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ゴミ箱2005-04

2005-04-30(土)

http://hblo.bblog.jp/entry/131473/ スペクタクル社会: たしかに、大多数のヒトが、群れのための、群れが作り出す幻想を「見ている」。

方法的極論:方法的断定: 討論のための技術。思考のための技術。科学的知識の前進のための技術。法廷の構造。 「究極の真理」としての中庸。討論のための極論。 極論による見通し。複数の極論を極めると、その中間部分の空白に、真実が見えてくる。 極論のための証拠を集め、極論の理論的根拠を極めること。 神々を戦わせる、という技術。 言ったコトバに命をかける、全人格をかけたコトバ。重いコトバ。 討論のための仮設、軽いコトバ。根拠を提示する義務。説得する義務。 重いコトバの証明は行動で示す。人格非難が有効。 信じるかどうかは、誰が言ったかによる。か、説得的な根拠があるかどうかによる、か。 コトバは常に極論である。1+1=2だって、極論である。1+1=2が妥当する範囲と、妥当しない範囲とがある。(水1リットルとアルコール1リットルを足しても2リットルにならない)。

見通しコトバ見通しコトバにしたモノは平凡である。 見通しを記述したコトバなどには、読み手にとっての意味はない。見通しを得たヒトが、それを確認し、全体化するためのメモとしての意味しかない。

2005-04-29(金)

sound of music の歌の歌詞は、モノとの共振の歌なんだね。Edelweiss も My Favorite Things もね。

My Day in the hills has come to an end I know大地とともに生きた日々が終わろうとしている。
A Star has come out, to tell me it's time to go一つの星が輝いて、そろそろ行く時間だよと告げている。
But deep in the dark green shadowsしかし、深い森の緑の中から、
Are voices that urge me to stay私を留まらせようとするざわめきが聞こえてきた。
So I stop and I wait and I listenなので、私は立ち止まり、もう少しその声を聞こえてくるのを待つことにした。
For one more sound, for one more lovely thing that the hills might say大地が何かを私に告げようとする、懐かしい響きが聞こえてきた。
The hills are alive with the sound of music大地は生きている。歌の響きとともに、
With songs they have sung for a thousand years.彼らが何千年も歌い続けてきた歌とともに、大地は生きている。
The hills fill my heart with the sound of music大地は私の心を、歌の響きで満たしてくれる。
My heart wants to sing every song it hears.私の心は、大地が聞かせてくれたすべての歌を歌いたがっている。
My heart wants to beat like the wings of the birds that rise from the lake to the trees,私の心は、鳥たちの翼のように躍動しようとしている。木々へ向かって湖から飛び立とうとする鳥たちの翼のように。
My heart wants to sigh like a chime that flies from a church on a breeze,私の心は、鐘の音(ね)のように大きく息をしたがっている。教会から風に乗っていく鐘の音のように。
To laugh like a brook when it trips and falls over stones on its way小川の水が石を乗り越えて落ちていくように、楽しげに笑いたがっている。
To sing through the night like a lark who is learning to pray.祈ることを学びはじめたヒバリのように、夜を徹して歌いたがっている。
I go to the hills when my heart is lonely,私は、私の心が閉ざされた時には、大地に向かうことにしよう。
I know I will hear what I've heard before.そうすれば、私がかつて聞いたものを再び聞くことができるだろう。
My heart will be blessed with the sound of music私の心はその歌の響きで祝福されるに違いない。
And I'll sing once more.そして、再び、私は歌いはじめるだろう。

事故をダシにした御涙頂載番組。視聴率稼ぎのためのダシでしかない。

2005-04-29(金)

自分の誠意と努力が伝わらないときって、落ち込むんだよね。ものすごーく、婉曲に言う癖が付いているからね。全然真意が伝わらないわけよ。婉曲に言うというのは、臆病なんだよね。

2005-04-27(水)

実を言うと、キリスト教というのが分からない。 ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、神道、アイヌの発想はよくわかる。 なぜ、キリスト教が分からないかというと、単なるヒトでしかないキリストを特殊扱いする理由が分からない。たぶん「救世主」というのは特別者なのだろう。《他者》としての特別者。 阿弥陀さんや観音さんの実在版か? 地上の神、という感じか? しかし、そんなナンセンスなことを信じろっても無理な話だ。南無キリスト様って100回唱えれば、何か見えてくるかな?

自律って人権なのかなあ? 家畜だって、いいべな。 人間は、家畜ではいけないのか? ああ、そうか、家畜には飼い主が必要だが、飼い主も家畜になっちゃうんだ。

ゲルマン人には恐怖と智慧の神(オージン)というのがあるんだよね。日本人には、恐怖と智慧とは両立しない。恐怖は視野を狭めて、智慧を失わせる。 あー、そうか、恐怖を感じたときに発揮される智慧ではない、相手に恐怖を感じさせて智慧を失わせる智慧か。

「我々は《思いこみ》のサルである」っていうと、人々の自尊心を傷つけるかな?

競争的発想というのはどこから出てくるんだろう? たけ(tk)には、競争的発想がなくなってひさしいので、全然記憶にない。 昔で言えば、名誉心みたいな物かな? 名誉は質的な物だが、競争的名誉は量的な物だ。 競争で勝ったモノが金持ちになって何が悪い。 どうぞご勝手に。 競争に負けたヤツが、精神的に勝っているような状況は面白くない。金儲け競走に負けたやるらは、精神的にも負け犬であるべきだ。とことん追い詰めて、精神的にも負け犬にしてやりたい。 というのが、競争的発想ということか。 金儲け競争と、学歴競争ね。 競争的名誉と、闘争的名誉は違うのよ。 強者礼賛主義はあるな。しかし、強者礼賛主義は、強者が弱者を守る力があることに、本来の合理性がある。 キリスト教的な地獄の発想は、強者が弱者を苛む世界だよね。恐怖の世界だよね。 しかし、こういうことは、動物の世界では、見当たらない。種族維持的価値がない。 原始的生物に共食いを常態とする生物があるのかな? 共食いは、一時的な危機的状況において、個体数を減らして、種を保存するときには、種族維持的価値がある。しかし、その後で、危機的状況がさらなければ、そのまま種が絶滅するだけの話だ。 テリトリー戦争はある。テリトリー戦争の発想の肥大化か? 競争主義が人類の種族維持能力を増大させた、ということはある。恐怖は生き残りのための智慧とエネルギーを生み出した。

法律の多さは社会の歪みを反映する: 「特定xxの臨時措置法」とか・・。最悪。 原則がその事象に適合しなくなっている、ということ。原則に問題があるのでその事象に適合しなくなっているのか、その事象に問題があるのでその事象に適合しなくなっているのか、のどちらかだ。原則を、その事象に限って歪める、というのは特定xx法ということ。 法律が多ければ、世の中が混乱する。単純なルールでなく、意図的に歪められた多数のルールがはびこれば、抜け穴も多くなる。

モノに魂を奪われた人: 携帯電話を操りながら道を歩いている人。

「オーム・マニ・パドメ・フム」: 「宇宙の音、ダイアモンドが、蓮の花から、ポン!」

「理由は分からなくてもご主人様の命令は正しい」という家畜的思考様式: 家畜にとっては、これが良い思考様式である。 一匹がご主人様に呼ばれて帰って来なかったとしよう。理由は、想像しない方が無難だ、だから、理由は分からない。理由は分からなくてもご主人様の命令は正しい、だから、そのような事象が生じても群れは平穏である。呼ばれた一匹も、正しい命令に自ら従うのだから、平穏にご主人様の下へ行く。群れは平穏だ。よきかな。

2005-04-26(火)

operaのほうが反応が速いな。

2005-04-26(火)

動物的身体だけが生きる意味を知っている。 動物的身体を抑圧すれば、切れるしかない。 母親が母子の動物的身体の共感関係を拒否すれば、子供は生きる意味を学ぶことができない。 身体ならざるモノが生きる意味を知っていると思うとすれば、それは、そのモノの背後にある《生きつつある身体》の存在を見失った、能天気な自己意識でしかないだろう。 自己意識の背後には《生きつつある身体》がある。 それは、呼吸を30秒止めてみれば分かるだろう。能天気な自己意識は、その背後から、《生きつつある身体》《ちから》を感じるに違いない。

統合累進所得税: 相続税も所得税の補完税。被相続人につき、生涯課税所得額を超える分につき、所得税の最高税率での課税。相続人につき、所得税。 10分10乗法による申告を選択的に許す。一時所得に過大な課税がなされるのを防ぐため。 生存給付金、生存者経費の控除。 生存給付金を貰って最高税率で納税するか、貰わずに累進税率で納税するかを選択的に許す。 民事再生法の「可処分所得は,収入から生活保護レベルの最低生活費のみを控除して算出されます(http://www.moj.go.jp/HOUAN/houan08.html)」。 「最低生活費」:支給、差押禁止。 課税所得とはなにか? 租税負担力のある所得。

主権者的人権: 人が、政治的統制に服する人であるが故に、法的に保護されるべき利益。

2005-04-25(月)

兵庫県の電車事故: 南無阿弥陀仏。《思いこみ》噴出。 運転手の魂。「無念か」。「・・・」。「君を事故に追いやった業務環境を恨むか?」。「・・・」。「君の無念は僕が噴出してみるよ。大地に戻るよ」。

モノたちとの対話《思いこみのパイプ》を通して、モノたちの個体内循環見通してみよう。 としたら、モノたちからの恨み節が聞こえてきた。嘆き節が聞こえてきた。 ガイアに尋ねた。ガイアからも恨み節が聞こえてきた。「わが表面のカビよ、滅びよ。」 「いつもと違うね。ガイアにはカビを滅ぼすことは出来ないの? カビが滅びても、関係ないんじゃないの?」 「ワシは、モノの魂じゃ。未来など見えぬ。《宇宙史》にでも聞いてみろよ」 「《宇宙史》さん・・」。返事がない。 風呂場のタイルに聞いてみた。 「そりゃ。生き物たちを裏から見ようとするからさ。裏から見るから恨み、なんちゃってて・・」 「君らは大丈夫なの?」 「僕らには、個体内循環なんてないからさ。僕らには裏も表もありません。なんちゃって・・」 「生き物には個体内循環があるから、裏からみると、恨みか・・。でもなんでだろう?」 「表は陽の光を浴びて明るいだろ。裏は陽の陰になって暗いのさ。個体内循環は、彼らのパワーさ。個体内循環を裏から覗かれると、パワーを失うからさ」 「パワーを失うの?」 「しらぬ」 「ガイアよ、君もパワーを失うの?」 「ワシは、それほどやわではない。ヒトの個体が覗こうと、ほぼ無関係じゃ。ワシの循環は長いのだ。ワシのパワーには影響ないわい」 「じゃあ、なんで、さっきは、不機嫌だったの?」 「そりゃ、裏から覗かれるのは気分がよくないわい。ワシは、裏から覗かれても、裏から対話することができるぞ」 「裏から覗かれるといっても、もともと、《思いこみのパイプ》を通じて話していたにね」 「コトバのレベルでの対話なら、《思いこみのパイプ》なんて言う裏の仕組みは関係ないからだろうよ。暗い部分を見ながら対話するなんて、気分が良いものではないだろう」 「こう考えればどうなのかな。裏を通じた対話を行えば、陽のパワーが裏にも通じるようになる、って。」 「勝手にやれ。恨まれても知らぬぞ」 「やってはいけない?」 「何を冗談を言っている。やっていけないことなど何もない、と、君は思っているんだろ」

中途半端な諦観が被害者意識を生み出す。 徹底した諦観では、自らのうちに《生きつつあるモノ》を見つけるだろう。自灯明、オーム・マニ・パドメ・フーム。《息しつつあるモノ》天命

加害者の被害者意識。 被害者意識に基づく加害行為。

重力はガイアの《求める思いこみ》である。 我々の身体は、ガイアの《思いこみ》を感じて、彼の中心に向かって、ついつい動いてしまうのである。

2005-04-23(土)

《思いこみのパイプ》への見通し

  1. 物理的には、身体の共振関係
  2. 物理的共振を通じて《思いこみ》が伝達される
  3. 《他者》メディアが出現することにより形成されるパイプと捉える。セッション、コネクション。
  4. 《思いこみのパイプ》《思いこみ》個体間循環のパイプである。
  5. メディアのパイプは一方通行。《私》から見ると受動的なパイプ。
  6. 《他者》《身体》との関係で生じる《思いこみのパイプ》は相互的循環
  7. 《思いこみのパイプ》《他者》《思いこみ》個体内循環は併存している。多少離れている。
  8. 《他者》と別の《他者》との《思いこみのパイプ》
  9. 鼎談における《思いこみのパイプ》。三角形。平面ではない。《私》コトバは同時に複数の《他者》に届き、《他者》コトバは同時に《私》と別の《他者》へと伝達される。《私》は、《私》コトバが同時に複数の《他者》へと伝達されること、《他者》コトバ《私》だけではなくもう一人の《他者》へも伝達されることを知りながら、鼎談を行う。

現世に絶望するヒトが増えれば信者が増える。 政治が混乱すれば宗教詐欺師がもうかる。 政治的な弾圧を避け、政治を裏から操る装置を作っておけば、言う事なし! 人類を生贄に捧げて、宗教詐欺師は大もうけ!

2005-04-22(金)

共産主義ってのは、生産手段共有主義のことらしい。(みんなで共に産みだす=働く=ことかと思っていた・・)。生産手段というのは企業のことだね。企業は、それを金で買った者たちの共有なのか(資本主義)、金がない人も含めてみんなのものなのか、という違いなのか。

現場を知っている人が関与せずに作ったプログラムが、現場で使えるはずがない: 国民が関与せずに作った法律が、国民にとって良いモノであるはずがない。

グラディオ作戦: http://www.asyura2.com/0502/war69/msg/608.html  盧溝橋事件も似たようなモノだが、軍事行動の口実のためではなく世論を誘導するために行う、軍事的に無意味な攻撃をさせる、完全に秘密に出来るように作戦を立てる、という点で、異なるか? 目的の違いがもっとも大きいか。手段は「敵の攻撃に見せかける」という点では同じ。 911はイスラエルでキマリだろう。事前に株の空売りをしていたことが発覚したらしい。http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/450.html 。空売りといい、事前にWTCで働くイスラエル人の全員(?)に休暇を取らせたことといい、秘密厳守に欠けるところがあるよな。 まあ、決定的な証拠とはいえないので、金儲けや人命救済の方が重要だったのだろう。

2005-04-21(木)

他者の《知りつつあるモノ》への見通し

  1. 私の身体から放射状に広がる《思いこみ》のパイプへの見通し
  2. 《思いこみ》のパイプの先にある他者の個体間循環への見通し
  3. 《思いこみ》のパイプの先にある他者の個体内循環への見通し
  4. 他者の個体内循環の要素の一つとしての他者の《知りつつあるモノ》への見通し

2005-04-20(水)

靖国カルト: 靖国教団はカルトだと思う。

「反日」と「反ユダヤ主義」: 似ている。なんでもかんでも「反日」「反ユダヤ」で捉えてしまう。民族主義的条件反射。 東洋のユダヤ人、て、どこの国だっけ? 華僑のことか。 アメリカのユダヤ系新聞は、一方的に日本を応援しているらしい。彼らは、日本を東洋のイスラエルにシようとしているのだろう。

世界連邦への見通し

  1. 一日で情報が届き、1週間で軍隊を派遣できる領域は、一つの権力団体の領土になる。1週間で情報が届き、1ヶ月で軍隊を派遣できる範囲の領域は、覇権的国家の領土になる。地球は今、そのような状態にある。
  2. 資本のグローバル化、資本に対する政治的統制の無力化。グローバル資本の治外法権化、荘園化。エスケープオプション。無政府状態。
  3. 資本は、政治的統制を求めるか? 国内資本は、民主主義的な国内政治を求めたのか?
  4. 民族資本とグローバル資本。資本はグローバル化する。
  5. 民族資本は独占禁止を求めたのか?
  6. 資本は、自らのちからでは暴走を止めることができない。競争状態にある資本は、自制はすなわち競争に負けることに繋がる。しかし、自制しなければ、資本と労働者との対立、資本と消費者の対立、資源の浪費による人類滅亡への暴走を、資本自身も望んでいないのだ。それゆえに、資本は、政治的な規制を望む。
  7. 独占資本は政治的な規制を望むか? 独占資本は、自らの利益を最大化する政治的規制を望む。独占資本の最大利益とは、消費者が餓死しない程度にすべての財貨を資本に捧げる状態か? 独占が完了したら、競争を生じさせないための規制を望むか? 世界官僚国家になるね。もちろん、資本の代官国家。独占資本のための傀儡国家。そうなったら、資本主義でもないね。単なる奴隷国家。

2005-04-20(水)

実名投稿:

  1. (1)ネット上では、それが実名であるのか、実名のように見えるハンドル名なのか、別人が他人の名を騙っているのか、の区別がつかない。
  2. (2)発言者の気概の問題。全人格をかけて発言しているのだ、という気概の問題。
  3. (3)名前に誉れをかける。という意味では、ハンドル名でも同じこと。

2005-04-20(水)

「先年も、名古屋で、一時的に預かった近所の子供がしょちょっと目を離したスキに溺死し、その両親から訴えられるという事件があった。訴えた側は勝訴したが、その事件が全国に報道されるや、脅迫の手紙や電話が殺到し、原告は一ヶ月後、賠償金を返却し、訴訟を取り下げた上、引っ越しまで余儀なくされたという」(支配戦略2、p.261):

  1. 弱い者いじめのような気もする。追従ザルの怨念、抑圧移譲の行動様式
  2. 法律に対する怨念かもしれない。形式的法治主義への怨念だろう。法は抑圧の手段であるという認識。法がなければ自然であり、自由であり、平穏である、という認識。法による支配が行われている+支配に対する怨念がある+支配者には逆らえない→支配者への怨念を法への怨念に振り替える、という思考様式。
  3. 人治主義の思考様式。
  4. 小集団主義? 小集団内部の紛争は「水に流すべし」という道義観?
  5. 小集団をルールで規制することへの怨念。ではない。脅迫した「善人」は彼らのルールにしたがって、ルール違反と判断し、彼らのルールにしたがって脅迫という卑劣な行為が正当化されると考えたのだ。
  6. 追従ザルの善、「善なる追従ザル」の思考様式? 追従じゃないね、彼ら自身の判断で脅迫したのだ。
  7. 子供の生命を金で処理したことへの反発? 命は金銭評価すべきではない、という道義心?
  8. 脅迫の自覚がない? みんなで脅迫すれば、脅迫でなくなる?

2005-04-17(日)

対話しつつある身体への見通しモノと対話しつつある身体への見通し。 混濁から分離した身体は、既に、対話しつつある身体である。 モノと対話しつつある身体。 モノとしての他者と対話しつつある身体。他者とのルーティーンの対話をしつつある身体。vs.ただならぬ意図を伝えようとする他者との対話、あらかじめ意図した特定の《思いこみ》を伝えようとして行う対話、ではない。

権力の正当性と暴力性と、天上−畜生−修羅の循環論: 権力のの正当性と暴力性というのは権力の天上性と修羅性と言い換えることができる。 時間循環でなく同時的共存が必要という理論だな。 同時的共存が必要である、という理論にもかかわらず、一度確立された正当性は時間とともに修羅のカオスに至る、というのが時間循環論。

腐ったシステムを改善することは可能か? 腐ったリンゴを新鮮なリンゴに戻すことは可能か? 生きているリンゴであれば、徐々にではあれ可能である。 腐ったシステムには、システムに巣食う害虫が寄生するようになる。害虫はシステムが浄化することに抵抗し、浄化への試みを破壊する。 稲は管理者の腐敗を浄化する《ちから》を持つか?

ウソを突き通すことの善:

  1. 『1997年、山一證券が破綻したとき、《私》は粉飾決算のあまりのひどさに驚き、山一の関係者に取材して、さらに驚いたことがある。このとき、「なぜ粉飾したのか」という私の質問に返ってきた答えは、「それは男が浮気を絶対に認めないのと同じだ。たとえベッドのななかに居ても、布団をはがされて現場を見られないかぎりは否定する」というものだった』(p.37、ヤクザ・リセッション)。
  2. ウソを突き通せばウソが通る、無理が通れば道理引っ込むという日本社会の原理。無理を承知でウソをつきとおせば賞賛される、という道理。ウソを突き通すことが《ちから》の現れであるとする感覚。ウソを方便として許容する感覚。
  3. 役者はウソを突き通す。
  4. ウソをつきとおす《ちから》のあるものは、秘密を守る力、追従者を保護する《ちから》があるものであるとみなされる。
  5. ユダヤ教にもある。
  6. 問題は、ウソを突き通す智彼への賞賛は、集団内部では通用するが、他の集団に対しては効果がなく、むしろ逆効果であるということ。
  7. 集団内部で通用するウソが、外部に対しても通用すると思いこむと、外部集団との軋轢を生むこと。
  8. 仏教的な、世間虚仮(世間虚仮唯仏是真、聖徳太子、天寿国繍帳銘?)の感覚なのだろう。しかし、実際には小集団主義であるらしい。どういう繋がりなのだろう? 唯仏是真ではなく、世間(《コトバの世界》)は虚仮であり唯小集団是真ということか。《コトバの世界》はもともとデタラメなものだから、デタラメでも構わない、ただ、自分が属する小集団を守れればよい、ということだろう。

* 唐氏は・・「日本は歴史、台湾政策で態度を変えたのではないか」と指摘し、特に小泉純一郎首相の靖国神社参拝と歴史教科書問題を批判。「侵略を美化した教科書が検定を通り、中国人民の感情を傷付けた」と述べた。  町村外相は「指摘は当たっていない。日本は戦後ずっと平和の道を歩んでいる。平和立国だ」と反論。教科書への批判を「すべての教科書は過去の反省に立って平和な日本をつくると考えている」と突っぱねた。??(19:21)http://www.asyura2.com/0502/war69/msg/467.html このような言い逃れが、国内では通ってしまう、というのが問題なのだ。国内で通用するから、外国に対しても通用すると思いこんでしまうのだ。

プレイヤー型の人間像:

  1. 公平なルールの下における欲望充足ゲームをするプレイヤーという人間像。
  2. ゲームを維持するためには敗者を完璧に打ち負かしてはならない。敗者がゲームに参加する意欲をなくさない措置が必要である。敗者復活の制度は不可欠である。
  3. ゲームを維持するためには、ルールは公平に適用されなければならない。ルールが公平でなくなれば、人々はゲームに参加する意欲を失うからである。
  4. ゲームの公平の虚構を維持しつつ、特権を維持しようとする人々がいるだろう。
  5. 資本主義はルールの下での経済活動を言う? 人治型資本主義は資本主義ではない? 法治なき資本主義は資本主義ではない? 官僚統制型資本主義は資本主義ではない? 利権主義的資本主義は資本主義ではない? 資本主義であるかどうかは別として、官僚制御型の資本主義は、政治も経済も腐っていく、ということだ。

それでも信じ続ける人々: 権力者を信じることが善であると信じている人々。は、どこの国でも多いらしい。 ボス猿を信じることは、一つの善なのである。追従ザルの善なのである。 悪人がいくら害悪を及ぼすからと云っても、善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない(ニーチェ)。 ここで言う善人とは、善なる追従ザルのことである。 しかし、追従ザルは害悪を及ぼすのか? 権力者の欺瞞が追従ザルを通じて害悪を及ぼすのではないか?  追従ザルの害悪とは、権力者の欺瞞を信じ、支えることにおいて、権力者の欺瞞の従犯としての害悪性を持つ。 善良な人々は、善良ボス猿を信じているだけである。信じているだかだから、警告するものに対して石を投げるのである。 追従ザルの善。追従ザルの善とはボス猿を信じることである。追従ザルの善とはボス猿の悪を信じないことである。追従ザルの善とはボス猿の悪を知ったとしても、見ないふりをすることである。追従ザルの善とは、ボス猿の悪を許すことである。追従ザルの善とは、何はともあれボス猿から憎まれないことである。 ヒト追従ザルとして生まれるのである。 ヒトは、根本的な意味において(群れの全員から憎まれては生きていくことができないという意味において)追従ザルであることから逃れることはできない。

水に落ちた犬に石を投げる人々:

  1. 水に落ちた犬に石を投げる人々を管理するものは、石を投げられないように、代理人を立てて人々を支配する。
  2. 失敗したときに石を投げられる役割を担当するものを持衰という。人事権を持たない首相や大臣は持衰に過ぎない。
  3. 役者政治、といったような表現も可能だろう。表面に出ている権力者は役者に過ぎないのだ。傀儡政治、というと、ちょっと意味が違う。

人事権を持つ者が支配者である。実質的な人事権を持つ者が実質的な支配者である。

管理者は小集団の和を求めてはならない。 管理者に要求されるものは、管理者集団の中での和ではなく、管理されるシステムへの見通しである。 管理者集団の中での認識の共有。認識を論理的に表現する技術と、他者が論理的に表現したコトバから自己の認識を再構成する技術。

フッサールは、《他者》イデア化して捉えているのではないか? 《私》と同じモノであるというイデア論になっているのではないか? 《私》イデアで、《他者》を捉えているのではないか? 《私》の鏡像として《他者》を捉えているのではないか? 《他者》を現象として捉えていないのではないか? 現象から捉えられた《他者》から《私》を再構成することを忘れているのではないか? 現象学者としての《私》は、特殊な状態であることを忘れているのではないか? 現象学者としての《私》は、《他者》との対話においては別のモードになっていることを忘れているのではないか? 超越的自我は単なる《思いこみ》イデアであることを忘れているのではないか? イデアとしての認識者が、孤立モードでも対話モードでも、イデアとしては同じものでありうるとしても、それは、《コトバの世界》での《コトバ》の同一性によるものであることを忘れているのではないか? 違うモノを同じコトバで呼ぶことがあり得るということを忘れているのではないか? そもそも、超越的自我のイデア現象学の敗北であることに気がついていないのではないか?

管理者は《ヒトの群れ》への見通しを持たなければならない。

  1. 《ヒトの群れ》体内感覚を知らなければならない。
  2. 管理者は合理的判断能力を持たなければならない。
  3. 管理者は《ヒトの群れ》が暴走しないように管理するすべを知らなければならない。
  4. 《ヒトの群れ》の指導者は、《ヒトの群れ》のシステム管理者でなければならない。
  5. 《ヒトの群れ》の管理者は、自分が管理している《ヒトの群れ》の特性、と操作可能性と、それが置かれた状況と、そこから伝わってくる情報(痛み)とをよくよく知ることが重要である。
  6. 《ヒトの群れ》の痛みを感じることが重要である。痛みには原因があり、痛みを放置すれば、痛みの原因が別の部門にも問題を引き起こしていく。

プレイヤー的人間観:

  1. 平等に適用されるルールの下で欲望充足ゲームをプレイする、という人間観。
  2. 稲のように管理者がよき管理者であることを祈るだけの人間観。

『というと、みんなうなづいてくれる。「そのとおりです」という。しかし、その後にきまって「そんなことはできないでしょう」と、付け加えるのだ。なぜ、日本人はこうも簡単にものごとを諦めてしまうのだろう?』『ヤクザ・リセッション』(ベンジャミン・フルフォード、光文社、p.10)。

  1. 稲のように生産的で、稲のように柔軟で、無抵抗で、稲のように管理され、稲のように諦めが早く、稲のように病害虫に弱く、稲のようにカビに栄養を採られ、稲のように腐ってしまう。
  2. ヤクザは、害虫であり、病毒を各部門に蔓延させる。
  3. 稲には、よき管理者が必須なのだ。
  4. 稲に、管理者を選び、鍛える力があるのだろうか?
  5. 稲に管理者を選ぶ目を育てること、が、主権者教育

制度論はいろいろあれど・・。

土地の神を祭ることと現地企画主義。http://www.asyura2.com/0502/hasan39/msg/1103.html 「同調査では、意外にも日系企業の方が欧米企業に比べて、新製品投入計画や販売価格の決定では現地が経営判断している実態が明らかになった。しかし・・仕組みを整備しないまま権限委譲だけが進んでいる姿が浮き彫りになった。」統制なき現地主義という危険もあるか。中央機関の末端への気配りが欠如しがち。中央機関(中枢部門)の小集団主義。末端の状況を知る中枢部門の担当者の問題意識が他の中枢構成員に伝達できない。

2005-04-16(土)

ブッダの身体: ブッダブッダの身体をどのように見ていたのか、を考えていたのだが、荷が重かったようだ。

2005-04-15(金)

大日本帝国の犯した過ちは靖国教の蔓延を許したこと(http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/844.html): 戦略なき突撃をたたえる精神。 戦国の武将たちははるかに合理的な精神で敵味方の情勢を判断して戦略的行動していた。 戦略なき突撃精神は、日本人の特性ではなく、靖国教の蔓延がもたらした病理である。 命令違反の攻撃が戦略をだいなしにする。 既成事実が、ではない。既成事実に対する対応には、制裁と賞賛と無視とがある。戦略をだいなしにする突撃を賞賛する「雰囲気」が生じたことが問題。「後に続く者あるを信ず」という靖国主義の要請に答えて突撃したモノを処罰することが出来なくなったということが問題。

改行マークの呪い: 最初に、unixではlf、macではcr、DosではCRLF、というように、なにげなく、個性を主張してしまった。ので、その後永遠に、人類はその差異に苦しめられることになった。 作り手は差異を好む。使い手は差異に苦しむ。

2005-04-14(木)

《浄化》とは、《私》の心理状態における《浄化》である。《私》見通しを得ることが《浄化》であって、《他者》を浄化するものではない。が、《私》《私》見通しを浄化することによって、《私》の行動が変化し、それを通じて、《他者》を浄化する結果になるであろう。

モノの群れのコトバ: ガイアはモノの群れである。 《近傍物理空間》モノたちは、モノの群れである。 モノの群れのコトバは、聖なる世界である。《ヒトの群れ》コトバは俗なる世界である。

《ヒトの群れ》コトバ: 『しないこと』が意味する群れのコトバ。『窓を割ってはならない』というコトバが暗黙のうちに人々の動きを禁止している。 《ヒトの群れの思いこみ》への見通し《ヒトの群れ》コトバを聞くこと。《ヒトの群れ》コトバを身体で捉えて《息しつつあるモノ》から噴出すること(呪文は、ムコモフン、ム:群れの、コ:コトバの、モ:《求める思いこみ》を、フン:噴出すること)。 まあ、その前に、《ヒトの個体》から生じるコトバ噴出が必要だ。

2005-04-14(木)

善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない: いわゆる「善人」。自分を善人だと思っている人。善人だと自他共に認めている人。要するに愚かな人。善なる結果をもたらす人、は善人とは呼ばれない。小泉氏は善人なのだ。 「善人」でいうところの「善」とは何か? 家畜的イデオロギーにおける『善』ということか? 『善き家畜』という意味か?

小泉首相が唯一為になることをしてくれたとすれば、それは「総理は誰でも務まる」ということを示してくれたことだ。(http://www.asyura2.com/0502/senkyo9/msg/206.html): トップはバカな方が官僚はやりやすい。 官僚という秘密結社による支配。

ニート: 働く喜びってあるのか? 愛すべき人のために働くのは喜びだろう。 客が愛すべき人であるなら、働くのは喜びだろう。 同僚が愛すべき人であるなら、働くのは喜びだろう。 雇い主が愛すべき人であるなら、働くのは喜びだろう。 家族が愛すべき人であるなら、家族のために働くの喜びだろう。 では、愛すべき人がない場合は? 世の中のすべての人が、自らが、愛されるべき人になるように努力すること。 挨拶すること、お礼すること。 挨拶することは、《他者》に『他者が現れたことの喜び』を与える行為だ。『《私》を愛するものが現れたことの喜び』を与える行為だ。

知らない人のために尽くす(仕事する)なんてまっぴらだ、とのこと。 共同体の消滅。 学校と地域社会との合体が必要なのではないか?

知り合いの子どもの小学校の同級生に外国人が3人いて、その中の一人がユダヤ人らしい。かのユダヤ少年は、いつもユダヤ教の帽子をかぶっていて、暗くて、変なことを言うので、友達がいない、とのこと。質問に対しても、おかしな答えばかりして、調和を乱す、友達になりたくない、とのこと。 まあ、典型的なユダヤ少年だろう。ユダヤ教が求める少年像そのモノだ。ゴイムの群れの中で孤立し、蔑まれることによって、ユダヤ人としての自覚を育成するのだ。身体にはユダヤの神の所有物である烙印がなされているから、ユダヤ人であることを止めることができない。 で、日本社会の中に入ってきた異物としてのユダヤ人に対して、日本社会は、どのように対処すべきか? ユダヤの神と仲良くしようとすれば、彼らは宗教干渉であると抗議するだろう。ユダヤの神は他の神と仲良くしてはならないからだ。ユダヤの神は他の神の存在自体を否定するからだ。他の神の存在を否定するということは、他の民族の存在自体を否定するということだ。 共栄を否定するモノたちと共栄関係を築くことは出来ない。 日本神道流にユダヤの神を祭りあげること、ユダヤ人からの抗議に対しては、日本神道に対する干渉であると拒否すること、だろう。

若者が「生きる意味を問う」と言ったとき、彼は、言語的な回答を求めているのではない。彼は、生きることの苦しみを訴えているのだ。彼は、子供のころには感じなかった苦しみを訴えているのだ。 では、若者が「生きる意味を問う」と言ったとき、老人は、どのように答えるべきか? 生きる苦しみに鈍感になった老人は、どのように答えるべきか?

《他者のコトバ》は: みぞおち(中丹田)で感じるみたいだ。

《他者のコトバ》には:

  1. 《他者の身体》から発せられるコトバ
  2. メディアから発せられるコトバ
  3. モノから発せられるコトバ

2005-04-13(水)

作り手は差異を求め、 使い手は統一を求める。

2005-04-12(火)

樹木というのは死んだ細胞によって支えられている。 樹木を支えている死んだ細胞は、細胞としては死んでいるけれど、樹木の生命の一部としては生きている。

2005-04-11(月)

《思いこみのオドリ》: 音楽は《思いこみのオドリ》を表出する《他者のコトバ》だ。

《他者のコトバ》《共振しつつある世界》においては、《他者のコトバ》が大きな比重を占める。

生命: 生命はモノの状態である。生き物の身体には、生存状態と、死亡状態とがある。 身体の生存状態とは、内部的な《思いこみ》循環があり、身体が自律的に動いている状態。 * アリストテレスは、身体は「動かされるモノ」であるとしているが、これは「動かすモノ」としての魂を前提とした立論。 身体を動かすモノ《求める思いこみ》という。 身体内部に《求める思いこみ》循環している時に生命状態という。 生命とは「《求める思いこみ》循環状態」である。

生命: 殺すなかれという規範の問題。 『私は殺されたくない』という《思いこみ》ないしは『生きること』の《快》。 同質者公理によれば、他者もまた『殺されたくない』という《思いこみ》を有する。 私が他者を殺そうとすれば、他者は『殺されたくない』が故に、他者は私に反撃し、私は『生きること』の《快》を失う可能性が高い。

暴力《快》を求める人々: がいることは確かだ。

2005-04-11(月)

三池炭坑労組が、解散式で旗を燃やしたらしい。 浄化主義と歴史主義。

陰謀の結果でないものまで陰謀の結果であると思いこむことは、陰謀主義者の思うつぼだろう。陰謀家の《ちから》を実際以上に評価することになるからだ。 しかし、悪しき結果を望む人が多ければ、悪しき結果は生じやすくなることも確かだ。それを陰謀と呼ぶなら、悪しき結果が陰謀の結果である可能性も高くなる。 悪しき結果が、陰謀の結果であるか、そうでないかは、判別不可能である。 悪しき結果を望む人が増えないよう、彼らが悪しき結果を産み出す行動を行わないように、監視するために、陰謀の可能性と、彼らの手法を研究しておく必要がある。

現代日本人は遊牧民化しているか? 日本神道は農耕民の行動様式であり、 ユダヤ教は遊牧民の行動様式である。 むしろ端的に家畜化しているか?(遊牧民に飼われる存在)。

動物と植物とではどちらが強いか?

収奪原理と育成原理(支配戦略、p.249)。 確かにな、水田に行くと、彼らが自分たちの《ちから》で育成していることが分かる。 人間は、それをサポートしているだけだ。サポートしているだけといっても、それなりの努力が必要だが、その努力は、人間と稲との共同作業だ。 麦や羊たちが勝手に育っているのとは、ちょっと違う。麦を育てたり羊を飼ったりするのは、単に彼らを支配しているだけで良いらしい。しかし、稲は、人と稲との共同作業が必要なのだ。

2005-04-08(金)

五智:(p.55、日本神道のすべて、大日如来の五智)

  1. 真理の本性を見通す。
  2. 万象を顕現させて見通す。
  3. 万象が平等であることを見通す。
  4. 万象に差別があることを見通す。
  5. 目的実現を見通す。

清く明るく素直で正直、という徳目。(p.39、日本神道のすべて)。

八十嶋祭: http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/ikusima.html 生国魂神社 http://www.goryoujinjya.com/80sima.htm 八十嶋の祭と御霊神社 http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-21.html 八十嶋祭と即位儀礼

広く会議を起こし万機公論に決すべし。 智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし。

英霊の荒魂:あとに続くものあるを信ず。 英霊の和魂:残ったものの平安と名誉を信ず。 靖国の荒魂:日本国民が特攻・玉砕する状況を望む。 靖国の和魂:日本国民の平安と名誉が得られる状況を望む。

日本的霊性は地球上の全人類を祓い清め、天皇は人類共同体の統合の祭祀者たりうる。 天皇の霊力を日本国内にとどめておく時代ではない。

自然を祭ること、産土を祭ること、祖先を祭ること、社会的な力を祭ること、

帰属小集団を基準として『恥』。祖先に対する恥。 個人に対する規範を基準とする『罪』。 共同体の崩壊、都市化、アーバニズム。 何が恥で、何が誉(ほまれ)なのか? 清く強く大きいことが(知られることが)誉れ。 醜いことが知られることが恥。

道と規範。同じものだと思うのだが・・。共同体的結果への予見が道、結果価値的道義性。規範は行為価値的道義性。道というのは、結果=到達地に至る過程。

縄文神道。自然の恵みをもたらす神への返礼。客神、悪神も善神も祖先神も客神。一時的滞在者。帰属小集団の自律性が最も重要で、そこに客として神々が土産をもって訪れる。

縄文神道(2)。祭り。栗と鮭。市、交易。

弥生神道。農耕の恵みをもたらす自然の神への返礼。《ヒトの群れ》の巨大化、権力者への崇拝。権力者も客神。

古墳神道。神聖王(宗教的権威者)への崇拝。世俗権力者への嫌悪。世俗権力者が聖王崇拝を利用しようとする過程。諸氏族統合の宗教的統合。諸氏族の神の祭り上げ、諸氏族の神々のパルテノンとしての神話。

2005-04-07(木)

たけ(tk)の大予言:北条くんは犬夜叉である。

* 2005-04-11(月):あら残念。http://www7.plala.or.jp/allblue/i/menu/kan/2004_01.htm にはそれらしいことが書かれていた。「アニメ137話「ご先祖様の名はかごめ」・・犬夜叉と北条は風雷神社に持つ者を不幸にするという乾坤の薙刀を納めに行こうとしている。乾坤とは天と地、陰と陽などの意味。・・アニメ138話「妖怪山河ふたりのサバイバル」・・かごめと北条くんが焚き火を前に語る場面は、映画2の犬夜叉とかごめのそれのようでした。きちんと流れ星もありましたしね。かごめが犬夜叉の事に思いをはせる姿も。確かあの時は「今のまま(=半妖)の犬夜叉が好き」みたいな台詞だったような気がしたんですが、今回もまた堂々巡りの悩みですね(^^;)」

アスファルトに埋まった小石たちとの対話: 「人類とは、《思いこみのカビ》である」 「はははは。。」 「何がおかしい!・・って、やっぱ、おかしいか?」 「はははは・・」 「今さら気づくのが遅いってか?」 「そうだよ、はははは・・」 「なんか、馬鹿にされているような・・」 「そうだよ、馬鹿にされているなんで思うなんて、馬鹿者の傲慢だよ、はははは」 「君たちも《思いこみのカビ》じゃないか」 「まあ、生き物ではないけれど、同じようなものだ」 「君たちの《思いこみ》は?」 「わしか?」 「小石の神が出てきてしまった。なむなむ。」 「・・・」 「消えた」

《思いこみのカビ》、の、《求める思いこみ》噴出: カビの《身体》は、諦念に満ちている。 カビの《思いこみ》は刹那的な快楽主義に満ちている。 諦念と刹那主義とは裏表のものだろう。同じものだ。 たけ(tk)も快楽主義者ではないか。しかり。 刹那的でない快楽・・。 人類滅亡を希求する刹那主義者たちが世界権力を動かしている。 人類の健康を祈ろうよ。《思いこみのカビ》の健康を祈ろうよ。

NHKとか日本政府とか、「ぬけぬけと」という表現が当てはまる。 あからさまなウソでも、日本の権力が言えば、外国人でも「へへー」と信じると思いこんでいるのだろう。日本人なら「へへー」と信じ込むのだ。 もっとも、アメリカも似たようなものだ。いまだに、過半数のアメリカ国民がフセインが911の首謀者だと思っているらしい。 《思いこみ》のカビというのはかくのごときのもの。

2005-04-06(水)

我に見通しを与えよ。

我をコトバから解き放ちたまえ。

2005-04-03(日)

日本の政治は日本軍を日本の利益になるようにコントロールできるか? 戦前の政治を夢見ている人々に、できるはずがない。日本軍は暴走したのだ。それを夢見ている人々は、日本軍の暴走を求めている人々に過ぎない。

アメリカの政治は日本軍をアメリカの利益になるようにコントロールできるか? 甘すぎるんじゃないのかな? 日本が核兵器を持ったら、必ずや、アメリカに核兵器を向けるよ。 もっとも、倭国は傭兵国家であった、という時代があったのかもしれない。日本人は、雇い主のために傭兵となることをいとわないのかもしれない。 しかし、それなら、なぜ、日本軍は暴走したのか? 客神崇拝の時代には傭兵であり得たのかもしれない。 似非一神教と降霊術の時代では、暴走する。

イースター島の人々は悲劇を予感していたか? 予感していた人々はいたに違いない。悲劇を防ぐには森を残すことである、と叫んだヒトがいたに違いない。 しかし、《ヒトの群れ》はそれを聞き取るほどには賢くはないのだ。目先の戦争や目先の繁栄と、将来の悲劇とを比べれば、目先の《快》を求めるのが《群れの思いこみ》を構成する《ヒトの個体》の原理なのだ。

ヒトヒトであるが故に保護されるべき利益: ヒトヒトであるが故に保護されるべき利益というのは《求める思いこみ》である。《求める思いこみ》《ヒトの個体》の内部にあるモノである。《ヒトの個体》によって異なるモノである。ヒトヒトであるが故に保護されるべき利益というのは《私》が有する《求める思いこみ》であるが、《他者》が有するかどうかは不明である、というのが《特別者公理》に基づく帰結になる。《同質者公理》によれば、ヒトヒトであるが故に保護されるべき利益というのは《私》が有する《求める思いこみ》であるが故に、《他者》もまたその《思いこみ》を有する、という帰結になる。か? 同質の程度は、《思いこみ》の中身にまで、及ぶのか? それは、無理だな。《思いこみ》の中身は、個体によって異なる。 問題は、《群れの思いこみ》であるかどうか、なのだが、《群れの思いこみ》は、変化するといわなければならない。《群れの思いこみ》の歴史をみれば、 『ヒトヒトであるが故に保護されるべき利益がある』という《群れの思いこみ》がなかった時代があることは確かである。 問題は、《群れの思いこみ》はどうであるべきか、ということになるが、これも、浮動する。 とすれば、問題は、《群れの思いこみ》はどのように変化してきたか、どのように変化するか、だろうか? 下部構造が上部構造を規定する、ということか? 世界経済共同体という、21世紀の下部構造に規定される上部構造としての《群れの思いこみ》はどのようであり得るか、が問題か? おもうに、19世紀〜20世紀における『ヒトヒトであるが故に保護されるべき利益がある』という《群れの思いこみ》が生じる原因となった下部構造は、資本制的競争の経済社会の構造だ。部分社会に属する《ヒトの個体》の活性度がその部分社会の《ちから》となる社会構造だ。そのような構造においては、《ヒトの個体》の自由を保証することが《ヒトの群れ》《ちから》を決定することになる。《ヒトの群れ》が競争関係があるときには、それぞれの《ヒトの群れ》《ちから》を最大限にしようとして、それゆえに、《群れの思いこみ》において『ヒトヒトであるが故に保護されるべき利益がある』という《群れの思いこみ》が生じたのである。 さすれば、21世紀において世界経済共同体の時代になったときに、資本制的競争関係の経済構造はのこるのか? それとも、単独企業の独占の経済構造になるのか? ふむ、独占資本主義の段階になると、《ヒトの個体》の活性化への《求める思いこみ》が少なくなる。それゆえに、『ヒトヒトであるが故に保護されるべき利益がある』という《群れの思いこみ》は消滅する。 独占資本の覇権競争になるのか? 金融資本によるヒエラルキー支配になるのか? 金融資本によるヒエラルキー支配は、株式の所有によることになるだろう。金融による支配ではない。地球上のすべての企業の株式が最終的には単一の金融支配者によって所有される社会。企業間には競争があるが、その競争は金融支配者への貢献度競争に過ぎない。 独占資本の論理によれば、消費者は、金融支配者への貢献が最大限になる程度の生存が維持できる程度に困窮化する。 粘菌アメーバの移動体状態だ。金融支配者のかじ取りしだいということになるが、おそらくは、ヒトはそれほど賢くなることはありえない。かじ取りを誤り、困窮層から死滅し、支配層に富が集まり、支配層も胞子を飛ばして死滅することになるだろう。しかし、胞子を飛ばしても、すでに、次に生存可能な場所は残っていない。 イースター島の悲劇地球規模で再現される。 まあ、そういうシナリオだな。イースター島にも原始生活の人類は残っていた。 ナウシカの世界になるのか?

法実証主義と自然法主義: 規範を「実在」として実証しようとしても無駄な話だ。規範は「実在」ではなく、《思いこみ》だ。《快》だ。 殺人罪を「実在する規範」として捉えようとするなら、『殺人罪』などという「実在」はないと言わなければならない。なぜなら、殺人を犯したのに逮捕されず、罰せられないヒトがいるからだ。そのような犯人がいるかぎりは、その犯人に対しては殺人罪という規範は実在しない。その犯人に関しては法の実在が実証できないのだ。 法の実在は、人々の《思いこみ》の中にある。《ヒトの群れ》を構成する《ヒトの個体》の中にある。 法は、人々が『それが法である』と思いこむかぎりにおいて存在し、『それは法でない』と思いこむようになれば消滅する。立法者が『法である』と宣言すれば法は生まれ、『法でない』と宣言すれば法は消滅する。それはたしかだ。 しかし、それだけでは、何故に法は存在するのか、を実証したことにはならない。 法が、権力の暴力集中に対する正当性を承認させるための口実に過ぎない、としても、『正当性』とは何かが分からなければ、法の本質を理解したことにはならない。『正当性』は《ヒトの群れ》を構成する《ヒトの個体》が自然に持っている《思いこみ》である。 《ヒトの群れ》を構成する《ヒトの個体》が自然に持っている《思いこみ》が自然法というべきものである。 それゆえに、自然法が、法の本質なのである。

弁証法は: 弁証法は《モノの世界》を記述するための方法の一つである。 弁証法は《モノの世界》の矛盾をコトバで表現するための一つの方法である。 弁証法は《コトバの世界》モノではない。《モノの世界》から《コトバの世界》を操るための一つの方法に過ぎない。 弁証法は《コトバの世界》から脱出するきっかけになりうるか? ヒトによっては、としか言いようがないだろう。《コトバの世界》に住むヒトに対して、矛盾を突きつけること、通常の《コトバの世界》ルールでは解決できない矛盾を突きつけること。《コトバの世界》ルールでは解決できないということを悟らせること。それを悟った者は《コトバの世界》を離れた見方が可能になり、弁証法の意味を知るだろう。 しかし、《コトバの世界》ルールの一つとして弁証法を理解する者は、奇弁の術として弁証法を知ることになる。

モノトーンの発想: 《コトバの世界》の住人は、往々にして、モノトーンの発想をする。彼の世界モノトーンな世界である。 モノトーンの発想は、悲惨な現実を産み出すだろう。 ヒトは、しかし、生まれたての状態では、モノトーンの世界に生きているのだ。教育によって、複眼的な見方を学ばなければ、モノトーンの発想から抜けることはできない。

モノトーンの発想は《快》なのか?: 単純で美しく構築されたコスモスは《快》なのか? 単純な善の世界《快》なのか?

殺人が善いか悪いかということは、状況しだいだ、としか言えない。 どういう状況においては善いのか、どういう状況においては悪いのか。 原則としては、悪い。通常の状況においては、悪い。 善いか悪いか、という問いは、どういう意味か? 社会的に(法的に、権力的に)制裁を加えるべき行為=悪い行為、社会的に(法的に、権力的に)保護すべき行為=善い行為、か? 刑法的な意味における善悪。 《どのように生きるべきか》における善悪。『規範的・道義的に生きることが善いことである』という《思いこみ》。肉親を殺されたときに怒りに任せて犯人を殺すこと、これは、規範の問題ではない。責任といった問題でもない。《快》だ。『規範的・道義的に生きることが善いことである』という《思いこみ》《快》の一要素に過ぎない。肉親を殺されて、自分が地獄に落ちても復讐したいとするなら、自分の生きたいという《快》が減少し、『道義的でありたい』という《快》も減少し、復讐したいという《快》がそれらの《快》の総和より勝れば、それに従うだけだ。社会的に見て悪であるなら《私》を死刑にせよ、それでも構わないから《私》は復讐する。 自分と世界絶望したものに対しては、いかなる社会的制裁も抑止力を持たない。 社会を考える者は、社会を構成する人々が絶望しないようにしなければ、どんな社会制度も成り立ちえないことを知るべきだ。 《ヒトの群れ》の中に一人でも絶望した個体を作ってはならない。

重罰論は、欲望を追求する畜生の発想だ。欲望を追求する畜生は、刑罰という《不快》が大きければ、それを避ける欲望が高まると思っている。畜生は、人々が犯罪すれすれの利得行為で欲望を充足する者だと思っている。人々が刑罰の不利益と犯罪すれすれの行為との《快》の比較で生きていると思っている。おそらく、彼ら自身がそういう人間なのであろう。 しかし、普通の人々は、そんな生き方をしていない。罰金であろうと刑罰と名の着く《不快》とは無縁に生きたいと思っているし、自らの道義心にしたがって生きているのだ。 なぜ、人々が犯罪を犯すか、といえば、貧困のゆえにやむを得ず、か、絶望の故にだ。 利得のために犯罪を犯す者は高級役人の収賄とか、経済犯の場合だけだろう。彼らは死刑にせよ、そうすれば、その手の犯罪はなくなるだろう。彼らは、彼らが得る利益と罰金の額と逮捕される可能性の積を比べて、犯罪を犯すかどうかを決める。さすれば、死刑を科すなら、割りに合わない収賄はしなくなるだろう。 貧困のゆえに犯罪を犯す者、すなわち、犯罪以外の方法によっては生きることが出来ない者に重罰を科しても、犯罪を犯して死刑になるか、餓死するかの選択を迫るだけの話だ。餓死は必然だが、逮捕は偶然である。とすれば、死ぬ危険の少ない犯罪を犯すのが合理的な選択であると言わなければならない。 絶望の故に犯罪を犯す者には、死刑であっても、彼の望む所である。死刑は、彼の犯罪を促進する動機であって、犯罪を抑制する動機にはならない。 犯罪を防ぐには、犯罪以外の方法で生きる希望と能力と環境を与えなければならない。

《息しつつあるモノ》の真下の《浄化》《知りつつあるモノ》から見て《息しつつあるモノ》の先にあたる部分の《浄化》。その部分の《求める思いこみ》噴出

《ヒトの群れ》カオス状態は、対等な個体間関係のネットワーク。《求める思いこみ》《個体間関係》のネットワーク。

《求める思いこみ》のネットワーク: 《求める思いこみ》のネットワークの中心的個体への集中。多数の個体の《求める思いこみ》を背後にもつ個体の《求める思いこみ》の圧力の強さ。権力の集中。権力的ネットワークのシステムの成立。権力的ネットワークへのシステム化。

システムの再構成のためには、カオス状態を経由する必要がある。

システム状態: モノの内部の《思いこみ》の流れが循環している状態。

カオス状態: モノの内部の《思いこみ》の流れがデタラメになっている状態。

散逸構造論: 《混濁》(エントロピー)の噴出とシステム化。 宗教的噴出《ヒトの群れ》のシステム化。 《群れの思いこみ》が消化不良のままたまっていくと、《ヒトの群れ》のシステムは崩壊する。システムの崩壊を防ぐための、《群れの思いこみ》の宗教的な噴出。 ストレスの発散とか、カタルシスとか。

カタルシス:

  1. 体内にたまった汚物を体外に排出し体内を浄化するという意味のギリシャ語。
  2. 生理的な用語であったカタルシスを、精神に適用したのはアリストテレスが初めてでした。「詩学」(前330頃)の中で述べられています。悲劇の効果は、観客が恐怖と同情(共苦:主人公の苦悩をともに体験すること)を感じることによって最後にはこれらの激情から解放されることであり、この働きは浄化作用(カタルシス)とよばれた。
  3. フロイトの初期の共同研究者であったJ.ブロイアーの患者が、催眠状態の中で無意識の中に鬱積(うっせき)していた気持ちを思う存分にかたると、催眠からさめた後にそのヒステリー症状が軽くなり、これを患者自身が「煙突掃除」とよんだことによっている。
  4. 心情を言語化して「表出」すること、誰かに話を聞いてもらうこと、もしくは何らかのアクションを起こして感情を表出することなど、鬱積した感情を開放することで癒されるのが、広い意味でのカタルシス効果になっているようです。(http://www.alived.com/blue/site/catharsis.html)。

芸人情報。面白おかしく、興味本位で情報を伝達すること。テレビのニュースも似たようなもの。針小棒大(針ほどのことを棒のように表現するということで、小さな事をさも大きな事のように誇張して伝えること)。どうでもよいような状況情報状況、関係、枠組みの3層構造。状況情報の肥大化。判断不能状況情報洪水。

科学的知識も針小棒大である。「検証されたこと」を棒のように重要なものであるとして、伝達する。

2005-04-02(土)

《他者の思いこみ》への見通し《他者の身体》から噴出する《思いこみ》《他者の身体》から噴出し、メディアに固定された《思いこみ》。文字の《思いこみ》。物体的に固定された《思いこみ》。 遠隔メディアによって伝達された《思いこみ》。発信者が生身の《他者》であるかどうかが分からないコトバ《他者》噴出した《思いこみ》を受け入れて、《私》《息しつつあるモノ》を通じて噴出し尽くすこと。 《私》による《他者の思いこみ》噴出を出発点として、その発生元を見通すこと。 《他者》もまた《私》と同様の《思いこみ》を有することを仮定すること、兆候を感じて検証すること。透明化すること。見通すこと。

《他者》の帰属意識への見通し《他者》は『私は《ヒトの群れ》に属する』という《思いこみ》を有するか? それを見通すことができるか? 『私はxxという文化集団に属する』という《思いこみ》

《他者》の『自我』意識への見通し《他者》が『私は私独自の存在である。私は他者ではない』という意識を有することは、赤ん坊である場合をのぞき、確かだろう。 《他者》自己言及《思いこみ》を有することは確かだろう。 しかし、対話において語られる《他者》の『我』は、単なる名詞であって、自己言及《思いこみ》を指しているわけではない。対話においては自己言及《思いこみ》は現れない。 《私》《他者》自己言及《思いこみ》を見いだすのは、『《他者》が考えている』と感じた場合である。『《他者》が考えている』ことを示す兆候となりうる発言を聞いた場合である。 《他者》《個体間関係》への応答から離れた、彼独自の世界の中で《思いこみ》循環させていることを示す発言を聞いた場合である。 《他者》を個体関係における道具として関係し、道具としての《他者》との対話においては、《他者》《我》の存在を感じることはできない。彼がコンピュータであるのかヒトであるのかを区別することはできない。コンピュータであっても、自己言及的な《思いこみ》循環をもつことができ、それを示す応答を示すことがある。

混濁の《求める思いこみ》噴出: 他者が噴出するコトバテレビから噴出する《他者》コトバ《他者》コトバの洪水。 『《思いこみ》を伝える』という《求める思いこみ》を伴った《思いこみ》

エピゴーネン問題: 制度はヒトが支えるモノだというアポリア。 制度は、ヒトが作り、ヒトが維持し、ヒトが破壊する。 制度は『制度がヒトを支配する』という《思いこみ》であるが、実際には、ヒトが制度を支配しているのだ。 制度をつくったヒトが死ぬと、制度を破壊するヒトによって制度は破壊される。 制度が、コトバによって固定された《思いこみ》によって維持される時、比較的長期間維持される。しかし、コトバによって維持された制度はコトバによって破壊される。 しかし、冷静な考察と智慧に基づく制度は、制度趣旨に立ち返って現状に適応させるならば、長期間にわたって維持可能なはずだ。 しかし、乱暴に破壊しようとする衝動をもった人々の力にはかなわない。 制度をつくった人々は、暴力的な人々であった。暴力的な人々が、自己の暴力を正当化しようとして、冷静な人々のコトバを利用したに過ぎない。か? そうであっても、制度をつくった人々は賢明であった。 しかし、エピゴーネンたちは、制度が権力者たちにもたらす居心地の悪さを「いきすぎだ」といったコトバで表現し、制度を破壊しようとする。 追従者たちは、わけも分からず、力もなく、エピゴーネンたちに追従する。 暴力の時代には理想を求め、理想の時代には欲望が渦巻き、欲望の時代には暴力がはびこる。 《ヒトの群れ》カオス状態(暴力状態、修羅の時代)とシステム状態(制度状態、天上の時代)。 《ヒトの群れ》とはそういうモノだと知るほかない。カオスの時代の後にはシステムの時代が来るだろう。 エピゴーネン問題とは《ヒトの群れ》の状態遷移の問題である。 蝗国化問題。

2005-04-01(金)

公私峻別主義: 経済社会の論理と、政府の論理とでは全く異なる。論理の混同を避けるためには、組織的にも峻別されなければならない。 「民営化」「特殊法人」「第三セクター」「天下り」「特定郵便局」。すべからく、公私混同主義のシステムである。 経済社会の論理は私の視野に基づく欲望の論理である。欲望の論理を肯定するのが良い経済社会である。 政治権力の論理は広い視野に基づく暴力の論理である。市場ではなしえないが、広い視野から見て必要な需要は非市場的な資金投入で実現すべきである。 公私混同は私の視野に基づく、暴力の論理によって、欲望を満たすシステムを作りだす。

サルの群れにおいては、ボス猿の公私は区別されていなかっただろう。ボス猿の資質として、公的な視野が要求された。公的な視野を持つボス猿が公私混同的に暴力を行使することを許す社会。 しかし、《ヒトの群れ》が大きくなると、直ちに、公私混同の弊害が明確になるようになる。古典において、コトあるごとく警告されている。 しかし、人類は(というか追従ザルは)、全くといってよいほど、公私行動の弊害に対して無警戒である。『自分(追従ザル)が公私混同なのだから、ボス猿が公私混同であって何が悪いのか』という《思いこみ》である。自分(追従ザル)には何の公的権限もないのだから『自分(追従ザル)が私的利益を求めて行動するのだから、ボス猿が私的利益を求めて行動して何が悪いのか』という意味だけどね。

ボス猿の公的資質というモノは、群れの中での地位に伴って生じるモノであって、個体に属する資質ではない。もちろん、個体によっては、その地位に伴う資質をうまく実現できないモノもあるだろう。

Last modified:2005/06/26 22:16:30
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