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『思想と動くもの』

引用文献『思想と動くもの』

定義

『思想と動くもの』(ベルグソン、岩波文庫、青、645-4)の『哲学的直観』

読書会

『思想と動くもの』(ベルグソン、岩波文庫、青、645-4)の『哲学的直観』

    1. 経験がわれわれの目に二つの異なった面を見せ、
      1. 一方では互いに並んで存し、だいたい繰り返され、だいたい測定され、はっきりした多様性と空間性の方向に展開する事実の形をとり、
      2. 他方では法則や測定を拒む純粋存続という相互貫入の形をとって現れるものでないとすれば、哲学と科学という二つの認識の仕方が生じるはずがないでしょう。
    2. 両方の場合とも経験は意識を意味します。しかし
      1. 第一の場合では、意識が外に向かって開け、意識が事物を互いに外的なモノとして認めるまさにその程度に従って自分自身に対しても外的なモノとなっていますが、
      2. 第二の場合では意識がうちにもどって身を縮め深まるのです。p.192
  1. 哲学と科学の差は、《視点》にある。哲学の《視点》世界世界の内側から観る《視点》であり、科学《視点》世界世界の外側から観る《視点》である。この哲学の《視点》科学《視点》を、数学的モデルで表すなら、極座標の《視点》と、直交座標の《視点》となるだろう。というのが極座標モデル
  2. たけ(tk)からみると、ベルグソンの《視点》は《あの時・あの場所の・あのヒト》を極座標の原点に置いた《視点》である。ように見える。というのが極座標モデル

『思想と動くもの』(ベルグソン、岩波文庫、青、645-4)の『哲学的直観』

    1. こうして、意識が自分自身の奥底を探るに従って、物質や事象一般の内部にいっそう深く入るのでしょうか。もしも意識が物質の上に属性として付け加えられたものだとすればそういう事実を認めることもできましょうが、そういう仮説は・・虚偽であり、自分自身を矛盾しもしくは事実と矛盾する・・。p.192
  1. 《視点》の違いはモノの属性ではない、ということ。
  2. ではなくて、無限分割のパラドックスか?。
  3. 極座標の原点に《視点》おいてそこからの視線で、《視点》自身を見通そうとして、視線の距離を無限に小さくしていく、という方法では、《視点》を見通すことはできない、ということ。

『思想と動くもの』(ベルグソン、岩波文庫、青、645-4)の『哲学的直観』

    1. もしも人間の意識が、もっと広くもっと高い別の意識と類縁があるとしても・・、p.192
  1. この部分はキリスト教的なイデア神と意識とが関係があるとする説(デカルト)への批判。トンデモ説なので無視。

『思想と動くもの』(ベルグソン、岩波文庫、青、645-4)の『哲学的直観』

    1. 世界を満たしている物質と生命は同時にわれわれの内にあります。すべての事物の中で働いている力はわれわれが自分の内に感じます。・・われわれはその一部なのです。p.192
  1. 極座標の原点としての《視点》世界の中にある、ということ。

『思想と動くもの』(ベルグソン、岩波文庫、青、645-4)の『哲学的直観』

    1. われわれ自身の内部に降りていきましょう。われわれが触れた点が深ければ深いほど、われわれを表面に押しもどす勢いは強くなります。p.192
  1. 極座標の原点にある《視点》が、《視点》自身を見ようとして、《視点》と《見られつつあるモノ》との距離を無限に小さくしていっても、《視点》に到達することはできないし、それを行うと、視る、という機能を無限に失っていくので、押し戻されてしまう、ということ。

『思想と動くもの』(ベルグソン、岩波文庫、青、645-4)の『哲学的直観』

    1. 科学者は運動に対しては不動の姿を見て取り、・・自然に対して警戒と闘争の態度を取らなければならないのに反して、
    2. 哲学者は自然を仲間扱いにしてしまいます。
  1. 科学における時間の扱いは、時間軸という直交座標に配置すること。
  2. 哲学者が自然を仲間扱いにするというのは、哲学者以外のモノも極座標の原点になり得るが故に、「極座標の原点になり得るモノである」という点で自然は哲学者の仲間なのである。

『思想と動くもの』(ベルグソン、岩波文庫、青、645-4)の『哲学的直観』

    1. 科学の方針はベイコンが提出しているように、命令するために服従することであります。
    2. 哲学は服従も命令もしません。哲学者は同感を求めます。p.194
  1. もう少し積極的であってもよいような気もするが・・。哲学者はそうであっても、われわれが哲学者である必要はない。
  2. 《他者》を操る、という《かたち》の実践では、巨悪への道にしかならない。同感を求め、《他者》にも直観と自律を求める、ということ。
  3. 直観と自律は、「デーモラライゼーション」(堕落)である。《ヒトの群れ》が要求するモラルからの逸脱の勧めである。堕落への勧めである。正反合。奴隷的モラルからの逸脱と自由人的モラルの取得。礼のモラルから仁のモラルへ。

『思想と動くもの』(ベルグソン、岩波文庫、青、645-4)の『哲学的直観』

    1. 直観にいくには感覚および意識の領域から外に身を移す必要がない。p.197
  1. 《今・ここの・このヒト》《視点》が極座標の原点であるということは、それをあるがままに受け入れれば、分かる、ということ。

Last modified:2007/04/01 12:10:27
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