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ゴミ箱2005-06

ゴミ箱ゴミ箱2005-06

2005-06-30(木)

モノモノ直観するということ:

  1. それのほうが原初的な認識方法なのだ。
  2. 直観から《思いこみ》を分離して、記号化して思考する、という方が変態なのだ。(進化とも言う?)。
  3. 問題は、分離された記号による思考が、暴走することだろう。
  4. 記号的思考の暴走は、それはそれで面白い。
  5. 直観が、しかしながら脳科学的には、身体的な共振によって得られた諸情報を再構築して得られた世界への直観である、ということが、びみょー。
  6. 《共振しつつある身体》の先の《共振しつつある世界》の中の《共振しつつあるモノ》を、共振関係において見通すことができていない、というのが、問題だな。というか、可能なのか?
  7. 《共振しつつある世界》が《私の身体》をぴりぴりと揺らしていることを感じること。
  8. 《私の身体》がぴりぴりと感じていることが、《私》の背後者世界をぴりぴりと揺らしていることを感じること。

直観とは思考停止である。

  1. 記号に頼らず、《思いこみ》モノの内部にとどめる認識は、思考停止である。
  2. 思考というのは、少なくとも《思いこみ》モノから分離して、操作可能なモノとして扱うことを前提とする。

直観」というコトバは、「直勘」と同じ意味でも使われる。勘で判断することを直観で判断する、とも言う。

  1. 非言語的であることは同じだが、非言語的判断か、非言語的認識かの違い。

悪い予言をするヒトは嫌われる。

  1. 他の人がやる気を失うのだ。
  2. 善いことだけを言っていたい、善いことだけを信じていたい、善いことだけを見ていたい、というときに、善いことをやる気が生じる。
  3. 実践的な人々、日本における実践的な人々は、善いことだけを見る。善いことだけを言う。「善事主義」と言っておこう。
  4. 実践的であることと善事主義とが結びつくのは何故か?
  5. ふむ。改善要求は悪事の指摘だ。ということか。
  6. 世の中バラ色のときのほうがやる気が出る。世の中が暗いときには謹慎しているべきだ。という発想か。ポジティブフィードバック、つまり、暴走の行動様式
  7. 事実がネガティブなときにはポジティブに語ってやる気を起こさせ、事実がポジティブなときにはネガティブに語って暴走を押さえる、という指導者を好む。かな? つまりは、事実と正反対に語る指導者を好む??
  8. 2005-07-01(金)そうじゃないな。暴走と謹慎の循環。状態の循環が定常状態であるという認識。

日本人は要求するのが下手だ:

  1. MySQLで「個人的には 5.0 どころか 4.1 の時点で厳しいですね.あの文字コードの落し穴は多くの既存オープンソースソフトウェアがそのまま動かないので壊滅してしまってます.」([mysql 11543] )とのこと。でも、たぶん、ちゃんと下位互換性を保つようにという要求は、強力にはしていないだろう。で、単に、「日本では、4.1 で文字コードの扱いが変更されたのが嫌で、4.0 を使い続けている人も多そうです。なんとなく。# 2ch をみると 4.1 が出て MySQL から PostgreSQL に行ってしまった人達もいるみたいですし (^^;」([mysql 11508] )という対応になってしまう。
  2. 日本人同士の場合には、示唆的な発言で、こちらの意を汲みとってもらえるのではないかと期待し、駄目ならあきらめる。
  3. 要求することの種族維持的価値と、要求しないことの種族維持的価値。要求しないことの種族維持的価値は、争いを避ける、の一言に尽きるのではないだろうか?
  4. 要求するヒトは、人格的に劣ると見なされる。
  5. ところが、断固として要求するヒトは、神であると見なされる。

自己の不条理を他者に押しつけることが自己の《ちから》だと思っているヒトがいる。

  1. 要するに暴力的なヒトボス猿主義行動様式

なぜ、水が透明化が分かった:

  1. もし、我々が赤外線領域に対する視覚細胞があるとすると、水が見えてしまうのである。水が見えるということは、その先のものが見えなくなるということを意味する。我々は水の先のモノ見通したいのである。従って、水が見えないような視覚細胞が選択されたのである。(進化論的後づけ目的見通し)。

2005-06-28(火)

より大きな《快》を見つけるために人事を尽くせ:

  1. より大きな《快》を見つけるために「息をしつつあること」に人事を尽くせ。
  2. 息をすることは、息をしないことよりも安易である、という事なかれ、「息しつつあることに人事を作ることを持続すること」は極めて困難である。
  3. 過呼吸にならないように、人事を尽くすことは、困難である。
  4. かわいい女の子に目を奪われつつ、息しつつあることに人事を尽くすことは困難である
  5. 有為な仕事に熱中しつつ、息しつつあることに人事を尽くすことは困難である。

イキ・ジン・テン:

  1. 息しつつあることに人事を尽くして天命を待て。
  2. 有為なことに熱中しているときには、イキジンテンを忘れる。
>研究には正しさが要求されるから、
>正しく認識できないという答えが出てるものは研究しない。
  1. もうちょっと、根本的な批判をしておこう。
  2. 研究者がある仮説について正しさを検証する、というのは、
  3. 研究者が、いま・ここの《我》に現前する研究対象と仮説との対応関係を確認することだ。
  4. ところが、科学は「(研究者の)いま・ここの《我》に現前した主観的世界の正しさ」など、検証不可能だとしている。
  5. 検証可能なのは脳のニューロンなどの脳内現象だけだという。
  6. しかし、研究者が実験によって仮説を検証する、という時点では、「いま・ここの《我》に現前する研究対象と仮説との対応関係を確認できれば『正しい』ことが検証できる」とナイーブに信じていることになる。
  7. 科学の理論がダブルスタンダードでないとするなら、検証可能な「研究者による仮説の検証」というのは、研究者の脳の中のニューロンの結合過程を脳科学的に検証することだ、ということになる。
  8. しかし、それで、どうやったら「検証対象となった研究者の脳の中の現象として存在する仮説」の「正しさ」を検証したと言うことが出来るのか?
  9. というのが、問題でしょう。
  10. おそらく、現代の大衆はこの問題に気がついていて、科学の胡散臭さ、科学の不可証明性に気がついていて、オカルトも科学も「ニューロンの作り出す幻」であることには変わりはないではないか、と感じ始めているのではないだろうか?
  11. たけ(tk)思うに、科学においても、
  12. 研究対象のレイヤ(ニューロンのレイヤ)と、
  13. 研究者のいまここに現れる《検証しつつある我》のレイヤの、二つのレイヤがある。
  14. レイヤが異なれば原理も異なる。
  15. だから、二つのレイヤにおいてダブルスタンダードになることは(そのスタンダードの統合がなされるまでは)やむをないのではないかと思う。
  16. しかし、研究者が自らの存在と研究内容との間にダブルスタンダードがあることを自覚しなければ、科学の研究者は自分が置かれている状況を理解できないということになるだろう。自分が何をやっているのかも理解できない、ということになるだろう。

2005-06-27(月)

異なる存在が同じ当為を持つことはあり得ない。

主観的なモノと共同主観的なモノ

  1. 主観的なモノとは、特定の主観がなくなれば存在しえないモノ。主観相対的なモノ
  2. 主観的なモノも、コトバによって《他者》と共有されるようになると、共同主観的なモノになる。共同主観的なモノは、その幻を保持している主観が存在するかぎりにおいて、それらの主観との関係においてのみ存在するモノである。貨幣は、共同主観的なモノである。
  3. 主観的なモノにもアニマがある。ただし、その主観においてのみ存在するアニマである。
  4. 虹も主観的なモノである。

《絶対的アニミズム》がいいな。

  1. 原子であれ、幻であれ、それがモノとして存在するかぎりは、アニマを内在している。

《宇宙史》《背後者》じゃん。《近傍物理空間》の背後に広がる時間と空間。

永遠のいまと、宇宙の中心としてのここ。

脳科学が対象とする脳は自分(研究者)の脳ではありえない。

  1. 哲学が対象とする現象世界は自分(研究者)が感じる現象世界である。
  2. 脳科学の対象は他者の脳である。
  3. 脳科学で記述された内容が自分の脳にあてはまる可能性は、他者の脳と私の脳との同質性においてである。
  4. 哲学で自分の脳を対象にする場合には、その個有性に注目するのだが、実際には個有性というのは、それほどないのかもしれない。
  5. 『自分の脳が、自分の《我》脳科学的に説明された』という《思いこみ》の効果は?
  6. 哲学のキャッチフレーズは「汝自身を知れ」である。
  7. 「汝自身の世界を知れ」である。脳科学は「汝自身の世界」のなかのどこにあるか?
  8. 脳科学は、近いうちに、「脳内現象として定義された《我》や自己意識やcogito」の現象を解明するにいたるだろう。
  9. 「天上天下唯我独尊」だって、脳内現象として解明可能だろう。「生きる意味」だって、「善」だって、「価値」だって、脳内現象として解明可能だろう。
  10. ただし、脳内現象として定義された現象の解明が可能だということだ。それと、表象レイヤにおける体験との対応関係も解明されるだろう。ただし、「対応関係」だ。

「感覚を受ける場所と運動の指令を出す場所は それぞれかなり離れてるので、伝達器官をいくつか経由してる ということは確かだ」(http://www.yamcha.jp/ymc/DSC_sure.html?bbsid=1&sureid=9&s=10#new

  1. そこに、《我》脳科学的実体があるのだろう。
  2. 感覚は《我》へのインプット。
  3. 指向性や運動は《我》からのアウトプット。

《呪文》

  1. これも重要な項目か?
  2. 呪文は人工言語である。専門家が作った人工言語である。何らかの効果を発揮するコトバである。
  3. プログラムは呪文である。設定ファイルは呪文である。
  4. 呪文は、人間の自然な生活の感覚では操ることができないコトバである。
  5. 呪文《ニーズ・イーター》である。呪文すきのハッカーたちのニーズを食べて増殖・進化するモノだ。
  6. 2005-02-05(土):問題はunix系のコマンドは、ユーザーインターフェースなど眼中にないということだ。マシンよりの設定ファイルを扱うことが何よりも楽しみな管理者のためにあるということだ。呪文を唱えるのが好きな管理者のためにあるということだ。みんな嬉々として学習している。アプリごとに呪文が違う、複雑な概念を完全にマスターした後でなければ使えない、そういう呪文が大好きな連中のためのOSだ。誰でも使えるインターフェースを作るのは大変だ、それを作るためには完全に使いこなせるハッカーでなければならない、そのハッカーは、そんなインターフェースなど要らない、だから作らない、ということだ。自分のために作るプログラムだから、自分が要らないプログラムは、誰も作らない。悲惨じゃ。たしかに、金でも貰わなけりゃ、そんなプログラムは作りたくない。
  7. 2005-02-05(土):オブジェクト指向というのは、複雑すぎて人間か理解することが困難になったシステムを、モノとそのモノの機能という単位で再構成することにより、人間の理解を回復するための思考法だ。レイヤーの考え方は、機械よりのオブジェクトと人間よりのオブジェクトとを分離し、機械と人間の間のコミュニケーションを可能にしようという思考法だ。unixの発想は機械よりのオブジェクトを表に出して、人間に対して、さあ、機械の気持ちを人間が理解しろ、という思考法だ。これでは、人間の思考力が、機械を理解することに浪費されてしまう。
  8. 2005-02-05(土):ユーザーインターフェースを定義すること、マシンよりのインターフェースを作ったら、マシン用のインターフェースと人間用のインターフェースとを繋ぐプログラムを作ること。要するに、unix系の連中にはヒューマンインターフェースの発想がない。マシンよりのインターフェースを理解し、操る呪文を覚えることこそが、人間的だと思っている。ユーザなんて人間じゃない、というワケだ。
  9. 2005-02-05(土):考えてみると、法律も魔法だな。法律家は魔法使いだ。法律とコンピュータは現代の魔法だ。どちらも《ヒトの群れ》をシステム化するための、《ヒトの個体》の外部のシステムだ。
  10. 2005-05-09(月):呪文を増やすな、というのがオブジェクト指向のメリット。

カオス・パラメータ》:

  1. これも重要な項目かも。
  2. 「2005-06-26(日)存在確率」というコトバで指し示されたモノがある。??。存在確率を物理パラメータとして捉えなおしたモノカオスであるとするなら、「カオス」というコトバで指し示されたモノがある。「電子はカオスの波である」「カオスの波」というコトバで指し示されたモノがある。 「存在確率」は観測概念である、カオスは属性概念である。モノの属性である。 属性はそれ自体としてモノ(現象)である。カオスは、存在確率として観測されるようなモノ(現象)である。」
  3. 「2005-06-13(月)たけ(tk)《混濁》カオスとは関係があるのかな?《混濁》はパラメータではない。 《混濁》から、モノが分離する、というのは、理解可能パラメータと理解不能パラメータ(カオス)の分離に近い。」
  4. 「2005-06-13(月)非線形科学http://www.jssp.co.jp/f_biochem/hisenkeikagaku.html):「分からないこと」をカオス(ランダム)パラメータに纏めて、分かるパラメータとカオスパラメータとの合成で理解する、というのは面白い試みだ。 たった3体で、分からなくなる、というのが面白い。」
  5. 「2005-06-11(土)多項パラメータによる《モノの世界》の記述というのは、現代のカオス理論の前提ともなる記述方法。カオス・パラメータを加えればかなりの精度の近似性で、《モノの世界》を記述できるだろう。ただし、一般の人が多項パラメータ方式の記述を理解するのはかなり困難が伴う。それに、現実世界を多項パラメータの記述に変換するのも困難、記述されたコトバ《他者》に伝えるのも困難、現実世界を多項パラメータ方式の記述から現実の将来を予測するのも困難。(スーパーコンピュータを使っても確率的にした予測できない)。」

《ニーズ・イーター》

  1. 項目を立てるか? ニーズ・イーターの概念を持ちこむことによって、何かメリットはあるか?
  2. 「社会的存在」はすべからく《ニーズ・イーター》のようだ。
  3. 項目名は:ニーズ・イーター? ○:。X:。
  4. 項目名は:《ニーズ・イーター》? ○:。X:。
  5. プログラムは、人のニーズを餌として生きているようだ。複数のニーズを満たすプログラムは雑食性のプログラムだな。2005-06-08(水)
  6. 《ヒトの群れ》《ニーズ・イーター》との関係。
  7. ヒトの個体と《ニーズ・イーター》との関係。
  8. 《ニーズ・イーター》進化
  9. 《ニーズ・イーター》の個体。とは?
  10. Linuxを見ればわかるが、神がつくりたまいしモノではない。「あらかじめ設計されたモノ」ではなく、人々が試行錯誤の末に工夫を加え、うまくいったモノが残る形で、徐々に「出来上がってきたモノ」だ。生物の進化を見よ。生き物たちの試行錯誤の末に「出来上がってきたモノ」なのだ。2005-06-08(水)
  11. 創造と進化。一神教徒たちの神は創造主だから、進化を受け入れないのだ。生物は自らを進化させた、というのは、生物は神が進化させた、でも同じだろうが、・・。それが、一神教的進化論か。でも、じゃあ、何故、最初から完成された形で創造しなかったのか? 進化の法則に関する科学理論とどう付き合うのか。神の目的が変ったということか?
  12. プログラムを目的達成の、イデアの実現と捉える立場と、生き物的な進化と捉える立場。複雑系では大量のイデアの複雑な結合がカオスを生み出す。そのカオスイデア進化の現象を生み出す。

2005-06-26(日)

エスカレータ信仰

  1. 組織が用意したエスカレータに乗れば、社会的に優位な地位に昇れるという信仰。
  2. 実に、「優秀な高校生」にはエスカレータ信仰の信者がいるらしい。

人類は、体内埋めこみ発信器で管理される家畜になることを、自ら望むようになるに違いない。

  1. 『体内埋めこみ発信器で安全が確保される』と思いこまされるようになるに違いないからだ。
  2. そのように思いこませることも簡単だし、ヒトはそのような《思いこみ》を自ら求める動物だからだ。

脳科学が発展すれば、ニューロン工学という洗練されたロボトミーが行われるようになるだろう。

  1. 「ロボトミーは、ロブス(脳葉)とトミー(切截)の合成語で、精神医療を目的とする脳の一部分を切り取るか破壊する外科手術の事だ。」(http://www.asyura.com/0306/nihon6/msg/433.html

《私》が見ている《近傍物理空間》はニューロンが作り出した映像である。

  1. というのは、事実だとしてもだな。・・
  2. 《私》というモノ自体も《我》の背後にあるニューロンが作り出した映像である、としてもだな・・。
  3. そうすると、《私》はどうでもよいモノになるのか?
  4. 科学というのも結局のところ、ニューロンが作り出した映像に過ぎない。
  5. 科学という映像を信じて、《私》という映像を信じないというのは、矛盾だな。《私》がどうでもよいモノであれば、科学もまたどうでもよいモノだ。
  6. たけ(tk)にとっては、《私》のほうが科学よりも大切だ。
  7. 「どうでもよさ」という量の比較。優先順位というやつね。
  8. 『アリストテレスは「感覚から離れた」普遍的なものは意識しがたい(『形而上学・上』p.27)といっているが、これは現代人にとっては逆なのだ。現代人はコトバによって与えられる普遍的な事物を理解することに親しんでしまい、感覚的なるものが意識しがたくなっているのだ。』(2005-06-17(金)、http://www.yamcha.jp/ymc/DSC_sure.html?bbsid=1&sureid=10&l=1-100
  9. 日本人というのは、自然も、自分も、人々も、社会も、宗教も、思想も、哲学も、科学も、すべて(ニューロンが作り出した)夢幻に過ぎない、ということを分かったうえで、生きてきたんだ。日本人の文化を作ってきたんだ。
  10. 「目をつぶり黙想していた信長に、若い頃野山を駆けめぐった勘が「桶狭間」とささやいた。そう、桶狭間。名前のように隘路である。ここで突けば相手も腹を見せている。信長の血がたぎった。酒(ささ)をいっぱい飲み干すと十八番である幸若の舞い「熟盛」を舞った。「人生五十年、下天の内に比ぶれば夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり。一度(ひとたび)この世に生を受け滅せぬもののあるべきか。」覚悟の歌と言うよりも、もはや出陣の合図なのである。」(http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Ivory/6352/sub6/nobu.html):おっとー。
  11. 「「洛中洛外図」「東山遊楽図」「鴨川遊楽図」には、応仁の乱後、再建のつち音の中でたくましくよみがえろうとする人々がいきいきと描かれています。  酒を酌み交わし、歌い踊る人々の、おおらかで活気あふれる姿に、豪華絢爛たる王朝の雅びの伝統を底流とし、時代を先取りする美意識と趣向が汲みとれます。   「今をときめく権力者も、明日はわからぬ夢まぼろしの世」であるとした京の人々は、その夢の瞬間々々を精一杯に楽しもうとしたのでしょう。   16世紀前半の小謡集「閑吟集」の一節、「面白の花の都や、筆で書くともおよばで、ひがしはぎをん、きよみづ、おちくるたきのおとはのあらしに、地主の桜はちりぢりに、ただ何事もかごとも、ゆめまぼろしや水のあわ、夢幻や南無三宝、云々」、に人々の心に流れる感慨をよみとることができます。」(http://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/encyclopedia/199705.html):むにゅー。こっちは、刹那的快楽主義か・・。
  12. そうか、たけ(tk)《快》還元論も一種の刹那的快楽主義だな。統合的快楽主義。

クオリアを理解するには脳みそを取り替えなきゃいけない。 自分の脳内では認識するという現象を起こすことはできない ということです。 それよりどんなCPUでも使えるブラウザ(表象レイヤの世界) を向上させよーよ、 という訳でクオリアに対する言及はないんだと思います。」(http://www.yamcha.jp/ymc/DSC_sure.html?bbsid=1&sureid=9&l=1-100

  1. これは理解しがたいな。発想が・・。
  2. 脳科学が実用的な改善をめざしているとは思えない。(結果的に、治療等に役に立つかもしれないが、それが目的ではないだろう)。
  3. 不可能なことはやらないよ、という意味だろう。
  4. 座標変換という方法で可能なはずなのだが、哲学者には手に負えないだろう。
  5. 表象レイヤの現象から、ニューロンレイヤの現象を推知することは可能か? 東から昇る太陽を見たときに、地動説の座標系を想像することは可能だろう。同様に、対応関係さえ分かっていれば、ニューロンレイヤの現象を想像することは可能だ。それが可能だとしても。それが、いま・ここで《私》が感じつつある質感にとって、なんの意味があるのか、を知るのは難しい。まあ、知っている、という安心感かな?

「感覚信号が01001101のような電気信号で脳に伝わります、 視床というCPUを通してff0000という情報に変わります (この辺りの変化がクオリアと呼ばれていると思います) それをWWWブラウザである側頭葉が「赤」という言葉で表示します。」(http://www.yamcha.jp/ymc/DSC_sure.html?bbsid=1&sureid=9&l=1-100):

  1. ほー。地動説だな。
  2. クオリア処理領域への入力がクオリアである。表象レイヤで質感を感じるということの実体である。
  3. 非局所的現象(ばらばらに散らばった処理領域で処理されるという現象)が表象レイヤにおいて形あるモノの質感という局所的な現象に変わる、ということも、いずれ、脳科学によって解明されるだろう。とは思う。
  4. 哲学の役目というのは、脳科学的な地動説の説明を座標変換によって《我》を中心にした表象レイヤの現象(天動説)に引き戻すことだろう。

《我》の復権、天動説の復権が必要なのだ。

  1. 「お月様があがったよ」とか「東の海から昇る太陽に感激する」といった、人間中心の感覚を大切にすることが重要なのだ。その現象が地動説で説明できる、ということは、知っている。しかし、「東の海から昇ってくる太陽の感激」を地動説で説明することはできない。
  2. われわれにとって、太陽や月は、東の地平線や水平線から昇ってくるモノだ、ということは事実なのだ。
  3. 天動説は科学的に見ても誤りではない。地動説の計算式を座標変換したモノが天動説の計算式だ。
  4. 近似的であれば、天動説の計算式(近似的な精度で簡単にした計算式)の方が簡単だったりするのではないか? 「例えば星座のシミュレーターなどでは地動説の数式は複雑だから、天動説の数式を採用しているというような事を聞いた事があります。」(http://www.yamcha.jp/ymc/DSC_sure.html?bbsid=2&sureid=2&l=1-100
  5. モノ動きというのはモノモノとの関係性なのだから、どちらを中心においても同じこと。(円運動の場合には違うのか?、2体運動の場合には質量の中心を中心に置くのが常識的だろうが、そう決まっているわけではないだろう)。
  6. それに、地動説といっても、太陽を中心にして考える場合には、銀河系における太陽の円運動を無視しているわけだから、唯一正しい、とも言えないだろう。何を中心に置くかは相対的なのだ。

『ベルクソンの哲学』:

  1. 「(「直観」?)の概念によっては、実在・経験を(科学のと似た正確さで)認識する手段はまだ与えられない」(p.4):「直観」というコトバが指し示す《思いこみ》では認識主体に成りえない。「直観」というコトバが指し示すモノが認識主体に成りうる。ということか?概念というのは《思いこみ》を指し示すからだ。ちゃうな。「持続」「記憶」「躍動」という概念では認識者の問題が出てこない、という意味だな。
  2. 「ほかのものに還元できない二つないしそれ以上の秩序があると考えるかわりに、秩序についての一般的な観念だけを保持し・・」(p.11)はアリストテレスの「教養的なものは白くある」(p.130)ではないか。つまり対象となる基体が欠けているという指摘ではないのか?
  3. 「たがいに無限定に代置される異なったもろもろの実在」(p.11)はモノもしくはモノの集合であり、「一般的な一つの存在という同質性」というのはイデア《思いこみ》であろう。
  4. 「・・可能的なモノの観念が現れる」(p.11)。アリストテレスは「可能性においては同じものが同時に相反する二つのもののどちらででもあるが、完全現実態においてはそうではない」(p.138)という言い方をしている。
  5. アリストテレスにおいてはモノへの直観というものが確固たるものとしてあるから、偽の問題はすぐに分かるのである。現代人は、抽象普遍の観念の世界に住んでいるので、偽の問題を見破るのが困難になっているのである。あ、いってら。「直観だけがそれ(にせの問題に対応する根本的な幻想を抑圧する批判的傾向)を惹起させ、それに生気を与えることができる」(p.13)
  6. 直観は段階的な差異の下に性質の差異を見いだし」(p.13)??。たけ(tk)的に言えば、「直観は、《思いこみ》モノとの間の段階的な差異の区別の下に、モノが有する性質(属性)の差異を見いだし、性質の差異に基づいてモノの集合を抽出して、そのモノたちを観察するということを可能にするが故に、真の問題とにせの問題を区別させる規準を知性に伝える」となるかな?

「私の定義では、何かを感じるのに主体は必要ありません。 「感じる」という言葉は、私の定義では、 「感覚神経が条件を満たされて信号を送り、それが脳に届いて、 人間生来の脳の仕組みや 今までの経験から構成された脳の仕組み の中で”志向性”に変わる直前までの連鎖的な反応のこと」 で、言語野は使われないので「言語」がなくても 「感じること」はできます。」(http://www.yamcha.jp/ymc/DSC_sure.html?bbsid=1&sureid=9&;l=1-100

  1. これは面白い。脳科学的な定義による、「感じる」か。
  2. 《私》の「感じる」とは無関係の、《他者》の「感じる」。
  3. たけ(tk)も言語野とは無関係だと思う。
  4. 哲学というのは《私》を扱うモノ

「言語は・・「私たちの感覚の持つ、鮮明な性質」 という一般的なクオリアとは異なるものだと思います。」:

  1. 《他者》からのコトバを受け取って、コトバの意味を了解する、コトバから鮮明なイメージを想像する、というときの感覚、今から発語しようというときに語るべきイメージを描いてからそれを発語という志向性に変換する直前のイメージ、が「言葉を構成する視覚的ないしは聴覚的(あるいは他の感覚モダリティの)クオリア
  2. 脳科学と哲学の違いは、対象とするモノの違い、哲学は《私》を対象とし、脳科学《他者》を対象とする。哲学のレイヤは表象のレイヤ。いまここの《私》が感じつつある世界脳科学のレイヤはニューロンのレイヤ。観察対象としてのモノが「感じる」という現象。
  3. 脳科学の側から、「自我」を取り込むのは時間の問題になりそうだ。問題は、哲学のほうから脳科学の成果を《我》の問題として取り込んでいくことだろう。

『寝ながら学べる構造主義』:

  1. レビ・ストロースがサルトルを粉砕した、という話は面白かったけど。サルトルは「べし(当為)」を求めたのに、レビ・ストロースは「ある(存在)」を求めた。サルトルの「べし」がレビ・ストロースの「ある」の範疇に入っている、という批判は、当たり前ではないか。ソクラテスが「無知の知を知れ」と言ったのにたいして、「ソクラテスは人間に過ぎなかった」という批判によって、ソクラテスの当為が粉砕されたことになるのか? それで、粉砕された、と思うのは、愚かな小人の発想だ。
  2. 小人養いがたし、というコトバが思い浮かんだ。小人は、自己正当化のために都合のよい言説を寄せ集めて、それが「賢人のコトバである」と主張する。
  3. 小人は流行に流される。不易ということを知らない。
  4. 「○去来抄  去来曰く、蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云ふ有り。是を二つに分けて教へ給へる。その元は一つ也。不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風(ふう)新たならず。不易は古へによろしく後に叶ふ句なる故、千歳不易といふ。流行は一時一時の変にして、昨日の風、今日よろしからず。今日の風、明日に用ひがたき故、一時流行とはいふ。はやることをする也。」(http://www.bashouan.com/pmBashous.htm
  5. 「ことわざ:所変われば、品変わる:意味:土地土地によって、文化や習慣が違うということ」(http://www5e.biglobe.ne.jp/~hakuga/kotowaza/kotowaza-to.htm)ということを大発見したのが構造主義??
  6. キリスト教的なコスモ的世界観を前提としなければ、というか、それを前提とするかぎりにおいて、革命的な思想ということになる。ふむーー、ユダヤ系の学者だな。ユダヤ的な世界観においては、宇宙神の秩序は、人知が及ばない所において実在している。人知を破壊することだけに終わっているのではないか?
  7. 《群れの思いこみ》に関する資料にはなる。小人の群れの行動様式の研究。
  8. 人体というのは、中央集権システムである。が脳は自己の利益を有しない。脳は脳の利益を求めて動作することはない??でもないか?脳を守ることはかなり厳重に確保されている。しかし、脳細胞が汚職をしたり、天下り先と結託することはないのではないか?
  9. 近世の絶対主義、幕府主義は政治的中央集権、近代は経済システム中心主義。
  10. 近代が、人格規格主義というフーコーの指摘は当たっている。
  11. 小人の思考方法が流行に左右される、ってのが、それほど問題なのかい?
  12. ユダヤ系の学者であれば、キリスト教徒のアホさ加減を指摘することなど簡単なことだ。キリスト教徒は認識に道徳を持ちこもうとするから、アホな認識論になってしまう。
  13. 小人⇔君子。蓄群(Herde)⇔超人。
  14. 『「いま・ここ・私」を歴史の進化の最高到達点・必然的な帰着点とみなす考え』(p.80)なんて、あったのかい? それで悪いんかい?
  15. 三角座りの奴隷主義(p.104)。ふむ。人間は奴隷になりうる存在だ。奴隷的な動作を強制すれば、彼は奴隷になる。
  16. 「インターネットのテキストを読むときには誰が書いたかを気にしない」(p.130)ってのは変人じゃない??
  17. テレビニュースを信じるほどナイーブな視聴者はいない」(p.136)??、どうかしてんじゃないの?この著者。選挙で思ったのだが、連呼とか、電話とか、戸別訪問というのは、サブリミナル選挙だね。公明党は堂々とやっているね。戸別訪問。知り合いに戸別訪問するのは構わない、っていう法の抜け穴があるのかな?
  18. 神の視点を歴史と言い換えて復活させた? そうだろうね、キリスト教徒だもの。(p.145)。実存主義はいかに生きるかを追求して、いかに生きるかを破壊した。実存の背後にあるモノの存在を承認しない限り、実存からいかに生きるかは見えてこない。実存は無原因ではない。
  19. 実存主義者が構造主義を承認する、ということでは解決しない。実存の背後に構造主義が主張するようなモノを、いま・ここの《私》の背後にあるモノとして見通さなければ、次のステップにはたどりつかない。実存それ自体から、実存による《背後者》への見通し、に至らなければならない。
  20. 科学主義=没主観主義が哲学=主観主義を粉砕した、ということだろう。《我》が死んだのだ。《我》の復権が必要だ。
  21. 「鏡の段階」(p.168)。生後六ヶ月って、その時に鏡を見ない子供もたくさんいるのではないだろうか? その時に鏡を見たこ子供と、見ない子供とでは、どのような違いが出るのだろうか? たけ(tk)自身は、小学校のときに、鏡で異常な体験をしたことがある。ドッペルゲンゲルの恐怖。
  22. 「精神分析では自我は治療の拠点にはならない」(p.173)。治療だもの。
  23. 「フロイトは自我をコトバの核であるとした」(p.185)。西洋語の主語としての自我だろう。
  24. コトバというのは、本来の機能は伝達であって、認識ではない。というのは、当たり前の話ではないか。アリストテレスだって、その事を前提としたうえで、コトバで認識を語ること、を語っているのではないか?
  25. 無理が通れば道理引っ込む。(p.192)
  26. 治療の目的は認識ではない。(p.196)当たり前じゃん。
  27. ユダヤ系の学者は善悪から解放されている。なぜなら、善悪はユダヤの神からすでに与えられているからだ。「汝、神の奴隷として仕えよ」という善だ。「汝、異教徒の智恵を破壊せよ」という善だ。

「電子は粒子であり、波であり、存在確率である」

  1. 「電子」というコトバで指し示されたモノがある。
  2. 「波」というコトバで指し示されたモノがある。
  3. 「存在確率」というコトバで指し示されたモノがある。??。存在確率を物理パラメータとして捉えなおしたモノカオスであるとするなら、「カオス」というコトバで指し示されたモノがある。「電子はカオスの波である」「カオスの波」というコトバで指し示されたモノがある。
  4. 「存在確率」は観測概念である、カオスは属性概念である。モノの属性である。
  5. 属性はそれ自体としてモノ(現象)である。カオスは、存在確率として観測されるようなモノ(現象)である。

「原子核」というコトバで指し示されたモノがある、か?

  1. 《近傍物理空間》の中に、ある、と言っても、矛盾しない。極めて微小なので、感覚的に直接に知ることはできないが、感覚的に知ることができるモノたちの内部を拡大していったなら、原子核というサブシステムを見いだすことができる、と考えても、現に知られつつあるモノたちの世界と矛盾しない。
  2. 「矛盾しない」というのは、論理学的な意味ではなく、モノの論理においては、「一つの世界の中にその二つのモノが同時に併存しうる」ということを意味する。

『思考できない→クオリアを感じる主体がない』

  1. 《私》《我》《私》《我》があることを直接に知ることができる。
  2. 《私》《我》《他者》《我》があることを直接に知ることができない。
  3. 《他者》《我》がある」という説明方法。汎神論
  4. 《他者》《我》がない」という説明方法。独我論
  5. 《他者》のうち一定の基準を満たす場合には《我》がある」という説明方法。二分論。
  6. 説明方法(アリストテレスのロゴス)は公理系の選択によって決まる。任意の複数の公理系の選択が可能。

《我》が感じるクオリア」と「クオリアを感じる《我》」と「《我》が感じる《我》クオリア

  1. とは明確に区別しなければならない。
  2. 《我》が感じるクオリア」が普通に言うクオリア
  3. クオリアを感じる《我》」は《我》。意識。
  4. 《我》が感じる《我》クオリア」は『我』である。自己意識。

アニミズム

  1. 原子も他の原子の引力を感じる主体である。その認識にしたがって移動する主体である。という考え方を、超アニミズムと呼ぶことにしよう。
  2. 「物理的アニミズム」かな?
  3. 「説明方法(ロゴス)」の違いに過ぎないと思うのだが・・。
  4. 超越的アニミズム、というのはどうか? 超越的なモノモノそのものにアニマが宿っている、という理論構成。汎神論か。
  5. 「汎神論(はんしんろん=pantheism)とは全ての物体や概念・法則が神性を持つ、あるいは神そのものであるという(神を擬人化あるいは意思のある存在としてだけで捉えない)思想・見解のこと。  英語のpantheism、ギリシア語のpan(=全て)とTheos(=神)を語源にする語で、文字どおり「全ては神」で「神は全て」である事を意味する。  万物に神性が宿るならば神性の有無を論じるのは無意味であって無神論と分類される場合も少なくない。汎神論を否定する理由としては、森羅万象を神と定義づけてしまうと人間の中にも神が宿っていることとなり(実際、神道において神と人の境界は曖昧である)、それは即ち人間が犯す罪は神が犯した罪ということになるためであるとされる。一神教にとっての神を唯一無二の存在(唯一神)であるとするためには、人間を含む自然界を超越した存在でなくてはならないからだ。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/汎神論)
  6. 「神を唯一無二の存在(唯一神)であるとするためには」というのは、一神教の教理上の都合に過ぎない。
  7. 「神道のアニミズム  これによくにたものに神道(神道では万物に個別の神が宿るとされ、俗にいう八百万の神とは存在の個体数ではなく極めて多いこと表現している)などのアニミズムがある。 日本では、仏教などが伝来した後でも、その信仰はがおとろえることはなく、あらゆる場所に神が宿るという概念は地鎮祭の慣行や神棚の設置等の風習で伺い知ることができる。また、食事を残す子供に「ご飯粒を残してはいけない。その中には(八十八の)神様が宿ってるからね。」と諭したという逸話もある。 単なる一神教や多神教との相違は神性を持つ対象が森羅万象の全てである(あるいは含む)という点である。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/汎神論)

2005-06-25(土)

すべての疑わしきものを偽であると断定して捨て去った後に、時間も空間も感覚もモノコトバも捨て去った後に、暗黒の世界のうちで唯一残ったものは、《疑いつつあるモノ》である。

  1. その《疑いつつあるモノ》世界は他には何もない世界である。時間も空間も存在しない世界である。
  2. 《疑いつつあるモノ》ではない。疑うべきモノを失った世界においては、《疑いつつあるモノ》ではありえない。でもないか?、不断に、疑うべきモノが出現する世界にあるのか?
  3. 《疑わしいモノどもを不断に生成しつつある世界》がある。《疑わしいモノどもを不断に生成しつつある世界》と《疑いつつあるモノ》とがある。《混濁の世界》
  4. 《疑わしいモノどもを不断に生成しつつある世界》の中にあっては、《疑いつつあるモノ》は疑わしいモノとなる。というのは、《疑いつつあるモノ》はそれが疑いつつあるときにのみ存在し、疑うことを止めると存在しなくなってしまうからである。
  5. したがって、《疑わしいモノどもを不断に生成しつつある世界》のみが唯一の存在となる。
  6. 《疑わしいモノどもを不断に生成しつつある世界》が疑いつつあるモノを失うと、世界であることを止め、唯一のモノになる。《疑わしいモノどもを不断に生成しつつあるモノ》(《混濁》)になる。
  7. しかし、《疑わしいモノどもを不断に生成しつつあるモノ》は対立物を発見する。《知りつつあるモノ》である。《疑わしいモノどもを不断に生成しつつある世界》(《混濁の世界》)と《知りつつあるモノ》が存在する。

目的を持たない知はあり得ない」というと、

  1. 普通は、目的によって知がゆがめられることを自戒するだろうが、
  2. 小人は、我が意を得たりと、自分の目的にそった知の正当性を主張しはじめる。

「ソクラテスは教養的である」(p.130)

  1. 具体的なモノ(基体)を指し示すコトバについての判断は可能。
  2. 「教養的なモノは白い」:「教養的なモノ」が具体的なモノ(ソクラテス)を指し示す場合にのみ可能。
  3. モノ》は持続であり、持続は変化である、とすると、モノに対する判断は不定になる。もっとも、瞬間、その時、その場所のそのモノに対する、その視点からの判断は一定になるか? 単眼的論理学。
  4. 「教養的なという属性を有するすべてのモノが白い」という意味であれば、判断は可能。特定のモノの集合に対する判断。
  5. 「白い」と言っても程度の問題があるな。特定の判断基準において「白い」と判断される場合には、「白い」と「白くない」との両方が同時になりたつことはない。その瞬間の、その場所の、そのモノに対する、その視点の、その基準からの判断は一定になるか?
  6. 「多くの人々はお互いに相反する判断をしており、そしてそれぞれ自分のと反対の判断する者を偽の判断をする者と思っている」(p.136)。
  7. 「可能性においては同じものが同時に相反する二つのもののどちらでもあるが、完全実現態においてはそうではない」(p.138)。あるモノが、同時に別のモノであることはあり得ない。《思いこみ》においては、ある《思いこみ》が、同時に別の《思いこみ》であることが可能である??。《思いこみ》モノとして考えるならモノと同じだ。『ある時点のモノの可能性』についての《思いこみ》は複数あり得る、その時の《思いこみ》は別の時間における《思いこみ》であろう。『同じ時点のモノ』にたいする別の瞬間の《思いこみ》が複数あり得る。

分からない、でも、分からなくても困りはしない。というのは、困ったモノだ。

「システム■ 意義 「入力・変換・出力の三要素から構成される単位」を意味する概念  「特定の仕事を行う単位」を意味する概念  個々の要素が有機的に組み合わされた「一定のまとまり」をもつ全体。  体系もしくは系」(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%B9%A5ƥ%E0

  1. なんとも漠然とした概念だな。
  2. 「入力・変換・出力の三要素から構成される単位」ではブラックボックスと同義だな。
  3. 要素の有機的結合、一定のまとまり。
  4. 「xxシステム」という一般的に使われている意味で考えると、一定の仕組みをもった全体、といった感じかな。仕組みというのは「変換」と、言えないこともないか?
  5. 「A system is an assemblage of inter-related elements comprising a unified whole. From the Latin and Greek, the term "system";;; meant to combine, to set up, to place together. A sub-system is a system which is part of another system. A system typically consists of components (or elements) which are connected together in order to facilitate the flow of information, matter or energy. The term is often used to describe a set of entities which interact, and for which a mathematical model can often be constructed.」(http://en.wikipedia.org/wiki/System
  6. 内部要素の有機的結合体、という意味が本来か?

科学的実在論」(http://www.geocities.jp/enten_eller1120/post2/s-realism.html

  1. たけ(tk)にとっての科学的実在とは、《近傍物理空間》のサブシステムである。
  2. 例えば、原子とは、今食べているご飯のサブシステムであるお米の、そのサブシステムである細胞の、そのサブシステムである有機物質の、そのサブシステムである分子の、そのサブシステムが原子である。
  3. 法則は《思いこみ》である。
  4. 原子も《思いこみ》である。
  5. 実在論というのは《思いこみ》モノのシステムのサブシステムに対応関係を有するかどうかの問題。《モノの世界》との対応関係があれば『実在する』と判断する。
  6. 《他者》による検証も、一応、信じる。
  7. 「操作主義は,観察不可能な対象についての言明をすべて観察可能な対象の操作についての言明に翻訳するという立場」:仮説的存在を認めてもよいのではないか? 
  8. 問題は、観察不可能な対象に関する仮説的存在の概念が、それに対応する《モノの世界》での実在性を有するかどうかだな。
  9. 観察不可能な対象に関する仮説的存在の概念が、それに対応する《モノの世界》での実在性を有するかどうか、を調べるのが、検証という作業だ。検証しても、実在性を有する、と断定することはできない。いちおう、実在性を有すると、信じるのである。
  10. 道具主義・・「電子」だとか「原子」だとかという言葉を用いるのは, 現象を理解するのに「道具として」役に立つから用いるのに過ぎない,と言う. だから,「電子がある」という言明はそれ自体としては無意味なのである.』:そもそも、すべてのコトバは、ヒトヒトとの間での《思いこみ》の伝達のための道具じゃん。すべての「言明はそれ自体としては無意味」と、言えないこともない。伝達されるモノ《思いこみ》であって、実在するモノそのものではないからだ。
  11. 『観察言語と理論語を明確に区別している・・が,・・観察にはつねに「理論負荷性」がつきまとい,これらを明確に区別することは不可能なのである.』
  12. 『ファン・フラーセンは,・・現存する理論が経験的事実をうまく説明するのは奇跡でもなんでもなく,そういう理論のみが厳しい淘汰を生き延びたからなのだと言うのだ.・・理論は文字通りに受け取るべきだ・・科学目的は・・われわれに経験的に妥当な(adequate)理論を与えることであり, ひとつの理論の承認に信念として含まれるのは,それが経験的に妥当だという信念だけである. と言う.・・科学目的は,われわれの肉眼によって観察可能な現象を説明することであって, そのような観察不可能な対象が存在するかどうかということについては,科学がコミットメントする必要はない, というのである.』これが良いな。だけと、「実在」かどうかに関するコメントではない。というか「実在」かどうかはコミットするべきではない、という立場か。実在論議回避主義。
  13. 『ハッキング(Ian Hacking)は・・科学者が意図的にその理論的対象を操作することができるならば,それは実在するという考え方である.』:検証作業・・。実在仮説の検証が可能なら実在であると信じるということ。

「イネ科のみに絞った全生産高については良くわかりませんが、穀物の生産高についてはFAO(国際連合食糧農業機関)がそのホームページ上で統計を提供しています。そのデータをもとに、農水省ホームページ上でもまとめ直して提供されています。 それによると、収穫面積6兆7千億ヘクタール(どんな広さか想像もつきませんね)のうち、約1/3に小麦が、約1/4ずつにそれぞれ米とトウモロコシが作られているということです。残りは、いろいろな作物が作られています。そこから得られる生産量は、20兆メガトン(これまた全然想像できません)です。そのうち米とトウモロコシと小麦が約30%ほどずつで計90%くらい。残りがばれいしょ(ジャガイモ)や大豆や大麦などということです。 米もトウモロコシも小麦も大麦も、イネ科であることを考えると、世界のほとんどすべての食物が「イネ科」から得られているといっても良いのではないでしょうか。」(http://home7.highway.ne.jp/ik1/kusaken_wake.htm):

  1. ピクミン「■「愛のうた 〜ピクミンCMソング」 引っこ抜かれて、あなただけについて行く 今日も運ぶ、戦う、増える、そして食べられる ほったかされて、また会って、投げられて でも私たちあなたに従い尽くします  そろそろ遊んじゃおうかな  そっと出かけてみようかなーんて 嗚呼 嗚呼 あの空に  恋とか、しながら いろんな生命が生きているこの☆で 今日も運ぶ、戦う、増える、そして食べられる 引っこ抜かれて、集まって、飛ばされて でも私たち愛してくれとは言わないよ  そろそろ遊んじゃおうかな  そっと出かけてみようかなーんて 嗚呼 嗚呼 あの空に  恋とか、しながら  力合わせて、戦って、食べられて でも私たちあなたに従い尽くします 立ち向かってって、黙って、ついてって でも私たち愛してくれとは言わないよ 作詞&作曲 ストロベリー・フラワー 編曲 パパダイスケ」(http://www.dengekionline.com/news/200111/06/n20011106pikmin.html

現在の世界の問題についての、明確な問題意識を持っている人々はどこにいるのか?

  1. あっしらさんなきあとに、どこで捜せばよいのか?
  2. 結局、人間は愚かだから、サルの子孫だから、《思いこみ》のサルに過ぎないから、イースター島の悲劇を繰り返すほかないのか?

近代イデオロギーの没落:

  1. 最近の宗教政党ののさばりようの原因は、科学民主主義人権といった今までのイデオロギーが力を失いつつあるということだ。近代イデオロギーが衰退して宗教を抑える力を失ったということだ。
  2. では、近代イデオロギーの復権が必要なのか、可能かのか?
  3. 近代イデオロギーの衰退の原因はなにか?
  4. 「規範の衰退」か?
  5. 宗教もイデオロギーも、人々のニーズを食べて増殖・進化する生き物だ。そういえば、商品も人々のニーズを食べて増殖・進化する。プログラムもそうだ。とすると、社会的な「存在」はすべからく、「人々のニーズを食べて増殖・進化する生き物」=「ニーズ・イーター」なのかもしれない。
  6. ニーズイーターと普通の生物との違いはなにか? そもそも、食糧となるニーズとはなにか? 
  7. ニーズというのはニーズイーターからみれば、他の生物種の「おいしさ」だ、「栄養」だ。
  8. 生物が持っている「捕食されたときのおいしさ・栄養」というのは、その生物にとってのどういう意味(種族維持的価値)を持つものなのか?
  9. 稲や小麦は人類に「捕食されたときのおいしさ・栄養」を持つが故に最も個体数の多い植物となった。「捕食されたときのおいしさ・栄養」はそのような意味で種族維持的価値を持つ。
  10. 稲や小麦は人類に「捕食されたときのおいしさ・栄養」を増加しようと進化した。人々も宗教に「捕食されたときのおいしさ・栄養」を増加しようと進化する。他の生物種に「奉仕すること」の種族維持的価値。稲や小麦(のゲノム)は人類に捕捉されることを苦にも思っていない。生き残るための必要な犠牲という・・、でさえなく、ギブアンドテークでより多くのテークが期待できるギブということだろう。稲や小麦にとっては個体はギブアントテークの贈り物でしかない。人々にとって、ニーズや魂を宗教に捧げることは、犠牲でもない、ギブアントテークの贈り物でしかないのだ。
  11. 宗教的な人々は個体的な魂の自律的な循環を宗教共同体の大きな循環の一部として捧げる。稲や小麦は、個体的な生命の自律的な循環を、稲・小麦+人類という共生生命(共生生物種)という大きな循環の一部として捧げる。
  12. 「捕食されたときのおいしさ・栄養」にうまい具合の名前が思いつかぬ。
  13. 科学人権民主主義という近代イデオロギーが没落しつつあるのは確かなような。
  14. 近代イデオロギーの方に問題があったのか?
  15. 近代イデオロギーを非難する人々がいる。彼らは、近代イデオロギーを曲解して、曲解したイメージを広めて、そのイメージを非難する。
  16. だが、その曲解非難に対して、近代イデオロギーの立場の人々が有効な反論をしてこなかったのは確かだ。彼らも近代イデオロギーに対する熱き思い入れを失っているからだろう。
  17. イデオロギーに対する思い入れというのは、幼児体験というか、思春期時代の体験によって決まるだろう。
  18. 思春期に戦争を体験したヒトは戦争を防ぎたいという熱き思い入れを持つ。
  19. 思春期に出来上がった体制の中で平穏に過ごし、出来上がった体制の腐敗に憤りを感じたヒトは、体制を支えるイデオロギーに疑いの眼差しを向ける。その体制がイデオロギーの本来の姿からほど遠いモノだとしても、体制の建前のイデオロギーが問題であると感じる。
  20. 結局、修羅→天上→畜生→修羅の循環説になる。ヒトは世代交替を越えることはできない。
  21. 歴史を承継しない人々の愚かさということだろう。近代イデオロギーに不利益を感じる支配者たちは歴史の承継を禁止し、都合の良い歴史に改変しようとする。実際に、改変する。そうやって、人々を操ろうとし、愚かにし、社会をだめにしていく。人々は、操られ、愚かになり、社会をだめにしていく。支配者たちも、世代交代を越えることができないからだ。人々も、世代交代を越えることができないからだ。
  22. ニーズイータの話も、世代交代による記憶喪失や3循環説と関係がある。世代交代によって記憶が喪失されるとニーズが変化するのだ。イデオロギーに対するニーズがなくなると、そのイデオロギーは食物不足で絶滅してしまうのだ。そして、3循環がはじまる。
  23. 歴史から学ぶことを妨害する方法の一つは、過剰な情報を与えることである。過剰な情報は人々から判断能力を奪う。そして、単純な命令を好む心情を産み出す。

イデアのレイヤというべきものがあるのか?

  1. 共有知のレイヤだろう。共有知においては、コトバは普遍的なモノを指し示すのだ。
  2. http://www.yamcha.jp/ymc/DSC_sure.html?bbsid=1&sureid=9&l=1-100)の「49 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-25 15:43:41 どうやら、ていさんはクオリアを「イデア」として捉えているようです。」
  3. 共有知を前提とした素朴な哲学においては、イデアが問題になる。
  4. 共有知というのは《共有思いこみ》の中の『正しい《思いこみ》』という《思いこみ》を伴う《思いこみ》

HN同定詮索の心理学というのは面白そうだな。

  1. どういう心理なのだろう?
  2. 被害妄想的な人格だろう。
  3. ウソを楽しむ余裕がない。
  4. 同一人物が別ハンドルで書き込みをしたっていいじゃん。
  5. 楽しむ余裕がない。
  6. 誰が言ったか、何人が言ったかで、自分を評価する思考方法。
  7. 《他者》循環において自己を評価する思考方法。これも、うまい命名ができていないな。《思いこみ》個体間循環《思いこみの個体間循環》でしたね。
  8. 《他者》との間で確固たる《思いこみの共有》ができていると思いこんでいる心理。齟齬やウソがなく、同一の《思いこみ》が共有されている、という《思いこみ》
  9. 人数を気にするということは、単一の個体間循環とは異なる。複数の個体間での《思いこみ》循環。多数決的な自己評価。『多数の《他者》に支持されている』か『特殊な単一の《他者》だけに非難されているか』という違いによって自己を評価する《思いこみ》
  10. どこら変のニューロンが反応しているのか?
  11. レスを読んで疑いを持つ場面でのニューロンの反応、疑いの眼で『xxとyyとは同一人物が私を混乱させるためにHMを使い分けているのだ』と確信したときのニューロンの状況、怒ってレスを書き込んでいるときのニューロンの状況を知りたいな。
  12. 『自己概念』の《思いこみ》の話だな。ヒトは誰でも『自己概念』の《思いこみ》を持っている、『私はxx』である、という《思いこみ》。「xx」の部分には自分に関する記憶の全部がつまっているだろう。「過去が現在のうちへ生き続ける」モノとしての自己の概念だ。そのような概念をヒトは誰でも持っている。たけ(tk)も例外ではない、たけ(tk)は、《思いこみ》を排除しようとするが、たけ(tk)という生き物の存在を否定するわけではない、たけ(tk)という生き物の過去が現在のうちへ生き続けるものとして、今の、たけ(tk)もある。たけ(tk)は過去が現在のうちへ生き続けるモノとしての今のたけ(tk)を知っているし、そのたけ(tk)の過去としてのたけ(tk)も知っている。
  13. 問題は、彼の自己概念が、極めて狭い範囲の情報で構成されている可能性が高い、ということだ。彼の自己概念が生き物としての歴史の統一体として四次元チューブとしてではなく、《他者》に評価されることによって始めて存続しうるようなモノとして認識されていることだ。

「■頭頂葉が手の運動の視覚的コントロールに関与しているということを90年に論文に出したんですね。 僕らはものを掴んだり、電気のスイッチを操作するときに、何も意識しないで掴んだり操作するじゃないですか。目の前のコーヒーカップを掴むときに、何も考えてないでしょ。・・対象物を見たときに、それがどこにあって、どんな格好をして、と、ぱっと見た瞬間に対象物のそういう情報を分析して、手の運動をコントロールしてるんですね。で、そういう機能が頭頂葉で行われているということがヒトの研究である程度わかっていたんだけど、90年にサルの頭頂葉で実際にそういうニューロンを見つけて調べたわけです。・・実際に調べていると、どうも手の運動のコントロールのためには、空間内での3次元的な形状の情報が、重要だろうという予想がついたんですよ。で、そこからより視覚的な研究に入っていったわけです。 ○3次元的なボリュームみたいなものが重要だということですか。 ■そうそう。 ○それが必要であると予想した理由は? ■第一の理由は、この研究ではサルに、押しボタンスイッチ、つまみスイッチ、レバースイッチ、ちっちゃなつまみスイッチと、操作する動作と形状が違う4つのスイッチを使って実験したんです。 操作運動をコントロールしているニューロンのなかに、たとえば台の上に立てたレバーを握って操作(手前に引く)と反応するようなニューロンがあるんですが、面白いのは、傾きを変えてやるとね、だんだん反応が違っちゃうんです。○反応が変わるんですか? どんなふうに? ■棒の頭が右上斜め45度を向いているときには、レバーを握るときにすごく強く反応するんだけれど、逆に左斜め下方向を向いたレバーを握る時には活動が抑制されてしまう。 するとこのニューロンにとって、何が大切かっていうと、「レバーを握る」っていう動作よりも「空間内でのレバーの傾き」がものすごく大切だと予想できるわけですよ。 で、もう少し調べると傾きも3次元的な傾きが大事、つまり、ちょっと前後方向に傾きをかえると反応が大きく変化するニューロンが見つかったんですね。それと、それぞれのスイッチを操作しないで、ただ、じっと見ただけで反応するニューロンもあった。ですから、対象となる物体の三次元的な形態が大事だろうと、予想したわけです。・・リング、板、球、立方体、砲弾型、直方体なんかを使って調べたんですが、ある形をしたものを握らせたときにすごく強く反応するニューロンが見つかったんです。 ○それは自分の手の形によるんですか、それとも握ったときの相手の形による?■うん、頭頂葉のニューロンの面白いのは、さっき話したように対象の形の視覚情報の入力があるんだけれど、自分の手の形の視覚情報の入力があるんですね。それと、運動に関した入力として、運動野からの運動信号の出力の一部が入力しているみたいだけれど、でも、握った時の相手の形、というか、体性感覚(触覚)の情報は調べた限りでは入力がないんです。 ○へえ。すると、ビジュアルセンサー入力と運動出力の信号ですね。それが統合されると。 ■そう。それが頭頂葉でマッチングしてる。自分の運動がちゃんとできているかどうかモニターしているわけです。そこが一番面白いところなんです。 視覚の情報も来てるし、自分の運動の情報も来ている。それがうまく合わさると非常に強く活動する。そういうところなんですよ。」(http://www.moriyama.com/netscience/Taira_Masato/Taira-1.html#01):

  1. 脳科学ってのは面白いな。認知・運動とニューロン。
  2. 「研究者がどんなことを面白がっているか」というコンセプトはよいな。
  3. しかし、結論は極めて常識的。対象の空間定位の把握が重要、自分の手の空間定位が重要、握った後の質感は不要。当たり前じゃ。目的達成に必要な情報を重視し、目的達成に重要でない情報は重視しない。常識的なことを検証された明確な命題として蓄積していくこと、これが、科学
  4. 「運動に関した入力として、運動野からの運動信号の出力の一部が入力しているみたいだけれど、でも、握った時の相手の形、というか、体性感覚(触覚)の情報は調べた限りでは入力がない」:運動野からのフィードバック情報
  5. 問題なのは運動神経→感覚神経ではなく、感覚神経→運動神経。
  6. 目的主義というか、結果的目的主義で生物は進化する。種族維持的価値というのは結果的目的。結果がよかったので、それを目的だったことにしよう、という目的
  7. カーブを認識するニューロン(http://www.moriyama.com/netscience/Taira_Masato/Taira-2.html)、xxを認識するニューロン、というのがたくさんある。モノを多数の要素に分解して、分解された要素ごとにニューロンが反応し、それが統合されてモノという一つのものとして認識される。分解過程と統合過程があるはず。統合過程というのが、《我》に繋がる過程。
  8. まあ、たけ(tk)は、今さらやるつもりはない、みんな、どんどん調べて!、どんどん報告して!、というだけ。で、問題は、それらの蓄積された、表象レイヤ⇔ニューロンレイヤの関係を、全体として、どのように理解すべきなのか、だろう。

うちのおばあちゃん曰く:

  1. 投票日に旅行に行っているので不在者投票をしようと思うが、なんの情報も無いので選択しようもない。
  2. xxさんが勧めてくれた明党にしようかしら。そういえば、yyさんも公明党、zzさんも公明党だわ・・。
  3. --宗教政党が信者を使って事前運動を行う。これは、かなり強力な効果があるらしい。
  4. --政治運動には、兵隊が必要だ。なにも考えずに、上官の命令に忠実に従う兵隊の数と士気の高さが必要だ。政治運動は兵隊が行う。兵隊なき政党は身体なき脳に過ぎない。

2005-06-24(金)

「過去が現在のうちへ生き続けるということがなければ、持続というものはなく、あるものはただの瞬間だけであろう」(p.36)

  1. デカルト的な、すべてを疑う《我》にとっては、あるものはただの瞬間だけである。その緊張がゆるんだときに、《我》は持続する《我》を見つける。デカルト的な《我》が破綻して《混濁》に戻った後に、《我》は持続する《我》を見つける。
  2. これは「再発見」か? 「発見」か? デカルト的な《我》の前には、どのような《我》があったのか? 《他者》との間の他者認識のループにおいて、《他者》の視点で認識された《我》であろう。とするなら、持続する《我》は発見されるものであって、再発見されたものではない。
  3. たけ(tk)は、さらに進んで、四次元チューブとしての《我》なんて言うことを言っている。これは、持続する《我》の総体という意味でしかないが・・。

「分析によって得られた概念や図式は、それが考察されているかぎりは一定不動であるのを本質的特性としている」(p.35)

  1. 動き」の概念とか、「差異」の概念とか、「具体性」の概念とか、「モノ」の概念とか・・。「内面的生の全体」の概念とか・・。

アリストテレスの類型的認識というのは、感覚的な《モノの世界》を熟知しているヒトたちのために、個別的なモノをよりよく認識するための参考知識として使われることを目的としたもの。知識から事物の世界を再構成しようなどという夢想家のためのモノではない。

  1. 結局、小人養いがたし、なのだ。
  2. 小人を批判するために、小人の様子を描けば、小人は「それこそが人間の姿だ」と喜ぶのである。まったく、小人養いがたし、なのだ。
  3. ヒトは小人になるのではないだろう。ヒトは小人として生まれるのである。小人であることから脱却しなかったヒトが小人なのである。小人から脱却するヒトの方が特別なのである。気が違ったヒトなのである。

「パリを訪れたその画家は、パリで描いたすべてのスケッチの下に心覚えとして、たぶん「パリ」という文字を記しておくだろう。画家はパリを実際に見たのだから、全体について得た直観の助けを借りてスケッチを全体へ移し、並置し、組み合わせることができるであろうが、しかしそれと逆の操作を行う方法はまったくない」(p.24)

  1. なかなか、説明がよろしい。
  2. 「これは、この場合取り扱われているものが真実の部分ではなく、全体の印象の単なる符牒にすぎないからである」
  3. 「単に記号的要素の上に施された操作によって事物を構成し直そうという考えそのものは、はなはだしい不条理を含む」
  4. コトバによってモノを知ることはできない。という意味。これ自体は、昔から、多くの賢人が言っていることであり、ある種の常識なのだが、80%の普通のヒトにとっては、非常識に属する話だ。普通のヒトは、こういう言説に対しては軽蔑の眼差しを向ける。気が違うヒトが訳のわからぬことを言っている、という眼差しを向ける。そんなことじゃ通らないよ、という。そうなのだ、コトバによるコミュニケーションに疑問を挟むものは、社会の奴隷としては不適切なのだ。で、しかも、ヒトは社会の中で生きる以上は、少なくとも一つ以上の場面では、社会のルールの奴隷として振る舞わなければ、生きていけないのだ。こういう思想は、おそらく、社会を成り立たせている根本を覆す危険思想とみなされるだろう。
  5. ドゥルーズは、危険思想をイデアの美しく無害な思想に取り込もうとしているのではないか?
  6. 心理学と脳科学の違いは、測定可能性の違いか、測定しようとして一定の手順を踏んで測定すれば、望んだ現象を見いだすことができる。か、どうか、の違い。測定可能性というより、再現可能性か。
  7. ベルクソンはコトバの否定で終わっているようにも見えなくもない。ユダヤ系の学者の特徴のような気もする。
  8. 「哲学は、自我による自我の単純な直観を取り戻したときに、はじめてそのことを知るのである」(p.32)といっても、自我による自我の単純な直観を取り戻していないヒトにとっては、理解不能な神秘主義的言説にしか見えない。《コトバの世界》に住んでいるヒトにとっては、モノは神秘主義の怪しげな宗教にはまり込んだヒトが見る幻想であるように見える。分かっているヒトには分かり、分かっていない人には分からない言説。
  9. 「哲学することを差し控えるという暗黙の同意がわれわれの間にできている」(p.34)のだよね。知識は動くためにある、知るための知識は、動くための知識を破壊する。ということだね。「(事物に関する認識)から引き出されるべき利益をめざす実用知」か「直観の努力によってその対象そのものの内部へ自己を置くこと」か(p.35)。
  10. 直観種族維持的価値って何だろう? 直観による知は、実用的な目的には適さない? そうでもないんだよね。目的的に偏向した認識は、物作りの繊細さを妨害する。物を作る過程において、モノそのものから得られる直観によって、そのモノの性質を知り、より繊細な、完成度の高い物作りを行うこと。という実用的な知でもある。(そこら辺を西田は言いたかったのか)。

クオリアの問題はコトバモノとの関係の問題か?

  1. 通常の概念は普遍的であり、一般的であり、他のモノとの共通性は記述できるが、このモノの質感という固有の感覚という特殊なモノは、通常のコトバでは語ることができない、という問題か?
  2. ベルクソンのモノ世界

シナプスレイヤと表象レイヤの接点:

  1. 電線の電流から電波が発信されること。電流から電波に変身すること、というような発想で表象レイヤを考えているようだ。
  2. そうじゃなくて、シナプスレイヤの現象が、表象レイヤに幻を構築する、という関係だろう。
  3. アメーバの気持ちになって世界を認識せよ。アメーバの認識を物理的に観察せよ。物理的に観察された「アメーバの認識」の仕組みをアメーバの気持ちになって、アメーバにとっての《客観世界》の認識として、認識せよ。

シナプスレイヤというのは、表象レイヤに存在する《我》というモノの背後にあるモノである、という理解でよいのか?

  1. 《背後者》〜〜っ。
  2. 《背後者》はシナプスレイヤか?
  3. シナプスレイヤへの見通しは可能か? つまり、シナプスレイヤを表象レイヤの中のものとして感じることは可能か?
  4. そうじゃないな。シナプスレイヤは表象レイヤの世界の全体を支配する原理なのだ。
  5. 表象レイヤの世界そのものが、シナプスレイヤの原理によって構築されたモノなのだ。表象レイヤの《我》そのモノがシナプスレイヤの原理によって構築されたモノなのだ。
  6. 《背後者》表象レイヤのモノである。

表象レイヤが脳内のシナプスレイヤの特定部分に対応しているか?

  1. 脳内筋肉仮説だと、脳内筋肉を《我》として認識し、脳内筋肉への認識系のシナプスからのインプットが感覚・表象のレイヤということになる。
  2. 脳内筋肉はシナプスでシミュレートされているか?
  3. 脳内筋肉の緊張が実体感の実体かもしれない。

単細胞生物もクオリアを感じるだろう。

  1. 有害物質のクオリア、餌の臭いのクオリア。仲間の臭いのクオリア、を感じるだろう。
  2. 原子だって他の原子の引力のクオリアを感じているだろう。もっとも、クオリアがそのまま動きに直結している場合には、クオリアという質感として独立の存在ではないだろう。
  3. クオリアとして感じる、ということは、動きに直結せずに、動きが留保されていること。隠微な動きとして実現されて、その隠微な動きを感じること、がクオリアだろう。経験として記憶されるための条件がクオリアだろう。

認識系のシナプスの発火から動作系のシナプスの発火に繋がる、その境界面が《我》と感じる部分ではないか?

  1. 認識系と動作系のあいだには、原始的な筋肉が媒介しているのかもしれない。動作系のシナプスと言うのは、原始的な筋肉の動きに対する認識なのではないだろうか?
  2. 動作系のシナプスの目的は動作を実現することであり、認識系のシナプスの目的は外界を知ることだ。原始的な筋肉の動きに対する認識系のシナプスによる認識が体内感覚なのだろう。
  3. 動作系のシナプスは、原始的な筋肉の動きを増幅して《身体》動きとして実現していくことだ。運動神経と感覚神経と言うのか。
  4. 脳内筋肉、ホモンクルス。

「物質に過ぎない脳に、いかにして、クオリア志向性といった私たちの心的表象が随伴するのか、この問題の根本的解決の糸口は、まだ見えていない。」(http://www.qualia-manifesto.com/essays/gengo2.html

  1. 表象レイヤとの対応関係ではだめなのか?

「形而上学は概念を超越して直観へまで達しなくてはならない」『哲学的直観ほか』(ベルクソン)p.19

  1. アリストテレスに直結しているなぁ。
  2. 王者としての学。他の諸学の学たる学、は直観にまで達しなければならない。が、可能か、というか、諸学が概念で構成されているときに、諸学の学が概念を超越することは可能か? 概念を超越したモノが学であり得るか? 学は《他者》への伝達手段たるコトバではないのか? 直観コトバにしたモノ直観の概念ではないのか? 
  3. 「概念をちょうえつし(た)、・・(既存の概念とは)はなはだ違った種類の概念を創造しなくてはならない。という意味は、しなやかな、可動的な、ほとんど流動的といってもよいような、いつでも直観の漂う形態にあわせて形どられうるような表象のことである」。だね。

アリストテレスはクラス志向、ベルクソンはインスタンス志向。

  1. ドゥルーズはたぶん、インスタンスについてのクラス(イデア)を提示している。

「形而上学的対象から引き抜かれて、概念で示されると、属性は無限定に増大していって、対象そのものの外延を超え出てしまう。というのは、属性は他の多くの対象をもいっしょに含まねばならないからである」『哲学的直観ほか』(ベルクソン)p.18

  1. 概念は、《体内感覚世界》の中にあり、空間定位が曖昧なので、対象そのものの外延を越えることができるのである。

「内部からの直観によってわれわれのすべてがとらえる実在が少なくとも一つは存在する。それは時間のうちを流れるわれわれ自身の人格であり、持続しているわれわれの自我である」『哲学的直観ほか』(ベルクソン)p.11

  1. って、簡単には言えないと思うのだがなあ・・。
  2. 《思いこみつつあるモノ》を《生かしつつあるモノ》の、ことらしい。

「それらは・・一貫した深い共通の生命によって生かされている」『哲学的直観ほか』(ベルクソン)p.12

  1. 《我》の諸現象を生かしつつあるモノ、は、なにか、どこにあるのか、とたどると、《宇宙史》にたどりついてしまった。《我》の諸現象を生かしつつあるモノ《宇宙史》である。もちろん、その主たるというか、近傍の生かしつつあるモノは、《身体》である。

「意識とは記憶を意味している」『哲学的直観ほか』(ベルクソン)p.13

  1. というのは、意識を《思いこみつつあるモノ》として捉えているから。《思いこみつつあるモノ》《思いこみ》《表出しつつあるモノ》である。そこで表出される《隠れた思いこみ》は因果的な成果としてのその時の身体が保持しているモノである。したがって、《表出しつつあるモノ》表出する《思いこみ》は過去の記憶なのである。したがって、《思いこみつつあるモノ》記憶である。
  2. 《知りつつあるモノ》は因果的な結果で、ある。《知りつつあるモノ》は、眠ること、死ぬことによって、切断される。
  3. 因果の地平の円錐の頂点にある。
  4. すべてのモノ《知りつつあるモノ》である。
  5. 《知りつつあるモノ》《宇宙史》の中心である。《知りつつあるモノ》の持続は、《宇宙史》の中心が時間軸にそって移動することである。

「今後、必要となるのは、「表象の精密科学」とでも言うべきアプローチであると私は考える。ここで、「表象の精密科学」とは、従来、数学的言語だけに求めてきた精密さ(exactness)を、自然言語、さらにはクオリア志向性といった心的表象にも見い出し、物質、言語、心的表象を、一つのシームレスな構造、世界観の下につなぐことである。そして、世界の発展を記述する言語としての数学的言語の役割を見直し、その背後にあるより深い言語構造を見い出すことである。その時、世界が従っている秩序を本当の意味で与える、普遍的な「言語的世界」が視界に入ってくるだろうと私は考える。  もちろん、「表象の精密科学」の具体的な道筋は、まだ誰にも見えていない。ただ一つ確かなことは、数学的言語万能の従来の科学的文化も、あるいは人間の主観を安易に前提とする従来の人文的文化も、世界の真実の一端しか捉えていないということである。スノウの指摘した二つの文化の対立という社会学的な問題は、物質、言語、心的表象を巡る私たちの世界観が分裂しているという、より深刻な問題の現われなのである。」(http://www.qualia-manifesto.com/essays/gengo2.html):

  1. 表象のレイヤにおける現象を精密に科学すること、表象のレイヤにおける現象とニューロンのレイヤにおける現象との対比を精密に科学すること、だね。

今ここの《我》のこの質感に対応するニューロンの発火の仕組みが科学的に記述されたとして・・、それで今ここの《我》のこの質感が・・

  1. 《我》レイヤにおける諸現象に対応するシナプスレイヤでの諸現象との対応関係が科学的に解明されたとして・・
  2. 「今ここの《我》のこの質感」と「科学的に説明された事柄に対する質感」との違いに対応する、シナプスレイヤでの現象の違いが科学的に説明されたとして・・
  3. 今ここの《我》にとって、《我》の背後にあるシナプスレイヤとはなにか?
  4. 今ここの《我》にとって、シナプスレイヤにおける《我》に対応する現象の科学的記述とはなにか? 「背後者である」としか言いようがない? それとも、《我》を one of them におとしめる、けしからぬモノか? 《我》の背後者の一つには、脳科学的に解明された(解明可能な)シナプスの仕組み、がある。
  5. 《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》自身を直接に知ることができない仕組みに対応する、脳機能が科学的に記述されたとして、・・。
  6. 《我》はニューロンの仕組みや動作を、直接に知ることはできない、直観することはできない。《我》にとってニューロンの仕組みは《我》の現象の外部にあるモノである。つまり、《思いこみ》である。ニューロンの仕組みは《思いこみ》としてのみ《我》の現象世界の内部にある。浄化によって見通すことはできるか?

2005-06-23(木)

「ミラー・ニューロンの見い出される前頭葉は、「私」という自我の中枢が存在すると考えられているところでもある。」「他人の心の状態を推測する能力を、「心の理論」と言う。幼児の発達の過程では、だいたい、3才から4才の間に、「心の理論」が獲得されると言われている。」(http://www.qualia-manifesto.com/nikkei.html

  1. 3・4才というのは、母親の配慮を中心にした対他ループが終了する頃。

脳科学《我》の体験とに対応関係が見いだせれば、《我》科学的に記述したことになるか?

  1. これは、難しい、が、そもそも、科学的記述というのは、類型的な記述である。
  2. 《我》という類型に関する記述であって、今ここにある《我》の個有性を記述するものではない。
  3. 《我》が「今ここにある《我》の個有性」の質感を求める、という類型に関する科学的記述は、どうか? そういう類型的記述は可能だろう。それで、OKなのか?
  4. コトバにはそれ以上のことはできないし、それ以上のことを求めるべきではない。不可能なことを求めるべきではない。
  5. だれそれの感動的な詩というのはどうか?
  6. その詩は誰某の具体的経験をコトバにしたものであり、聞き手もわがこととして感動する。聞き手が同様の体験をしたときに、聞き手が発語者となって、その体験をその詩でコトバにする。しかし、コトバとしての詩は、類型的なモノである。類型的であるが故に、聞き手はわがこととして感動するのである。本当に、誰某の何時どこのでの体験をコトバにしたものであるなら、聞き手が我がこととして感じるのは錯覚に過ぎないことになる。類型的な体験の錯覚を暗に誘導する、個有的な体験のコトバ、ということになる。
  7. 「活字は、私たちの脳の中で言葉が個々のエピソード性から独立した普遍性を獲得して収納されている、その記憶の形式に近しい形態なのである。」(http://www.qualia-manifesto.com/fuhenkobetsu.html):個有性⇔エピソード性、類型的⇔普遍性。

「チンパンジーが、「鏡のテスト」に合格するようになる過程が面白い。鏡を前に置かれたチンパンジーは、最初、鏡に映るイメージを、他の個体だと思って、威嚇したり、触ろうとしたりなどの「社会的行動」をする。そのうちに、鏡の中のイメージが、他の個体ではなく、実は自分の姿だということに気付き、社会的行動は消失していく。社会的行動と交代するように、顔を調べたりなどの、「自分に対する行動」が増えていく。この学習の過程は、2、3日の間に進行する。また、チンパンジーが鏡の前で過ごす時間は、この、学習が進行している2、3日の期間に、最大となる。鏡の中のイメージが自分だと判った後は、飽きてしまって、鏡に強い関心を示さなくなるのだ。」(http://www.qualia-manifesto.com/nikkei.html):

  1. これ、昨日書いた奴だ。自己意識はチンパンジーは種族維持的価値を有しない。ということになりそうだ。
  2. 種族維持的価値というのは、後づけの価値なのだ。背骨が種族維持的価値があるといっても、背骨の起源は背骨の種族維持的価値ではない。単なるミネラルの貯蔵庫、それも、動きを妨害するような、必要悪としての価値に迫られて獲得したモノなのだ。
  3. 人類が自己意識に種族維持的価値を獲得したのは、釈迦や孔子やxxの頃だろう。文字が原因なのか、暇が原因なのかは分からない。
  4. 文字を読むヒトは、自己との対話を迫られる。
  5. 文字を読むヒトは、《知りたい》という《思いこみ》を持って文字を読む。故に、文字を読むヒトは、少なくともその場面では、主知主義者なのである。したがって、文字の世界において、主知主義が主流になるのは、当然である。

「周知の通り、脳の中には、二つの代表的な言語関係領野がある。 言葉の意味を司っている脳の領野は、ウェルニッケ野(Wernicke's area)である。ウェルニッケ野が損傷を受けると、言葉の発話自体には問題がなく、言葉が流暢に発せられるが、その内容が意味のないものになる。ウェルニッケ野があるのは、上側頭回(Superior temporal gyrus)と呼ばれる脳の領域で、ほとんど例外なく左脳半球に見い出される。上側頭回には、ウェルニッケ野の他に、聴覚野がある。さらに、少し下側の側頭野には、視覚関連の連合野がある。((一方、言葉の発話を司っている領野は、前頭野の、運動野近傍にあるブローカ野(Broca's area)である。ブローカ野が損傷すると、言葉の意味は理解できても、発話がうまくできなくなる。))興味深いのは、言葉の意味を処理していると考えられるウェルニッケ野を含む側頭葉は、私たちの心の表象の要素である志向性クオリアが出会う場所であると考えられることである。」(http://www.qualia-manifesto.com/essays/gengo2.html

  1. 意味と表象とがほぼ同じ場所で処理されている。意味は、《思いこみ》なのである。《思いこみ》は側頭野で処理されている?

「いかにして、他のどの「私」でもない、まさにこの自分としての<私>が成立するのかという問題(永井1998)は、経験科学としての脳科学をいくら進めていっても、何らかの方法論上のブレイクスルーがない限り、恐らくは永遠に解けない問題である。主観性の起源を解明することは、ある意味では人類にとって究極の問いであるということができるだろう。」(http://www.qualia-manifesto.com/essays/gengo2.html):

  1. そうなのかなあ? 《知りつつあるモノ》は方向線である。方向線の始点が《我》である。方向線の終点が世界モノである。方向線の作用にとって、始点は世界の中で唯一《知られつつあるモノ》ではありえない特異な点である。という性質が、まさにこの世界《知りつつあるモノ》としての、まさにこの自分としての<私>ということになる。
  2. 方向線にとって方向線の始点は自己言及のアポリアをもたらす特異点である。
  3. というより、「xxにとって」という記述方法が、「非科学的」たる由縁か?
  4. 《他者》に内在する《我》を、そもそも、認めたくない、というタブー。主体としての《他者》というのはカントのテーマだっけ?

「今日、心脳問題には、大きく3つの難問題(hard problem、Chalmers 1997)が存在していると考えられている。すなわち、クオリア(qualia)、志向性(intentionality)、そして主観性(subjectivity、「私」)の問題である。」(http://www.qualia-manifesto.com/essays/gengo2.html):

  1. おっしゃっておった。
  2. クオリア《知った思いこみ》志向性《求める思いこみ》、主観性は《知りつつあるモノ》《諸々のxxしつつあるモノ》《我》だな。

「現在、脳科学、コンピュータ科学、さらには、自然言語処理の研究に携わる研究者の多くは、暗示的に、時には明示的に、自然言語は数学的言語に究極的には還元されると仮定している。」(http://www.qualia-manifesto.com/essays/gengo2.html):

  1. うーむ。究極的には還元されるんじゃないのかな?
  2. もっとも、複雑系の訳のわからぬ、人間的な理解を越える、カオス的な、確率的にしか予測できない数学的言語が数学的言語であると言えるかぎりにおいてはだな。三体問題を数学的に記述できない数学的言語が、xx億体の相互関係からなる脳→意識を数学的記述できるのか?

「人間を単なるブラックボックスとして扱う従来の手垢の付いた人間主義的世界観」(http://www.qualia-manifesto.com/essays/keywords.html):

  1. ここでのブラックボックスは、「分からないままに放置されているモノ」だろう。

クオリアは、機能主義的、計算論的に見た脳の情報処理メカニズムの本質を、表象のレイヤーにおいて反映した属性であると考えられる」(http://www.qualia-manifesto.com/essays/keywords.html):

  1. ふむ。シナプスレイヤと表象レイヤか。
  2. レイヤ間のインターフェースが問題。
  3. VRAMのレイヤとブラウン管のレイヤ。

《我》《我》の背後にあるニューロンの発火を知らない。

「∇ツイスター変換について R.Penrose&W.Rindler,Spinors and space-time, vol.1,2,Cambridge University Press,(1984). 「ペンローズの量子脳理論;ペンローズ他」より  ツイスター理論をやるということは、通常の3次元 空間での思考をやめにして、複素射影空間の幾何学で すべてを考えることに相当する。ニュートン力学で 方程式を解くのと同じように、あるいは一般相対性論 でアインシュタインの方程式を解くように、ツイスター 理論にも「ツイスター方程式」と呼ばれるものがあって、 それを解くわけである。なんでふつうの射影空間でなく て複素数にまで拡張した射影空間が必要かというと、 ペンローズが、相対論だけでなく量子論までも全部 ツイスターで扱ってしまおうと考えたからである。 ・・・ ”ツイスターはスピノールからできている”  数学的には、ツイスターはスピノールのペアである。 ツイスター方程式を満たす二つのスピノールの組みを ツイスターと呼ぶのである。そこで、スピノールの 説明をしないとツイスターを理解することができない ことになる。・・・ ・・・  さて、スピノールは、一言でいうと、「光の平方根 のようなもの」である。もともとは、電子の回転( スピン)状態を表していて、右巻きと左巻きがある。 通常の物体は3次元空間内で360度回転すると元の 状態に戻る。・・・  ところが、スピノールは、1回転しても元の状態に 戻らないで、2回転してはじめて元に戻る奇妙な存在 なのだ。これは、要するに、まわりの環境とからみ あっていることを示している。」(http://www.adamski.jp/wwwboard/room04/199903-200101/messages/591.html):

  1. 時間は虚の空間軸かもしれない。
  2. 虚変換の対がツイスター変換か。「ツイスター変換(20)が、相対論的な時空において、光の軌跡という非局所的な実体を点に変換するように、・・」(http://www.qualia-manifesto.com/essays/nonlocality.html
  3. 複素射影空間の幾何学ということね。だけど、射影幾何は「問題を単純化する」仕組みだと捉えられている。

「実は、日本人の多くは、死の苦痛に対する恐怖は持っているが、死後の自分の不存在に対する恐怖を持っていない。大学時代の友人が実施したアンケート調査の結果、そのような結論になったということを聞いたとき、私はとても意外な感じがした。」(http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html):

  1. それどころか、日本人は、「死なないこと」の方に恐怖を感じているのではないか?
  2. 極楽浄土の死亡願望かな?
  3. 「ハレルヤ・コーラスで第一部が終わり、その後に来る第二部のクライマックスに、次のような歌詞がある。 トランペットが鳴るだろう。そして、私たちは、すっかり変わってしまう。私たちは、もう死ななくなるだろう。」
  4. 「死」と「苦しみ」とは別のモノであり・・。ということではないのかな?

「超越的なものは、私たちの日常にあふれている。 雨上がりの野原に出てみると、さまざまな生き生きとした質感が感じられる。・・私たちの感覚は、このような質感からできている。私たちは、このような質感を通して世界をとらえているのだから、私たちにとっては、世界がこのような質感からできていると言っても良い。 このような質感を、哲学者は「クオリア」と呼んできた。 クオリアこそが、現代において超越的なものを表す、私はそう考えている。」(http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html

  1. ??。ロゴスの世界の中には入り込めないモノ、が超越的なモノ? 科学的な検証が、未だなされていないモノが超越的なモノ
  2. 「どう考えても、従来の自然法則でクオリアを説明することは絶望的に不可能なように思われるのだ。ということは、現時点で私たちが知っている自然法則にとって、クオリアは、超越的なものであるということになるのだ。」:そういう意味らしいね。
  3. 多分、xx氏は、日常的な感覚の世界を信じずに、科学的なロゴスの世界を信じている、かれは、日常的な感覚の世界には住んでいず、科学的なロゴスの世界に住んでいる。まあ、現代人は、そんなものだ。
  4. 「重要なことは、現時点である現象が超越的に思えたとしても、それが永遠に科学的理解の範疇に入らないということを意味するわけではないということだ。 私は、クオリアは将来必ず科学により解明できると信じている。 大切なことは、現時点では超越的に見える現象の存在を否定しないことだ。」:xx氏がクオリアを問題にするのは、クオリアのほうが《我》よりもはるかに、非超越的だからだろう。

「突然、私は、次のような疑問におそわれた。 なぜ、私は、今目の前にいて、私に話しかけているこの男が、私の友人のTだとわかるのか? そして、次の瞬間、 ここには、自然の暗号技術がある! と思ったのである。」(http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html):

  1. これは面白い。
  2. コトバとしての固有名、ID名と、感覚的に《他者》をその《他者》であると認識するもの。彼のイデア? 彼の個有イデア。彼のアニマ。彼に内在するイデア
  3. 《他者》を、その《他者》であるのに、別人であると思う感覚。
  4. 《他者》がその《他者》であることを不断に検証する過程。

検証というのは、その現象を出現させようとして手順を踏めばその現象を出現させることができる、という意味か。

  1. たけ(tk)にとっては、《我》なんてのは、検証可能なんだけどなぁ・・。というか、《混濁》からの手順を踏めば、《我》の現象を出現させることができる。
  2. 歴史的なモノは、その現象を出現させようとして手順を踏んでも、もう一度その現象を出現させることはできない。
  3. そういえば、爆発なんてのも、正確な再現は不可能だな。複雑系の現象は、確率的にしか(?)、再現させることができない。刑事事件も再現させることはできない、近似的にしか再現できない、というか、犯人の意図、認識から生じる現象であるから、再現は不可能である。

「もの言わぬものへのへの思い」(http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html):

  1. ここが渡嘉敷島だ。

科学的な立場では、私たち人間は、生あるうちにだけ存在しうる。したがって、私たちが、死という、自分自身の存在の消滅という現象を理解できないことは、当然であると言える。」(http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html):

  1. これは、たけ(tk)的には、理解不能だ。
  2. 科学的な立場では、客観的世界が先にあり、ヒトはその客として客観世界の中に生まれ、生き、死ぬ。ヒトが死んでも、客観世界そのものは変らない。客観世界の中のモノの一つが消えただけだ。
  3. ヒトが死ぬと世界が消えるというのは、主観者の立場だ。の、はずだ。なぜ、ここで、「科学的な立場」というコトバが出てくるのか?
  4. 科学は、主観的世界認識の最大公約数である。
  5. 科学は他者の《我》による検証を前提としている。
    1. 科学は他者の《我》の存在を検証不可能なモノとみなして、科学の対象とはしない。
    2. 科学は、検証不可能なモノを原理とする、信仰である。

科学世界に、心による脳のコントロールというあからさまな二元論を持ち込んだことは、ある意味ではエックルスの生きてきた科学者のコミュニティのルールを破ることを意味した。」(http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html):

  1. これが、難しいところだね。
  2. 物質一元論のルール、というワケ。心は存在しないというルールのわけ。
  3. でも、ちょっと、違うような気がするんだよね。
  4. 「覚醒夢を見るためのトレーニングのプロセスは、目が覚めている時の、通常の意識の状態で認識しているものに対応する客観的な実在が、自分の外に存在するという私たちの確固とした思いこみを、揺るがし、怪しいものにする点にポイントがある。また、逆に夢のように、純粋に脳の中だけで起こる心的現象が、単なる幻覚に過ぎないというこれまた確固とした思いこみを、揺るがし、怪しいものにすることにポイントがある。本来、外界の存在に対応する認識と、単なる脳内の幻覚とを区別することは原理的にはできない。両者は、「脳の中のニューロンの発火」という意味で、同じ性質のものなのだ。ただ、覚醒しているときの、「正常な」意識の下で、私たちは外界の事物の認識と幻覚とを区別する。フィシャマンズ・ワーフと、体外離脱体験とを区別するのだ。覚醒夢を見るためのトレーニングは、このような区別の境界を取り払う方向に機能する。」:覚醒夢状態なのか、たけ(tk)は・・。
  5. 「心が脳を」といったときの「心」を現象世界の中の観測可能なモノと考えるのか、現象世界の外部にある観測不可能なモノと考えるのかがポイントだろう。二元論禁止のルールは、現象世界の外にある観測不可能なモノ原因として持ち込むことを禁止するルールであったはずだ。

「ブロードの説は、  脳の中のニューロンが発火しなければ、認識は生じない とする、認識のニューロン原理の枠内には収まらない。」

  1. というのは、そうでもなくて、身体的な知覚においては、意識されていなくても、脳波が反応している、という実験結果があったはず。
  2. 「宇宙のすべて」を感じることは、物理的に不可能、ということが気になるらしい。しかし、モノモノとの関係を有していて、モノから発する情報は、そのモノが他のモノから受けた情報に基づいている。とするなら、近傍物理空間のモノたちからの情報は、全宇宙のモノたちからの情報でもあるのだ。たぶん、因果の地平を超えることは出来ない、とは思うが、コントロールセンターのヒト情報の1分後の今の宇宙船の状況を今と感じるなら、因果の地平も超えた情報が伝わっているのかもしれない。
  3. 「まるで、ブロードは、人間の認識ではなく、神の認識について語っているようだ。」神による認識というのはもう一つの《我》による認識ではないのか? 共振しつつある身体による認識を神による認識に譬えているのではないか? 
  4. 足し算引き算の問題ではない、組み立ての問題だ。情報を取捨選択して組み立てていったモノ世界なのだ。
  5. 「私」を実在的に考えすぎている。「私」は再構成された世界の中心点なのである。世界を再構成する核になる場所なのである。それが身体の中にある必要はない。通常は、身体の中にあった方が、動作との関係で便利だし、情報収集も身体で行うので、身体を中心にするのが情報量も多い。しかし、通常の感覚でも、《我》は身体のどこにあると思う? いろいろだ、《我》という世界の中心はいろいろ移動する。《思いこみ》世界に入れば、身体の外に出てしまうのは普通だろう。銀河系について考えているときには、《我》は銀河系の外にあるのではないか? 地動説を考えている《我》地球の外にあるのではないか? 数学を考えている《我》は、そもそも現実世界の中にはないのではないか?

「今世紀の前半にイギリスのケンブリッジで活躍していた哲学者、D・C・ブロードは、「認識のニューロン原理」をひょっとしたら超えるかもしれない考え方への道筋を示しているように思われる。 D・C・ブロードは、基本的には古典的な哲学の素養を背景にしながら、超常現象や、超心理学といった分野にも興味を持ちつづけた、ある意味では異色の哲学者だ。有名なハックスレー家の出身で、作家のアルダス=ハックスレーの『知覚の扉』に引用された文章の中で、ブロードは次のように記している。ベルクソンの示唆は、脳や神経系それに感覚器官の機能は主として除去作用的であって生産作用的ではないということである。人間は誰でもまたどの瞬間においても自分の身に生じたことをすべて記憶することができるし、宇宙のすべてのところで生ずることすべてを知覚することができる。脳及び神経系の機能は、ほとんどが無益で無関係なこの巨大な量の知識のためにわれわれが圧し潰され混乱を生まないように守ることであり、放っておくとわれわれが時々刻々に知覚したり記憶したりしてしまうものの大部分を閉め出し、僅かな量の、日常的に有効そうなものだけを特別に選び取って残しておくのである。」(http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html):

  1. うんむーー。これ、昨日か一昨日書いたみたい。誓って言うけど、ベルクソンの示唆、なんて、知らないよ。発想、を学んでしまえば、自然に同じ発見をするようになる、のかもしれない。
  2. これって、たけ(tk)の発見は、ブロードの発見の追体験であり、追試である。検証である。ということにはならないのか?

「自然科学の仮説としての必要条件である「反証可能性」(ある仮説が間違っている場合、そのことを検証する手段が与えられていること)を満たしていないもの」(http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html):

  1. これが難しいんだよね。
  2. でも結局は、「常識」的な線で、「検証された」ということにしてしまうだけなんだよね。
  3. あほが頑張って、進化論なんて検証できない、と主張すれば、彼にとっては、検証できない理論になってしまうのだ。なぜ、どうすれば、不道徳な科学主義者の検証を信じることが出来るのか?

「トンネルやその向こうの光を見たり、神のような存在に出会ったり、死んだ人と話したり、あるいはきれいなお花畑の中を歩いたりといった体験は、物理的にある場所に行けば追体験できるというものではない。」(http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html):

  1. うーむ、どうなんだろう、少なくともイメージ的には追体験できる。
  2. 逆に、登山家が「エベレストから見る夕日が素晴らしかった」と言われても、イメージ的な追体験が出来るわけではない。実際に追体験する可能性もないだろう。
  3. 何故に、自分が実際には追体験できそうも無いことを、追体験可能であると信じ、イメージ的には追体験できることを、追体験できないを信じるのだろうか?
  4. 尊敬する人々が口々に「神はいるのだ」と語れば、実際には体験できなくても、追体験可能であると信じるのだろう。
  5. 結局、ヒトは、都合の良いウソを信じたがる動物なのだ。
  6. 世界は、人と人の間の強大な共同体験マシーンだ。臨死体験をはじめとする意識の変性状態には、このような共同体験マシーンがない。」ということは、《群有思いこみ》しか信じない、《個有思いこみ》は信じない。ということだな。おそらく、普通のヒトは、《群有思いこみ》としての《我》しか持たない人は、《群有思いこみ》としてのコトバ(体験報告)しか信じない。臨死体験が《群有思いこみ》ではない、というのは確かだだろう。しかし、cogito, ergo sum は《群有思いこみ》でありうるのか? 逆に、本屋マスコミで人々が誰でも知るに至った臨死体験は《群有思いこみ》でありえないのか? 公知の臨死体験は《群有思いこみ》だろう。共同体験マシーンに認知された臨死体験と、cogito, ergo sumとはどう違うのか?
  7. 体外離脱体験は身体からの情報の再構成の問題だろう。通常は身体を中心にして空間を再構成して認識する。しかし、身体的な動きの可能性がない状態では、中心となるべき動きつつある身体が見つけることができずに、異なった場所からの空間再構成になる。

「私は、いわゆる「臨死体験」について考える時には、必ずしも「死」を重要な要素として考えるべきではないと思う。むしろ、精神的にも身体的にも極限の状態に置かれた私たちの心が、日常生活の中の通常の心の状態とは異なる状態になるということの方が本質的である。すなわち、「臨死体験」は、より一般的な「意識の変性状態」(オルタード・ステイツ)としてとらえるべきなのだ。」(http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html):

  1. これは、その通り。

『「全てを知っている」という感覚は、本当に全てを知ったのではなく、新しいものに向き合おうという脳の機能が失われた結果に過ぎない危険性があるように思われる。』(http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html):

  1. ははは、いいじゃないんでしょうか? そんなものですよ。 気分的にはね。
  2. 「天の下に新しきもの無し」というユダヤの格言は、その通りでしょう。《我》が分かれば、新奇なモノは何もなくなる。
  3. 新奇なモノは無くても、知らないことはたくさんあるのだ。理解不可能な新奇なモノは何も無いが、理解可能な知らないことはたくさんある。
  4. ヒトを説得する、というのは、この《我》にとっては、まだ、新奇なモノかも。
  5. 過去のヒト《我》世界を捜せば、たいていのことは、新奇ではない。
  6. 二重スリットは・・。新奇であった。不可解であった。
  7. ネオフィリア、ネオフィリズム:新奇なモノを知ることが善である、人間にとって不可欠なモノである、人間の本質である、とする考え方。
  8. 新奇であるという質感。はどこから生まれるのか?
  9. ネオフィリズムは闇を残しておきたいという《思いこみ》に繋がるのではないか?

私に《我》を認めるならば、すべてのモノ《我》を認めるアニミズムに行き着かざるをえない。

「現代物理学では、宇宙の中の様々な物体の時間による変化の歴史は、最初から4次元の時空間の中にパターンとして存在することになっている。このような立場から言えば、「今」に何の特別な意味もない。」(http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html):

  1. これは《我》を捨象した科学での話だな。
  2. 《我》は今ここにしかない。全てのヒトの全てのときの《我》はそのときその場所の今ここにしかない。すべてのモノのすべてのときの《我》もまた、そのときその場所の今ここにある。それが「主体」というコトバの意味だ。

「一つの素粒子には、歴史がない。」(http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html):

  1. とは思わない。素粒子にもアニマがあり、関係があり、歴史がある。
  2. 素粒子が私の身体の一部となるとき、素粒子は私と関係を持つのである。素粒子が私の身体から離れるとき、彼はべつのものと関係を持つのである。
  3. モノを「主体足りえないモノ」として記述するか「主体であるモノ」と記述するかは、変換規則によって変換可能な、同値の記述なのである。

「確かなことは、線香を上げる私の心のかなりの部分は、祖母や祖父に対してではなく、私が線香を上げるのに気が付くかもしれない母や父に対して向けられているということだ。」(http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html):

  1. これは実にその通りだ。
  2. ミラー・ニューロン(http://www.qualia-manifesto.com/essays/nonlocality.html)なのだ。

「哲学者が、時には発狂の危険まで犯して(!?)獲得して来た「知」の最先端が、何年か経って、一般の人が「そんなの当り前でしょう」と欠伸をしながら言うような一般常識に変貌するのである。」(http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html):

  1. これは逆かも。一般人の意識が変わるのが先で、哲学者がそれに気づいて必死になって理論化しようとした、というだけかも。
  2. 日本人の小集団主義+アニミズムも、一般人の意識が先にあって、思想は、まだ、まともな形では出来ていない。

この意識での体験と科学的記述との関係は?

  1. 対応関係さえ見られれば、「この意識での体験」が科学的に記述されたとして安心することができるのか?

「意識が因果性に何も付け加えないとすれば、そもそも意識はなぜ存在するのか?」(http://www.qualia-manifesto.com/essays/nonlocality.html):

  1. 意識というのは本質的に自己認識なのではないか? 世界認識の世界の一部として自己の意識を認識している。世界には自己の意識という現象が現れてくる。それを認識している。
  2. この「意識」という現象への認識が進化の過程のどの段階で生まれたのか?
  3. 世界を空間定位の中で再構成する段階。その段階で「自己」を認識しないなら、世界のその部分に穴があいてしまう。その穴の部分に相当するのが「自己」ということになるだろう。
  4. 世界の一部としての自己の身体を、世界の一部分として認識するとき、それを認識しつつあるモノを空間定位の中で認識しないと、その部分が穴になる。その穴にあたる部分を「意識」として認識するようになる。??

「もはや、意識が、脳のある特定の部位に宿るなどと考える人はいない。」(http://www.qualia-manifesto.com/essays/nonlocality.html):

  1. そうか、単純な還元主義だと「意識」が「脳のある特定の部位」に1対1で対応しているはずだ、ということになるのか?

世界認識モジュール→空間再構成・空間定位モジュール。

「ニューロンからニューロンへシナプスを通して情報が伝わる際に経過する物理的時間は、心理的時間の中では一瞬に潰れてしまっていると考えられる(相互作用同時性の原理)」(http://www.qualia-manifesto.com/essays/nonlocality.html):

  1. 宇宙船と交信するコントロールセンターのヒトは、宇宙船からの通信が1分前でデータであることを知っているので、その発信時刻の1分後の宇宙船の状況を、現在の宇宙船の状況であると認識している。ヒトは未来を現在として認識しているのではないか?

モノ情報との関係は?

  1. モノには無限の属性が含まれている。モノに対する視点は無限であるので、視点ごとに属性を見いだすことができ、視点が異なれば同一のコトバで表現された属性が指し示すモノの属性の内容も異なる。(アリストテレスのコトバモノという指摘は視点が同一である場合に限られる。単眼的論理学である)
  2. 或るモノを全体として特定するためには、ID名、個有名で指し示す他ない。
  3. ところが、ID名や個有名が、本当にそのモノを指し示している、ということを保障することはできない。(なりすまし)。
  4. ID名、個有名とモノとの関係は、モノモノとの関係、すなわち、コトバによって指し示しつつあるモノと指し示されたモノとの関係、というモノ世界での関係である。
  5. 認識する、世界認識というのは、モノに対応する情報《思いこみ》)を《知りつつあるモノ》の内部に作成することである。
  6. 自己認識とは、世界認識として保持された情報群のなかに、「自己」に関する情報を保持することである。
  7. 生き物は「捨象的認識を行う」。重要でない情報を認識しない、という方法で重要な情報を探知的・集中的・拡大的に認識する。
  8. 自己認識において、「自己」情報が《自己》であるなら、情報としての「自己」は世界認識をしつつあるモノ情報である。そのモノが認識している世界も、情報として取り込まれなければならない。そのモノ世界を認識する仕組みも、情報として取り込まれなければならない。これは、無限ループであり、有限な資源しかない《知りつつあるモノ》の処理能力を超える処理である。
  9. 世界認識モジュール、動作選択モジュール、動作モジュール。

2005-06-22(水)

自己意識の種族維持的価値はなにか?

  1. 3歳位までは、母親の配慮に乗っているだけで、意識は、母親の配慮を中心に回っているのではないか?
  2. 自己意識に種族維持的価値はあるか?
  3. コンピュータの生物シミュレーションに自己意識を組み込むにはどうすればよいか?
  4. 自己認識プログラム、フィードバックプログラム、世界認識プログラム、世界認識プログラムの中に自己を世界の一部として認識するプログラムを組み込む。
  5. 世界認識→世界への動きにおいては、自己を世界の一部として認識することは、必要が無い。
  6. クオリアは、世界認識→動作選択→世界動作の段階で生じる。世界認識は世界動作のためにある。ヒトにとって重要な世界要素にはクオリアを感じ、不要な要素に対してはクオリアを感じない。赤外線や紫外線、超音波や超低周波にはヒトクオリアを感じない。重要な要素に大きな関心を向けるときにその要素が大きく感じる、というのがクオリアだろう。
  7. 世界認識⇔関心選択・動作選択⇔世界動作。この《関心選択・動作選択》の機能が《我》なのか?世界認識→動作選択→関心選択→(選択された)世界認識。受動的認識と探知的認識。モノによる認識は受動的認識(重力等を感じること)、生き物の認識は探知的認識、その生き物にとって重要な情報を選択して認識し、重要な情報を拡大・探知する認識。
  8. 動作の結果の認識=世界認識→次の動作。
  9. 動作の結果の認識=成功・失敗の判断→記憶→次の選択の判断。ループ的だが、自己認識は必要が無い。
  10. 類的他者の認識→動作→他者による認識→動作→私による認識→・・のループ。間接的な自己認識。だが、自己認識ではない。
  11. 対他ループにおける間接的な自己認識。幼児の自己認識は、母親の視点から見た自己なのではないか? オトナでも、他人から見た自己として認識しているのではないか? 自己不可知論じゃが平然と自己について語るのは、対他ループにおける間接的自己認識における自己は語りうるが、対自ループにおける直接的自己認識は不可能である、という趣旨ではないか?
  12. 対他ループにおける間接的自己認識の種族維持的価値は、類的他者の行動を予測することである。群れの中で生き残る可能性を増やすことは種族維持的価値がある。
  13. 自我イメージとは対他関係において「成功した」と評価された行動様式の統合体である。

クオリアを論ずるなら茂木さんは外せないな。 http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi.html

クオリアのMLなんてのがあるのね。

  1. 「シニフィアン(記号表現)/シニフィエ(記号内容)におけるシニフィエはクオリアなのでしょうか?」(http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageForm/qualia@freeml.com/415/
  2. クオリアというのは感覚に対する再評価なのではないか?「関心」という評価が感覚に再投入されて、関心が無いときよりも「実感」として感じる。
  3. 「「私は存在しない!」と、『自分で』思うことはできるでしょうか?」(http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageForm/qualia@freeml.com/460/):思うことは勝手でしょ。「私」のイメージにマッチするような《私》というモノは存在しない、と思うことはありがちなこと。「《思いつつあるモノ》は存在しない」と思うことには論理的な矛盾がある。「もし、「私」⊂「自分」だったら、「思う」ことができる「自分」は存在し、「私」が存在しないというケースが考えられます。」ということだね。
  4. 「実際にPCの前にいる私は、ネット上で「考えている」私の一部?であり、本来の思考と「私」は、いまこのメールを書いている私とその思考とは異なる、という感覚があります。」(http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageForm/qualia@freeml.com/463/):いい感覚だね。「ところが「ネット思考」と「生活思考]に関しては、実際の僕自身はなんかニューロンのような位置にいる気がします。」:群れの思考の一部分。
  5. クオリア」というコトバ。誰でも実感できる、いまここの《私》の現象世界。入り口にはもってこいのコトバだ。
  6. コピー人間の話「2.あなたは遠く離れたある星に漂流してしまいました。宇宙船も通信装置も故障していて地球に帰る術はありません。岩と砂しかない最悪の環境ですが持ってきた生命維持装置と水・食料だけはありあまってます。この宇宙船もコピー人間の装置とそれを地球に送る装置(いかに改造しても通信装置にはならない)を積んでいて、これは故障していません。さて、あなたはコピーを地球に送りますか?」(http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageForm/qualia@freeml.com/485/):アメーバってのはこれの繰り返しだよな。コピー元の《私》が苦しむのは変わらないから、意味がないじゃん。
  7. 時間は何らかのダイナミックスと密接に関わらなければ時間たる本質はない」(http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageForm/qualia@freeml.com/487/):「永遠の今」に時間は流れない。のか?神話の時間。忘却への恐怖の有無。
  8. 「Dennetのようにクオリアは幻想だ、ないと言っている人達は、おそらく判っていないのだと思います。私も、電車の音ががたんごとんと来るまでは、純粋な物理主義者だったわけです。Dennetは、電車の音事件の前の私の状態なんだろうと、想像するわけです。」(http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageForm/qualia@freeml.com/503/):気づくこと・・。
  9. 茂木@qualia ml管理者です。突然ですが(笑)、このmlは英語でも投稿OKということにします。それで、将来、英語の投稿だけを集めて、http://www.qualia-manifesto.comの英語ページのところに貼ろうと思います。(http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageForm/qualia@freeml.com/521/
  10. 「私が話したクオリア志向性に基づく心のモデルについては、「クオリア一元論」のピュアな過激さがなくなったと、批判が出ました。Chalmersも、志向性クオリアの一種だと言っていましたが、志向性という別カテゴリーをたてることについて、抵抗感を感じる人が多い様です。私としては、クオリア一元論ではどうしても主観性の難しい問題を解くことができないような気がしていて、志向性(あるいは、directednessとでもいうか?)は、ぜひとも必要な概念であるような気がするのですが。」(http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageForm/qualia@freeml.com/532/
  11. 「認知科学へのシフトは最近の私のテーマでもあるのですが、やはり院生からの厳しい指摘にもあったように、高次ぁの概念を導入してしまうと、そのモデル化で非常に苦しむことになる。意味やメタ性をどうやって入れるか?」(http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageForm/qualia@freeml.com/532/
  12. 「「クオリア」で何を語りたいか、どの辺を経験と科学理論のシステムとの接点として確保しておくか」(http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageForm/qualia@freeml.com/533/
  13. クオリアのダイナミックな結びつけが可能となるように、一撃だけではなく、継続的なダイナミズムを扱いうるクオリアモデル>を形成することが大事なのではないかと私は思います。」(http://www.freeml.com/ctrl/html/MessageForm/qualia@freeml.com/538/
  14. ふいー。読み切らぬ。まだ 1999/06/14 18:44。

p.129:「一般に、このような説を唱える人々は、ものの実体を、すなわち もののなにであるか(本質)を、ないことにしてしまう」:

  1. ものの実体はモノであろう。「ものの何であるか」はその述語が指し示す《思いこみ》であろう。
  2. モノを1対1で指し示すコトバID名、個有名だけであろう。
  3. 「このモノヒトである」というのは、「このモノ」というコトバが指し示しているモノが、「ヒト」というコトバイデアに属する属性を有している、ということを意味しているだろう。
  4. 「このモノ」というコトバが指し示しているモノが有している属性は無数にある。
  5. モノ(実体)とイデア《思いこみ》)を混同している。

どうやら「《我》科学的な方法では観測不可能である」というのが皆さんの確固たる信念のようだ。

  1. 《我》科学的に観測する方法はあるか?
  2. 現象学的方法で私の《我》を観察する方法。(実験現象学
  3. カウンセリングなどで他者の《我》を観察する方法。(ロジャース)
  4. モデル化してから私や他者の《我》で検証する方法。(認知心理学)
  5. 心理学の心理的現象の記述を反転する方法。

観測不可能であると信じている人を説得することはできるか?

  1. 「大地は天文学的に観測することが不可能である」と信じている人に「大地が太陽のまわりを回っていることを示す具体例を示して下さい」と言われている気分。
  2. 大地と他の天体との関係について説明すると、聞き手のほうは「大地は天文学的な概念ではないから」とすぱっと大地の部分を除外してしまい、「わけが分からぬ。ちゃんとした具体例を示せ」と迫ってくる。

どうやら「《我》は観測不可能である」というのが皆さんの確固たる信念のようだ。

  1. そうではなくて、たぶん、「《我》を観測したくない」「《我》を観測してはいけない」「《我》を観測するのはタブーである」ということだろうな。
  2. 「ソクラテスは、ある時、アテネのデルフォウスの神殿で、そこに刻まれていた「汝自身を知れ」という文字を読み、「自らを知ること」をもってその活動を展開していった、と言われています。」(http://homepage.mac.com/berdyaev/mm/prmnd/utyu/prmnd10.html)汝自身を科学的に観測せよ。
  3. 存在するモノが観測不可能なはずがない。観測不可能なモノを皆さんが知っているはずがない。と思うのだが・・。

実益?

  1. 《我》というモノを知りたい、というのが実益。
  2. ロジャーズの人格理論というのは、カウンセリングで役に立っているみたいです。
  3. 《我》を捨象した人間についての科学に意味があるのか?

2005-06-21(火)

《我》の存在を認める科学に希望はあるか?

  1. 「ロジャーズの人格理論は、まず個人は1人1人独自な現象的世界(phenomenal field)の中に生きていること、 個人の現象的世界の一部が自己概念として分化し、体制化される、という設定から始まる(1951年)。」(『心理学の基礎知識』有斐閣ブックス625、9−2)
  2. 『差異について』青土社、ドゥルーズ、平井啓之訳の付録の『ベルグソン』・・しかし、「若干の条件の中では、科学と哲学とは結びつくことができ」(p.174)るとのべ、「科学が哲学に浸透されないかぎり取り逃がす危険があるのは、物自体であるよりも物の差異である」(p.176)という言い方で「科学が哲学に浸透される」ことを主張しています。
  3. カッツの「実験現象学」というのはどうですか? 「この立場は特殊な分析的態度を採らず、ナイーブな自然の態度のもとに、現象世界をありのままにとらえ、その特性を記述分類し、特性間の相互関係を求め、現象を成立させている本質的条件を実験的に明らかにしようとする」(『心理学の基礎知識』1-8)ものだそうです。
  4. デカルトは「私は有る、私は存在する、これは確實だ。しかしいかなる間か。もちろん、私が思惟する間である。」と言っている(http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/library/descartes/med002.html)。とすれば、デカルトの《我》とは《思惟しつつあるモノ》言うべきモノではないか? これをブラックボックスとして考察することは可能なのではないか? 
  5. しかし、《我》に関する科学的な記述があっても、読み手が理解できないのだ。『我』のイメージでしか理解できないのだ。・・んなことはなかんべぇ。
  6. 観測者問題。・・は、多分、関係が無い。

何故に科学《我》の問題から逃げ回るのか?

  1. 数学が自己言及から逃げ回るのと同じ理由である。アポリアなのである。
  2. ロゴス主義を取るかぎり解決できないアポリアなのである。
  3. 自己言及は、いったん《モノの世界》に放りだされた後にでしか自己に言及できないのである。《モノの世界》を認めない限り、自己言及を把握できないのである。《モノの世界》を否定するかぎり、ロゴス主義を取るかぎり、自己言及を把握することができないのである。
  4. ブラックボックスで捉えることができるか? それしかないだろう。不可知なモノを不可知なままで存在として認めること、だ。
  5. 心理学の成果を、《我》の記述として、反転すればよい。心理的現象に関する記述は、反転すれば《我》に関する記述になる。
  6. ヒトには、《我》について客観的に考察することを避ける性質がある。一度でも「《我》とはなにか」と考えたことのあるヒトは、困惑して、もう二度と近寄るまい、と思ったはずだ。
  7. ヒトは、なに故に、「《我》とはなにか」と考えると困惑するのか? 《考察しつつある我》と《考察されつつある我》の差異と同一性の矛盾が爆発するからである。 原理的に不可考察的なモノへの考察という不可能を為そうとすることへのストレスが爆発するのである。 ヒトにとって、不可能を為そうとすることは不快だからである。
  8. 《我》はブラックボックスである、が、止めたほうがよい。目眩がするだろう。傍観者的にインプットとアウトプットを眺めるだけにしたほうがよい。
  9. 《我》は現象世界の《認識限界》の球面の特異な一点である。意識を《認識限界》の球面に移して、その中で《我》を考えるのがよい。最初は特異点だが、そのうちに単なる一点であることが分かるだろう。そして、《認識限界》の球面自体に関心が行くようになる。というか、《我》は《認識限界》の球面に吸収されて、拡散してしまう。

《我》にとって「すべてを包含するモノ」(全体システム)には『次のものがある。

  1. 《混濁》
  2. 《宇宙史》・・モノ世界の全て
  3. 《思いこみの世界》
  4. 《体内感覚世界》

2005-06-19(日)

一般のヒト科学というと物理学還元主義を思い起こすらしい。

  1. 考えてみると、高校までの学習では、心理学とか社会学といった非物理的な科学は、一般のヒトは、学ばないんだね。

《我》が見えない人もいるのだ。普通は、見えないのだろう。《我》は現象世界の中には無い? なぜ見えないのか? ってのは、なぜヒトブッダではないのか? という疑問と同じだったりして。。

飲茶さんは不可知論に安住しているように見える。

ロゴスは説明方法なのか?『形而上学・上』p.31。(形相因?実体因?)「我々が或る物事を知っていると言いうるのは、我々がその物事の第一の原因を認識していると信じるときのことだからであるが、原因というのにも4通りの意味がある。すなわち・・(1)事物の実体(ウーシア)であり 何であるか[本質]である。けだし、そのものが 何の故にそうであるか は結局それの[なにであるかを言い表す]説明方法(ロゴス)に帰せられ、そして その なにゆえに と問い求められている当の なに は究極においてはそれの原因であり 原理であるからである」

    1. 「これはAAである」のAA? 「AAである」という説明方法?
    2. 「AAはBBである」の「BB」? 
    3. 「AAはBBである」という説明方法?
    4. 「AA」というコトバに対応する意味内容?
  1. 「認識していると信じるとき」・・ふーーーーっ。びみょーっ。
  2. 「知っていると言いうる」・・うーーんーーっ。びみょーっ!。
  3. 「知っていると《他者》に対して言いうるとき」。「私はxxを知っている」と言いうるとき、とは何か? 私が「xxはyyだよ」と説明できるときに、知っていることを示すことができる。「yyだよ」という説明の全体を統合して出来上がるイメージを持っているときに、知っていると言いうる。『「yyだよ」という説明の全体を統合して出来上がるイメージ』が実体であり、説明方法である。『「yyだよ」という説明の全体が指し示すモノ』が実体であり、説明方法である。
  4. 説明方法が原因のわけがない。説明で指し示されるモノ原因だ。モノ自体が原因だ。モノの存在自体が原因だ。モノの存在がなければそのモノ動きもあり得ない。
  5. しかし、モノの存在自体は「(2)質料であり、基礎体である」に近いな。
  6. 私が知りえたそのモノの属性の総体が本質という属性なのか? 本質というのは「xxでなければ、そのモノはそれでありえない、というような属性」か?
  7. 「問い求められている当の なに」
  8. システムの外部関係と言いたい所なのだがな・・。
  9. 想定しているモノが問題だろう。
  10. 実体(ウーシア)というのは「存在」であり「モノ」だな。「モノそのもの」。
  1. モノ→感覚→《知りつつあるモノ》 のクオリア
  2. 表象→感覚→《知りつつあるモノ》 のクオリアとがある。
  3. 表象クオリアを伴わないことが多いが、希にクオリアを伴うことがある。
  4. 記憶表象《知りつつあるモノ》か?
  5. 記憶表象→感覚→《知りつつあるモノ》か?
  6. 表象も常にクオリアを伴うか? 普遍的なイデア、たとえば「3」という数字に伴って生じるイデアを知りつつあるときに、《知りつつあるモノ》クオリアが生じるか? 『普遍的なるモノ』の質感が生じる。
  7. 表象クオリア体内感覚か?
  8. 表象クオリアを感じるモノは感覚か、体内感覚か、それ以外か?

相撲原理主義:

  1. 国体原理主義だな、右翼は。

2005-06-18(土)

  1. デジタル用語辞典:パースペクティブ:perspective:perspective:遠近感のこと。実際に眼で見た感じに近付けるため視点からの距離に比例して、近くの形状を大きく遠くの形状を小さく表示する技法。3Dグラフィックでは3次元透視投影という手法でパースペクティブを表現している。」(http://www.nifty.com/webapp/digitalword/word/065/06557.htm
  2. 「パースペクティブとは遠近法のことですが、ここではもっと広い意味で3次元的な思考の形態を指す言葉として考えて下さい。言わば、事象と事象がどのようにつながり、どのような位置関係にあるのかを時間的空間的に把握する能力のことです。」(http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7608/dantai/t1.html
  3. http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%E8%A6%8B%E9%80%9A%E3%81%97&je.x=26&je.y=13&kind=jn&mode=1)「みとおし 見通し:《見込み》a prospect; an outlook; 《洞察》an insight ((into)); 《予測》forecast.
    1. ・〜のきかない曲がり角 a blind corner.
    2. ・経済の〜が暗い The economic outlook is discouraging.
    3. ・おまえの考えはお〜だ I can see what you're thinking.」

目次の中の《混濁》は用語集に移すべきか?

  1. 目次のほうは「《混濁》の分離」とする。
  2. 《混濁》への見通し」とする。

五智とは:

  1. 五智:(p.55、日本神道のすべて、大日如来の五智、2005-04-08参照)
    1. 真理の本性を見通す。
    2. 万象を顕現させて見通す。現象をありのままのものとして見通す。
    3. 万象が平等であることを見通す。
    4. 万象に差別があることを見通す。
    5. 目的実現を見通す。なすべきことの成就を見通す。
  2. http://www5f.biglobe.ne.jp/~ohaka/ohakanorekishi_10.html 五智とは大日如来の智慧とされている。
    1. 法界体性智 =真理の本性を明らかにする智
    2. 大円鏡智  =鏡のように万象を顕現させる智
    3. 平等性智  =一切の事象が平等であると観える智
    4. 妙観察智  =一切事象に差別があることを正当に観察できる智
    5. 成所作智  =自己及び他人のために成すべきことを成功させる智
  3. http://www.shitennoji.or.jp/keidai/gochi.htm「 五智とは、
    1. 法界の自性を明確にする智、
    2. 鏡の如く法界の万象を顕現する智、
    3. 諸法の平等を具現する智、
    4. 諸法を正当に追求する智、
    5. 自他の作すべきことを成就せしめる智、の意味です。」
  4. http://www10.ocn.ne.jp/~mk123456/daintn.htm 五智とは金剛界五如来の智慧である。  
    1. 大日如来 ・法界体性智(ほっかいたしょうち)宇宙の真理を現す知慧  
    2. 阿しゅく如来・大円鏡智(だいえんきょうち) 森羅万象を鏡す知慧
    3. 宝生如来 ・平等性智(びょうどうしょうち) あらゆる機会平等の知慧
    4. 無量寿如来 ・妙観察智(みょうかんさつち)正しい観察の知慧
    5. 不空成就如来・成所作智(じょうしょさち) 必要な事を行う知恵  
  5. http://www.shitennoji.or.jp/oshirase/niwa4/niwa4.htm 五智とは、
    1. 法界体性智(ほうかいたいしょうち)<大日如来の最高知で、真理の世界の本性を明確にする智>
    2. 大円鏡智(だいえんきょうち)<鏡のようにすべてを映し出す智>
    3. 平等性智(びょうどうしょうち)<すべてが平等であるということを観ずる智>
    4. 妙観察智(みょうかんさつち)<すべての相を正しく観察する智>
    5. 成所作智(じょうしょさち)<人々のために成すべきことを成就させる智> の五つをさす。

デカルトの《我》科学することは可能か?

  1. 「ロジャーズの《自己概念》」と「デカルトの《我》」との融合が必要ではないか? というより、科学者たちが提起した自己概念を「デカルトの《我》」と融合することは可能か?

《私》《思いこみ》《他者のコトバ》で語ることが必要。

  1. 批判という方法である。スピノザはデカルトのコトバで自らの《思いこみ》を語り、ドゥルーズはスピノザやベルグソンのコトバで自らの《思いこみ》を語った。マルクスはヘーゲルのコトバやフォイエルバッハのコトバで自らの《思いこみ》を語った。
  2. では、たけ(tk)は誰のコトバで自らの《思いこみ》を語るのがよいのか?

右翼はなぜ戦争をしたがるのか?

  1. ケンカが好きなヒトはいる。ケンカでしか充足感を感じられないヒトはいる。
  2. ケンカや戦争は充足感をもたらすか? ヒトは勝利感を求める。 原始的なボス猿選定過程はケンカによって決まる。その名残だろう。サルはケンカに勝つことによってボス猿になる。

アメリカの政治はアメリカの利益のために行われているのか?

  1. イスラエル国の利益、金融資本の利益のために行われているのではないか?
  2. 政治学の基本概念は、「国家は国家の利益のために行動する」だろう。それが崩れてしまうと、政治法則が予見可能性を失う。ふむ。AA国の政治がBB集団の利益のために行われている、でよいわけか。まあ、そっちのほうが、現実に近いか・・。

民間軍事会社が世界政治を支配する

  1. http://www.asyura2.com/0505/war71/msg/334.html 戦争ビジネスで急成長する民間軍事会社(PMC)  【軍事問題研究会 蛭田勢二 】
  2. http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/623.html 武官と武士の違い。ウィキペディア。軍事下請企業家こそが武士の実像であった
  3. http://ja.wikipedia.org/wiki/%25E3%2583%259E%25E3%2583%25BC%25E3%2583%2595%25E3%2582%25A3%25E3%2583%25BC%25E3%2581%25AE%25E6%25B3%2595%25E5%2589%2587 「失敗する可能性のあるものは、失敗する」。「悪くなる可能性があるものは、必ず悪くなる」

目的論.vs.機械論→システム論

  1. http://www.glocom.ac.jp/project/chijo/2001_09/2001_09_02.html)私が昔から関心を持っているのは、ラッセル・アコフが1970年代に言い始めた「システム科学の方法」といわれるものです。それは、それまでの20世紀の自然科学、社会科学を含めた基本的な古典物理学がパラダイムになっているような科学の方法に対置して考えられた方法です。古典的な科学の三つの柱は、アコフによれば、「還元論」と「分析主義」と「機械論」であるということです。
  2. 「還元論」という考え方は、私たちが関心を持つ学問や研究の対象を、その要素に分け、要素をさらにもっと小さな要素に分けていくと、最後には究極の要素に到達する。そして、対象はそうした要素とそれらの間のさまざまな関係の集まりからできているとする考え方です。しかもそこで想定されている要素間の関係は、基本的にリニアな関係ですから、要素間の関係を一次結合して足しあげていったものが全体になると考えているのです。・・
  3. 「分析的方法」とは、ある問題を解決しようとする場合に、それをいくつかの構成要素に分けて、それぞれについて対処すべき方法を研究し、それぞれに対処していけば全体の問題も解決されるはずだとする考え方です。たとえば教育の改革をしようとすれば、初等・中等・高等教育等のそれぞれを改革するための委員会を作り、初等教育委員会については、国語、算数、理科、社会等々を扱う小委員会を作り、等々という形で仕事を進めていくのは、分析的方法の典型的なものです。
  4. アコフによれば、「機械論」というのは還元主義的な因果論です。ほとんど一つの(単線的な)因果関係でもって、ものごとは変化していくと考えるのです。アコフは、以上の三つの考え方で特徴づけられる科学の方法は、対象の種類によっては上手くいく場合もあるけれど、これからの時代の科学の方法論というには、どうも貧しいのではないかといっています。
  5. アコフは、新しいシステム科学の方法として、還元主義に対しては「拡張主義」、分析主義に対しては「構成主義」、機械論に対しては「目的論」を対置するという考え方を提唱しています。
  6. 「拡張主義」の考え方は、自分の考えている研究の対象は、実はもっと大きな全体の一部であって、そしてその大きな全体を見ると、さらに大きな全体の一部であるというようにずっと視野を広げていって、研究対象を、ある意味ではその中のいちばん小さな要素なんだと考えることによって、全体の中にそれを位置づけるというものです。20世紀に、記号論から言語学へ、さらにサイバネティクスからシステム論へと進んでいった新しい科学の流れは、より大きなもの、普遍的なものを追求するという流れでした。
  7. 「構成主義」は、そういったより大きな全体の中で、われわれが考えている対象は他のものとどういう関係を持って、どんなふうに全体を形づくっているか、全体の中でそれが置かれている位置だとか果たしている役割といったものに、関心を向けます。もちろん、分析とか還元をまったく否定してしまうわけではありませんが、システム論の中心はこちらのほうにあるのです。
  8. 目的論」でいちばん重要視されているのは、対象の観察者や研究者自身がある目的を持っていて、それに合わせて対象を切り出したり、その対象と他の事物との間の関係を探ろうとしていることです。それもすべてを徹底的に調べつくすというよりは、限られた時間や能力の範囲内で、自分の目的に即して、ここまで調べれば十分だろうとか、とてもこれ以上は無理だといったところで、調査を打ち切るということが重要です。
  9. * 「アコフの拡張主義」=自分の研究対象を全体システムの中の要素として考える。
  10. * 「アコフの構成主義」=全体システムの構成を考えて、自分の研究対象をそのなかに位置づける。
  11. * 「アコフの目的主義」:これはいまいちかも。研究者が目的を持っていて、その目的の視点で対象を切り出している、というのは事実であるが、それは認識の客観性の限界を示すもの。「知ること自体を目的とする」目的主義が必要だろう。しかし、問題とすべき「目的」とは、対象の側の目的ではないのか? 「システム(個人)を動かすもっとも基本的な欲求は、自己自身を維持し、強化し、自律を獲得していこうとする前進的な志向である、とする。」というロジャーズのシステム目的論。

クオリア

  1. 心理学が「自己」の心理を対象にしないのは何ゆえか?
  2. 自我(《知りつつあるモノ》)はサブシステムである。自律的な部分システムである。それ自体は自律を求める。自律を求めるが、背後のシステム(《背後者》、イド?、超自我?、外界)からのインプットで制御される。そして、他のモノを制御する。全体のシステムの中で他のモノに制御され、他のモノを制御する、自律的なサブシステムである。要するに、《知りつつあるモノ》モノである。

『ロジャーズの人格理論は、

  1. まず個人は1人1人独自な現象的世界(phenomenal field)の中に生きていること、
  2. 個人の現象的世界の一部が自己概念として分化し、体制化される、という設定から始まる(1951年)。
  3. この現象的世界が、個人にとっての唯一の実在であり、
  4. それに対して個人は常に一つの体制化された全体(an organized whole)として反応する。また、
  5. 個人を動かすもっとも基本的な欲求は、自己自身を維持し、強化し、自律を獲得していこうとする前進的な志向である、とする。
  6. このような基本的傾向を、個々に経験される現象的世界に即して実現していく過程が、具体的な行動に他ならない。したがって、
  7. 個人の行動を理解するためには、彼における現象的世界、とくにその意識可能な領域である内部的照合枠(internal frame of reference)を観点とすることがもっとも有利である。・・行動特性の理解と変容の鍵は、彼の自己概念にある

』(『心理学の基礎知識』9-2)

  1. ふむ。カウンセリングの背後にこういう思想があるということは、カウンセリングを知ったモノは、カウンセラーの影響を受けて、このように思うようになる、と言う可能性がある。(影響を排除しようとする必要はない、他者の影響を受けない心理など一つも無い)。
  2. まるっきり、《たけ(tk)の思いこみ》そのもの。ロジャーズの人格理論の主観的トレースが《たけ(tk)の思いこみ》だ、ということになる。
  3. ロジャーズの「自己概念」《知りつつあるモノ》とは、同じようでもあるし、微妙に違うようでもある。たけ(tk)の言い方では「《他者》の行動特性の理解と変容の鍵は、彼のなかに《知りつつあるモノ》がある、と《私》が知ることにある」となる。

体内感覚世界

  1. 世界」というには、あまりにも混沌とし過ぎて、まとまりが無さ過ぎるのではないか?
  2. 体内感覚世界」か《体内感覚世界》か?

2005-06-17(金)

『「『私』が本当に知りたいことは、一般的な 『私という概念』 についてではなく、  まさに 『この私という現象』 についてなのだ。」 飲茶』(http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/syuFrame.html):

  1. 《知りつつあるモノ》でしょ。
  2. 科学的に《知りつつあるモノ》を研究すべきなのだ。
  3. デカルトは《知りつつあるモノ》への研究を、なぜ棄ててしまったのか? なぜ、超越的なイデアに還元してしまったのか? キリスト教徒にとっては都合がよいからでしょ。イデアとしての神の実在を証明しなければならないから。キリスト教を信じるということはイデア実在論を信じることなのだ。

『東洋哲学における問題の解決の仕方は、問題そのものを解くのではなく、「それを問題視する精神構造を徹底的に理解して、それを問題だと思わないようにする」ということである。それはある意味では、完璧な解決方法だ。』(http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/syuFrame.html):

  1. これは、親鸞の方法だね。そんなに簡単ではない。

クオリア:『「物質を追いかけて、その動きの法則性を調べる」という現代科学的なやり方では、「我々の意識の上に起きている『この質感』」の起源を原理的に決して解明することができない』(http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kuoria.html):

  1. 《知りつつあるモノ》が《知りつつあるコト》の問題。
  2. むしろ、なぜ「現代科学的なやり方」で知ろうとするのか? 科学信仰の信者、ということだろう。
  3. 『「物質を追いかけて、その動きの法則性を調べる」という現代科学的なやり方では、「我々の意識の上に起きている『この質感』」の起源を原理的に決して解明することができない』というのは誤りである。科学の方法でも「質感を感じつつある我々の意識」を対象にして仮説を提起し、検証することが可能なはずである。
  4. とはいえ、確かに、他人の報告をアテにすることはできない。自分の報告では検証にならない。か? 天上天下唯我独尊。とはいえ、現象学の方法。現象学の方法は、各人が自分の体験した現象を、デカルトのテストの基準で判断し、文字にして報告する。という方法。
  5. まず、質感を感じつつあるものに名前を付けなければならない。「意識」でもよいが、手あかがついている。たけ(tk)《知りつつあるモノ》という名前を付けたので、その名前で記述することにする。皆さんも、別の名前を付けてもかまわない。
  6. 《知りつつあるモノ》の概念定義をしておこう。概念定義というのは、コトバモノとの関係を定義付けるものだ。
  7. 《知りつつあるモノ》クオリアとの関係についての仮説を提起しておこう。検証してくれるヒトがいるとありがたい。
  8. (1)《知りつつあるモノ》《私》の基点にあるものであり、《他者》の中にあるかどうかは《私》は知らない。
  9. (2)《知りつつあるモノ》のまわりには世界がある。その世界は物質的な世界であり、または、《思いこみ》世界である。
  10. (3)《知りつつあるモノ》は自分のまわりの世界を知りつつある。持続的に知りつつある。
  11. (4)《知りつつあるモノ》は、純粋な形では、質感を感じない。世界は、ただそこにあるだけの、意味も質感も持たないものである。この純粋、というのはデカルトの「全てを疑う」という立場を純粋に貫いた場合には、という意味である。
  12. (5)《知りつつあるモノ》は、たとえば目の前の赤いまるに関心が向くと、質感を感じるようになる。《知りつつあるモノ》の側の態度で、同じ対象に質感を感じたり、感じなかったりする。

集団的理性はあり得るのか?

  1. それを実現しようとしたのが、権力であったはずだ。しかし、権力は、いまや狂気の代名詞である。

人類は絶滅を望んでいるのか?

  1. 資源が減少化に進めば、人々は、資源の争奪戦のために資源を浪費し始めるだろう。
  2. 資源が減少すれば、それによって大もうけをしようとする人々が出てくるだろう。
  3. 貧すれば鈍す。というのが人類のさがなのだ。
  4. アメリカの狂気は、資源減少に対する覇権国家の帰結なのだ。覇権を維持的なくなる予感は正しい。正しい認識のゆえに、狂気に陥るのは、何故なのか?

「Torvalds:・・私の好きなことばの一つに"完ぺきは良好の敵"というのがあります。要は、"十分によい"というのは、理想的な完全性なんかより実際はずっと柔軟だということです。世界は白黒割り切れるものではなく、グレーの部分もたくさんあります。実のところ、白黒はっきりさせたいという人はちょっとばかげていると思うことがよくあります。」(http://japan.linux.com/desktop/05/06/15/0141255.shtml

「力量は、それが欲望と愛であり、非常に高次の自然的本能かつ倫理的条件、そしてまた合理性でもあるということがない限り、建設的な情念ではあり得ない。」(http://www.ehmtm.com/PukiWiki/pukiwiki.php?%C6%C9%BD%F1%A5%E1%A5%E2%2F%A1%D6%B9%BD%C0%AE%C5%AA%B8%A2%CE%CF%A1%D7

  1. 仁=欲望と愛
  2. 義礼=非常に高次の自然的本能かつ倫理的条件
  3. 智信=合理性

「力量は有効性として組織されるのであり、受動的な必要性あるいは衰弱した客観性としてではなくて、集合的理性(集合的身体)の企図として組織されるのである。」:

  1. 集合的理性に関しては、たけ(tk)は、今のところ、悲観的である。

2005-06-16(木)

「証明とは(ある特別な性質を持った)論理式の有限列に他ならない。」(http://www.ehmtm.com/PukiWiki/pukiwiki.php?%B7%C1%BC%B0%C5%AA%A4%CB%B7%E8%C4%EA%C9%D4%C7%BD%A4%CA%A4%A4%A4%AF%A4%C4%A4%AB%A4%CE%CC%BF%C2%EA%A4%CB%A4%C4%A4%A4%A4%C6%2F%C2%E81%C0%E1):

  1. コトバによる証明とは他のコトバの有限な並びに他ならない。

「数学的概念および命題とは、自然数、または自然数の列に関する概念および命題、ということになる。」

  1. これは、どうかな? 真偽判断は0、1の自然数の演算と同値であり、整数よりも原始的。整数型の論理判断が原始的であるという前提立てば、実数型の論理判断、複素数型の論理判断に発展すべきものかもしれない。
  2. 整数は割り算の演算(かけ算の逆演算)によって破綻する。実数は累乗の逆演算(x**2=(-1)、(-1)**(0.5))によって破綻する。

モノ(物体/物質)はエネルギーと等価だ。」(http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi?mode=all&loadno=5016&resp=1&page=

  1. モノとエネルギーの区別というのは「ヒトのやり方」での区別だな。
  2. 《共振しつつある身体》は、どのように知っているのだろうか?
  3. 《共振しつつある身体》モノを知るのはそのエネルギーによってであろう。
  4. それより、二重スリットはどうなるんじゃ? 存在の確率でモノの場所が決まる、スリットがあるがゆえに、そこを通らなかったはずの電子も、その存在確率はスリットの干渉によって決まる?
  5. そもそも、電磁波ってのが分からない。そこでの波というのは存在確率の波なのか?

「運動に潜在的なものの現実化を見る」「運動を現在の諸項の間の関係として構成する」「潜在性が現実化される独自的で還元不可能な様態」:

  1. イデア先行論、ではあろうが、普遍的イデア先行論と事物内在的イデア先行論。物理学はパラメータ的運動論。モノの内部のパラメータとモノと外部との関係のパラメータ。「潜在的なもの」をパラメータと名づければ同じになってしまう。パラメータ先行論。
  2. 四次元チューブの運動論はどんな感じかな? 目的=将来からのパラメータ、始動因=過去からのパラメータ、質料因=内部からのパラメータ、形相因=外部からのパラメータ。

「持続とは、すなわち本性の、質の変化である」(p.187)

  1. 四次元チューブというのは諸行無常の全体としての一つのモノだ。
  2. 四次元チューブには全体として一つのものとしての本性がある。
  3. 四次元チューブの全体としては、運動も変化も無い。運動や変化をその内の中に含んでいるモノだからだ。

「持続は記憶と呼ばれる」

  1. 四次元チューブにとっての記憶とはなにか?
  2. 「持続は過去時を現実の中へ延長している」
  3. モノ記憶ヒト記憶とは分ける必要があるだろう。
  4. モノの現在の状態は過去の状態の現実化である。現在の状態の中には過去の状態が含まれている。因果の地平と呼ばれる円錐形の範囲内の過去の実現がそのモノの現在である。
  5. ヒト記憶《思いこみ》である。《思いこみ》として再現可能なようにモノの中に保存された過去の状態である。そのように保存された状態が《思いこみ》として再現されることである。
  6. ベルグソンはモノ記憶を語っているようだ。
  7. 起動因が過去からのパラメータであるというのは、過去の状態の実現としての現在が、次の動きのきっかけになるということだ。過去から現在を経て未来に至る因果関係の流れの中の、現在に於ける何ものか、が始動因と呼ばれるものだ。
  8. 「現在時は、過去時が未来時の方へ身を投げだすまさにその一点である」(p.194)。あちゃ。言ってら。

「空間は物質と持続とに分解される」

  1. 意味不明。
  2. 空間というのは四次元チューブである。物質も四次元チューブである。
  3. 「持続は緊張と弛緩とに分化し」??、「弛緩は物質の原理である」??。
  4. 《知りつつあるモノ》の状態の変化を語っているように聞こえる。

科学が取り逃がすものはモノ自体ではなくモノの差異である。

  1. ふむ。然り。
  2. 「(科学的認識によれば)存在は事物を離れて、見捨てられてしまい、もはや抽象でしかなくなる」・・あっれー、これと同じことを、たけ(tk)が言ったのは、この本を読んだためだったのか?
  3. 「そのものだけにしか適用されない」概念(p.178)。個有名の話だな。五智の四番目の話だな。
  4. 「哲学者たる者は、自分の思考を一般的なものの中に希釈化してしまう代わりに、それを個別的なものの上に集中せねばならぬ」。思うに、アリストテレスは「感覚から離れた」普遍的なものは意識しがたい(『形而上学・上』p.27)といっているが、これは現代人にとっては逆なのだ。現代人はコトバによって与えられる普遍的な事物を理解することに親しんでしまい、感覚的なるものが意識しがたくなっているのだ。

科学は無時間・現在の分析から始めて、その時間的積分で持続を構成しようとする。

  1. 初めから四次元チューブじゃ駄目かな?
  2. 四次元チューブも抽象であり、普遍であり、コトバだ。
  3. 《宇宙史》とはそれ自体として四次元チューブのシステムであり、四次元チューブとしてのモノたちのシステムである。
  4. 四次元チューブのシステムも知性によって捉えることが可能な概念だろう。

過去と現在の差異:

  1. 空間における《近傍物理空間》の《認識限界》にちかい。現在は《認識限界》の表面にあり、過去は《認識限界》の内側にある。未来は《認識限界》の先にある。

「生み出されたものの中にそのものがそこから生まれ出た運動を再発見する」(p.174)

  1. 科学が「科学を生み出したモノ」を発見すること。
  2. 科学を生み出したモノ」というのは、ヒトというモノ《思いこみ》コトバにして共有するということ、共有されたコトバを検証して《思いこみ》の正しさを確信すること、という行動様式にある。その行動様式に則った形で、その行動様式の延長として、その行動様式自体を科学的な認識の対象としていくこと。

直観は持続である」か?

  1. 『差異について』の付録の『ベルグソン』p.171。
  2. 確かに持続ではある。永遠の今、とか・・。永遠の今の持続。
  3. 四次元チューブでは駄目か?

「われわれを外部に残す代わりに事物の中に置く哲学的関係」:

  1. 哲学的かどうかは知らぬ。どうでもよい。
  2. 科学は我々を事物の外部に追放する。というのはそのとおり。
  3. 《たけ(tk)の思いこみ》《我》を事物(《モノの世界》)の中に置く、というのもそのとおり。

われわれが事物を見失うのは、事物自体が自らを見失うことである。

  1. そうだね。でも・・。われわれは事物を見失うのではない、というか、「ヒトのやり方」というか「生き物のやり方」でモノを見はじめたときにすでに「モノのやり方」で見えていた世界は見えなくなっているのだ。アメーバにとっての事物は「食べ物/敵/同類」という程度の極めてモノトーンに近い世界だろう。子供の認識もにたようなものだ。
  2. モノのやり方による認識から生き物のやり方による認識への移行は、モノの仕組みの変化である。まあ、確かに、「事物自体が自らを見失うこと」であると言うことはできるだろう。
  3. しかし、モノは、生き物以前のモノは、「生き物のやり方」による認識などしていない。
  4. 生き物は「モノのやり方による認識」を失っているわけではない。我々の《身体》は、すべての自然力を知っているのである。しかし、同時に、「不要なモノ」を棄てているのである。

「物質とは知性の存在論的な原理である」(p.174)

  1. ありゃ。M氏に言おうとしたことを同じことが書いてある。そういえば、何日か前にも一度読んでいたよな。この部分。

科学は・・自然が自らを延長して自己の外へ身を置く運動、を把握するものである」

  1. この表現では切り目がよくわからぬ。
  2. 科学は自然の自己認識である。自然が、自らを延長して自らの外に出て、そこから自然自身を把握する運動である。

二つの世界=「感覚的な世界」と「可知的な世界」:

  1. 可知的な世界というのがロゴスの世界ことらしい。
  2. 体内感覚世界の中の《思いこみ》世界の中のロゴスの世界
  3. 感覚的な世界というのは、感覚によって不断に検証されつつある《思いこみ》世界ではある。そうか、体外感覚世界であり、《近傍物理空間》のことだな。これではだめなのだ。《知りつつあるモノ》の背後の《認識限界》の先にある《共振しつつある身体》とその先にある《共振しつつある世界》をほじくり出さなければ、だめなのだ。
  4. 二つの世界が対等な形で併存しているように見ているのも、甘い。同心円的に併存している。
  5. そうでもないか。《近傍物理空間》科学的なロゴスの世界も、同じく《思いこみ》世界であり、検証されつつある《思いこみ》である。《近傍物理空間》は今ここの《我》によって検証されつつある《思いこみ》であり、科学コトバを媒介にして多数の《ヒトの個体》によって検証されつつある《思いこみ》である。その意味では、対等に併存しているのか?
  6. しかし、今ここにある《我》にとっては、《近傍物理空間》は今まさに確実なモノとして検証されつつある世界であるのに対して、科学《他者》からの伝聞を信じるかぎりにおいての確実性を有するだけの世界だ。それに、科学世界は穴だらけだ。

「無い」ということは、《モノの世界》ではありえない:

  1. 「無い」というのは《思いこみ》でしか発生しない。「xxが無い」というのは『xxが無い』という《思いこみ》である。『xxがあるかもしれない』『xxがあるはずだ』というのは《思いこみ》である。
  2. 《モノの世界》においては、在るモノがそこに在るだけだ。『そこに別のものがあるかもしれない』という《思いこみ》入り込む余地が無い。

知る目的*知る手段:

  1. 動くために、モノとの接触によって、知る。職人的な知。
  2. 動くために、コトバとの接触によって知る。法律、プロパガンダ。
  3. 語るために、モノとの接触によって知る。直観、直接知。
  4. 語るために、コトバとの接触によって知る。エピステーメー。

知る目的*対象:

  1. 動くための知を対象にした知
  2. 語るための知を対象にした知

知を対象にした知は自己言及か?

  1. 動くための知を対象にした知は、自己言及ではない。
  2. 語るための知を対象にした知は、自己言及の可能性がある。
  3. 語るための知を対象にした、プロパガンダのための知は、自己言及ではない。

知る目的

  1. 動くために知る
  2. 知るために知る。(語るために知る)。

知る手段:

  1. モノとの接触によって知る。
  2. コトバとの接触によって知る。

知るために知るということはありうるか?

  1. 《たけ(tk)の思いこみ》は、知ること自体を目的とすることはできない。自己言及に属するアポリアを生じる。《たけ(tk)の思いこみ》は、語るという動き目的としている、というか、動き目的としない限りは、知るということは発生しえない。

「知的」とは?

  1. コトバによって、普遍的に、かつ、正しく知る、ということであろう。

ヒト目的的な存在か?

  1. もちろん。ヒトは生き物である。従って、目的的なモノである。
  2. しかし、フィロスを愛する行動は目的的か? しかり、知ることを目的とする。
  3. しかし、知ること自体を目的とするときに、他の生き物的な目的・・。ふむ、知ること自体が目的か。
  4. まあ、《たけ(tk)の思いこみ》も知ること自体が目的である。
  5. しかし、動くことを目的としない、知ることの目的なんて、あるのだろうか?

表象とは:

  1. 体内感覚である。身体の動き記憶の再生である。喋るという動きに伴うイメージ・・ありゃ・・。
  2. 五感・六処(体内感覚)の記憶の再生である。触によって体内感覚が生まれる、これを受という。受の体内感覚記憶の再生である。受の体内感覚の再生により、その原因となった対外感覚(の中のモノ)を再生する。
  3. コトバを聞いたときにも受が生じる。原初の言語的な受は、話し手と聞き手(《我》)との関係で生じる《求める思いこみ》である。話し手の《求める思いこみ》コトバに伴って身体内に生じる。《私》の内部に、他者に対する《求める思いこみ》(対他欲求)が生じたときに、コトバで伝えたいという《求める思いこみ》(発語欲求)が生じる。

モノは「欲する」か?

  1. 慣性の法則:モノは持続することを欲する。
  2. 引力:モノは引くモノに対して近づくことを欲する。
  3. 宇宙は突然カオスに戻ることを欲しない。
  4. 欲するというのは、「AAであることが出来るはずなのに、なぜか、BBになる、というときに、BBを欲する、という」。
  5. 原初DNAは自己再生を欲するか?

モノは「知ることを欲する」か?

  1. 原初DNAは知ることを欲するか? しかり、自己再生に有用な物質と有害な物質とを知ろうと欲する。
  2. 石は引力を知ろうと欲するか? 欲しているのかなぁ? 知っていることは確かだが・・。 生き物以前のモノは、知ること=動くことだから、欲するもなにもない。
  3. 知ることが動くことに直結しないモノにとっては「知ることを欲する」という現象が生じる。
  4. (形而上学・上のp.21関連)
  5. 生き物は、自己の維持と再生を欲する。《求める思いこみ》
  6. 「知ることを欲する」のは「(欲しないことを)知らないでいることを欲しない」ことである。生き物は、自分の目的に合致するモノだけを知ろうとして、目的に無関係なモノは「知らないでいることを欲する」。無駄を省くために、「知らないでいることを欲する」のだ。
  7. モノは、全てを知る。つまり、自分の目的とは無関係に、全ての情報を受け入れる。
  8. 感覚、というのは特定の情報を集中的に知ろうとすることである。可視光線のみを知ろうとして、それ以外の光線は知らないでいることを求める。

記憶

  1. 全ての物質か過去の記憶の実現であり、過去の記憶の保持者である。
  2. 動物の記憶は、知ったことをそのまま動きに変えないことから生じる。動きによって実現されないから、内部に蓄積されるのだ。生き物の記憶とは、《思いこみ》の形で復元可能なように保持されたモノの状態である。
  3. 生き物の記憶は、同種の状況に直面したときに、より適切な動きをもたらすために保持される。より適切な、というのは、生き物が何らかの目的を持っていることを前提としている。生き物は自己保全と自己再生と、その他もろもろの目的を持つ。では、モノ目的を持つのか? モノは「欲する」。モノは求め合う。モノ《求める思いこみ》を持つ。
  4. 記憶表象か? 生き物の記憶表象か? ゴリラだかオランウータンは表象で思考するらしい。

「問題を打ち立てることが出来る能力pouvoir constituant」と「真理の基準」との関係とはいかなるものか? (http://www.ehmtm.com/PukiWiki/pukiwiki.php?%A5%D9%A5%EB%A5%AF%A5%BD%A5%F3%A4%CE%C5%AF%B3%D8%2F%CA%FD%CB%A1%A4%C8%A4%B7%A4%C6%A4%CE%C4%BE%B4%D1):

  1. なんかなあ。問題そのものが無くなってしまった。
  2. 五智の五番目。差異を見いだして、目的を措定すること。
  3. 「真偽」と直観とがどう結びつくのかが分からないな。「真偽」は命題の属性だ。直観モノへの直接知だ。うーむ。結びつかない。

《知りつつあるモノ》《身体》を認識する経路には3種類ある。

  1. 体外感覚→《近傍物理空間》モノとしての《身体》
  2. 体内感覚
  3. 《背後者》としての《共振しつつある身体》

「何らかの方法で「自然そのもの」に到達する事が、可能だと思うかい?」(http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi?mode=all&loadno=5016&resp=1&page=):

  1. なんとも、こたえにくい質問だ。
    1. こんなことは言っていないし、
    2. 「数学にとって美とは何か」という主たるテーマに関係しているとも思えない。
    3. 「到達する」というのは、「知る」ということだろう。
    4. 「自然そのもの」というコトバが何を意味しているのかも分からない。
  2. 体は自然そのものだ。だからすでに到達している。というのが一つのこたえ。
  3. 体は、「モノのやり方」で自然を知っている。というのが二つめのこたえ。
  4. 人間が「ヒトのやり方」で「たけ(tk)が思う所の『自然そのもの』」を知るのは不可能、というのが3番目のこたえ。
  5. 人間の《知りつつあるモノ》が、体を通して「モノのやり方」で自然を知るにはどうすればよいか、というのは、《たけ(tk)の思いこみ》の全体を読んでくれ、とこたえるほかはない。

むかし、ジャズが分からぬ、と言ったら、ジャズが分かるというのは、体がスウィングすることだ、と言われたことがある。たしかに、ジャズに合わせて体を揺らせば、それが、ジャズが分かったということだ。ジャズは、体が分かるということだ。

2005-06-13(月)

たけ(tk)《混濁》カオスとは関係があるのかな?

  1. 《混濁》はパラメータではない。
  2. 《混濁》から、モノが分離する、というのは、理解可能パラメータと理解不能パラメータ(カオス)の分離に近い。

非線形科学http://www.jssp.co.jp/f_biochem/hisenkeikagaku.html):

  1. 要するに、要素に還元して理解できる範囲の科学は、ほぼ完了したので、還元的な理解が困難な問題を扱いはじめた。ということらしい。扱う対象を広げたら、概念的理解、頭で理解できる範囲ではなくなった。コンピュータによってシミュレートしなければ予測できない現象が、科学の至る所で見つかった、というか、科学の至る所の分野で、ちょっと視野を広げたら非線形の現象があることに気づいた。
  2. 概念の足し算で理解できないことが、至る所に転がっている。コトバで理解できないことをコンピュータでシミュレートさせる。シミュレートというのは、要するに、実際にやってみるというのと同じだ。実際にやってみなければ分からないこと、というのは、要するに、人間が理解することはできないことだ。
  3. 「分からないこと」をカオス(ランダム)パラメータに纏めて、分かるパラメータとカオスパラメータとの合成で理解する、というのは面白い試みだ。
  4. たった3体で、分からなくなる、というのが面白い。

http://www.cybernet.co.jp/matlab/support/helpdesk/r13/toolbox/optim/ref_int2.shtml よくわからぬが、いろいろな解法がリストアップされている。

3体問題のシミュレーション:(http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~okamoto/itijiteki/06.m1v) 不安定な動き(1分34秒;12.9MB) コメント 1: 不安定と言っても、これだけ中心付近でウロチョロしてくれる計算結果を得るのはとてもむずかしい。 たいていは、すぐに2つ以上が急接近して飛んでいってしまう。(現実には起こり得ない。計算機での問題)

  • 急接近すれば「衝突」になるのでは?
  • 見ていて面白い。ホント、予測不可能だな。
  • 「2つ以上が急接近して飛んでいってしまう」というのは計算精度が悪いだけだな。二つが急接近したときには、実質的には2体問題だから、接近したのとほぼ同じ形で同じ速度で離れていくはずだ。

「何らかの方法で「自然そのもの」に到達する事が、可能だと思うかい?」(http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi?mode=all&loadno=5016&resp=1&page=):

  1. 人間はモノであり、モノは自然そのものであり、モノモノのやり方で自然を知っている。従って、人間は、既に、モノのやり方で自然を知っている。
  2. 問題は、「モノのやり方で自然を知る」ということが、人間的な意味での「知る」ということとは異なることだね。「ヒトのやり方で自然を知る」ということと「モノのやり方で自然を知る」こととの違い。
  3. 科学者が電子を観察するとき、電子は科学者をモノのやり方で知る。科学者は電子にとっての状況に現れたモノなのだ。
  4. モノのやり方で自然(の中の他のモノ)を知る」というのはそのモノから生じる引力を感じることであり、そのモノが発する光を感じることであり、その他もろもろの自然力を通じて他のモノの出現を知ることだろう。人間も、身体レベルでは、そのようにして他のモノの出現を知っているのだ。
  5. 問題は「ヒトのやり方で知る」とは何かということだ。ヒトは、《知りつつあるモノ》の現前に《思いこみ》表象)を現出させて、その《思いこみ》と認識対象となるモノとが対応関係にあると思いこめば、『そのモノを知った』という《思いこみ》を持つことができる。さらに、それを他のヒトに伝えるためには、その《思いこみ》コトバに載せなければならない。そのためには、コトバ《思いこみ》との対応関係にも思いを巡らせる。「コトバの定義」というのはコトバ《思いこみ》との対応関係の定義だろう。そして、他のヒトにその人の認識を伝えるためには、まず、コトバの定義を相互に確認してから、コトバによって表現された認識を他のヒトに伝えることになる。それが「ヒトのやり方で知る」ということだろう。
  6. モノのやり方で自然を知る」ということは、『「自然そのもの」に到達する』ということか? 人間的な知からみると、とんでもなく混濁した知であり、『「自然そのもの」に到達する』とはとても言いがたいものかもしれない。 でも、一つの『「自然そのもの」に到達する』ことではあるような気がする。
  7. モノのやり方で自然を知る」ということは、人間的な《思いこみ》に過ぎないのではないか? そうかもしれない。 でも、一つの『「自然そのもの」に到達する』ことではあるような気がする。
  8. なんで、そもそも、『「自然そのもの」に到達する』必要があるんだい? 「ヒトのやり方」で『「自然そのもの」に到達』したいということだね。
  9. 格物致知というコトバがありまして、モノにいたる・知るにいたる、ということらしい。『大学』によると、格物致知にいたることと「自分の意(こころ)をウソごまかしのない状態(誠)」にすることとは対になっているらしい。「意(こころ)を誠(まこと)にする」というのは「如悪悪臭、如好好色::悪臭を臭いと感じ、美しいものを美しいと感じるように素直な気持ちになること」だと説明されているから、要するに、《思いこみ》を捨てて、自然と一体化したような「モノのやり方で知る」ことなのではないかと思う。

http://homepage3.nifty.com/take_tk/honyaku/daigaku1.html

物格而后致知
  ものごとをあるがままに理解する状態(物格)
  になってはじめて、知るに到った(致知)と
  いうことができる。

致知而后意誠
  知るに致ったという状態になれば、意(ここ
  ろ)はウソごまかしのない自然な状態(誠)
  になる。
・・・
所謂誠其意者、毋自欺也
  意(こころ)を誠(まこと)にするというの
  は、自らを欺かないということである。

如悪悪臭、如好好色
  悪臭を臭いと感じ、美しいものを美しいと感
  じるように素直な気持ちになることである。

此之謂自謙
  これを自らを心地よくする(謙)という。

たけ(tk)モノをシステムとして理解しているか?

  1. 一つのシステムは、内部システムの全体であり、外部システムの部分である。
  2. システムは内部状態を持ち、内部状態を維持する。おそらく、システムの内部では何らかの循環がある。
  3. 内部システムは3体以上あり、外部システムにおける同等のシステムも3体以上ある。従って、3体運動の不可予測性を、本質的に有するシステムである。

ベランダの花との対話:

  1. 「アリストテレスは普遍的な原理・因果関係を知るのが知的だといっているのだが・・」
  2. 「普遍的な、というのは何モノをもさしていないコトバで物事を知ったつもりになるということでしょ。思い上がりだよ。アリストテレスはモノを知らない。
    1. 人間たちがモノに名前を付けて知ったつもりになっていても、名前やコトバというのはヒトの内部での勝手な《思いこみ》に過ぎない。ヒトモノに個有名を付ければ、コトバによってモノを指し示すことができるようになるかもしれないけれど、それは人間たちの約束ごとに過ぎない。
    2. 人間たちは彼の世界が名前の無いモノたちに囲まれていることを忘れている。個有名がついているモノを数えてみなよ。一人のヒトが全てのモノに個有名を付けても、他のヒトにその全部を伝えることはできない。端から、個有名を付けることをあきらめているんじゃないのか? だから、ヒトコトバによっては世界モノたちを表わすことができない。
    3. 普遍的なコトバ? なんて、何モノをも指していないコトバだ。
    4. (仮に『花は人間が水を注がなければ枯れてしまう』という普遍的な命題を考えてみよう)。たしかに、僕たち(花)は屋根の下に置かれてしまえば、人間が水を注がなければ枯れてしまう。でも、僕たちは元々自然の中で雨の水で生きていたんだ。人間たちが勝手に屋根の下に移すから『人間が水を注がなければ枯れてしまう』という状況が生まれる。でも、何で枯れちゃいけないんだい? 雨が降らなければ枯れるのは自然じゃないか。それでも、僕たちは生き残ってきたんだ。絶滅したとしても、自然じゃないか。人間たちが『花は枯れないほうがよい』なとという勝手な《思いこみ》で『人間が水を注がなければ枯れてしまう』などという普遍的な因果関係をコトバにして語るなんて言うのは、勝手な思い上がりに過ぎないじゃないか。
    5. 人間というモノには『知的であること』をありがたがる傾向がある、ってことだね。すべてのものには傾向がある。人間もモノだから人間的な傾向があるのは当然だろう。だけど、その傾向をありがたがるというのは人間だけで通用することでしかない。」
  3. 「でも、君たちも何かを『知っている』んでしょ?」
  4. 「僕たちは自然を知っている。モノとして、モノ世界を知っている。全部知っているよ」
  5. 「でも、コトバで知っているわけではない」
  6. 「そうさ」
  7. 「君たちは全知なわけ?」
  8. 「そうだよ。僕たちは自然の一部だから、自然全体の一部だから、自然の全体を知っているのさ」
  9. 「でも、コトバでは説明できない」
  10. コトバって何よ? 人間が自分の《思いこみ》を他の人間に伝えるための記号でしょ。人間の《思いこみ》の限界の範囲のモノしか伝えることができないし、伝えるために記号と《思いこみ》との対応関係を、あらかじめ、決めておく必要があるなら、人間同士の約束ごとの限界の範囲のモノしか伝えることができない。そもそも、《思いこみ》モノを指し示すことが、理論的には、可能だとしても、仮に可能であったとしても、《思いこみ》モノとは違うし、《思いこみ》の内容はモノそのモノではありえない。コトバで説明しようなんていうのは、実現不可能な願望でしかない。」
  11. 「でも、けっこう、いい線まで説明可能になっているんじゃないの? 科学とか」
  12. 《思いこみ》世界に完全に入り込んだ人間にとっては、世界が説明されたような気になっているんだろうね」
  13. 「って?」
  14. 「君の目の前にあるモノたちを見なければ、科学が対象としている世界科学が説明していると思いこむことができる。でも、科学では、君の目の前にある世界を説明できないだろ」
  15. 「哲学者とか思想家のコトバはどうね?」
  16. 「彼らのうちには僕たちと同様にモノ世界を知っているヒトもいたよ。哲学者や科学者でない普通の忘れられた人々にもたくさん、モノ世界を知っているヒトがいるよ。でも、彼らにも世界コトバで説明するなんていうことは出来ない算段だよ。もともと無理なんだから。だから、彼らのコトバは、ときに、ありがたがられることはあるけれど、そのコトバで、他のヒト世界を知らせるなんてことは出来ないことだったのだ。コトバを聞いた人々は、ありがたがり、鸚鵡返しに他の人々に伝えることはあっても、コトバによってモノ世界を知ることにはならなかったんだ。もちろん、コトバを聞いて、自分の目で見ることに気がついて世界を知ったヒトはいたさ。でも、それは『説明』とは言わないだろう。『説明』とか『表現』というのはコトバによって《思いこみ》を生じさせることさ。《思いこみ》を生じただけでは、モノを見ることから、かえって遠ざかることになる」
  17. 「やけに、コトバに対して批判的だね」
  18. 「そうじゃないよ、『コトバによって世界を説明できる』というのは人間の勝手な《思いこみ》だ、という事実を述べているだけさ」
  19. 「だけど、この対話だって、コトバじゃん」
  20. 「君は、コトバによって表わされたこの対話が、君の勝手な《思いこみ》だということを、分かったうえで、そんなことを、言っているんでしょ」
  21. 「アリストテレスでも駄目なの?」
  22. 「人間というモノ価値ありとする『コトバによって知ること』について、人間というモノが、あれこれコトバを転がしてみることは、べつに、いいんじゃないの?」
  23. 「ところで、『思い上がり』って駄目なの?」
  24. 「人間というモノが思い上がったとしても、所詮は人間というモノの状態でしかないよ。人間というモノは自然の一部だから、人間が自然を破壊したとしても、それは自然なのさ。モノには思い上がるモノもある、ということさ。」

《混濁の世界》《近傍物理空間》《体内世界》に分かれる、か?

  1. 《思いこみ》《体内世界》モノである。
  2. 《体内世界》においては、空間定位が曖昧。
  3. 表象《体内世界》の感覚。《思いこみ》《体内世界》の感覚。
  4. 《体内世界》《知りつつあるモノ》が置かれている場所である。
  5. 《体内世界》のうち《思いこみ》以外のものは何か? 体内感覚、体内の力。
  6. internal world of body.

2005-06-12(日)

『現実』は普遍世界か?

  1. コトバによって語られた世界は普遍世界である。
  2. 時間の中に存在する具体的なモノ世界は具体世界である。
  3. コトバによって語られることにより、時間の中に存在する具体的なモノ世界は普遍世界の一部となる。
  4. コトバによって語られた具体世界の内容は、時間ともに変化していく。(エピステーメーの変化)。
  5. 《群れの思いこみ》である。
  6. 普遍世界というのは『語られた内容が時間や空間を越えて妥当する』という《思いこみ》を伴う《思いこみ》で構成される世界である。
  7. 『xx年xx月xx日xxでxxがxxした』というコトバは、『時間や空間を越えて妥当する』という《思いこみ》を伴う《思いこみ》である。それを語るモノがいつでもどこにあっても妥当するコトバ。語る側における普遍性と語られる側における具体性(歴史性)。普遍世界というのは語られる側における普遍性を有する《思いこみ》によって構成される世界。なので、歴史的事実は普遍世界を構成しない。

『美』は一つの『価値』だろう。《思いこみ》である。《求める思いこみ》か?

  1. 数学は《思いこみ》である。主観世界を構成する一部分である。
  2. 数学の世界と、数学以外の世界。普遍世界と具体世界。数学は普遍世界の一部。
  3. 普遍世界というのはコトバと1対1で構成される世界
  4. ヒトコトバによって《思いこみ》を伝達する。普遍世界コトバによって共有可能な世界
  5. 具体世界コトバによって伝達可能?
  6. コトバによって伝達された具体世界『現実』《思いこみ》となる。
  7. 数学は、それを《求める思いこみ》を有するモノにとっては『美』の『価値』を有する。

市場価値と権威者の判断:

  1. 市場価値は多数の《ヒトの個体》《思いこみ》を一定のルールによって《群れの思いこみ》にしたもの。
  2. 権威者が、一言いうと、市場価格が高騰したりする。
  3. 人々の《思いこみ》が権威者の一言に影響されるということ。
  4. 『彼が権威者である』というのは《思いこみ》である。
  5. 『彼が権威者である』というのは《思いこみ》であるが、人々の《思いこみ》が彼の一言に影響されて《群れの思いこみ》としての『客観的な価値』が変化するのであるから、彼は権威者なのである。
  6. 自己実現的《思いこみ》『現実』の一部としての《思いこみ》。『彼は権威者である』という《思いこみ》『現実』《思いこみ》の一部である。
  7. 『権威者』とは天上レベルでのボス猿である。ボス猿とは『彼はボス猿である』という《群れの思いこみ》で認識された個体である。

『差異について』(ドゥルーズ)。大日如来の五智の4(万象に差別があることを見通す、2005-04-08)。

モノ価値

  1. モノへの所有権はヒト《群れの思いこみ》である。《ヒトの群れ》を構成するヒトの個体の《思いこみ》である。
  2. モノの価格は、取引によって決まる。
  3. モノ価値は、《群れの思いこみ》によって決まる。モノ価値は、取引によって一応推定される。
  4. 人々が『高いモノを彼は安く手に入れた』とか『彼は安物を高い値段でつかまされた』と思いこめば、取引価格とは別に価値が決まる。《彼》が《他者》にそのモノを売るときには、価値に応じた値段になるだろう。
  5. 客観的な価値、というのは、特定の個体の《思いこみ》ではなく、《群れの思いこみ》としての価値を言う。ヒト《思いこみ》がなくても存在する、という意味での「客観」ではない。特定のヒト《思いこみ》がなくても、群れの他のヒト《思いこみ》があれば存在する、という意味での「客観」。

《群れの思いこみ》

  1. 群れを構成する個体が、何らかのルールに基づいて、『群れのすべての個体の共通の《思いこみ》である』という《思いこみ》を伴って保持する《思いこみ》である。

所有』の《思いこみ》

  1. 『あるモノがあるヒトAの所有物である』というのは《群れの思いこみ》である。
  2. 価格は、あるモノヒト所有物である場合に生じる《思いこみ》である。

モノが無主物である場合には価格は生じない。

  1. 無主物というのは『そのモノは誰の所有物でもない』という《思いこみ》である。

モノ《宇宙史》の中の四次元チューブである。

  1. 《知りつつあるモノ》モノ四次元チューブの中の4次元チューブである。
  2. 《思いこみ》モノ四次元チューブの中の四次元チューブである。
  3. 《知りつつあるモノ》《思いこみ》によって構成された主観世界を持つ。
  4. 主観世界モノ四次元チューブの中の四次元チューブである。
  5. 主観世界モノの内部に留まるが、《知りつつあるモノ》は、空間定位を再構成することにより、主観世界モノの外部に広がるモノとして理解する。
  6. 所有は、モノの内部の《思いこみ》である。しかし、《知りつつあるモノ》所有モノの外部のモノに対する支配権として、モノの外部に広がるモノとして理解する。
  7. ヒト《群れの思いこみ》の主観的反映としての《群有思いこみ》によって動く
  8. ヒト《群有思いこみ》によって動くことにより、ヒトは、《群れの部分としての動き》をなす。《独立した個体としての動き》と《群れの部分としての動き》とがある。
  9. 《群れの部分としての動き》は個体が他の個体を『同類者』として認識することから始まる。『同類者』を認識すると、個体は《群れの部分としての動き》を始める。

2005-06-11(土)

『「ファンタジー」で何がイカンの?』(http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi?mode=all&loadno=5016&resp=1&page=):

  1. エンデに聞いてみないと・・。というか、エンデは『現実』のファンタジーに戻れといっているわけではないだろう。『現実』のファンタジーとは『モモ』の灰色の男たちの世界だ。
  2. 《灰色の男たちの世界》でも《ファンタージエン》でもない世界とは、《モノの世界》だろう。エンデは《モノの世界》の住人だと思う。
  3. 《モノの世界》はファンタジーか? エンデはファンタジーだといっている。というか、ファンタジーとしてしか表現できない世界だといっている。(http://www.mitchell-tcb.com/cc-b.htm、『うまく説明できないけれど、いつか、「ファンタジーでしか描けない真実がある」と言われた(読んだか聞いたか言われたか)ことがあります。』)

『1)都合の悪い面を視野に入れるけど、大した進展がない、というのと、2)都合の悪い面は捨象するけど、それなりに進展あり、のどっちかを選び取る』(http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi?mode=all&loadno=5016&resp=1&page=

  1. 数学のファンタジーに進展があるのは、数学が現実の模型であるから。模型なので、どんどん現実そっくりに進展することができる。しかし、どこまで行っても現実そっくりの模型になるだけであり、現実の代わりにはならない。
  2. 自然や観念の模倣としての絵画と、自然や観念そのものとの違い。
  3. モノそのもの、など不可知であり、知りえたモノはファンタジーである」ということを前提としているのだろうな。針金の方法で模倣された模型は進展があるが、ごった煮で模倣された模型は形にならない。
  4. たけ(tk)の方法は、ごった煮のファンタジー。ごった煮の全体から輪郭を抽出しようとするファンタジー。

http://www3.plala.or.jp/mig/nes-jp.htmlhttp://rsnakata.hp.infoseek.co.jp/books/books2001.htm。”はてしない物語”の概要。 『バスチアンはアウリンの力により、「美しい姿になりたい」「冒険をしたい」といった望みをかなえてゆくが、それは実社会における記憶と引き換えであった。アトレーユとフッフールの諌めも聞かず望みをかなえ、現実の社会のことを忘れ行くバスチアンはついにファンタージエンの帝王になろうとするが、失敗してしまう。アトレーユの後を追い、かつてファンタージエンの帝王になろうとして失敗した「元帝王たちの都」に辿り着いたバスチアンは、自分の世界に帰るために残された望みが自分にはもう僅かしかないことを知る。 自分の世界へ帰る道を探すバスチアンの願いは「仲間が欲しい」、「一人の個人でありたい」、「あるがままに愛されたい」と変化し、亡くなった母を思わせるアイゥオーラおばさまと姿かたちを常に変える変わる家で癒され、ついに「自分も愛することができるようになりたい」という最後の望みを見つける。 アトレーユとフッフールの助けにより自分の世界に帰ったバスチアンは妻を亡くして沈んでいた父の心をも癒す。そこにはいじけた子どもだったバスチアンはいなかった。』(http://rsnakata.hp.infoseek.co.jp/books/books2001.htm)。

《思いこみ》世界で悦にいることは醜いことである」っていえるんなら、「もうちょい説明を」と思う。(http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi): 「ぬかるみのような現実の世界」と「美しきロゴスの世界」との二つの世界が見えている。 数学の美の世界で悦に入ることは《思いこみ》に逃げること。ぬかるみの世界にいるときに、美しき《思いこみ》世界に逃げること。ぬかるみの世界に負けないために逃げることは是なり。ただ、逃げた後で、ぬかるみの世界を忘れるために《思いこみ》世界に浸ることは、美しくない。 ファンタジアの美しき世界から現実のぬかるみの世界に戻るには、虚無という名の狼の口の中に飛び込んでいかなければならない。 帰り道は「生命の水の湧きでる泉」(http://www3.plala.or.jp/mig/nes-jp.html)か。 「ファンタージエン」というらしい。

『絶対矛盾的自己同一』(http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.htmlhttp://www.aozora.gr.jp/index_pages/person182.html)。分かったような分からないコトバで語らないで欲しいというのが切なる願いじゃ。自分が分かったことをいかに《他者》に伝えるかが困難な話なのだ。「分かったようなコトバ」で相手が分かるのなら楽なモノだ。

http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/588.html)関連のいろいろ:

概念定義はコトバ《思いこみ》との1対1対応を定義するモノ

弁証法は、コトバの二項対立性と現実の二項併存性の矛盾を、《コトバの世界》の論理で解消しようとする方法。

アジア的な二項併存主義は、コトバによる記述・伝達を諦めるという方法で、コトバの二項対立性と現実の二項併存性の矛盾を、解消する方法。

多項パラメータによる《モノの世界》の記述というのは、現代のカオス理論の前提ともなる記述方法。カオス・パラメータを加えればかなりの精度の近似性で、《モノの世界》を記述できるだろう。ただし、一般の人が多項パラメータ方式の記述を理解するのはかなり困難が伴う。それに、現実世界を多項パラメータの記述に変換するのも困難、記述されたコトバ《他者》に伝えるのも困難、現実世界を多項パラメータ方式の記述から現実の将来を予測するのも困難。(スーパーコンピュータを使っても確率的にした予測できない)。

《モノの世界》への直観、神秘主義という非難が予想されるが、では多項パラメータに近い認識で《モノの世界》を見ることになる。「モノの発生・変化・消滅の原因はそのモノの内部状態とそのモノの環境という世界全体の多くのパラメータによって決まる」「《思いこみ》を棄てた《モノの世界》全体への直観により、モノの発生・変化・消滅の原因となるパラメータを洞察することができ、そのモノの由来を知ることができ、そのモノの将来の変化をある程度予想することができる」。

アリストテレスの「4原因」。形相因:そのモノとそのモノの外部世界との関係。質料因:そのモノの内部状態。起動因:そのモノの変化のきっかけとなる内部または外部の動き目的因:そのモノ《求める思いこみ》、他のモノのそのモノに対する《求める思いこみ》。(『形而上学・上』p.31)。

 《モノの世界》 《思いこみ》  《思いこみ》 《モノの世界》
    |    /            \    |
《知りつつあるモノ》−−コトバ ⇔ コトバ−−《知りつつあるモノ》
’《モノの世界》’《思いこみ》’’’《思いこみ》’《モノの世界》
’’’’|’’’’/’’’’’’’’’’’’’\’’’’|
《知りつつあるモノ》−−コトバ ⇔ コトバ−−《知りつつあるモノ》
’《モノの世界》’’’’’’’’’’’’《モノの世界》’
’’’’|’’’’’’’’’’’’’’’’’’|’’’’
’’’’|’《思いこみ》’’’’《思いこみ》’|’’’’
’’’’|’/’’’’’’’’’’’’’’\’|’’’’
’’’《我》−−−コトバ ⇔⇔⇔ コトバ−−−《我》’’’

* 「’」はスペースの変換。スペースのままだと図が崩れるため。

《我》《知りつつあるモノ》《求めつつあるモノ》との混合物である。

テレビ《思いこみ》噴出: たしかに、テレビの影響は、《私》の精神の広範囲に及んでいる。 《我々》の『現実』テレビによって運ばれた情報によって構成されている。 インターネットのコミュニティ=《我々》はパソコンというメディアによって運ばれた情報によって構成されている。 《我々》はメディアによって作られた世界の中に生きている。 もっとも、昔の《我々》の世界もウワサ話や歴史や昔話などのコトバというメディアによって構成されていた。

2005-06-10(金)

《我》にとって美とはなにか: モノたちの競演は美しい。

2005-06-09(木)

ヨーロッパ人て、「権威」を一つだけ認める思考があるのかも。「xxが支配国家・支配者」と認めたら、従属派も反対派も「xxが支配国家・支配者」ということを前提として行動するようになる。一神教だから「世界には一つの支配者しかない」ということか。このまえ、酒を飲んだカトリックの人が、「バチカンなんて日本人には関係ない。西洋人にとっては重大問題のようだ」と言っていた。

「オプス・デイの上記の考えは創価学会と似ていると思います。 つまり、仕事をちゃんとこなし社会的に認められた人間になる事もまた宗教上の目的になるという点です。 このようにしてカルトが社会的な権力の中枢に結び付くのだと思います。」(http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/649.html)。問題は、宗教心からの世俗権力への接近は、世俗的道義観を放棄することになりかねない、ということだな。

2005-06-08(水)

「既に、ネオコンはブッシュ政権から主流から外れている」(http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/1133.html)。ネオコンは目的を達したのか? 失敗を見越して転戦したのか? 転戦してしまえは、目的はどうでもよい。 イスラエルの防衛が目的ではなかったのか? イラクをグジャグジャにしてしまえば、イスラエル防衛の目的達成ということか? イラクのパレスチナ化を達成すれば、「入植地」戦略の発動が可能ということか? 最終目的世界支配だろう。 とするなら、ゴイムの国家を破壊する、という戦術のテストだったのか? 

「二項対立思考」(http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/543.html)というのは、単に、子供っぽい主観主義のことを言っているらしい。「誰がよい、誰が悪い」。権威主義。味方と敵に分けて、「味方はよく、敵は悪い」。シュミットの「政治的なものの概念」。3体問題。2体までは、簡単に予想がつく、3体になるとシミュレーションしてみないと予想がつかない。

* 2005-06-09(木)たんに、「小人養いがたし」かも。

なぜ・・。 って、それが人間だからさ。人間は《思いこみ》世界に生きることによって、人間であり続けることができたからさ。 なぜ、争うか・・。って、人間は『所有』の《思いこみ》を追求することによって、生存を維持し、生存を拡大してきたからさ。 なぜ、争うのか・・。って、『私のもの』という《思いこみ》を相互に尊重することによって、《思いこみ》世界の中でのテリトリーを確保してきたからさ。 ・・ふむ、『所有』というのは《思いこみ》世界の中でのテリトリーなのか。(http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/535.html)。

『大日本帝国の生存戦略』: 国際政治の世界って、動物のテリトリー戦争の論理、やくざの論理、強いモノになびく心理。修羅の論理なんだよね。テリトリーにすき間が生じたり、テリトリーの確定方法が変わると、テリトリー戦争が始まる。

日清戦争のころの政策担当者は、読みちがえはあるモノの、国際情勢を多角的に分析して、かなりの精度で先を読んで行動していた。問題は、その知見を国民に対して説得しようとしなかったことである。国民は多角的な認識の埒外置かれて、熱狂的に侵略を支持し、譲歩に不満をぶつけ、将兵や為政者たちの認識まで、モノトーンにしていったことである。その原因は、為政者が適確な認識を国民に対して説明しようとしなかったことである。英国世論を動かすために努力した同じ為政者が、日本の世論に対してはなんの努力もしなかったということが原因である。

国民は、囲碁の先読みを学ぶべきかもしれない。

政府が世論誘導を行う、というのは、疑問もある。が、米国の foreign affairs のように、政府の認識をきちんとした論文として公開し、マスコミの責任者がその認識を検討する手段を与えるべきだろう。

2005-06-05(日)

「cogito, ergo sum」で「ある」とされたモノは《「cogito, ergo sum」と言いつつあるモノ》だな。《言いつつあるモノ》だ。

四次元チューブを項目として立てる必要があるか?

《知りつつあるモノ》は特異点か? 《知られつつあるモノ》であると同時に《知りつつあるモノ》である、という意味で特異点である。y=x**2 のグラフでの(0,0)は特異点らしい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/特異点)「特異点(とくいてん、singularity)とは、ある基準 (regulation) の下、その基準が適用できない (singular) 点の総称である。したがって特異点は基準があって初めて認識され、「〜に於ける特異点」「〜に関する特異点」と言う呼ばれ方をする。」

マスゴミもなあ・・。最悪。日本に、希望が欲しい。昔っからなぁ、日本の社会には絶望していた。その予感通りに、絶望への道を進んでいる。日本人の狂気と愚かさ(よく言えば、根性と純情さ)を善なる方向へ導くにはどうすればよいのだろうか? たけ(tk)はやる気も能力も無いが、方法だけは知りたい。

改革は必要である。ところが、すべての改革は換骨奪胎されて、官僚の権益強化の道具にされてしまう。 小集団主義:官僚も官僚たちの小集団の中で生きている。 戦前の日本軍の参謀たちも、参謀たちの小集団の中で生きていた。 日本は、駄目か? 変化のない「冷たい社会」であれば、どうにかなるかもしれないが。外交が必要になるような政治状況の中では、日本人の組織は、目的を達成できない。 日本人の組織は共同体になってしまう。組織というのは、大きな目的のための機能を果たすためにある。共同体というのはその成員の利益や共同体自体の利益を目的とする。日本人の組織は、本来の目的達成という機能を失っていくのだ。 日本人の組織は、共同体化しないと機能を発揮できないが、共同体になると目的が変わっていくのだ。

《モノの世界》の論理で自己言及命題「この命題は偽である」を考えてみよう。

  1. 命題というのはモノが保持する《思いこみ》である。
  2. 命題は、モノモノとの関係に関する情報である。「モノαとモノβの距離は1m以内である」という命題Rを例に採ることにしよう。
  3. 命題が真であるとは、命題の内容と実際とが対応関係にあることである。実際にモノαとモノβの距離が1m以内であるときに、命題Rは真である。
    1. 命題は
    2. 命題によって記述された《思いこみ》の内容と
    3. 命題によって指し示されたモノの状態とが
    4. 一致しているときに真であり、一致していないときに偽である。
  4. 「ある命題が真である」とか「ある命題は偽である」というのも命題であり、メタ命題である。「「モノαとモノβの距離は1m以内である」という命題Rは真である」という命題を命題Mとしよう。(肯定メタ命題をMT、否定メタ命題をMFとする)。
  5. メタ命題は命題とモノモノモノとの関係というモノ)との関係を指し示す情報である。
    1. 「「モノαとモノβの距離は1m以内である」という命題Rは真である」という命題Mは、
    2. モノαとモノβの距離は1m以内である」という命題Rと
    3. 《実際のモノαとモノβの距離》というモノとが
    4. 対応関係があるときに真であり、対応関係に無いときに偽である。
  6. 命題はモノか? 命題は《思いこみ》であり、《思いこみ》モノである。故に、メタ命題も命題の一種である。

自己言及の項目で、「肯定的言及」が「偽」であり得るとしたのは「背理法」による「偽の否定」を忘れていた。というか、背理法というのは排中律を前提とした証明法なんだよね。

整数のかけ算方式

  1. 2価論理値:[F,T] : [-1,1]
  2. 4価論理値:[F,T,KT,KF] : [-1,1,i,-i]
  3. F*F => T : (-1)*(-1) => 1
  4. x*x => F : x * x => (-1)

mod方式

  1. 2価論理値:[T,F] : [0,1]
  2. 4価論理値:[T,KT,F,KF] : [0,1,2,3]

2005-06-04(土)

自己言及の特異点(言及点): 自己言及命題の特異点は、人間である。人間が命題の意味を《身体》内に生成し、それを循環させる。「この命題は偽である」という命題。人間は「この命題は偽である」というコトバ《身体》内に保持する。人間は『この命題は偽である』という《思いこみ》を生じさせ、その意味を理解する。人間は『この命題』が「この命題は偽である」というコトバを指し示していることを理解する。人間は『「この命題は偽である」という命題が偽であるならば「この命題は真である」』という《思いこみ》を生じさせる。また、『「この命題は偽である」という命題が真であるならば、「「この命題は偽である」という命題」は「この命題」なのだから、「この命題は真である」であるならば、となるので、『この命題』は偽である』という《思いこみ》を生じる。ふーむ『「「この命題は偽である」という命題」は「この命題」である』という《思いこみ》が問題だな。「この命題」と言った時点では「この命題」が指し示すモノは何も無い。空虚なコトバである。「この命題は偽である」と言い終わった時点で、人間は『「この命題」は「この命題は偽である」という命題を指し示している』と思いこむ。

4次元チューブの「チューブ」ってのは妥当な表現か? 中身が無いってことだよね。中身はあるかもしれない。が、モノの内部は知ることができない。

デカルトは、感覚は怪しいというが、数学まで怪しくなっているのだから、もう、ハチャメチャだな。たけ(tk)は、感覚で認識された《モノの世界》の実在を、最近では、完璧に信じている。だって、あるんだもん。

http://www.evsc.k12.in.us/schoolzone/schools/EMPOWER/harrison/th/decartes.htm Descartes was a dualist, and, therefore, claimed that the world consisted of two basic substances ? matter and spirit. 「モノ」の翻訳としては matter と object ではどちらがよいのだろうか?

『省察』の英語訳: http://www.ucs.mun.ca/~fdoull/des-med.htm (Meditations On First Philosophy:最初の哲学についての黙想)というのか。 (Meditations On First Philosophy in which the Existence of God and the Distinction Between Mind and Body are Demonstrated.:神の実在と心と体の区別の論証を行う最初の哲学についての黙想)。デモって論証なのか・・。

経済学の基本的公理:(http://www.asyura2.com/0505/hasan40/msg/410.html)現代の主流派である広義の新古典派経済学では、次の基本的な仮定を置きます。

  1. A.生産と消費は(個別財の数量で見ても、グロスの金額で見ても)等しい。
  2. B.経済成長は常に望ましいことである。
  3. C.人は、自分の経済的な利益を最大にするように合理的に行動する。(homo economicus の仮定)
  4. D.作ったモノは、市場を通じて需要を見つけることが出来る。(セーの法則)
  5. E.市場を通じた均衡は、即時に達成される。
  6. F.価格と需要量の関係は(特殊な例外を除き)右下がりである。

キンチューモフン: 近傍4次元チューブ(4次元チューブとしての《近傍物理空間》)の《思いこみ》噴出。 4次元チューブとしての《近傍物理空間》の中のモノたちの《思いこみ》噴出

なすべきこと: 今ここで、これを考えているのだから、これを考えることが、なすべきことだ。 全然、汎用的ではない。 が、そうなのだ。汎用的な「なすべきこと」などあろうはずが無い。 このモノがあり、このモノに特有の「なすべきこと」があるだけなのだ。 大日如来の五智の4(万象に差別があることを見通す、2005-04-08)。

ヨンチューナベコモフン: 4次元チューブとしてのモノたちの『なすべきこと』《思いこみ》噴出。 「なすべきこと」は未来からの《思いこみ》噴出である。 未来からの《思いこみ》噴出を感じるとき、《我》は過去への無限遠点を見る。

ヨンチューモフン: 存在の全体が分かっても何をなすべきかは出てこない。

日本人にとっての「現状認識」は「現状をそのままにして、現状に即した対応をしよう」という発想をもたらす。日本人は「現状を変えよう」とは思わない。「現状を正しく認識して、改善可能性を検討して、改善しよう」とはならない。日本人が現状を変えようとするときには、現状そのものを《思いこみ》で構成していかなければならない。幻を『現状』であると思いこむことによって、実際の現状を変えようとする。 (「日本は戦後一貫してアメリカの属国だ」という存在認識と当為認識とでは正反対:http://www.asyura2.com/0505/idletalk13/msg/481.html

2005-06-03(金)

ヨンチューモフン: 4次元チューブとしてのモノたちの《思いこみ》噴出

2005-06-02(木)

ヨンチューモフン: 未来は背後者である。 過去は現在の無限遠点の先にある背後者である。 我々は、空間を見るときでも、過去を見ている。

2005-06-01(水)

地震が起きている。一日で3回。大地震の前兆か? 明日来そうな気がする。

* 2005-06-03(金):外れたね、よかった・・。

ヨンチュー・ナベコ・モフン(四次元チューブとしての《私》のなすべきことの《思いこみ》噴出): 4次元チューブのなすべきことというのは矛盾か?(時間を越えているので、なすべきことという概念はおかしい?)。存在的当為は存在する。『なすべきこと』という《思いこみ》は存在している。 存在は常に当為の実現である。 当為は身体が知っている。《我》は知らない。《我》《身体》当為を聞くべきである。

ヨンチュー・タコミ・モフン(四次元チューブとしての《私の身体》が感じ取った《他者の思いこみ》噴出): 《他者の思いこみ》が《私の身体》の《思いこみ》であるということは、一種の自己言及だな。 cogito, ergo sumは《他者の思いこみ》である。涅槃は《他者の思いこみ》である。数学は《他者の思いこみ》である。

ヨンチュー・モフン(四次元チューブとしての私の《思いこみ》噴出): 四次元チューブとしての《私の身体》の《思いこみ》噴出

タコミセ・モフン(《他者の思いこみ》世界《思いこみ》噴出): 私が知り得た《他者の思いこみ》は、今ここで私の身体が感じ取りつつある《他者の思いこみ》と、過去の私の身体が感じ取った《他者の思いこみ》の総体であり、それだけしかない。 私の身体は4次元チューブであり、一つのものである。《他者の思いこみ》は私の身体という4次元チューブの属性である。(「4次元チューブ」=「4次元の筒」@2005-05-29)

Last modified:2005/08/01 22:50:29
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