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《アニミズム》

《アニミズム》

定義

《アニミズム》とは《他者》に主体性を認める《視点》を言う。

  1. 《他者》ヒトに限るか、生きモノに限るか、モノ全般に認めるか。モノの群れ(生きモノの群れ、《ヒトの群れ》)にも認めるか。
  2. モノの群れを含めた、モノ全般に主体性を持った《他者》を認める《視点》《アニミズム》と呼ぶことにする。

モノは、そのモノ世界を感じ、そのモノ動く、という説明方法のことを《アニミズム》と呼ぶ。

  1. 科学的な説明方法は、モノは動かされる、と説明する。(他のモノ《ちから》によって動かされる。法則によって動かされる、と説明する)。
  2. 《アニミズム》においては、素粒子は、彼が他の素粒子の存在を感じ、他の素粒子からの引力や斥力を感じ、彼がその感じたことに従って自ら動く、と説明する。

区別

システム論《アニミズム》

  1. システム論的には、全体システム−サブシステム−サブシステムのサブシステム−・・というような包含関係にあり、全体は部分に影響し、部分は全体に影響する、というように、独立でありながら、相互に影響関係があるモノと捉えられる。したがって、システム論は「たくさんのモノ」でできているのである。日本的アニミズムはこれに近い。
  2. システム論極座標モデル。I/S/O。input/status/output。

科学《アニミズム》

  1. 科学《アニミズム》の天敵である。
  2. 問題は、科学的なる思考様式が、主観的なモノ、主体的なモノの記述を拒否することにある。主体的なモノ・主観的なモノを「客観的に」記述しようとして、主体的なモノ・主観的なモノ、を記述から消してしまうのだ。
  3. 主観的なモノは客観的に存在している、にもかかわらず、科学がそれを客観的に記述しようとすると、客観的に存在しているはずの主観的なモノが消えてしまうのだ。
  4. 科学の記述方法が平板であることに問題が有る。3次元的なモノを2次元で記述すれば、奥行きが消えてしまう。
  5. 極座標モデルによる記述、というのは可能か? 有用か?
  6. 《アニマ》とは、モノの内部に置かれた極座標の原点である。《視点》《我》《知りつつあるモノ》も全部、極座標の原点である。

《アニミズム》《同質者公理》

  1. 私というモノ《我》を認めるならば、《同質者公理》を採用するかぎり、すべてのモノ《我》を認めるアニミズムに行き着かざるをえない。
  2. しかし、たけ(tk)《同質者公理》は採用しないのだ。
  3. 《特別者公理》において、特別者である《私》は、《他者のアニマ》を感じる。ということが問題。《他者のアニマ》クオリアを感じるということ。

汎神論と《アニミズム》

  1. 「汎神論(はんしんろん=pantheism)とは全ての物体や概念・法則が神性を持つ、あるいは神そのものであるという(神を擬人化あるいは意思のある存在としてだけで捉えない)思想・見解のこと。  英語のpantheism、ギリシア語のpan(=全て)とTheos(=神)を語源にする語で、文字どおり「全ては神」で「神は全て」である事を意味する。  万物に神性が宿るならば神性の有無を論じるのは無意味であって無神論と分類される場合も少なくない。汎神論を否定する理由としては、森羅万象を神と定義づけてしまうと人間の中にも神が宿っていることとなり(実際、神道において神と人の境界は曖昧である)、それは即ち人間が犯す罪は神が犯した罪ということになるためであるとされる。一神教にとっての神を唯一無二の存在(唯一神)であるとするためには、人間を含む自然界を超越した存在でなくてはならないからだ。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/汎神論)
  2. 「神を唯一無二の存在(唯一神)であるとするためには」というのは、一神教の教理上の都合に過ぎない。キリスト教の教義とは矛盾する。そもそも、キリスト教の教義、原罪論とか超越的唯一神、のほうが狂っているのだ。
  3. 「神道のアニミズム  これによくにたものに神道(神道では万物に個別の神が宿るとされ、俗にいう八百万の神とは存在の個体数ではなく極めて多いこと表現している)などのアニミズムがある。 日本では、仏教などが伝来した後でも、その信仰はがおとろえることはなく、あらゆる場所に神が宿るという概念は地鎮祭の慣行や神棚の設置等の風習で伺い知ることができる。また、食事を残す子供に「ご飯粒を残してはいけない。その中には(八十八の)神様が宿ってるからね。」と諭したという逸話もある。 単なる一神教や多神教との相違は神性を持つ対象が森羅万象の全てである(あるいは含む)という点である。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/汎神論)

「法則」と《アニミズム》

  1. ヒトの主体性も、《私》の主体性も「法則」の範囲内に在る。
  2. 「法則」の範囲内であることと主体性とは矛盾しない。

《アニミズム》とフェティシズム(物神信仰)

    1. ロボットにも主体性があり得るという=《アニミズム》の立場だったりするということですが、世の中には、さらに一歩進んだ形態としてフェティシズム(物神信仰)があります。これが性的嗜好と絡んでくるとやっかいなことになってくるようです。
  1. そうなりがちなですね。モノや樹とお話しができるような気分になってしまいます。
  2. 山川草木悉皆有仏性、『日本人の思考方法』(中村元)
  3. アリストテレスの『デ・アニマ』
  4. フェティシズムは《思いこみ》であろう。《重ね合わせ》であろう。
  5. http://ja.wikipedia.org/wiki/フェティシズム
    1. フェティシズム(fetishism)は、人類学、宗教学では呪物崇拝と訳され、経済学では物神崇拝、心理学では性欲倒錯による拝物愛、異物嗜愛を指す。物に執着したり、欲望の対象とすること。
    2. フェティシズムを向ける対象をフェティッシュ(fetish)、フェティシズムの志向を持つ人をフェティスト(fetist)という。
    3. 今日では省略形のフェチということばが広く流布しているが、特に性的な意味合いで使用される。女性の身体の一部や身に付けるものなどに対する特殊な嗜好として使われる場合が多い。
  6. お金への執着がフェティシズムなのか・・。マモンはフェティシズム。?。
  7. ヒトは、何故に執着するのか? 《思いこみ》は執着であるか? 《思いこみ》への執着は種族維持的価値がある。《ヒトの群れ》《思いこみ》への執着によって成り立っている。

《アニミズム》と《怯え》

  1. ヒトには《アニミズム》への《怯え》があるようだ。
  2. モノ《アニマ》をもってヒトを支配する、ということへの《怯え》がある。
  3. おそらく、ヒト《アニマ》は、ヒトを支配する、ということを知っているのだろう。《私》ヒト《アニマ》に支配されている、ということを知っているのだろう。
  4. 《私》ヒト《アニマ》に支配されているので、モノ《アニマ》を持つと、《私》モノ《アニマ》に支配されることになる、ということに怯えているのだろう。
  5. モノ《アニマ》の親分である『神』に支配されることになる、と怯えているのだろう。

『祖先の国』と《アニミズム》

  1. 『祖先の国』というアイヌ的な《思いこみ》《アニミズム》とどういう関係にあるのか分からない。
  2. 《私》は、『ヒトは死ねば、祖先の国で、他の祖先たちと和やかにくらし、生きている子孫たちを、暖かく、かつ、心配しながら見守っている』と信じている。なぜなら、《私》にとっての『死者たち』はそのようなモノだからだ。
  3. 現実のヒトと『祖先の国』のなかのモノとしての『死者たち』との同一性はどうなのだろうか? 《私》にとっては、彼らが生きていた頃の思い出の中の『彼ら』と、《いま・ここ》で《私》が『祖先の国』の中で見つける『彼ら』とは同一性を保っている。彼らの《アニマ》としての同一性を保っている。
  4. 《アニマ》モノの属性であると同時に、空間や時空の属性でもある。《複素数の時空》の全体的存在である《宇宙史》《アニマ》でもある。

現世即仏国土と《アニミズム》

  1. 「現世はすなわちそのままで極楽である」という思考実験。「なぜ、そうでないと思うのか」という原因の研究。
  2. ヒトは死ねば、誰であろうと、祖先たちとともに和やかに暮らすことができる」という《視点》。現世における最大の苦しみである死が、苦しみでないなら、現世における苦しみなどないに等しい、という《視点》

《アニミズム》とマルクス的唯物論

  1. http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~funatoka/pavlov/sensuous_rational.html
    1. マルクス主義の唯物論哲学が出現して、認識の過程を唯物論による弁証法的見解をもってとらえ、感情的認識の側と理性的認識の側とを正しく統一的に理解し、認識の全面的把握をかちえた。人間の認識は、(な?)によりもまず、感覚を通じて客観世界とむすびつき、この世界を認識する発端をうる。・・これら多くの感覚、これらによる肝炎(?)が、生活の実践のなかで積み重ねられていくことで人間の思考作用(これには言語の役割が大きい)の発展があり、一般的・概括的な認識が生じてくる。すなわち、概念・判断・推理・結論などという抽象的―論理的操作である。感性による認識はその集積の結果として、感覚にもとづく多様な外界対象についての認識に概括・一般化されて、外面的な事物の認識がたんにこれにとどまらずに、それら事物の内部にひそむ本質、そして法則をとらえうるようになる。
  2. これって、たけ(tk)《アニミズム》だよな・・。
  3. 理性的認識はヒト《アニマ》である。ということ。
  4. しかし、ヒト《アニマ》は理性的認識だけではない。
  5. 《他者》の内部に《知りつつあるモノ》の存在を認めるということ。
  6. マルクスの唯物論的認識論は、正しいと思うのだが、エピゴーネンは、マルクスがもっていた《見通し》見失っている。聞慧・思慧・修慧
  7. エピゴーネン《ヒトのアニマ》の一つの形である。すばらしい言説を聞くと、その言説の《思いこみの世界》入り込んでしまうのだ。ヒトが月を指差せば、ヒトはその指を見る。それも《ヒトのアニマ》だ。
  8. 弁証法というのは、コトバによる認識の方法ではある。しかし、弁証法の本質はコトバに在るのではない、《視点》に在るのだ。《視点の移動》に在るのだ。《視点》の位置の違いが肯定のコトバ、否定のコトバ、統合のコトバを生み出すのだ。肯定→否定→統合はコトバの論理で生まれるのではない。《視点の移動》があって生まれるコトバの連鎖なのだ。表を見る《視点》、裏を見る《視点》、表と裏とを同時に見る《視点》という、《視点の移動》モノの全体像への《視点》への道だということだ。
  9. 弁証法は「理性的認識」ではない。《見通し》の統合の、コトバによる表現なのだ。

山川草木悉皆成仏」と《アニミズム》

  1. 山川草木悉皆成仏」は日本的アニミズムの哲学的スローガン。
  2. 『日本的アニミズム』というのは《他者の思いこみ》だから、定義をはっきりしてもらわないと、論及できない。
  3. 「成仏」ってのは気に食わぬな。もっとも、「成仏」はあまり関係がない。山川草木悉皆有《アニマ》、という趣旨。つまり、素粒子にも《アニマ》がある、という説明方法、だと考えれば、たけ(tk)《アニミズム》と同じになる。

《アニミズム》《たけ(tk)の思いこみ》

  1. 《たけ(tk)の思いこみ》の説明にとって《アニミズム》は必要か?

《アニミズム》と極座標

  1. 極座標は原点が特異点となる。《アニミズム》モノはそれぞれが特異点である。
  2. モノには、そのモノを原点とする極座標の世界が広がっている。

《アニミズム》《複素数の時空》

  1. 《複素数の時空》はすべての実数位置の点において、虚数軸の方向への世界が広がる。
  2. 虚数軸の方向の世界はその実数位置の点の《背後者世界》に相当する。
  3. 《アニミズム》においては、すべての実数位置にあるモノ《背後者世界》を認める。

検索

《思いこみ》 - [#月や太陽が丸いというのは、そのモノが『円』という《思いこみ》を持っていた結果か? 《他者》の内部の《思いこみ》は、在るともいえるし、無いともいえる。アニミズム的には、在る、と答えるべきであろう。]

モノ - [#日本的アニミズムでは、自己偶発(アウトマトン)で生成されるとする。《アニマ》の自己実現、《アニマ》噴出。]

《ヒトの群れのアニマ》 - [日本的アニミズム《ヒトの群れのアニマ》]

《我》 - [#アニミズムモノの中に《我》を認める説明方法(ロゴス)。]

《特別者公理》 - [#たけ(tk)アニミズムは、《今・ここの・このモノ》に認識主体性があるのだから、モノには認識主体性がある、という仮説である。]

《視点の移動》 - [#風にそよぐ木の葉の輪郭は、無感動な《知りつつあるモノ》の視点からの輪郭、アニミズム的な視点からの輪郭、科学的知識の視点からの輪郭、生物学者の視点、気象学者の視点、粒子力学の学者の視点、画家が色彩を選ぶ視点からの輪郭、樹木の所有者の視点からの輪郭、清掃人の視点からの輪郭、とで異なるであろう。《私》《視点の移動》によって複数の輪郭があることを知っている。《視点の移動》が可能であるということは、それらの視点がおりなす世界座標変換によって移動するということである。座標変換のためのパラメータは膨大であり、錯乱しているかもしれない。しかし、座標変換が可能であるからこそ、《私》《視点の移動》によって複数の輪郭を見ることができるのである。座標変換パラメータ軸は何本あっても構わないのである。それらはすべて物理空間の座標軸に直交しているのである。特定の視点に移動するというのは座標変換パラメータ軸の群れのなかで特定のポイントを選択するということである。このポイントは、いかに複雑な座標軸群の中に在ろうとも、現在の物理空間の座標軸に直交した位置に在る、ということには変わらない。選択されたポイントを現在の物理空間の座標軸に直交した位置に置けば、《見通し》のためには十分なのである。座標変換パラメータ軸群の中で一点を選択すればその世界での《見通し》が、多次元輪郭空間の中に出現する。座標変換パラメータ軸群の中でその一点に直接向かう方向の座標軸を取り出せば、物理空間の座標軸に直交する単純な5次元の輪郭空間になる。]

《背後者回路》 - [#同類者意識の範囲は、「選民」だけの同類者意識だろう。もっとも、ゴイムであっても《モノの世界》を知ったモノは同類かもしれない。ちゃうな、《モノの世界》を知って、《モノの世界》を語らず、《モノの世界》を崇拝するモノだけが同類だ。アニミズムとは正反対で、同類の範囲が極めて狭い。]

ゴミ箱2005-12 - [#「山川草木悉皆成仏」の日本的アニミズムの根源でもある。]

目的 - [#コンピュータの《こころざし》? でも、よいみたいね。アニミズム。コンピュータの《アニマ》には《こころざし》がある。]

《求める思いこみ》 - [#「彼には法律的に考える《求める思いこみ》がある」。学習意欲としての《求める思いこみ》・・ではなくて。彼には、おそらく、アニミズム的に考える能力も、法律的に考える能力もあって、彼が法律的に考えている状態の時には「彼には法律的に考える《求める思いこみ》がある」という。学習意欲というのは、未だその能力がないときに、『その能力を得たい』という《求める思いこみ》のこと。]

多次元輪郭世界 - [#風にそよぐ木の葉の輪郭は、無感動な《知りつつあるモノ》の視点からの輪郭、アニミズム的な視点からの輪郭、科学的知識の視点からの輪郭、生物学者の視点、気象学者の視点、粒子力学の学者の視点、画家が色彩を選ぶ視点からの輪郭、樹木の所有者の視点からの輪郭、清掃人の視点からの輪郭、とで異なるであろう。《私》《視点の移動》によって複数の輪郭があることを知っている。《視点の移動》が可能であるということは、それらの視点がおりなす世界座標変換によって移動するということである。座標変換のためのパラメータは膨大であり、錯乱しているかもしれない。しかし、座標変換が可能であるからこそ、《私》《視点の移動》によって複数の輪郭を見ることができるのである。座標変換パラメータ軸は何本あっても構わないのである。それらはすべて物理空間の座標軸に直交しているのである。特定の視点に移動するというのは座標変換パラメータ軸の群れのなかで特定のポイントを選択するということである。このポイントは、いかに複雑な座標軸群の中に在ろうとも、現在の物理空間の座標軸に直交した位置に在る、ということには変わらない。選択されたポイントを現在の物理空間の座標軸に直交した位置に置けば、《見通し》のためには十分なのである。座標変換パラメータ軸群の中で一点を選択すればその世界での《見通し》が、多次元輪郭空間の中に出現する。座標変換パラメータ軸群の中でその一点に直接向かう方向の座標軸を取り出せば、物理空間の座標軸に直交する単純な5次元の輪郭空間になる。]

cogito, ergo sum - [本稿はデカルトの「cogito, ergo sum.」のアニミズム的再構成になる予定。]

ゴミ箱2005-11 - [#一応、山川草木悉皆成仏の日本型アニミズムの伝統の中にあるらしい。]

military shrine - [ 日本人の精神世界の基層はアニミズム信仰にあり、それは私たちの死生観にも深くかかわっています。]

ゴミ箱2005-10 - [||私たち||ホロニック||統合的||多元的||科学的ー合理的||神話的秩序||力の神々||アニミズムー呪術的||古層的]

アニマ - [アニミズム]

ゴミ箱2005-09 - [#それが、日本的アニミズムや一味神水と結びついて顕彰以上の強力な機能=憑依機能=を持つにいたったのではないか?]

ゴミ箱2005-08 - [#世俗主義がよい。汎神論、アニミズムがよい。この世でのユートビア運動がよい。物質的な仕事の世界に心を砕くことはよい。世俗的な道義心が必要なのだ。一神教が混じった世俗主義は、世俗的な道義心を超越してしまうことに問題があるのだ。]

ゴミ箱2005-07 - [#《他者》の認識作用をどのようなモノとして理解するか? 《私》の認識作用と同質なモノとして理解するか、《私》世界モノの作用として理解するか。「科学者」が0次自己言及世界に住んでいるかぎりは、彼らは2元論を拒否しつづける。 アニミズム的なモノの認識は、モノの中に《私》の認識作用と同じ性質の認識作用を認める。《私》モノであり認識者である。したがって、他のモノも、モノであると同時に認識者である。アニミズム的理解は二元論ではなく、モノアニマの一元論なのだ。]

Last modified:2008/01/27 17:42:51
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References:[『ニコマコス倫理学』]