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『道徳感情論』

引用文献『道徳感情論』

定義

『道徳感情論』アダム・スミス、岩波文庫、34-105-6

読書会

「われわれがしばしば、他の人びとの悲しみから、悲しみをひきだすということは、それを証明するのに何も例をあげる必要がないほど、明白である」p.23

  1. 「しばしば」であって「常に」ではないので、反証しようがない。
  2. ミラーニューロンが機能している場合には、常に、というべきか?
  3. ミラーニューロン原因で、主観的体験が結果なのか? 同一の現象への異なった《視点》からの輪郭なのか?
  4. 《共振しつつあるモノ》《共振しつつあるモノ》《他者》への共感も含むが、もっと広い。モノへの共振、物理的な共振、物質の出入り、モノへの《知った思いこみ》によって生じる共振、樹木への共感。
  5. 進化価値の選択によって、我々に備わっているモノ。同胞感情。共感能力、共振能力。《共振しつつあるモノ》同類者意識
  6. 《他者》への共感のクオリアは在る。《感じ合い》《感じ合いつつあるモノ》
  7. 《共振しつつあるモノ》《感じ合いつつあるモノ》、《感じ合いつつある肉の塊》は在る。
    1. 《共振しつつあるモノ》は観察された《身体》の状態であり、
    2. 《感じ合いつつあるモノ》《他者》と向かい合いつつあるときに、《知りつつあるモノ》の背後に感じられるモノであり、
    3. 《感じ合いつつある肉の塊》は《他者》と向かい合って《知りつつあるモノ》の背後に《感じ合いつつあるモノ》を感じつつある《肉の塊》である。

「われわれは、他の人びとが感じることについて、直接の経験をもたないのだから、彼らがそのような感受作用を受けるかについては、われわれ自身が同様な境遇において何を感じるはずであるかを心に描くより他に、観念を形成することはできない」p.24

  1. ミラーニューロンの働きを説明するなら、この通りだろう。ミラーニューロンのレベルで推論や想像を経由して、その結果として再構成されたクオリアが、われわれの主観世界に現れる。
  2. しかし、「推論」とか「想像」は、通常は、意識的なモノミラーニューロンの回路が行うのは前意識的なモノ。われわれの主観世界に現れる前の処理。
  3. われわれは《他者》に共感する。《共振しつつある身体》《他者》共振する。
  4. 《他者》への共感を、クオリアとして感じるということは、《私》《動き》と「《他者》への共感」とが繋がっているということである。「《他者》の心理状態」と《私》《動き》とが繋がっているということ。それが繋がるように進化してきたということ。《他者のアニマ》《私》《動き》とが繋がるように進化したモノが、淘汰圧を乗り越えて生き残って来たということ。
  5. 《他者のアニマ》についての観念を形成すること、は自覚的な《思いこみ》の操作である。((「「自覚的な《思いこみ》」の操作」と「自覚的な「《思いこみ》の操作」」とは、どちらも該当しそうだ))。ミラーニューロンが提出した《他者》への共感のクオリアを、自覚的にシミュレートすることを意味する。
  6. 「われわれは、他の人びとが感じることについて、直接の経験をもたない」というのはどうだろうか? ミラーニューロンを経由しなければ、《他者》への共感がない、ということは、ミラーニューロンを媒介とする間接的な経験ということだろう。しかし、その意味では「《私》の体験」も《私》のさまざまなニューロンがし再構成した結果に過ぎないのであるから、間接的な経験ということになってしまう。 ニューロンの働きは無視するとして、《私》クオリアを感じる、ということであれば、「《他者》の体験」も((「《私》の体験」と同様に))《私》は「《他者》の体験」を《私》クオリアとして直接に体験するのである。別の《身体》であること、別の《知りつつあるモノ》であること、別の《視点》であること、別の《アニマ》であること。という意味だろう。
  7. 《他者》への共感の原因は、《他者》の境遇への想像と推論に基づく観念ではない。ミラーニューロンによる前意識的処理が《他者》への共感の原因である。
  8. 《私》《身体》は、《他者》への《感じ合い》を行うように進化した《肉の塊》である。
  9. 《感じ合い》は、『感じ合い』のクオリアの実感であるが、客観的に見て、《他者》《私》との相互関係が形成されているというわけではない。たんに、そのような『《他者》《私》との相互関係が形成されている』という実感を伴った感覚である、というだけである。錯誤であり得る。が、実際にもそうである場合もある。テレビに写っているヒトに対して《感じ合い》の感情を持っても、実際には、《感じ合い》ではない。
  10. 幼児に対する実験で、ビデオで外国語を示した場合と、生身の人間が外国語を示した場合とでは、同じ内容であっても、顕著な違いがあるという。「目があうこと」の違いだろうか?「目があう」というのは、実際の《感じ合い》だろう。おそらく、デモンストレータが幼児と「目があう」ことを禁止したならば、もしくは、幼児を見えない状態にして行った場合には、ビデオと同程度の効果しかもたらさないだろう。

《他者》への共感の)「概念を形成しうるのは、想像力だけによるのである」p.24

  1. 概念を形成するのは想像力の働きによる、というのはOK。「《他者》への共感の概念」は「《他者》への共感」ではない、「《他者》への共感」を自覚的に再構成した《思いこみ》である。

われわれの想像力が写しとるのは、かれのではなくわれわれ自身の諸感覚の印象だけなのである。p.25

  1. 《私》の諸感覚の記憶《私》の諸感覚と状況との関係の記憶。《彼》の状況への知覚+《私》の諸感覚と状況との関係の記憶《私》の諸感覚の記憶の想起。われわれは《私》の諸感覚を体験し、記憶する、また、その時の《状況》と諸感覚との関係を記憶する。われわれが《彼》の状況を知った時、「《彼》の状況」と「《私》の諸感覚と状況との関係の記憶」から「《私》の諸感覚」を想起する。それが、ここで言う、「われわれ自身の諸感覚の印象」。

「われわれはいわばかれの身体にはいりこみ、ある程度かれになって、そこから、かれの諸感動についてのある観念を形成する」p.25

  1. 《彼》の内部に鏡を置いて、その鏡を通して、《彼》の状況を体験すること。
  2. 皮膚感覚についての鏡というのは、難しいかも。《拡大身体》というべきか?
  3. 《拡大身体》と言おうと、鏡と言おうと、言わんとすることは同じなのであるが、聞き手によっては、理解しがたい神秘主義、ということになるだろう。理解し得ないヒトの発想をイデア主義という、と言ったとしても、彼には理解できないだろう。「理解できなヒト」に理解させることは不可能である。「理解することが不可能であるヒト」に理解させることは不可能である。ふむ、同義反復的真理。

《彼》の状況を知った時に《私》の感覚が想起される、というのは一種の錯覚である、か?

  1. 《私》の感覚」の想起であるが、同時に、「《彼》の状況を知ったことによって生じた《私》の感覚」であることも自覚するであろう。
  2. 錯覚であることを自覚しながら感じる錯覚は、錯覚であるか?
  3. 自己言及的錯覚。錯覚が錯覚するのではない。
  4. 《私》《状況》であると信じれば錯覚。《他者》の感覚であると信じれば錯覚。

だれかの外見と身振りに強く表現された悲嘆と歓喜は、ただちに観察者に、ある程度の、類似の苦痛なあるいは快適な情動をひきおこす。笑顔は、それを見るそんな人にとっても愉快な対象であって、他方で悲哀にみちた顔つきがゆううつな対象であるのと同様である。(p.29)しかしながら・・若干の情念は、・・なにがそれらを生じさせたかをわれわれが熟知するまでは、むしろそれらにたいする不快や怒りをわれわれにもたせる。怒った人の狂暴なふるまいは、われわれをかれの敵にたいして立腹させるよりも、かれ自身にたいして立腹させる可能性のほうが大きい。(p.29)

  1. 即自的な感情は見ただけで共感できるが、対他的な感情は、何に対する感情であるかを知らなければ共感できない。

下巻

p.225:判断する能力・・をプラトンは・・真偽を判断する能力だけでなく、欲望と意向の適宜性と不適宜性を判断する能力をも、ふくめたのである。

  1. 《知った思いこみ》の判断能力と、《求める思いこみ》の判断能力。

p.227:情念のこれらふたつの階層(魂の激しやすい部分→関係欲求と魂の肉欲的な部分→生存欲求)は、それほどわれわれを誤り導く傾向が強いとはいえ、やはり人間本性の必要な部分をみなされている。というのは、前者(関係欲求)は、われわれを諸侵害にたいして防衛するため、世間におけるわれわれの身分と尊厳とを主張するため、高貴で名誉あるものをさわれわれが目ざすようになるため、そして、おなじやり方で行為する人びとをわれわれに見分けさせるために、あたえられたものであり、後者は、《身体》の維持と諸必要をまかなうためにあたえられたものだからである。

  1. 「おなじやり方で行為する人びとをわれわれに見分けさせる」というのは、同類者認識の問題だな。民族、種族、おなじ会社、社風、おなじ家、家風。

p.227:魂の激しやすい部分の諸情念が、一定の程度で力強さと不動性をもち、そのためにそれらが、理性の指導のもとに、名誉であり高貴であるものの追求にあたってあらゆる危険を軽蔑することができるようになったばあい、それは、不動性と度量という徳を構成した。

  1. 靖国精神にはこういう部分がある。「理性の指導」というのが、個体的な理性の指導という要素はない。集団的な理性に指導されていた、と言えるかは、疑問だったりする。
  2. 名誉であり高貴であるもの、というのは、その《ヒトの群れ》において称えられるものであれば、名誉なのだ。戦死が称えられれば、戦死が名誉になる。誉められれば、名誉なのだ。第三者の行為を誉めれば、それを聞いた者は、その行為をしたときに、誉れを感じるようになる。(カーマスートラにも書いてあったな、だんなを操る方法として)。

p.228:快楽への愛が、われわれが否認するものごとをおこなうように促すとき、われわれはしばしば自分たちに対して立腹し、われわれはしばしば自分たちの憤慨と義憤の対象になるのであって、われわれの本性のうちの激しやすい部分は、このようにして、肉欲的なものにたいして理性的なものを助けるためによびだされるのだと、のべられたのである。

  1. 目的と現象の関係に、逆転している部分が感じられる。
  2. 「われわれが否認する」というのは理性的判断において「否認する」という判断を下すということだろう。或る《求める思いこみ》が、別の《求める思いこみ》を否認するのだろう。《求める思いこみ》のアンビバレンツな関係。
  3. 関係欲求のほうが生存欲求よりも優位にあるという、関係欲求の傲慢だろう。
  4. 「理性的なもの」が関係欲求とイコールになっていることにも注意。理性は、《群有思いこみ》なのだ。共同幻想なのだ。コトバ《群れ》で共有している、ということが理性の前提となっている。

p.229:注意しておかなければならないのは、ギリシャ語で正義を表すことばがいくつかのちがった意味をもっていること、そして、他のすべての言語においてそれに対応することばが、私が知っているかぎり、おなじくさまざまな意味をもっているので、それらの多様な意味のあいだには、ある自然的親近性があるにちがいないことである。

  1. 暴力の口実としての「正義」だけが正義ではない。むしろ日本語の「道理」にあたるよなものか?

p.231:この最後の意味においては、正義とよばれるものは、行動およびふるまいの正確で完全な適宜性と同じことを意味するのであり・・すべての徳の・・職務をも包含する。

  1. 道理に叶った行動、が正義である、という筋。

p.233:徳は、アリストテレスによれば、正しい理性にしたがった諸意向の、慣行的な中庸性にある。あらゆる個々の徳は、かれによれば、ふたつの対立的な悪徳のいわば中間の位置するのであって、それらの悪徳のうちのひとつは・・多すぎるために、不快感をあたえ、もうひとつは、少なすぎるためにそうなのである。こうして、剛毅または勇気という徳は、臆病および生意気な性急さというふたつの対立する悪徳の、中間に位置するのであって、・・節約という徳は、貪欲と浪費との中間に位置するのであって、・・度量は、傲慢という過剰と、小心という不足との中間に位置する・・。

  1. a*(1−a)の最大値。
  2. 水がなければ乾いて死んでしまうが、水が多過ぎれば溺れてしまう。酸素がなければ死んでしまうが、酸素だけのなかに放り込まれればちょっとした静電気で焼け死んでしまう。

p.285:肉体は、現在の瞬間の感動しか感じないが、それにたいして精神は、過去と未来のものも感じる。

  1. 精神は、現在の瞬間において、『過去と未来のものも感じる』と思い込むのである。《思いこみ》において精神は『過去と未来のものも感じる』。精神は《思いこみ》において超時間的な快感をもつ。《思いこみ》においては時間を越えることができる。《思いこみの世界》入り込めば、時間を越える。精神が持続的に『過去と未来のものも感じ』続けるの困難である。肉体的な快感がそうであるように。
  2. 精神は、客観的には時間の中にある。《思いこみ》への《入り込み》という主観性においては、『時間を越えた』という《思いこみの世界》入り込むことができる。

p.285:われわれが、最大の肉体的苦痛のもとにあるとき、われわれを主として苦しめるのは、現在の瞬間の受難ではなくて、苦悩をあたえる過去の記憶か、未来のもっと恐るべき恐怖かの、どちらかである。

  1. さもありなん。主として、精神的苦痛なのである。純粋な肉体的苦痛は、取り去ることができない。取り去ることができない苦痛は、甘受するほかない。精神的苦痛は、取り去ることができる。《思いこみ》だからだ。精神的苦痛は《思いこみ》の苦痛である。

p.286:われわれが最大の快楽を享受するとき、・・肉体的感動、現在の瞬間の感動が、われわれの幸福の小さな部分をなすにすぎないこと、・・その楽しみの特別に最大の部分を精神がつねに提供する。

  1. 最大の幸福を得たいがゆえに、精神に固執し、《思いこみ》を尊重し、それゆえに、最大の不幸も負わなければならなくなる、ということ。楽しみにおいては《思いこみ》に固執して最大の楽しみを享受し、苦しみにおいては《思いこみ》の固執せずに最少の純粋の身体的苦しみだけに止める、という都合の良いことは可能か?
  2. 心頭滅却すれば火もまた涼し、という分けにはいかない。火は熱いのだ。火に焼かれそうなときには逃げるべきなのだ。まあ、絶体絶命で、逃げることが不可能であるときには、身体的な苦しみだけに止めることができるだろ。しかし、涼しいわけではない。身体的な最小限の苦しみだとしても、熱いものは熱い。

p.287:われわれが存在するときには、死は存在せず、そして死が存在するときには、われわれは存在しない。したがって、死はわれわれにとってなにものでもありえない。

  1. そうともいえるね。

p.289:その国の安全のなかに、われわれ自身の安全が必然的にふくまれている。

  1. そうである。が、そうでない場合もある。悪しき国は、われわれの安全を害する。

p.291:われわれの肉体的な安楽と安全・・が・・他の人びとのなかにかきたてる諸感情は・・情念にみちた欲求または憎悪の対象である。

  1. 計算ずくの行動は嫌われる。愚直な行動は好まれる。とはいえ、愚直な行動も、身体的な安楽と安全の計算に基づいている。われわれの行動を、われわれ自身が客観的に見れば、身体的な快楽に行き着かざるをえない。
  2. それを他者がどう評価するか。愚直な善人を好意的に迎える、というのは、或る意味では騙されている、ということであり、『心地よいウソ』を信じるということでもある。

p.297:徳が愛にあるとする体系。

  1. キリストを模倣したい、という欲求。
  2. 無欲な愛を尊重する、そのように見えるヒトを賞賛する。名誉。
  3. しかし、ウソじゃん。『心地よいウソ』であり、騙されることじゃん。十分に、騙されまくるのだ。
  4. 無欲なヒトに、多くの金銭を寄付したくなる、とするから、多くのヒトは無欲を取り繕う。強欲なものほど無欲を演じることになる。最初は無欲でも、最後には無欲を演じる強欲になる。
  5. キリストに似ていることを誉める《ヒトの群れ》における、名誉なのだ。
  6. 無欲な奴隷ほど、ご主人様にとって、都合の良いものはない。

p.305:自愛心は、いかなる程度においても、いかなる方向においても、有徳では決してありえない原理であった。

  1. まあ、たぶん、アダム・スミスだから、あとで、自愛心でもよいのだよ、というのだろう。そうでなければ資本主義は成り立たない。
  2. 利己主義を非難する傾向・・。はある。非難されている「利己主義」は利己主義ではなく「偏狭な利己主義」というべきものだろう。仁愛が利己主義の行き着く先の一つである。

p.307:倹約、勤勉、分別、注意、思考集中という諸慣行は、自己利害関心的な諸動機から育成されるものと、一般に想定されているし、そして同時に、各人の尊重と明確な是認とにあたいする、ひじょうに賞賛すべき諸資質だと、理解されている。

  1. まあ、しかり。

p.318:人がそうするようにみえるときにはいつでも、われわれは、かれがわれわれをだましていること、・・利己的動機から行為していることを、確信していいのである。

  1. 利己的動機から行為することが「だまし」であると見るのは、「利己的動機がない」と信じた場合だけだろう。他者の行為に「利己的動機がない」と信じるほうがバカなのだ。
  2. なぜ、人は、他者の行為に「利己的動機がない」と信じるのだろうか? 神さまには利己的動機がないから、キリストさまには利己的動機がないから、天皇様には利己的動機がないから、と信じているからだろうか? 神さまには神さまの利己的動機があるのだ。

p.318:虚栄は、もっとも強いもののひとつであり、かれはつねに、かれの周囲の人びとの喝采によって、容易におだてられ、おお喜びさせられる。かれが、彼自身の利害関係をかれの仲間たちのそれのために犠牲にするようにみえるときは、かれはこの行動が彼らの自愛心にとって、高度に快適なものであろうこと、そしてかれはまちがいなく、かれにたいしてもっとも法外な賞賛をさずけることによって、彼らの満足を表現するであろうことを、知っているのである。

  1. 虚栄・・。関係的満足、名誉心。虚なのか? 誉められることは誉れである。
  2. 虚栄を非難するのは、誉められるべきことをするからではないだろう。動機が利己的であるからでもないだろう。偏狭な利己主義という問題かもしれない。
  3. 誉められたい、という気持ちは分かるが、おべっか的な誉めコトバに反応してしまう、という偏狭さが問題なのだろう。本当に賞賛すべき行為として誉められる行為をするときに、誉められたい、という利己的欲求があることには何の問題もないだろう。

p.319:人道的な徳は、おだてが誇りと野合したことからできた子孫にすぎない。

  1. しかり。しかし、問題は、それを非難する必要はなく、そういうものだと受け入れればよいことだ。そして、問題は、人びとが、それを非難しがちであり、さらに、徳と悪徳との区別がない、という結論を導き出してしまうことだ。
  2. 誉れ(ほまれ)は、誉められ(ほめられ)である。
  3. 滅私奉公主義は、キリスト教の仁愛主義の流れだろう。もともとの、日本精神はそんな偏狭なものではない。もっと、おおらかなものだ。

p.322:他方は、反対に、けっして満足させられることがなく、われわれがかれを、かれが欲求するほどにおおく尊重しないという猜疑と疑惑にみちている。なぜならかれは、かれがあたいする以上を欲求しているのだという、あるひそかな意識をもっているからである。儀礼の最少の無視でさえ、致命的な侮辱であり、もっとも断固とした軽蔑の表現であると、かれはみなす。かれは落ち着きがなく、忍耐力がなく、たえず、われわれがかれにたいするすべての尊敬を失ってしまったのではないかと恐れ、そしてこの理由でつねに、尊重の新しい表現をえようと気づかい、たえず世話と追従を受けていなければ我慢できないのである。

  1. ネットウヨの性格と似ている。
  2. これは、虚栄についての説明なのだが、むしろ、情緒不安定、他者からの評価に押しつぶされた人格、コアになる人間像を確立していない人の記述のように見える。
  3. 自尊心を尊重された経験のない人。評価されるというのは自尊心を尊重されない、ということなのだよね。人格として尊重されたのではなく、外見や能力で評価されたということ。能力を評価するというのは、人格を尊重することではなく、むしろ、人格を軽視することに繋がる。能力を通じて、その能力を獲得する努力をしたという人格として評価するのであれば、人格を尊重したことになる(?)。努力が人格なのか?
  4. 虚栄は病気だ。妄想癖にちかい。理解力の不足であり、偏狭さ=視野の狭さ=の帰結だ。IQの低いB層。猿より愚かなのか。猿と操り人形の中間くらいのIQ。
  5. 虚栄が非難されるのは、かれが、不当に高い報酬(賞賛)を要求している、ということにある。賞賛される必要がない行為に対して、その対価として、不相当な賞賛を要求している、ということにある。
  6. 賞賛を求める欲求(8.承認欲求)には種族維持的価値がある。過大な賞賛欲求は病気である。中庸と極端。承認欲求は関係欲求であり、それを十分に満たすことにより、成長欲求に昇華されなければならない。

p.325:人類は、かれの性格と行動についての虚偽の見解から、かれを軽蔑し憎悪する。もしかれらが、かれをもっとよく知るならば、かれらはかれを尊重し愛するだろう。適切にいえば、かれらが憎悪し軽蔑するのは、かれではなくて、かれらがかれをそうだと誤解しているべつの人なのである

  1. 追従ザルハグレ猿か・・。
  2. 追従ザルは、べつに不適格猿ではない。一定の合理性がある行動様式だ。

p.325:人間の徳の不完全さ・・あらゆるばあいにはそれは、それがそうだと称するあの完全は自己否定には到達せず・・。

  1. キリストや天皇が「完全な無私」を演じること、そのように伝えられること。その『完全さ』に対して国民や信徒が自らの不完全性を感じ取り、『完全なるモノ』を崇拝すること。虚偽の『完全さ』による欺罔と崇拝。イデアによる欺罔と崇拝。あり得ないモノをあり得るモノと誤信させることによる欺罔と崇拝。

p.326:詭弁は・・言語のあいまいさにみちている。

  1. 過剰、過小の程度に注目して非難する概念と、程度にかかわらず使用される概念とがある。

p.330:旅行者がわれわれに、どこか遠い国の説明をするばあい、かれはわれわれの信じやすさに乗じて、もっとも根拠のない背理的な虚構を、もっとも確実な事実として、おしつけるかもしれない。

  1. マスゴミ、マスコミというのは、これをやっているのだよな。

p.331:ある人物が、われわれ自身の近隣でおこることについて・・われわれに知らせるというときは、もしわれわれがたいへん不注意で、ものごとを自分自身の目で検査しないというほどであれば、このばあいもまたかれは多くの点でわれわれを欺くかもしれない。

  1. ・・とはいえ、なんらかの真理との類似性があるはずだ、と続く。
  2. これ(「不注意さ」「自身の目で検査しない」)は、大衆の側の、欺罔と崇拝の原因。「われわれの信じやすさ」というのも大衆の側の原因

p.333:自愛心、理性、感情が。明確な是認の原理(快/不快、善/悪、賞賛/非難)似対してわりあてられてきた。三つのちがった源泉なのである。

  1. 「是認の原理」というコトバで「快/不快」、「善/悪」、「賞賛/非難」等々のさまざまな場面での類似の対立を統括的に表現するという方法。
  2. 「是非」「是認」「否認」というのは理性的判断に使われる概念だな・・。「是非善悪」
  3. 「心神喪失」とは「ものごとの是非善悪を理解する能力がなく、またはこの理解に従って行動する能力を欠く状態」を指すとされ・・って、ネットウヨのこと?
  4. 進化価値進化において、生き残り、子孫への再生に偶然であれ、必然であれ、確率論的であれ、結果において効果を有するが故に、それが価値あるモノとされたような価値

p.339:同感は・・利己的な原理とはみなされえない。・・ p.340:(事情の交換、身柄と性格の交換による)私の悲嘆は、完全にあなたの理由にもとづくものであって、いささかでも私自身の理由にもとづくものではない。したがってそれは、いささかも利己的ではない。

  1. そんなことはないでしょう。同感することは、同感するものの個体の利益に繋がるのだ。進化的利益、進化価値。同感は《ヒトの群れ》を構成・維持するための仕組みの一環だからだ。個体が《ヒトの群れ》から利益を得、それを維持・構成しようとするなら、《他者》への共感は必要なモノなのだ。
  2. 「六版で、文末に疑問符がつけられる」という注がある。アダム・スミスも疑問に思ったようだ。

p.340:同感は、主要当事者との想像上の境遇の交換から生じる。

  1. 相手に身になって考える、って、できないよなあ・・。
  2. 相手の身になって考えると、『はやく悟りをひらけよ、はやく悟りを開かねば』と考えてしまうから、全然、慰めのコトバが出てこない。「村に出て死者の出たことのない家から芥子粒をもらってこい」となってしまう。
  3. http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html
    1. キサー・ゴータミーは希望に燃え、死んだ赤ん坊を抱いて、仏陀が滞在していた郊外の森へと急いだ。そして同じように訴えた。ところで仏陀の答えは以外であった。「それはいかにもお気の毒だから、わたくしが赤ん坊を生き返らせてあげよう。・・・村へ帰って、芥子のみを二、三粒もらってきなさい。」芥子の実はインドの農家ならどこにでもある。その実を使い、何かの魔術によって死者が生き返るのであろう。そう思って、キサー・ゴータミーが走り去ろうとするとき、その背後から仏陀が声をかけた。「ただし、その芥子粒は、いままで死者を出したことのない家からもらってこなければならない。」
  4. カウンセラーが、ただただ話を聞いて、彼自身のなかで解決するのを待つ、というのは同感なのだろうか? 境遇を意識化する、すると、心理的な問題は、自然に解決する、という経験をカウンセラー自身がもつ。それゆえに、心理的な問題を抱えるひとの話を聞くというのは、その人の境遇を交換することであり、その境遇の中で、自らが自然に解決するのを待つ、という体験を、彼にも体験してもらう、ということ。

p.340:事情を交換するだけではなく、身柄と性格を交換するのである。

p.343:いとうべき学説(ホッブズの服従一元論)を論破する・・すべての法律またはじっしょう実定的な制度に先行して、精神は生まれながらに、一定の諸行為を諸意向の中に、正しくほむべく有徳な諸資質を、他の諸行為と諸意向の中に、邪悪で非難すべく悪徳な諸資質を、識別する能力をさずけられている。

  1. 是非善悪などの事理識別能力を「行為能力」という。
  2. 進化的能力だろう。進化価値としての善悪。イデアが先行して、判断があるのか、カオス的な判断機構が先行し、その結果としての判断が先行して、イデアが整理されるのか。
  3. 仮に進化的『善悪イデア』を想定するとしても、その論理は、理性的な単純な論理(三段論法的な直線的に結論を導けるような論理)に基づくものではないだろう。多様な状況の多様な要素を考慮し、多様な選択肢とその結果を考慮し、直感的にひとつの結論を導くような(もしくは、ひとつの結論に至らないジレンマを導くような)判断機構であろう。

p.343:法律が、それらの区別の本源的な源泉ではありえない。

  1. イデア的な『善悪イデア』もね。

p.345:徳と悪徳の本質が、ある上位者による法律にたいする、人間の諸行為の一致または不一致にあるのではなく、理性に対するそれらの一致または不一致にある。

  1. 「理性に対する一致」といっても、何も言ったことにはならないだろう。「理性」って何ね?
  2. 理性ってのは、自愛性を実現するための自覚的機構のことだろう。

p.346:われわれはひじょうに多様な個別的事例の中に、われわれの道徳的諸能力を愉快にしたり不快にしたりするもの、これらの能力が是認したり否認したりするものを観察し、そして、この経験からの帰納によって、われわれはそれらの一般的諸規則を樹立するのである。だが、帰納はつねに、理性の諸操作のひとつとみなされる。したがって、理性からわれわれは、それらの一般諸行為原則と諸観念のすべてをひきだす。

  1. 判断機構の判断の結果を一般化するのは理性である、がそれは判断機構とはおなじではない。カオス的判断機構の結果を整理して一般化するのは理性であろう。
  2. 一般化された規範によって、カオス的判断機構が制御されるべきである、というのはひとつの進化価値だろう。不安定な判断を安定化させ、ひとつの事態に対する判断を、他の事態にたいする判断との比較対照において安定化させることは、その事態に対する判断を適正なものに導くだろう。これは、進化価値を有する。理性的なフィードバック機構をカオス的な善悪判断機構に加えること、には進化価値がある。しかし、そのことはもちろん、善悪判断機構が理性的な機構である、ということにはならない。
  3. アダム・スミスの文体は肌にあう。前段を読んで疑問に思ったことが次の段を読むと、ちゃんと書いてある。

p.348:もし徳がそれ自体として欲求されるものであり、もし悪徳がおなじようにして嫌悪の対象であるならば、それらのちがった資質を本源的に区別するのは、理性ではありえず、直接の感覚の気分である。

  1. たけ(tk)は、ここら辺までいって、行き詰まってしまったのだよな。アダム・スミスは、何といっているのか?

p.350:ハチスン博士の「道徳感覚(モラル・センス)」・・われわれが・・外的諸感覚(で)・・音、味、におい、色・・(を感じるのと同様に)、愛すべきといとうべき、有徳と悪徳、正と邪(を道徳感覚によって感じる)。

  1. まあ、そういう説明でも、良いけどね。最終的な善悪判断は、何らかの感覚によってもたらされる。善悪感覚を感じる部分を善悪感覚器官と読んでもよいだろう。たぶん、脳の中には、そのようなニューロン機構が在るだろう。というか、認識情報から行動決定情報への変換部分のことだ。存在情報から当為情報への変換機構。

p.353:(感覚によって認知された)これらの資質は、これらの能力の諸対象に属しているのであって、諸能力自体にではない。

  1. 現代では、三原色は人間の3種類の視覚細胞に対応している、ということが分かっているのだよ。アダム・スミスくん。

p.354:ある傲慢な圧政者が命令した野蛮で不相当な処刑について、だれかが感嘆と喝采をもって叫んでいるのを、もしわれわれが見たならば、・・しばらくは受難者への同感を忘れ、そのようないまわしい人でなしのことを考えて恐怖と嫌悪のほかにはなにも感じないだろう。

  1. われわれはかれを、その圧政者以上にさえきらうだろう。圧政者は、猜疑、恐怖、憤慨のつよい諸情念によってなやまされるかもしれす、その理由でかれよりも許し得るのである。
  2. ところが、その観察者の諸感情は、まったく理由も動機もないものにみえるだろうし、したがってきわめて完全無欠に嫌悪すべきものにみえるだろう。
  3. 付和雷同者に対する激しい嫌悪。『理解できない』人びと。『理解したくない』人びと。たぶん、『理解したくない』という《求める思いこみ》があるのだろう。抑圧移譲の原理とか、ストレスとか、・・で理解可能なのだろう。追従ザルを『理解したくない』という《求める思いこみ》。偏狭な人びとを『理解したくない』という《求める思いこみ》。偏狭な人びとは追従ザルと操り人形の間に在る。
  4. 「われわれの心が、はいりこむのをいやがったり、憎悪と義憤をもって拒否する点で、この種のものにまさるものはないであろう」。アダム・スミスの分析もおなじでした。
  5. 「われわれはそれをむしろ、道徳的堕落のまったく最終のもっとも恐るべき段階とみなす」
  6. 道徳的堕落の最終段階が弱い者いじめの感覚である。
  7. とはいえ、弱い者いじめを好むのは、彼自身が十分いじめられており、他に出口がない状態に追い込まれている場合なのだ。

p.356:かれらの道徳的諸感情の粗雑さのために、不快なのである。

  1. 他者のモラルセンスの粗雑さが彼への嫌悪に繋がる。

p.357:男にたいする怒りは、疑いなく、女にたいする怒りとはちがうし、子どもにたいする怒りともちがう。

  1. うむ。何ででしょ? 女房も、同じようなことを言っている。怒る主体が異なっていても怒りの内容・形は同じ(?)だが、怒る客体が異なっていれば、怒りの客体が異なると、怒りの内容・形は異なる。
  2. たぶん、怒りを客体にぶつけた結果の反応の予測が異なる、ということが、怒りの内容・形を変化させるのだろう。
  3. 最近の男の子はひ弱だから、女に対する怒り以上に気を使うね・・。まあ、子どもに対する怒りに近いか・・。まあ、怒りの表れは、相手次第ということ。
  4. 感情は相手に対する同感によって生じるから、相手が違えば感情も違う、という理論らしい。

p.362:われわれがなにかの性格または行為を是認するとき、われわれが感じる諸感情は、四つの源泉からひきだされるのであって、それらは、いくつかの点が相互に違っている。

    1. 第一に、われわれは、行為者の諸動機に同感する。
    2. 第二に、われわれは、かれの諸行為から恩恵をうける人びとの感謝にはいりこむ。
    3. 第三にわれわれは、かれの行動が、それらふたつの同感が一般にはたらくさいの一般的諸規則に、一致していたことを観察する。
    4. そしていちばんあとに、われわれがそういう諸行為を、個人または社会の幸福を促進する傾向をもつふるまいの一体系の一部をなすものとみなすとき、・・
  1. 動機、結果、義、仁。

西洋の学者は、科学的思考によって生ずべき、善悪に対する疑問について、議論を重ねた上で、科学的な分析に入っていたのだ。われわれ日本人は、それを経ないで、科学的な分析の成果だけを取り入れた。その結果、(特に知識人層に)善悪に対する判断に混乱と無分別が生じてしまった。ということだろう。われわれは、日本の知識人層に「道徳的諸感情の粗雑さ」や、ときには「道徳的堕落のまったく最終のもっとも恐るべき段階」を見いだす。まあ、西洋の学者も、現代においては同様かもしれない。

p.372:力ずくでとりたてても正当でありうるものはなにか。

  1. これが「法の正義」の問題であり、「権力の正義」の問題。

p.386:交際の大きな喜び、そして、社会のそれもまたたしかに、諸感情および諸意見の一定の対応から、諸精神の一定の調和から、生じるのであって、それは、相互に一致し調子をあわせる、ひじょうにおおくの楽器のようなものである。けれども、このきわめて喜ばしい調和は、諸感情諸意見の自由な交換がなければ、達成されない。

  1. p.395:ふるまいと適宜性のみごとさを構成するものは、あらゆるばあいに、境遇の最少の変化によってさえ変化するのである。
  2. 複数の演奏者の共演による音楽の演奏のようなもの。具体的状況における善は諸々の欲求、目的の調和であって、心地よい音楽のようなもの。
  3. 《ヒトの群れ》における快を享受するためには、《ヒトの群れ》に参加する諸々の《群れの中の個体》間の個体間循環についての法則性を観察しなければならない。

p.386:われわれに寛大な人、われわれを自分の胸中に招き入れる人、いわば、自分の胸の門をわれわれにたいして開いておいてくれる人は、ほかのどんなものよりも喜ばしい一種のもてなしをしているように思われる。

  1. 《私》から《他者》への《思いこみ》の伝達は、喜ばしい。

p.386:(われわれは、他者に)そこにほんとうに存在する諸感情諸意向を観察したい、と欲求する。

  1. 《他者》から《私》への《思いこみ》の伝達、は喜ばしい。
  2. 《私》の『他者の胸中』に関する《知った思いこみ》を得たいとする欲求、はトラブルの元になりやすい。

p.395:(ハウツー的な事例集)のなかに収集された事例が多数であるにもかかわらず可能な事情のさらに大きな多様性のために、(自分が置かれている状況への対応を検討するために必要な)考察の対象となっているものと厳密に一致するものが見いだされるとすれば、それは偶然なのだ。

  1. p.395:(ハウツー的な事例集は)寛容で高貴なものへと、われわれを活気づける傾向をもたない。
  2. 虚栄のためのハウツーにならざるをえない。ということだな。

p.369:もっと素朴な、キケロやアリストテレスなどの「そういう諸著作は、風習についての快適で生気ある絵を、われわれにしめす。それらの叙述がいきいきしているために、それらは徳にたいするわれわれの自然な愛をもえあがらせ、悪徳にたいする忌避を増大させるし、それらの観察の繊細さとともに正しさによって、それらはしばしば、行動の適宜性にかんするわれわれの自然な諸感情の、訂正と確定との双方を助けることもできるし、かつ、多くの柔軟で繊細な注意を示唆して、・・厳密に正しいふるまいへと、われわれを形成することができる」

  1. 要するに、彼らは言語による区別による体系化の愚を知っているが故に、あえて、非体系的と思われるような記述によって、方向性を示すことがベストである、という視点で記述している、ということだろう。
  2. p.396:古代の道徳論者たちが、同じ諸問題をとりあつかうさいに、なにもそのようにみごとな厳密さをよそおわず、正義、抑制、真実性の基礎となる感情はなにか、それらの徳が普通にわれわれを促す、行為の通常のやり方は何かということの、一般的な様式による叙述で満足したのは、はるかにすぐれた判断をしたようにみえる。

p.397:実定法の各体系は、自然法学の体系にむかっての、あるいは、正義の個別的諸規則の列挙にむかっての、多かれ少なかれ不完全な試みとみなしていい。

下、p.26:生活行政の完成、商工業の拡張は、高貴で壮大な目的である。

  1. 靖国教国の「高貴で壮大な目的」はこれとは異なる。富国強兵忠魂精神の完成である。そこには、生活行政の完成は出てこない。せいぜい、強兵のための手段として出てくるだけである。

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Last modified:2006/11/29 00:23:18
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