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『精神哲学』

引用文献『精神哲学』

定義

『精神哲学』ヘーゲル、岩波文庫

読書会

上、p.58:(本文冒頭)自分の観念態において発展する精神は認識するものとしての精神である。

翻訳:自分自身への《思い描き》世界(観念態)において発展する最初の《体内世界モノ》(精神)は《知りつつあるモノ》としての《体内世界モノ》(精神)である。

上、p.58:しかしここでは認識作用は単に論理的なものとしての理念の規定性として理解されるような認識作用ではなくて、具体的な精神が自己を規定することによって生ずるような認識作用である。

しかしここでは、《知りつつあるモノ》というのは、単に《思い描かれつつあるモノ》としての《知りつつあるモノ》ではなくて、具体的な《いま・ここ》の《身体》の内部において《知りつつあるモノ》(具体的な精神)が、その《知りつつあるモノ》自身を《思い描く》ことによって生ずるような《知りつつあるモノ》である。

上、p.58:主観的精神の発展は次の通りである。

翻訳:《内からの視点》としての《体内世界》(主観的精神)への《思い描き》の発展は次のとおりである。

上、p.58:A:主観的精神は即自的である、または直接的である。こうして主観的精神は心(Seele)または自然的精神(Naturgeist)である、すなわち人間学の対象である。

A:《内からの視点》としての《体内世界》(主観的精神)は、それ自体として単に在るものである。こうして《内からの視点》は、《私》《身体》《体内世界》(心)または、すべての人々それぞれに有する《体内世界》(自然的精神)である。

上、p.58:B:主観的精神は対自的である、または媒介的である、いいかえれば意識であって、精神の現象学の対象である。

  1. B:《内からの視点》としての《体内世界》(主観的精神)は、自分自身を《知りつつあるモノ》である。

上、p.58:C:主観的精神は自己を自己の中で規定する精神であって、主観そのもの(独立的主観)として存在し、心理学の対象である。

  1. C:《内からの視点》としての《体内世界》(主観的精神)は、自己を自己の中で思い描くモノである。

上、p.58:心においては意識が目ざめる。

身体の内部作用(心)においては《知りつつあるモノ》(意識)が目ざめる。

上、p.58:意識は自己を理性として措定する。

《知りつつあるモノ》(意識)は自己を《的確に指し示しつつあるコトバによって知りつつあるモノ》(理性)であるという《思い描き》を持つ(措定する)。

上、p.58:そして理性はただちに自己を知る理性へと目ざめ、

そして《的確に指し示しつつあるコトバによって知りつつあるモノ》(理性)はただちに自己を《的確に指し示しつつあるコトバによって知りつつあるモノ》(自己を知る理性)へと目ざめ、

上、p.58:自己を知る理性は自分の活動によって自己を客観態へ解放し、

自己を《的確に指し示しつつあるコトバによって知りつつあるモノ》は自分の活動によって自己を《コトバの世界》(客観態)へ投げ込み、

上、p.58:自分の概念の意識へ解放する。

自分を《的確に指し示しつつあるコトバ》(自分の概念)を《知りつつあるモノ》であることを知る。

上、p.59:概念一般の場合には、概念において現れる規定性は発展の進行である。

モノを的確に指し示すコトバ》(概念)において現れる《思い描き》(規定性)はどんどん変わっていくモノ(発展の進行)である。

上、p.59:ちょうどそのように、精神においてもまた、精神が自己を現わす際に取るところの各々の規定性は、発展の契機であって、

同様に、《体内世界》《内からの視点》(精神)においてもまた、《体内世界》《内からの視点》が自己を見える場所に現わしていく際に生じる各々の《思い描き》は、変わっていくものであって、

上、p.59:精神は規定が進行するにしたがって、自分の潜勢態を実現し自覚するという自分の目標へ向かって前進していく。

《体内世界》《思い描き》が変わっていくにしたがって、自分の今まで隠れていた正体を現わし、自覚するという自分の目標に向かって前進していく。

上、p.67:精神は自然の真実態として生成した。

オオ、梵我一如

翻訳:《体内世界》(精神)は自然の《モノの世界》モノとして、単に《いま・ここ》に生まれつづけている。

上、p.67:この成果は先行するものに対して真実態、そしてむしろ最初のものという意味を持っている。

《体内世界》《モノの世界》の成果ではあるが、《気づき》においては、最初のものという意味を持っている。

上、p.67:概念においては、生成または移行ということは、その上に、自由な判断といういっそう限定された意味をもっている。

《的確に指し示しつつあるコトバ》(概念)においては、コトバどうしの《繋がり》において、生まれる、移るということは、《思い描きの世界》における『自由』な判断によって限定されている。

* 「自由な判断」って、日本語の「好き勝手な判断」とはだいぶニュアンスが違うな。

* 「自由な」というのは《思いこみの世界》入り込んだ状態における、「自由な」判断、つまり、《モノの世界》の諸々の規則には拘束されない判断、《コトバの世界》の規則=論理=にのみ拘束される判断を「自由な判断」と呼んでいるようである。つまり、ここで《思いこみの世界》入り込んだのである。

* もっとも、主題は《思い描き》を完成させることである。《思い描きの世界》に入り込むのはやむを得ないのか? 《的確に指し示しつつあるコトバ》による《思い描きの世界》を記述するのが彼の目的である。

上、p.67:それ故に、生成した精神は、真でないものとして自然そのものは自己を止揚し、

それゆえに、《思い描きの世界》に生まれた『体内世界』という《思いこみ》《視点》は、『真』ではないものとして、すなわち《思いこみ》ではないものとして《モノの世界》そのものは捨て去って、

* ここでデカルト的な倒錯が始る。《思いこみの世界》への《入り込み》が始まる。

上、p.67:そして精神はこうして自分を、もはや肉体的個別性において自己の外部に存在する一般性としてではなくて、自分の具体化と全体性とのなかにあって単純な一般性として前提するという意味を持っている。そしてこのような単純な一般性においては精神は心であって、まだ精神ではない。

* 「肉体的個別性において」が「肉体的個別性からの《視点》において」なのか「肉体的個別性への《視点》において」なのかが曖昧である。「肉体的個別性からの《視点》において」であるなら《思い描き》という「一般性」が《身体》の外部にあることになり、「肉体的個別性への《視点》において」であるなら《思い描きの世界》からの《視点》において、肉体的個別性が《思い描きの世界》の外部にあることになる。

* 主文は「精神は自分を、外部に存在する一般性として前提するのではなく、単純な一般性として前提する、という意味を持っている」ということ。「前提する」なんていう日本語は在るのか? 「自分を一般性として前提する意味を持っている」って? 日本語?

* 「心(Seele)」であって、「精神(Geist)」ではない、と言われてもねぇ・・。違いが分からぬ。しかも「精神は・・精神ではない」と言われてもねぇ・・。

上、p.67:心はただそれ自身が非物質的であるばかりではなく、自然の一般的非物質性であり、自然の単純な観念的生命である。

体内感覚世界』は《思い描きの世界》の中での《思いこみ》であるからそれ自身は非物質的である。また『自然』も《思い描きの世界》の中では非物質的な《思いこみ》である。『体内感覚世界』は非物質的な《思いこみ》としての『自然』の一部である。《思い描きの世界》の中では『自然』の『生命』も非物質的であり、『体内感覚世界』はそのような『自然』の『生命』という《思いこみ》なのである。

* 「自然の一般的非物質性」が在る? と認識しているなら、正しい。虚数軸の世界、複素数の世界《複素数の時空》の中の《虚数の時空》が自然の一般的非物質性。《虚数の時空》は《背後者》の《マイナスの距離世界》。《知りつつあるモノ》を原点として世界を再構成すると現れる時空が《複素数の時空》

* しかし、そうではなくて、《思い描きの世界》に入り込んだ《視点》での『心』は《思いこみ》であるから、非物質的なのだ。自然の一般的非物質性というのも《思い描き》としての『自然』は非物質的なモノである、ということ。生命もまた、《思い描かれつつあるモノ》であるから「観念的生命」なのである。

* 電気は非物質的、エネルギーは非物質的、情報は非物質的、・・であろう。非物質的ということに、なにか意味があるのか? 電気によって生じる現象は実数軸の世界モノである。しかし、その背後に電気というモノを想定するのは、我々が『電気』という《思いこみ》重ね合わせて理解しているにすぎない。

上、p.67:心は基体(実体)であり、精神のあらゆる特殊化(分化)および個別化の絶対的基盤である。

《思い描かれつつあるモノ》としての『体内感覚世界』はイデア的実体であり、そこから分化して思い描かれるべきもの諸々のモノの唯一の基盤となる。

* ヘーゲルの言う「心」には背後者世界を含むか? ○:「潜x態」の表出、みたいなことを言っているから、《背後者》も含む。×:たぶん、含まない。

* 電気は基体(実体)であり、エネルギーは基体(実体)であり、情報は基体(実体)であり、・・であろう。基体(実体)であるということに、なにか意味があるのか?

* 《体内感覚世界》が虚数軸というのは違うだろう。単に、対外世界と異なり、手で測ることができない、また、空間定位が曖昧であるということ、また、《思いこみ》への《入り込み》によって、物質的空間性を見失ってしまう、ということに過ぎない。本当の虚数軸(非物質性)は《知りつつあるモノ》の背後にある世界においてのみである。おそらく、《背後者世界》《体内感覚世界》との混同があるのであろう。まあ、《体内世界》においては両者は一つなのであるから、混同してもかまわない。区別が在るのは《知りつつあるモノ》《知られつつある世界》《背後者世界》とを分割する場面においてのみである。・・てか、区別しているのは、たけ(tk)じゃん。てか、体内世界は物質的存在である。だから、誤り。物質的存在であるのに、認識経路が異なるので、対外世界とは違ったモノのように見えるということ。まあ、物質とは体外世界モノであるとするなら、体内世界モノは非物質的ではある(定義の問題)。

上、p.68:その結果、精神は自分の規定のあらゆる素材を心のなかにもっており、心は精神の規定に浸透している同一な観念性として残っている。しかしこのなお抽象的な規定においては心は単に精神の睡眠にすぎない、いいかえれば可能性の方からみてすべてのものであるところのアリストテレスの受動的なヌースである。

* 睡眠である、というところから考えると、「心」は《体内世界》であって、精神は覚醒すなわち《体内感覚世界》だ、と言いたいのか? ○:。×:。

上、p.78:心はこの肉体性の中で現実的心として存在する。

《体内感覚世界》は《いま・ここ》の《身体》の内部の世界として、現実的な《体内感覚世界》として存在する。

だよ。で、なんか文句あっか?

てか、「本当は心は肉体性の外部にある」という《思いこみ》が先行しているから「心の直接的存在は心の肉体性として心のなかは作り入れられ」なんぞという変な説明になっている。心が自分の肉体性を忘れているのは、単に、忘れていただけだろう。心は自分の肉体性を忘れることができる。しかし、本来、非肉体的であるわけではない。こころは物質的な存在である。物質の内部状態としての体内世界の作用が、自分の物質性を見失うことがある、と言うだけの話。

上、p.81:個別的心は、直接には、もろもろの自然規定性を自己に即して持っている・・それらの視線規定性は意識にとって自然対象である。しかし・・外面的対象に対して関係するような仕方で関係するのではない。心そのものはむしろこれらの規定をもももろもろの自然的性質として自分自身に即して持っているのである。

要するに、心は、その存在において自然なのだ。

《知りつつあるモノ》《モノの世界》の中のモノの一部である。

上、p.81:(自然的心)の自然的規定性はいわば心の観念性の背後に自由な現実存在を持っている。

翻訳:体内世界に関する《思い描き》(規定性)は「心」というコトバによって生じる『心一般』という《思い描き》(心の観念性)の背後に、実際の《いま・ここ》の体内世界という現実存在を持っている。

上、p.82:自然的生活は精神においては部分的にぼんやりとした気分となって現れるにすぎない。

自然的生活へのはっきりとした《見通し》が必要だと思うのだがな・・。

西欧のキリスト教徒たちは、自然的生活には関心を持たない、ということか。《思いこみの世界》に住んでいるから、《モノの世界》には関心を持たない。

上、p.90:自然精神の一般的な遊星的生活は自己を地球のもろもろの具体的区別へ特殊化し、そしてもろもろの特殊な自然精神にわかれる。・・人種の相違を形成する。

人種、民族の精神を実体化することには疑問がある。

そもそも、《我》の精神の現象を語るのか、《他者》《サル山のサル》の精神の現象を語るのか?

《私》《サル山のサル》の一員であるから、《サル山のサル》の傾向を、自然的特徴として持っている。・・まあね。

上、p.112:心は個体的主観への個別化される。

ふーむ。人類の諸個体の心一般の多様性から地方性の多様性とし地方性の中での多様性、さらに、集団ごとの多様性と集団の中での諸個体の多様性、というように個別化された、と見る見方。『ヒトの心』という『種類』に該当するモノたちの集合。

《他者の心》のワン・オブ・ゼムとしての《私の心》。《他者の知りつつあるモノ》のワン・オブ・ゼムとしての《私》《知りつつあるモノ》《相対者公理》《外からの視点》にすっとんでいる。《絶対者公理》からの《内からの視点》が欠けている。

上、p.119:諸区別はその個体に即しての諸変化となる。個体はこうしてこれらの変化の中にあって持続する一つの主観(主体)であり、

個体は、変化しつつ持続する統一体、時間の流れを超えて一つのモノであるようなモノである。

上、p.120:若者は・・もろもろの理想・もろもろの構想・もろもろの当為・もろもろの希望等々に適合しない現存している世界に対する緊張であり、・・世界に対して取る態度である。

ふーむ。なかなか・・。

言っていることは分かるが、それはどこに在るのか? 《他者》への観察と、自分の記憶の中にしかない。《思いこみ》の中にしかない。

《私》の過去の心への《見通し》《他者》の心への《見通し》。過去の《私》への《見通し》《他者》への見通し。《過去の私》との同一性かぁ・・。

上、p.140:心の覚醒は・・自己内にとじこもっている心の自然生活に対して現われ、一状態として他の状態すなわち睡眠に対立して現われる。

心は、《肉の塊》の中での《思いこみ》循環の総体である。もっと端的に、心は、《体内世界》である。眠った状態の《体内世界》、覚醒した状態の《体内世界》、感覚しつつある状態の《体内世界》

「心は体の中に在る」「心は体の中に在るモノの一つである」ではなくて、「意識が自分の体の中に在ると感じるモノを心と呼ぶ」なのだ。

上、p.153:覚醒している心の中心存在

ビミョー。《極座標の原点》

眠っている心には《極座標の原点》はない、か?も、ね。否否。あるかもしれない。覚醒している心の《極座標の原点》も、自覚的な原点とは別かもしれない。

《極座標の原点》は、覚醒している心が勝手にでっち上げた《思いこみ》かもしれない。まあ、進化価値がある《思いこみ》かもしれないが・・。

上、p.153:覚醒している心からの感覚への弁証法的進行

イマイチだな。寝ている時に起されるのは、寝ている時の感覚によってである。感覚は覚醒に依存していない。

覚醒状態において、心の中心存在は、感覚を、感覚であると気付く、といった程度だろう。

寝ている時にも感覚は在る。その感覚によって起されないとしても、眠ったままでも、感覚に反応する。

まあ、ヘーゲルさんは、分かってらっしゃるようです。(p.157)。

上、p.164:感覚の内容は、外界に由来する内容か、または心の内面に所属する内容かである。したがって、感覚は外面的感覚か、または内面的感覚かである。・・(p.170)第三の種類は、・・ただ感情という一つの感官(感情感覚・触覚)を含んでいるだけである。

体内感覚と触覚とを同じ扱いにしている・・。

たしかに・・。痛みは視覚でも聴覚でも味覚でもない。触覚だ。

下、p.26:感性を超越した悟性は対象を・・単に直接的なものとしてではなくて・・一般的なものとして取り上げようとする。そのことによって対象は、感性的諸規定と、・・思想諸規定との結合である。このことによって、意識を対象との同一性は・・規定された同一性、すなわち知である。

  1. たけ(tk)の用語で言うと、モノコトバとの問題のようだ。
  2. 基本的に、《コトバの世界》の中の住人なんだよね。だから、モノよりも「知」の方が重要だ、という《視点》になっている。
  1. 「一般的なもの」というのは、たけ(tk)の用語では《指し示す思いこみ》。むしろ《イデア》か?。

下、p.29:個別的なものと一般的なものとのこの結合は混合である。・・個別者は根底に横たわっている存在として残っていて・・一般者に対立してがんばっている・・。それ故に個別者と一般者との結合は多面的な矛盾・・である。・・論理学の諸領域における・・有限者の矛盾は、或るものが客観として規定されているかぎり、本来的にこの場所に最も具体的に帰属する。・・対象はむしろ現象であり、対象の自己内反省は・・独立に存在する内面であり一般者である・・。

  1. コトバモノとの諸問題は、まあ、検討すみ、と言いたいのか?
  2. 「或るものが客観として規定されている」というのは『個別者(モノ)が客観的な存在である』という《客観公理》の下では、ということか?
  3. 「独立に存在する内面」というのは《思い描き》か。《思い描き》モノとの離存性を語っているのか?

下、p.30:現象における諸法則の王国・・現象の安らかな一般的模像

  1. 《思い描き》《世界》《思いこみの世界》は「諸法則の王国」であり「安らかな一般的イメージ」の世界である。いーーーねーーー。ってイヤミよ。
  2. カオスの法則も法則である。カオスの結果は予見可能でないにしても、カオスをアルゴリズムによって出現させることができる、という意味で、カオスも法則である。

下、p.34:自己意識の対象と自己意識自身との間にはなんらの区別も現存していない

  1. これって《混濁》

下、p.35:抽象的自己意識

  1. 「抽象的自己意識」は、『我』という《思い描き》。『我』という《思い描き》《我》というモノを指し示す。
  2. 『我』という《思い描き》は、《我》というモノの自己否定である。とかや。『我』という《思い描き》が、《我》というモノの対立物として現れる、ということか?
  3. モノに対して、そのモノ《指し示す思い描き》というモノが現れる。

下、p.35:自分を自分の感性から解放・・しようとする衝動

  1. 「自分を自分の感性から解放」する、などというのは恐怖以外の何者でもない。たけ(tk)は、感性から離れないように、必死でしがみついているのだ。感性から離れれば《饕餮》になってしまう。

下、p.43:欲望

  1. ここで言っている欲望は支配欲のようだ。種々雑多な《欲求》はどうなっているのか?

下、p.45:自己意識は自己意識に対して−−さしあたり直接的に−−存在し、他者に対して他者として存在している。私は自我としての他者の中に私自身を直観する。

  1. さっき話題にしていたテーマだ。→《他者》の《他者》
    1. 《私》は「《他者》の《他者》」という《思い描き》の中に『私』イデア《直知》する。これなら通る。

下、p.47:承認の過程は闘争である。なぜかといえば、他者が私にとって直接的な他の現存在であるかぎり、私は他者の中の私を私自身として知ることができないからである。

  1. そおかなあ・・?
  2. ありのままの《他者》を、ありのままの《他者》として承認すること。は、不可能ではない。

下、p.47:記号および道具としての肉体性

  1. 《身体》・・
  2. 「記号」というのは《身体》《動き》や《現れ》が、《他者へのコトバ》であることを意味している。
  3. 道具」というのは、そのまんま、《身体》《道具》である、ということ。
  4. だけど・・・、《身体》《背後者》でもある。

下、p.47:自己意識が・・自分と他者と媒介する関係を持っているのは、すべて記号および道具としての肉体性においてである。

  1. 《私》の自己意識⇔《私》《身体》《他者》《身体》《他者》の自己意識、と言いたいらしい。
  2. これは、《まなざし》《繋がり》だな。これのほかに《実感》《繋がり》がある。
  3. 《身体》《道具》になるのは、「欲望の体系」においてであり、《欲求実現手段》《繋がり》においてである。
  4. 《仕合わす》《繋がり》でも、《欲求実現手段》になる・・か・・。
  5. 「承認の過程は・・」というのだから、ここでのテーマは承認欲求という関係欲求だ。「人倫」(《仕合わす》)の話は、成長欲求がテーマになる。
  6. 『精神哲学』全体のテーマは、ERG理論の《内からの視点》でのトレースである、と言えるかもしれない。

下、p.55:奴隷は、主人に対する奉仕において、自分の個別的意志と我意とをすりへらし、欲望の内的直接性を廃棄し、そしてその疎外と主人に対する恐怖との中で知恵の端初を作り出す。すなわち一般的自己意識への移行を作り出す。

  1. 一般的自己意識、って『群れの自己意識』への《思い描き》への《入り込み》
  2. 《群有思いこみ》ではないな。
  3. 《内からの視点》て検討したやつかな?

下、p.60:理性

  1. 理性、って「『群れの自己意識』への《思い描き》への《入り込み》」だったのだぁ・・。まあ、そうだね。
  2. 自分が属している《群れ》が理性的な《思い描き》を求める群れであるなら、その「『群れの自己意識』への《思い描き》への《入り込み》」は理性のイデアをもたらす、と言ってよいかもしれぬ。しかし、自分の属している《群れ》がそのようなモノでない場合には、理性のイデアはもたらさない。
  3. もっとも、『自分が属している《群れ》』というのは、《私》が勝手に決めることだから、そのように思いこめばOK、ではある。しかし、どうにも、《彼ら》の《群れ》は臭くて近づけぬ。
  4. 『客観的認識に到達し得た』という《思いこみ》が臭いのだな。『客観的認識』というのは、たんに、その《群れ》での共通認識、《群有思いこみ》であるに過ぎないのに・・。
  5. ヘーゲルの「理性」や「客観」は《群有思いこみ》に置き換えて読むべし。

下、p.63:知としての真実態(真理)

  1. 《群有思いこみ》の『共通知』の《思いこみ》。「真実態」=『群れの中での共通知』という《群有思いこみ》。「真理」というのは《彼ら》の《群れ》の中での約束ごとに過ぎない。
  2. もっとも、《ヘラクレイトスの「ロゴス」》《モノの世界》に内在する法則性=を端緒とする《思い描き》を共有する人々の《群れ》であれば、かなり、ご希望のモノに近いかもしれない。

下、p.215:諸個人の心術は・・全体との同一性の知・・信頼・・個人が持っている諸関係・・意図をもって働く・・自己を犠牲にする能力・・正義・・慈悲深い傾向性・・。

  1. たけ(tk)『仕合わせ』とかなり、近い。→「《仕合わす》ということ」。
  2. ヘーゲルの「人倫」は「家族」の次が「市民社会」「欲望の体系」だ・・・・。
  3. 『仕合わせ』は「家族」の中でしかあり得ず、その外では「欲望の体系」に巻き込まれざるをえない、ということか?
  4. たけ(tk)が「《仕合わす》ということ」で言いたかったのは、
    1. 欲望の体系、貨幣経済の市民社会の中でも、ヒトヒトとの《繋がり》においては、《仕合わす》ということ、相手の《欲求》を尊重することが必要であり、
    2. 国民が他の国民や政治家を説得する場合にも、相手の《欲求》(政治家の権力《欲求》)を尊重する必要があり、
    3. 為政者が政治を行う場合にも、国民の《欲求》を如何にしてくみとるかに腐心しなければならないし、
    4. 国家と国家との間でも、他国の《欲求》を尊重しなければならない、
    5. ということを言いたかったわけだ。これは『大学』の主張でもある。
  5. 市民社会が『国家』の権力や法の下に在っても、その中でのヒトヒトとの《繋がり》は在り、
  6. 国際社会が戦争と権謀術数で動いているとしても、そのなかでのヒトヒトとの《繋がり》は在る。
  7. 阿修羅という掲示板においても、同じことだ。どこにおいても、《仕合わす》という行動が必要なのだ。
  8. 『精神哲学』で「次に書いてある」としても全否定ではなく、止揚されるべき否定なのだから、心配しなくてもよろしい。?? しかし市民社会の次は「国家」で、その次は「絶対的精神」だよ。なんとなく・・。
  9. 『精神哲学』ERG理論の《内からの視点》でのトレースである。

下、p.186:もろもろの個別的意思

  1. あれ?。《近傍物理空間の背後者のルール》『精神哲学』の『客観的精神』の「もろもろの個別的意思」(下、p.186)のことなのか? 「措定されたもの(gesetzt)が法律(Gesetz)である」というあたりに、ドイツ語的なバイアスが混じっている。このバイアスのゆえに、「法律」の背後にある「権力」が、唐突に現れることになる。『法律』も『権力』もヒトというモノが有する《思いこみ》である。客観的世界として現れるのは《モノの世界》であり、客観的精神は《モノの世界》《ルール》である。《モノ世界ルール》。《モノの世界》の中にヒトというモノがあり、ヒト《群れ》を作り、《ヒトの群れ》を作り、《ヒトの群れ》というモノにも《ルール》が在る。《ヒトの群れのルール》。《ヒトの群れ》《ルール》の中に『権力』や『法律』という《思いこみ》(『ルール』)があり。ヒトはその『ルール』の《思いこみ》に従って動く、という《ルール》がある。

下、p.221:欲望の体系

  1. ここで言う「市民社会」は貨幣経済の社会に限らない。物々交換の社会では、《群れ》が家族に相当していた。《群れ》の中では共産社会だった。《群れ》《群れ》との間では、物々交換の、等価交換の法則で、互いの利益を増進しようとした。物々交換は《仕合わす》ことの一つの形態であった。物々交換が『仕合わせ』であることが分かれば、そして、制度として定着すれば、《群れ》《群れ》との関係は「欲望の体系」になる。物々交換という「欲望の体系」と、戦争による《群れ》による《群れ》への支配という「欲望の体系」。「《群れ》による《群れ》への支配」は結局のところ、再び、物々交換の「欲望の体系」に戻る。ただし、不平等を含んだ「欲望の体系」。そっか、それで、奴隷の話になるのか。

下、p.255:国家は最後に一つの個別的で自然的に規定された民族の直接的現実体であるという側面を持っている。

  1. ヘーゲルで疑問なのは、なんで、人類という《群れ》に辿り着かないのか、ということ。
  2. 人類は一つの共同体であり、《地球》に閉じられた鎖国状態にある。
  3. 人類の戦争は内戦である。一つの世界政府へ至る過程の内戦である。
  4. 近代西洋の思想家は、ある程度まで知見が進むと、その先にキリスト教的妄想に入ってしまう。なんでなのか、といえば、キリスト教徒だからだね。しょーもない話だ。
  5. 国家のサイズは、1週間で情報や命令が届く範囲、1ヶ月で軍隊を派遣できる範囲のサイズで決まる。現代の技術では、そのサイズは、地球全体を蔽っていると言うべきだろう。だから、地球政府が必然なのだ。
  6. 現代政治は地球国家の内部の政権抗争である。いかにして、その地域の政治性のタイプが道義的・効果的であるかを争う主導権争いの段階にある。日本も平和的政治性を掲げて参戦すべきなのだ。

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