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『デ・アニマ』

引用文献『デ・アニマ』

定義

『アリストテレス『デ・アニマ』注解』  水地宗明、晃洋書房

読書会

  1. 『デ・アニマ』p.0-10
  2. 『デ・アニマ』p.10-20
  3. 『デ・アニマ』p.20-30

「果たしてもし魂が動かされるとすればだが、何よりも感覚対象によって動かされるはずだ、と人は言うことができよう。(したがって魂は「本質的に自己を動かすもの」ではあり得ないだろう。)」p.21

  1. アリストテレスは「循環的な動き」を否定しているのかな?
  2. 『たましい』のイデアは動かない。『たましい』というイデアによって指し示されるモノとしての《たましい》は動く。発生し、動き、消滅する。

「デモクリトス・・は、(魂を構成する)不可分の諸球(つまり球状原子)が片時も静止しない本性をもっているために、自己の(不断の)動きに伴って身体全体を動かすのだ、と主張するのである」p.22

  1. たけ(tk)の《客観的アニマ》に近いな。

「われわれはしかし(デモクリトスらに対して)こう質問したい。「まさにその同じもの(球状原子)が(身体)を静止させるのか」と。」p.22

  1. 死ぬと言う現象があることも、物理的に説明する必要がある、ということだろう。
  2. 生命的循環を維持している場合と、その循環が止まった場合との差異を説明するのか、現代では、容易だろう。

「そもそも魂はこのような仕方で動物を動かすのではなく、一種の選択と思考によって動かすように見える」p.22

  1. 機械論的な動きではない、と、言いたいのだろうが、機械論の延長で「一種の選択と思考によって動かすように見える」現象を作り出すことができる。

「魂が大きさ(延長)をもつものだと言っている点が正しくない」p.23

  1. 情報は延長を持たない。
  2. 質量は延長を持たない。
  3. エネルギーは延長を持たない。
  4. 色は延長を持たない。
  5. 延長を持たないモノはわんさか在る。
  6. 魂は身体の属性である、と言うわけにはいかないのか?
  7. 《たましい》は量的尺度で測り得るモノだろう。大きい《たましい》、重い《たましい》、強い《たましい》、・・。主観的量と客観的量の違いは?。

「われわれは常日ごろ、魂が悲しむ、喜ぶ、元気づく、恐れるとか、さらに、怒る、感覚する、考えるなどの言い方をしている。そしてこれらはすべて動きであるように思える。それゆえに、魂は動かされる(あるいは動く)のだ、と信じる人がいるだろう。・・しかし、・・これらは、魂の内に動きがある(つまり魂が動く)という意味ではなくて、ある場合には魂まで(動きが届き)、ある場合には魂から(動きが発する)という意味である。たとえば感覚はある性状のもの(対象)から(動きが始まって魂まで届き)、また想起は魂から(動きが出て)感覚器官内の動き、あるいは静止へ至るのである」p.30

  1. 動き」というコトバの意味を、そのような意味で使う、ということ。
  2. しかし、魂に《動き》が届いた時に、魂の内部で動くものがなければ、魂は《動き》を感じることができないだろう。魂の内部で動くものがなければ、魂は《動き》を発することができないだろう。
  3. アリストテレスは、動かすモノは、動かないモノである、という信念があるようだ。

「「(何かを)動かすものは、それ自体も動く」とは限らない・・(『自然学』八5)」p.18。情報モノ動かす、が情報は発せられなければモノを動かさない。情報は生成されなければ、モノを動かさない。情報モノ動かすのは、増幅である。情報イデアとしては動かないが、モノとしては生成され、発せられ、伝達されなければ情報としての機能を有しない。

  1. アリストテレスの言う「動き」というコトバの意味と、たけ(tk)《動き》の意味とにずれがある。
  2. アリストテレスが「動かない」というのは、身体との相対関係における場所・位置が動かない、という意味だろう。アリストテレスは魂を「場所」であると捉えているようだ。

「知性は(身体から分離可能な)一種の主有として(身体あるいは魂の)内に生じるように、そして(身体とともに)滅びるのではないように思える。・・知性はおそらく、何かもっと神的なものであり、不受動のものであろう」p.31

  1. これは、コトバ《群有思いこみ》性の意味であろう。知性は《群有思いこみ》の運動である。

「単子は部分のないものであり、(内部的に)差異を持たないものであるのに。一つの単子が(自己を)動かし得るものであり、(自己によって)動かされ得るものであるとすれば、(動かすものと動かされるものという)差異を含んでいなければならない。」p.32

  1. 要するにアリストテレスは、単純なモノが自分自身を動かす、ということは論理的に矛盾している、と言いたいらしい。
  2. 素粒子が動くということは、論理的矛盾である、ということだろう。
  3. 動かすモノ、というより、動かす場所。
  4. 素粒子の内部はカオスである、というのはどうだろう? 定常波であり、確率であり、粒子であり・・。内部状態はあるが、カオス的な内部状態なので、確率的に、何がどうなるかは分からない。もっとも、カオス的な《動き》の変異は、ほとんど影響を与えない。素粒子の《群れ》になると、粒子単体のカオス的な微妙な差異が、拡大される。《群れ》カオスは粒子が多数あることによって生じる。《群れ》カオスは、粒子のカオスを増幅する。
  5. 自らは動かず、他を動かすモノがある、というのがアリストテレスだが、あるものが多様な《動き》を作り出す、という為には、そのモノは、多様性を含んでいなければならない。単子では、多様性がないので、多様な《動き》原因となることができない、という結論になる。多様性の中には、動かす、動かさない、という多様性もある。動かす、動かさないの多様性もないのであれば、単子は《動き》原因となることができない、ということになる。モノが単子に分解可能であり、単子の《群れ》であるなら、モノ《動き》原因になることができない、ということになる。しかし、事実においては、モノ《動き》原因となるのだから、論理のほうが誤っている。
  6. モノ(単子の《群れ》)の《アニマ》はそれを構成する単子の《アニマ》の総和ではない。モノ《群れ》として現れた瞬間に、単子の《アニマ》とは別の次元で、《群れ》《アニマ》が生成する。
  7. 《アニマ》モノ《動き》原因(のうちの内部関係因の一種)である。

「エンペドクレスのように、身体内の諸元素によって(外部の)各元素が、似たもの同士の出会いによって認識されると主張する説・・動物の身体内で純粋に土で出来ている部分例えば、骨、筋、毛髪は何ものをも・・感覚しないように思える」p.38

  1. 感覚しているといってもよい。「感覚」というコトバの意味をどこまで広げるかの問題。
  2. 《繋がり》を重視する説。

「そもそも、すべての有るものが魂をもっているのではないという事実は、いかなる理由によるのか」p.38

  1. 「魂」のコトバの定義の違い。
  2. 「そもそも、すべての有るものは魂をもっている」と、たけ(tk)は思う。
  3. アリストテレスは《たましい》を「生きモノの《たましい》=魂(コン)=」に制限して定義しているのだから、「すべての有るものが魂をもっているのではない」というのはそのコトバの定義から帰結する必然である。

「それら(魂を構成する諸元素)を統一するものは、一体なんであるのか」p.39

  1. 諸元素の《動き》原因《アニマ》=の帰結として、諸元素は統一体を形成する。要するに元素間での引力。《群れ》にとっての外部関係因?。それによって《群れ》が形成されれば、《群れ》自体の《アニマ》が生成される。
  2. 《たましい》は統一されているのか? 《いのち》は一つだろうが・・。
  3. 《いのち》と《たましい》との関係は?

「知性より優れたものが(人間の内に、あるいはどこかに)存在することは不可能であり、なぜなら、このものこそ最年長のものであり、自然的に主権者であるから」p.39

  1. 意味分からぬ。アリストテレスも、神懸かりなのか? 知性信仰。知性がモノより先行して存在する? 老人が赤ん坊より前に存在する? 主権者がいなければモノは動かない? モノは、(《群れ》は)、それ自体が主権者である、というのが、《モノアニマ》。《群れのアニマ》
  2. 自然のモノに主権者概念を持ち込むのは、《ヒトの群れ》のアナロジーで自然を理解しようとすることだろう。

「感覚するもの(動物)がすべて(身体を)動かせるとは限らない」p.39

  1. 《動き》のタイムスパンの違いでしょう。植物でも動く

「汎神論批判:ある人びとは、全体(つまり世界)の内に魂が混ぜ合わされて(行き渡って)いる、と主張する。・・空気や火の中に存在しているはずの魂が動物を作り出さないのに、他方で混合物(つまり動物の身体)の中にいる魂は動物を作り出すのは、いったいなぜなのか」p.40

  1. 《アニマ》論は汎神論に近い。モノはすなわち《アニマ》である。
  2. アリストテレスの「批判」は、杜撰だな。空気=動物、空気!=動物、という背理が生じる、という批判。「全体と部分とは同質」という前提がある、のか?
  3. 動物の魂が植物を作り出さないのは何故か?

「魂は(宇宙全体の至る所に)均質的なものとして存在しているのか、それとも全体のどの部分にでもは内在していないのか、のどちらかであることが必然である。(そしてむろん後者が正しい)」p.41

  1. 真空の空間の中に魂があるか? あるんじゃないの?
  2. 魂という意味では、汎神論的にすべての場所の至る所、すべてのモノ《群れ》に(『魂がある』という質において)均質に存在する。が、その具体的な現れにおいて均質というわけではない。
  3. 『魂がある』という質の均質性、と、『魂の具体的な現れ』という質の非均質性。

「魂のはたらきとしては「認識する」と「感覚する」と「思い込む」とがあり、さらに「欲望する」(感覚的欲求)と「意思する」(理性的欲求)が、一般的に言えば欲求があり、また、(身体の)場所的な動きも、そしてまた成長と盛りと衰弱も、魂によって動物に生じる」p.42

  1. 入力、記憶、変換、出力。は、すべてのモノ《群れ》にある。

「われわれは(自分の魂の)全体によって思考し、感覚し、動かされ、またその他のはたらきのそれぞれを能動的に行い、あるいは受動的に営むのか、それとも異なる部分によって異なるはたらきをするのであろうか」p.42

  1. モノの統一性に対応する、《アニマ》の統一性、つまり、《アニマ》の全体じゃないのかな。《アニマ》の各部分の協調活動の全体、特定の機能については、特定の部分が主たる働きをなす場合もある。

「「生きる」ということは、これら(魂の諸部分)のどれか一つに、それとも複数に、それともすべてに依存するのであろうか。それとも(魂とは)別の何かがその原因であるのか」p.42

  1. 生きるというのは、動き時間的総和である。動き時間的総和が、自己言及的に『生きる』ということを認識し、意欲することもある。その《動き》も自己包含的に《生きる》という《動き》に含まれる。

「ある人たち(プラトンなど)の言うところでは、魂は分断されていて、われわれは(魂の)ある部分で思考し、(体内の別の場所に宿る)別の場所で欲望するのである。//しかし魂が本性的に分断されているとすれば、魂を締めくくる(統一する)ものは何であるのか。というのも、とにかくそれは身体ではないからである。なぜなら、むしろ魂の方が身体を締めくくっているように思えるからである。・・魂が出て行くならば、身体は気化散逸したり、腐敗したりする」p.42

  1. 死ぬと、魂が出て行き、身体の統括者がいなくなり、身体が腐敗する、という理屈を前提としている。
  2. 死ぬと、生命的循環が止まり、魂がなくなり、身体が腐敗する。生命的循環原因で、《アニマ》も身体の維持も、その結果。
  3. 生命的循環《アニマ》の本性? 《生命的アニマ》の本性は生命的循環である。《生命体のアニマ》、《生きモノアニマ》。《モノアニマ》→《生きモノアニマ》→《ヒトのアニマ》
  4. 霊魂不滅の考え方には、法身の方法(その人の記憶)と、イデア的な方法(《群れの思いこみ》を操る能力)とがある。どちらにしても、《思いこみ》としての『たましい』であり、モノの《たましい》ではない。モノの《たましい》は不滅ではない。
  5. 《たましい》が『モノの中に存在する(モノとは別の)モノである』という《思いこみ》

「魂の諸部分は相互に分離されえないのだし、また全体としての魂は分割されても全体のままなのである」p.43

  1. OK。

「もろもろの「有るもの」(オン)のうちある一つの類をわれわれは主有(ウーシア、実体)と呼んでいるが、これの在るものは素材の意味での主有であり、それ自体としてはまだ特定の何かではない。また別のものは姿あるいは形相であり、これによってはじめて、特定のなにかと呼ばれる。そして第三は、これら(素材と形相)から成り立つもの(具体的主有)である」p.44

  1. モノというのは具体的主有。
  2. ((ういーん、たくさん書いた後で Ctrl+W で閉じちゃったよ・・))
  3. モノから分離した素材のみ、形相のみはイデアである。なぜ、イデアをウーシアというかというと、古代ギリシア語では、そのように使われていた、と言うしかない? それとも、何かある? プラトン主義ではイデアのほうが実体だったりする。イデア実在論。

「生命とは、(当該物体の)自己自身による栄養活動と成長と減衰である」p.45

  1. 繁殖活動、同種の自分の子孫の、生成。が生命、進化。生命における進化の淘汰圧。
  2. 生成と消滅は、他の物体でもある。
  3. 内部的な循環、生きモノの内部での循環

「それ(生きている自然的物体)は、(単に物体であるだけでなく)ある性状の物体、つまり生命をもつ物体でもあるので、(生命つまり魂と物体のどちらが形相かというと)魂が物体であるとは言えないだろう。なぜなら、物体は基体について(それの述語として)述べられるものではなくて、むしろ基体と素材の役割を担っているからである。とすると必然的に魂は、能力的に生命をもつ自然的物体の形相、という意味での主有である」p.45

  1. モノ《アニマ》との関係は・・。
  2. 《アニマ》モノ(実体)か? 輪郭で区切られた部分、という意味ではモノである。分離して感じることができる部分である、という意味でモノである。
  3. 自然的物体(モノ)の内部にあるモノとして感じられる、という意味で、自然的物体とは別のモノである。が、切り離すことができないという意味では、別のモノではない。
  4. 《アニマ》から見た、その《アニマ》を内部に有するモノ」のことをなんと名づけようか? 「《アニマ》の基体」?

「これ(「完成」という語)は二通りの意味をもつ。一つは「知識」のような意味(つまり第一段階の完成)、他は「観照する」というような意味(第二段階の完成)。」p.45

  1. 第一段階の「完成」というのは、生きモノの内部に魂がある、ということで、第二段階の「完成」というのは、われわれが生きモノに魂を感じる、ということか? 
  2. モノに内在する《アニマ》、と、別のモノ《アニマ》に内在する或るモノ《アニマ》

「「生きている」ということは複数の意味で使われているので、それらのどれか一つだけでも(あるものに)内在するならば、そのものは生きている、とわれわれは言うのである。それらとは、たとえば知性(つまり思考)、感覚、場所的な動きと静止、さらに「栄養(消化吸収)と減衰と成長」の意味での動きである」p.49

  1. 動き原因」を《アニマ》という。「動き原因」と《アニマ》との差異を明確にすべきではないか? 「モノ動き原因」のうち、《アニマ》でないモノは在るか? キューで突かれたボールの《動き》原因は、ボールの《アニマ》、である。と説明することができる。キューによって加えられた外部的な《ちから》原因である、と説明することもできる。

「この能力(栄養と成長の能力)は他の諸能力から分離されることが可能だが、他の諸能力は、可死的な生きもの内では、この能力から分離されることは不可能である」p.50

  1. アリストテレスは、《生きモノアニマ》の根源を栄養成長能力と見ているようだ。

「感覚のうちで第一の(基礎的な)ものとして、すべての動物に備わるのは、触覚である」p.50

  1. 感覚の基礎は触覚である、と述べている。
  2. 素粒子が感じるのは、引力であり、光などなんだけど・・。

「魂は先に挙げられたこられのものの始元であり、これらによって規定されている。すなわち、栄養、感覚、思考、(場所的な)動きによってである」p.50

  1. 要約ね。
  2. 栄養能力というのは《生きモノアニマ》の特徴かもね。生命的循環を維持するためには栄養能力が必要になる。
  3. 《私》は飯を食わねば生きていけぬ。息をしなければ生きては生けぬ、というのが《ヒトのアニマ》の一部だ。《私のアニマ》の一部だ。

「魂の普遍的な定義はありえない:これら(図形と魂)についても、他のものについても、各種にそれぞれ固有の定義をなおざりにして、共通(普遍)の定義のみを求めるのは、ばかげたことである。なぜなら後者は、どのような有るもの(の類)にも対応せず、また不可分の(つまり最下位の)種のどれにもぴたりとあてはまらない規定であるから」p.55

  1. 《私のアニマ》の場合には、《自己言及的存在》の問題が発生する。
  2. モノアニマ》、《生きモノアニマ》、《植物のアニマ》、《動物のアニマ》、《ヒトのアニマ》《他者のアニマ》、《私のアニマ》の各種について、個別に考えよ、ということ。
  3. モノアニマ》から出発すべきだろう。

Last modified:2006/08/27 22:00:54
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