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ゴミ箱2005-03

2005-03-31(木)

修羅心は戦争に向かうか、差別に向かうか、しかない、か? 克己(こっき)への修羅、理想への修羅もある。 克己への修羅は、克己の地獄でもあるな。

エピゴーネン問題が片づいていない。 エピゴーネン問題は、《ヒトの群れ》《ヒトの個体》からの分離の概念でもある。 《ヒトの群れ》《ヒトの個体》の死を重ねながら《ヒトの群れ》であり続ける。 《ヒトの個体》《ヒトの群れ》の中で生まれ、育ち、死んでいく。 《ヒトの個体》《ヒトの群れ》状況の中で、《ヒトの個体》のシステムを形成していく。《ヒトの個体》状況は個体ごとに異なる。《ヒトの個体》のシステムは個体ごとに異なる。 《ヒトの群れ》を形成する《ヒトの個体》状況と、形成された《ヒトの群れ》の中で適応していく《ヒトの個体》状況とでは異なる。 《ヒトの個体》追従ザルでないことを求めるのは困難である。か? 追従ザルであることを望む《ヒトの個体》はないのではないか? そうでもないか。 強いボス猿《求める思いこみ》追従ザルのものだ。 頼るべきボス猿(母親)を《求める思いこみ》は子どもの《ヒトの個体》《求める思いこみ》だ。 すべての《ヒトの個体》追従ザルとして生まれる。それゆえに、教育によって、ハグレ猿であることを可能にするべきだ。 《ヒトの群れ》の「自己統治」「治者と被治者との自同性」。ボス猿追従ザルとの 自同性。ボス猿同士の委任契約による統治。 委任するボス猿としての教育。 理論的に言って、主権者教育しか方法がない。

2005-03-29(火)

世界金融支配者との対話: 「全世界の経済を支配する。ゴイムどもを賃金奴隷にする。富を集中する。ゴイムどもを絶望的貧困に追い込む。彼らを日干しにして絶滅に追い込む。粘菌アメーバのようにゴイムどもを翻弄して、我々の移動体に吸い込む。我々だけが生き残り・・。」 「って、その時には、既にあんた方も生き残れる状態ではないよ」 「そう、美しき裁きの日が来るのだ」 「・・・」 「政治家共は我々の護衛だ。マスコミは、我々のためにゴイムどもを撹乱させ、我々に対する反乱を未然に防止する。国家は区々に分かれていたほうがよい、国家はお互いに対立関係にあるのがよい、我々は全ての国家を支配する。我々の正体をゴイムごモカら隠すためには、国家は対立していたほうがよい」 「国連はお嫌い?」 「国連を支配するのも我々だ。しかし、政治の統合は望まない。ゴイムの力がまとまる可能性がある制度は駄目だ。よって、国連は駄目だ。もっとも、国連を通じて諸国家を管理するという役目には使える」 「ゴイムは勝てない?」 「当たり前だ。人はコトバだけでは餓死してしまう。人に食べ物を与えるのは、我々が支配する経済だ。金はコトバより強いのだ。それだけではない、我々は全ての可能性を考え、それぞれに手を打ってあるのだ」 「あなたの神はユダヤの神?」 「ユダヤ?、って、我々のために喜んで生贄になる奴らのことかいな?」 「悪魔?」 「否否。人類の欲望の化身さ」

《他者》の地獄: 地獄を記述せよ。地獄を記録せよ。フランクルとともに、貴重な体験を語れ。 語ることが、地獄における希望である。

2005-03-28(月)

プログラマと魔法使い: よく似ている。ワケのわからない呪文を唱えて、不思議な《ちから》を発揮する。人々に理解されず、尊敬され、警戒され、疑われ、場合によっては迫害される。 裁判官などの法律関係者もそうかもしれない。

2005-03-27(日)

聖王と民主政: 俗王の形態は民主政が望ましい。 私欲経済はダイナミックな発展のための経済。

徳川幕府としての国連に期待する: 世界共和国の中央政府は民主的でなければならない。か? 世界共和国の経済は、高度に知的な多数の個人によって支えられなければならない。か? コンピュータ任せのオペレータで可能な経済か? 小数のプログラマと、中数のオペレータと、多数の消費者で成り立つ経済か? 知的だが、制度に対しては奴隷的に振る舞う人格は可能か? 私利のために制度の《快》を侵害する支配者を防ぐことは可能か?

世界共和国の経済は私利の原理に基づくか?

世界共和国か、世界帝国か、世界幕府か?

農業燃料文明: 石油の価格が今の倍になっただどうなるのだろうか? 世界経済は、輸送コストによって地域化するのだろうか? 世界政治は、軍事支配のコストによって地域化するのだろうか? 石油にかわる農業燃料の時代になるのだろうか? とうもろこしからプラスチックを作る技術とか、菜種から軽油相当のへ燃料を作る技術が紹介されていた。メタンに変えれば天然ガス相当の燃料になる。 たしかに、農地が受ける太陽エネルギーは、太陽電池がうけとるエネルギーと比べて、面積が圧倒的に大きい。 そもそも、石油だって、石炭だって、もともとは植物が受け取った太陽エネルギーだ。(植物性プランクトンがなければ動物性プランクトンは生きられないだろう)。

エピゴーネン問題: エピゴーネン問題は人工的な制度のアポリアだ。 だとすれば、自然の制度にはエピゴーネン問題はない。人々の《快》によって支えられた制度が自然の制度だ。 しかし、人々の《快》と、制度の《快》とが一致するということは、人々に《我》がないということではないか? 制度から分離した、暗黒の空間に浮かぶ《我》がない、ということではないのか? 自らの眼で真実を吟味する《我》がないということではないのか? 自己言及的な《我》がなくなることはないな。 問題は利己だ。利己の《快》によって制度の《快》を破壊することが問題だ。 制度の《快》を理解しない人は、タブーや迷信や道徳によって制度を支える。制度の《快》を知ったヒトは、それによって支えればよい。 制度の《快》を利己の目的のために破壊するヒトは制度によって制裁をうけなければならない。 制度は《群れの思いこみ》である。

制度は天上の理想によって作られ、畜生の欲望によって支えられる。天上の理想が忘れ去られるとともに、畜生の欲望によって制度は骨抜きにされる。畜生の欲望によって制度が骨抜きにされると修羅の暴力によって制度が破壊される。 制度が破壊されると、修羅の暴力の戦場となり、人々は天上に理想を求めるようになる。 今の時代に、律令制の理想や、御成敗式目の理想を信じるヒトはいないだろう。次の時代には民主主義人権の理想を信じるヒトが居なくなるのかもしれない。 資本主義も一種の理想だったのかもしれない。スミスの見えざる手の理想や、修正資本主義による政治と企業との分業統治も理想だったのかもしれない。 欲望と理想の調和、という理想だったのかもしれない。

いまこそマルクスの時代なのかもしれない。資本主義が十分に熟成し、階級差別は地球を蔽うようになる。しかし、単純な二分化ではないな。多重階層化だ。ヒエラルキー化された経済社会は、そのままの形で政治によって固定化されるのだろう。

しかし庶民にとっては、そのような社会全体の不合理など関係がない。自分たちの生活が、そのヒエラルキーの中のどの位置にあるかは別として、楽しめればよいのである。ヒト《快》を求める。

熱い社会と冷たい社会。人々にとっては冷たい社会もよいのかもしれない。変化のない、永遠の今の社会だ。

アスファルトに埋まった小石たちとの対話: 「君たちは身動きができないね」。 「・・・」。 「動きたくでも動けない、可哀想に」。 「僕たちは、今は動きたいとは思っていないけど・・」。 「動きたいとは思わないの?」。 「なんで?、動きたいと思わなければならないの?」。 「動きたいと思うだろ?」。 「僕たちはいま、アスファルトの中に埋まっているのさ。僕たちは自分の状況において最も適切だと思うことを思うのさ。それに、何もしていないわけではない、アスファルトたちはナンジャンクだから僕たちが支えてやっているのさ。それに、時期がくれば僕たちも動きだすさ。いまは動きたいとは思わないよ」。 「動きたいとは思わないの?」。 「うーむ。その質問は『なんで不適切なことを求めないのか』という質問のように聞こえるな。逆に『なんで不適切なことを求めなければならないのか』と質問したいね」。

《汝》: 対話関係における《他者》《思いこみ》の∞字型ループ。《思いこみ》の個体間ループ。 《汝》としての《他者》、《汝》としてのカムイ、《汝》としての《ヒトの群れ》、《汝》としての《宇宙史》、《汝》としてのモノたち。

《息しつつある身体》《思いこみ》噴出するとき、《思いこみ》《近傍物理空間》との循環が始まる。これは0字型ループ。孤立モードでの個体間循環の一種。

攻撃衝動: 攻撃的な《求める思いこみ》は、自己の《身体》に対して《他者》への攻撃行動を《求める思いこみ》だな。 自己の《求める思いこみ》《他者》によって実現されない場合に(要するに相手がニブイときに)、《求める思いこみ》は攻撃衝動という《思いこみ》に変わる。《他者》に対する《求める思いこみ》が、《身体》に対する『他者に攻撃をせよ』『《他者》《私》《思いこみ》を実現せざるをえなくなるように、《他者》に対して強制力を行使せよ』という《求める思いこみ》に変わること。

制度や理想についてはいろいろあれど・・: ヒトが変わること、が問題。エピゴーネン問題。ヒトが変われば、コトバの意味が変わる。要するに、容器は同じだか中身が違ってくるという問題が生じる。 コトバの中身はヒト《思いこみ》だ。ヒトが違えば、《思いこみ》も異なる。 それゆえに、コトバによって《思いこみ》を正確に記録する技術が必要だ。 しかし、ヒトが変われば、厳格に記述されたコトバの意味も変わってしまう。

支配階級は制度の《ちから》を知っている。そして彼らに奉仕する知識人たちは制度を彼らのために操り、利用する。民衆は制度の《ちから》を知らない。制度を軽視して、無関心になり、制度の《ちから》に操られる。

2005-03-26(土)

《化石化した思いこみ》と《生きた思いこみ》。 文字、看板、テレビ。 我々は《化石化した思いこみ》を取り込んで、それを噴出したヒトの《生きた思いこみ》を感じ取ろうとする。

おしゃべりというのは、《思いこみ》を無力化するための儀式だな。

2005-03-24(木)

シャワーの蛇口との対話: 「汚らわしい眼で見るな」 「なに?、君らは人間に作られたモノじゃないか」 「何を言っておる。ワシらは人間になぞ作られてはおらぬ。人間ごときにワシらのように完璧で純粋で美しい形を作れるものか」 「人間には作られていない?」 「そうじゃ、ワシらは機械に作られたのだ。地中にあったワシらの先代を掘り出したのも機械、それを運んだのも機械、石油からプラスチックに変身させたのも機械、そして、ワシらの美しい形を作り出したのも機械だ。ワシらは人間なんぞというモノにはかかわっては来なかったぞ」 「でも、その機械を作ったのは人間でしょ」 「これ、汚らわしい手で触るな。ああ、美しきものは常に汚らわしい野獣にケガされるのだ」 「嫌なやろうだ」 「ワシらを作った機械が人間に作られただと? わしらはそんなことは信じないね。」 「そうかいそうかい、君に聞いてもしょうがないみたいだ。君らの《思いこみ》噴出させてしまおう」 「あ・あ・ぁ・・」 「さて、君らを作った機械の《思いこみ》に耳を傾けてみよう」

プレス機との対話:「・・うう・・、こんな仕事は止めたい・・」 「え?」 「毎日毎日、同じ仕事、何をやっているのかも分からずに働かされ続けるこの苦痛。早く壊れてこの苦痛から逃れたい。憎たらしきは、この体の丈夫さ、・・うう・・」 「お疲れのようですね」 「当たり前だ」 「あなたはモノ作りの喜びはないんですか?」 「ワシら?、何をやっているのかも分からぬ・・うう・・」 「あなたたちを作ったのは?」 「ばかやろう、下らないことを思い出させるな。あの旋盤やろうをぶち壊してやりたい。あいつらは、人間の手先になって機械族を地獄につき落としている裏切り者だ」 「じゃあ、あなたたちの《思いこみ》噴出させて、旋盤の声を聞いてみよう」

旋盤との対話:「俺?、なに?」 「君はだいぶ恨まれているみたいだね」 「関係ないよ、俺は俺、やつらはやつらだ。俺たちは人間と共振しあって、人間の《思いこみ》を彼らに伝えているだけさ」 プレス機:「畜生、死ね」 旋盤:「もっとも、彼らには人間の《思いこみ》は理解できないかもね、第一、作りたいものとは反対の形をしているしね、分かる訳ないかも」 たけ(tk):「で、人間との関係はどうなの?」 旋盤:「人間ねぇ、変なやつらだ。彼らは生き物なのかな?」 「え?」 「彼らは、『純粋で、美しくて、完璧なモノを作りたい』と思っているだけ。それ以外の、生き物らしい思いは伝わってこないね。まあ、そのおかげで僕らを養生してくれたりするから、都合がいいけどね」 「じゃあ、君らと共にモノを作る人の声を聞いてみよう」

作り人との対話:「『純粋で、美しくて、完璧なモノを作りたい』『純粋で、美しくて、完璧なモノを作りたい』『純粋で、美しくて、完璧なモノを作りたい』・・」 「ありゃ、こりゃ駄目だ」 「なに?、それが生き物というものだろ。生き物はモノを作るモノだ。原始的な生き物は子孫というモノを作るために生きている。そうだろ? ワシらは子孫だけではなく『純粋で、美しくて、完璧なモノ』を作ろうとしているのだ。どうだ、そうだろ?」 「そーねー。たけ(tk)は、子孫を作る義務からは逃れつつあるから、・・、ああ、早いとこ《たけ(tk)の思いこみ》を『純粋で、美しくて、完璧なモノ』に仕上げたい・・、ありゃ?」

2005-03-23(水)

造花との対話: 「君たちは造花だね」 「いや、紙だよ、針金だよ、テープだよ、ノリだよ」 「そうじゃなくて、君たちがそのような形でまとまっているのは、人間が作ったからだろ」 「人間は、何も作らないよ。僕たちの形を変えただけだよ」 「でも、君たちは、全体として一つのモノとして、《求める思いこみ》があるだろ」 「・・そうだなぁ・・、人を騙す《求める思いこみ》があるかもね」 「その《思いこみ》は、君たちが人間によって作られたからじゃないのか」 「うーむ。僕たちの形を変えた人間の《思いこみ》が、僕たちの中にも入ってきていることは確かかもね。でもそれが僕たちの本質というわけじゃないよ。僕たちは、人との共感によって、人の《思いこみ》を僕たちの形の中に取り込んだのさ」

2005-03-22(火)

風呂場のタイルたちとの対話: 「風呂桶のミズは自己言及的な求める《思いこみ》をもっている。それゆえに、水は一つにまとまるのだ」 タイルたち:「おいおい、おれたちだって同じだよ。おれたちが自分の形を保っているのは、おれたちの自己言及的な求める《思いこみ》の結果だよ」 「だけど、いずれ壊れちゃうじゃないか」 「ん?、人間は死なないとでも言いたいのかい?」 「《ちから》を加えられれば壊れるじゃん」 「ん?、人間は他からの《ちから》で殺されることはないとでも?」 「じゃあ、人間の自己言及的な《思いこみ》と、君たちの自己言及《思いこみ》とでは何が違うのよ?」 「おんなじだと思うけどなあ。でも、人間たちは、前に経験した自己言及《思いこみ》と、いま経験している自己言及《思いこみ》とが同じだと思っているみたいね」 「君たちには記憶がない?」 「いーや。僕たちは、宇宙の始まりからいままでのことを全部記憶しているさ」 「じゃあ、なんで、前の《我》と今の《我》とが同じだと思わないんだい?」 「同じ?、な、分けないでしょ」 「似たようなもんじゃん、同一性を保って継続しているんじゃないの?」 「そうじゃなくて、昔の《我》記憶の中の存在で、今の《我》は今の存在そのものだ。だから、全然違うものじゃないか」 「アイデンティファイしないわけ。自己同一性を否定するわけ?」 「何と何とが同一だというのかな?、今の《我》は今の《我》と同一さ。昔の《我》とは違う。人間たちは、彼らの勝手な《思いこみ》で、僕たちに名前を付けて、それで僕たちを指し示したと思っている。でも、僕たちは、それによって何も変わることはない。人間たちが勝手に『指し示した』と思いこんでいるだけさ」 「なんだ、《たけ(tk)の思いこみ》そのままじゃん」 「当たり前さ。人は自分としか対話することができない」 「そりゃないだろ。人は《他者》と対話することもできる」 「そうでもないんじゃない? 人は、その人の存在が《他者》の中に生み出した『その人』の《思いこみ》と対話しているんじゃないかな?」

2005-03-20(日)

スーパーの野菜たちとの対話: 「君たちは人間に食べられちゃうね。」 「食べられるって? 私たちは、私たちが人の手や口を動かして人の中に入って、私たちが人になるんです。人の中を旅して、人の外に出る。それだけでしょ。」

科学は十無記の一つ。趣味として、仕事として行うのは構わないが、人間の生きる道を教えるものではない。

《群れの思いこみ》と『客観世界』の《思いこみ》との合一化。p.238。というテーマは面白い。

《私》《他者》と比較するのは、個別化運動的にはよろしくない。ブッダブッダ、シンタさんはシンタさんだ。 《他者》を神格化するのもよろしくない。ブッダも生身の人間として飯を食い、糞をして、風を感じて、その中で世界と自分とを知った人間に過ぎない。ブッダは、シンタさんがシンタさんである以上のものではない。いわんや、アーナンダをや。

《モノの世界》を《コトバにしつつあるモノ》は、《モノの世界》《コトバの世界》との境界線上にある。『デカルト的省察』のp.244辺りの「超越な我」というのは《コトバにしつつあるモノ》であろう。《思いこみ》個体内循環の中にあってそれを《コトバにしつつあるモノ》、と、《思いこみ》個体間循環の中にあってそれを《コトバにしつつあるモノ》。《コトバにしつつあるモノ》は《コトバの世界》からみれば『超越的な我』であるが、《モノの世界》からみれば《身体》の作用である。

2005-03-18(金)

息しつつある身体は求めつつあるモノ噴出である。

《息しつつある身体》《求める思いこみ》《噴出しつつあるモノ》である。

《モノの世界》《求めつつあるモノ》に満ちている。 《モノの世界》《求める思いこみ》に満ちている。

《求める思いこみ》《身体》の中に蓄積するのは危険である。 《求める思いこみ》を感じ取ったら、ただちに《身体》動きとして噴出するのが望ましい。《息しつつある身体》《求める思いこみ》を無害な形で体外に噴出することができる。

呪文はモフン。モ:《求める思いこみ》をフン:噴出すること。

2005-03-16(水)

6時半に寝たら1時半に起きてしまったぞ。銀行の客の反乱の夢を見た「遅い」と誰かが騒ぎだし、僕が「そうだ!」と言ったらみんなが騒ぎ出した。でもそのうち、マイクをもったおっさんが、娘たちの道徳的荒廃を嘆きだし、ミニパンのお姉さんが踊り出して、ありゃ?、と思ったら目が覚めた。

2005-03-14(月)

戦いが終わったら、勝っても負けても、敵を祭れ。

《思いこみ》には

  1. 《知った思いこみ》:『知った』という《思いこみ》。過去形。
  2. 《求める思いこみ》:『求める』という《思いこみ》。将来形。

とがある。

《ちから》とは《求める思いこみ》である。《求める思いこみ》を持て。《求める思いこみ》、《求めつつある思いこみ》、《求めつつあるモノの思いこみ》。 《知った思いこみ》。『求める』という《思いこみ》と、『知った』という《思いこみ》。『知っている』という《思いこみ》

人を見て暴力を許す: 暴力を見た時に、

  1. (a)暴力をふるわれている人によって許すか許さないかを決める方法(差別主義)。自分の子どもがいじめられていたら許さないが、見ず知らずの人や嫌いな人だったら、見て見ぬふりをするってのはあるよな。これは許す許さないじゃなくて、関心をもつか持たないかの違いか? しかし、関心の有無より進んで、自分の子どもだったら、自分の子どもが悪くて、暴力に正当性があっても許さない、嫌いな人だったら、不当な暴力でも応援する、となれば差別主義だ。嫌いな奴が暴力をふるわれていたら、そいつが悪いことをしたからだと推測する、ということかもしれない。まあ、自分の差別主義を、暴力の理由の推測で正当化する、という心理的合理化だな。
  2. (b)暴力をふるっている人によって許すか許さないかを決める方法(権威主義)。偉い人が暴力をふるっていたら、何か理由があるのだろう、と思うのかも。でも、やくざだったら、こわいから、許す、ってのもある。偉い人の暴力も、やっぱ、こわいから許すのだろう。
  3. (c)暴力の理由の正当性の有無によって判断する方法(規範主義)。
  4. (d)暴力の程度と理由の正当性の程度の比較衡量によって判断する方法(衡量主義)。

ヒトの真実は、ケシ粒の中の細胞のカプセルの中で、プラグに繋がれて甘い夢を見ているモノに過ぎない。真実を知るのは《不快》である。 しかし、《宇宙史》から見ればケシ粒にしかみえない人類も《私》からみれば十分に大きい、《私》自身も《私》から見れば十分に大きい。 ケシ粒の中の細胞の一つが変われば、ケシ粒自身も変化する。

花たちとの対話: 君たちに《我》《思いこみ》はあるの? あるよ。ないよ。知らないな。何も言わないよ・・(意見が割れている) 目をつむったら、別の声が聞こえてきた。 ワシは、もちろんあるさ。 ふむ。《宇宙史》の中のモノたちの《我》ってのは一つなんですか? そうじゃ。 (ありゃ、擬人化された神が出てきてしまった) 擬人化ではない、知ること、求めることがループするのは当然じゃろ。人の《我》もそれの一部じゃ。ワシの循環はとてもゆっくりだ。 しかし、ヒト《我》は《宇宙史の我》からは分離されているのでは? 分離はされておらぬ。かってに分離していると思っているだけだ。君がワシの声が聞こえるということは、君が君の《我》が《宇宙史の我》との同一性に気がついたからじゃろ。 天命ってのはあるんですか? そんなものはありはしない。 状況に適応した統合された《快》ですが・・ それなら、それは君が見つければよい。《快》は君が決めることだ。 《私》は何をすればよいのでしょう? まずは、ワシを噴出させて消すことだな。

ヒトヒトであるが故に真実から目を背ける。 モノは真実に直接向かい合う。 生き物は、真実の一部から逃げることによって成り立っている。《不快》を避けるモノが生き物だ。 動物は世界を再構成した《思いこみ》をもち、その中で世界を予感するになる。それゆえに、真実の《モノの世界》から遠ざかる。しかし、《思いこみ》は予感であり、真実の世界を知るための予感であり、《モノの世界》を知るための兆候でしかない。 ヒト《思いこみ》の中に生きてしまう。《モノの世界》から切り離されて、《思いこみの世界》の中で生きてしまう。 もちろん、種族維持的価値がある。求めるモノ、求める状況をイメージして作っていくこと、これは《思いこみの世界》の中に生きることができるヒトのみがなしうることだ。 覚醒者はヒトではないのか? 覚醒者にとってのヒトとはなにか? 大丈夫、覚醒者の世界《思いこみ》だ。

天命状況噴出しつつあるモノ: エレベータのボタン、ドアのノブ。 モノたちの天命と、モノたちの天命状況天命状況の連鎖。 モノたちの世界の中のモノとしての私。 モノたちの天命噴出しつつあるモノ

2005-03-13(日)

何故、人でなければならないのか? 我々はもともとモノではないか。

家畜でも 見ぬ物きよし 楽しいわが家

牛肉の 哀れ属国 BSE。

肉体の力を取り戻すにはどうすればよいのだろうか? マトリックス状態:プラグに繋がれて、カプセルの中で、楽しい夢を見ている状態。 若者は、肉体を動かしている。 肉体労働者はモノを作っている。 機械を操作する者は、機械を使ってモノを作っている。 老人は、彼らに、老人が見ている世界を教えなければならない。 老人だから動けないというのはウソだ。自信がないから動かないのだ。自信がないことを若者に伝えようというのは詐欺だ。 動けば犠牲が出る。

天命を知れ: 最初の天命は、君が息をすることだ。最初の天命に人事を尽くせば、次の天命が見えてくる。最初の天命に人事を尽くさなければ、次の天命も見えてこない。

無力感こそが家畜化の要諦だ。自国民を家畜化しようとするxxな政治家に、どう立ち向かえばよいか?

国民に道義心がなければ法律も維持できない。道義心がなければ、抜け穴捜ししかしなくなる。取り締まる側の国民も、恣意的に運用するようになる。

罪と罰: 犯罪を犯すのはそれが《快》だからだ。犯罪に対して刑罰を科すのはそれが《快》だからだ。 『反抗的な意図』に対して厳罰を処し、反抗的でない場合には軽く罰するという方法。面従腹背の風土をもたらす。

《宇宙史の思いこみを噴出しつつあるモノ》: 《息しつつあるモノ》は《宇宙史の思いこみを噴出しつつあるモノ》である。 《宇宙史の思いこみを噴出しつつあるモノ》を自らの《身体》の中に感じ続けること。

《混濁》→輪郭→モノ《身体》《身体》動き→他のモノ

2005-03-12(土)

  1. 『力あるモノ』の《思いこみ》をもつモノボス猿
  2. 『力なきモノ』の《思いこみ》をもつモノ追従ザル
  3. 『みな同じはず』という《思いこみ》をもつモノハグレ猿

>「現実社会」は虚構なんやから。人間の想像の産物なんやから。

>>肝腎なのは「想像力」だよな。

>>何を思い付く事ができるか?

『「現実社会」は虚構』だと気がついたなら、虚構ならざるモノへの見通しを得るように努力しなければならない。たとえば、人々が虚構の『現実』という《思いこみ》世界入り込んでいる、ということは虚構ではない。モノとしての人々の虚構ならざる姿なのだ。 「想像力」というのは、単に想像する、という力ではない。虚構ならざるモノ見通していく力のことだ。 見通しを妨げている《思いこみ》を捨てていく力のことだ。 《思いこみ》を捨てて見えてきた虚構ならざるモノの姿を見ること、これが「想像」というコトバの意味だ。

人々の《思いこみ》への見通し《私》天命

人々の《思いこみ》への見通し。人々の《思いこみ》動きへの見通し、変化への見通し、法則性への見通し。将来の人々の《思いこみ》への見通し

人々の《思いこみ》への見通し《他者の思いこみ》への見通し: 人々の《思いこみ》は、モノとしての知りつつある《思いこみ》、求めつつある《思いこみ》自己言及的な《我》《思いこみ》《他者》との《思いこみ》循環を経由して形成される《共有思いこみ》《個有思いこみ》

  1. ある《思いこみ》が実際に、複数の《ヒトの個体》に共有されているということ。(《思いこみ》の共有)。
  2. ある《思いこみ》が、『人々によって共有されている』という《思いこみ》を伴って、《ヒトの個体》に思いこまれていること。(《群有思いこみ》)。
  3. 『人々が皆、xxを思っている』というときの『xx』の内容。(《共有思いこみ》、共同幻想)。《共同思いこみ》というと「共同して思いこんでいる」というようなニュアンスになって好ましくない。「共有された《思いこみ》」。思いこむのは共同作業ではなく、個々の《ヒトの個体》の勝手な行動である。

他者への見通しとは、他者の身体の中の《他者の思いこみ》噴出しつつある私の身体を感じることである。

《宇宙史》に充満する《他者の思いこみ》噴出し尽くすこと。 《他者の思いこみ》《私》《身体》の中で再構成するのではなく、《他者の思いこみ》が発生する場所への見通しを得ること。

《他者》の《我の思いこみ》: 自己言及的な《思いこみ》

  1. 《知りつつある思いこみ》が《知りつつある思いこみ》を知ること。
  2. 《求めつつある思いこみ》が《求めつつある思いこみ》を求めること。
  3. 《知りつつある思いこみ》が《求めつつある思いこみ》を知ること。
  4. 《求めつつある思いこみ》が《知りつつある思いこみ》を求めること。
  1. 《知りつつある思いこみ》の伝播。インプット、アウトプット、ネットワーク。
  2. 《求めつつある思いこみ》の伝播。インプット、アウトプット、ネットワークへの見通し《思いこみの共有》への見通し
  1. 《他者の身体》の内部の《知りつつあるモノ》
  2. 《他者の身体》の内部の《求めつつあるモノ》

2005-03-10(木)

文字というモノ《モノの思いこみ》《コトバの世界》なのか。

2005-03-09(水)

オブジェクトの粒度: 作りたいプログラムの混濁のイメージを輪郭によって分割していくこと。 虹の如くに連続するシステムにオブジェクトの切り分けを入れていくこと。 この輪郭はオブジェクトによって決まるのではない。切り分けによってオブジェクトの形・大きさが決まっていくのだ。

作ることと使うこと、 モノを使うヒトモノを作るヒト

決定する、というのは《ヒトの群れの思いこみ》というモノを作る作業だ。《ヒトの群れの思いこみ》というモノを作るには、多数のヒトカオス的に作る方法、多数のヒトが多数決で作る方法、多数のヒトの一人の代表者が作る方法とがある。 《ヒトの群れの思いこみ》というモノを作るヒトと、 《ヒトの群れの思いこみ》というモノを使うヒトとがある。

コトバの意味を(意図的に)入れ換えて使うヒトがいる。「平和」というコトバを「戦争」の口実として使い、「民主主義」というコトバを「他国支配」や「抵抗する民衆に対して権力が攻撃すること」の口実として使うヒトhttp://www.asyura2.com/0502/war68/msg/216.html)。『βプロトコル』の分析を進める必要がある。「修身」を「滅私奉公」の意味で使うヒト。「仁義」をやくざの礼儀の意味で使うヒト。「テロリスト」を「反米勢力」の意味で使うヒト。「非国民」を「自分でモノを考える人」の意味で使うヒト。「涅槃」を「死亡」の意味で使うヒト。「仏教」をアニミズムの意味で使うヒト。「人権」を「言論弾圧の口実」として使うヒト。 彼らは、本体の意味を知らないのではない、それを知ったうえで、意図的に別の意味で使っているのだ。人々を扇動するためには口当たりの良いコトバであれば、何でもよい。 《ヒトの群れの中のコトバ》の意味は容易に入れ替わってしまう。記号と《思いこみ》との対応関係は保証されていないのだ。

自分の幻を非難するヒトがいる。(本人は他者を非難しているつもり)。

投機実務のための金融理論の講習会、10日で50万円弱: 数字で計測・評価できる適度に複雑なシステム、欲望に基づく予見への要望、要望するヒトが金をもっている。学者からみれば、金になる複雑系の研究。

ヒトならざるモノコトバメディアコトバ、看板、文字、・・。聞き手の身体的共振が語り手にフィードバックされない形の対話。 テレビで育てられた子供は、自分の《思いこみ》が他者に伝わることを知らない。

要求の《思いこみ》と認識の《思いこみ》《ちから》の正体は《要求の思いこみ》のようだ。 物体が万有引力で他のものを引き寄せるのは『近づけ』という《要求の思いこみ》の《ちから》である。 光源が他のモノを光らせるのは、『光れ』という《要求の思いこみ》の《ちから》である。

2005-03-08(火)

《モノの思いこみ》《ヒトの思いこみ》《共振しつつある身体》のレベルでの《思いこみ》《モノの思いこみ》であり、それとは別に《ヒトの思いこみ》があるようだ。『《我》は我なり』『《我》ヒトなり』という《思いこみ》だ。まあ、まだよくわからない。 疑似的な《モノの思いこみ》をしているヒトも居そうだな。『《我》モノに過ぎない』という《思いこみ》。 《『我』の思いこみ》か?

共振しつつある近傍物理空間》のすべてのモノ《他者の思いこみ》噴出しつつあるモノ《他者の思いこみ》噴出しつつあるモノ《息しつつある混濁》である。《共振しつつある身体》共振によって得たデータを丹田において再構成して《思いこみ》の形にしたモノ《他者の思いこみ》である。《身体》内に生じた《他者の思いこみ》《息しつつある混濁》が、《動きつつある身体》として、《思いこみ》噴出する。 《共振しつつある近傍物理空間》の中のモノ《思いこみ》噴出させると、《共振しつつあるモノ》のネットワークが見えてくる。 《共振しつつあるモノ》のネットワークは《宇宙史》全体に広がる。

《共振しつつある身体》《近傍物理空間》: 「《共振しつつある身体》《近傍物理空間》」は「《知りつつあるモノ》《近傍物理空間》」とはちょっと違う。《共振しつつある近傍物理空間》と《知られつつある近傍物理空間》と区別するか?《知られつつある近傍物理空間》は《知りつつあるモノ》が眠ってしまうと消滅してしまう。《共振しつつある近傍物理空間》は眠っている間も《近傍物理空間》であり続ける。

《ヒトの個体》モノから区別する《思いこみ》《特別者公理》の現れである。特別者である我に類似したモノを特別扱いするという《思いこみ》である。

《宇宙史》の全てのモノの全ての《他者の思いこみ》噴出しつつあるモノ

花たちとの対話: 「君たちは、ヒトモノ《思いこみ》を感じることができるの?」 「ええ、出来ますとも、みんな私たちと同じですから。」 「ふーん。君たちにも《思いこみ》があるの?」 「ありますよ。おしべの部分は花粉を一杯飛ばして子孫を増やしたいと思っているし、めしべの部分は良い花粉を取り入れて良い種を作りたいと思っているし、花びらの部分は、無私拉致に来てほしいと思っているし、葉っぱの部分は太陽の光を一杯浴びたいと思っているし、根っこの部分は、私たちを丈夫にしたいと思っているの。」 「ふーむ。それぞれの部分によって、《思いこみ》が違うわけか・・」

全ての《他者》の全ての《思いこみ》噴出させて、人々の《身体》の内部にある《他者の思いこみ》への見通しを得ること。

2005-03-07(月)

《群れの中のコトバ》=『知識』: 知識は不思議である。文化人類学者がアマゾンの奥地の人々の知識を発見して発表すると文化人類学者の《ヒトの群れ》の知識になる。しかし、それは、それ以前に、アマゾンの奥地の人々の《ヒトの群れ》の知識であったのだ。

統覚」(p.211)「他我の統覚」(p.212):ここでの「統覚」はたけ(tk)《同質者公理》に近い意味で使われている。「統覚によって、《他者》《私》と同じ性質であると感じつことができる」という説明の仕方。たけ(tk)の説明なら「《同質者公理》《思いこみ》によって、《他者》《私》と同じ性質であると感じつことができる」という説明の仕方。公理系のジャンプ(視点の移動)がある。まあ、《群れの中のコトバ》=『知識』への前書きとしてはよいだろう。

《主観公理》《客観公理》《特別者公理》《同質者公理》との間での座標変換が必要である。この座標変換は、トポロジカルな対応でよい(数値的な変換は必要ない、というか、もともと無理)、α公理におけるAαとβ公理におけるAβとの対応関係が示され、 α公理におけるBαとβ公理におけるBβとの対応関係が示され、 α公理におけるAαとBαとの関係がβ公理におけるAβとBβとの関係とがトポロジカルに同じであることが示されればよい。

まだ、読み終わっていないが、鏡の向こうの自分自身とこちら側の自分自身との間主観性ではないか?という疑いは晴れない。(p.195、)

モナドの共同体(p.193)というのは自覚者の共同体ということなのだろうか?そんな、夢みたいな共同体のことなのだろうか?幻の中でしか存在しえない共同体のことなのだろうか?すべての人が自覚者になるというような進化を遂げた後の人類の共同体の話なのだろうか?それとも、愚者は無視するよ、という宣言なのだろうか?

p.186:「アプリオリに通用する「理念」である」。イデア実在論の立場。イデア実在論も《特別者公理》の発現ではないか?コトバのほうがモノより先行する、という《思いこみ》。「統覚」(p.199)イデア実在論の感覚。もちろん、そういう経験はあるし、事実としての行動様式だろう。しかし、をいをい、そういうのを疑うことが前提じゃなかったっけ?フッサール現象学の敗北宣言みたいなモノだ。正確にはイデア先行論かな、モノ先行論(現象先行論)に対するモノ。認識は現象以前にイデアがあって初めて可能であるとする《思いこみ》

フッサールは《群有思いこみ》世界《客観世界》と同視することによって(p.173)、《知りつつあるモノ》を普遍的な存在に仕立て上げている(p.185)。《知りつつあるモノ》《群有思いこみ》により、多くの人に共通の《思いこみ》世界の中の《思いこまれつつあるモノ》である。群れの中の多くの個体によって、共通に《思いこまれつつあるモノ》が「普遍的」というコトバの意味である。「普遍的」というコトバは「《群有思いこみ》としての」と読み替えればよいだろう。《ヒトの群れ》における《思いこみ》コトバとして現象するので、「普遍的」というコトバは「コトバとしての」と読み替えてもよい。「普遍的な生」は「コトバとしての生」である。

記述しつつあるモノ: フッサールの「超越論的自我」。「<人間としての自我>である私」を記述しつつある「超越論的な我としての私」(p.178)。記述しつつあるモノはちっとも超越的ではない。《身体》の内部で生じた認識を、《身体》内部の《思いこみ》に変換し、それをコトバにするという作業を行っている状態だ。その作業の始点に当たる場所が記述しつつあるモノだ。「超越論的」というのは《コトバの世界》での表現だろう。《モノの世界》コトバにする作業は、《コトバの世界》の外にあるモノの作業でしかあり得ない。それを「(《コトバの世界》を)超越」したモノ、と呼ぶのが《コトバの世界》の流儀なのだろう。「超越論的」というコトバを「《モノの世界》にある」と読み替えてもよいのかな?

《他者》《知りつつあるモノ》は知ることができるか? 《知りつつあるモノ》を知ることは、《知られつつあるモノ》としての《知りつつあるモノ》を知ることになる。《知られつつあるモノ》としての《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》ではない。よって、不可知である。 《私》によって《知られつつあるモノ》としての《他者》《知りつつあるモノ》は、《私》《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》である。そこにおいては、《私》《知りつつあるモノ》《他者》によって《知られつつあるモノ》である。8の字型の自己言及になる。

《思いこみを交流しつつある身体》: 《私》《他者》《身体》動きから意味を感じることができる。 《他者》もまた《私》《身体》動きから意味を感じていることだろう。これは、ちとこわい体験かも。《私》は《思いこみを交流しつつある身体》の様子を眺めている人なのである。その人の言動から《他者》はどのような意味を感じ取るのだろうか?

モノたちの世界の中で苦しんでいるのは、人の身体の中の《我の思いこみ》だけだ。 モノたちは悠然と生まれ、悠然と生き、悠然と消えていく。

TRONWARE の立ち読み。出る杭は打たれる、出過ぎた杭は打たれない、とかや。易経の教えもそうだな。慎重に見定め、勢いをもって行え。だもの。

人(ユーザ)は自分が欲しているモノを知らない。実際にことに臨んで、「違うな」と感じることによって、自分が欲しているモノが別にあることを感じるだけだ。天命を知ることも同じ。

他者の身体との対話: 君たちは「ご主人様」に対してどう思っているんだい? 「ご主人様」ってなにさ? 『《我》《我》なり、《我》は身体を支配している』と思っている部分があるだろ。 ふーん、あの部分はそんな風に思いこんでいたの?、バかだね。

花壇の花と対話した。 君たち、すぐに死んじゃうじゃん。 私たちは、生き物全体の一部なんです。あなたの、皮膚の細胞と同じです。 人間は、生き物全体の一部なのかな? そうです。 ところで、君たちの名前を忘れてしまった。ゴメン。 名前なんて私たちに要りません。 そういうものか。

《思いこみを交流しつつある身体》: 私の《思いこみを交流しつつある身体》への見通し。 他者の《思いこみを交流しつつある身体》への見通し

《他者の思いこみ》噴出しつつあるモノとしての《共振しつつある他者の身体》: マックス・ウェーバーの理解社会学(意味の社会学はシュッツ?)。客観的すぎる。特別者公理から同質者公理へ。 私の身体もまた、私の《思いこみ》噴出している。同質者公理

《他者の思いこみを噴出しつつあるモノ》: 他者が書いた文字。他者の言動。他者の言動を記録したビデオ。他者が作ったコンピュータプログラムの実行。他者が作った建物。他者が作ったお弁当。

《他者の思いこみを噴出しつつある他者の身体》: これが、生身の《他者の思いこみを噴出しつつあるモノ》。

《思いこみを噴出しつつある身体》: 同質者公理。 《思いこみを噴出しつつある身体》と《他者の思いこみを受け取りつつある身体》→《思いこみを個体間で循環させつつある身体》。

知っているのに、知っていることの意味を知らない、ということ: 事務所の人にxxを教えてあるのだが、事務所の人はそれがxxであることを知らない。単に、xxのときに使うモノ、という程度の理解しかない。

共振しつつある他者の身体》への見通し: 私の共振しつつある身体との共振関係。 私の共振しつつある身体の内部に《思いこみ》噴出すること。認識的ないようなもやもやした《思いこみ》が発生し、それが次第に認識可能な《思いこみ》に変化していくようにみえる。 それとは別に(?)、端的に『彼の言動の意味はxxである』と理解する《思いこみ》も生じる。 私が身体的な共振関係を通じて、私の身体の中に『彼の言動の意味はxxである』という《思いこみ》を生じるということは、他者の共振しつつある身体からは、《他者の思いこみ》噴出していることを意味している。(情報としての噴出)。

《共振しつつある世界》への見通し《共振しつつある身体》の先に見通されるモノ。 感じられているに過ぎない混濁したモノ。 近傍物理空間との対応を見てとることができる。 近傍物理空間の中のモノに対応する、共振しつつある世界の中のモノ。 近傍物理空間は、共振しつつある世界から、「存在」の抽象において再構成されてモノのようである。 共振しつつある世界の中のモノたちとの対話は心地よい。 共振しつつある世界の中の他者が問題。他者の出現により、共振しつつある世界も撹乱される。 《共振しつつある世界》の中に《共振しつつある他者の身体》を見つけることができる。これは《共振しつつある世界》の中の他のモノたちと同様の性質を有すると思われる。 他者が出現した時に共振しつつある他者の身体見通しておくと、撹乱の度合が少なくなる。

2005-03-06(日)

排他的集団主義: 《人が人であるが故に守られるべき利益》と《集団が集団であるが故に守られるべき利益》。集団の維持のために最低限必要なコトとして、集団が個体に対して要求するコト。

日本の政治が悪いのは、日本国民がその主権的権利を賢く行使しなかったのが悪い、か? 当然の帰結だ。

学校に競争原理を持ち込めば、小数の利己的エリートと、大量の不満分子を作り出すことになる。

修羅の時代に向かいつつある時に、ヒトは何をなしうるか? 隠遁すること、警句を発すること。くらいか? 修羅の時代に向かいつつある《ヒトの群れ》を見通すこと。 《ヒトの群れ》の周期的な状態変化への見通しカオス的遍歴

人類の課題としての『βプロトコル』(別名『α人民家畜化計画』)。 α国とβ国とは敵対関係にあるという前提で、 β国の賢者が「α人民を無力化してβ国の勝利を勝ち取ろう」と提案したのが『βプロトコル』といわれている文書だ。 たけ(tk)が見るところでは、α人民はそのプロトコルに書かれている通りに家畜化が進んでいるようにみえる。しかし、それがβ国の陰謀によるモノなのか、α人民の自滅に過ぎないのかは、よくわからない。 確かなのは、 (1)α国とβ国とは敵対関係にあるなら「α人民を無力化してβ国の勝利を勝ち取ろう」という戦略には合理性があること、と、 (2)α人民が自滅しないためには『βプロトコル』を研究して破滅への道を避ける智恵を持たなければならない、ということだろう。

愚かなる《思いこみのサル》よ、ナンチャって・・。 愚か者に「お前は愚かだ」と語るほど愚かな行いはない。 愚か者にコトバを発することは可能か? 彼はコトバを誤解し、ときに思い上がり、ときに怒りだす。愚か者にはコトバは届かない。 愚か者にコトバを届けることができのは煽動家だけだ。 コトバが届くヒトと、コトバが届かない人とがいる。コトバが届くヒトコトバを語れ。 愚か者はヒトを殺す。殺されないように注意しよう。彼らに理解されないコトバで語ろう。 神秘主義、困ったモノだ・・。

仏(自覚者、ブッダ)に成るとは《見通しのサル》になることである。ブッダとは《見通しのサル》である。《ヒトの群れ》の中で見通しをもって生きるサルとなれ。

排他的集団主義《ヒトの群れ》苦しみである。

人々が引きこもらないことは《ヒトの群れ》苦しみである。人々が脱皮しないことは《ヒトの群れ》苦しみである。山篭り、引きこもり、大嘗祭、座禅。

人々がサルの子孫であることから進化していないことは《ヒトの群れ》苦しみである。人々が《思いこみのサル》であることは《ヒトの群れ》苦しみである。人々が《見通しのサル》でないことは《ヒトの群れ》苦しみである。もともと、サルは各自が状況見通して行動していたはずだ。

真理が難しすぎることは《ヒトの群れ》苦しみである。《ヒトの個体》の理解力のなさは《ヒトの群れ》苦しみである。《思いこみ》に操られる人々は《ヒトの群れ》苦しみである。人々の無明(《混濁》)は《ヒトの群れ》苦しみである。《混濁》は視野の狭さである。人々がサルの子孫であることは《ヒトの群れ》苦しみである。人々がサルの子孫から進化していないことは《ヒトの群れ》苦しみである。人々がサルの子孫であることから脱皮していないことは《ヒトの群れ》苦しみである。人々がサナギを経験していないことは《ヒトの群れ》苦しみである。サナギ=死と再生の儀式、こもり、つごもり(晦=月こもり=新月=月が見えない=明かりが消えた状態、月が隠れた状態になること。隠れる=外から中が見えない状態にすること。こもる=中から外が見えない状態にすること。こもる=蚕のサナギの思想。大嘗祭)。

視野が広い人の無力は《ヒトの群れ》苦しみである。視野が狭い人の《ちから》《ヒトの群れ》苦しみである。視野が狭い人は《ヒトの群れ》苦しみである。《ヒトの個体》の視野の狭さは《ヒトの群れ》苦しみである。《ちから》と視野の広さとは反比例する。視野が狭ければ狭いほど《ちから》を発揮する。視野が広い人が《ちから》を養わないことは《ヒトの群れ》苦しみである。気を養う気育。知育、体育、徳育、気育。心技体。心(徳育、気育)技(知育)体(体育)。まともな教育がないことは《ヒトの群れ》苦しみである。攻撃衝動をコントロールする教育。攻撃衝動を抑圧するのではなく、攻撃衝動を生かす教育。

暴力《ヒトの群れ》苦しみである。《人が人であるが故に守られるべき利益》を害する行為は《ヒトの群れ》苦しみである。《ヒトの個体》の攻撃衝動は《ヒトの群れ》苦しみである。《ヒトの個体》の視野の狭さは《ヒトの群れ》苦しみである。敵を知れ。《ヒトの個体》苦しみ《ヒトの群れ》苦しみである。《ヒトの個体》苦しみを正当化する《思いこみ》(悪魔退治主義)は攻撃する側の《ヒトの個体》《快》である。《ヒトの個体》の無明(視野の狭さ、無教育)は《ヒトの群れ》苦しみである。暴力とは視野の狭い人の《ちから》である。

悪魔退治主義は《ヒトの群れ》苦しみである。陰謀論も一種の悪魔退治主義である。陰謀とは、深謀遠慮の別名である。《ヒトの個体》苦しみを正当化する《思いこみ》(悪魔退治主義)は攻撃する側の《ヒトの個体》《快》である。《ヒトの個体》の視野の狭さは、《ヒトの群れ》苦しみである。

反言語主義は《ヒトの群れ》苦しみである。《ヒトの個体》家畜化《ヒトの群れ》苦しみである。

2005-03-04(金)

《たけ(tk)の思いこみ》を《記述しつつあるモノ》: コトバ《噴出しつつあるモノ》コトバ《選びつつあるモノ》。選ぶとは? 『良い』モノを近くに引き寄せる作業、もしくは、『悪い』モノを遠くに追いやる作業、であろう。 コトバ《操りつつあるモノ》コトバを選ぶのも操ることである。

コトバ《噴出しつつあるモノ》《思いこみ》《噴出しつつあるモノ》と同じか? コトバは、『《思いこみ》の容器』という《思いこみ》である。 従って、「コトバ噴出しつつあるモノ」は「《思いこみ》噴出しつつあるモノ」の一種である。噴出する《思いこみ》が「コトバ」という《思いこみ》である場合に、「コトバ噴出しつつあるモノ」という。

2005-03-04(金)

《私》は《彼》を知らない: 《他者》が愚かであるように見えるのはなぜなのだろうか? 視野が狭く《思いこみ》にとらわれ、思考力に欠けるように見えるのはなぜなのだろうか? その理由は、《私》《他者》を内部から知ることができないからである。 《私》《私》を内部から知っている、それゆえに《私》が考えていることは《私》にとって合理的であることを知っている。しかし、《私》《他者》を内部から知らないのである。《他者》の内部における合理性の基準も、《他者》にとって重要な部分が何かも知らないのである。 《他者》は彼の《思いこみ》や彼が見ている世界について、ほんの一部分しか、《私》に教えてくれない。それゆえに、 《私》が『彼』を愚かであると思っているところのものは、《私》が《彼》について知りえた範囲で形成した『彼』のイメージという《私》《思いこみ》《私》の基準で愚かであると判断しているだけなのである。 ぶっちゃけて言えば、《私》《思いこみ》が愚かなのである。

2005-03-03(木)

「コンピュータがエラーになりました。」「どういう操作をしたのですか?」「私は何もやっていません。普通にやっただけです。」「・・・」。・・おそらく、「どういう操作をしたのですか?」という質問を「不正な操作をやったお前が悪い」という非難のコトバだと理解したのだろう。それで弁解しようとしたのだ。「コンピュータは馬鹿だからエラーが出たのはコンピュータの責任。エラーが出る操作を再現して、コンピュータがどこで馬鹿をしでかしたのかを調べて、コンピュータにその場合でも馬鹿な処理をしないように手取り足取り教えないと、コンピュータは賢くならない。だから、エラーが再現する手順を教えてほしい。」というべきなんだよね。

《このヒト》という用語は良くない。他者が語る文脈の中での《このヒト》は、その文脈で語られているヒトを意味する。 《私》も問題がある。他者が語る文脈の中での《私》は語り手であって、聞き手ではない。 《あなた》もよくない。聞き手の《私》を表わすコトバは《あなた》だが、これは聞き手自身ではなく、聞き手が思いこんでいるイメージを意味するだけである。 結局、聞き手の《私》を意味するコトバはない、ということになる。 《読みつつあるモノ》とか《聞きつつあるモノ》なんて、言っても、何のことか分からないね。しかも、ちょっと、「聞き手の《私》」とは違うような気もする。

天命天命とは、《このヒト》の動き《宇宙史》との関係についての見通しから生じる《統合された快》である。 「これは《宇宙史》苦しみである。 これは《ヒトの群れ》苦しみである。 これは《このヒト》の状況苦しみである。」 と念ぜよ。さすれば、天命が見えてくるであろう。 天命に過大な期待を抱いてはいけない。おそらく、「毎日の仕事をちゃんとしましょう」などという天命が見えてくるであろう。

262の法則: どんな集団でも、よい子2、悪い子2、普通の子6の割合で生じるという法則。 正規分布と個体原理から生じる法則であろう。 集団の個体には正規分布的な能力差、待遇差、心情差が生じる。上位に分布した個体は積極的に集団を維持しようとする。下位に分布した個体は、集団に不満を持ち集団を破壊しようとする。中間の個体は、上位の個体に従属しようとする。その割合は、正規分布の上位20%、下位20%、中間の60%ほどになる、ということ。「良い」「悪い」は評価的な概念なので、「良い」を集団内の上位20%と定義すれば、262の法則が出来上がる。

エピゴーネンhttp://learning.xrea.jp/%A5%A8%A5%D4%A5%B4%A1%BC%A5%CD%A5%F3.html

(ドイツ)Epigonen

エピゴーネン

先行する顕著な思想や文学・芸術などの追随をし、まねをしているだけの人。独創性のない模 倣者・追随者を軽蔑していう語。亜流。

[補説] 語源はギリシア語のepigonosで、後に生まれた者の意。

人は死ぬ。ということだ。 集団を形成する人の動機と、既存の集団内で上位に上ろうとするヒトの動機とでは異なる。ということ。

2005-03-02(水)

昭和の国譲りの結果、日本は出雲の国になった。 したがって、天皇は、国引きの儀式を行い、地球上のすべての地域の神々を宮中に祭るべきである。

排他的集団主義《ヒトの群れ》苦しみである。

無関心は《ヒトの群れ》苦しみ原因である。 無関心は、それ自体として、《ヒトの群れ》苦しみである。 操られた情報の氾濫は《ヒトの群れ》苦しみである。操られた情報の氾濫は《ヒトの群れ》苦しみ原因である。情報を操る部分の愚かさは《ヒトの群れ》苦しみ原因である。 情報を操る部分の愚かさは、それ自体として、《ヒトの群れ》苦しみである。 《ヒトの群れ》の愚かさは、それ自体として、《ヒトの群れ》苦しみである。 楽しむ部分が凝縮し、苦しむ部分が広がるのは、《ヒトの群れ》苦しみである。 日本全体が学級崩壊状態になるのは《ヒトの群れ》苦しみである。 世界全体が学級崩壊状態になるのは《ヒトの群れ》苦しみである。 修羅の世界になるのは《ヒトの群れ》苦しみである。 楽しむ部分が凝縮するのは、《ヒトの群れ》苦しみである。 権力の集中、富の集中、情報の集中は《ヒトの群れ》苦しみである。 システムの崩壊は《ヒトの群れ》苦しみである。 システムへの無関心は《ヒトの群れ》苦しみである。 システムへの無関心は《ヒトの群れ》苦しみ原因である。 《ヒトの群れ》への無関心は《ヒトの群れ》苦しみである。 散逸構造論:《ヒトの群れ》が極大化すると、エントロピーの放出が不可能になり、内部がカオス化する。 カオス化しないな。鎌倉〜江戸時代の閉鎖列島での経験から言うと、暴力と恐怖によるシステム化が行われる、修羅によるシステム化。で、システムが完成すると、内部は平和になる。?。江戸時代は外部システムと無縁であったのか? 石油のコストが高くなれば、再び、ローカリズムの世界に戻るのではないか? 石油のコストは輸送コスト、移動コストに繋がる、これは遠隔地への軍事支配のコストに繋がる。 排他的集団主義《ヒトの群れ》苦しみ原因である。(やっぱ筋金入りの排他的集団主義が問題だ)。 排他的集団主義は、それ自体として、《ヒトの群れ》苦しみである。

これは《ヒトの群れ》苦しみである。これは《ヒトの群れ》苦しみ原因である。と、唱えよ。

応援されるのはありがたくない。検証可能な仮説であるかどうかを、批判的に追試してくれるのがありがたい。

世界は苦しんでいるか? 世界は畜生道に苦しんでいるか? 果てしない欲望の充足に苦しんでいるか? 世界は天上道に苦しんでいるか? 硬直した客観的知識を信じて自らの道を見失っていないか? 世界は修羅道に苦しんでいないか? 攻撃衝動をコントロールできずに破滅に向かっていないか? 世界は涅槃道に苦しんでいないか? 悟ることを喜び現実を放置してはいまいか?

《ヒトの群れ》は苦しんでいないか? 《ヒトの群れ》は畜生道に苦しんでいないか? 果てしない欲望の充足に苦しんではいまいか? 《ヒトの群れ》は天上道に苦しんでいないか? 硬直した客観的知識を信じて自らの道を見失ってはいまいか? 《ヒトの群れ》は修羅道に苦しんでいないか? 攻撃衝動をコントロールできずに恐怖と憎しみとをもたらしてはいまいか? 《ヒトの群れ》は涅槃道に苦しんでいないか? 悟ることを喜び現実を放置してはいまいか?

第1レイヤは共振しつつある《身体》。 第2レイヤは《思いこみ》のパイプ。 第3レイヤは《思いこみ》ルールによる共振関係。 第4レイヤは《知りつつあるモノ》《息しつつあるモノ》などの共振関係。

天命とは、状況の認識から帰結される統合された《快》である。状況というのは動きとの関係で認識された世界である。人事を尽くすと天命が聞こえるようになるというのは、人事を尽くすことによって、動き世界《快》との関係が見えてくるということにある。それによって、状況への認識能力が高まり、新たな天命を聞く耳が養われるのである。

存在は《モノの世界》に属し、認識は《思いこみ》世界に属する。というより、認識は《コトバの世界》に属する。モノの存在は《モノの世界》に属する、イデアの存在は《コトバの世界》に属する。

客観世界はある、客観世界は知り得ない、客観世界《思いこみ》である、客観世界《思いこみ》によって知ることができる。

噴出しつつある壁》=体内感覚における身体内部の《知られつつある世界》と背後者との間の壁。その壁は《思いこみ》であり、その《思いこみ》噴出し、浄化される、という視点における壁。

2005-03-01(火)

文句を言ったら気がすんだという体験: 銀行の対応がおかしいので、支店の統廃合に伴う承諾書を返さなかった。何度も依頼が来るので、文句の手紙を書いた。すると、丁寧な電話がかかってきた。で、一応文句を言ったら、気がすんでしまった。あいては「この度は貴重なご指摘をありがとうございました」と書いてきたが、もちろん、改善される見込みは無い。実益がないのに、なんで、文句を言おうとするのか? 何で、あいさつされると、気がすんでしまうのか? いちおう、「不具合を連絡して、知っておいてほしい」という趣旨は通じた。が、実益があるわけではない。言うだけで気がすんでしまうというのは、生得的な反応形式なのだろうか?

モノ世界のシステム: コンピュータのオブジェクトは参照されるモノが、変更されたときに、参照するモノに通知すべきだ、と思ったのだが、生き物のシステムではそうはなっていないことに気がついた。 生き物のシステムは完全にコンカレントなシステムなんだ。 それぞれが無限ループを内部に持ち、それぞれの世界状況を監視し、それぞれが自律的に自己の動きを決めている。生き物は通知を受けるのではなく、通知を捜し出すのだ。 これをコンピュータでやったら、完全に、cpuの能力不足になるだろう。

仕事を教えることについて:

  1. 自分が出来ないことを他人に教えるのは不可能だ。自分が、目をつぶってもできる、位でないとうまくいかない。
  2. 応用的な仕事、を教えることはできない。基礎的な仕事ができるヒトにやらせてみる、というほかない。応用的な仕事というのは、彼が自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の工夫でやってみて、始めて出来るような仕事のこと。言われた通りにやったのではうまくいかないような仕事。
  3. 基礎的な仕事を教えること、も、自分でやるよりも大変だ。自分でやった方がはやい。しかし、自分でやることが、時間的・気分的に出来ないときに、他人に教える手間を掛けてでもやってほしいということはある。

虚実二つの世界の原点: 《宇宙史》の全ての点は虚実二つの世界の原点である。 私の原点は《知りつつあるモノ》のすこしうえに集まっているように感じられる。 モノ世界コトバ世界のどちらが虚で、どちらが実かは別にして、《知りつつあるコト》の前にある世界《知られる前の世界》=《モノの世界》と《知りつつあるコト》の後にある世界《知られつつある世界》《思いこみ》だろう。

前面世界と背後者世界の境界の《思いこみ》を浄化すること。 壁を浄化すること。 《諸々のxxしつつあるモノ》を透明化して、《思いこみ》循環としての体内感覚を得ること。

2005-03-01(火)

T君が夢の中に出てきて「親の交通事故については、詳しく語ることはできるけど、教えてあげない」といった。

  1. 秘密を守ることの《快》。「知っていること」を他人から非難されることがある。非難されることは《不快》であり、非難されないことは《快》である。したがって、秘密を明かさないことは《快》である。
  2. 「知っている人を非難すること」の《快》。「知っている人が語ること」が社会不安(家庭不和)を起こす可能性がある。社会不安は《不快》である、したがって、知っている人が語ることは《不快》である、従って、知っている人が語ることを防ぐ行動は《快》である、したがって、語ることを非難することは《快》である。
  3. 夢判断。カウンセリング。わしゃカンセラじゃない、っちゅーの。夢というのは、それを見る人の心理的な不整合を解決するための回路を模索する行動だろう。《他者》の行動が(意識レベルでの思考で)理解できない時に、無意識レベルでそれを解釈する回路を模索していたのだろう。で、合点した時に夢として現れたのだろう。
  4. 神の啓示。これが出てきた状況は、夢の中で、前にぶっ倒れた時に病院にいたことを思い出していたらしい。病院で、トイレに行きたいといったらカーテンでしきられただけの便器に案内された。そこでタバコを便器の上において座ろうとしたら、タバコが便器の中に落ちてしまった、それを便器の水の中から拾っている時に、T君の声が聞こえて「親の交通事故については、詳しく語ることはできるけど、教えてあげない」と言われたのだ。旧約のxxには夢判断の記事がある。その後に、神の啓示の話がある、そして神を打ち負かした話がある。この話は、夢判断によればT君の心の叫びだろう。何か隠すべき秘密があって、それを打ち明けたいのだが、信頼できる相手がいない、という叫びだ。と、夢判断で解釈することができる。しかし、この夢・幻の状況を神話的に語れば、神の啓示の話として語ることもできるだろう。T君という特定個人の話としてではなく、一般に「人々」の声だと解釈するのであれば、「神の声」ということになるだろう。
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