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『共同幻想論』

引用文献『共同幻想論』

定義

『共同幻想論』吉本隆明、角川文庫

読書会

p.5:国家は幻想の共同体だというかんがえを、わたしははじめにマルクスから知った。・・(西欧的な概念では)国家は社会の上に聳えた幻想の共同体であり、わたしたちがじっさいに生活している社会よりも小さくて、しかも社会から分離した概念だとみなされている。

イデアの考え方なのかな? 国家のイデア。本質としてのイデアと、その偶有性としての実際の諸現象としての政府機関、官吏、法律。

イデア実在論では、イデアのほうが大きくて実在であり、現実の人間や社会は、その偶有性に過ぎない。

唯物論の《視点》なのだろう。イデア実在論を反転させた唯物論と、日本的な素朴な唯物論。

イデア実在論はキリスト教的な思考様式。ユダヤ教的な思考様式ではない。ケルト的な思考様式でもない。

p.6:それまでわたしが漠然ともっていたイメージでは、国家は国民のすべてを足もとまで包み込んでいる袋みたいなもので、人間は・・いずれこの世界に存在しているかぎり、人間は誰でも外に出ることはできないとおもっていた。

ロビンソン・クルーソーは西洋的に見ても例外。『私』の概念を取り囲む『国家』『社会』『群れ』の概念。『私』《群れの中の個体》であれば、『私』の周りには『群れ』がある。

そういうことではなくて、『国家』という《コトバ》の《意味》の違い。

というか、『国家』という《思いこみ》に対する《視点》の違い。《群れの中の個体》《内からの視点》が日本人的な《視点》であり、《群れ》への《外からの視点》が西洋人的な《視点》

日本人的な《アニミズム》的唯物論。モノしかない、が、モノには《アニマ》がある。官吏しかいないが、官吏には『国家』《アニマ》が潜んでいる。鮭が『鮭の神さま』からの贈り物であるように、官吏は『国家』《アニマ》からの使いである。

村の生活においては、出家の隠遁においては、『国家』からの離脱、村の《群れ》《アニマ》、自然の《アニマ》への融合があるのではないか

『国家は国民のすべてを足もとまで包み込んでいる袋みたいなもので、人間は・・いずれこの世界に存在しているかぎり、人間は誰でも外に出ることはできない』という《思いこみ》こそが共同幻想である。『伝聞世界』実在論。憑き物である。『私は群れの一員である』というのは《思いこみの世界》の中でのみ真実であり得る。《今・ここの・この肉の塊》である《私》《群れ》の一員であることはありえない。《群れ》ではなく《他者》との《繋がり》が在るだけである。しかし、《思いこみの世界》における『私』は『群れ』の一員なのである。《私》は『私は群れの一員である』という《思いこみ》によって行動し、それによって、《他者》から『彼(私)は群れの一員である』という承諾を得ることができる。《他者》からの『彼(私)は群れの一員である』という《思いこみ》を維持することができる。帰属意識という《思いこみ》

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Last modified:2007/06/30 17:05:38
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