《背後者公理》
《背後者公理》とは
- 《直知限界》の先にも何かが在る、という思いこみを《背後者公理》と呼ぶ。そして、《直知限界》の先にある何かを《背後者》と名づける。
- モノの表面の向こう側にはモノの内部がある、というのは問題ないだろう。モノによって見えなくなった場所にも空間がある、というもの問題ないだろう。向こう側の《直知限界》については問題は少なそうである。
- 特に問題になるのは、こちら側の《直知限界》の先(というか手前、プラスの距離に対するマイナスの距離にある場所)が問題である。
- 《知りつつあるモノ》自身が《直知限界》の先にあることと、
- 《知りつつあるモノ》の情報が行く先・《知りつつあるモノ》をコントロールしているものが《直知限界》の先にあること=《背後者》であること=《知りつつあるモノの背後者》=《背後者身体》であることである。
区別
- 背後霊と《背後者公理》
- 背後霊というのは俗信である。
- 《背後者》は《背後者回路》であって人格的なものではない。
- 《背後者》に人格的なモノを感じるのであれば、南無阿弥陀仏、とでも唱えて成仏させてやれば、無我の背後霊になるだろう。キツネや「英霊」でも同様に、南無阿弥陀仏と唱えるのがよい。阿弥陀仏というのは『すべてのヒトを成仏させる』という願をかけて修行して、その修行が完成したブッダ、という意味なので、「南無阿弥陀仏」と唱えれば背後霊でも成仏させてくれるだろう。(「無量寿仏」という意味だから、名前の意味は違うか・・)
- 一神教的な神やブラフマーも人格的であるが故に俗信である。(一神教的な神やブラフマーを背後に感じるヒトは少ないのではないか?)
- http://www.asahi-net.or.jp/~yi9h-uryu/seiten/daiue1-2-hongan22-34.htm
- 背後霊に聞かせてあげればOKということ。背後霊や幽霊は《思いこみ》なので、「南無阿弥陀仏」の《思いこみ》で十分なのだ。
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