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『哲学の根本的問い』

引用文献『哲学の根本的問い』

定義

『哲学の根本的問い』ハイデッガー、創文社、ISBN4-423-19614-x C3310 \4800E

読書会

p.5:来たるべき哲学と、原有への連繋の根本的気分としての謙虚

  1. 来たるべき《見通し》と、この《肉の塊》《モノの世界》《繋がり》への《見通し》をもたらす根本的気分としての謙虚
  2. 《見通しのサル》への進化への道。
  3. 《繋がり》には《見通し》と《共感》・《共振》とを含む。

p.5:哲学がなんであるかは、根本的問いを問うことを通じて始めて規定される。

  1. 真理を破壊することが哲学である。哲学を破壊することが哲学である。ブッダにあったらブッダを殺すことが哲学である。自灯明をたよって、自灯明の源泉を問うことが哲学である。
  2. 《思いこみ》としての哲学を破壊することが、《見通し》としての哲学を獲得する道である
  3. 《知りつつあるモノ》《モノの世界》との《繋がり》を観察すること。

p.6:いずれの有るものにも先立って原有が現成する

  1. 「有るもの」を《思いこみ》とするなら、「原有」はモノであり、モノの総体としての《宇宙史》であろう。
  2. 「有るもの」をモノとして、「原有」をイデア的なニュアンスで捉えるなら、おかしな話になる。
  3. 「有るもの」をモノとして、「原有」を《宇宙史》として捉えるなら、どうか?
  4. 「原有」を「最も遠いこと」と言っているようでもある。「原有」は「Seyn」の訳語。
  5. 「有るもの」は「Seiende」。「現存在」「現有」は「Dasein」、「存在」「有」は「Sein」。
  6. 日本語に訳せよ、バカ。
  7. 『有るもの』という《思いこみ》(Seiende、『有る』と思い込まれたもの)に先立って《モノの世界》(Dasein、原有、ただそこにあるもの)がある。
  8. 《モノの世界》がアプリオリに存在する、ということ。

p.6:このような連繋の中で原有の本質の伏蔵態が最も問いに値するものとなる

  1. 伏蔵態(verborgenheit)は、《思いこみ》イデアによって《モノの世界》が見えなくなっている、ということを意味する。「無明」に近い概念。
  2. あるいは、アリストテレスの、「離存性」。《思いこみ》モノを指し示すが、《思いこみ》モノからは離れて存在する。モノ《思いこみ》から離れて存在する。ということ。離れて存在するので、「いずれの有るものにも先立って原有が現成するという、この《最も遠いこと》に対する畏怖」(p.6)という表現になる。
  3. 「目くらまし」。p.7「伏蔵されている哲学固有の本質」→「目くらましされている哲学固有の本質」。

p.6:もしこの権限を獲得したならば、その人はそれを行使せず沈黙するであろう。

  1. モノ《思いこみ》との離存性コトバ《思いこみ》との離存性に気がついたなら、迂闊にコトバを発することはできなくなる。コトバは、聞き手にとって《思いこみ》を語り得るとは限らず、聞き手にとってモノ(への《見通し》)を語り得るものとは限らないからだ。コトバが指し示すモノ《思いこみ》は、聞き手しだいということ。

p.7:通常の憶見や「実用的」思考の特質には、哲学を評価する場合、過大評価という仕方であれ過小評価というやり方であれ、いつも評価しそこなうということが必ず含まれている

  1. むしろ、「通常の憶見や「実用的」思考」とは何なのか、それへの《見通し》を獲得するにはどうすればよいのか、の方に興味がある。《他者の思いこみ》の問題である。
  2. 《健常者》目的的に物事を評価する。《健常者》目的は生活することである。生活するにあたって役に立つなら過大に評価し、役に立たないなら過小に評価する。

p.7:哲学とは、事物の本質についての、直接には無益であるが、それにもかかわらず統治する知である

  1. 「統治する」というのは《私》の態度のことだろう。
  2. 《モノの世界》を統治するモノ(原理)への《見通し》ということか?
  3. 「哲学」というのは「《見通し》を愛する態度」という意味だとすると、
    1. 《見通し》を愛する態度」が帰結するものは、事物の本質についての、直接には無益であるが、それにもかかわらず《モノの世界》を統治するものへの《見通し》を得ることである
  4. まあ、そういった原理、《モノの世界》を統治するモノがあるとは思えない。それを強いて見つけ出そうとすると、『モノ世界』のイデアに堕してしまうだろう。
  5. 《モノの世界》からの《思いこみ》《モノの世界》《アニマ》=にそのような「統治するモノ」があり、それへの《見通し》を得られるなら、それに越したことはないが・・。
  6. 『一切』への《見通し》を統合する《見通し》である、ということ。

p.9:原有とは、我々を取り囲んで主宰し担う有るもの、製作され管理された有るもの、これらすべての有るものの中で、最も身近で最も月並みでありながらも掴み取れないものなのである。

  1. 我々を取り囲んで或るモノ=我々の世界=には《モノの世界》《思いこみの世界》とが在る。《思いこみの世界》には『我々を主宰している世界』とか『我々の道具として管理された世界』といった、さまざまは《思いこみの世界》がある。《思いこみの世界》はその中に入り込むことによって直接に感じ取ることができる。しかし《モノの世界》はその中に入り込むというのは至難の技である。《モノの世界》《知りつつあるモノ》から常に、離れて存在する(離存性)。それゆえに、「最も身近で最も月並みでありながらも掴み取れないものなのである」。《モノの世界》は掴み取れないモノである。我々は《モノの世界》を指し示すことはできるが、掴み取ることはできない。離れて存在するモノだからである。
  2. コトバ世界《思いこみの世界》でもがいているから、「掴み取れないもの」ということになる。
  3. 「製作され管理された有るもの」が、もし、すべての「有るもの」を意味しているなら、キリスト教的な被造物という《思いこみ》だろう。
  4. 《思いこみ》コトバモノを指し示すものであり、モノから離れて存在するものなのである。《思いこみ》コトバが、モノを掴み取る、ということはあり得ないことなのである。《思いこみ》コトバは、モノを指し示すことができるだけなのである。《思いこみ》コトバモノを掴み取ろうとすること自体が、誤りなのである。不可能を要求する誤りなのである。
  5. とはいえ、《思いこみの世界》の住人が作り出した成果は尊重に値する。現代文明の原動力になった《思いこみの世界》の有用性も尊重に値する。
  6. 《モノの世界》とは、我々を取り囲んで主宰し担う有るもの、製作され管理された有るもの、これらすべての有るものの中で、最も身近で最も月並みでありながらも掴み取れないものなのである。

p.10:論理学の問題としての真理(言表の的確さ)は、真理の本質への展望をさえぎる

  1. コトバの的確さはコトバが指し示す《思いこみ》への《繋がり》の的確さである。
  2. 《思いこみ》モノへの《繋がり》の的確さを、「真理の本質」と呼んでいる。
  3. コトバ《思いこみ》モノとは、それぞれ離れて存在する。コトバ《思いこみ》を指し示し、《思いこみ》モノを指し示すことができる。おそらく、うまく処理すれば、コトバ《思いこみ》を的確に指し示し、《思いこみ》モノを的確に指し示すことができるだろう。その両者を実現できれば、コトバモノを的確に指し示すことができるようになるだろう。しかし、モノを的確に指し示している《思いこみ》を、コトバが的確に指し示す、ということが、果たして可能なのかどうか・・。「モノを的確に指し示している《思いこみ》」というのは《今・ここ》の《思いこみ》である。しかし、コトバが指し示すことができる《思いこみ》というのは《いつでも・どこでも》の《思いこみ》でしかないのではなかろうか?
  4. 論理学の問題としての真理というのは、コトバ《思いこみ》との《繋がり》の的確さでしかないから、もっと重要な《知りつつあるモノ》モノとの《繋がり》《思いこみ》モノとの《繋がり》を視野の外においてしまうことになる。それで、「真理」が分かったつもりになるのであれば、有害無益な「真理の本質への展望を遮る」モノでしかない。当然の話。

p.16:全く問いを欠いたこの世界時代においては、最も問いに値するものを問いつつ呼び起こすこととしての哲学は、不可避的に最も奇異なものとなる

  1. 科学が発展しているから、みんな、分かったつもりになっている。客観的な記述を聞くことによって、分かったつもりになっている。
  2. その時代精神のなかで、《私》は分からない、《私》には世界が分からない、と主張することは奇異なことである。

p.16:だからこそそのような哲学は、最も必須のものである。

  1. ホントかなあ??

p.16:この必須のものは、そのもっとも強力な形態を単純なもののなかに持っている。

  1. 《知りつつあるモノ》世界、という単純な構造。
  2. 《肉の塊》世界、という単純な構造。
  3. 《息しつつあるモノ》世界、という単純な構造。
  4. 《視点》世界、という単純な構造。
  5. 《極座標の原点》世界、という単純な構造。
  6. 直交座標の世界の中の《極座標の原点》という単純な構造。

p.16:哲学が最も必須とするものとは・・単純な問い、すなわち真理への問いなのである。

  1. 真理を、モノとの的確な《繋がり》を有する《思いこみ》、とするか?
  2. 真理と、直交座標の世界の中のモノとの的確な《繋がり》を有する《極座標の原点》とするか?

p.19:真理とは認識と対象との合致である。

  1. 合致と一致とが分からぬが、この場合の認識は《指し示す思いこみ》モノを指し示すことであり、《指し示す思いこみ》モノとは離れて存在し、けっして、合致することはできない。離存性
  2. もちろん、《視点》によっては合致しているように見えるような位置もあり得る。それは、《視点》《指し示す思いこみ》モノとの指し示しの延長に置いた場合である(《視点》《指し示す思いこみ》モノ)。
  3. また、指し示されるモノ《描かれつつある思いこみ》イデア)である場合には、それは《指し示す思いこみ》と同じ場所に存在することができる。しかし、《描かれつつある思いこみ》は真理とは呼ばれない。
  4. 真理とは、《モノの世界》モノを指し示す《思いこみ》であり、モノとの適確な対応関係を有する《思いこみ》である。《正しい思いこみ》である。
  5. 真理とは《正しい思いこみ》であり、《正しい思いこみ》とは事物を的確に指し示す《思いこみ》である。的確に《指し示す思いこみ》である。
  6. 「合致」というコトバからは、「《思いこみ》→事物」の指し示しだけではなく、「事物→《思いこみ》」の必然的な想起、という流れがあり得る、ということを前提にしていると思われる。しかし、それは、あり得ない、と、たけ(tk)は思う。
  7. モノからの《思いこみ》は、認識者の気分によって異なる。
  8. 認識対象が《思いこみ》である場合には、認識対象からの必然的な想起はあり得る。《思いこみ》《思いこみ》の必然的想起はあり得る。ここらへんはアリさんが既に指摘しているとおりである。
  9. モノへの《指し示す思いこみ》であっても、認識者の気分が一定であれば、そのモノからの《思いこみ》が常に一定な必然的な想起として感じられることも可能。・・そうか、それで、「謙虚な気分」(p.5)というコトバが出てくるのか。

p.20:我々が表象する際に到達するのは、常に我々によって前に立てられたものであり、従ってそれ自身一つの「表象」であるにすぎない

  1. たけ(tk)語に翻訳:我々が《指し示す思いこみ》入り込むことによって、『それに到達した』という《思いこみ》を生じるときの『それ』は、我々によって《描かれつつある思いこみ》である。
  2. たけ(tk)語に翻訳:我々が或るモノ《指し示す思いこみ》によって指し示すとき、それによって指し示されたモノへの《見通し》における『そのモノ』は、我々によって《描かれつつある思いこみ》である。
  3. 確かに《私》が見る《モノの世界》モノは、《私》《身体》の感覚器官が取得した情報を再構成したモノである。しかし、それは、進化の過程で、それをモノであると認識しても何ら不都合がない、それをモノとして扱うことに種族維持的価値があることが確認された像である。従って、それをモノとして扱うことに不都合はない。それは《身体》レベルでの情報処理の結果として、《我》に、世界として、《モノの世界》として与えられるモノである。それと「表象」とはかなり性質を異にする。
  4. 表象《描かれつつある思いこみ》である。モノとの《繋がり》において常に確認される《モノの世界》モノへの認識と、思い描いたモノへの認識とでは異なる。思い描いたモノ《身体》の内部にあるのである。
  5. 表象とひじょうに広い意味に捉えれば、もちろん、《モノの世界》モノ表象である。それは、表象というコトバの定義の問題である。
  6. モノ自体には到達しえない、というのは、アリストテレスの離存性の問題であろう。

p.33:これ(真理への問い)は、《真なるもの》を、従って・・物事やすべての有るものについて適確なものを、確定し確証することを意味する。

  1. 真理への問いは、《モノの世界》の中のモノについて、適確な《知った思いこみ》を、確定し確証することを意味する。
  2. 真理、というのは「正しいコトバ」という意味ではないのか? 「正しい《思いこみ》」という意味なのか? 「正しい《知った思いこみ》」というのがさらに正解か?
  3. 「理(ことわり)」というのは、コトバというより、《知った思いこみ》なのか。《こと》の一部=コトを割ったモノ=に適確に対応する《知った思いこみ》
  4. コトバ《知った思いこみ》と徒同一視する気にはならないが、まあ、同一視してもよい。《知った思いこみ》と適確に対応するコトバは「正しいコトバ」「《思いこみ》を正しく表現するコトバ」であろう。
  5. 真理は《知った思いこみ》に限られるか? 《求める思いこみ》《道具的な思いこみ》にも真理があるか? 当為に関する《正しい思いこみ》は、「道理」とかよばれているな。道理は、『どうすればどうなる』という事物に関する経験則と、『どうあるべきだ』という目標から成り立っている。
  6. モノとコトとはどう違うのか? コトには時間的な経緯が含まれている。瞬間的時間におけるモノ、持続的時間におけるコト、という区別か?

p.132:ギリシア人は真理の本質を根源的にアレーテイアとして、有るものの不伏蔵態として経験していた・・不伏蔵態はギリシア人にとっては疑問の余地のないものであるが・・何故にギリシア人はアレーテイアそれ自身へと問わなかったのか。

  1. 《モノの世界》アレーテイアだからだろう。
  2. 《モノの世界》コトバによって指し示すこと、コトバによって説明すること、《コトバの世界》の論理に従って描写すること。

p.140:人間は有るものの内部で、有るものに属し、直接的表面的には「生物」つまりゾーオン、アニマルとして経験されている。

  1. 「有るもの」は《肉の塊》ね。

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Last modified:2007/01/06 12:56:03
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