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ゴミ箱2005-02

2005-02-28(月)

《息しつつある噴出》=《息しつつある混濁》《思いこみ》コトバ噴出しつつあるモノ

2005-02-27(日)

《身体》体内感覚: (1)痛み、(2)動き、(3)《ちから》、(4)《思いこみ》。(5)皮膚の自己感覚(モノに触れつつある指自体の感覚)。 体内感覚《近傍物理空間》の一部か?

客人が来て宴会が始まっている時に、寝ていた。《膨張思いこみ》というモノを見つけた。起きるべきか、必要がないか、《身体》から、《思いこみ》が膨張して、参加した時にはどういう状態になるか、という身体から膨張する形の《思いこみ》が生じた。置きて、宴会に参加した。《膨張思いこみ》は彼らからも出ており、《私》の《膨張思いこみ》と結合した。各人ごとに1本、《私》と彼との間に《膨張思いこみ》のパイプが通る。

《身体》共振関係が最下位のプロトコルにあり、その上のプロトコルとして《膨張思いこみ》がある。

2005-02-27(日)

コトバ噴出しつつあるモノ。があるな。 コトバ噴出しつつあるモノに注目していると、《混濁》に戻る。 《混濁》から戻ると、コトバ噴出しつつあるものと《息しつつあるモノ》とが一体化する。かなり強力な《思いこみ》噴出媒体になる。

2005-02-25(金)

死と再生の儀式を体験しなさい: 死と再生の儀式を体験するには、「死と再生の儀式」を10時間念じつづければよい。 で、これは、エポケー(混濁)の儀式なのだ。エポケーの儀式を通過すると、新しい世界が見えてくる、それが再生だ。

プログラミングと散逸構造論: コンピュータは、最初エントロピーが最大な状態、カオスの状態にある。混濁の状態にある。そのエントロピーを外部システムに放出することによって、コンピュータをシステム化するのが、プログラミングである。コンピュータからの混濁の噴出がプログラミングである。 仏像作りのヒトが、もともと木の中に入ったいたブッダの像を掘り(彫り)だしているだけだ、という。木の中に入っていた混濁を噴出させると、ブッダの像というシステムが現れる。 コンピュータからの混濁の噴出と、混濁に《ちから》を加えること。散逸構造は、外部システムとの間でのエントロピーの循環によって生じる。混濁に《ちから》を加えるということは、そのシステムと外部システムとの間でエントロピー(混濁)の循環を生じさせるということ。 エントロピーの移動量という概念が必要だ。 システム化する《ちから》というのはマイナスのエントロピーの注入、すなわち、システムからのプラスのエントロピーの噴出だ。 《ちから》とは、AからBへのマイナスのエントロピーの注入である、すなわち、BからAへのプラスのエントロピーの噴出である。《ちから》とは、AからBへのマイナスの混濁を吹き込むことである。すなわち、BからAへのプラスの混濁の噴出である。《ちから》とはモノに混濁の噴出させることである。

モノとはなにか: モノを作り出すということ: モノを作り出すというのはモノの状態を変えることである。モノというのはモノの状態である。状態が変わるとモノが変わる。モノと認定する大きさ、範囲が変わるとモノが変わる。モノはシステムである。ひとまとまりのシステムである。モノにはサブシステムがあり、スーパーシステムがある。モノのシステムはサブシステムを内包し、スーパーシステムに内包される。モノのシステムはある部分のサブシステムを他のシステムと共有する。モノのシステムは他のモノのシステムと関係しあって大きなシステムを形成する。 モノというのは、輪郭によって区別された、混濁の一部分である。 輪郭によって区別された、というのはイデアによって区別された、という意味ではない。輪郭を作り出すのはモノ自体の「まとまり性」によって、自ずから生じてくるものである。 モノを作り出すとは、混濁に《ちから》を加えて、混濁の特定の部分が「まとまり性」を持つように変えることである。 モノを作り出すとは混濁に《ちから》を加えることである。 モノを作り出すとは、混濁が「まとまり性」を持つに至る仕組みを知ることである。 モノとは、混濁の部分の「まとまり性」である。

http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/prigogin.htm 。 散逸構造論 theory of dis-sipative structure イリヤ・プリゴジン。「このエントロピーに逆行し秩序を形成するシステムの可能性を「ゆらぎ」という。」「非平衡状態にあるほど、「ゆらぎ」による「自己組織化」の可能性が高い。」「これには常にエントロピーの入力と出力の格差の部分に発生するもであり、静的状態が保たれるのでなく、動的なプロ セスが保たれるのである。内部でエネルギーを消費(散逸)させる為、散逸構造論と呼ばれる。」「この理論はその後エンリッヒ・ヤンツによって「自己組織化する宇宙」論に飛躍する。」「例えば、貴方の身体の細胞は、脳を除き数年で全部交換されている。しかしなぜ貴方は貴方という構造であり続けられ るのか? 生命も外部からエネルギーを取り入れて、中でエントロピーを消費し、それを外部に代謝していくことによっ て、秩序を形成していくシステムといえる。したがって散逸構造といえる。」

意味の三角形イデア実在論とイデア唯名論に変わる新たな視点という意味。 「名前」⇔『イデア』⇔《モノ》 という三角形。

プログラミングはイデア実在論である: プログラミングは『完成されたプログラム』のイデアを念じることから始まり、それで終わる。 イデアモノ(コード=記号=プログラム=メモリの状態)を作り出すことは認めなければならない。

あなたはイデア実在論に汚染されている: 私はイデア実在論に汚染されている、と自覚すべきである。 エネルギー保存とか質量保存とかいうとモノの実在に近づいたような気分になるかもしれない。しかし、残念ながら、おそらく、これは、エネルギーのイデア、質量のイデア《思いこみ》を強化するモノでしかない。

百億の《息しつつある混濁》: 百億の共振しつつある混濁。混濁しつつある百億の共振。混濁の中の百億の共振。 混濁の中の百億の共振の混濁が静まると、客観世界(近傍物理空間の背後者)の中の百億の共振が見えてくる。百億の共振しつつある混濁が見えてくる。 百億の共振しつつある混濁には、私の身体の内部の痛みとか目眩いとかも含まれる。百億の共振の中にはコンピュータも含まれる。全てのモノは百億の共振に含まれる。

自己言及のパラドックスはイデア実在論の破綻: イデア唯名論とイデア実在論。イデア唯名論には修正が必要。名前は記号であり、イデア『意味』であり、もう一つ物自体という《モノ》という3個の要素で理解すべき。古典的な唯名論にはイデア=意味=記号という混同がある。 モノ実在論とイデア実在論。実在するのはイデアモノか? 人間生活はイデア実在論のほうが都合が良い。プログラミングは、イデアをコードに落す作業である。イデアの実在をコードという遇有性におとす作業である。対話で伝わるモノ《思いこみ》でしかないから、《思いこみ》を実在と見なした方がコミュニケーションはスムーズに行く。

2005-02-24(木)

《他者》との間で《思いこみを循環させつつあるモノ》。

「他者は、彼に属する自然としての身体のうちで心的に支配しているものとしても経験している」(p.165)を、たけ(tk)用語で翻訳すると、「『他者』は《他者の身体》の中で『彼に属する自然としての身体のうちで心的に支配しているもの』と《思いこみつつあるモノ》」である。となる。「『他者』は《他者の身体》のなかの《思いこみつつあるモノ》である」となる。この《思いこみ》は、フッサールによると、特殊な《思いこみ》のようなので、《自我の思いこみ》という用語を付けておこう。《自我の思いこみ》は自己言及的な《思いこみ》である。《自我の思いこみ》を突き詰めると、自己言及のパラドックスによって発狂してしまうだろう、というか、《めまい》に陥るだろう。《思いこみ》《身体》《他者の身体》の中で循環するものである。その循環の中に《自我の思いこみ》もあり得る、ということは言えるだろう。

「志向的な生」(p.166)。《息しつつあるモノ》には志向性がある。《思いこみつつあるモノ》にも志向性がある。《息しつつあるモノ》志向性は『生きろ』という単純、唯一な志向性だろう。《思いこみつつあるモノ》志向性は、千差万別である。《自我の思いこみ》の志向性も千差万別である。《息しつつあるモノ》の『生きろ』という志向性に注目して、《混濁》に戻る、そして、《近傍物理空間》を再発見する。すると、《近傍物理空間》のすべてのモノが『生きろ』という志向性をもち、『生きろ』と叫び、「君も生きろ」「我も生きる」とモノたちが叫んでいることがわかる。しかしこのことは、《混濁》が、容易に《思いこみ》に汚染されることを示しているのだろう。

http://tanakanews.com/f0223philippines.htm : 沖縄からフィリピンのやらせテロ戦争に転じる米軍 : 2005年2月23日 田中 宇

人々の恐怖心を煽って支配する方法。 古典的な支配の方法なんだよね。修羅の政治構造。人間は《思いこみ》のサルだから、しょうがない。

2005-02-23(水)

天命を生み出すモノとしての世界》への見通しが必要だ。 これは「状況」だな。「状況としての《宇宙史》」。 《知られつつあるモノ》として捉えられた《宇宙史》《私》《他者》《ヒトの群れ》への見通しを、《私》動きとの関係で捉えなおすこと、これが状況への見通し、であろう。

仕事は他者経験か? 法律を読むのは他者経験か? 他者のコトバを読むと、身体の中に《思いこみ》が生じる。その《思いこみ》を操って、問題の答えを考える、つまり別の《思いこみ》を身体の中に生じさせる。 コトバに含まれた立法者の隠れた《思いこみ》を感じる。コトバに含まれた発語者の隠れた《思いこみ》を通じて、立法者という他者を感じる。 他者から私への《思いこみ》の伝達。 私から他者への《思いこみ》の伝達。お客さんという他者に伝達すべき《思いこみ》コトバの形で記録しておくこと。そして、お客さんが来たときに、コトバを通じて、私の《思いこみ》を伝達すること。

他者経験における要素は: 他者、私、他者のコトバ、私のコトバ

私のコトバと、他者のコトバとでは意味合いが異なる。

他者のコトバは、突然現れる、ある程度予測可能だが、基本的には予測不可能なコトバとして出現する。《知りつつあるモノ》の関心対象であり、コトバの記号から意味を取り出すことに関心が向く。他者のコトバから取り出された意味には二つある、一つは、その言葉自体がもっている意味、もう一つは、そのコトバを生み出した他者の隠れた《思いこみ》への想像。

私のコトバは《思いこみの表出》として現れる。表出しつつあるモノの作用であり、《思いこみ》を操りつつあるモノの関心対象となる。

動くということは世界《知られつつある世界》、客観世界)に隠れた《思いこみ》表出することである。

コンピュータに向かって文字を打つということ。ほぼ純粋な《思いこみ》表出。打たれた文字というモノは過去の私の《思いこみの表出》である。過去の私の《思いこみの表出》によって出現したモノから意味を読み取るという作業。過去の私の《思いこみ》との対話。

他者経験は世界経験の一部である。 世界経験は「モノ世界の中で動く」という経験である。物理的なモノとの関係で物理的な身体として動くこと。イメージの中のモノとの関係で表しつつあるモノとして動くこと。 モノから意味を受け取り、表出しつつあるものの作用として、身体や表出動かすこと。

他者経験と世界経験との違いは、他者のコトバの予測不可能性にある。モノの意味は予測可能性が高いが、人のコトバの出現は予測が困難である。困難であるが故に、その言葉の出現に関心を寄せざるをえず、出現したコトバから意味を取りだすことに必至にならざるをえない。 意味が予測可能なモノ世界においては、安心感がある。

「他者経験」:研究テーマに名前を与えること。これは、よい。

他者経験には「良く生きる」という視点と、「正しく記述する」という二つの視点が必要である。 他者経験は思いこみぬきにはあり得ない。何らかの《思いこみ》があってはじめて成立可能になる。《思いこみ》を持たないという視点でも成立するが、それは「《思いこみ》を持たないという《思いこみ》」の視点で歪められた他者経験である。《思いこみ》に歪められない他者経験はあり得ない。全ての他者経験は《思いこみ》に歪められたモノである。

あれ?、他者経験における《思いこみ》は、孤立モードでの《思いこみ》とは無関係に成立しているみたいだ。

2005-02-22(火)

《モノの世界》においては《知りつつあるモノ》自己言及の問題は生じない。《知られつつある世界》《知りつつあるモノ》によって生じた《思いこみ》である。《思いこみ》《モノの世界》とは別のモノであり、それが同一であるという《思いこみ》から生じる問題は、《モノの世界》ルールからは生じない。

《モノの世界》《思いこみ》である。しかり、しかし《思いこみ》としての『モノ世界』は《思いこみ》であって、《モノの世界》ではないのである。

認識者の集合を考えてみよう。 認識者は、自己が属する集合を再生成するモノであるとする。 写像生成関数の集合。

純粋な自己言及は不動点と対応関係にある。「平面上で1点を中心にした円運動があり、《同じスピード》(角速度ではなく)で回っているとすると、中心点は、不動点であるとともに、無限の角速度で回転する運動である」。純粋自己言及は不動点である。

認識者は世界を二重化する。客観世界に置かれた《知りつつあるモノ》世界《知られつつある世界》と元の世界とに二重化する。 客観世界は私の《知りつつあるモノ》によって《知られつつある世界》であるから、客観世界に他者の《知りつつあるモノ》を置くことは、《知られつつある世界》に二つの《知りつつあるモノ》を置くことになる。 それぞれが《知られつつある世界》の特異点となり、特異点が二つ出現する。 8の字型の循環、写像の作用点としての特異点。

神は神自身を知りうるか? 知りうるなら超越的ではなくなる 知り得ないな全知ではない。

パラドックスが《不快》なのは何故か? 《思いこみ》無限ループを引き起こし、《思いこみ》の機能を害するからである。 《思いこみ》の機能が害されるのは《不快》である。 《思いこみ》の正常な機能な《快》である。 《思いこみ》の正常な機能とは?

他者の《知りつつあるモノ》を知ることも自己言及のパラドックスを導く。

権力者の詔(みことのり)が『現実』として承認される国内政治。(高弘)。複数の権力が『現実』を目指してダイナミックに深謀遠慮する国際政治。

http://www.kamiura.com/new.html

相互リンクの嵐で読みにくい。レベル1の記述の「前」「次」。レベル2の記述の「前」「次」で読み進むようにする。タイトルにレベルを書く。

一般相対性理論は、数値的座標を有する公理系での一般理論である。曲率が+/0/−の座標系の一般理論。空間にかんする公理系には数値的座標系を有しないモノもある。ex.位相幾何学(トポロジー)。

《ヒトの個体》の身体の内部の超越的認識者。認識における超越であって、存在における超越ではない。全ての《知りつつあるモノ》は知られつつあるモノに対して超越的である。問題は、身体の中には、沢山の《知りつつあるモノ》があるということ。複数の《知りつつあるモノ》の集合。その中で、自己言及を拒否する《知りつつあるモノ》を超越的な《知りつつあるモノ》という。

ノエシス=《知りつつあること》、ノエマ=《知られつつあるモノ》、では《知りつつあるモノ》は? おそらく、自己言及のパラドックスに近づかないための智慧だろう。そして、それは、「神を語らない」というユダヤの智慧だろう。アイヌ神謡集でも感じたのだが、神の視点で語られたコトバの中に「神」というコトバを入れると自己言及のパラドックスに陥る。

2005-02-21(月)

フッサールの『デカルト的省察』を買ってきた。 たけ(tk)の考えと似ているのではないかと思ったが、こんなに似ているとは思わなかった。用語が違うが、見ているモノは同じのようだ。

ただし、フッサールは・・というか、デカルトの説明だからかもしれないが・・『デカルト的省察』はイデア実在論だ。混濁に留まるのではなく、早急に記述に走り、イデア世界に逃げ込んでいる。・・のはデカルトだ、とフッサールが後段で批判していた。(^^;)

  1. 現象学的な判断停止(エポケー)⇔混濁・・エポケーはノエシス、混濁はノエマ。
  2. 判断⇔《思いこみ》の創出。
  3. 真理⇔「正しい《思いこみ》」。
  4. 認識⇔「正しい《思いこみ》」の中での《知りつつあるコト》。
  5. 表現・記述⇔コトバにすること。《コトバにしつつあるモノ》の作用。
  6. 「前述定」「述定」⇔コトバになる前、コトバにすること。・・なんでこんな造語を作るんじゃいよ。
  7. 「疑いの余地がない」⇔たけ(tk)思うにぼろぼろ。ゲーデル以後の公理主義
  8. 超越的主観⇔イデア実在論の《思いこみ》の中の《知りつつあるモノ》
  9. cogito、思うこと⇔《思いこみ》、思いこむこと。
  10. 純粋な我⇔イデア実在論の《思いこみ》の中の《知りつつあるモノ》。統一体としての我は慎重に全てを見通していくことの結果として見えてくるはずのもの。イデアに逃げ込んであっという間に現れるモノはニセモノの幻。
  11. 内在的時間イデアに内在する時間時間を内包するイデア
  12. スコラ的な先入観(p.54)。
  13. 流れゆく生としての我、体験集中体としての我、イデア的実在としての我、モナドとしての具体的な我⇔たけ(tk)はまだ、こういう分析にはいたっていない。《背後者》としての《生きつつあるモノ》はどれに当たるのか?《息しつつある混濁》はどれにあたるのか?・・ライプニッツなのか・・。
  14. 形相的な現象学から絶対的な現象学へ(p.132-134)⇔絶対的な現象学から《同質者公理》に基づく再構成へ。方向が逆だな。何故だろ? 《我》現象学から《宇宙史》現象学へ。《ヒトの群れ》現象学へ。
  15. 現象学の超越論的な自己反省は何というべきであろうか。それは、このような問題の立て方自体が不合理だ、ということ以外の何ものでもない」(p.151)⇔OK。なんだ、分かっていたのか。フッサールは、とりあえず、まともであった。
  16. 間主観性を主観の総合としてとらえるのはいかがなモノか?全体は部分の総合ではない、切り離された部分は全体の一部ではないというのが複雑系の帰結だ。
  17. 私は他者をこの世界に対する主観として経験している。すなわち、この世界を経験し、私自身が経験しているのと同じ世界を経験している者として、同時にまた私を経験し、ちょうど私が世界を経験しそのうちに他者を経験しているように私を経験している者として、私は他者を経験している」(p.165)⇔はずだというのは分かるが、なんとなく違うような気もする。そのまえの「他者は・・支配している」ということの違和感と繋がる。支配的主観者ではないのではないか、《思いこみ》の《個体間循環》の流れに、双方が飲み込まれているのではないか? 個体状態の《ヒトの個体》と交流状態の《ヒトの個体》とでは異なるのではないか?「調和的な確認の体系」(P.166)
  18. 他者経験において判断停止をすること(p.170)⇔は、可能か?他者経験は《思いこみ》循環によって成り立っているので、その循環の中において判断停止をすれば、他者経験そのものが成立しなくなる。
  19. (他者経験における)自我の自己解明の中で自分固有の「世界」が「内なるもの」として見いだされる一方で、…自分自身をその「外なるもの」の一員として見いだすことになり」⇔ふーむ、こうゆー経験はしたことがないな。他者の主観において自己を見る、他者の主観において自己の主観において他者を見る自己を見る。
  20. モナドの共同体()⇔フッサールの掌で踊っていただけか・・。(^^;)。君子淡交の共同体みたいね。

では、イデア唯名論で記述が可能なのか? 新イデア唯名論は、ゲーデル以降の公理主義の影響を受けた唯名論。複数の公理系の併存の中の一つの公理系でのイデアを認める。そもそも、コトバの意味はイデアでしかあり得ない。コトバが指し示すイデアが完全なモノではない。唯のイデアに過ぎない。という意味での唯名論。

そうか、デカルトをデカルト以上に理解していることを示すために書いた本なのか。

デカルトは幻を見ている、と批判するのではなく、幻を見るという立場で記述を検討するなら、筋が通っている、という説明の仕方。幻を見るとはどういうことなのか、ということを客観的に説明するという方法。

混濁、エポケー(判断停止)によって、自然に見えてくる、というのは、何故なんだろう?。判断停止をしても、見ていることには変わりはない。判断停止をしながら見るということは、《思いこみ》を捨てて見るということだ。《思いこみ》の撹乱要素を捨てれば、霧が晴れてくる。

そういえば、たけ(tk)は、《思いこみ》の《個体内循環》の流れに身を任せた《知りつつあるモノ》現象学的観察に成功していない。いわんや、《個体間循環》をや。神の視点、すなわち超越的認識者の視点を、《知りつつあるモノ》とは別に持たなければ、観察するのは不可能だな。

まあ、いいや、同じように世界を感じているヒトがもう一人居たということが分かっただけでも、よしとしよう。

* 「超越的他者」何てこと言っているのかな? 言っていても良さそうだ。私が超越的認識者としての視点で他者経験を観察することができるのであれば、他者もまた他者経験を超越的認識者としての視点で観察できるはずである。超越的認識者というのは《ヒトの個体》の作用だということになる。

* 理屈はどうでもよいのだ、たけ(tk)が、見通しにおいて、世界に至ることができるかどうか、が問題だ。

* たけ(tk)は、たけ(tk)世界に現れた現象を、たけ(tk)コトバで記述する。それが重要なのだ。それがフッサールの追試になるということだ。フッサールのコトバを聞いて聞慧し、思慧で理解しても追試にはならない。修慧でも駄目だ。フッサールのコトバに影響された体験ではフッサールの体験の追試にはならない。

2005-02-21(月)

フッサールも同じだった。結局は「神」だ。神なんて、自己愛の鏡像にすぎない。

* ってのは、インターネットで散策した印象。

http://www.hss.shizuoka.ac.jp/shakai/ningen/hamauzu/hus-inhalt.html

『フッサール間主観性の現象学』(1995年2月、創文社)

 終章 「超越論的他者」とは何だったのか?

2005-02-19(土)

ブーバーってのは、結局ユダヤ教徒のようだ。汝というのは神であり自己の鏡像のようだ(永遠の汝というらしい)。「汝」と「それ」に分けてしまうようだ。ユダヤの哲人だから教訓的ないいことは言っている、が、東洋の古典の焼き直しのようなモノが多い。カバラ的な幻術のにおいがする。読んでみなければ分からないが、現実の《他者》は不完全な「汝」でしかあり得ないという結論になるのでは?常不軽菩薩のように《他者》を神の未完成品として扱うことになるのではないか? まあ、それでも構わないが、超越的人格神を前提としていることが気に食わない。

2005-02-18(金)

何故に自己言及はパラドックスを引き起こすのか? それは自己言及というのは、自己に言及するために、いったんコトバ世界を飛び出してしまうからだ。モノ世界を通らない限り自己に言及することはできない。 モノ世界を通った瞬間に、コトバ世界の完全性が崩れてしまうのだ。 何故? コトバ世界の外を通らなければならない、ということかな?

http://www.shayashi.jp/history/manifesto.htm

  • 1 数学の特徴である厳密な証明による真理保証のシステムは、それを厳密かつ完全にしようとすればするほど、その結果として不完全性を露呈する。(第1不完全性定理)
  • 2 厳密な証明による真理保証のシステムが安全であるということを、それより安全と思われるシステムを使って証明することはできない。(第2不完全性定理)
  • 1 十分に広い数学の分野をカバーするように作られた形式的理論は完全かつ無矛盾であることはできない。(第1 不完全性定理)
  • 2 十分に広い数学の分野をカバーするように作られた形式的理論では、その形式的理論が安全であるということ、つまり、それが無矛盾であるという事実は、その事実が本当である限り、その部分となる形式的理論や、それ自身では証明することができない。(第2不完全性定理)

http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/fukanzen.htm

  • 第1不完全性定理は「いかなる論理体系において、その論理体系によって作られる論理式のなかには、証明する事も反証することもできないものが存在する。」というもの。
  • 第2不完全性定理は「いかなる論理体系でも無矛盾であるとき、その無矛盾性をその体系の公理系だけでは証 明できない」というものである。

これって、第2定理は証明することを証明しようとする自己言及ではないのか? 第1定理は「証明する事も反証することもできないもの=公理」が含まれているということ。 従って「公理系」は存在しうるが、「公理系の公理公理系の中で証明することはできない」ということ。 ゲーデルの不完全性定理はヒルベルトの公理主義への自己言及の適用。

コトバを捨てて見えてきた世界コトバで説明することは可能か? コトバを捨てて見えてきた世界を混濁というコトバで呼ぶことにしよう。 「cogito, ergo sum.」の「sum」に相当するモノ、《混濁を知りつつあるモノ》を《知りつつあるモノ》と呼ぶことにしよう。 しかし、そのような説明は「コトバを捨ててみえてきた世界の説明」になっているのか? その説明を聞いた人に《思いこみ》を生じさせるだけではないのか? 聞慧・思慧・修慧に期待しよう。

《我》は客観的に存在する認識者である。という立場で客観公理と主観公理の矛盾を解決できるか? それを論理としてみると、自己言及のパラドックスに陥ってしまう。 そてをモノとしてみるなら、言うまでもなく正しい、自明なことである。 コトバを捨てよ。さもなくば真実を見ることができないであろう。 われど、コトバを捨ててみえてきた真実を、コトバをもって説明せよ。さもなくば、真実はその人の中で朽ち果てるであろう。

《客観公理》: 客観世界が主観に先行して存在し、主観は客観世界から説明されるべきだとする《思いこみ》。主観は客観的に存在する現象である、となろう。

《主観公理》: 主観が客観世界に先行して存在し、客観世界は主観によって説明されるべきだとする《思いこみ》。客観世界は認識者の《思いこみ》である、となろう。

《百億分の一の個体の天命》: 仕事は天命か? 封筒の宛名を書くのは天命か? プログラムを作るのは天命か? 崇高な意味での天命ではないだろう。では、《百億分の一の個体の天命》であるか?  《百億分の一の個体》にとっての《百億分の一の個体の天命》とは何か?

天命を阻害する仕事》: 天命を阻害する仕事と、天命を促進する仕事とがある。 天命を阻害する仕事は、本当に阻害する仕事であるかを考える必要がある。その仕事を行わないことが、天命を促進するかどうかを考える必要がある。 天命を阻害する仕事とは、「それをしないことが天命を促進する仕事」である。

天命》は広大無辺な《宇宙史》の中のちっぽけな地球の中の、地球の表面のカビのような人類の中の、何十億分の一の個体の属性である。天命は百億分の一の個体の属性である。百億分の一の個体の天命である。

《息しつつある混濁》と仕事。 仕事は《思いこみ》である。《息しつつある混濁》は仕事の《思いこみ》を吸収し、その《思いこみ》の熱を呼気として排出する。 仕事の《思いこみ》を浄化しては困る。仕事の《思いこみ》は、行わなければならないのだ。 仕事の《思いこみ》を浄化することは、仕事を行うことに役に立つか? 《思いこみ》《息しつつあるモノ》と結びつかなければ身体の動きには繋がらない。 無自覚的状況においては、《思いこみ》は背後者において《息しつつある混濁》と繋がっている。が、自覚的状況においては、自覚的に《息しつつある混濁》との関連を自覚する必要がある。

      ■■■■■
      ■      ■
      ■ 息 ■
      ■ し ■
      ■ つ ■
      ■ つ ■
      ■ あ ■
■■■■■■■ る ■■■■■■■■
        混 
        濁 

《息しつつある混濁》《息しつつある混濁》が人ごみの中にあるとき、《息しつつある混濁》は人々と一体化する。

天命は自分を何だと思うかによって異なる。 自分をブロイラーだと思っている人にとっては、次に出てくる餌を食べることが天命である。 自分を奴隷だと思っている人にとっては、ご主人様のご命令が天命である。 自分をペルソナだと思っている人にとっては、ペルソナを演じることが天命である。 自分を宇宙内存在だと思っている人にとっては宇宙の天命を感じることが天命である。

2005-02-16(水)

客観的に見て梵我一如であることは自明である、問題なのは「我々が梵我一如であることを自覚できない理由は何か」である、という見解は如何?

宇宙は分割可能か。 ブッダは十無記(じゅうむき)で答えたという。 http://www.hokuriku.ne.jp/genkai/55uchu.htmたけ(tk)ブッダ理解は「彼は涅槃主義者だった」というモノであった。 しかし、何故にパラドックスが生じるのか、ということを意味の三角形の視点から捉えなおしてみるのも面白そうだ。コトバはそもそも、数え上げが可能な記号だ。

《息しつつあるモノ》による再構成

《知られつつある世界》はあるが、《知りつつあるモノ》が見当たらない、という状態。 背後者としての《生きつつあるモノ》《知りつつあるモノ》なのか?

《知られつつある世界》はあるが、《知りつつあるモノ》が見当たらない、という状態。 反省的操作を繰り返すと発見されるモノ。 しかし、さすれば、《知りつつあるモノ》は反省的操作の創作物なのか?

《息しつつあるモノ》世界循環。 仕事と息しつつあるモノとの循環。 背後者と息しつつあるモノとの循環。 仕事と背後者と息しつつあるモノとの循環共振しつつある他者の群れと背後者と息しつつあるモノとの循環共振しつつある《他者の思いこみ》と背後者と息しつつあるモノとの循環。 息しつつあるモノと仕事しつつあるものとの循環

仕事と《宇宙史》との間の循環《ヒトの群れ》と宇宙史との間の循環。 《共振しつつあるヒトの群れ》と《ヒトの群れ》世界としての《ヒトの群れ》状況としての《ヒトの群れ》世界としての《ヒトの群れ》認識限界。人々の《思いこみ》認識限界の総和が《ヒトの群れ》認識限界

方法的断定: 議論を進めるうえで必要なテクニック。 デカルトの方法的断定。 念ずること、祈ること、唱えること。「一切皆苦」と念じること。 チョムスキーの「妥当だが曖昧な命題は学問上の価値を持たない。明らかに間違っているが、その間違いを証明可能な命題は学問上の価値を有する」という命題。

美しいウソを信じ続けることが勝利?? 美しいウソを信じなくなることが敗北?? という心理構造。

人間とは心地よいウソに騙されたがる動物である。 我々は、心地よいウソには決して騙されないと決意する。 では・・、我々は人間ではないのか? 否、我々も人間である。 我々にとっては「心地よいウソに騙されないのは善いことだ」というウソが心地よいのである。(なんのこっちゃ、(^^;)

Last modified:2005/07/03 13:03:02
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