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『省察』

引用文献『省察』

http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/library/descartes/med001.html 『省察』のオンライン版。日本語。

http://www.ucs.mun.ca/~fdoull/des-med.htm 『省察』のオンライン版。英語。

一人読書会

「諸々の學問において或る確固不易なるものを確立しようと欲するならば、一生一度は斷じてすべてを根底から覆へし、そして最初の土臺から新たに始めなくてはならない」

  1. これは同意。??
  2. 「諸々の學問において或る確固不易なるもの」などない。学問・科学は共同幻想に過ぎない。共同幻想であっても、『一切』であるなら、よろしいのだが、実験可能な分野・対象しか扱わないのであれば、NG。科学は主観を扱わない。共同幻想は主観の対極にある。共同幻想を信じれば、主観を見失う、という構造にある。
  3. 身を捨てて 浮かぶ瀬もある。
  4. http://www.iandc.net/iandc/kaiho.htm
    1. 江戸前期の「空也上人絵詞伝」に、ドングリの実殻が川の瀬に浮かぶ情景を歌にした「山川の末に流るる橡殻(とちがら)も身を捨ててこそうかむ瀬もあれ」と載っている。空也上人は浄土思想の仏僧で、「一度でも南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えた人は、すべて極楽浄土に行ける」と説き、分かりやすさで民衆に支持され信者も多かった。
  5. ここで言う「学問」は哲学以外の学問であり、デカルトの省察は、哲学以外の学問に、安心感を与えるための省察である。俗人が安心して科学に取り組むことを可能にするための信仰、《思いこみ》を与える省察である。
  6. デカルトが主観の問題を「解決」したので、それ以後の科学者は主観の問題にかかわらなくてもよい、という幻想を提供した。では、デカルトの「解決」とは何か?

「理性は、まつたく確實でもなく疑ひ得ぬものでもないものに對しては、明白に僞なるものに對するに劣らずに注意して、同意を差し控ふべきだと私を説得する」

  1. 同意。??
  2. 《私》といっても、次のモノは同じなのか? 動作が異なる、時間が異なる。
    1. 《説得しつつあるモノ
    2. 《説得されつつあるモノ
    3. 《思いこみつつあるモノ》
    4. 《疑いつつあるモノ》
  3. 「理性」とはなんぞや? 「理性」は《ヒトの群れ》で流通しているコトバへの《入り込み》であろう。

「もし私がその意見のいづれのうちになりとも何か疑ひの理由を見出すならば、それでこそそのすべてを拒斥するに十分であらう」

  1. OK。
  2. しかし、デカルトは徹底していない。「我あり」には、どう見ても疑わしい理由があるのに、拒斥していない。

「この感覺は時として欺くといふことがわかつた。そして一度たりとも我々を瞞したものには決してすつかり信頼しないのが賢明なことである。」

  1. デカルトは感覚を信用しない、ということを強調する。しかし、《我》を知るのも感覚である。六根と五感の違いかもしれないが、直観といえども感覚であろう。
  2. 「一度たりとも我々を瞞したものには決してすつかり信頼しないのが賢明なことである」とするなら、《思惟しつつあるモノ》も「すつかり信頼しないのが賢明なことである」。
  3. 《思惟しつつあるモノ》も疑わしい。それゆえに、《混濁》に突入してしまうのだ。
  4. デカルトも《混濁》の中において《思惟しつつあるモノ》を発見したのだろう。
  5. 《混濁》の中において発見したモノが、デカルトと、たけ(tk)とでは異なる。
  6. たけ(tk)《混濁》においては、《思惟しつつあるモノ》は分解してしまう。《思惟しつつあるモノ》が分解して、疑わしいモノに分解した後に、もっとも疑わしさの少ない存在が《知りつつあるモノ》であり、その対比として、《知りつつあるモノ》以外のモノの全体としての《混濁の世界》が存在自体としては確からしいモノとして現れる。
  7. 《知りつつあるモノ》も疑わしい。存在としての確からしさでは、《息しつつあるモノ》の方が、まだ、確からしい。しかし、《息しつつあるモノ》でも、疑わしい理由を見つけることができる。
  8. 公理系の選択、という解決法はあるのか? 公理系の選択という解決法は、実際には解決ではない。「どっちも無矛盾であり得る」というだけだ。「無矛盾な公理系が複数存在し得る」というコトバは、より確からしい、と言えるかも知れない。知識・学問としては、より確からしいコトバを選択していくのが、正しい方法であるといえるかもしれない。
  9. 無矛盾性はコトバの「正しさ」とはイコールではない。説明方法としての妥当性の問題だろう。コトバモノとの離存性、《指し示し》の関係を前提とした、コトバの正しさの判定基準が必要だろう。しかし、離存性を前提とするかぎり、その正しさをコトバによって証明することはできない(矛盾する)。
  10. デカルトは『我あり』を認識するのは感覚ではない、と言いたいのだろう。しかし、デカルトがやったのは感覚的実感の確認と背理法というコトバによる証明でしかない。「背理法による証明」への実感、というべきか。

「まつたく疑ひ得ぬ他の多くのものがある。例えば、いま私が此處に居ること、暖爐のそばに坐つてゐること、冬の服を着てゐること、この紙片を手にしてゐること、その他これに類することのごとき。まことにこの手やこの身體が私のものであるといふことは、いかにして否定され得るであらうか」

  1. 《近傍物理空間》はかなり、確からしい。暖炉。

「だが私は、夜には眠るのを常とし、そして夢において、その同じすべてのことを、いな時として彼ら狂人が覺めてゐるときに經驗するよりももつと眞らしくないことをさへ經驗する人間でないとでもいふのか。實際、いかにしばしば私は、夜の夢のなかで、彼の慣はしとすること、すなはち、私が此處に居ること、服を着てゐること、暖爐のそばに坐つてゐることを、信じてゐるか、しかも私は着物を脱いで寢床の中に横たはつてゐるのに。」

  1. 確かに、それ自体としての区別の指標を捜すのは困難であろう。
  2. 覚醒には反復性があり、夢には反復性が少ない、といった程度であろう。仮に、夢において、反復性があるなら、夢と覚醒との区別はつかないであろう。
  3. しかし、夢に反復性があり、それが、確実だと思われるなら、夢は偽なのか? 覚醒と同程度の反復性があるのであれば、覚醒と同程度の確実性があり、覚醒と同程度に真であると言わなければならないであろう。もし、仮に夢がそのようなモノであるとするなら、われわれは夢を偽であると判断することもできないだろう。
  4. しかし、実際には、夢と覚醒との間には反復性、確実性において差があるので、われわれは覚醒のほうを真であると判断している。
  5. 夢が覚醒と区別できない、というのは、そもそもおかしい。そもそも、デカルトは夢と覚醒とを区別して語っているのだから。
  6. デカルトは、夢と覚醒とを区別できるくらいその違いを知っている。知っているにもかかわらず、「区別できない」と言い張っている。

「そこで私は、私が見るすべての物は僞であると假定する。また、私はひとを欺く記憶が表現するものはいかなるものにせよ嘗て存在しなかつたと信じることにする。私はまつたく何等の感官も有しないとする。物體、形體、延長、運動及び場所は幻想であるとする。しからば眞であるのは何であらうか。多分この一つのこと、すなはち、確實なものは何もないといふことであらう。// しかしながらどこから私は、いましがた數へ上げたすべてのものとは別で、少しの疑ふべき餘地もない或るものが存しないことを、知つてゐるのであるか。何か神といふもの、あるひはそれをどのやうな名前で呼ぶにせよ、何か、まさにこのやうな思想を私に注ぎ込むものが存するのではあるまいか。しかし何故に私はこのやうなことを考へるのであるか、多分私自身がかの思想の作者である得るのであるのに。それゆえに少なくとも私は或るものであるのではあるまいか。」

  1. 《私》という輪郭で捉えているのが、むずいのだ。「Je pense, donc je suis」の「je」《私》。「cogito, ergo sum」「思う、故に、在り」には出てこない単語。「在る」ものは《私》なのか? 「或るモノ」を「私」というコトバで表現するのは妥当なのか?
  2. 《思惟しつつあるモノ》というコトバで呼ぶのが妥当である。
  3. 「眞であるのは何であらうか」。「真偽」というのは命題に対する評価だ。
  4. 「確實なものは何もない」。「もの」に真偽があるのか? 「或るモノは存在する」という命題が真であるのか? 「私は存在する」というコトバは正しいのか? デカルトは死んでしまったのに、「私は存在する」というデカルトのコトバは正しいのか? 「私」というコトバが指し示すモノは何か? 《自己言及しつつあるモノ》を指し示しているのだろう。「私」というコトバが指し示すモノは、「私」というコトバ《自己言及しつつあるモノ》を指し示している。
  5. この《肉の塊》自己言及することができる。自己言及の状態になることができる。「私」というコトバは、自己言及しつつある《肉の塊》を指し示している。((自己言及しつつある《肉の塊》とはなにか? 《肉の塊》における自己言及とはなにか? 《肉の塊》からの「言及」とは何か? 「言及」というのは《肉の塊》《思いこみ》なのだ。《肉の塊》《思いこみ》を持つことができる。《肉の塊》は『それ自身』への《思いこみ》を持つことができる。それが《肉の塊》の『自己言及』だろう))

「しかしながら既に私は、私が何等かの感官、または何等かの身體を有することを否定したのであつた。」

  1. 「私が何等かの感官、または何等かの身體を有する」は偽なのか? 疑わしいだけであって、偽であると判断するのは正しくない。吟味すべき命題である。
  2. 「既に私は・・否定した」のは正しい。が、その否定が正しいということではない。
  3. 《思惟しつつあるモノ》《身体》とどのような関係にあるか、は吟味すべき対象である。
  4. 《身体》が存在することは確実か、も吟味すべきことである。
  5. 《身体》の存在の確実性は、《思惟しつつあるモノ》の存在の確実性と同程度か、むしろ、継続性において、より確実である。
  6. 《思惟しつつあるモノ》《身体》所有者ではない?
  7. 《身体》《思惟しつつあるモノ》所有物ではない?
  8. 《思惟しつつあるモノ》《身体》との関係を『所有』で考えるのは妥当か?
  9. 「有する」という関係が無ければ、それ以外の関係も無い、ということになるのか?
  10. 《思惟しつつあるモノ》《身体》との間には《繋がり》がある。《身体》が死ねば《思惟しつつあるモノ》は存在しなくなる。《思惟しつつあるモノ》の近くには常に《身体》がある。《思惟しつつあるモノ》《身体》の中に在る。《身体》《思惟しつつあるモノ》のまわりにある。

「物體とはすべて、何等かの形體によつて限られ、場所によつて圍まれ、他のあらゆる物體を排する如くに空間を充たすところの性質を有するもの、すべて、觸覺、視覺、聽覺、味覺、あるひは嗅覺によつて知覺せられ、そして實に多くの仕方で、決して自己自身によつてではなく、他のものによつて、そのどこかに觸れられて、動かされるところの性質を有するものである、と。すなはち、自己自身を動かす力、同じやうに、感覺する、あるひは思惟する力を有することは、決して物體の本性に屬しないと私は判斷したのであり、のみならずかやうな能力が或る物體のうちに見出されることに私はむしろ驚いたのである。」

  1. 突然の信念の表明のようだ。「自己自身を動かす力、同じやうに、感覺する、あるひは思惟する力を有することは、決して物體の本性に屬しない」というのは観察の結果なのか? 『物体』のイデアをそのようなモノとして思いこむ、という信念(《思いこみ》)の表明でしかない。
  2. 《特別者公理》なのだろう。《思惟しつつあるモノ》《私》は『物体』ではない。という《特別者公理》
  3. 《他者》はどうなるのだろう? 《他者》は『物体』ではない、とするのか? それとも、《他者》は『物体』であり、《思惟しつつあるモノ》《私》とは異なるモノである、とするのか?

「思惟することは?ここに私は發見する、思惟がそれだ、と。これのみは私から切り離し得ないのである。私は有る、私は存在する、これは確實だ。しかしいかなる間か。もちろん、私が思惟する間である。何故といふに、もし私が一切の思惟をやめるならば、私は直ちに有ることを全くやめるといふことが恐らくまた生じ得るであらうから。」

  1. 《思惟しつつあるモノ》。「私は有る、私は存在する、これは確實だ。しかしいかなる間か。もちろん、私が思惟する間である」というモノ《思惟しつつあるモノ》である。《私》ではない。《私》が思惟しつつある間には《思惟しつつあるモノ》がある。《私》は思惟していない時間もある。《私》は思惟していない時間にも存在する。
  2. 《思惟しつつあるモノ》は有る、《思惟しつつあるモノ》は存在する、これは確實だ。しかしいかなる間か。もちろん、《思惟しつつあるモノ》が思惟する間である」
  3. 《思惟しつつあるモノ》は在る」というコトバは、《思惟しつつあるモノ》が在る間においては、正しいコトバである。「「《思惟しつつあるモノ》は在る」というコトバは、《思惟しつつあるモノ》が在る間においては、正しいコトバである」というのは正しいコトバである。「「或るモノがある」と言うコトバは、その或るモノが在る間においては正しいコトバである」というのは正しいコトバである。が、同義反復と言うべきであろう。「Aが正しいなら、Aは正しい」というに過ぎない。論理的にはね。
  4. http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_3.html
    1. 原始仏典の中では、無常ということがすべての教えの前提になっている。「すべては無常であり、すべては苦であり、すべては無我である」という文句は、原始仏典のいたるところでお目にかかる。・・・すべてが無常なのだから、すべては苦しみであり、そのように無常と苦にさいなまれている自分と世界の中に、絶対者としての自己、恒常・不変・自在な自我などあるわけはない、というようにである。
    2. (梶山雄一、『空の思想 仏教における言葉と沈黙』、8頁)

「私は人體と稱せられるかのもろもろの部分の集合ではない。」

  1. 《思惟しつつあるモノ》《身体》と稱せられるかのもろもろの部分の集合ではない。というのは、それはそうであろう。《思惟しつつあるモノ》《身体》的なモノの「集合」ではない。
  2. むしろ、《思惟しつつあるモノ》《身体》の内部のモノ《身体》の状態、といったものであろう。

「ただ私に知られてゐることについてのみ、私は判斷を下し得るのである。」

  1. OK。「I can only give judgment on things that are known to me.」
  2. 「ただ《思惟しつつあるモノ》に知られてゐることについてのみ、《思惟しつつあるモノ》は判斷を下し得るのである。」。OK。

「私は私が存在することを知つてゐる。そして、私の知つてゐる私、その私は何であるか、と問ふてゐる。この、かやうに嚴密な意味における知識が、その存在を私が未だ知つていないものに依繋しないといふこと、從つて私が想像力によつて構造する何ものにも依繋しないといふことは、極めて確かである。」 「I know that I exist, and I inquire what I am, I whom I know to exist. But it is very certain that the knowledge of my existence taken in its precise significance does not depend on things whose existence is not yet known to me; consequently it does not depend on those which I can feign in imagination.」

  1. 「依繋」「depend on」「依拠する」「由来する」
  2. 《思惟しつつあるモノ》は存在する」という知識は、それ自体として自明な知識として《思惟しつつあるモノ》自身に知られたモノであって、何らかの前提から演繹された結論ではない。という意味。OK。《思惟しつつあるモノ》の存在は、直接知、直観によって知られたモノであって、《思いこみ》を媒介にして間接的に知られたモノではない。OK。

「かやうにして私は、想像力の助けを籍りて捉へ得るいかなるものも、この、私が私について有する知識に屬しないこと、精神が自己の本性を全く判明に知覺するためには、極力注意して精神をそのやうなものから遠ざけねばならぬこと、を認識するのである。」

  1. 《思惟しつつあるモノ》は「《思惟しつつあるモノ》について有する知識」は属しない。はじめて発見されたモノは、そのモノについての知識を有しない状態のときに認識されたモノである。と言うようにも読めないわけではないが、この意味ではないだろう。
  2. 《思惟しつつあるモノ》は「《私》について有する知識」には属しない。《私》に関していろいろなイメージがあるが、《思惟しつつあるモノ》はそのようなイメージにマッチするものではない。《思惟しつつあるモノ》《私》ではない。OK。
  3. 《思惟しつつあるモノ》を認識するためには《私》に関する《思いこみ》を捨てるべきである。OK。

「しからば私は何であるか。思惟するもの、である。これは何をいふのか。言ふまでもなく、疑ひ、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なほまた想像し、感覺するものである。」

  1. 「しからば《思惟しつつあるモノ》は何であるか。思惟するもの、である。これは何をいふのか。言ふまでもなく、疑ひ、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なほまた想像し、感覺するものである。」と言いませう。

「なぜなら、たとい恐らく、私が假定したやうに、想像せられたものがまつたく何一つ眞でないにしても、想像する力そのものは實際に存在し、そして私の思惟の部分をなしてゐるからである。」

  1. OK。

「最後に、私は、感覺する、すなはち物體的なものをいはば感覺を介して認める私と同じ私である。いま私は明らかに、光を見、噪音を聽き、熱を感じる。これらは僞である、私は眠つてゐるのだから、といはれるでもあらう。しかし私は見、聽き、暖かくなると私には思はれるといふことは確實である。これは僞でありえない。これが本來、私において感覺すると稱せられることなのである。そしてこれは、かやうに嚴密な意味において、思惟すること以外の何物でもないのである。」

  1. 《思惟しつつあるモノ》は感覚する、モノを感じる。
  2. 「感覚せられたモノは眞でない。にしても、感覚する力そのものは實際に存在する。そして感覚する力は《思惟しつつあるモノ》の部分をなしてゐる」というべきだろう。これは《思惟しつつあるモノ》は《触れつつあるモノ》を含む、というコトバの定義の問題。
  3. 「思惟する」というコトバを「感覚する」も含む意味で定義する、ということ。になるはず。
  4. デカルトは、「感覚について思惟する」ことを「感覚する」と定義しているのか? ・・そこまでは考えていないようだ。対他的感覚から対自的感覚へ、というのはヘーゲル的な思惟。

「とはいえ、實際、疑はしくて、知られてゐないで、私に關係がないと私の認めるものが、眞であるもの、認識せられてゐるもの、要するに私自身よりも、一層判明に、理解せられるといふことは、奇異なことであらう。しかし私はこれがどういうことであるかを看取する、すなはち、私の精神はさ迷い歩くことを好み、そして未だ眞理の限界内に引き留められることを甘受しないのである。それならそれで宜しい。我々は更にひとたびこの精神に手綱を極度に弛めてやり、かくして、やがて適當な時に再び引き締める場合、それが一層容易に統御せられ得るやうにしよう。」

  1. OK。
  2. 「私の精神はさ迷い歩くことを好む」、そのとおり。

「そして蜜蝋が何であるかは、このものがまた延長において私が嘗て想像することによつて把握するよりも多くの多樣性を容れると考へるのでなければ、正しく判斷せられないであらう。從つて私は、この蜜蝋が何であるかを實に想像するのではなく、ただ單に精神によつて知覺する、といふことを認めるのほかはないのである。」

  1. ??。感覚的な指標で判断しているのではなく、イデア的な指標で判断している、から精神によって知覚している、ということになるのか?
  2. 《思惟しつつあるモノ》を《想像しつつあるモノ》と《知覚しつつあるモノ》とに分類するのか?
  3. 「私が嘗て想像することによつて把握するよりも多くの多樣性を容れる」と言ったって、《私》が「蜜蝋は溶けたり固まったりする」ということを知らなければ、10分前に固まった蜜蝋を見せられ、10分後に溶けた蜜蝋を見せられたときに、それが同じ蜜蝋であると判断するのは不可能であろう。「私が嘗て想像することによつて把握する」ほかないのである。

「しかるに一方私はいかに私の精神が誤謬に陷り易いものであるかに驚く。」

  1. なら、精神を信じるなよ。
  2. 「一度たりとも我々を瞞したものには決してすつかり信頼しないのが賢明なことである」とするなら、《思惟しつつあるモノ》も「すつかり信頼しないのが賢明なことである」。

「ところで、もしいま私がたまたま窓から、街道を通つてゐる人間を眺めたならば、私は彼等についても蜜蝋についてと同じく習慣に從つて、私は人間そのものを見る、と言ふ。けれども私は帽子と着物とのほか何を見るのか、その下には自動機械が隱されてゐることもある得るではないか。しかしながら私は、それは人間である、と判斷する。そしてかやうに私は、私が目で見ると思つたものでも、これをもつぱら私の精神のうちにある判斷の能力によつて把握するのである。」

  1. 《思惟しつつあるモノ》には判断の能力がある。
  2. 《判断しつつあるモノ》も「《思惟しつつあるモノ》」というコトバで指し示されたモノに含まれる、と定義する。

「いつたい私が蜜蝋の何であるかを一層完全に一層明證的に知覺したのは、最初私が蜜蝋を眺め、そしてこれを外的感覺そのものによつて、あるひは少なくとも人々のいわゆる共通感覺によつて、言ひ換へると想像的な力によつて、認識すると信じた時であるか、それとも實にむしろ現在、すなはち一方蜜蝋が何であるかを、他方いかなる仕方で認識せられるかを、一層注意深く探求した後であるか、に注目しよう。」

  1. 「共通感覚」というコトバ・・。恐いね、なんとなく。

「もし私が蜜蝋を見るといふことから、蜜蝋が存在すると判斷するならば、確かに遙かに一層明證的に、私がそれを見るといふことから、蜜蝋が存在すると判斷するならば、確かに遙かに一層明證的に、私がそれを見るといふことそのことから、私自身がまた存在するといふことが、結果する」

  1. OK。

「かくて、見よ、遂に私はおのづと私の欲したところに歸つて來たのである。すなはち、今や、物體そのものも本來は感覺によつて、あるひは想像する能力によつてではなく、もつぱら悟性によつて知覺せられるといふこと、觸れられることあるひは見られることによつてではなく、ただ理解せられることによつて知覺せられるといふこと、が私に知られたのであるから、私は何物も私の精神よりも一層容易に、また一層明證的に私によつて知覺せられ得ないといふことを明瞭に認識するのである。」 「But finally here I am, having insensibly reverted to the point I desired, for, since it is now manifest to me that even bodies are not properly speaking known by the senses or by the faculty of imagination, but by the understanding only, and since they are not known from the fact that they are seen or touched, but only because they are understood, I see clearly that there is nothing which is easier for me to know than my mind.」

  1. 「感覚」「the senses」、「想像する能力」「the faculty of imagination」。「悟性」「the understanding」。「知覚」「known」。「理解せられること」「they are understood」。「精神」「mind」。「認識する」「see」。
    1. 《触れつつあるモノ》感覚
    2. 《思い描きつつあるモノ》感覚
    3. 《分かりつつあるモノ》悟性、理解。《重ね合わせつつあるモノ
    4. 《知りつつあるモノ》知覚。
  2. 理解が《重ね合わせ》だというのは、ちと、表現に問題があるか? 
    1. モノ《思い描き》−《分かりつつあるモノ》というように、《思い描き》が中間に在る場合と、
    2. モノ−《分かりつつあるモノ》−《思い描き》というように、《思い描き》が《分かりつつあるモノ》の《背後者》に在る場合とがある。
  3. 「分かる」という日本語は、他のモノから区別可能になること、を意味している。「区別する」という作用。或るモノAが或るモノBから区別可能である、ということは『モノA』の《思い描き》と『モノB』の《思い描き》が、別の《思い描き》である、ということを前提としている。同じような米粒を二つの山に分けても、左右の米粒の《思い描き》が同じであれば、「分かった」とはいはない。『きれいな米粒』と『汚れた米粒』という別の《思い描き》によって分けられたとき、分かることが可能であるときに、「分かった」という。

「いま私は眼を閉じ、耳をふさぎ、すべての感覺を遠ざけ、物體的なもののすべての像をさへ私の思惟から拭ひ去り、乃至、これは殆どできないことであるから、少なくともかかる像を空虚で僞のものとして無視しよう。そしてただ、自分に話し掛けることによつて、また一層深く洞觀することによつて、私自身を漸次私に一層知らされたもの、一層親しいものにすることに努めよう。」

  1. ここら辺が、たけ(tk)《混濁》と違う所か? たけ(tk)《混濁》《混濁》のまま放置する。「偽である」という《思いこみ》を維持するのではなく、「《混濁》である」と認識する。ありのままに認識する。「疑わしいモノが存在する」とありのままに認識する。
  2. 《思惟しつつあるモノ》《思惟しつつあるモノ》自身を知る。
  3. 「洞觀する」というのは《知りつつあるモノ》の作用なので、《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》自身を、直接に、知ろうとする、ということ。すると、自己言及カオスに突入する。

「私は思惟するものである、すなわち疑い、肯定し、否定し、僅かなことを理解し、多くのことを知らぬ、欲し、欲せぬ、なほまた想像し、感覺するものである。」

  1. 《思惟しつつあるモノ》は疑い、肯定し、否定し、僅かなことを理解し、多くのことを知らぬ、欲し、欲せぬ、なほまた想像し、感覺するものである。」
  2. まあ、《思惟しつつあるモノ》をそのような、総合的なモノとして定義したのだから、それで行きましょう。

「感覺及び想像力と私が稱するかの思惟の仕方は、それらが單に思惟のある一定の仕方である限りにおいては、私のうちにある、といふことは私に確實であるからである。」

  1. 《触れつつあるモノ》と《思い描きつつあるモノ》《思惟しつつあるモノ》の思惟の仕方は、それが《思惟しつつあるモノ》の一定の仕方であるかぎりにおいては、《思惟しつつあるモノ》のうちにある。
  2. 《触れつつあるモノ》や《思い描きつつあるモノ》《思惟しつつあるモノ》の一定の仕方でない場合もある。といういことか? 
    1. 「慎重に疑いつつ、かつ同時に、《触れつつあるモノ》」、すなわち「《疑いつつあるモノ》と《触れつつあるモノ》の合成物」が、「《思惟しつつあるモノ》の仕方であるかぎりにおける《触れつつあるモノ》」であり、
    2. 「慎重に疑いつつ、かつ同時に、《思い描きつつあるモノ》」、すなわち「《疑いつつあるモノ》《思い描きつつあるモノ》の合成物」が、「《思惟しつつあるモノ》の仕方であるかぎりにおける《思い描きつつあるモノ》」である。

「私が思惟するものであるといふことは、私に確實である。」

  1. 《私》《思惟しつつあるモノ》ではない、ということは確実である。
  2. 《思惟しつつあるモノ》が思惟するモノであることは、《思惟しつつあるモノ》にとって確実である。OK。

「從つてすでに私は、私が極めて明晰に極めて判明に知覺するものはすべて眞である、といふことを一般的な規則として立てることができると思ふ。」

  1. たけ(tk)がたてたのは「《知りつつあるモノ》が、かなりの程度に確からしいと、反復して確信し、疑わしさを感じなかったモノは真である」というもの。
  2. デカルトの「私」は《思惟しつつあるモノ》であり、《思惟しつつあるモノ》の中に《知りつつあるモノ》も含むので、たけ(tk)の規則と同じであるといってよいだろう。

「しかしそれなら、算術あるひは幾何に關することで、何か極めて單純で容易なこと、例えば二と三とを加へると五であるといふこと、あるひはこれに類することを私が考察した場合、私は少なくともこれを、眞であると肯定することができるやうに十分に明瞭に直觀したのではあるまいか。實際、私がこれについて疑ふべきであると後になつて判斷したのは、恐らく何等かの神が、最も明白なものと思はれることに關してさへ欺かれるような本性を、私に付與したかもしれないといふ考へが私の心に浮かんだからといふよりほかの理由によるのではないのである。」

  1. 『神』が・・《私》に付与した」、という思考の枠組み。「《モノの世界》において《私》にはxxという性質が付与されている」という思考の枠組み。「《モノの世界》にxxという性質を付与する『神』」「『神』《モノの世界》にxxという性質を付与する」という思考様式。「《モノの世界》なり《私》が誰か(『神』)によって作られた」という思考様式。道具は人によって作られたモノである。それはそういってもよい。自然は『神』によって作られた、というのは、『道具』という人為的なモノのアナロジーで自然や《私》を理解しようする発想。自然は自らの内なるカオスと外部との関係のカオスによって自ら生まれ出たモノである、という発想。

「機會が生ずるや否や直ちに、神は存するかどうか、そして、もし存するならば、欺瞞者であり得るかどうか、を檢討しなければならぬ。といふのは、このことが知られていないと、まつたく他の何事も決して私に確實であり得ると思はれないからである。」

  1. 《思惟しつつあるモノ》の錯誤の原因を知るべきである、ということ。
  2. 《思惟しつつあるモノ》の錯誤の原因《思いこみ》だと思うのだが・・。
  3. 《見通し》においては、《見通し》を妨げられるとか、《見通し》が歪められる、ということはあるが、妨げられず、歪められない《見通し》においては錯誤はないであろう。もちろん、歪められていない、ということの確認は難しいが・・。
  4. 「神が欺瞞者であることが、《思惟しつつあるモノ》の錯誤の原因である」というのは「神が《思惟しつつあるモノ》を錯誤するように作った」という発想。
  5. 《思惟しつつあるモノ》が誰かに作られたモノであろうと、自然に生まれたモノであろうと、問題は、「《思惟しつつあるモノ》は錯誤するモノである」ということの認識と、「錯誤とはなにか」の認識と、「錯誤であることの確認方法、是正方法」を考えること、実践することだろう。四聖諦。
  6. ヒトは『神の道具』である」という発想は、「《他者》は『《私》道具』である」という発想だろう。

「しかるにいま、省察の順序は、先ず私の一切の思惟を一定の類に分かち、そしてこの類のうちいつたい何れに眞理または虚僞は、本來、存するかを探求することを要求すると思はれる。

    1. 私の思惟のうちの或るものはいわばものの像であつて、これにのみ、本來、觀念といふ名稱は適當するのである。
    2. ・・私の思惟はかかる、もののかたどり以上に更に或るものを含んでいる。そしてこのようなもののうち
    3. 或るものは意志あるひは感情と名づけられ、
    4. 他のものは判斷と名づけられる。」
  1. 《思い描き》《求める思いこみ》《知った思いこみ》《重ね合わせ》

「かやうにして殘るのはただ判斷のみであり、これにおいて私は誤らないように用心しなければならぬ。しかるに判斷において見出されうる主要な、そして極めて普通の誤謬は、私のうちにある觀念が私の外に横たわる或るものに類似してゐる、あるひは一致してゐる、と私が判斷するといふことに存する。なぜなら、實際、もし私が單に觀念そのものを私の思惟のある一定の仕方として考察し、何か他のものに關係させなかつたならば、それは殆ど私に何等の誤謬の材料を與へ得なかつたからである。」

  1. モノ《思い描き》との《重ね合わせ》が《分かりつつあるモノ》(理解、判断)。

「ところでこれらの觀念のうち或るものは生具のもの、また或るものは外來のもの、更に或るものは私自身によつて作られたもの、と私には思はれる。すなわち、私が、ものとは何であるか、眞理とは何であるか、思惟とは何であるかを理解するといふことは、この理解を私は他のどこからでもなく私の本性そのものから汲み取ると思はれる。しかるにいま私が噪音を聞く、太陽を見る、熱を感じるといふことは、この感覺を私はこれまで、或る私の外に横たはるものから出て來る、と判斷した。」

  1. なにかなあ・・、「現象は《一つの原因》から生成する」という発想。「一つの現象は《複数の原因》や複数のモノの関係やカオスから生成する」という発想。
  2. 感覚は外部のモノと感覚する《身体》との関係、それを《知りつつあるモノ》との関係から生じる。感覚を外部のモノという《一つの原因》によって理解するとか、感覚する《身体》という《一つの原因》によって理解するとか、《知りつつあるモノ》という《一つの原因》によって理解するとか、というのは単純過ぎる。
  3. まあ、理解する、というのは《一つの原因》で理解することであり、「《複数の原因》や複数のモノの関係やカオス」という《一つの原因》で理解する、と、言えないこともない。

「しかしここでは主として、いわば私の外に存在するものから取つてこられたものと私の見なすところの觀念について、いつたいどのような根據が私をしてそれらの觀念をばかかるものに類似してゐると思量するに至らしめるのであるかを、探求しなければならぬ。もちろん私は自然によつてかやうに教へられたと思はれるのである。」

  1. ヒトが自然によって教えられた」ということも吟味してみる必要があるかもしれない。
  2. 《体外感覚世界》)外部のモノの輪郭は、自然に浮かび上がるモノである。おそらく、それ自体が持っている輪郭であり、それを認識したということであろう。(輪郭を持たないモノ空気など=もある)。
  3. モノの性質も、それ自体が持っているのだろう。モノの性質は、モノヒトとの関係において、ヒトの中で《思いこみ》によって切り取られた、モノの性質の一部であろう。ヒトモノとの関係によって歪められた、モノの性質であろう。

「私がここで、私は自然によつてかやうに教へられた、と言ふ場合、それはただあるおのづからなる傾動によつて私がこれを信じるようにせられたといふことを意味するのであつて、或る自然的な光によつて眞であると私に明示せられたといふことを意味するのではない。この二つのことは甚だ異なつてゐる。すなわち、

    1. 自然的な光によつて私に明示せられるあらゆることは、例えば、私が疑ふといふことから私は有るといふことが歸結すること、その他これに類することは、決して疑はしいものであることができない。なぜなら、この光と同等に私の信頼し得るような、またこの光によつて私に明示せられることを眞でないと私に教へ得るような、いかなる他の能力もあり得ないからである。
    2. しかるに自然的傾動についていえば、私は以前にすでにしばしば、善を選ぶことが問題であつた場合に、私がこの傾動により一層惡い側に動かされた、と判斷したのであつて、なぜに私はかかる傾動にある他のことにおいて一層多く信頼すべきかを理解しないのである。」
  1. OK。

「そして最後に、たとい私とは別のものから出てきたにしても、このことからそれらの觀念がかかるものに類似していなくてはならぬといふことは歸結しない。反對に、多くの場合において私は兩者の間にしばしば大きな差異を見出したように思はれる。すなわち、例えば、私は太陽について二つの相異なる觀念を私のうちに發見する。その一つはいわば感覺から汲み取つたもので、これはとりわけかの外來のものと私の見なすところの觀念のうちに數へらるべきものであるが、これによると私には太陽は極めて小さいものに見える。他の一つはしかるに星學上の根據から取つてこられたもので、言ひ換えると或る私に生具の概念から引き出されたもの、それとも何か他の仕方で私によつて作られたものであるが、これによると太陽は地球より何倍も大きいものとして示される。そして實際、これら二つの觀念の雙方が私の外に存在する同一の太陽に類似してゐるといふことは不可能である。そして理性は、最も直接に太陽そのものから出てきたと思はれるところの觀念が太陽に最も多く類似していない、と私を説得するのである。」

  1. 多次元輪郭空間の話であるようにも聞こえるが・・。
  2. 「星學上の根據」というのは《他者》の感覚に由来する。《私》の感覚と《他者》の感覚という認識経路の違い。
  3. 認識経路が異なる場合には、同一のモノの輪郭が類似していない、ということがあり得る。ということ。
  4. 「最も直接に太陽そのものから出てきたと思はれるところの觀念が太陽に最も多く類似していない」というコトバで、《私》の感覚で知り得た太陽の観念《思い描き》は誤りである、と言いたいのかもしれない。天動説は誤りである、と言いたいのだろう。天動説は誤りではない、説明方法の違いにしか過ぎない。
  5. 「唯一の説明方式が正しく、それ以外の説明方法は誤りである」という発想は誤りである。
  6. デカルトは科学信仰に翻弄されはじめた時代のヒトなのだろう。科学を信ぜよ、(科学の説明に矛盾する)感覚を捨てよ、という信仰。

「といふのは、疑ひもなく、實體を私に示すところの觀念は、ただ單に樣態すなわち偶有性を表現するところの觀念よりも、一層大きな或るものであり、しかして、いはば、一層多くの客觀的實在性を己のうちに含んでおり、更にまた私がそれによつて或る至高にして、永遠なる、無限なる、全知なる、全能なる、そして自己の他なる一切のものの創造者たる、神を理解するところの觀念は、有限なる實體を私に示すところの觀念よりも、確かに一層多くの客觀的實在性を己のうちに有してゐるからである。」

  1. ヨーロッパ中世的な、イデア実在論。イデア実在論はキリスト教神学のための、神の存在証明のためのドグマである。
  2. イデア実在論と科学信仰とは直結する。
  3. しかし、イデア実在論は科学的精神とは繋がらない。むしろ、イデア実在論と科学的精神とは正反対。科学的精神においてはイデアは仮説であり、検証対象であり、認識のための道具である。イデア《道具的な思いこみ》である。
  4. 『神』《モノの世界》を知るための《道具的な思いこみ》である。
  5. 《モノの世界》を「創世神によって作られたモノ」という《道具的な思いこみ》で認識することは可能か? 可能といえば可能に決まっている。問題は、そのような《重ね合わせ》の認識が指し示すモノと実際のモノとに齟齬はないか、ということ。自然法則は神が決めた、カオスが作り出す現象も神がそのように決めた、と説明できないこともない。科学的研究は神の決めた法則の解明である、ということになる。
  6. 齟齬が生じるのは、「神は人格的な自由な意志をもって世界を支配する(恣意的に支配することができる)」という変な《思いこみ》を組み合わせた場合だろう。
  7. 「作られた世界公理」と「自ら生まれた世界公理」。どちらも成立しそうだ。「作られた世界公理」には違和感が在る、が、説明意欲を掻き立てる公理ではある。「自ら生まれた世界公理」では、眺めているだけで終わってしまう。
  8. イデア実在論とイデア道具論。イデアは認識のための道具《思いこみ》の伝達のための道具目的的思考のための道具である。
  9. デカルトの立論は、『私』『神』という実在的イデアに由来する。それゆえに、『私』もまた実在的イデアである、というもの。一種の梵我一如イデア実在論的な梵我一如
  10. たけ(tk)の立論は、《私》《モノの世界》というモノに由来する。それゆえに、《私》もまたモノである、というもの。
  11. 《思惟しつつあるモノ》モノなのだよね。《思惟しつつあるモノ》というモノ『神』という実在的イデアに由来するか? 《思惟しつつあるモノ》というモノから、『私』というイデアへのすり替えがあるのではないか?

「ところでいま、動力的且つ全體的な原因のうちには少なくともこの原因の結果のうちにあると同じだけの實在性が存しなくてはならぬといふことは、自然的な光によつて明瞭である。なぜなら、結果は、原因からでなければ、いつたいどこから、自己の實在性を得ることができるのであらうか。」 「Now it is manifest by the natural light that there must at least be as much reality in the efficient and total cause as in its effect. For, pray, whence can the effect derive its reality, if not from its cause?」

  1. 「実在性」は、何らかの原因から生じた結果である、という発想。
  2. 実在(ウーシア)の離存性被指示性
  3. 「実在性」?という属性? アリストテレスは実在と属性とを区別している。「実在性」というコトバは、実在なのか属性なのか?
  4. アリストテレスにとっては実在には可もなく不可もない。在るから在る、というだけのもの。
  5. 「実在性」というコトバは「存在感」という感覚・感情の表現ではないのか? 「少なくとも・・と同じだけの実在性(at least be as much reality)」というように量的なイメージなのだ。モノの実在を「存在感」と同じような量的なイメージで実在を捉えようというのか? モノに実感を感じるかどうかは、ヒトの側の勝手な《思いこみ》ではないか。
  6. モノにはモノの因果関係が在る。《モノの世界》に生じた結果は、《モノの世界》原因によって生じる。
  7. イデア実在論の《思いこみの世界》ルールが分からないと、何ともいえないな。
  8. 『実感』『リアリティー』『現実感』『実在性』『存在感』とモノ(実在)との関係は?
  9. 『実在性』というのはイデアの属性だろう。或るイデアが、それが指し示すモノがあるかどうか、によって、指し示すものがあれば、そのイデアには実在性があり、指し示すモノがなければそのイデアには実在性がない、ということになる。イデア実在論ではイデアを中心に考えるので、「イデアの実在性」(そのイデアが指し示すモノの有無)が問題になる。
  10. イデア道具論でも同じか・・。道具としてのイデアが指し示すモノの有無は問題になる。
  11. どちらにしても、「実在性」というのはイデアの属性である。
  12. 《思惟しつつあるモノ》というモノの実在性ではなく(モノの実在性など問題にはなりえない)、『思惟しつつあるモノ』というイデア《思いこみ》)の実在性の話に変わっている。ということ。
  13. 『思惟しつつあるモノ』というイデアの実在性というのは、それが指し示すモノが在るかどうかの話だから、《思惟しつつあるモノ》があることが明らかであるかぎり、『思惟しつつあるモノ』というイデアの「実在性」は明らかだということになる。それの原因など問題になるのか?
  14. 或るイデアの「実在性」は別のイデアの「実在性」に由来するか? 「或るイデアの実在性が別のイデアの実在性に由来する」としても、それは原因と結果の関係か? 包含関係がある場合、といった、別の関係ではないのか? イデア実在論の《思いこみ》ルールはどうなっているのだろう?

「いかにして原因は、自分でも實在性を有するのでなければこの實在性を結果に與へることができるのであらうか。」

  1. イデアAが指し示すモノAが原因となってイデアBが指し示すモノBが結果として生じた、という命題において、イデアAが指し示すモノがなければ「イデアA→イデアB」は誤りである。OK。

「より多く完全なものは、言ひ換えると自己のうちにより多くの實在性を含むものは、より少なく完全なものから生じ得ない」

  1. 「実在性」の量的判断基準が分からぬ。炭と二酸化炭素とではどちらが「より多くの実在性」を含むのか?
  2. そもそも、実在性に疑問を感じた場合には、実在性なし、と判断するのではなかったのか?
  3. 今の段階では、実在性がある、のは《思惟しつつあるモノ》だけであって、『神』は疑わしいモノである。
  4. デカルトがやりたいのは、《思惟しつつあるモノ》は《神》から由来するので、《思惟しつつあるモノ》が在る以上は《神》は在る、という立論に持っていきたいのだ。「《思惟しつつあるモノ》は《神》から由来する」という命題はどうするのかな?

「ところで私の有する觀念には、ここに何等困難のあり得ないところの、かの

    1. 私自身を私に示す觀念のほか、他に、
    2. 神を表現するもの、また
    3. 物體的な無生的なものを表現するもの、また
    4. 天使を表現するもの、また
    5. 動物を表現するもの、そして最後に
    6. 私と同類の他の人間を表現するものがある。」
  1. ふーむ、そういう世界ヒトだったのか・・。
  2. たけ(tk)の有する《思い描き》は、こんなにシンプルではなさそうだ。

「かやうにして殘るところはただ神の觀念のみである。この觀念のうちには何か私自身から出てくることのできなかつたものがあるかどうかを考察しなければならぬ。神といふ名稱のもとに私が理解するのは、或る

    1. 無限なる、
    2. 獨立なる、
    3. 全智なる、
    4. 全能なる、そして一方、
    5. 私自身を、また他方、もし更に何ものかが存在するならば、り
    6. 存在するほどのものの一切を、創造したところの、
    7. 實體である。まことにこのすべての性質は、私がこれに注意することの深ければ深いだけ、いよいよ、單に私自身から出てきたものであり得ると思はれないのである。それ故に、前述のことから、神は必然的に存在する、と結論しなければならない。」
  1. でたぁ・・。信ずるヒトは確信する。

「なぜかといふに、私は實體であるといふことそのことから、たしかに實體の觀念が私のうちにあるとはいえ、だからといつてそれは、私は有限であるからして、實際に無限であるところの或る實體から出てきたのでなければ、無限なる實體の觀念ではなかつたであらうから。」

  1. 「實際に無限であるところの或る實體から出てきたのでなければ、無限なる實體の觀念ではなかつたであらう」って???
  2. トンでいる・・。

「といふのは、もし私のうちに、それとの比較によつて私が私の缺陷を認めるところの何等か一層完全なる實有の觀念が存しなかつたならば、いかにして私は、私を疑ふこと、私が欲求すること、言ひ換えると、或るものが私に缺けていて、私はまつたく完全ではないこと、を理解したであらうか。」

  1. 『パン』のイデアがなければパンを食べることもできない、らしい。
  2. 『パン』のイデアがなければ、『ご飯がパンではない』と理解することはできない。

「かくしてここに私は、いま存するところの私が少し後にも存するであらうようにすることのできる或る力を私が有するかどうか、私自身に對して問わなくてはならない。といふのは、私は思惟するもの以外の何者でもないからして、あるひは少なくともいまはまさしくただ私の思惟するものであるとこの部分が問題なのであるからして、もし何かかやうな力が私のうちにあつたとすれば、疑ひもなく私はこれを意識した筈であるから。しかるに私は何等かかるものの存することを經驗していない。そしてまさにこのことから私は、私が或る私とは別の實有に依繋することを、極めて明證的に認識するのである。」

  1. 《思惟しつつあるモノ》《身体》に依存する。《身体》《モノの世界》に依存する、というかその中の一定の時間的空間的な領域を占める。
  2. デカルトは、どうして、こうもむりやりに神の存在証明に持っていきたがるのだろうか? たぶん、異端審判を恐れていたのだ。
  3. デカルトは、科学的精神に触発された、神の存在への疑問を前提にして、多少科学的精神を交えて、神の存在証明を行おうとしたヒト、ということになる。科学的精神を神学の中に取り込もうとしたヒト科学的精神を歪めてでも、科学を異端審判からまもろうとしたヒト

「最後に、兩親についていえば、私がかつて彼等に關して考へたすべてのことは眞であるかもしれないが、しかし確かに彼等は私を保存するのではなく、また、私が思惟するものである限り、決して私を作りだしたものでもない。むしろ彼等は單に、私、言ひ換えると精神――私はいまただ精神のみを私と認めるのである――がそのうちにあると私の判斷したところの質料のうちに或る一定の性質を据ゑつけただけなのである。」

  1. 《思惟しつつあるモノ》《私》とイコールではない。《思惟しつつあるモノ》《身体》がなければ存在しえない。《私》の中の《思惟しつつあるモノ》《私》の状態であり、《私》から生じたのであって、両親から直接生じたモノではない。
  2. 《私》のうちの《思惟しつつあるモノ》以外のモノを無価値モノ《私》ではないモノとして切り捨てる発想。
  3. 《私》《思惟しつつあるモノ》を両親や祖先から切り離して、『神』と直結するモノとして捉える発想。
  4. デカルトの『神』は、たけ(tk)《モノの世界》《宇宙史》に置き換えれば、たけ(tk)世界観と同じだったりして・・。

http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/library/descartes/med004.html

「まことに私は人間の精神について、それが思惟するものであり、長さ廣さ及び深さにおける延長を有せず、そして物體に屬するところの何物をも有せざるものである限りにおいて、いかなる物體的なものの觀念よりも遙かに多くの判明な觀念を有してゐる。」

  1. 《思惟しつつあるモノ》は物体的なモノではない、か?
  2. デカルトは感覚的なモノを否定して《思惟しつつあるモノ》を考察しているのだから、その考察の中から《思惟しつつあるモノ》と感覚的なモノとの関係が出てくるはずがない。否定を前提にした考察から肯定的な結論が出るはずがない。「引き出しには入っていない」ことを前提にして、それを捜さずに、「引き出しには入っていない」と結論するようなモノだ。
  3. キリスト教的な神の実在性は、感覚的な世界とは矛盾する、ということだろう。矛盾が生じるのを恐れて、まず第一に感覚的な世界を否定してから、神を捜しはじめるのだ。完全無欠な世界の創造者、を感覚的世界から見つけ出すことはできない。

「私がただ神についてのみ思惟し、私を全く神に向けてゐる間は、私は誤謬または虚僞の何等の原因をも發見しないのである。」

  1. 信仰的思考における、無謬確信・・。これの起源はどこら辺に在るのだろう?
  2. 『正しい』という《思いこみ》を中心にして、『正しい』と『誤り』の『判断基準』が提供されていて、その『判断基準』を適用して、『正しい』ことを積み重ねていく、という思考方法なのだろう。

「更に、神の作品が完全なものであるかどうかを我々が尋求するたび毎に、或る一つの被造物を切り離してではなく、一切のものを全體として考察しなければならぬ、といふことが心に浮かんでくるのである。なぜなら、もしそれが單獨であつたら、恐らく正當に、極めて不完全なものと思はれるものも、世界において部分の地位を有するものとしては極めて完全なものであるから。」

  1. 存在するモノは合理的である。

「そこで、私自身に一層近く寄つて、私の誤謬(これのみが或る不完全性を私のうちにおいて證するのである)がいつたいどういふものであるかを探求すると、私は、これが二つの同時に一緒に働く原因に、言ふまでもなく私のうちにある認識の能力と選擇の能力すなはち自由意志とに、言ひ換へると悟性にと同時に意志に、依繋することを認める。」

  1. 《求める思いこみ》が問題である。
  2. 意志の自由は錯誤への自由でもある。
  3. 意志の自由は、未来への不完全な知から生じる。複数の選択肢からの傾向を有するとしても、本質的にはランダムな選択、が自由である。
  4. 意志の自由は、未来への完全な無知からは生じない。未来を知らなければ、自然法則に従って選択するだけである。
  5. 複数の未来が、複数の選択肢から生じ得る、という未来への予知があって、はじめて、複数の選択肢からの選択という問題が生じる。
  6. 未来が完全に分かっている場合、どの選択がその未来をもたらし、その未来がどのようなモノであるかが完全に分かっている場合には、適切な選択肢が一つだけ決まる。よって、自由という問題は生じない。
  7. 自由は善であるか? 
    1. 複数の選択肢と、複数の未来とが見えているときに、選択を強制された選択肢が不都合な未来をもたらすと予見されるときに、不都合な選択を強制されるのは不快であり、自由に適切な選択が可能であることが善である。
    2. 選択肢が一つしか与えられていないのに、選択した責任を負えと言われるのは不快である。
    3. 選択肢が複数あり、未来も複数在るのだが、選択肢と未来との関係が不明であるとき、未来が快であるか不快であるか分からないときに、選択を迫られるのは不快である。
  8. 自由が善(快)であるかどうかは、《状況》と知識による。選択と未来の関係および、未来を評価できる知識による。

http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/library/descartes/med005.html


根本的な問題は、『疑いなく正しいコトバ』という《知った思いこみ》《求める思いこみ》に駆動された考察だということ。

Last modified:2007/06/23 03:00:32
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