》の内部循環」はあるのか?
  6. 《ヒトの群れ》の内部循環の仕組みが「構造」だろう。
  7. 《ヒトの群れ》の内部循環というのは、何が循環するのか?循環要素としてのコトバ(vs.構造を支える物としてのコトバ)、ヒトモノ《思いこみ》?。ヒトモノコトバだろうな。ヒトモノ、カネ? カネは資本制社会におけるコトバなのか?
  8. 《ヒトの群れ》において《思いこみ》循環するか? ある個体の《思いこみ》が他の個体に伝達される、という意味では循環するが、《ヒトの群れ》のレイヤで観察する場合には、コトバとして観察するべき? コトバヒトの個体の行動に影響を与える場合に限って《群れの思いこみ》となる。とするなら、個々の個体の《思いこみ》も問題になる。
  9. 《群れの思いこみ》というのは、多細胞生物の《思いこみ》←多細胞生物を構成する細胞の《思いこみ》、というアナロジーなのだが、《ヒトの群れ》《思いこみ》《ヒトの個体》《思いこみ》と、似ているといってよいのか?
  10. 《ヒトの群れ》の外部的な動きというのは、戦争とか、移住とかだね。
  11. 《ヒトの群れ》は外部的動きをほとんど行わない、とすると、植物に似た性格の多細胞生物なのか?
  12. 植物は競争的に動き、動物は闘争的に動く
  13. 《ヒトの群れ》の内部的循環構造と言うべきか?
  14. 《ヒトの群れ》の内部的循環回路のモデルを作ること。

《ヒトの群れ》の悲劇は追従ザルがそのままボス猿になることである。

敵の損失は見方の利益、主義:

  1. リングに二人のボクサーしか登っていない場合=世界に二国しか存在しない場合、かつ、共存が不可能な場合、には正しい。
  2. 漁夫の利を狙っているボクサーたちもリングに登っている。
  3. もともと、代理戦争のつもりなら、

2005-07-03(日)

大衆と向き合う勇気を持たないエリートたち。

  1. 分かるけどね。
  2. というか、大衆と向き合えるエリートなんでいるのだろうか?
  3. 大衆と向き合う指導者は、大衆以上に愚鈍で暴力的でなければ勤まらない。という状況ではないか。
  4. いや、本当は違うのだ。政治家達が、大衆以上に愚鈍で暴力的だから、彼らにたたかれる指導者はより愚鈍で暴力的でなければ勤まらないのだ。大衆が指導者をたたいているわけではない。
  5. もっとも、コンピュータ技術者にとっては、大衆は愚鈍で暴力的かもしれない。何も分かっていないのに、自分の要求を突きつけてくるからね。その要求がどういう意味を持つかも知らずにね。
  6. 追従ザルの群れに向き合う勇気を持たないはぐれ猿たちと言い換えることもできる。
  7. 2005-07-05(火)プログラマの「嫌な感じ」の原因は「大衆と向き合う勇気」だけの問題か?高慢であること、知的優位を自覚していること、なのではあるが。要するに他者を軽蔑していること、が問題なのだ。

説得ってぇのは不思議な行為だ。

  1. 何故か、相手は、メリットのある話を断る。
  2. なんで断るのか? 全然分からない。
  3. こちらから要求してもかたくなになるだけだ。
  4. 相手の立場、みたいなモノを勝手に適当に想定して、その立場でのメリットを親切そうなフリをして説明すると、なぜか、簡単に説得できてしまう。
  5. ということは、相手は、自分の立場や利益を理解していなかったということになるのか?
  6. 思考回路、というのを、相手の頭の中に拓いたのか?
  7. メンツの問題か? 強硬に言われて、もしくは、利己的に言われて受け容れるのはメンツが立たないが、説得的に言われて受け容れるのであればメンツが立つ? 
  8. 利己的な主張に対して反発するのは、うーむ、それもそうなのだが、なぜなんだろう? 利己的な主張に対して、相手の利益のために、利他的に行動することは「善」だろうに。人は利他的な「善」によってではなく、相互利益によって動くのが「善」であるということか。レビ・ストロースの未開の思想の善が、じつは実際の人々の善であるということか。

《他者の思いこみ》から《群れの思いこみ》を除くと何が残るのか?

  1. 《他者》《個有思いこみ》?だけ?
  2. 《他者》《群れの思いこみ》を『我が思いこみ』とすることを求める。
  3. 《他者》《群れの思いこみ》のすべてを『我が思いこみ』としているわけではない。
  4. 《群れの思いこみ》《群れ》ってのが、いろいろなんだよね・・。
  5. 人類という《ヒトの群れ》《群れの思いこみ》ってのは、あるのか?『我はヒトなり』という《思いこみ》は人類共通か? 否、『ヒト』の《思いこみ》の内容も千差万別なのだ。『お金』なんていうのも、必ずしも共通ではないだろう。 赤ん坊まで含めたら、どんな《思いこみ》も共通ではありえない。
  6. 人類という《ヒトの群れ》の中で、《ヒトの個体》からある程度独立して流通しているコトバ、という意味では、膨大なコトバ《群れの思いこみ》として流通している。
  7. 人類に属する《ヒトの個体》行動様式を規制するコトバという意味ではどうか?

→「複雑系脳理論・ノート

ベルクソンの「対象の内部へ入り込む直観」は「『そのモノ』という《思いこみ》入り込みつつある《知りつつあるモノ》」のようだ。

  1. 《疑いつつあるモノ》から生じた《知りつつあるモノ》は「『疑いつつある我の世界』という《思いこみ》入り込みつつある直観」なのだ。だから、点として世界を認識する。
  2. ベルクソンの直観は緊張度の高い《我》だ。
  3. たけ(tk)《知りつつある身体》は緊張度が低い「直観」だ。

反反省主義者というのは、罰としての反省しか知らないからだな。

  1. 反省を知らない大人たち。
  2. 反省しないのは、反省すると持衰叩きで殺されてしまうことを知っているからでもある。持衰叩きの風習てのは、困ったモノだ。
  3. 持衰叩きというのは、単なる弱い者いじめではない。状況の悪化の責任を一人の人間に押しつけて、その人間をたたくことによって、状況がよくなることを祈る行為なのだ。嵐が来た責任を持衰に押しつけて、持衰を海に放り投げることによって、神の怒りを鎮める行為なのだ。
  4. 単なる生贄でもない。生贄は神に食べ物を提供して神の怒りを鎮めることなのだが、持衰は神の食べ物として捧げられるわけではない。
  5. 神に祈るべき持衰が、任務懈怠により、ちゃんと祈らなかったから神が怒った。それで、任務懈怠のけしからぬ持衰を人間たちが自ら始末したので、怒りを鎮めて欲しい、と祈ることだ。

2005-07-02(土)

古代的天命思想(http://www.jianbo.org/Wssf/2002/liangtao03.htm):

  1. 天という人格的な主体があって、その天の命令に従うことがヒトのなすべきことだ、という思想。
  2. あれ?、ユダヤ教じゃん。
  3. 夏、商(殷)の時代までの思想だという。周になると、個人的な努力が天命を知るための条件になる、というように変わった。夏、商(殷)の天命は集団全体にたいする天命、で、周以降は個人に対する天命
  4. 集団的天命主義、と、個人的天命主義というべきか。天に人格を付与するかも違うな。
  5. 「天誅」なんていう落書きをしたクルマで走り回っている連中は、古代的天命思想の持ち主なのだろう。

「1つの面白い実験結果がある。人が指を動かそうとするとき,脳の中の,「動かそう」と意図する働きを担う部分と,筋肉を動かそうと指令する運動神経が,どんなタイミングで活動するかを計測したカリフォルニア大のリベット博士の実験だ。結果は実に意外だった。筋肉を動かすための運動神経の指令は,心が「動かそう」と意図する脳活動よりも,0.5秒も先だというのだ。常識的に考えると,まず人の心の「意識」が「動かそう」と決断し,それにしたがって体が動くと予想されるのに,結果は何と逆なのだ。」(http://www.maeno.mech.keio.ac.jp/Maeno/consciousness/

  1. 「この実験結果から,筆者は次のような新しい「意識」の見方を提案する。『人の「意識」とは,心の中心にあってすべてをコントロールしているものではなくて,人の心の「無意識」の部分がやったことを,錯覚のように,あとで把握するための装置に過ぎない。自分で決断したと思っていた充実した意思決定も,自然の美しさや幸せを実感するかけがえのない「意識」の働きも,みんなあとで感じている錯覚に過ぎない。そしてその目的は,エピソードを記憶するためである。』「意識」は「無意識」のあとにやってくるというこの仮説は,なんだか突飛でショッキングに思えるけれども,考えてみれば天動説と地動説の関係に似ている。昔の人は,地球が太陽のまわりを回っているという事実をはじめは信じられなかった。地球世界の中心だと思いたかった。でも,実は,地球は小さな惑星のひとつに過ぎなかった。これと同じだ。意識は自分の中心だと思いたいけれども,実は小さな脇役に過ぎないのだ。」
  2. 「受動意識仮説」と呼んでいるようだ。
  3. 《背後者》が意識内容と行動内容とを決めてから、意識と体にそれぞれ行わせる。
  4. 意識が種族維持的価値を持つのは、すぐさま行動には移さないで、表象レベルで再検討するためであろう。

対象の内部へ入り込む直観」()

  1. なかなか、重要な概念になりそうな予感。
  2. 項目名は:「モノの内部へ入り込《我》」?。たけ(tk)の用語でいく?
  3. 項目名は:「モノの内部へ入り込《知りつつあるモノ》」?
  4. 項目名は:「モノの内部へ入り込直観」?
  5. 項目名は:「対象の内部へ入り込む直観」?ベルクソンの用語。
  6. 項目名は:《対象の内部へ入り込む直観》?
  7. 項目名は:対象の内部へ入り込む直観
  8. 項目名は:「対象の内部へ入り込む」直観
  9. (ベルクソン、「分析と直観」『哲学的直観ほか』p.5)

「1998年度 川渡合同セミナー:種とは何か?  by 法政大学第一教養部 月井雄二 図5 類概念の形成と崩壊

  1. 一般に,最初に採集された個体が種の基準 標本となり,周囲にいる似た個体が同一種としてまとめられる(I〜II)。
  2. しかし,同一種に含まれる個体の変異幅が大きくなると,次第に他種と近接するよ うになる。すなわち,中間的形質をもった個体も発見されるようになる(III)。
  3. その場合でも,有性生殖をする種であれば,中間型の個体はどちらの種と交配する かによっていずれかの種に配属されるため,種の境界はなくならない(III)。
  4. ところが,有性生殖をせず,無性的に増殖する生物では,中間的形質をもった個体 の発見によって次第に種の境界がみえなくなってしまう(III〜IV)。

Copyright 1999-2003 by 月井 雄二(法政大)」(http://protist.i.hosei.ac.jp/protistology/Kawatabi98/fig5.html

日本人の行動様式には二通りある:

  1. 無理を承知で通す行動様式
  2. 道理を重んじて引っ込む行動様式だ。
  3. 「江戸取問題に関する一連の新聞等の報道」(http://www.geocities.jp/sao30japan/page055.html)。「江戸取流「学力革命」著者:高橋鍵彌」(http://www.sunmark.co.jp/local-cgi/hpage/search1_isbn.cgi?isbn_cd=ISBN4-7631-9547-6
Last modified:2005/09/01 22:00:31
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