FrontPage  Index  Search  Changes  wikifarm  Login

クオリア

クオリアというのは「質感」という意味。

・・・

  1. [qualia:8333] アルシオーネ様へ(2)
    1. 哲学や文学も、脳の物理現象だというのであれば、これを物理学として語れるということになるw
  2. 哲学や文学も、脳の物理現象だから、いずれ、これを物理学として語れるようになる。
  1. クオリア問題に気付くということは、懐疑的独我論者に成ることと、ほぼ等しい。
  2. クオリアのレベルでは、リンゴのクオリアも壮大な科学や数学の体系のクオリアも同じレベルのクオリアでしかない。
  3. 数学や科学は、万人に共有される普遍的な知識である、と、信じられてきたのであろう。しかし、いまや、目の前のリンゴのイメージと同じレベルのはかない思いこみのクオリアにおちぶれてしまったのである。
  4. では、科学や数学を共有していははずの《他者》はどこに行ったのか?
  5. 《他者》もまた、リンゴと同じレベルのクオリアでしかなくなる。
  6. 《他者》は、《今・ここ》でクオリアを感じつつある《私》クオリアとは質が異なる。
  7. 《私》《他者》の内部からクオリアを感じることができない。
  8. 《私》はもはや《他者》による科学的検証のコトバを信じることができない。

飲茶さんの説明:

http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kuoria.html

「物質を追いかけて、その動きの法則性を調べる」という現代科学的なやり方では、 「我々の意識の上に起きている『この質感』」の起源を 原理的に決して解明することができない

http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kuoria2.html

みんなが「青色と感じているもの」を ボクが「赤色だ」と呼んでいても、他人にもボクにも、絶対にわからないということだ。 その違いは決して表面化しない。 そういう疑惑は、原理的に晴らすことは決してできない。

http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kuoria3.html

たけ(tk)の挑発

http://www.yamcha.jp/ymc/DSC_sure.html?bbsid=1&sureid=5&l=1-100

40 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-18 01:56:51    拍手 (0) (0) Boo!

『「物質を追いかけて、その動きの法則性を調べる」という現代科学的なやり方では、「我々の意識の上に起きている『この質感』」の起源を原理的に決して解明することができない』というのは誤りである。

科学的なやり方というのは、モノを観察し、仮説を立て、検証する、という方法である。

クオリアの問題は、《質感を感じつつあるモノ》を観察し、仮説を立て、検証する、という方法で解明可能なはずである。

『《質感を感じつつあるモノ》を観察し、仮説を立て、検証する』ことは不可能である、かどうかは検討の余地がある。

《質感を感じつつあるモノ》はヒトが自らの内部に感じるものであるから、 他者が報告しても信用できない、という問題がある。

しかし、現象学の方法によれば可能であろう。現象学の方法というのは、各人が自分の体験した現象を、デカルトのテストの基準で判断し、疑いなく存在すると確信した内容を、文字にして報告する、という方法である。

* デカルトが何故に、《我》の研究を放棄してしまったのか(超越的な『我』のイデアに逃げてしまったのか)の理由についても議論の余地がある。

では、たけ(tk)が観察した所の《質感を感じつつあるモノ》についての仮説をいくつかあげておこう。

たけ(tk)は《質感を感じつつあるモノ》をもう少し一般的な《知りつつあるモノ》と呼んでいる。

(1)《知りつつあるモノ》《私》の認識(《知りつつあるコト》)の基点にある

(2)《私》《私》《知りつつあるモノ》を知っているが、《他者》の中にあるかどうかは《私》は知らない。

(3)《知りつつあるモノ》のまわりには世界がある。その世界は物質的な世界であり、または、《思いこみ》世界である。

(4)《知りつつあるモノ》は自分のまわりの世界を知りつつある。持続的に知りつつある。

(5)《知りつつあるモノ》は、純粋な形では、質感を感じない。世界は、ただそこにあるだけの、意味も質感も持たないものである。この純粋、というのはデカルトの「全てを疑う」という立場を純粋に貫いた場合には、という意味である。

(6)《知りつつあるモノ》は、たとえば目の前の赤いまるに関心が向くと、質感を感じるようになる。《知りつつあるモノ》の側の態度で、同じ対象に質感を感じたり、感じなかったりする。

上記の命題が、検証可能であるか、について、興味がある。

挑発(2)

http://www.yamcha.jp/ymc/DSC_sure.html?bbsid=1&sureid=9&l=1-100

4 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-18 18:13:37    拍手 (0) (0) Boo! 「ロジャーズの人格理論は、

まず個人は1人1人独自な現象的世界(phenomenal field)の中に生きていること、

個人の現象的世界の一部が自己概念として分化し、体制化される、という設定から始まる(1951年)。」(『心理学の基礎知識』有斐閣ブックス625、9−2)

クオリアを知るモノはここで言う、ロジャーズの自己概念である。1人1人が独自にもっている現象的世界の一部としての自己概念が、他の部分のクオリアを知るのである。

したがって、「今後、科学がどんなに進歩しようとも、この謎を解き明かす見込みはまったくない、不可能である」(http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kuoria.html)というのは誤りであろう。

・・と、挑発的に言ってみる・・

8 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-19 00:44:55    拍手 (0) (1) Boo!

>「この科学を、現代で一般的に認知される科学の方法論として捉える限り、この一文は全く正当なものではないでしょうか?」。

そのとおりです。

『差異について』青土社、ドゥルーズ、平井啓之訳の付録の『ベルグソン』からの引用で説明したいと思います。

まず、p.172に「哲学は・・科学がまさにわれわれから隠していて、われわれから奪っている認識と関係を創り出す、あるいはむしろ復興させると主張する」「われわれを外部に残す代わりに事物の中に置く哲学的関係は、創設されるよりもむしろ哲学によって復興されるのであり、・・再発見される」とあるように、「現代で一般的に認知される科学の方法論」というのは研究者の超越的自我を現象の外部において、《我》を事物の外部に残したまま、外部から事物を認識しようとします。

しかし、「若干の条件の中では、科学と哲学とは結びつくことができ」(p.174)るとのべ、「科学が哲学に浸透されないかぎり取り逃がす危険があるのは、物自体であるよりも物の差異である」(p.176)という言い方で「科学が哲学に浸透される」ことを主張しています。

要するに、「現代で一般的に認知される科学の方法論」が「われわれを・・事物の中に置く」「哲学に浸透される」ようになれば、前進する、と言っているわけです。

問題は「われわれを・・事物の中に置く」ような「科学の方法論」が可能かどうかでしょう。

クオリアの問題とは『物理的運動→主観的意識』を説明できないというものです。

これは、「主観的意識」=デカルトの《我》の存在をそもそも、現代の科学では認めていない、ということに起因するだろう。

たけ(tk)思うには、「現代で一般的に認知される科学の方法論」のベースには、デカルトが《我》モノとして捉えるのではなく、超越的自我として、イデア的に捉えて、現象の外部に追放してしまったことに問題があると思う。

デカルトの《我》は現象世界に現れたモノ(現象、過程、作用)ではないのか? デカルトの《我》モノとして、科学的に検証すべきではないのか、と思う。

つまり、デカルトの《我》の存在が「現在の科学の壇上で正しい理論とされる」かどうか、「有る程度の客観性と再現性があり、何よりその理論の正当性が周囲に広く認められる」かどうか、が問題だと思う。

つまり、《質感を感じつつあるモノ》=デカルトの《我》の存在そのものを科学的検証の対象とする必要があり、そうすれば「科学は哲学に浸透されて」クオリアの問題を説明できるようになる。と思うわけであります。

>『議論可能なくらいの具体的な仮説』

『議論可能なくらいの具体的な仮説』の第一の仮説は

「デカルトの《我》科学的検証の対象たりうる」

という仮説になるでしょう。

9 名前: 無知 投稿日: 2005-06-19 11:10:10 (0) (0)

>「デカルトの《我》科学的検証の対象たりうる」

>という仮説になるでしょう。

いや、そうではなくて

たけ(tk)さんの発言した

クオリアの問題は、《質感を感じつつあるモノ》を観察し、仮説を立て、検証する、

>という方法で解明可能なはずである。

という文章から、 科学/哲学の一般的(あるいは有名学者)の話を連ねるのではなくて、 今回のクオリア問題を解明する為のたけ(tk)さんなりの具体的な仮説を立ててください って事ですよ。

11 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-19 12:22:32    拍手 (0) (0) Boo!

>今回のクオリア問題を解明する為のたけ(tk)さんなりの具体的な仮説を立ててください

>って事ですよ。

問題はですね。《質感を感じつつあるモノ》を「具体的なモノ」として認めない「現代で一般的に認知される科学の方法論」では永遠に解決できない。ということです。

議論を進めるため

「《質感を感じつつあるモノ》は科学的に検証可能な「具体的なモノ」である」

という共通認識の下でしか、議論は進まないでしょう。聞き手が「《質感を感じつつあるモノ》は科学的に検証可能な「具体的なモノ」ではない」という認識であれば、そもそも認識対象が見えないということですから、いかなる記述も幻に関する記述となってしまい、いかなる記述も意味をなさなくなります。

ですから、まず

「《質感を感じつつあるモノ》は科学的に検証可能な「具体的なモノ」である」

という仮説の検証が最初になるのです。これは次の二つの仮説と同値です。

「デカルトの《我》科学的検証の対象たりうる」

「《質感を感じつつあるモノ》はデカルトの《我》である」

12 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-19 14:43:04    拍手 (0) (0) Boo!

>仮に「今この感じ」というのをライブと表現すると、
>・・
>瞬時なので、ライブなのか記憶なのかが自分でも把握できない場合はあると思いますが・・・

ライブのクオリア: モノ→感覚→《質感を感じつつあるモノ

記憶クオリア:  表象→感覚→《質感を感じつつあるモノ

というように捉えることができるか?

仮説:「表象に対するクオリアもある」

仮説:「表象に対するクオリアを媒介は感覚である」

* たけ(tk)の用語では、表象に対してクオリアを感じるときの感覚は、体内感覚という。

仮説:「すべての表象にはクオリアを伴う」

* たとえば、「3」という数字に関するイデアを思うときにも、『3のイデア』というクオリアを伴うか?

* これらは検証可能か?

13 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-19 15:00:25    拍手 (0) (0) Boo!

思うにそもそも、

「現代で一般的に認知される科学の方法論」によっては「クオリアの存在」そのものを認めることができない。

なぜなら、クオリアというのは主観的な体験だからである。

仮説:「クオリアという現象は存在する」

は検証可能か?

15 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-19 19:23:29    拍手 (0) (0) Boo!

カッツの「実験現象学」というのはどうですか?

「この立場は特殊な分析的態度を採らず、ナイーブな自然の態度のもとに、現象世界をありのままにとらえ、その特性を記述分類し、特性間の相互関係を求め、現象を成立させている本質的条件を実験的に明らかにしようとする」(『心理学の基礎知識』1-8)ものだそうです。

「ふつう色は色相、明度、飽和度の3属性によって記述されるが、これらの属性において同一であっても、色紙の青色と青空の色とでは異なった印象を与える。カッツは、視空間の構造との関係において、いろいろ異なる色の現れ方に注目して、 表面色、面色、空間色、透明色、鏡映色、光沢、光輝などに分類した。これらのうち代表的なものの特徴を述べると、

(1)表面色は、色紙などの不透明な物体の表面に見られる色(物体色)で、定位が確定的であり、面は硬く、・・

(2)面色は、青空の色、スペクトル光の色、衝立の小穴を通してみた一様な面の色(開口色)で、距離感が不確定で、平面的ではあるが、やわらかく、・・

(3)空間色は、たとえば背後の対象が透過して見えるガラス容器内の着色液体や寒天などに見られる色で、3次元的に広がっている。」

この立場であれば、クオリア(質感)とはどのようなものか、は科学的に記述できそうです。

しかしもちろん、「我々の意識」=《質感を感じつつあるモノ》自体を科学的検証の対象にしない限りは『この質感』の起源を解明することができない。

16 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-19 19:46:28    拍手 (0) (0) Boo!

>私の考えではクオリアや意識は進化の過程で脳が獲得したものであって必然である。

ということと、それを科学的に解明可能であるということとは別です。

クオリアや意識を特別なものとして考えることには論理の飛躍がある。

デカルトく以降から今までの科学というのは、「主観的なるもの」を現象界に存在しないものとして扱う、という前提を採ることで、客観的な観察・検証が可能となる、という立場です。

したがって、「クオリア=主観的体験が伴う質感」とか意識そのものというのは、今までの科学の方法であるかぎり、特別なのです。

22 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-19 23:16:04    拍手 (0) (3) Boo!

たけ(tk)の前提で『具体的な仮説』を立ててくださいなって事です。

たけ(tk)にとっては《クオリアを感じつつあるモノ》は具体的なモノです。

それについて、いろいろと書いているのに、無知さんには「具体的なモノとしての《クオリアを感じつつあるモノ》」が見えていない。だから、無知さんは『たけ(tk)は「具体的な仮説」を立てていない』と思ってしまう。

27 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-20 00:33:19    拍手 (0) (0) Boo!

>「物質を追いかけて、その動きの法則性を調べる」事で解決する具体的な仮説を立ててください

というのは、いわゆる還元主義という立場じゃないのかなぁ

----

http://www.tabiken.com/history/doc/E/E054R100.HTM

還元主義 かんげんしゅぎ

 一見複雑なことがらについての議論が,より単純なものごとについての話にひきもどせることを主張する立場をいう。たとえば唯物論は,精神現象や心身関係についての話を,物質についての話にひきもどすことを主張するから,物心二元論を物質一元論でおきかえようとする,還元主義である。自然科学をすべて物理学の一部だと主張する物理学主義も還元主義である。また物体についての話を,感覚所与についての話に書きかえることを主張する,感覚的実証主義も還元主義である。このほか種々の還元主義があるが,なかで最も成功したのは,数学の全体を集合論にひきもどそうとする還元主義であろう。これは,フレーゲやラッセルなどの論理主義者により提唱されたものであるが,現代のフランスの数学者の一集団は,「N.ブルバキ」という共同のペンネームで,論理主義者の提唱を実現した著作『原論』を刊行し,この還元主義が単なるスローガンではないことを示した。


30 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-21 18:25:22    拍手 (0) (0) Boo!

18 名前: てい 投稿日: 2005-06-19 21:01:37

>もし仮にクオリアというものが存在しているなら、
>ワレワレは
>このスレッドの存在意義自体が無いと思うはずです。
>
>つまり
>クオリアが存在していると仮定すると
>『クオリア』という言葉そのものに対する
>クオリアが存在していて
>その『クオリア』と言う言語のクオリアを共有しているはずなので、
>『クオリア』を、わざわざ論ずるまでもなく、
>クオリアと言うものを万人共有の意識で理解しているはずです。
>そこに、誤解や齟齬、意見の食い違いなど存在しないはずです。

たけ(tk)クオリアの問題を次のような図式で考えています。

’《モノの世界》’’’’’’’’’’’’《モノの世界》’
’’’’|’’’’’’’’’’’’’’’’’’|’’’’
’’’’|’《思いこみ》’’’’《思いこみ》’|’’’’
’’’’|’/’’’’’’’’’’’’’’\’|’’’’
’’’《我》−−−コトバ ⇔⇔⇔ コトバ−−−《我》’’’

* 「’」はスペースの変換。スペースのままだと図が崩れるため。

コトバ(記号):

「『クオリア』という言葉」とか「その『クオリア』と言う言語」

というのは、上の図の中のコトバに当たるでしょう。コトバは記号であり、人間同士で伝達することが可能なモノです。(《我》−−−コトバ ⇔⇔⇔ コトバ−−−《我》

《思いこみ》

「『クオリア』という言葉そのものに対するクオリア」とか「その『クオリア』と言う言語のクオリア

というのは、《思いこみ》に当たるでしょう。コトバを受け取ることによって生じた『コトバの意味』に関する《思いこみ》です。イデアとも言う。

記号の伝達による《思いこみ》の伝達:

「『クオリア』を、わざわざ論ずるまでもなく、クオリアと言うものを万人共有の意識で理解しているはずです。」

というのは、次のような事情を示しているでしょう。

クオリア」という記号(コトバ)とその意味内容である『クオリア』という《思いこみ》との関係を飲茶さんが定義しているので、それを了解している議論の参加者にとってはコトバ《思いこみ》(意味)とが1対1で対応している。

従って、議論において「クオリア」という記号を使うことによって、《私》《思いこみ》としての『クオリア』と《他者》《思いこみ》としての『クオリア』とも1対1で対応していることが保障されている。

従って、我々は『クオリア』という《思いこみ》を共有している。ということですね。

この議論の参加者は、おそらくは各人が《我》モノとの関係において体験したクオリアを、飲茶さんが定義した『クオリア』のイメージと同じことであることを確認したうえで、「クオリア」という記号を使っているのでしょう。

とすると、ていさんの言う通り、少なくともこの議論に参加している人々にとっては、モノ《我》との関係におけるクオリアが存在することは検証された、ということになりますね。

ただ、他者の《我》が感じているクオリアを私が直接知ることはできないので、それが私の《我》が感じているクオリアと本当に同じであるかどうかは確かめようがない、ということはあります。また、他者はウソをついていて、本当はクオリアなど感じていないのかもしれない、ということも検証しようがありません。

もっとも、科学というのはそこまで疑り深くはなくて、通常は、2・3人が「追試に成功しました」という報告書を出すと、検証された扱いになるでしょう。

このように《我》というモノを認めてしまえば、それほど不可思議な現象ではないのですが・・

本当の問題は、

科学」が《我》というモノを検証可能な対象として認めていない

らしい、ということなのです。

上の図から《我》を消してしまえば、現象とコトバと意味とがばらばらになってしまって、意味が分からなくなるでしょう。

* 上の図の「モノ《思いこみ》⇔記号」は「意味の三角形」と呼ばれるものの改変なのですが、元々のオグデン&リチャーズの「意味の三角形」には《我》が入っていないので、訳がわからない主張になってしまっています。

31 名前: てい 投稿日: 2005-06-21 19:09:37 (0) (0)

・・・

>本当の問題は、
>「科学」が《我》というモノを検証可能な対象として認めていない
>らしい、ということなのです。

の部分の

観測できないことについては論じえないと言う

基本的な考え方はOKです

この部分がクオリア問題ですよね?(ここを勘違いしている?)

そこを問題視しても、 話が進まないから、取りあえずクオリアをあると仮定して

その上で、 話を進めましょうと言う提示の上で議論を進めているのではない?

32 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-21 19:58:25    拍手 (0) (0) Boo!

>取りあえずクオリアをあると仮定して

現象としてのクオリアに関しては、ゲシュタルト心理学とか認知心理学とかですでに研究対象になっていますよ。

問題はそうじゃなくて、

>観測できないことについては論じえないと言う
>基本的な考え方はOKです

という発想で《我》の問題を除外するかぎりは、

このクオリアについて、一番厄介な本当の問題は、今後、科学がどんなに進歩しようとも、この謎を解き明かす見込みはまったくない、不可能であると言うことだ。 (http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kuoria.html

ということです。

ブラックボックスとしての《我》科学のなかに取り込んでいかない限り、

脳を解剖して、その動きをどんなに調べようが、「赤い」という「質感(クオリア)」を取り出すことも、なぜそういうものが起きているのか説明することも、決してできない

ということです。

33 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-21 22:25:47    拍手 (0) (0) Boo!

>>本当の問題は、
>>「科学」が《我》というモノを検証可能な対象として認めていない
>>らしい、ということなのです。
>の部分の
>観測できないことについては論じえないと言う
>基本的な考え方はOKです

《我》は「観測できないこと」だという趣旨ですよね?

近代科学の原点とも言うべきデカルトが「《我》があることは疑いえない」と言っているのに、科学は、存在するはずの《我》を調べることから逃げ回っている。

なんか、変な感じはしませんか?

* デカルトは「私は有る、私は存在する、これは確實だ。しかしいかなる間か。もちろん、私が思惟する間である。」と言っている(http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/library/descartes/med002.html)。とすれば、デカルトの《我》とは《思惟しつつあるモノ》言うべきモノではないか? これをブラックボックスとして観察(←「考察」を訂正)することは可能なのではないか? なぜ、科学は逃げ回るのか?

42 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-24 18:27:58    拍手 (0) (0) Boo!

表象のレイヤー」に現れる諸現象と「ニューロンのレイヤー(脳内機能のレイヤー)」に現れる諸現象との対応関係を知ることが面白そうだ。

で、しかし、近い将来に、ニューロンのレイヤーが科学的に解明され、ニューロンのレイヤーの諸現象と表象のレイヤーの諸現象との対応関係が明らかになったとして、 それで、今ここの この《我》が感じつつある この質感が、科学的に理解できた、と、言えるのか、言えないのか?

* 「ブラックボックスとしての《我》科学のなかに取り込んでいかない限り・・説明することも、決してできない・・ということです。」といった関係上、つまり、「ブラックボックスとしての《我》科学のなかに取り込めば、解明できる」と言った関係上、たけ(tk)は、「科学的に理解できた、と、言える」という立場で行くことにしよう。

----

表象のレイヤー」でgoogleした内容:

http://www.qualia-manifesto.com/essays/keywords.html

 第二に、クオリアは、機能主義的、計算論的に見た脳の情報処理メカニズムの本質を、表象のレイヤーにおいて反映した属性であると考えられることである。例えば、視覚においては、形、色、動きなどの視覚特徴は、大脳皮質の異なる領域において解析されている。脳という物理的空間では空間的に、かつ時間的にも広がりを持ったニューロンの活動として表現されたものが、心の中の表象としては、例えば「右に動いている赤い円」というように、一まとまりの表象として知覚される。そして、そのような知覚に従って、我々は思考したり、行動を組み立てたりすることができる。この、結びつき(binding)のプロセスと呼ばれる情報処理機構のメカニズムの詳細は未だ明らかではないが、脳の中の時間的、空間的に広がりを持ったニューロンの活動が、私たちの心の中ではコンパクトなクオリアとして感じられるという事実が、結びつきのメカニズムを解明する上で重要なヒントを提供すると考えられる。

http://www.qualia-manifesto.com/colloquim.html

脳の活動に伴って、クオリア(赤い色の感じなどの感覚質)や志向性(「私」の心が何かに向かい合っているという感覚)が生じることは、人間とは何かということを脳科学を通して考える際、重要なファクターである。言語の脳内機構を考える際にも、クオリア志向性といった表象のレイヤーと、それに対応する神経機構を考慮することが重要である。両眼視野闘争などのいくつかの具体例でクオリア志向性の相互作用を検証しつつ、言語を含む認知プロセスがどのようにして立ち上がってくるかを考えたい。

http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/FILE/QUALIA1.html

引用6:《私は、クオリアを真摯な研究の対象にし続けることによって、脳科学が究極的には「東京物語」や「ファウスト」のもたらす感動をも説明できるまで発展し続けるという方向性を担保することができると考える。その際、人間を含む世界における「物語」の構造に注目しながら脳科学を続けていくことが重要であると考えている。……ここに言う「物語」とは、単に、我々が世界をどのように受け止めるかという認識論に留まらず、世界の実在性、ないしは因果性にまで踏み込む概念であることに注意すべきである。例えば、脳の中の時間的、空間的に広がりをもったニューロンの活動が、我々の心という表象のレイヤーにおいてはコンパクトな「クオリア」として認識されるという事実は、世界の因果的発展形式の本質に関わる何かを示唆していると考える。すなわち、時間的、空間的に広がりを持ったプロセスが、因果的には一つの要素として機能し、これらの要素が絡み合うように相互作用することによって、世界が発展していくというようなことがあるのではないかと考える。そして、私たちの脳の中では、そのような因果発展形式が現に進行しており、その現象論的な現れが、クオリアだろうと考えるのだ。クオリアとニューロンの活動の間の関係を理解することは、究極のところ、脳を含む世界の因果的発展方式を理解することだと考えるのである。

46 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-25 00:28:59    拍手 (0) (0) Boo!

>このスレでは「脳幹〜右脳で分類」あたりの働きを
>クオリアと呼んでいるように思えるのですが。

http://www.qualia-manifesto.com/essays/gengo2.html

によると

例えば、私が赤い色を見ている時、その視覚的経験の性質は、赤のクオリアと、その赤のクオリアに向けられている私たちの心のあり方に分解することができる。

視覚を支える神経機構に関する最近の知見によれば、クオリアは後頭葉にある低次視覚野から、側頭葉の高次視覚野へのニューロンの活動のクラスターに随伴すると考えられる。

一方、志向性は、前頭前野や高次視覚野から低次視覚野へ向かうニューロンの活動のクラスターに随伴すると考えられる。

だそうです。で、この文章は次の文章に繋がっています。

もちろん、ある程度、クオリア志向性を生み出す神経メカニズムが分ってきたと言っても、クオリア志向性の問題が、依然として極めて困難な問題であることには変わりがない。

そもそも、物質に過ぎない脳に、いかにして、クオリア志向性といった私たちの心的表象が随伴するのか、この問題の根本的解決の糸口は、まだ見えていない。

>認知心理学をかじったせいか、

ということで、ちょっとお聞きしたいのですが、感覚神経系のニューロンと運動神経系のニューロンというのはどのように繋がっているのでしょうか? 

たけ(tk)の素人考えでは、その接触面にあたるモノ《我》として想定されているのかもしれない。

したがって、接触面にある《我》への感覚系のニューロンからのインプットが「《我》が質感を感じる」という認識に繋がっているのかもしれない。

で、ひょっとすると脳内に筋肉状のモノが感覚系と運動系の間にあり、その脳内筋肉の緊張が表象レイヤにおける実体感の、ニューロンレイヤにおける実体かもしれない、なんて思っています。

47 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-25 00:38:38    拍手 (0) (0) Boo!

>何故?と思います。これは、
>「鏡の中は、なぜ左右逆になっているのか?光の反射と物理学者が説明しても、
>左右逆なことは科学では説明できない」
>と言っているのと同じようなものに思えました。

そういうことでしょう。われわれは表象レイヤの住人であって、シナプスレイヤの住人ではない。

われわれは、シナプスのことなど、感覚することはできない。

われわれは表象レイヤのモノどもを感じ、そのモノどもを食べ、われわれ自身が表象レイヤの一つのモノとして生きている。

その、質感のある表象レイヤの世界を、見たこともない、感じることもできないシナプスレイヤの原理で説明されても、われわれを理解したことにはならないし、われわれが質感を以って感じる表象レイヤのモノどもを理解したことにもならない。のかもしれない。

* 表象レイヤの諸現象と、シナプスレイヤの現象との対応関係を理解すれば、多少、表象世界というモノの理解が深まる、とも、言えるかも知れない。

* シナプスレイヤというのは、表象レイヤに存在する《我》というモノの背後にあるモノである、という理解でよいのか?

49 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-25 15:43:41    拍手 (1) (0) Boo!

>18 名前: てい 投稿日: 2005-06-19 21:01:37
>クオリアについてなんですが、
>ワタシは、
>クオリアを、赤を赤たらしめている存在と捕らえています。
>
>クオリアがあるから、
>ワレワレは、赤を赤と認識できる。
>
>つまり絶対的、本質的な赤って訳ですね。

どうやら、ていさんはクオリアを「イデア」として捉えているようです。

>『クオリア』という言葉そのものに対する
>クオリアが存在していて

これも「イデア」ですね。

・・・

まずは「イデア」とは何かを研究してみることをお勧めします。 おそらくは、ていさんが「クオリア」と呼んでいたものが「イデア」の問題として語られていたことが分かるでしょう。

そして、「イデア」ならざるものとして語られている「クオリア」とはなにか、を考えてみるのがよいのではないでしょうか。

たけ(tk)には「イデア」と「クオリア」の違いを明確に説明することはできませんが、おそらく 「イデア」には主体としての具体的人間という要素がなく、普遍的なモノというイメージであるの対し、 「クオリア」はあくまでも、今ここのこの《我》という具体的な人間が感じるものである、 といえば、当たらずといえども遠からず、と言った所でしょうか?

51 名前: TA 投稿日: 2005-06-25 19:10:32 (0) (0)

クオリアと言語の関連性には皆さんあまり触れられてませんね。

俺は、言語を身につけていないとクオリアを感じることは出来ないと思っています。 言葉がなければ人は思考することが出来ません。

思考できなければ『今、現に自分が感じている質感』など端的に存在しません。

具体的に言うと、

『言語を身につけていない乳幼児は自動人形(刺激に対し反応を返すだけの物理的な存在)である』

と思っています。

(暴論すぎるでしょうか?)

56 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-25 22:15:21    拍手 (0) (0) Boo!

クオリアと言語の関連性には皆さんあまり触れられてませんね。

http://www.qualia-manifesto.com/essays/gengo2.html

4、言語の脳内メカニズム

 周知の通り、脳の中には、二つの代表的な言語関係領野がある。

 言葉の意味を司っている脳の領野は、ウェルニッケ野(Wernicke's area)である。

ウェルニッケ野が損傷を受けると、言葉の発話自体には問題がなく、言葉が流暢に発せられるが、その内容が意味のないものになる。

ウェルニッケ野があるのは、上側頭回(Superior temporal gyrus)と呼ばれる脳の領域で、ほとんど例外なく左脳半球に見い出される。

上側頭回には、ウェルニッケ野の他に、聴覚野がある。

さらに、少し下側の側頭野には、視覚関連の連合野がある。

 一方、言葉の発話を司っている領野は、前頭野の、運動野近傍にあるブローカ野(Broca's area)である。 ブローカ野が損傷すると、言葉の意味は理解できても、発話がうまくできなくなる。

 興味深いのは、言葉の意味を処理していると考えられるウェルニッケ野を含む側頭葉は、私たちの心の表象の要素である志向性クオリアが出会う場所であると考えられることである。

 薔薇の花を見るという視覚経験を例にとってみよう。

この時、私たちの心の中に表象されるものは、大きく分けて、

薔薇の花を構成する色やテクスチャといったクオリアと、
「ああ、これは薔薇だ」という認知に分類できる。

前述したように、

クオリアは、低次視覚野から側頭野にある高次視覚野にかけて形成されるニューロンのクラスターによって生み出される。

一方、「ああ、これは薔薇だ」という認知は、下側頭野の形態視の中枢において志向性として成立し、低次視覚野へ向かうニューロンの逆向きの投射によって、薔薇を構成するクオリアに張り付けられると考えられる。

すなわち、私たちの視覚的に薔薇を認知する時には、薔薇のクオリアに、「ああ、これは薔薇だ」という志向性が張り付けられているということになるのである。

 上のような認知機構における志向性の役割は、私たちが言語において「意味」と読んでいるものの役割に酷似している。

実際、文字を構成する視覚的クオリア、あるいは単語を構成する音声のクオリアに対して、

「ああ、これは、こういう(意味の)言葉だ」と認識する張り付けられる志向性は、

「ああ、これは薔薇だ」という志向性とほとんど同じ感覚を伴って私たちの心に表象される。

58 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-25 22:47:59    拍手 (0) (0) Boo!

>46 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-25 00:28:59
>接触面にある《我》への感覚系のニューロンからのインプットが
 「《我》が質感を感じる」という認識に繋がっているのかもしれない。

こんなの見つけた。

http://www.qualia-manifesto.com/nikkei.html

 ミラー・ニューロンの見い出される前頭葉は、「私」という自我の中枢が存在すると考えられているところでもある。どうやら、自我の脳メカニズムの中心には、感覚情報と運動情報が混然一体となった、言語的世界が広がっているようなのである。

60 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-25 23:08:14    拍手 (0) (0) Boo!

>『言語が無い→思考できない→クオリアなど無い』という考えは間違っていますか?

まあ、端的に言って、TAさんは、言語を媒介としない形で感覚的なクオリアを感じた体験がない、ということでしょう。

これは、別におかしな話ではなくて、僕の友人でもそのように断言していた人も居ます。 茂木さんも、どこかで、以前は完全な物理主義者だったが、あるとき突然クオリアがあるということに気がついた、と言うようなことを言っていたと思います。

たぶん、感覚的なモノも言語を媒介として感じるというのは、理性的なのでしょう。 言語能力が優れていて、感覚的に感じ取ったモノも、一瞬のうちに言語的に捉えなおしてしまう、という癖が付いているのではないかと思います。

62 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-26 01:57:36    拍手 (0) (0) Boo!

>俺が物心ついて世界を認識し始めたのは3歳の頃ですが、
>これは言語の獲得の時期と一致していると自分では思っています。

臭いとか、手ざわりといった、言語化しにくい感覚の質感はどうでしょう?

ぼけっと道を歩いているときに、「何か」を踏んでしまってびっくりした、というその瞬間に感じる「何か」の質感などはどうでしょうか?

>もし俺の脳に損傷がおき言語能力を一切失ってしまったとしたら、
>おそらくクオリアも無くなるだろうと思っています。

これは脳のどの部位の損傷によるでしょうね。

>ウェルニッケ野が損傷を受けると、言葉の発話自体には問題がなく、
>言葉が流暢に発せられるが、その内容が意味のないものになる。

とあるので、ウェルニッケ野が損傷を受けた人が、感覚に対するクオリアも失うのかどうかが問題かもしれません。

>クオリアは、低次視覚野から側頭野にある高次視覚野にかけて形成される
>ニューロンのクラスターによって生み出される。

とあるけど、「低次視覚野から側頭野にある高次視覚野にかけて形成されるニューロンのクラスター」と「ウェルニッケ野」との関係が分からないですね。

いずれにしても、実験台にはなりたくないな。

63 名前: TA 投稿日: 2005-06-26 10:05:03 (0) (0)

>ぼけっと道を歩いているときに、「何か」を踏んでしまってびっくりした、
>というその瞬間に感じる「何か」の質感などはどうでしょうか?

既に言語を獲得し、明確に自我を持っている現在の俺にとっては、 その「何か」のクオリアは存在します。 (感じる主体が今、ここに存在するからです)

一方、言語がなく、自我を持っていない生まれた直後の赤ん坊にとっては、 その「何か」のクオリアは存在しないと思っています。 (感じる主体がどこにも存在しないと思っているからです)

64 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-26 14:21:52    拍手 (1) (0) Boo!

>既に言語を獲得し、明確に自我を持っている現在の俺にとっては、
>その「何か」のクオリアは存在します。

ということは、

>『言語が無い→思考できない→クオリアなど無い』は正確には
              ↓
>『言語が無い→思考できない→クオリアを感じる主体がない→クオリアなど無い』

ですね。

最後の「クオリアを感じる主体がない→クオリアなど無い」については同意します。

65 名前: 叙爾居 投稿日: 2005-06-26 22:04:07 (1) (0)

>46 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-25 00:28:59
>感覚神経系のニューロンと運動神経系のニューロンというのは
>どのように繋がっているのでしょうか?

すいませんたけさん、自分は要点をかじっただけなので何とも… 感覚を受ける場所と運動の指令を出す場所は それぞれかなり離れてるので、伝達器官をいくつか経由してる ということは確かだというくらいしかわかりません…

私の定義では、何かを感じるのに主体は必要ありません。 「感じる」という言葉は、私の定義では、

「感覚神経が条件を満たされて信号を送り、それが脳に届いて、
人間生来の脳の仕組みや
今までの経験から構成された脳の仕組み
の中で”志向性”に変わる直前までの連鎖的な反応のこと」

で、言語野は使われないので「言語」がなくても 「感じること」はできます。

普段はそのままに言語野etcにまでに達し、それを「感じる」という 概念にあてはめています。 が、危険なものに触れたことを「感じる」時などの 急を要する反応には言語野は使われなかったと思います。 「考える前に自然に体が動いた」みたいな時ですね。

言語野が損傷してる場合は、思い出したり連想したり するのが難しい形で脳に蓄積されてしまうかもしれませんが、 他の脳が言語野の代わりをすることもできます。

なので私の定義ではクオリアは言語がなくても存在します。

言語はとても高度な知能を持っていないと使えないもの ではありますが、言語野の一機能であっていわゆる >>46のページにあるような「私たちの感覚の持つ、鮮明な性質」 という一般的なクオリアとは異なるものだと思います。 クオリアとは、もうちょっと原始的な現象ではないかと。

そして、世界を認識したのは3歳から、という事象は 3歳の以前は言語野が発達していないので、今現在とは異なる 認識方法だったため思い出せず、今と同じ認識方法に なった3歳から認識している記憶があるという理由をつければ、 「自我」の存在がなくとも説明できることだと思います。

幼少期の記憶は成人の行動に大きな影響を与えていますし、 「私たちの感覚の持つ、鮮明な性質」がないとは思えません。

ところで、 私はクオリア科学論議の対象にならないという問題も やはりコンピュータにあてはめて考えるとわかり 易いのではないかと思います。

感覚信号が01001101のような電気信号で脳に伝わります、 視床というCPUを通してff0000という情報に変わります (この辺りの変化がクオリアと呼ばれていると思います) それをWWWブラウザである側頭葉が「赤」という言葉で表示します。

指紋が人それぞれ違うように、全ての器官は 役割が同じでも人それぞれ微妙に違うから、同じ色を見ても 01001101という信号を送る目もあるし 10110010という信号を送る目もある。 でも、ブラウザに表示されるのは「赤」。

「なら赤でいいじゃん」という表象レイヤを認めた 前提の上で、普段私たちは話していますが、 「いや、本当はお前は01001101でオレは10110010じゃん。 それを同じ『赤』ってことにしてるのは何?」 というニューロンレイヤを問う問題。 これがクオリア脳科学の問題だと思います。

コンピュータでも、CPUを分解しても 出てくるのはただの電気信号です。 それを読み取るには、 ただのCPUなら同じ規格のものを準備すれば良いですが、 (それでも完璧に再現して読み取るのは不可能ですが) 人間の場合は同じものがない上、自分の脳みそをとっかえなきゃ 結局ブラウザ上の再現と変わらない。

クオリアを理解するには脳みそを取り替えなきゃいけない。 自分の脳内では認識するという現象を起こすことはできない ということです。 それよりどんなCPUでも使えるブラウザ(表象レイヤの世界) を向上させよーよ、 という訳でクオリアに対する言及はないんだと思います。

しかしこういう、智の探求の議論というのは際限がなくて、 人間の可能性の大きさを感じられて良いですね。 同時に、言葉というものの不便さも感じますが。 同じクオリアを共有できたら良いのに……

71 名前: たけ(tk) 投稿日: 2005-06-28 00:05:09    拍手 (1) (0) Boo!

>65 名前: 叙爾居 投稿日: 2005-06-26 22:04:07

>感覚を受ける場所と運動の指令を出す場所は
>それぞれかなり離れてるので、伝達器官をいくつか経由してる
>ということは確かだというくらいしかわかりません…

そこに《我》脳科学的な実体があるのでしょうね。いずれ、脳科学は「《我》脳科学的実体」も解明するだろうという予感がします。

感覚は《我》へのインプットであり、脳科学的なインプットが対応するでしょう。 運動や志向性《我》からのアウトプットであり、脳科学的にもアウトプットとして解明されるようになるでしょう。 いま・ここの《我》にとっても分かりやすい対応関係において、脳科学的な《我》が解明されていくと思います。

>私の定義では、何かを感じるのに主体は必要ありません。

脳科学的な実体としての《我》すなわち「人間生来の脳の仕組みや今までの経験から構成された脳の仕組みの中で”志向性”に変わる」あたりの部分は必要でしょうね。 ただ、その「脳科学的は《我》」は「主体」ではない。観察対象である、ということですね。

もっとも「主体」というモノ(『主体である』という思いこみ)も、脳科学的な実体(現象)として解明されていく可能性はありそうですね。

>私はクオリアが科学論議の対象にならない
・・
>これがクオリアや脳科学の問題だと思います。

前者のクオリア表象レイヤの現象としてのクオリアで、後者のクオリアはニューロンレイヤのクオリアですね。

>クオリアを理解するには脳みそを取り替えなきゃいけない。
>自分の脳内では認識するという現象を起こすことはできない
>ということです。
>それよりどんなCPUでも使えるブラウザ(表象レイヤの世界)
>を向上させよーよ、
>という訳でクオリアに対する言及はないんだと思います。

この部分はよくわからなかったのですが、「いま・ここの《私》が感じる表象レイヤのクオリア」を科学的に理解するには脳みそを取り替えなきゃいけない。つまり不可能だから、科学的に検証不可能なことには科学は挑戦しない、という趣旨でよろしいでしょうか?

以上のような理解の上で、考えますには・・

哲学のキャッチフレーズというのは「汝自身を知れ」なんですよね。

脳科学的な《我》とか感覚、運動、クオリアといったモノは「汝自身を知れ」ということにおおいに参考になりそうだ、という予感を与える。

「汝自身を知れ」の「汝」をどのように捉えるか、

  1. 脳科学的に解明されるべきようなモノを知るべき「汝」と考えるか、
  2. 実存的ないま・ここで感じつつあるモノを知るべき「汝」と考えるか、

という問題はありますが、脳科学が発展してしまった以上は、哲学が知るべき「汝」というのは、いま・ここで感じつつある《我》ということになるでしょう。

つまり、哲学において知りたい《我》というのは、いま・ここの《我》であって、脳科学的実体・現象としてのニューロンの現象としての《我》ではない。つまり、知ろうとしている対象が異なる、ということになります。

しかしそれでも、いま・ここの《我》にとっても、脳科学の成果は気になる所です。

「いま・ここの《我》」の視点からみて「脳科学的成果としての《我》」は、次のようないくつかの捉え方がありそうです。

(1)「脳科学」という学問によって得られた《思いこみ》。すなわち、いま・ここの《我》にとっての《他者》が彼らの現象世界の中で検証して、真であると認定したコトバの体系としての「脳科学的な《我》」という捉え方。広く言えは社会的なイデオロギーとしての脳科学という捉え方。

(2)いま・ここの《我》の現象世界の中の《私の身体》の中の脳というモノの現象として捉える考え方。そういうモノのはずですが、どうあがいても、感じることができませんね。

(3)いま・ここの《我》が感じつつある現象世界を、その背後から操作し、現象世界の背後から現象を出現させつつある仕組み、という捉え方。

たけ(tk)が興味があるのは、(3)の背後者的なモノとしての「脳科学《我》」です。これは、映画マトリックスの世界にも繋がるでしょう。

いま・ここの《我》がそのような背後者的な脳科学《我》を、いま・ここにおいて見通すことができるようになるのではないか、なんぞと期待しています。

これは、大地の上のヒトが太陽が昇るのを見るときに、天動説的に太陽の動きを感じ、太陽が「昇る」さまに感動しつつ、かつ、同時に、地動説の座標軸で理解することもできる、ということと同じだと思うからです。

天動説と地動説とは、座標変換を行えば相互に変換可能な、対等の真理性を有していると考えています。

表象レイヤにおける、いま・ここの《我》にとっての世界と、脳現象のレイヤにおける脳科学的実体としての《我》やその世界との間の対応関係、さらには、座標変換の方法が分かれば面白いでしょう。もっとも、その座標変換の発見は脳科学の方におまかせすると思いますが・・。

いま・ここの《我》にとって重要なのは、脳科学的な諸現象(の意味)を、現象世界の背後者として見通すこと、であると考えています。

Last modified:2007/03/06 00:00:39
Keyword(s):
References:[おまけ]