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『形而上学』

引用文献『形而上学・上』

『形而上学・上』 井隆訳 岩波文庫

読書会

p.21:すべての人間は知ることを欲する。

  1. とは思わない。ほとんどのヒトは不都合な事実を知らないことを欲する。自分の行動に役に立たないことは覚えないし、行動に支障を来す事実は知ることを避けようとする。
  2. ヒトは、自分の行動に役に立つ事実を、選択的に、知ることを欲する。
  3. 知ることは動くことの手段である。知ること自体を欲するのは、手段の目的化である。
  4. これが、問題なんだよね。「知ること」を欲するのか、「信じること」を欲するのか。コトバを疑い、真実を知ることを欲するのか、真実はどうであれ、コトバを信じることを欲するのか。《思いこみつつあるモノ》《知りつつあるモノ》《疑いつつあるモノ》と《信じつつあるモノ》。
  5. 「知る」というコトバには、《モノの世界》と知ることという意味と、《コトバの世界》と信じるということのふたつの意味がある。聞慧・思慧・修慧。聞慧はコトバを信じること、思慧は《思いこみ》を信じること、修慧は《モノの世界》を知ること。
  6. 格物《モノの世界》に至ること。致知《モノの世界》コトバで表現することに至ること。《モノの世界》《コトバの世界》との違い(離存性)を知ったうえで、《モノの世界》コトバで表現する(指示性)ということを習得すること。
  7. 「すべての人間は」ではなく、「すべてのモノは」であろう。素粒子は他の素粒子の引力を知ることを欲しているのだ。
  8. 《知った思いこみ》を取得することを《求める思いこみ》が在る、ということか?
  9. 「知ること」と「感じること」ではかなり違う。「知ること」のなかには「見通すこと」と「信じること」とがあるが、そのふたつもかなり違う。いっしょくたにしてよいのか?
  10. すべてのヒトは、『《私》はそれを知った』という実感・《知った思いこみ》クオリアを欲する。《知った思いこみ》への《求める思いこみ》がある。

p.21:すべての人間は知ることを欲する。その証拠としては感官知覚(感覚)への愛好があげられる。

  1. 現代的には、コトバを通じてでない、感覚的な知覚は、「知る」とは言われない。現代語での「知る」とはコトバを知ることを意味する。現代人は、非言語的な認知を、「知る」と区別して考えるのは何故か? 感覚的認知では知ったことにならない、と信じられている。
  2. 《知った思いこみ》と《コトバによる知った思いこみ》。
  3. たけ(tk)的には、非言語的な認識が先にあって、その非言語的に認識にコトバをあたえる、という手順になるのが、本来の認識であると思う。
  4. コトバによる認識とはなにか? コトバによる認識とは、コトバがもたらす《思いこみ》を信じることである。コトバを信じることであって、知ることではない。

p.21:感覚から記憶力が・・或る動物には生じてくる。

  1. 感覚内容がなければ、記憶すべき内容もない。行動の記憶もあるだろうが、行動についての感覚がなければ、行動の記憶もない。
  2. 感覚から記憶力が生じる、というのは、科学的説明ではない、だろう。
  3. 感覚というモノがある。記憶力というモノがある。《モノの世界》のなかに、一定の輪郭をもって知覚されるモノとしての感覚や記憶力というモノがある。生活者の《視点》からみた《モノの世界》の現れ。天動説的な《視点》。生活者の《視点》

p.21:記憶力のほかにさらにこの聴の感覚をもあわせ有する動物は、教わり学ぶこともできる。

  1. 「聴の感覚」というのは類的感覚であり、同じ類の他の個体の《動き》《かたち》を見ることにより、また、それが発する音をコトバとして聞くという感覚であり、それを聴くときに《私》がそれを発したとしたら、これこれという状況であろう、というミラーニューロンの働きによって、学ぶことができる、という能力だろう。

p.22:他の動物は、表象(ファンタシア)や記憶で生きている。

  1. 動物に表象(ファンタシア)があることを当然の事実としている。
  2. 人間である《他者》であっても、彼に表象が在ることは証明できない。か?

p.22:経験を具有するもの(動物)はきわめてまれである。・・経験が人間に生じるのは記憶からである。というのは、同じ事柄についての多くの記憶がやがてひとつの経験たるの力をもたらすからである。

  1. 個別的な事象に関する記憶にたいして、複数の記憶からのパターン化した記憶を経験と呼んでいるようだ。
  2. 日本語的には、一回だけの経験、というのも有りそうだが・・。

p.22:人間という類の動物は、さらに技術や推理力で生きている。・・技術が生じるのは、経験の与える多くの心象から幾つかの同様の事柄について一つの普遍的な判断が作られたときにである。・・普遍的な判断をすることは、技術のすることである。

  1. 普遍的な判断。個別の記憶→普遍的な法則性の記憶→普遍的な判断。個別的な事象→個別的な判断(偶然的判断)。個別的な事象→(経験に基づく)判断。個別的な事象→普遍的な判断に基づく)個別的事象への判断。

p.22:実際に行為をするには・・経験家の方が、経験を有しないで概念的に原則だけを心得ている者よりも、遥かにうまく当てる。

  1. 個別的事象への正確な認識があっての判断。コンピュータに苦手なのは個別的事象の認知なのだ。

p.23:経験家よりも技術家(理論家)の方がいっそう多く知恵ある者だと我々は判断している。−−そのわけは、後者(理論家)は、事物の原因を知っているのに、前者はそうではないから。

  1. 因果関係を、法則性を知っているか否か。

p.23:棟梁は・・かれがそのする仕事全体の原因を知っている。

  1. 職人にも原因についてのコンセプトの共有が必要である。その方が、仕事がうまくいく。

p.24:一般に、ひとが物事を知っているか知っていないかについては、そのひとがそれを他に教えうるか否かが、その一つの証拠になる。

  1. 説明的理性。

p.24:我々は、いずれの感覚をも知恵であるとはみなさない。

  1. 「知る」ことではあるが、「知恵」ではない。ということか。
  2. コトバは「説明」の媒介として現れている。
  3. 説明のコトバを暗記して、他に教えること、は知恵ではないのだが、知恵であるかの如くに誤解されることがある。説明のコトバを暗記するというのは、コトバ《モノの世界》への感覚との《繋がり》が形成されていない、ということ。まあ、暗記した後に、感覚的経験を経て、《モノの世界》との《繋がり》を形成する、という手順だろう。修慧。
  4. 感覚的把握からコトバへという方法は、聞慧・思慧・修慧のいずれでもない。独覚。
  5. http://ja.wikipedia.org/wiki/縁覚。『縁覚(えんがく、pratyekabuddha(paccekabuddha)、梵:略)は旧訳では、サンスクリット原語あるいはその俗語形からの音写で、「辟支仏」(びゃくしぶつ)と呼ばれる。また「独覚」とも漢訳されるように、師なくして独自にさとりを開いた人をいい、仏教やジャイナ教でこの名称を用いる。//仏教では、十二因縁を観じて理法をさとり、あるいはさまざまな外縁によってさとるゆえに縁覚という。独覚は、仲間をつくって修行する部行独覚と、麒麟の一角の如く独りで道を得る麟角喩独覚とに分ける。大乗仏教ではこの立場を自己中心的なものと考え、声聞(しょうもん)とともに二乗と呼んで下に見る。//特に天台では、仏の世で十二因縁を観じて覚ったものを「縁覚」、無仏の世で飛花落葉などの外縁を観じて覚ったものを「独覚」と区分している。』

p.122:同じもの(同じ属性・述語)が同時に、そしてまた同じ事情のもとで、同じもの(同じ基体・主語)に属し且つ属しないということは不可能である。(矛盾律)

  1. 《視点》を固定した場合には、見え方は一つである、ということ。
  2. 《視点》が異なれば、見え方はかわる、ということ。
  3. 《視点の固定》と《視点の移動》公理系の選択は《視点の移動》を生じる。

区別

道理と『形而上学』

  1. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E5%AD%A6
    1. 印欧諸語のmetaphysics、Metaphysikなどの訳語として、日本語では「形而上学」を当てており、これは『易経』繋辞上伝の“形而上者謂之道、形而下者謂之器”(形よりして上なる者これを道と謂い、形よりして下なる者これを器と謂う)という表現に因んだ造語なのだが、印欧語に含まれる「後ろの」の意が「上の」に置き換わってしまっており、語感にズレが生じている。
    2. むしろ道理学と呼ぶべきである。
    3. 道理とはなにか、についての学問。物理学と道理学。モノの理学と道理の理学。

Last modified:2008/01/26 12:03:57
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