FrontPage  Index  Search  Changes  wikifarm  Login

『哲学的直観』

引用文献『哲学的直観』

書籍

『思想と動くもの』(ベルグソン、岩波文庫、青、645-4)の『哲学的直観』

読書会

直観が「説明」を与えるには・・、p.168

  1. 直観》を説明する必要があるのか? 「直観」というコトバが指し示しているモノ、で十分ではないのか?
  2. 直観」というコトバが指し示しているモノ、という説明で分かるヒトには分かる、分からないヒトには分からない。そういうモノだろう。自ら《直観》を発見したヒトには分かる、自らの《直観》を発見したことのないヒトには分からない。

具体的な直観の単純とそれを翻訳する抽象概念の複雑との中間にあるイメージ、p.168

  1. 直観」というコトバが指し示しているモノ、のイメージについて述べてみるのも、必要なことだろう。たしかに・・。

世のなかで認められている思想や、明白と思われていた説や、それまでは科学的に通用していた主張を前にして直観は哲学者の耳に「不可能だ」という言葉を囁(ささや)きます。p.169

  1. ふむ。たしかに。
  2. これは、コトバに対する、コトバの記述能力の限界への指摘だろう。コトバ《モノの世界》を記述するのは「不可能だ」。
  3. といっても、もともと、コトバモノを指し示す、だけなのだから、コトバに、モノへの指し示し以上の能力を求めなければ、そのような不信感の表明は不要だろう。
  4. 問題は、人々が、コトバに対して、モノへの指し示し、という能力以上のことを期待している、ということにある。

否定のこの直観的な能力というものは不思議な力であります。p.169

  1. イデア実在論的な幻影の世界に住んでいるヒトにとってば、不思議な力なのだろう。
  2. イデア実在論的世界の中に《直観》というモノが現れると、イデア実在論的な世界を「否定」する力を持ったモノとして《直観》というモノが現れる、ということ。

新しいものを理解させるためには、どうしてもそれを古いものに懸けて言い表さなければなりません。p.171

  1. 直観は、古いものであり、誰でも知っているのに、知らないと思っているヒトが多い、ということ。
  2. 「新しいもの」というのは、知らないと思いこんでいるヒトにとっては、新しい、ということ。
  3. 「理解」とは、どういうことかも問題。イデア実在論の世界に住んでいるヒトにとって、「理解」とは、そのイデア世界に新しいイデアを追加し、そのイデアと、他のイデアとのあいだで矛盾がないように共存できるようになることを意味する。しかしそもそも、《直観》は、イデアならざるモノなのだが・・。イデアならざるモノイデアイデアを否定し・破壊するイデア、を、イデア実在論的世界の住人が、受け入れるとは思えないのだが・・。まあ、そういうイデアを提出してみるのも面白い。

物質は哲学者がこれを問題にしないうちは透明なままであって、その際、神の姿が透けて見えるのです。p.183 実体とか力とか抽象的な「拡がり」などというような言葉が・・透かして神を見るのを妨げるからです。

  1. 物質は哲学者がこれを問題にしないうちは透明なままであって、その際、そのモノ《アニマ》が透けて見えるのです。となるな。《健常者》にはモノ《アニマ》が見えている。
  2. まあ、汎神論と《アニミズム》とは同じようなものだ。

われわれにはこの直観そのものを把握することができるでしょうか。p.184

  1. 格物? モノに至る、モノそのものに至る。
  2. モノに至る、というのは、イデア実在論を放棄する、ということか? それとも、イデア実在論の中で「モノに至る」というイデアを獲得しようとすることか?

体系をそれの出た直観の方へ引き締めるにはイメージによるのであります。p.184

  1. イメージは危険だろう。
  2. 聞慧・思慧・修慧。仏に逢うては仏を殺せ。《他者》から受け取ったコトバを理解し、イメージを得るのは、自らの眼で見ることを妨害する。

学説の中では拡がりとして与えられているすべてが緊張として集中する点までのぼるとしましょう。そうするとわれわれは今度は、普通近づくことのできないこの力の中心から、はずみ(エラン)を与える衝動すなわち直観そのものが出てくるぐあいを思い浮かべることができます。p.186

  1. 緊張のきわみ、精神集中という方法。
  2. たけ(tk)の方法は弛緩のきわみ、《混濁》という方法。というか、もともとは、「緊張のきわみ、精神集中という方法」だったのだ、それが破綻したので、「弛緩のきわみ、《混濁》という方法」に転向したのだ。
  3. 直観そのものが出てくるぐあいを思い浮かべる」というのは、「《他者》直観」をイメージとして、《知った思いこみ》として、知るということだ。「《他者》直観への《知った思いこみ》」は「《私》直観」ではない。「《私》直観」を「《私》直観」によって知ることではない。「《他者》直観への《知った思いこみ》による知」は「《私》直観への《知った思いこみ》による知」に繋がるであろう。しかし、それは「《知った思いこみ》による知」であって、「直観による知」ではない。
  4. 《知った思いこみ》への《知った思いこみ》による知」→「直観による知への《知った思いこみ》による知」→「直観による知への直観による知」というように、変化していくことができるのか?

あらゆる思想のはたらきの特徴となる動きは、・・細分化し・・面に拡がり、ついには言葉の面に到達する・・。思想は・・前からある要素の群れによって表現されますが、その選ぶいくつかの最初の要素は、その群れのほかの要素がその補完物になりさえすれば、それらをほとんど任意に選ぶことができます。p.187

  1. 多次元輪郭空間》の《視点》だな・・。《混濁》は、ほとんど任意のノイズによって、多様に分離される。

そこに到達した時、哲学者の精神の働きにこうして引きこまれた観念は、単語がその意味を文句から受け取るように新しい生命を得るので、その旋風の外にあった時とは別のものとなります。

  1. 記号としては同じなのに、意味が異なる使い方で、コトバを語ると言うのは、ほとんど詐欺だろう。誤解を生むだけ。主観的体験の不可伝達性。

Last modified:2006/06/05 00:56:09
Keyword(s):
References: