コトバ
コトバ に関連する疑問
記述
- 《混濁》の中でコトバが噴出していたことは確かだ。
- 《混濁》から始まる思索におけるコトバは、《背後者》から《体内直知時空》に噴出したモノである。
- コトバは《思い描き》を生じさせる。
- コトバの噴出を操作することによって《思い描き》を操作することができる。《操りつつあるモノ》。
- コトバによって生み出された《思い描き》に従って、《混濁》の中からその《思い描き》が指し示すモノを捜し出すことができる。《指し示す思い描き》。
- コトバには、《私》の《背後者》からの噴出によるコトバの他に、《他者》から噴出されたコトバがある。《他者からのコトバ》と《背後者からのコトバ》。《コトバの噴出》
- 《他者からのコトバ》もまた、《私》の《体内感覚世界》に《思い描き》を生じさる。
- しかし、これは錯乱した不快な《思い描き》だ。《他者からのコトバ》は、《私》を撹乱する、不快を生じさせるモノであった。((最近は慣れてきた。というより、《知りつつあるモノ》による《混濁の分離》は非常に不安定だったのだ。最近は《混濁しつつある身体》による《混濁の分離》の状態なので、《他者からのコトバ》にも堪えられるようになった、ということだろう))。
- 《他者からのコトバ》には、直接的な《他者からのコトバ》と、媒介された《他者からのコトバ》とがある。
- 《他者の身体》から直接に噴出されたコトバと、
- 文字、看板や映像、スピーカ、コンピュータなどで、いったん物的なモノとして固定された後に《私》に与えられる《他者のコトバ》とがある。《メディアのコトバ》。《伝聞のコトバ》。
- ハンドスピーカを通したコトバは媒介的か、直接的か? そもそも、肉音といっても、空気の振動というモノを媒介としたものではないか?
- 《私》が過去に書き記した文字はどうなのか?
- 《私》からの《他者》へのコトバは? 《他者へのコトバ》。《私》の《身体》の《動き》であるような《他者へのコトバ》。
- この《たけ(tk)の思いこみ》への文字の噴出、聞き手のない《他者へのコトバ》、は?。
- 思索における《コトバの噴出》は、自分自身を聞き手とする《他者へのコトバ》なのではないか? 《体内感覚世界》は《他者》が知ることができない、《体内感覚世界》は《私》にとっては、《私》だけの《世界》であることが保障されたリアルな《世界》である。
- 《私》からのコトバには、
- 《混濁しつつある身体》において、《他者からのコトバ》は《混濁しつつある他者の身体》からのコトバであり、その同質性の感覚において、《私》の《混濁しつつある身体》に理解可能なモノとなった。
- 《私》の《混濁しつつある身体》からのコトバは在る。しかし《私からのコトバ》はない。《私》は「the man with the foolish grin is keeping perfectly still」。たけ(tk)訳「The Fool On The Hill」。《私》の《混濁しつつある身体》からのコトバは、《身体》がたてる物音「the sound he appears to make」にすぎない。
- たけ(tk)は「The Fool On The Hill」を演じている。
- 《たけ(tk)の思いこみ》は《私からのコトバ》ではあるが、《あなたへのコトバ》ではない。「the man of a thousand voices talking perfectly loud」でしかない。
区別
- コトバとは、《妄想しつつある肉の塊》がそれに触れると、《妄想しつつある肉の塊》の中に《妄想》を生じさせるモノである。
- コトバが、どのような《妄想》を生じさせるかは、《妄想しつつある肉の塊》の内部状態によって異なる。「AI」というコトバを聞いて、「人工知能」という《妄想》を生じさせるか、「愛」という《妄想》を生じさせるか、「I」であろうという《妄想》を生じさせるかは、聞き手の内部状態による。
- 《個体》Aは自らの《欲求》を《個体》Bに伝達したいという《欲求》を持つ。
- 《個体》Bは《個体》Aの素振りを認知して、《個体》Aが彼の《欲求》を伝達したいという《欲求》を感じる。《個体》Bは《個体》Aの素振りから、《個体》Aの伝達したい《欲求》を推測する。
「2007-09-07(金)16:17:34」というコトバ
- 「2007-09-07(金)16:17:34」というコトバは「2007-09-07(金)16:17:34」から「2007-09-07(金)16:17:35」の直前までの幅のある時間を表わしている。のか?
- ○:風船が割れたのは「2007-09-07(金)16:17:34」です、と言った時の「2007-09-07(金)16:17:34」は幅のある時間の範囲内の事象であることを示している。
- ×:『「2007-09-07(金)16:17:34」から』の「2007-09-07(金)16:17:34」は瞬間の時刻を表わしている。
設定ファイルとコトバ
大工用語は、大工の間で通じればよいのだ。
- 大工は、経験が大事。経験から学ぶ。うううう。賢者は歴史から学ぶ。
動作の名前とモノの名前
語りえない真実を知ったモノは、語らなかったに違いない。
- 「語りえない真実」というコトバで語られたモノは、どのようなモノなのか?
- ぶっちゃけ、「てめーに言ったって分かりっこねーよ」という意味だな。「てめーはアホだから」という意味でもある。賢者が月を指差せば、愚者は指を見る、ということだ。
RESTとコトバ
- クライアントがサーバから情報を取得する、という行動様式は次の構造を持つ。
- 情報取得行動は情報取得欲求の《欲求実現手段》である。((入手?、取得?、獲得?))。
- 情報取得欲求の効率化の手法がREST。情報取得欲求の効率的な《欲求実現手段》。
- Webなどを見ていると、人々がコトバを発し、受け取る理由は、感情的な満足のためであるように見受けられる。
- 関係欲求の《欲求実現手段》としてのコトバ。
- コトバが《欲求実現手段》であることは明らかだろう。認知情報の伝達であれ、要求情報の伝達であれ、コトバは《欲求実現手段》なのである。
- 『慰め』を《求める思いこみ》というのがあるのか?
- 慰め balm // comfort // consolation // placation〔placate の名詞形〕 // salve // solace // solacement
- 『心地よいウソ』とはちょっと違うかも。同じく『心地よさ』への《欲求実現手段》ではあるが、ウソは『信じること』をベースとしているが、コトバによるかjっじょう感情満足は、《他者》に向かって『言うこと』『うなずいてもらえること』をベースとしている。
コトバの記述無力性。
- 《モノの世界》は同時多発的な《モノの群れ》として現れる。しかし、コトバは、シーケンシャルな音韻の連なりである。一連の音韻の連なりでしかあり得ないコトバでは同時多発的な《モノの群れ》を表現することはできない。目を閉じて、開けば、目の前に少なくとも100個くらいのモノたちの群れがあることに気がつくだろう。《世界》は膨大な数のモノたちの群れとして同時に飛び込んでくる。しかし、コトバは、その内の一つのモノを記述できるに過ぎない。膨大なモノの群れの中から、一つのモノを取り出し、別の一つのモノとをつなげる、という程度の記述能力しかない。
- コンピュータのシステムは記述可能か? コンピュータのシステムは、複雑すぎて記述できない。というより、コンピュータはモノであり、モノは記述できないのである。コトバはモノを記述する能力を持たない。
- ことふて
- 《他者へのコトバ》の《噴出点》は(コトバの《噴出点》も)胸の肺の後ろのほうである。《他者の欲求》を感じるのは下腹部であり、《息しつつあるモノ》の下あたりである。《混濁しつつある身体》において、一体とならなければ、《他者へのコトバ》はスムーズに流れない。
- 《他者へのコトバ》というのは、考えたことがないな・・。
- 『他者に言うべきこと』が無い。
- 『他者が知るべきこと』が無い。
- 《他者》が『知りたいこと』を《私》は知らない。
- 《他者》の『知りたいこと』はあるか?
- 《他者へのコトバ》の《噴出点》は(コトバの《噴出点》も)胸の肺の後ろのほうである。《他者の欲求》を感じるのは下腹部であり、《息しつつあるモノ》の下あたりである。《混濁しつつある身体》において、一体とならなければ、《他者へのコトバ》はスムーズに流れない。
- コトバの噴出と《思い描き》の噴出とは別のものである。
- コトバの噴出には、その言葉からの《思い描き》が生じる。コトバの噴出には《思い描き》の噴出を伴う。
- 《思い描き》の噴出には、コトバの噴出が伴うとは限らない。
図を読む、表を読む、とコトバ
- 表が出てくると「うへ」となるヒトは、《表を読む》方法を知らないからだろう。《表》言語における文盲なのだ。
- 図に関しても、イメージだけ頭に入っても、分かりやすく分かったような気分になっても、図を思い描けるようになっても、その中に入って辿ることができなければ、図を読んだことにはならない。《図》言語における文盲ということになる。
《モノへの名前》
- 画面への名前
- 《動き》への《名前》と《動詞》の変化。《動きへの名前》
- 《名前を付ける》ということ。《命名》。モノに《モノへの名前》を《名前を付ける》ということ。
- 《思い描きへの名前》
- 臼から取出したお餅の塊から、ダンゴを作ってから、ダンゴに《モノへの名前》を付けること。
- 《仮想実在》の《思い描き》への《モノへの名前》を決めてから、臼から取出した餅の塊からダンゴを作ること。
- イデア的モノ作りと、対話的モノ作り。
ウソと誤謬と不誠実
- 《他者》のコトバが誤りであるとき、それが誤謬であるのか、ウソであるのか、不誠実であるのかの判定は可能か? ○:。×:。
- 誤りであると指摘したとき、すなおに受け入れるなら誤謬であろう。
- 誤りであることを指摘したときに、受け入れないなら、ウソであるか、不誠実であろう。
- なぜ、たけ(tk)は《私》のコトバに《他者》が反応することが《不快》なのか?
- 《他者》の《おもねり》を感じるから? ○:。×:。
- たけ(tk)には《消滅願望》が在るから? ○:《消滅願望》がネックかもな。「季節の風が吹いたら どうぞ 伝えて欲しい 揺れる菜の花 恋人・友達 どうぞ わたしを 忘れて欲しい」。×:。
- 《影響力》を嫌悪するから? ○:。×:。
- 《他者》が嫌いだから? ○:《他者》は期待通りには反応しない。×:。
- 《他者》の無理解を感じるから? ○:《私》の《身体》は、《私》のコトバに敏感に反応する。しかし、《他者の身体》の反応は鈍い。×:。
- たけ(tk)が《他者》に反応を期待しているから? ○:反応を期待するから、期待に反した反応に《不快》を感じる。《他者》が期待通りの反応を示さないのは、《他者》が『わるい』のじゃない、たけ(tk)のコトバが『わるい』のだ(正語)。もしくは、たけ(tk)の期待が『わるい』のだ(正命)。×:。
- 《混濁》したとき、それをどのようなコトバで指し示すかを、考えた。何故?
- 《混濁》したとき、最終的に、それを「混濁」というコトバで呼ぶことにした。
- モノを《指し示すコトバ》を《求める思いこみ》。《指し示すコトバを求める思いこみ》が在った。
- 《混濁》したとき、「これをどのようなコトバで語ろうか」というようなコトバを語っていた。何故?
- 《混濁》は、(「これをどのようなコトバで語ろうか」というような)コトバを噴出していた。
- 《混濁》の中に、コトバを《噴出しつつあるモノ》と、噴出されたコトバが在った。《コトバを噴出しつつあるモノ》、《噴出されつつあるコトバ》。
- 《コトバを噴出しつつあるモノ》は舌の《動き》のイメージと結びついていた、か? ○:。×:「イメージ」ではなく、「舌の《動き》」そのものと結びついていた。
- 《噴出されたコトバ》は《思い描き》を生じさせた。
- その《思い描き》をいろいろ検討して、《混濁》を指し示すにふさわしいコトバを選び出した。それが「混濁」というコトバ。
- 《指し示すコトバを求める思いこみ》は何故? 《私》が《他者》に伝達するため? 《私》が思考するため? それとも、《私》が『生きる』ため? 《混濁》から脱出するため?
- 《指し示すコトバ》は「正見」のために必要である。「正思」のために必要である。「正語」のために必要である。「正業」のために、必要である、のかな?、「正命」「正精進」「正念」「正定」にはどうだろう? 「正命」と「正念」には必要そうだな。
- 《体内感覚世界》に《噴出されたコトバ》と、発語という《身体》の《動き》によって体外に《噴出されたコトバ》とは異なる。か? ○:。×:。
- 《他者》に向かって《発語されたコトバ》と、自分に向かって《発語されたコトバ》とでは異なる、か? ○:(文字的な発語の《他者》への発語は、手紙や掲示板での発言のコトバ、自分への発語は備忘的な文字の記録、このページへの発語)。×:。
- 音声的な発語と、文字的な発語、キーボードへの発語、とでは異なるか? ○:。×:。
- 如何なる場合でも、自分が第一の名宛人である、か? ○:。×:。
- 名宛人のない発語は在るか? ○:うめきであるような発語。発語は、《私》がそれに気づかないときにも、行われているように感じる。体内発語でも、体外発語でも、《私》が気づかない発語が行われている。発語は、名宛人のない《動き》であるように見える。発語の《動き》に対して、《私》が気づき、また、《他者》が気づいて、反応したとき、《私》は自分の発語の『意味』を知る。自分の発語に《他者》が反応するのは《快》である。自分の発語に《他者》が反応しないときには、むなしさ、という《不快》を生じるようになる。しかし、その《不快》は学習的なものだろう。《他者》の反応による《快》を知ったために、《他者》が反応しないときには、期待した《快》が得られなかった、という《不快》を生じるのだろう。×:。
- 《私》の発語に《他者》が反応することに《快》を感じるのはなぜか? ・・実は、たけ(tk)は、それが不快だったりする・・。
コトバというのは、モノの《動き》や《現れ》に『意味』を感じ取るときの、そのモノの《動き》や《現れ》を指す。『意味』を感じるかどうかは、《私》に『意味』を《求める思いこみ》が在るかどうかによる。《意味を求める思いこみ》。
コトバとは、《思いこみ》を生じさせることを目的とした身体の動きである。
コトバとは、それを知ったモノBに、『意味』を生じさせるような、モノAの《動き》である。
- モノBにとっての『意味』とは、モノB内部の《思いこみ》からの、モノBの《動き》への影響力を言う。
- コトバとは、他のモノBに《思いこみ》を生じさせ、その《思いこみ》を通じて他のモノBの《動き》に影響を与えるような、モノAの《動き》である。
- 《コトバ》は、《指し示されたモノ》である。《思い描かれたモノ》ではない。
- モノには《思いこみ》によって《指し示されたモノ》と《思い描かれたモノ》とがある。
- コトバは《思いこみ》を指し示すモノである。コトバは、《思い込み》を惹起するモノである。『特定のコトバは特定の《思い込み》を惹起するはずである』という約束のもとで交換されるモノである。
- 信号機の色は、《かたち》なのか?
コトバとは、或るモノが、他のモノの外形から取得する情報を言う。
- モノは他のモノから命令のコトバを受け取る。
- モノは他のモノから認知のコトバを受け取る。
- 命令のコトバから、モノの中に《求める思いこみ》が生じる。
- 認知のコトバから、モノの中に《知った思いこみ》が生じる。
- 「情報」が分からんじゃん。
- 他のモノの外形が記号である。
- 1:ドーデモイーことだよ。
- 2:知的興奮である。・・なにそれ?
- 3:《息しつつあるモノ》→《ヒトの群れ》に関する《思いこみ》である。
- 4:《見通し》を与える《思いこみ》である、か? ○:。×:。
- 5:『なすべきこと』である、か? ○:。×:。
- 6:《連想のトンネル》である、か? ○:。×:。
- 7:《見通し》を得るためには、《混濁しつつある身体》の中で《連想のトンネル》を掘り続けるほかない、か? ○:。×:。
- 8:《ベーシック・インカム》は、《私》と《他者》との間で、《交わされつつあるコトバ》である。《交わされつつあるコトバ》は、《私》に《思い描き》を生じさせる。おそらくは、《私》とコトバを交わした《他者》にも《思い描き》が生じているはずである。同じ内容の《思い描き》なのか? ○:。×:共通の内容もあるし、共通でない内容もある。
- 9:《私》は《交わされつつあるコトバ》が、《他者》に同じ《思い描き》を生じさせたかどうかの《実感》を持つ。コトバが通じないときには、ただちにストレスが生じる。ストレスが生じないときには、《交わされつつあるコトバ》が、《他者》にも《私》に生じたのと同様の《思い描き》が生じていることを確信する。
- 《交わされつつあるコトバ》と「パロール」とは同じか? ○:。×:「パロール」なんて知らぬっぴゃ。
- 《交わされつつあるコトバ》、と《私》と《他者》とで共有しているコンテキスト。《共有しつつあるコンテキスト》。文脈?、状況?、《状況の思い描き》? 《仮想状況》?
- 《交わされつつあるコトバ》は《仮想状況》を構成する。《交わされつつあるコトバ》は《仮想状況》の中のモノ(《仮想実在》)である。
- 《仮想状況》の共有に確信を持つことはできるか? ○:。×:。
プラトンのパロールとコトバ
- http://okasinakoto.blog103.fc2.com/blog-entry-73.html
- プラトン『パイドロス』を読むと、西洋のパロールの音声中心主義は遠く昔にあったことが分かる。『パイドロス』のパロール中心主義は、初期デリダのプラトン論「プラトンのパルマケイアー」で批判されている。
- 『パイドロス』には話し言葉と書き言葉の扱い方に違いがある箇所が最後の最後で出てくる。その中でも、ソクラテスがパイドロスに言ったことで、特に話し言葉優位で書き言葉が低位になっているところがある。
- プラトン著『パイドロス』藤沢冷夫訳、岩波文庫、136-137頁
- それに、言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない。あやまって取りあつかわれたり、不当にののしられたりしたときには、いつでも、父親である書いた本人のたすけを必要とする。自分だけの力では、身をまもることも自分をたすけることもできないのだから。
- このソクラテスがパイドロスに言ったことは、西洋の音声中心主義として批判されてきたことだ。
- これって、趣旨としては「覆水盆に返らず」じゃないの?
- えせ哲学愛好家の害毒はどうにかしてくれ。賢者のコトバを俗人の感情で説明するのはやめてくれ。
- 訓古学、というのは、そういう害毒なのだ。《見通し》を語るコトバが、俗人の感情を正当化するコトバに変えられていく・・。
コトバと《騙す》
ビット列とコトバ
- ビット列はコトバか? ○:。×:。
- ビット列は、CPUコマンドである場合もあるし、文字列である場合もあるし、数値である場合もあるし、ポインタである場合もあるし、科目コードである場合もあるし・・。
- 本来プログラムにとっては、CPUコマンドコードだが、ダンププログラムにとっては数値データである。
- G:\delphi\KAIKEI>ruby -e "p '%b' % 0xC3" #=> "11000011"
- G:\delphi\KAIKEI>ruby -e "p 0xC3" #=> 195
- 『スタックポインタレジスタの数値が指し示すメモリから数値を取出して、スタックポインタレジスタはひとつ減少し、取出した数値をインストラクションポインタレジスタにセットする』という『意味』のコトバか?
- 「ワ」「ン」という音素列が、「one」なのか「犬の鳴き声」なのか「湾」「椀」なのか。
- 「ワ」「ン」という音素列はコトバではない? ○:。×:。
- 「コトバ」オブジェクトは「意味」属性と「記号」属性で構成される。
《ヘラクレイトスの「ロゴス」》と発語欲求
- 《ヘラクレイトスの「ロゴス」》の本体は発語欲求である。《モノの世界》であり、《モノの世界》についての発語欲求であり、語られたコトバであり、語られたコトバが指し示すモノである。《私》と《モノの世界》との繋がり、《私
「口から出たコトバ」と名前
- 情報に名前を付けること、情報の種類に名前を付けること。
- そのモノを他人に伝えようとして口から出てきたコトバが、そのモノの名前である。「坂おりていって右に曲がってしばらく行ったところに喫茶店があるじゃん」というコトバが出たなら、「坂おりていって右に曲がってしばらく行ったところにある喫茶店」がそのモノの名前である。
- そのモノや情報を伝えるべき他人がいなければ、そのモノや情報の名前は決まらない。《思い描き》には固定した《名前》は無い。
- モノも、形でしかない。原子の集まり方の形が、モノを決める。小麦と米とを元素に分解して、元素の重さを量っても、小麦と米との違いは出てこない。
- 《仮想実在》も、《思いこみ》の集まり方の形によって、それが何であるかが決まる。
- 《デジタル実在》(デジザイ)か? デジタルデータとしてHDやメモリに保管され、デジタルデータとして処理され、ヒトからみるとモノやコトバであるような形で表示・印刷されるモノ。
- 伝聞実在。また聞きで知った知識でその実在を確信する《思いこみ》。
- 直知、だって、過去の直知によって得られた《思いこみ》によって、その実在を確信しているに過ぎない。
- タモイジ:《他者の求める思いこみ》からの《息しつつあるモノ》への《実感》。
- タモイジ・デジザイ・100
- 1 《他者》は混濁した《思いこみ》の世界の住人であり、《モノの世界》の中のモノと《思いこみの世界》の中のモノの区別もついていない。《デジタル実在》も《思いこみの世界》の中のモノも区別がつかないだろう。《デジタル実在の世界》《デジタル世界》(デジカイ)。
- 2 《他者の求める思いこみ》が問題になるのは、《デジタル世界》の《作り手》である。彼らは、《デジタル世界》という『心地よいウソ』の世界をつくりだして、自らの《求める思いこみ》を実現しようとする詐欺師なのか? 否。『心地よいウソ』は、仮に、本人がそれがウソであることに気がついても、そのまま受け入れるようなウソである。「欺罔行為が相手方に見破られたものの、相手方が、憐憫の情から騙された振りをして財物を交付したような場合」(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1113856216)。
- 3 「いいじゃないの幸せならば」(http://www.fukuchan.ac/music/j-folk2/iijanainoshiawasenaraba.html)。
「http://wiki.fdiary.net/moikomi/」という《名前》(URI)は何かを指し示すか? ○:。×:。
- 《仮想実在》。『それはそのようなモノである』という仕様で、それを作れば、そのようなモノになる。
- 建築の設計図に書かれた「xx邸」という《名前》は《仮想実在》を指し示す。
- 『そのようなモノ』を《求める思いこみ》を指し示す。
- 『そのようなモノ』を《求める思いこみ》に従って《モノの世界》に作られたモノ。道具の《名前》。URIとは『リソースを指し示すビットデータ(文字列)』という《求める思いこみ》に従って、コンピュータに作られた(登録された)ビットデータ(文字列)。
- 『そのようなモノ』を《求める思いこみ》が《そのようなモノ》を作り出す。
- 『xxという名前でxxというモノを指し示したい』という《求める思いこみ》。
- 《名前》とは、コトバの一部分であり、モノを指し示す部分である。
- 《名前》とは、コトバの一部分であり、モノを《指し示す思いこみ》を生じさせる部分である。
- 「《名前》を付ける」とは、モノに《名前》を付けるのではなく、モノを《指し示す思いこみ》に《名前》を付けるのである。
- 「そのモノに、その名前が付けられている《状況》においては、その名前は、そのモノを指し示す」。
- 「そのモノに、その名前が付けられている《状況》」というのは、誰かが、『そのモノの名前はxxである』と《決めた》以後の状況である。『そのモノの名前はxxである』という《思いこみ》が『決まり』であるような《状況》である。
モノを《指し示すコトバ》と擬制実在を《指し示すコトバ》と《思いこみ》を《指し示すコトバ》。
- http://www.geocities.jp/shomotsushi/chronology/chronicle1.html
- 5c末―4c末 黙読の発生 エウリピデスの『ヒッポリュトス』、声を出さずに手紙を読むアリストファネスの『騎士』、デモステネスが声を出さずに「書き板」を見る
《名づけ》《概念的認知欲求》とコトバ
- 税金がらみの『仕事』は、独占暴力団からの《他者からの思いこみ》である。
- 《息しつつあるモノ》は独占暴力団を《実感》するか? ○:《他者からの思いこみ》として実感する。《息しつつあるモノの群れ》の中の、警官、軍人、執行官は独占暴力団の表面にある人々である。独占暴力団の人々は、通常はコトバのみを伝達する、しかし、そのコトバは『言うことを聞かなければ暴力装置を発動して強制するぞ』という意思と能力を背景とするコトバである。×:。
- 《求める思いこみ》の伝達のコトバ。暴力的実現に担保された《求める思いこみ》の伝達。
- 伝達された《求める思いこみ》の実現に協力するのは、暴力的強制に担保された場合ばかりではない。むしろ、子供に頼まれた場合などは、相手は無力である、が、その《求める思いこみ》の実現に協力しようとする。
- 《求める思いこみを発しつつあるモノ》。健常者は、あまり、《求める思いこみ》を発することはない。上司や顧客や権力は《求める思いこみを発しつつあるモノ》である。あと、子供かな。
- 《健常者》は、違反者に対しては、『ルールに従え』という《求める思いこみ》を発する。彼の言う『ルール』とは彼の行動様式の主観的信念である。要するに、『我々と同じ行動様式に同調せよ』という《求める思いこみを発しつつあるモノ》である。(モモハモ=《求める思いこみを発しつつあるモノ》)。
- 上司は『仕事』の《求める思いこみを発しつつあるモノ》である。
- 独占暴力団は『税務』の『仕事』を《求める思いこみを発しつつあるモノ》である。
- 《息しつつあるモノ》は『仕事』の《他者からの思いこみ》に応答するか? ○:。×:できないじゃん。
- 《私》の《息しつつあるモノ》が『仕事』への《他者からの思いこみ》を受け取ると、《息しつつあるモノ》は《私》に、『仕事』の行動様式への《見通し》への《求める思いこみ》が生じる。行動様式への《見通し》は、『スケジュール』であり、『手順』である。
- 『手順』は《思いこみ》である、が、モノの動きと対応関係のある《思いこみ》である。『手順』の要素は、モノの動きを《指し示す思いこみ》である。
- コトバとは《動き》の記憶である。
- 「コマンドプロンプト」とは《ミ田+「cmd」+[ret]》という動作の記憶である。
- 「データベース」とは、何らかの《「データベース」と呼ばれているモノをダウンロードし、インストールし、起動コマンドを実行した動作》の記憶である。
コトバと説得
- コトバにして説明しなければならない、というのは、メンドッチイことだ。
普遍主義は、流転状況に依存するのが嫌だ、という好き嫌いを反映している。
コトバとマイナスの指示性
- 感情的なコトバというのは、語り手の感情を指し示している。
- 描写のコトバは、コトバによって語られた先のものを指し示しているが、感情のコトバは、コトバを発するモノを指し示している。
- 発語者→コトバ→語られた先のモノ、ではなく
- 発語者←コトバというマイナスの指示性。
- コトバによって《見通し》が現れる、ということがある。
- 説得のコトバ、研究・検討のコトバ。
- 地図というコトバ。指し示すコトバ。
- 《指し示すコトバ》は、地図なのであろう。
- 科学は、正確な測量に基づいて描かれた地図。正確な測量ができない領域には地図を描かない、という態度。
コトバと真理
- 真理なぞゴマンとある。
- 「唯一の、最高の真理」はゴマンとある真理に一つの例を加えるだけである。
- 真理=正しいコトバ。的確に《モノの世界》を指し示すコトバ。
- 《視点》ごとに「的確に《モノの世界》を《指し示すコトバ》」があるということ。
- 真理は《視点》に依存する。
- 論敵の矛盾を指摘する、というのは、じつは、論敵の《視点》を無視して、私の《視点》を論敵の《視点》に混ぜることによって、矛盾を生じさせることである場合が多い。《視点》を混ぜれば矛盾が生じるのは当然であろう。
コトバと説得可能性
- 《コトバ》は《モノの世界》のモノを指し示すことができる。しかし、的確に指し示すことはできない。《モノの世界》は多数のモノが織り成すカオス的なモノである。「多数のモノが織り成すカオス的なモノ」を的確に指し示す《コトバ》はない。それを、「多数のモノが織り成すカオス的なモノ」という《コトバ》で指し示すことはできる。しかし、その内実を指し示す能力は《コトバ》にはない。コンピュータというモノの内実を的確に指し示す《コトバ》を工夫してみよ。
[qualia:8806] 言語以前、意識以前
- 言語を獲得する為には
- ・主体=自由意志 と 客体=感覚空間
- とともに感覚空間における、
- ・自由意志に連動する自己(の身体) と 自由意志と独立に動く他者
- の分離が必要なのである。
[qualia:8806] 言語以前、意識以前
- 野元達一氏の言語の考察が上滑りしまくるのは自他の区別のないところで言語を考えようとしているからである。
- 内からの《視点》と《外からの視点》は、おそらく、日本語スピーカが敏感な区別。英語スピーカでは、所有者(your father,my father,お父さんはどうしているかな、お父さんはどうしていますか)、一般/個別。可算/不可算(earth,the earth,土、地球)。或る違いを言語的に区別しなければ伝わらない、という言語構造があると、常にそれを意識するようになる。
- 言語は日常的な目的に応じて発達したものであり、したがって日常的なコンテクストにおいてのみ機能するのだとウィトゲンシュタインは述べる。しかし、日常的な言語が日常的な領域を超えて用いられることにより問題が生じる。分かりやすい例をあげるならば、道端で人から「いま何時ですか?」と聞かれても答えに戸惑うことはないだろう。しかし、その人が続けて「じゃあ、時間とは何ですか?」と尋ねてきた場合には話が別である。ここで肝要な点は、「時間とは何か」という問いは(伝統的な形而上学のコンテクストにおいてはたえず問われてきたものの)事実上答えをもたない−−なぜなら言語が思考の可能性を決定するものだと見なされているから−−ということである。したがって厳密にいうとそれは問題たりえていない(少なくとも哲学者がかかずらうべきほどの問題ではない)とウィトゲンシュタインはいう。
- 結局、《コトバの世界》の論理で《コトバ》をいくら駆使しても、《モノの世界》を語ることはできない、ということではないのかな。離存性と指示性。
コトバとデジタル思考
- http://www.asyura2.com/07/kenpo1/msg/398.html
- >貴殿が認めるように「日本国憲法」が講和条約ならば、いろんな事情があったにしても講和は講和、憲法は憲法ですから、ぜんぜん規範の種類や序列が違うのですから、名で決めるのではなく実で判定してゆけば「ふっとんだ」のか「ひきこもっている」のかどうかがわかると思いますね。
- そうだよなあ、デジタル思考のおめえさんにゃあ分かんねえんだなあ。講和は講和、憲法は憲法としか考えられねえんだ。憲法という名めえの講和ってのが理解不能らしいねえ。名で決めるんじゃねえで実で決めるんだってえ?おめえさんの実ってなあ法理なんだろ。法理を実って言っちまうあたりがおめえさんの限界よ。
- 「なんとなく」を排除しちまったおめえさんのデジタル思考じゃ実を掴まえるこたあ出来ねえんだろうなあ。
コトバと『根拠』
- http://www.asyura2.com/07/kenpo1/msg/398.html
- >根拠は?そんなものどうとでもいえるでしょ。それに、ここは理屈を書く板で理屈屋が集まる場所でしょ。
- 悪かった。オイラの言い間違いだったぜ。おめえさんは理屈屋じゃなくて屁理屈屋だったんだよなあ。屁理屈屋の大好きなセリフが“根拠は?”だよ。根拠はと問いながらどうとでも言えると続けるあたりが屁理屈屋の真骨頂よ。
「いじめはどこにでもある」と、教師が、いじめで苦しんでいる子に語ると、 それは、「おまえは、死ぬまでいじめから逃れることはできない」という意味になる。
- コトバの意味は聞き手が決める。
コトバのすれちがい
- コトバの意味は話し手、聞き手の《視点》、興味、想定している場面、文脈によって異なる。対話者の《視点》が異なる場合には、同じコトバでも意味が異なる。意味が異なるモノを同じコトバで語り合えば、コトバのすれちがいになる。
- 交通事故の話題で(歩行者と車を比較して)車が悪い、ということがある。これに対して、自動車の有用性で反論すること。
- 老人に対する先物取引の話題で、先物取引に引っかからないようにしましょう、というのに対して、相場のある商品を継続的に必要とする企業が、価格変動によるリスクをヘッジするためのモノだから先物取引は悪くない、と反論すること。
- 「テロリストが911を引き起こした。ビンラディンは国際テロ集団の親分である」というレトリック。「日本人がサリン事件をおこした。たけ(tk)は日本人である」??
確かに、
- 意味は情報主体と情報との繋がりにおいて存在する。
- コンピュータの情報システムの意味主体はヒトである。ヒトにとっての意味のある情報を、機械的に処理するモノがコンピュータの情報処理システムである。
- コンピュータが、《ヒトの群れ》の中枢的な情報管理システムになったとき、コンピュータの情報の意味主体は、ヒトから《ヒトの群れ》に替わる。ヒトは組織の中のそれぞれの《ドメイン》に属して、その《ドメイン》の意味で情報を理解する。しかし、コンピュータに入った情報は、別の《ドメイン》の意味でも使われるようになる。コンピュータ内の情報は個々のヒトにとっての意味を超えた、《ヒトの群れ》にとっての意味を持つようになる。《システム化されたヒトの群れ》は、《群れの中の個体》とは別の情報主体となる。《ヒトの群れのシステム化》。
- コンピュータは、それ自体として、《システム化されたモノの群れ》である。
目的なければデータなし。
コトバと欲求
- コトバも欲求実現手段である。
- 閉世界仮説
- http://www.asahi-net.or.jp/~AX2S-KMTN/ref/onto_term.html
- 【閉世界仮説(Closed World Assumption;CWA)】真か偽かわからないものは全て偽であるとする仮定。
- http://milan.elec.ryukoku.ac.jp/~kobori/resume/inf/inf12.html
- http://www.asahi-net.or.jp/~AX2S-KMTN/ref/onto_term.html
- 開世界というのは「未知なモノ」を認める論理。「true,false,unknown」。sqlの3値論理。
- 3値論理では、「不明」が出てきた時点で、2値論理の演算が不能になる。
- 《コトバの世界》の《視点》から《モノの世界》を思考の対象としようとするときに論理学が必要になる。
考え方の筋道を教えること、とコトバ
- 考え方の筋道を教えると、教えられたヒトは、そのように考え、そのように言うようになる。
- そのように考えることと、真実とは、関係ないはずなのに・・。どのように考えようとも、《モノの世界》の真実が変るわけがない。
- ヒトの考えは、《モノの世界》の真実から、かけ離れたところで、うごめいている。ということか。
- 考え方の筋道というのは、その人の主観的な欲求、感情、目的から噴出した《思いこみ》が、コトバが穿った穴の経路をたどって、その人の《動き》に繋がる事だ。
プログラムと『意味』
- プログラムの個々の要素に『意味』はあるか?
- コンピュータにとっての『意味』はある。人間にとっては意味不明である。コンピュータの《視点》でモノを考えるヒトにとっては、間接的に『意味』がある。
- どう考えても「いんちき」なのだ。人間がそのように誤解するように表示しているだけなのだ。コンピュータにとっての『意味』はその表示を見る人間の了解する『意味』とはかけ離れたものである。
- 脳内現象のニューロンの発火の『意味』と、それによって生じた表象の『意味』の違いのようなもの。
- 技術者にとっての『意味』とは、コーディングの《動き》、であり、サポートのために必要な《動き》や、説明のコトバ、である。
- 設計者にとっての『意味』は、或る『意味』で、人間的な『意味』である。ただし、頭の中はコンピュータの《動き》をシミュレートしており、その《動き》を見て誤解するヒトの心をシミュレートして、だまされる人間を予想して、ほくそ笑んでいる。ただ、設計者はコンピュータに命令を出し、コンピュータは利用者をだますが、設計者は、利用者に人間の意思を伝えようとしている。コンピュータにとっての『意味』を透明化して考えれば、設計者の意図が伝達される事になる。
- 『意味』がないものに、『意味』を求めるのは無意味である。『意味』はあるんだよ、設計者の一時の気の迷いで適当に付けた名前、概念、という『意味』がね。設計者の気分という意味がある。気分は一貫しているとは限らない。歴史的な『意味』はある。その時彼がそう思った、という歴史的な『意味』がね。
- 一刀彫の彫刻の彫りの深さに『意味』を求めても無駄だろう。
- たたら製鉄の温度管理に『意味』はあるか? 技術に人間的な『意味』などない。たぶん、職人たちは、そこに『意味』を与えて、鉄が喜んで弾ける音がするような温度、とかいった、『意味』を与えて、伝承したのだろう。
- 問題は、たけ(tk)が、ヒトにとっての『意味』のない技術の世界に耐えられなくなった、ということ。コンピュータにとっての『意味』はヒトをだます『意味』しかない、ということに、耐えられなくなったこと。
- 技術書に、『意味』や『理解』を求めるのはナンセンスなのだろう。理解可能なのは、せいぜい『仕組み』だけである。これは、『科学』でも同じだな。『科学』にも人間的な『意味』はないのだ。
コトバと『正しさ』
- 『正しいコトバ』。
- 『正しさ』は定義によって決まる。善悪とは関係が無い。
- 善の定義が出来れば、善の定義にマッチする事態を「善である」と言うのは『正しい』。
- 「そのように定義すれば、それが正しいのだ」について。2007-02-09(金)
- →仕様書に書いてある事が正しいのだ。
- →公理主義。
- →真は善であるとは限らない、悪であるとも限らない。むしろ、真偽は善悪と無関係である。
- →真偽(仕様書)は一つではない。
- →真偽(仕様書)は時とともに変る。
- →「正しさ」は定義によって決まる。
- 論理は、主観世界からの脱出の手段である。
- コトバは、本来、主観世界を表現し、《他者》に伝える手段である。
- コトバを、コトバの論理に従って展開していくと、主観世界とは異なる世界が出現する。それが論理の世界、《コトバの世界》である。
- しかし、《コトバの世界》は《ヒトの世界》=主観世界=ではない。《コトバの世界》から、《モノの世界》を経て、《ヒトの世界》を《コトバの世界》に取り込む必要がある。
- 《指し示す思いこみ》においては、(1)まずモノがある。(2)そのモノを《指し示す思いこみ》が在る。(3)その《指し示す思いこみ》を指し示すコトバを捜す。(4)そのコトバがそのモノを指し示すように適切な定義を行う。という順番で、できる限り適切な、コトバが選択される。コトバは定義によって決まるのではない。そのコトバがそのモノを指し示さないならその定義は訂正される。基本的には、如何に定義しても、定義はコトバであるから、モノを完全に適切に指し示すことはできない。
- 《他者の背後者回路》
- 考えるというコトバを、「他人のコトバをこねくり回すこと」という意味で使っているヒトが居る。「自分の頭で、自分の目で見たモノを、自分のコトバでこねくり回すこと」という意味で使っているヒトも居る。まあ、考える、というのはコトバをこねくり回すことなのだろう。
- 《思い捏ね》とコトバ。《思いこみ》を捏(こ)ねくり回すこと。《思い捏ね》の為にはコトバが必要である。その《思いこみ》を指し示すコトバが必要である。コトバを捏ねくり回すことによって、間接的に《思いこみ》を捏ねくり回すことができる。
- コトバは《思いこみ》を指し示し、《思いこみ》はモノを指し示す。
- コトバを媒介としないで《思いこみ》を捏ねくり回すのは、不可能ではないが、難しい。ゴリラは、イスへの《思いこみ》と餌の場所への《思いこみ》とを、コトバを媒介とせずに、考えることができるらしい。具体的なモノのイメージで考えることができるのだろう。
情緒的言語の論理
- K氏の用語法の背後にある思考経路、
- 「きもいー」というのは「私がそれをキモイと感じた」という《私の情緒》を指し示すコトバ。「キモイ」と《他者》に伝達するのは、「あなたもキモイと感じるでしょ」という同じ情緒を確認するためのコトバ。直接には、《私》の情緒を伝達するコトバであるが、《私》の情緒を伝達する目的は、同意を得ること、《あなた》もまたそれをキモイと感じる、ということを確認するためのコトバ。主観的世界を共有するためのコトバ。
- 《思いこみの世界》の中にコトバがある。思考空間におけるコトバ。
- 或る《思いこみの世界》の中の或る一つのコトバが、《モノの世界》の中の或るモノを指し示す、という《繋がり》がありうる。
- 或る《思いこみの世界》の中の或る一つのコトバが、別の《思いこみの世界》の中の或る《思いこみ》を指し示す、という《繋がり》がありうる。ID。
- コトバについて最も重要な《視点》は、「コトバとモノと《思いこみ》との離存性」だと思う。
- コトバは《思いこみ》を指し示すことができ、《思いこみ》はモノとを指し示すことができる、が
- モノとコトバとの離存性を、「モノとコトバとの離存性」というコトバで指し示すことはできる。しかし、コトバで説明するかぎり、どこまでいっても、事態やモノから離れている。どこまでいっても、事態やモノを指し示すことができるだけだ。月を指し示す指を見せることができるだけだ。
- 離存性とはどのようなモノか、を指し示すことはできるだろう。
- ヒトはモノである。コトバや《思いこみ》はヒトの心の作用(身体の内部状態と情報の入出力)である。《私》はコトバによって《思いこみ》を《他者》に伝え、《他者》から《思いこみ》を受け取ることができる。しかし、《私》というモノの内部状態である《思いこみ》やコトバが、《私》というモノや《私》の外部のモノたちと同一であるはずがない。《モノの世界》の論理でいえば、それで説明終了だ。
- 問題を複雑化しているのは、ヒトの社会においては、《思いこみ》でしかないものをモノとして扱っていることだろう。たとえば、国家とか貨幣とか・・。《ヒトの群れ》においては、《群れ》で《思いこみ》を共有し、その共有《思いこみ》の中の『モノ』を実在のモノと同じレベルの実在の『モノ』として扱う、という手法によって、《群れ》を維持している、という特徴が在る。実在のモノと『モノ』では全く異なるモノだから、『オブジェクト』と呼ぶことにしよう。『オブジェクト』は《思いこみ》の中の《思いこみ》としての『モノ』のことだ。
- モノには、ヒトが考えているような意味はない。それに対して『オブジェクト』は意味の塊だ。ヒトはモノに対して『オブジェクト』の《思いこみ》を重ね合わせることによって、モノを意味ある『オブジェクト』として認識する。それを《重ね合わせ》という。
- 以下の説明は、コトバの世界の論理で説明しようとしているから、説明になっていない、かも。
- 「これはコップである」の「これ」はモノを指し示している。「コップである」の「コップ」は《思いこみ》を指し示している。
- 「このコップは・・」の「このコップ」は全体としてモノを指し示している。「コップ」は《思いこみ》を指し示しているが、『コップ』という《思いこみ》が指し示しうるモノのなかから「このコップ」というコトバが指し示すモノを捜せ、というように、「これ」よりも限定するために使われている。
- 《思いこみ》を指し示すコトバ、イデアを指し示すコトバ。「行け」というコトバは『行け』という《求める思いこみ》を指し示すコトバである。発語者の内部に『行け』という《求める思いこみ》があることを、受語者に伝えることによって、受語者は命令される。「善」というコトバは、『善』という《思いこみ》(イデア)を指し示している。
- 《思いこみ》を指し示すコトバは「実体」(《思いこみ》)と「本質」(《思いこみ》)は同一である。か? あなたの『善』と私の『善』とでは異なっている可能性がある。《思いこみ》はモノに内在するモノだから。「それ自体で存在すると言われるものの場合には・・善それ自体と善それ自体の本質とは同一であり、美それ自体と美それ自体の本質とは同一であり、そのほかおよそ他との関係においてではなしにそれ自体として第一義的に存するところのものは、すべてその本質と同一である」(『形而上学・上』p.244)。「それ自体として存在するモノ」というのが《思いこみ》を指し示すアリストテレスの用語法なのか?
- 『コップであること』を「本質」と言うらしい。「これはコップである」の「これ」で指し示されたモノの本質は『コップであること』だという。(『形而上学・上』p.244)『コップであること』は《思いこみ》である。
- しかし、指し示されたモノの《アニマ》は、「ワシはワシじゃ。勝手に決めつけるな。『コップ』という《思いこみ》は、ワシを今の形にした人間の《思いこみ》ではあろうが、断じて、ワシの本質は『コップ』ではない。ワシは『コップ』と呼ばれるような仕方で人間に飲み物を口に運んでやることもできるが、ワシはそれだけの存在ではないのだ」と申しておられる。
- 「事物とその本質とは、ただたんに一つであるのみではなく、それらの説明方法においても同一である」(p.246)。事物の実体と本質とでは同じだが、事物と説明方法(コトバ)とは別である。
- 「《思いこみ》とその《思いこみ》が指し示すモノとは同一である」。「《思いこみ》と『その《思いこみ》が指し示すモノ』という《思いこみ》とは同一である」。論理を詰めていくと、モノの離存性は見えなくなる。《思いこみ》とモノとは同じ方向にあるので、ダブって見え、区別がつかなくなる。
- 「「衣」という名前は仮にこの説明方法の指し示す一つのものの記号であることに定められている」(『形而上学・上』p.311)
- 《指し示し》性か? コトバのモノへの指示性、モノのコトバからの被指示性。
- 《指し示し》と《重ね合わせ》。
3値論理とコトバ
- 論理にunknownを含めるのは、コトバの世界にモノの世界との繋がりを持ち込むことになる。ので破綻するだろう。
- しかし、データベースでは、モノの世界との繋がりを無視することはできない。
- unknownを一つでも持ち込めば、それに関連するデータが次々にunknownになる。
- 一万人の社員の総売上は、一人の社員のunknownで、全体の総売上もunknownになる。
- コトバの世界のunknownは単なる破壊者である。
- モノたちにunknownはない。知り得たことだけが、知り得たことである。
- 実際には知らないのに、知ったことにする、というのは、知った思い込みではなく、思い描きである。述語論理。
例えば君は、「犬」という動物を、コトバで、異星人に説明できると思うか?「犬」と「猫」の違いを、異星人に説明できるか?
- 「アリとセミ」→「アリとキリギリス」。「セミ」の説明を聞いたヒトが「キリギリス」にしてしまった。
- 絵があれば、映像があれば、伝達可能か? というか、たけ(tk)はチータを、映像でしか知らない。
- 映像はコトバか? 編集可能な、修正可能な、組み合わせ可能な、ウソをつくことができる、コトバかもね。ピラミッドの映像はウソだという。その映像の後ろには土産物屋が並んでおり、呼び込みの声の中で撮られた映像は、その場所の実態を伝えていない、という。
- 要求の手段としてのコトバの段階。《求める思いこみ》。 要求言語。
- 思考の手段としてのコトバの段階。《知った思いこみ》。 思考言語。イデア。
- 説明の手段としてのコトバの段階。《指し示す思いこみ》。離存言語。
- 《たけ(tk)の思いこみ》は説明のコトバであるべきか? 思考のコトバであるべきか? イデアのコトバであるべきか?
- 思考のコトバは、概念定義か? 指し示すモノとの関係を明確にするための概念定義と、イデアの輪郭を明確にするための概念定義、とは違うのか、同じなのか?
- 《たけ(tk)の思いこみ》のコトバは、たけ(tk)の思考のためのコトバである。
- 思考のコトバの適格性とは、発語者にとって、コトバとモノとの《繋がり》が明確であること、である。
- コトバは《思いこみ》を指し示し、《思いこみ》がモノを指し示す、のか? コトバが「モノへの《知った思いこみ》」を指し示すときに、コトバがモノを指し示す、と言われる。
- 哲学という《思いこみ》は、論理学という《思いこみ》を帰結する。《思いこみ》を語るためにはコトバについての研究が必要になる。《思いこみ》を語るためのコトバの研究が論理学なのだ。な。
- モノを指し示すためには、そのモノの輪郭を、感覚的に、確かな輪郭として把握していなければならない。モノの輪郭を把握したうえで、そのモノへの《思いこみ》に名前を与えること。
- モノの輪郭とは何だろう? 感覚的なモノに関しては、自(おの)ずからその《かたち》が浮かび上がってくるので、それが輪郭だろう。また、複数の《視点》で見ると、複数の形になるが、それを3次元的に再構成した《かたち》が輪郭だろう。
- コトバが難しいのが、発語者がそれによって指し示そうとしているモノが何なのか、彼とモノと意味との三角形の平面上のどこら辺を指し示しているのか、コトバを聞いただけでは分からないということだ。
- 伝達のためには「意味」という《思いこみ》が特定されていなければならない。
- コトバは《思いこみ》を伝達するだけである。説明とはなにか? 彼の《知った思いこみ》の伝達によって、聞き手に《知った思いこみ》を生じさせることである。
- 聞き手に《知った思いこみ》を生じさせるためには、説明に矛盾が在ってはならない。矛盾律というのは説明のためのコトバの適格性であって、説明の真偽とは無関係である。
- 説明は聞き手の体験に合致していなければ、信頼を勝ち取れない。
- コトバで《モノの世界》を理解する、とは何か? 不可能な話なのに。
- 《知った思いこみ》を信じることと、《モノの世界》を知ることの異同は何か?
- 《モノの世界》を知ることは《知った思いこみ》を生じさせる。
- 《知った思いこみ》によっては《モノの世界》を知ることはできない。
- 《知った思いこみ》と《モノの世界》との対応関係を吟味すること、は《モノの世界》を《知った思いこみ》を媒介とせずに知ること、が前提となっている。
- 《モノの世界》と《知った思いこみ》との間の離隔性を認識すること。が不可欠である。
- 説明は不可能か? コトバとモノとの離隔性、指し示しの関係を理解した上での説明であれば、有用、か? それが分かっているなら、説明するまでもないのではないか? でもないか。離隔性、指し示し関係が分かっただけでは、知識の内容は貧弱である。説明を聞くことによって、視野を広げることができる。
人類は、言語的能力に特化した動物である。 人類は、コトバへの信仰のゆえに滅ぶであろう。
理念型とラベリング。
- 理解するためのコトバと、理解を拒否するためのコトバ。
- 理解しようとするヒトのコトバと、理解を拒否しようとするヒトのコトバ。
- コトバはヒトが使う道具でしかない。道具を使うヒトの目的によって道具の目的も異なる。道具を使う人によって、道具の使い方も異なる。
- 道具の意味は、大体において決まっているが、コトバという道具は、意味を入れる道具なので、人によって、その意味の違いが大きい。
コトバと論理とラベリング
- コトバの多義性。「aaはxxである」「aaは悪い」「従って、xxは悪い」「bbはxxである」「従って、bbは悪い」。非論理的思考。コトバの多義性を使った「為にする主張」。
- 論理に従って、コトバの真偽を判断する能力。論理で扱うコトバは多義的であってはならない。要素とカテゴリーの峻別。要素関係(∈)、包含関係(⊂)と等号関係(=)の峻別。
コトバと記号
- 記号は約束である。『この記号はこのモノを指し示す』という約束が記号である。
類推モードと論理モード
- 類推モード(母国語)でも論理モード(外国語)でも、コトバが記号であることはかわりがない。
- コトバの意味が行動と記号との間の関連性であることもかわりがない。
- 類推モードは、文(記号列)と行動との関連である。要素(記号)とそのイメージとの間の関連は、反省によって生み出される。
- 論理モードでは、要素記号とイメージとの関連と記号列生成規則が最初にあって、それによって文(記号列)が形成される。
- 「push red」は具体的な行動との直接の関連を有する。しかし、「push」単独、「red」単独では行動との繋がりを有しない。行動との具体的な繋がりを有しないが故に、『表象』という形の内部的行動=《思いこみ》=を引き起こす。
- 論理モードにおけるコトバと行動との繋がりは『表象』を媒介とする間接的なものである。記号の意味に関する『表象』と記号列生成規則に関する『表象』。
- 「push」は『何かを押す』という表象を形成するが、『何かを押す』では行動には繋がらない。
- 「push」という記号から生じる『(何かを)押す』という表象の意味は、具体的な対象物を指示されることをを待つ、という待機行動に対応している。
- 「red」という記号から生じる『あれ』という表象は『redに対して何かする』という、具体的な行動指示を待つ、という待機行動を意味する。
- 文の要素の記号の意味は、待機行動との繋がりである。
- 「push red」は外的行動との繋がりを有するが、「push」単体、「red」単体では待機行動という内的行動との繋がりを有する。
- 谷 淳 氏の『力学系に基づく構成論的な認知の理解』(http://www.bdc.brain.riken.go.jp/~tani/Japanese/springer05.pdf)・・7.4論理と類推で、母国語では文法は意識しないが、外国語では文法を意識するといったような形で述べています。
- 《たけ(tk)の思いこみ》を記述するコトバ
- たけ(tk)が直観において知りえたモノの《思いこみ》をコトバにする時のコトバ。
- コトバによって思惟する時のコトバ。コトバによって《思いこみ》を操作する時のコトバ。
- 《近傍物理空間》に出現した《他者》が表出しつつあるコトバ
- 文字や音声記録の形で、発語者から切り離されて存在するコトバ
- 《私》が《他者》に対して表出しつつあるコトバ
- 《ヒトの群れ》を構成する《ヒトの個体》に《思いこみ》を共有させるモノとしてのコトバ
- モノたちの外形が《私》に《他者の思いこみ》を生じさせる時の、《モノ》たちの外形。
- 《他者》が「コトバとはxxである」と言った時に《私》の中に生じる《他者の思いこみ》。
- コトバは麻薬である。コトバは、『分かったつもり』という恍惚を生み出す、麻薬である。
- ヒトは 愚かさのぬかるみの中で コトバの糸にすがりつき コトバがもたらす傲慢な《思いこみ》を信じることで 自らをかろうじて維持している存在だ。
- モノはコトバを受け取るとただちに《動き》として実現し、《身体》として実現する。
- ヒトはコトバを溜め込み、コトバとして《身体》の内部に、未消化のままに保存する。そして、《動き》として実現していないコトバを、《動き》への《ちから》もつ能力であると崇めてしまうのだ。
- コトバはモノや《思いこみ》を指し示すが、それらとは離れて存在している。
- コトバはモノを指し示している場合と、モノを指し示していない場合とがある。
- 或るコトバがモノを指し示しているかどうかはモノの状況による。「狼が来た」というコトバは、モノの状況において狼が来ている場合には正しく、来ていない場合には誤りである。
- 存在証明とは、コトバの正しさを別のコトバを使って示すことである。存在証明で使われるのはコトバであって、モノでもモノとコトバとの関係でもない。
- コトバは、モノとコトバとの関係を証明することができない。
コトバと矛盾律
- 「同じもの(同じ属性・述語)が
- 同時に、そしてまた
- 同じ事情のもとで、
- 同じもの(同じ基体・主語)に属し、かつ
- 属しないということは
- 不可能である」p.122、『形而上学・上』
- 「同じもの(同じ属性・述語)が
- 《視点》によってコトバ(述語)の意味が変わるとするなら、同じ《視点》という条件も加えるべきである。
- モノと《思いこみ》との関係を指し示すコトバだな。『《思いこみ》と《思いこみ》との関係』という《思いこみ》を指し示すコトバ。
- 《思いこみ》のルールとしての論理学。
コトバと説明
- 「講義は相手の習性のいかんに応じてなされるべきである。というのは人々は自分の慣れているように語られることを望むからであり、これと異なることは、親しみにくく感じられるだけでなく、不慣れであるがためにますます理解しにくく且つますます奇異に感じられてくるからである」p.77、『形而上学・上』
- ・・
- 法律では、神話的な表象や幼稚な考えの方が(慣れていることであるがゆえに)それについての認識よりも遥かに強い力を持っている。さて、それゆえに、
- 或る人々は数学的に講義されないかぎり聴講しようとしないが、
- 或る人々は実例を挙げてでないと聴講せず、また
- 他の人々は証拠として詩人が引合いにだされることを要求する。そしてまた、
- 或る人々はなにもかも厳密にと要求するが、
- 他の人々には厳密であることそのことが、−−その理路に従ってゆく能力がかれらに欠けているがためにか、あるいは小理屈だと見下げられたか、−−いやがられる。厳密であることは・・或る人々にはこれは非紳士的なことのように思われている。
- だからして、われわれはまず、それぞれの対象をどのような仕方で論証すべきかについて学習していなくてはならない。p.78。
- 伝達のコトバと、説明のコトバ。認識を《他者》に伝えるためのコトバ。
一人称体験とコトバ
- 一人称的体験は「共同検証が可能なように記述」可能か?
- 《あの時・あそこの・あのヒト》の一人称体験。《今・ここの・このヒト》
- デカルトの一人称体験の記述。
- コトバが伝達手段であり得るのは、コトバが《共通思いこみ》を指し示している場合だけである。個体的体験をコトバで表現すると言うのは、個体的体験を《共通思いこみ》に変換するということである。《共通思いこみ》に変換された体験は、個体的体験ではない。『或る個体』という《共通思いこみ》に『体験』という《共通思いこみ》が付加され合成された《共通思いこみ》である。それは《共通思いこみ》であって個体的体験ではない。個体的体験の、その個体の記憶でもない。
- しかし、個体的体験を、そのコトバを聞いた他の個体に、あたかも彼自身が体験したかのように、巧みに語るヒトが在る。(詩人と言うのかな?)
- 我々は、《他者のコトバ》から、《他者》の体験を、あたかも、我々が体験したかのように、感じることができる。ミラーニューロンの働きであろう。《他者のコトバ》をヒト以外からのモノたちから感じることもできる。《アニミズム》だ。
- モノたちのコトバは、《モノ》たちの外形である。モノの外形がコトバなのである。
- 一人称体験を、確実に《他者》に伝達することは不可能である。しかし、我々は、《他者》の外形から、《他者》の一人称体験を感じることができる。伝達可能性は語り手の能力にではなく、聞き手の能力に依存する。
- コトバの意味というのは幻覚なんじゃないかな? コトバを聞いたことによって生じる幻の感覚、がコトバの意味じゃないのかな?
- 予知と幻覚。パブロフの犬は予知しているのだ。彼はベルを食事を告げるコトバとして聞いたのである。
- http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~funatoka/pavlov/Pavlov.html
- 中間型のほかに、いっぽうの極に、抽象的観念が具体的心像や情動、さらに実践から部分的に切りはなされている型がある。これが「実在から切りはなされた知識人」であり、彼は言語による抽象作用の王国に住み、それを実在と見誤りがちである。
- イデア主義。イデア実在論。
コトバとウソ
- 『形而上学・下』p.209
- プセウドス(偽、虚偽、誤謬)というは、或る場合には
- (一)事態としての偽を意味する。そしてこの意味で偽である事物のうち、その一つは、
- (1)その物事が実はそう結合されていないか、そう結合されえないかであるが故に、偽である場合、たとえば「正方形の対角線はその辺と通約的である」と言われ、あるいは「君はすわっている」と言われるような場合である。これらのうち、前者は常に偽であり(??3:4:5?、あ、正方形だからね)、後者はただ或る場合に偽である。というのは、それらはそれぞれの意味で事実そう《あらぬ》からである。だが、もう一つの場合は、
- (2)事実そう《ある》物事でありながら、しかも自然的にはそれのそうであるがままではないように表象され(ファイネスタイ)、あるいは存在しないもののように表象されがちな場合である。たとえば、明暗画とか夢とかがそれである、というのは、これらは或るなんらかの存在ではあるが、これらによって我々に生じる表象(ファンタシア)に対応するものがないからである。要するに、事態が偽であると言われるのはこれらの意味においてである、すなわち、それ自らが非存在であるがゆえにであるか、あるいはそれから生じる表象が或る非存在のであるがゆえにである。
- しかし、(二)偽なる立言(ロゴス)(判断)は、これが偽であるかぎり、あらぬ物事についての立言である。したがって、或る物事についての真なる立言は、すべて、その物事とは異なる他の物事については偽である。たとえば、円についての立言は、三角形については偽である。ところで、それぞれの物事についての立言は、或る意味では一つきりである、すなわちその物事の本質を言い表す立言あるのみである。・・
- (三)「偽なる人間(アントローポス・プセウデース)」(虚言者)というのは、容易に且つ有意図的にそのような偽なる立言をする者、しかも他のことのゆえにではなくただそうすること自体のゆえにかかる偽なる立言をする者のことであり、またその偽なる立言を他の人々にうまく信じ込ませる者のことである、・・
- (一)事態としての偽を意味する。そしてこの意味で偽である事物のうち、その一つは、
- プセウドス(偽、虚偽、誤謬)というは、或る場合には
- ウソというのは《知った思いこみ》に関してのみ適用される。《求める思いこみ》に関しては、・・どうだろう? 「本当は食べたくないのに、せっかく用意してくれたのだからと、『食べたい』と思いこむ」というのは?
- 錯覚とウソとの関係は? 実際のモノの状態と異なった《知った思いこみ》を生じさせるコトが錯覚。モノが発するコトバ、《モノのコトバ》のウソが錯覚。
コトバの意味と認識の意味
- 当為と認識の区別がついていないヒトの認識は、すべて、ステレオタイプである。しかしなあ・・、認識の《意味》は行動的意味でしかあり得ない。とするなら、ステレオタイプな認識とは「意味を持った認識」ということになる。ステレオタイプでない認識は「意味を持たない認識」ということになる。「認識の意味」というのは「行動的な意味」であるか、「イメージ構成的な意味」であるかだろうな。《求める思いこみ》に繋がる意味、と、《知った思いこみ》に繋がる意味。
- 認識というのは《ヒトの動き》である。コトバは《ヒトの動き》ではない。ヒトがコトバを聞くのは《ヒトの動き》である。ヒトがモノを見てコトバを重ね合わせるのは《ヒトの動き》である。ヒトはコトバを聞いただけで、モノを見たつもりになる、と同時に、知ったつもりになったモノに、そのコトバの意味を重ね合わせる。
- われわれは「地球」を知っているのか? 「原子」を知っているのか? 宇宙船からのテレビや、写真や、図解や、解説のコトバで知っている、のだが、それで知っていると言えるのか? テレビ映像のイメージを覚えていること、解説のコトバを覚えていること、が知っていることなのか? コトバを覚えていることと、《見通し》とは全く別物だろう。《見通し》は知っているとはいえないのか? どちらが本物の「知っている」なのか? おそらく、「類似の体験」を混同しているのだろう。本物の「知っている」は《今・ここの・このモノ》の《見通し》の中のモノを知っている、ということだ。ニセモノの「知っている」は、コトバを聞いただけで、《見通し》に類似した体験をする、ということに起因している。コトバによる追体験は体験ではない。「リンゴ」というコトバは食べることができない。
- マイナスの距離の世界。コトバによる追体験の世界。複素数の時空(r:real《モノの世界》とi:image《思いこみの世界》)
- コトバによる体験を、追体験とか、疑似体験とかいうが、ニセモノであることを明確にするために似非体験というべきではないか?
コトバと発語者
- コトバを、発語者から切り離して理解することはできない、発語者の目的から切り離して理解することはできない。コトバの意味は発語者の中の《思いこみ》にあるからである。
- 道路や駅の看板、放送でのアナウンス、テレビ・ラジオの音や映像。
- 映像は、語り手を意識できないコトバだな。似非視覚である。バイアスを意識できない似非視覚である。映像は、提供者の意図が含まれているにもかかわらず、我々はその意図を感じることができない。
- 情報は、モノを動かす原因となった刺激である。
- 情報は、モノの動きを決定する刺激である。
- 刺激の意味は受け取ったモノとそのモノの内部状態によって異なる。
- 刺激がモノの動きを決定するのは、増幅作用による。カオスの初期状態の増幅作用であろう。
- 情報は記号の形をとるとは限らない。
- 記号の入力は刺激である。刺激が増幅されてモノの動きをもたらす。
コトバとコージブスキーの「一般意味論」
- http://saido.at.infoseek.co.jp/g-semantics.html
- コージブスキーは、一般意味論の根本原理として、次の3つをあげている。
- 1.非同一(non-identity)の原理
- 2.非総称(non-allness)の原理
- 3.自己反射(sejf-reflexiveness)の原理
- これは、言いかえると、それぞれ次のようになる。
- 1.「地図は現地ではない」(コトバは、それが指示するモノそのものではない)
- 2.「地図は現地のすべてを表すものではない」(コトバは何事につけてもそのすべてを言いつくすことはできない)
- 私たちの認識には限界があって、もののすべてを認識することはできない。また、どんなに定義を重ねても、ものを完全に表現しつくすことはできない。私たちが何かを認識し、それをことばで表すということは、すでに現実を抽象していることになるのだが、そこには必ず見落とされたこと、言い残したことが存在する。抽象の裏には捨象があるのだ、ということを忘れてはならない。
- 3.「地図は、それ自身の地図を含む(コトバについてのコトバについての……コトバを語ることができる)
- コージブスキーは、一般意味論の根本原理として、次の3つをあげている。
- たけ(tk)が言わんとするところは、既に語られていた。
- むしろ、何故に、それを理解しない人が多いのか? その原因は? ということだな。
- とゆーか、アリストテレスの「離存性」「被指示性」じゃん。2000年遅れている。
- メタ言語の問題は、自己言及の問題だね。
- ステレオタイプの思考は、経済的だが、おおざっぱで弊害が大きい。影響の大きい大きな問題では弊害が大きいが、影響が少ない些細な問題に関する思考であれば、経済的に迅速に処理するメリットがある。
- http://www.soc.toyo.ac.jp/~mikami/virtuallab/981002.html
- われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きくて、盛んで、騒がしい混沌状態の中から、すでにわれわれの文化がわれわれのために定義してくれているものを拾い上げる。そしてこうして拾い上げたものを、我々の文化によってステレオタイプ化されたかたちのままで知覚しがちである(pp.111-112)。
- なぜ人びとは環境イメージを構築するに際して、ステレオタイプを採用しがちなのだろうか?これに対して、リップマンはいくつかの解答を与えている。
- まず第一に、複雑な事態を認識したり、解釈する場合に、いちいち細部まで調べるのが煩雑であるために、すでにおなじみの認知パターンにあてはめることによって手間を省くことができるという「経済性」の原理があげられている(pp.122-123)。これは、現代の認知科学においても主張されており、妥当性の高い解釈といえる。
- 第二にあげられているのは、ステレオタイプを採用することによって、我々自身の社会的地位を防衛することができ、この世界にうまく適応することが容易になるという点である。
- 親和欲求、防衛欲求。ERG。関係欲求→成長欲求。育てる欲求は、関係欲求か、成長欲求か? 関係的成長欲求、親と子が共に育つ、という欲求。
- 我々は、車が近づいてくれば、避ける。その車が手前で止まるかもしれない、という可能性までは考慮しない。
技術仕様とコトバ。
- 仕様書に書いてある通りのモノを指し示していると信じよ、それを前提として行動せよ、万一、異なっている場合には、吠えよ。
- 道具は、その機能(《思いこみ》)に合致している時に完全なモノといわれ、合致していない時には不完全なモノと言われる。これは、そのモノが『道具』である場合にのみあてはまる。道具は、ヒトの《思いこみ》を実現するモノだからである。
- 「モノ」というコトバは類的な《思いこみ》である。「諸事物に共通に述語になるモノ」である。
- 「およそ普遍的な内在的諸要素はいずれも実体のないことが明白であるが、このことはまた、諸事物に共通に述語になるものども(普遍、普遍概念)が、いずれも事物を《これ》(トデ)として指し示す(個別的な)ものではなくて、事物を《このようなもの》(トイオンデ)として指し示す(類的な)ものであることのことからするも、明白である」(『形而上学・上』p.278)
- アリストテレスってのは、イデア=非実体説なのね。当然の結論だとは思うが・・。
- 「xxはモノである」というときの「モノ」は類的な《思いこみ》であって、実体ではない。
- 「xxというモノは・・」というときの「モノ」は実体としての、モノを指し示している。
- 「個別的な感覚的諸実体には、定義もなく論証も存しない」(『形而上学・上』p.283)「消滅しうる事物は、それの認識を有する者にとっても、それが彼の感覚範囲から消え去ったときには、不明瞭だからであり、そして、たとえその事物の説明方法(概念)はかれの霊魂の中にそのまま保存されていても、もはやそれの(感覚的・消滅的なそれについて)定義も論証もありえないであろう」(p.284)。
- 「或る事物を認識するというのはその事物の本質を認識することである」(『形而上学・上』p.245)
- 「或るモノを《重ね合わせ》で認識するというのは、そのモノの『本質』という《思いこみ》を、そのモノに重ね合わせるという方法で認識することである」
- http://ja.wikipedia.org/wiki/本質。本質(ほんしつ)とはある存在者を必然的に規定する内実をいう哲学用語。ギリシア語でウーシア、ラテン語でエッセンティア。中世盛期スコラ学以来存在、実存の対概念とされる。しばしば質料因と同一視され、存在に対して、実質的なもの、可能的なものを指す語として用いられる。・・あれ?「本質はただ実体にのみ・・属する」(p.242)、「実体」が「ウーシア」のはずだが・・。「事物の《そもそもなにであるか》(ト・ティ・エーン・エイナイ、本質)」(p.238)。
- 『本質』は《思いこみ》である。或るモノの『本質』は、そのモノ自体である。そのモノにたいする様々な視点から見た様々な輪郭を統合して、多次元輪郭空間の中で浮かび上がってきた多次元の輪郭の先にあるモノ、という《思いこみ》が『本質』である。単一の視点から見た『本質』でもよい。このハサミの本質は、『モノを切る道具』てもよいし、単価xx円で原価xx円一ヶ月の平均販売数量がxx個の商品という『本質』でもよい。その『本質』の《思いこみ》の先にあるモノが『本質』だ、という理解の上で使うなら、その《思いこみ》が「モノの『本質』」である。或る視点もしくは複合的な視点から見て、或るモノを指し示す《思いこみ》の先にあるモノの《思いこみ》が『本質』である。
- 格物。モノに至る《思いこみ》。が『本質』の《思いこみ》である。
- 「或るモノを《重ね合わせ》で認識するというのは、そのモノの『本質』という『《思いこみ》の先にあるモノに格る(いたる)ような《思いこみ》』という性質の《思いこみ》を、そのモノに重ね合わせるという方法で認識することである」
- 馬をもって鹿となす。
- 「《思いこみ》とその《思いこみ》が指し示すモノとは同一である」。「《思いこみ》と『その《思いこみ》が指し示すモノ』という《思いこみ》とは同一である」。論理を詰めていくと、モノの離存性は見えなくなる。《思いこみ》とモノとは同じ方向にあるので、ダブって見え、区別がつかなくなる。
コトバと《意味》
- コトバに入れられた《思いこみ》を、そのコトバの意味という。
- コトバの本来の機能は命令である。《求める思いこみ》の伝達がコトバの本来の機能である。
- コトバの意味の本来の形態は、《求める思いこみ》である。
- コトバとヒトの行動との関連性が、コトバの《意味》である。
- モノを指し示す、という意味。単純に指し示す、というのは《意味》が無い。そのモノが獲得すべきモノである、そのモノから逃れるべきモノである、というように、行動との繋がりが了解されたときに、《意味》が発生する。
- 『行動的価値から離れてモノを指し示すコトバにこそ価値がある』という《思いこみ》が発生した後には、単純に指し示す、というのは《意味》が生じる。しかしこれは、『モノを知る』という知的行動にとって《意味》がある、という意味であり、『モノを知る』という知的行動との関連において《意味》が生じたものである。
コトバと攻撃
- 攻撃の手段としてのコトバ。修羅の人々のコトバ。論争的勝利のためのコトバ。《他者》を害することを目的とするコトバ。《他者》への物理的攻撃を準備するためのコトバ。《他者》をコトバによって害することを目的として発せられたコトバ。《他者》を支配するためのコトバ。他者に命令するためのコトバ。ボス猿の、ボス猿として発せられたコトバ。修羅のコトバ、《他者》に恐怖心を与えるコトバ。
- 防御のコトバ。地獄のコトバ。追従のコトバ。救いを求めるコトバ。コトバにすがること。
- 保護のためのコトバ。護るコトバ。安心を与えるためのコトバ。
- 善悪の感情を含んだコトバ、ラベリング。感情的価値判断を含んだコトバ。《求める思いこみ》を意味に含むコトバ。
コトバと認識
- コトバの本来の機能は、《ヒトの群れ》での生活のための《思いこみ》の伝達の手段であって、認識のためのものではない。
- コトバによる認識はあり得るか? コトバ→《思いこみ》→モノ、という認識方法。《思いこみ》のモノへの重ね合わせ、による認識。
- 《見通し》と認識の違いか? 認識は「《思いこみ》のモノへの重ね合わせ」である。「モノを『xxである』と認識する」こと。『xx』という《思いこみ》とモノとを同一視すること、もしくは、『xx』という《思いこみ》とモノとを重ね合わせること。
- 《重ね合わせ》による認識。
- 《見通し》による認識→《見通し》による認識をコトバで表現すること→コトバを聞いて《知った思いこみ》を得ること→《知った思いこみ》をモノに重ね合わせて認識すること。
アリストテレスの「本質(ト・ティ・エーン・エイナイ)」とコトバ
- 「或るものの本質とは、そのものが《まさにそれ》であるところの《それ》・・。本質なるものはただそれの説明方法がそれの定義であるものにのみ存する」(形而上学・上、p.236)
- 《そのもの》というコトバで指し示されているのは実体(モノ、ウーシア)。
旗印、とコトバ。
- 「断じて八紘一宇なんぞではなく。http://www.asyura2.com/0510/dispute22/msg/444.html投稿者 張良 日時 2005 年 12 月 17 日 00:45:53: YeLj0JQdWAK.A」というような、コトバの使い方。「八紘一宇」というコトバは、旗印なのである。「八紘一宇」というコトバは、その旗印の下に集まった集団、旗印の下で行われた行為、を意味しているのである。
- 日本人にとってのコトバの意味、というのはそのように決まるのかもしれない。同じコトバでも、歴史を経るに従って、そのコトバの元で行われた行為の蓄積がなされ、その結果として、コトバの意味が変わり、意味が古くなる。
- ホロコーストというコトバも同じだな。「焼き尽くすささげモノ」の意味から、歴史的な「事実」もしくはその幻、という意味に変っている。よって、コトバの意味が「そのコトバを旗印とした行為」の意味に変化するのは、日本人だけの特性ではない。
- コトバの意味をイデアで固定しないと、対話が成立しない?。って、イデアというコトバさえ、歴史的に変化しているみたいだ。
アリストテレスの「ウーシア(実体)」とコトバ
- アリストテレスの「ウーシア(実体)」とは、コトバが指し示すモノである。
- 『形而上学・上』p.175
- 「ウーシア(実体)といわれるのは(1)
- 単純物体、たとえば土や火や水やその他このような物体、また
- 一般に物体や
- これら諸物体から構成されたものども、すなわち生物や神的なものども、および
- これらの諸部分のことである。
- これらすべてが実体(ウーシア)と言われるが、そのわけは、
- これらが他のいかなる基体(主語)の述語(属性)でもなくてかえって
- たの事物がこれらの述語であるところの(基体的な)ものどもだからである」
- 「ウーシア(実体)といわれるのは(1)
- 『形而上学・上』p.227
- 「第一にあるもの(第一義的の存在)は−−すなわち、《なにかである》と言われるものではなしに端的に《ある》(存在する)と言われるものは−−実体であるに違いない」
- 「コトバが指し示すモノ」は「基体(ヒポケイメノン)」(p.31)か?。
- アリストテレスの目的は「事物を説明する」ことである。モノに関する《知った思いこみ》を《他者のコトバ》に変換することである。事物を説明するための《他者のコトバ》の研究が形而上学である。
コトバと説明
- 『形而上学・上』p.181
- 説明方法(ロゴス、本質規定)において先であるものと感覚にとって先であるものとは別である。なぜなら、説明方法においては普遍的なものの方がより先であるが、感覚にとっては個別的なものの方が先だからである。
- 説明、というのは認識、《知った思いこみ》をコトバにして《他者》に伝達することである。
- 説明を聞いたヒトは、認識を得るのか? 《知った思いこみ》を得る。《知った思いこみ》は認識か? (1)《知った思いこみ》を得ること、(2)《知った思いこみ》を自らが知り得たモノに重ね合わせること。
- 《知った思いこみ》を《他者》に伝達するためには、コトバが必要であり、コトバが指し示している共通の《思いこみ》を組み合わせて、彼が知らない《思いこみ》を指し示すコトバを作成して、伝達する。「普遍的なもの」というのは「既に彼も知っている、共通の《思いこみ》」を意味している。
- コトバは動きにおいては信ずべきものである。
- コトバは認識においては疑うべきものである。
- コトバは行動のための手段である。認識のための手段としては不完全である。
- コトバは、認識の手段としては、認識のきっかけを作り出すに過ぎない。コトバを信じることは認識を妨げる。
- 当為の論理学が進まないのは何故か? 当為は論理ではない? 当為の論理は認識の論理ではない。OR、オペレーション・リサーチ。
- http://www.geocities.jp/hideohara777/hard2a/or.html
- そこで作戦立案の為に数学者が集まりオペレーション・リサーチ(OR)を生み出しました。数学者のチームは過去の統計を調べ上げ、分析しました。その結果、輸送船団は規模が大きいほど安全だという結論を導き出しました。イギリスは大規模船団を作り、駆逐艦を集中的に配備した護送船団方式を作りだし、イギリスへ無事に物資を運ぶことに成功しました。
- そこで特攻隊の突入経路を分析し、一定の規則を発見しました。それを元に攻撃を集中すべき場所を割り出し、対空砲撃をそこへ集中させました。それにより特攻隊の大部分を撃墜することに成功しました。
- 与えられた条件内で最大の効果を発揮する方法を探す手法として線形計画法があります。・・連立方程式になるらしい。
- PERT(日程計画)Program Evaluation and Review Technique//適切な日程計画を決める手法です。ゲームの開発スケジュール管理にも使用できます。
- アローダイアグラム(Arrow Diagram)矢印(Arrow)で作業の流れを示した図。作業の相互関係が明記されている。
- クリティカルパス//最早開始日と最遅早開始日が同じ余裕がない作業経路
- http://www.orsj.or.jp/presidnt.html
- 意思決定を行う立場の人々にとっての問題を、我が国における政治・行政に携わる人々にまつわる問題として考えてみます。そのような人々を十把一絡げにして論ずること自体は、オペレーションズ・リサーチの観点からは問題がありますが、少々大胆に考えます。我が国の政治的な意思決定を、選挙によって選ばれたのではない人々に任すということは、もちろん制度として間違ったことではあります。しかし、残念ながら実状はかなり重要な決定を彼らが行っているように観察されます。これらの人々が、オペレーションズ・リサーチの考え方や手法を応用していれば、もう少しはましな世の中になるものと、あえて言いたく思います。少なくとも「最適化の概念」を少しでも理解していればいいのに、と感じています。
- それではなぜオペレーションズ・リサーチが、このような重要な局面に活用されないのかを考えてみますと、透明性が確保されることへの恐れではないかと感じています。意思決定過程が透明になり、外部からの正確な評価、解析、批判が可能になると、意思決定者にとって、都合が悪いと考えているように思われます。もしかしたら、過去の亡霊であるべき、「何も知らせず、頼らせるのみ。」がまだ生き残っているのかもしれません。
- 目的の選択、というのも、結局は、より上位の目的からする手段の選択になるのだな。
- 複数の目的、というのも、それぞれの目的の評価、特定手段がもたらす、複数の目的での達成度の総和、といった計算で可能になる。
- 権力者が、知られるとまずいホンネを知られないようにすること、というのが目的だったりする。「知られるとまずいホンネ」が最上位の目的で、「それを知られないようにすること」が第二の目的で、「それ以外」は第三以下の目的。権力者が、権力を私的利益のために使いたい、という「知られてはまずいホンネ」は、周知の事実で、みんなが知っていること、既に知られていることなんだけどね。公言すると攻撃される、という意味で「知られてはまずいホンネ」なのだ。コトバとして流布することが「知られること」であって、「見抜かれていること」は「知られていること」とは言わない。見られてもよいが、言われてはならない。という《ヒトの群れ》のコトバの論理。
ヘーゲルとコトバ
- コトバとモノの弁証法。コトバはモノを否定し、モノはコトバを否定する。モノを指し示すコトバ=概念。
- 「モノを指し示すコトバ」は残念ながら、《私》の《思いこみ》の中でしか存在しえない。《他者》の《思いこみ》の中での「モノを指し示すコトバ」と《私》の《思いこみ》の中での「モノを指し示すコトバ」とが同一であることの保障がない。
- コトバは常に通俗的である。コトバが指し示すモノは通俗的な《思いこみの世界》の中の《思いこみ》である。コトバによって《思いこみ》の伝達が可能であるというのは、コトバが共通の《思いこみの世界》の中の《思いこみ》を指し示しているかぎりにおいて可能なのである。
- 《群有思いこみ》、《群れのコトバ》とモノとの弁証法。
- モノの群れのコトバは、聖なる世界である。《ヒトの群れ》のコトバは俗なる世界である。
- 観察者は科学者、没価値的な存在の認識者、超越的な認識者=科学的な仮説と検証を行うモノ、実体は《ヒトの群れ》のコトバ。
- 《ヒトの群れのコトバ》とモノとの弁証法。ブッダはモノである。ブッダは《見通し》を得たモノである。人々は《コトバにすがるモノ》である。ブッダはコトバを《思いこみ》を捨てて《見通し》を得たモノである。人々は、コトバにすがって《思いこみ》によって《見通し》を得ようとして、《見通し》を得ることができないモノである。
- 人々は、コトバにすがって生きている。コトバによって支えられた通俗的な、《ヒトの群れ》に共通の《思いこみの世界》にすがって生きている。
- 《私》がコトバを語れば、人々は通俗的な《ヒトの群れ》に共通の《思いこみの世界》の中のモノを指し示すコトバとして、そのコトバを聞くのである。
- とはいえ、《見通し》を求める人々がいないわけではない。
- 「真澄の鏡を覗いたならば、常人は気が狂うか目が潰れる」とかや。「真澄の鏡を覗いて気が狂う」のが正常なのである。「真澄の鏡を覗いて目が潰れる」のが正常なのである。目が潰れた後に、《見通し》を求めるのが正常なのである。
- コトバにすがることによって、何かが見えているような気になるだろう。コトバにすがることをやめれば、見えていたモノが見えなくなる。
- すべてのコトバはウソである。正しいコトバ=真理=を求めるのはナンセンスだ。
- 論理が成り立つのは、特定の時の特定の場所での特定の人の特定の視点からの特定のモノに対する判断の体系においてのみである。
- コトバを信じるな。モノを見よ。
- コトバを聞いて、他人のコトバで判断するな。モノを見て、自分の目で判断せよ。
- 『信じるに値する正しいコトバ』などという妄想を捨てろ。デカルトの誤りの根源は『信じるに値する正しいコトバ』を求めたことにある。
- 限定された状況における『正しいコトバ』なら無数にある。多くの状況において『正しいコトバ』もある。しかし、状況を超えて、視点を超えて、『正しいコトバ』は存在しない。
- 『正しいコトバ』というのはモノを《思いこみ》で捉えるための手段だ。コトバは《思いこみ》を固定する入れ物に過ぎない。コトバはそれが指し示しているモノではありえない。
- 正しいコトバとは、特定の時間、特定の場所、特定の人、特定の視点において、或るモノをもっともうまく処理できる《思いこみ》を内容とする記号である。
- 「存在するものを存在しないと言い、あるいは存在しないものを存在するというのは偽であり、存在するものを存在すると言い、あるいは存在しないものを存在しないと言うは真である」(『形而上学・上』p.148)。「xxするモノをxxするとコトバで言う」ということ。コトバの真偽はモノの状況による、ということ。
- 「コトバの真偽はモノの状況による」というコトバは常に正しいか? つまり、「「コトバの真偽はモノの状況による」というコトバはモノの状況によらずに正しい」か? 「コトバの真偽は、モノの状況によって定まるものと、モノの状況によらずに定まるものとがある」というコトバは正しいか?
知識とコトバ
- 「狼が来た」というコトバは、事実の《知った思いこみ》の伝達である以上に、「狼に対する対策を講じろ」という《求める思いこみ》の伝達である。「兎が来た」というコトバと「狼が来た」というコトバとでは意味が違う、コトバの持つ重要性が違う。ヒトを動かす力が違う。
- 《知った思いこみ》の伝達は、「それを知ったことを前提に行動せよ」という《求める思いこみ》の伝達である。「それを知ったとしても行動に何の影響ももたらさない《知った思いこみ》」は意味を持たない。
- 知ること自体が意味を持つというタイプの知識は、教師志願者にとってしか意味を持たない。教師志願者にとっては、それを知ることは、将来の行動に大きな影響がある。
「在る」とコトバ
- 「xxが在る」というのは「xx」というコトバ(記号)に対応する《思いこみ》にマッチするモノがあるということ。
- ヒトの判断。ヒトを中心として記号と《思いこみ》とモノとがあり。ヒトが『「xx」というコトバ(記号)に対応する《思いこみ》にマッチするモノがある』という《思いこみ》を持つに至ったことを意味する。
- 『在る』という《思いこみ》は、『「xx」という記号が、或るモノを指し示すことができ、かつ、そのモノがある』という《思いこみ》である。
- 「モノ」という記号はモノを指し示すことができる。
- 「cogito, ergo sum」というコトバの正しさ、の程度は?
- コトバは《思いこみ》の伝達手段である。ということは、コトバの正しさとは、《思いこみ》の正しさ、ということになる。
- 「狼が来た」というコトバの正しさとは、実際に狼が来ている時には正しく、実際には来ていない時には誤りである。
- 「ニホンオオカミという動物が存在する」というコトバは、ニホンオオカミが絶滅するまでは正しいコトバであったが、絶滅した後では誤りである。
- 「幻の中で神を見た」というコトバは、幻の中で神を見たヒトにとっては正しい。
- 「コトバの正しさは、公理系によって閉じた範囲内でのみ成立する」というコトバは?
- 「公理系を超越した普遍的な正しいコトバは存在しない」というコトバは?
- 《思いこみ》を通して知ること、と、《思いこみ》を棄てて知ること、と、《思いこみ》を棄てて知り得たことを《思いこみ》を通して《他者》に伝えること。
- 道具のイメージがイデア。
- 道具のイデアはヒトの動きを通じて道具というモノを作る。
- 《求める思いこみ》→イデア→モノである。
- 道具を道具として認識する場合には、道具のイデアが先行していなければ、そのモノが何であるのかを知ることができない。
- 道具は人工物であるから、道具を知るためにはイデアが先行していなければならない。
文字と音声
- コトバに操られるヒトと、コトバを操るヒトとがある。
- コトバと操るヒトは、コトバに操られることを学ぶことによって、コトバを操る術を学ぶ。
- コトバに操られるヒトは、ボス猿を信頼するヒトである。実際には、ボス猿のコトバに操られている。
- コトバには《求める思いこみ》に影響を与える力がある。「理性は、実践的能力−−換言すれば、意志に影響を及ぼす能力として我々に与えられているのである」(『道徳形而上学原論』p.28)。
- 《求める思いこみ》は《背後者回路》を経由して表出してくる。コトバは《背後者回路》に影響を与える。
言語は、音声的で組み合わせによる操作が可能な記号の体系(ラング)という意味で使う。
コトバはもっと広い意味での、しぐさとか、芸術におけるシンボリックな表現なども含む。
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References:[《指し示すコトバ》] [《生きモノたちの群れ》] [《息しつつあるモノ》] [《息しつつあるモノの群れ》] [『よい』『わるい』] [『私』] [『無意味の世界』] [コトバ] [モノ] [《道具》] [《独占暴力団》]