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《肉》

キーワード《肉》《肉の塊》、《肉のかたまり》

定義

《息しつつあるモノ》に注目しながら《混濁》に戻ると、《混濁》であり、かつ、《息しつつあるモノ》であるようなモノが現れる。それを《息しつつある混濁》と呼ぶ。《息しつつある混濁》を放置しておくと、《混濁》《身体》のサイズに縮小し、その周りに《モノの世界》が在ることに気がつく。その状態の《身体》《混濁しつつある身体》と呼ぶ。《混濁しつつある身体》を放置しておくと、それが《肉の塊》と呼ぶべきモノであることが分かる。

《肉の塊》とは、《モノの世界》における《このヒト》である。

《肉の塊》の実体は《体細胞の群れ》である。

  1. 《体細胞の群れ》の感覚的実体を《肉の塊》という。

区別

《繋がりつつある肉の塊》《息しつつあるモノ》

  1. ツナニ(《繋がりつつある肉の塊》)・イシモ・100
  2. 動きつつある肉の塊》+《知りつつある肉の塊》。《知りつつある肉》。

《肉の塊》《身体》

  1. 《肉の塊》《混濁しつつある身体》である。から《身体》である。
  2. 《身体》は、第一次分離における、《近傍物理空間》の中のモノとしての《身体》である。
  3. 《肉の塊》においては、《体内世界》の《認識限界》は《身体》の表面に到達している。
  4. 《体内感覚世界》の《認識限界》は《身体》の表面に到達していない。
  5. 《肉の塊》は、《身体》内部のモノの区別への《こだわり》を喪失した《身体》である。

《肉の塊》《思い描き》

  1. 《肉の塊》モノであり、モノは思い描かれたモノ(知覚が再構成されたモノ)である。
  2. 《思い描きつつあるモノ》はこの《肉の塊》である、か?
  3. 知覚を再構成して《モノの世界》として現出させる《思い描きつつあるモノ》は、知りえないモノ《思い描き》でしかない。それがこの《肉の塊》であるかは検証不可能である。か?

《肉の塊》《知りつつあるモノ》

  1. 《肉の塊》《知りつつあるモノ》がある。《肉の塊》への《外からの視点》《知りつつあるモノ》
  2. 《肉の塊》《知りつつあるモノ》《肉の塊》自身である。広義の《知りつつあるモノ》自己言及的に《知りつつあるモノ》《私》《自己言及しつつあるモノ》
  3. 《肉の塊》の中に《知りつつあるモノ》がある。狭義の《知りつつあるモノ》
  4. 《知りつつあるモノ》《肉の塊》の中の極一部分である。《肉の塊》の知る作用の中でも小さな部分でしかない。狭義の《知りつつあるモノ》

《肉の塊》《絶対者公理》

  1. 《肉の塊》《視点》《絶対者公理》《視点》か?
  2. 《今・ここの・この肉の塊》《相対者公理》《視点》か?
  3. 《肉の塊》からの《視点》か? 《内からの視点》
  4. 《肉の塊》への《視点》か? 《外からの視点》
  5. 《絶対者公理》《相対者公理》というのは《知りつつあるモノ》に関する区別。《肉の塊》においては《知りつつあるモノ》は解消してしまっている。

《混濁しつつある身体》《肉の塊》

  1. たぶん、同じモノ
  2. 《視点》が違うのではないか?
  3. 《肉の塊》モノである。《混濁しつつある身体》は空間的な領域である。
  4. 《肉の塊》《外からの視点》である。《混濁しつつある身体》《内からの視点》である。
  5. 《肉の塊》《内からの視点》、というのを問題にしたいのだ。

「肉の衣を纏ったカムイ」と《肉の塊》

  1. 多分に、アイヌ的発想であるかもしれない。
  2. http://www.nextftp.com/y_misa/sinyo/sinyo_01.html
    1. 小さい矢は美しく飛んで私の方へ来ました,それで私は手を差しのべてその小さい矢を取りました.クルクルまわりながら私は風をきって舞い下りました.
  3. http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/terms/t21-nik.html
    1. キリスト教では、キリストの霊つまり「ロゴス」は、肉なる存在のイエズスに宿ったとされるが、グノーシス主義でも、救済者クリストス(キリスト)の霊は、「肉の衣」を纏い、人類救済のため、地上に肉化した。人間の状況は、この救済者「星のイエズス」と同様であり、肉の衣のなかに、その本来性である「霊の火花・破片」が閉じこめられている。

《今・ここの・この肉の塊》《肉の塊》

  1. もちろん、同じモノ。ではあるが、《混濁》から出発して見つかった《肉の塊》には、《今・ここ》も、《他者》もない。唯一絶対の《肉の塊》である。それに対して、《今・ここの・この肉の塊》は、時間・空間の中にあり、《他者》との相対における《肉の塊》である。
  2. 《肉の塊》《絶対者公理》?、《今・ここの・この肉の塊》《相対者公理》
  3. 《肉の塊》《モノの世界》の中にあるモノであるから、ただちに、《今・ここの・この肉の塊》になる?? 《今・ここの・この肉の塊》になるためには、《あの時・あの場所の・あの肉の塊》が、《今・ここの・この肉の塊》と同質なモノとして存在していなければならない。《同質者公理》《特別者公理》《肉の塊》《特別者公理》《今・ここの・この肉の塊》《同質者公理》
  4. 《今・ここの・この肉の塊》は『肉の塊』という『種類』の《思いこみ》を前提としている。『種類』の《思いこみ》が有用でないとは思わない。イデア実在論に陥らなければ、有用・無害である。
  5. 『種類』はモノを分類する基準である。『種類』は定義による。『そういう種類である』との《思いこみ》があれば、その《思いこみ》によってモノを分類することができる。《思いこみ》がなければ、モノを分類することはできない。モノは、自然に分類されるものではない。《思いこみ》をもったヒトが、《思いこみ》によって分類するだけである。そういう《思いこみ》が『種類』である。
  6. 《絶対者公理》における《肉の塊》は、『肉の塊』という種類のモノか? 反復して現れる「かくの如きモノ」に付けた名前が「肉の塊」という名前である。現象が先にあり、名前は後に在る。『かくの如きモノ』という《思いこみ》が、モノから生じる。そのモノが再び現れた時、そのモノから『かくの如きモノ』という《思いこみ》が生じ、その《思いこみ》が、記憶の中の『かくの如きモノ』という《思いこみ》と似ていることを発見する。・・それによって、分類するのだな。とすると、『かくの如きモノ』という《思いこみ》は『種類』の《思いこみ》である。『かくの如きモノ』に「肉の塊」という名前を付けたのであるから、「肉の塊」というコトバが指し示す《思いこみ》『肉の塊』は『種類』の《思いこみ》である。
  7. とするなら、《絶対者公理》における《肉の塊》も、『肉の塊』という『種類』に属するモノである。か? モノ《思いこみ》に属するということはない。《思いこみ》によって指し示されることができる、というだけである。モノ《思いこみ》が在り、《思いこみ》モノを指し示すと言う《繋がり》がある、というだけである。
  8. イデア実在論に陥ると、『肉の塊』という『種類』が実在であり、先にあり、《肉の塊》というモノは、《思いこみ》の後にあるモノのように考えてしまう。《思いこみの世界》からの《モノの世界》への《視点》である。
  9. 記憶の中の『肉の塊』が先にあるのではないか? 記憶の中の『肉の塊』の《思いこみ》などどうでもよいのである。《今・ここ》で《それ》を見つけて、『かくの如きモノ』であると認知し、その《知った思いこみ》にまた、「肉の塊」という名前を付けた、というだけのことでもある。《絶対者公理》によれば、記憶の中の、あの時のあのモノは、《今・ここ》のこのモノとは別のモノである。同じ性質のモノであることを検証することはできない。絶対者たる《我》が現に知りつつあるモノと、記憶の中のモノとでは性質が異なる。
  10. 共同幻想を実在であると信じたい人だけが、おかしな発言をする。(しかし、そのような人が大多数である)。《サル山のサル》《思いこみのサル》である。《思いこみのサル》には種族維持的合理性が在る。種族維持的価値《群れ》で生活するためには《思いこみのサル》である必要がある。
  11. 対話は《思いこみの世界》の中で行われる。対話の中で、『モノ世界』は《思いこみ》である、といわれれば、反論できない。反論はコトバで行われるからだ。コトバ《思いこみ》を伝達することができるだけだからだ。コトバモノを伝達することはできないし、《モノの世界》を伝達することもできない。コトバが伝達できるのは、《モノの世界》を指し示す《思いこみ》、『モノ世界』という《思いこみ》を伝達することができるだけだ。デカルトが、「この暖炉は否定できようか」といったときの《モノの世界》への《見通し》は、コトバになった瞬間に《思いこみ》に過ぎなくなる。「対話の悲劇」とでも名づけようか。
    1. 「まつたく疑ひ得ぬ他の多くのものがある。例えば、いま私が此處に居ること、暖爐のそばに坐つてゐること、冬の服を着てゐること、この紙片を手にしてゐること、その他これに類することのごとき。まことにこの手やこの身體が私のものであるといふことは、いかにして否定され得るであらうか」(http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/library/descartes/med001.html)。

オロニク・イシモ

  1. 《愚かな肉の塊》が《私》である。凡夫の悟り。愚禿。
  2. 「愚か」ということは、多少の精神作用はあるということ。つまり、多少の精神作用を有する《肉の塊》を《愚かな肉の塊》と呼ぶ。「心の作用」。
  3. 釈迦も《愚かな肉の塊》とともにあった。ブッダは《愚かな肉の塊》から生まれた。泥の中から蓮の花が咲くように。
  4. おもしろき こともなき世よ いざさらば。
  5. 感じつつある私、感性の風に吹かれつつある私、
  6. 八正道は愚かな肉の塊への当為である
  7. 《私》《愚かな人々》の一員である。《愚かな人々》は《愚かな肉の塊》である。
  8. 《愚かな肉の塊》は、マダニと同様に、主観的世界のなかに、主観的には、住んでいる。
  9. 《愚かな肉の塊》は、《他者》との、主観的世界の共有を欲する。主観構造の類似性の確認を欲する。《愚かな肉の塊》は、寂しがり屋なのである。
  10. たけ(tk)もまた、寂しがり屋である。ブッダやアリストテレスを思い起こさなければ、寂しさに討ち負けるだろう。
  11. 超越的視点、などと、フッサール?、ハイデガー?なら言うだろうか? しかし残念ながら、この超越的視点は、《愚かな肉の塊》の「心の作用」なのである。
  12. 《息しつつあるモノ》《息しつつあるモノ》《操りつつあるモノ》
  13. 《息しつつあるモノ》は《愚かな肉の塊》の第1の「心の作用」である。
  14. 《操りつつあるモノ》は《愚かな肉の塊》の第2の「心の作用」である。
  15. 《思いこみ》噴出は《愚かな肉の塊》の第3の「心の作用」である。
  16. 《思いこみ》への《入り込み》は《愚かな肉の塊》の第4の「心の作用」である。

《肉の塊》《視点》

  1. 《肉の塊》への《視点》か、《肉の塊》からの《視点》か?
  2. 《肉の塊》からの、《肉の塊》への《視点》なら、自己言及《視点》か?
  3. 《肉の塊》《モノの世界》モノである。《モノの世界》の論理においては自己言及はアポリアをもたらさない。

《肉の塊》と《鏡像》

  1. 《鏡像》=《浄化球》の中の『一切』の中のモノの鏡像。
  2. 《肉の塊》の鏡像と《肉の塊》を見比べるなら、この《肉の塊》を『在らしめているモノ』は執着である。
  3. しかし、ブッダは、鏡像のほうがホンモノ《肉の塊》であると言いたいのか?

《肉の塊》と『群れのルール

  1. 実在的規則と規範的規則。《群れのルール》と『群れのルール』。
  2. 《動きつつあるモノ》ルールの下に在る。《知りつつあるモノ》ルールの上に在る。
  3. natural law が自然法則と自然法の両方を意味し、law が法則と法律の両方を意味するのは、『自然法則は神からのモノへの命令である』という《思いこみ》が背景にあるのだろう。
  4. 「なるようになる」「なるようにしかならない」「ああすればああなる」というのが実在的規則としての《群れのルール》。
  5. 「なすべし」「なすべからず」というのが規範的規則としての『群れのルール』。
  6. 《群れのルール》はクオリアを有する。モノである。《群れのルール》そのモノからの《視点》もある。

《肉の塊》《浄化球》

  1. 《浄化球》の中にこの《肉の塊》の鏡像が在る。
  2. 《浄化球》の中のこの《肉の塊》の鏡像を操作することで、この《肉の塊》自身の操作をシミュレートすることができ、この《肉の塊》自身を操作することが可能になる。
  3. 《浄化球》の中にこの《肉の塊》《近傍物理空間》の鏡像が在る。
  4. 《浄化球》の中にこの《肉の塊》《近傍物理空間》との相互作用の《動き》の鏡像が在る。
  5. 《浄化球》の中には時間軸が在る。《浄化球》の中にすべての時間が在り、《浄化球》の中にすべての時間世界の状態が在る。《浄化球》の中に『一切』が在る。《浄化球》の中に時間軸の鏡像が在り、《浄化球》の中に『一切』の鏡像が在る。
  6. 《浄化球》には《浄化球》からの距離に反比例した位置に鏡像が写る。中心は無限遠のものが写る。時間軸は4次元時空の《浄化球》の表面に現在が写り、中心には無限の過去と、無限の未来の像が写る。現在は過去への現在と未来への現在とに分離し、両端の表面に同じ像が写る。(左右でも同じ、右方向への象は右の表面から中心に向かって写り、左の方向の象は左の表面から中心に向かって写る)。
  7. 《モノの世界》の0〜∞を《浄化球》の0〜1に変換するようなものがよい。arctan

《肉の塊》と欲求

  1. 《感じ合い》への欲求。
  2. 『道徳感情論』
  3. 《感じ合い》への欲求は在るのか? 《感じ合い》という現象はある。《感じ合い》から《動き》への衝動は生じる。蝕→受。
  4. 《感じ合い》《肉の塊》の作用である。《感じ合い》《肉の塊》の現象である。
  5. 《肉の塊》は欲求も持つに違いない。《肉の塊》は欲求を持つ。《肉の塊》は12因縁の中にある。
    1. 《肉の塊》は世直し欲求を持つ。
    2. 《肉の塊》《見通し》への欲求を持つ。
    3. 《肉の塊》は涅槃への欲求を持つ。
    4. 《肉の塊》《感じ合い》への欲求を持つ。
    5. 《肉の塊》は食欲を持つ。
    6. 《肉の塊》は排便への欲求を持つ。
    7. 《肉の塊》は性欲を持つ。
    8. 《肉の塊》は親和欲求を持つ。
    9. 《肉の塊》へ奉仕への欲求を持つ。
    10. 《肉の塊》は破壊への欲求を持つ。
    11. 《肉の塊》《他者》のさまざまな欲求への《感じ合い》への欲求を持つ。
    12. 《肉の塊》は記述欲求をもつ。
    13. 《肉の塊》は思考欲求を持つ。
    14. 《肉の塊》は息することへの欲求を持つ。
    15. 《肉の塊》は眠ることへの欲求を持つ。
    16. 《肉の塊》は起きていることへの欲求を持つ。
    17. 《肉の塊》は死への欲求を持つ。
    18. 《肉の塊》は生き続けることへの欲求を持つ。
    19. 《肉の塊》《思い描き》への欲求を持つ。
    20. 《肉の塊》《プログラミングオブジェクト》への欲求を持つ。
    21. 《肉の塊》は仕事への欲求を持つ。
    22. 《肉の塊》は仲間への欲求を持つ。
    23. 《肉の塊》は実存への欲求を持つ。実存は《肉の塊》苦しみである。
    24. 《肉の塊》自己言及への欲求を持つ。

この《肉の塊》と群生相

  1. この《肉の塊》は、孤独相と群生相とを往復する。

《ブッダの「一切」》《肉の塊》

  1. 《ブッダの「一切」》《肉の塊》の中からの《視点》である。

《肉の塊》『一切』への《見通し》

  1. この《肉の塊》は、モノとして、すでに、『一切』への《見通し》を持っている。モノとしての《見通し》としては、すでに、『一切』への《見通し》を持っている。モノは、『一切』からの情報に反応しているのである。もんだいは、ヒトとしての《見通し》においては、『一切』への《見通し》見失っている、ということ。「『一切』へのヒトとしての《見通し》」と「『一切』へのモノとしての《見通し》」。「ヒトとしての『一切』への《見通し》」と「モノとしての『一切』への《見通し》」。ヒトとしての自覚における《見通し》《描かれつつある思いこみ》として再構成された『一切』への《見通し》。人は、《描かれつつある思いこみ》に描かれた世界しか視ることはできない。ヒトは、感じることにおいては、すでに、人は『一切』への《見通し》を持っている。《感点》における『一切』への《見通し》、と《視点》における『一切』における《見通し》如悪悪臭、如好好色。心を誠にすること。
  2. この《肉の塊》は、『一切』への《見通し》を持つことはできるか?
  3. 正命》とは『一切』への《見通し》の中で目標を設定することである。
  4. この《肉の塊》は、《プログラミングオブジェクト》への《正命》を持つことができるか?
  5. この《肉の塊》は、《群生相》において、《他者》の《心の作用》への《見通し》を持つことができる。が、私の《心の作用》への《見通し》を持たない。
  6. 《私》の《心の作用》からのこの《肉の塊》への《見通し》、と、この《肉の塊》からの《私》の《心の作用》への《見通し》《見通し》共振関係。
  7. この《肉の塊》は、この《肉の塊》の目への《見通し》を持つか?この目は、《私》の目なのか、《肉の塊》の目なのか? 目は、そのどちらにも帰属しない。目は、ただ、そこにある。
  8. この《肉の塊》もまた、この耳を通して音を聞く。
  9. この《肉の塊》もまた、この心を通して道理を知る。
  10. 《今・ここの・このモノ》の目、、心はそれぞれ絶対的な一者である。
  11. この《肉の塊》『一切』への《見通し》を持つ。
  12. この《肉の塊》は、《知りつつあるモノ》の《直接知の世界》を、《知りつつあるモノ》を通して知る
  13. この《肉の塊》は、この《肉の塊》の《直接知の世界》を知る。この《肉の塊》の《直接知の世界》を、この《肉の塊》は知る。
  14. この《肉の塊》『一切』への《見通し》を持ったなら、この《肉の塊》は『正命』を持つだろう。
  15. この《肉の塊》は群生相への《見通し》を持つ。
  16. この《肉の塊》はこの《心の作用》を通して、多次元輪郭空間への《見通し》を持つ。
  17. 心とは中丹田へのクオリアである。
  18. この《肉の塊》は中丹田を通して《思いこみの世界》への《見通し》を持つ。
  19. この《肉の塊》は上丹田を通して、《イデア世界》への《見通し》を持つ。
  20. 《知りつつあるモノ》は上丹田にある。感じつつあるモノは中丹田にある。《求めつつあるモノ》は下丹田にある。
  21. この《肉の塊》は、上丹田を通して《イデア世界》の『一切』への《見通し》を持ち、この《肉の塊》は中丹田を通して人びとの《心の世界》の『一切』への《見通し》を持ち、この《肉の塊》は下丹田を通して《求める思いこみの世界》の『一切』への《見通し》を持つ。

《プログラミングオブジェクト》《肉の塊》

  1. 《プログラミングオブジェクト》を《求める肉の塊》。
  2. 《肉の塊》は本当に《プログラミングオブジェクト》を求めているのか? 
  3. どのようにして、《肉の塊》《プログラミングオブジェクト》を求めるのか?
  4. 《肉の塊》は、群生相における役割を自らの《求める思いこみ》として持っているか?
  5. 《肉の塊》は、群生相において、『自らの役割』への《求める思いこみ》を持つ。
  6. 正命》とは『一切』への《見通し》の中で目標を設定することである。
  7. この《肉の塊》は、『一切』への《見通し》を持つことはできるか?
  8. 《肉の塊》は、群生相において、『一切』への《見通し》を持つことができるか?
  9. この《肉の塊》は、《プログラミングオブジェクト》への《正命》を持つことができるか?
  10. この《肉の塊》は、《群生相》において、《他者》の《心の作用》への《見通し》を持つことができる。が、私の《心の作用》への《見通し》を持たない。
  11. 《私》の《心の作用》からのこの《肉の塊》への《見通し》、と、この《肉の塊》からの《私》の《心の作用》への《見通し》《見通し》共振関係。
  12. この《肉の塊》は、この《肉の塊》の目への《見通し》を持つか?この目は、《私》の目なのか、《肉の塊》の目なのか? 目は、そのどちらにも帰属しない。目は、ただ、そこにある。
  13. この《肉の塊》もまた、この耳を通して音を聞く。
  14. この《肉の塊》もまた、この心を通して道理を知る。
  15. 《今・ここの・このモノ》の目、、心はそれぞれ絶対的な一者である。
  16. この《肉の塊》『一切』への《見通し》を持つ。
  17. 《肉の塊》《求める思いこみ》を持つ。それだけの話。でもなくて、どのようにして、《肉の塊》《求める思いこみ》を持つにいたるのか?
  18. この《肉の塊》は、《群生相》において、《他者》の《心の作用》への《見通し》を持つことができる。か? この《肉の塊》は『《他者》の「心の作用」へのクオリア』を感じることができる。『《他者》の「心の作用」へのクオリア』が、『一切』の中における《他者》の「心の作用」の『一切』である。『《他者》の「心の作用」へのクオリア』は《他者》の「心の作用」からの《思いこみ》である。《他者》の「心の作用」の《アニマ》である。故に、この《肉の塊》は、《群生相》において、《他者》の《心の作用》への《見通し》を持つことができる。
  19. この《肉の塊》は、群生相においては、《私》の《心の作用》への《見通し》を持たない。《私》は、群生相においては、《他者》への即応体制にある。《他者》への即応体制が、群生相における、《私》の「心の作用」である。
  20. 《他者》への《向かい合い》における、《私》の《魂》、は《他者》への《即応しつつあるモノ》、《即応のために待機しつつあるモノ》である。《他者》への即応において、『《私》なりのもの』という特徴が現れてくる。それが、《私》の《魂》であろう。

《混濁しつつある身体》《肉の塊》

  1. 《混濁しつつある身体》は、《身体》の内部の《持続する時間の・ここ》の《視点》からの輪郭である。
  2. 《肉の塊》は、《身体》の外部の《持続する時間の・ここ》の《視点》からの輪郭である。
  3. 《混濁しつつあるモノ》は、《身体》の内部からの《今・ここ》の《視点》からの輪郭である。

《息しつつあるモノ》《肉の塊》

  1. 《息しつつあるモノ》への《持続する時間の・ここ》の《視点》からの輪郭が《肉の塊》である。
  2. 《息しつつあるモノ》は《今・ここ》の《視点》からの輪郭である。
  3. 《息しつつあるモノ》《混濁しつつある身体》《肉の塊》

《肉の塊》と「腹」

  1. 腹で見ること。目にうつったモノを腹に送ること。
  2. 腹で考えること。頭に浮かんだことを腹に送ること。呼吸に合わせ考えること。
  3. 《肉の塊》で見ること、《肉の塊》を主体として考えること。
  4. 腹で動くこと。《肉の塊》を意識して決断すること。

《肉の塊》《私》

  1. 『私』《肉の塊》の中の情報である。『私』の『実感』も《肉の塊》の中の情報である。『私』という《知った思いこみ》が指し示している《私》《肉の塊》の中の情報である。《私》が感じる(モノの)クオリア《肉の塊》の中の情報である。
  2. 《私》《肉の塊》の中に在る。《肉の塊》の中の情報として在る。《私》情報循環の特異点という情報として在る。『情報循環の特異点』を《私》であると考えることもできるが、通常の意味での《私》はそのような意味のモノとしては捉えられていない。
  3. 《私》《我》《我》《絶対者公理》での絶対的中心者である。《我》情報循環の特異点である。情報循環の特異点は、《肉の塊》の中に存在するモノである。

《肉の塊》《体内感覚世界》

  1. 《肉の塊》と主観的主観。その肉の内部からの《視点》
  2. 「或る《肉の塊》の内部からの《視点》」を、その《肉の塊》の「主観」と呼ぶ。
  3. 「或る《肉の塊》の内部からの《視点》」をその《肉の塊》の外部からの《視点》で観察したモノを「客観的主観」と呼ぶ。
  4. 「或る《肉の塊》の内部からの《視点》」をその《肉の塊》の内部からの《視点》自身で観察したモノを「主観的主観」と呼ぶ。
  5. 「客観的主観」から「主観的主観」を観察するためには、その《肉の塊》の内部に鏡をおいて、その鏡を通して世界を見ればよい。極座標モデル。主観と客観との座標変換

《肉の塊》《思いこみ》

  1. 《思いこみ》はこの《肉の塊》の緊張である。
  2. 「緊張」って? この《肉の塊》の緊張とは《体細胞の群れ》の内部の情報である。
  3. 情報」って?

《肉の塊》《混濁》

  1. 《肉の塊》《混濁》を突き抜けた所に広がる《モノの世界》への《見通し》の中にある。
  2. 《肉の塊》への《視点》は一つの《視点》であり、この《肉の塊》の状態の一つである。《肉の塊》が一つの輪郭をもって現れる《視点》は・・
  3. 《肉の塊》は、別の《視点》からは見えない、か? 見えているのだが、それが《我》であるという認識には至らない、という問題がある。《肉の塊》が見える《視点》というのは、《我》《肉の塊》の因果律、動作、構造の中に霧散してしまう《視点》である。
  4. 《我》《肉の塊》の構造に組み込まれてしまう《視点》は、『正しい』《視点》か? 『良い』《視点》か? お釈迦さんが似たようなことを言っていたから、などというのは理由にならない。ブッダに逢ったらブッダを殺せ、だ。一つの《視点》であることは確かだ。
  5. 『一切』への《見通し》の中にあり、『一切』と調和的な《視点》であることは確かだ。それをもって、『正しい』《視点》であるとするなら、『正しい』《視点》ということになる。(同義反復、(^^;))
  6. 《群れのアニマ》での考察参照。

《肉の塊》ブッダの知見

  1. http://www.dia.janis.or.jp/~soga/comparsn.html
    1. 「釈尊は、つぶさに自己検分をして、自分は無我なる縁起の現象だったのだ、と明晰にご覧になった」
  2. 問題は、その後だ。それが、梵天勧請であり、八正道であり、格物誠意如悪悪臭、如好好色」〜平天下だ。

《肉の塊》《見通し》

  1. この《肉の塊》見通ししつつあるモノである。
  2. 正見》、《正見しつつある肉の塊》。
  3. 正見》とは、この世界の《全て》とこの《肉の塊》とその《繋がり》を見通すことである。
  4. 正見》というのは、多角的な傍観を言う。主観的価値のないモノとして、それ(そのモノ)を傍観することである。また、特定の/現在の《視点》にも主観的価値がないものとして、さまざまな《視点》から、そのモノを傍観することである。
  5. 正見》とは、この世界の《全て》とこの《肉の塊》とその《繋がり》を《すべての視点》から見通すことである。
  6. ここで言う《全て》は、《認識限界》の先にあるモノ(不可知のモノ)ではなく、記憶の中にあるモノである。《記憶の中にある全て》である。

《肉の塊》《動きつつあるモノ》

  1. 歩行中の《肉の塊》。秋の風と光の中、住宅街を歩きつつある《肉の塊》
  2. 《他者》と対話しつつある《肉の塊》
  3. 息しつつある《肉の塊》
  4. 家の外の樹の上でさえずりしつつある小鳥たちの《肉の塊》
  5. 動きつつある肉の塊》というモノがある。
  6. 《私》《思いこみの世界》の中に、『《動きつつある肉の塊》というモノたち』への《知った思いこみ》を追加すること。
  7. 《私》は、《私》が《動きつつある肉の塊》であるときに、《動きつつある肉の塊》からの《知った思いこみ》を感じる。
  8. 《今・ここの・このモノ》は、《動きつつある肉の塊》からの《知った思いこみ》を感じない。《息しつつある肉の塊》からの《知った思いこみ》を感じるだけである。
  9. 《知りつつある思いこみ》。《知りつつあるモノ》世界から受け取りつつある《思いこみ》を《知りつつある思いこみ》という。《知りつつあるモノ》《背後者》へ、記憶として保管されるまえの《思いこみ》である。
  10. 《正業》(しょうごう)。《正業しつつある肉の塊》。《肉の塊》動くことを業(ごう)という。
  11. 《妄業》と《正業》。《妄業》は《我》見失った《肉の塊》《動き》である。
  12. 《正業》とは、この《肉の塊》世界の《全て》とその《繋がり》への《見通し》のなかで、この《肉の塊》動くことである。

《肉の塊》《思いこみの世界》

    1. 《肉の塊》の1は《肉の塊》自体である、
    2. 《肉の塊》の2は《モノの世界》である。
    3. 《肉の塊》の3は《思いこみの世界》である。
  1. 《思いこみの世界》は、蚕が繭をはきだして、蚕が繭を世界であると認識するようなモノか?
  2. 《思いこみの世界》《肉の塊》の中に在る。《思いこみの世界》入り込《視点》は、《肉の塊》の中に有る。《肉の塊》の中の《視点》《肉の塊》の中の《思いこみ》に入ったときに、《視点》《思いこみ》世界であると認識する。
  3. 《思いこみの世界》の実体は《体内感覚世界》である。《視点》《肉の塊》自体から、《肉の塊》の中の一部分に縮小して、その一部分から《体内感覚世界》世界として捉えるようになったモノが、《思いこみの世界》である。
  4. 《体内感覚世界》は、《肉の塊》の中の《視点》が、《肉の塊》世界として感じることである。
  5. 《思いこみの世界》《求める思いこみ》が作り出す、か? 《視点》《動き》のためにあるのである。《動き》《求める思いこみ》《知った思いこみ》によって決定される。《視点》《求める思いこみ》に必要な内容であることが期待される。その期待が大きくなると、(大きくなくても多少は)、《求める思いこみ》の都合に合わせて《知った思いこみ》が変形させられる、ということが生じる。//《思いこみの世界》《思いこみ》噴出によって生じる。噴出した《思いこみ》が繋がってできたモノ《思いこみの世界》である。《思いこみ》噴出《動き》であり、《求める思いこみ》によって駆動される。よって、《思いこみの世界》《求める思いこみ》によって駆動され、形成される。
    1. 《肉の塊》の1は《肉の塊》自体である、
    2. 《肉の塊》の2は《モノの世界》である。
    3. 《肉の塊》の3は、それ自体が《思いこみの世界》であるような《肉の塊》自身である。これは、《求めつつある肉》であろう。《思いこみの世界》《求める思いこみ》が作り出す幻だからだ。
    4. 《肉の塊》の4は、それ自体が、それにとっての《思いこみの世界》であるようなモノたちの《群れ》である。つまりモノたちの《アニマ》《群れ》である。
    5. 《肉の塊》の5は、モノたちの群れの共同幻想であろう。モノ世界の規則であり、法則であろう。モノたちの群れの法則・規則を知っている《肉の塊》であろう。知ったつもりの《肉の塊》であろう。
    6. 《肉の塊》の6は、この流れていくと、知ったつもりのモノたちの群れになるな。
  1. 結局、《身体》《求める思いこみ》《知った思いこみ》といういつものパターンに戻ってしまった。
  2. 1、3、5は《私》であり、2、4、6は《私》世界である。

《肉の塊》と輪郭。 《肉の塊》は輪郭であり、輪郭はモノ《視点》との間の相互作用によって形成される。

  1. 《肉の塊》の1は、「《肉の塊》は自動する」である。
  2. 《肉の塊》の2は、「すべての《思いこみ》所有者は《肉の塊》である」である。「《肉の塊》は自想する」「《肉の塊》は自(おの)ずから《思いこみ》噴出する」。

《肉の塊》と《他者の事情》

  1. 《肉の塊》の2は、《他者》の事情。《他者》からの《他者の事情》への《繋がり》
  2. 《肉の塊》の3は、《他者》から《私》への《繋がり》
  3. 《肉の塊》の4は、《私》から《他者の事情》への《繋がり》
  4. 《私》、この《肉の塊》には《事情》がない。《他者》には《他者の事情》がある。なぜだ。
  5. 《他者の事情》とはなにか? 《他者》からの《他者の世界》への《繋がり》が《他者の事情》であろう。《他者》所有物への《繋がり》《他者》の別の《他者》への《繋がり》

《肉の塊》と規範意識、《他者からの眼差し》

  1. 《肉の塊》の2は、『ドーデモイー』ことだよ。
  2. 《肉の塊》の3は、《他者》の眼差し。これは規範意識。
  3. 『ドーデモイー』ということは、傍観であろう。
  4. 自棄意識は《他者からの眼差し》に怯える。
  5. 『ドーデモイー』は《肉の塊》自身の問題だろう。なので、
  6. 《肉の塊》の2は、《他者からの眼差し》であり、《他者からの眼差し》は《私の内なる規範意識》だろう。《他者から私への繋がり》が《私の内なる規範意識》の源泉なのだ。
  7. 《私》とは《今・ここの・この肉の塊》である。
  8. 《肉の塊》の3は、八正道になるか・・。

《肉の塊》《繋がり》

  1. 《肉の塊》の1は《肉の塊》自体である、《肉の塊》の2は、この《肉の塊》世界である。
  2. 《肉の塊》の3は《繋がり》か。
  3. モノ(の位置、形状、性質、意味)を変える《肉の塊》《動き》
  4. 息することは、空気《肉の塊》《繋がり》
  5. 《繋がり》とは相互に変え合うこと、か?

《肉の塊》《ちから》

  1. 《ちから》というのは「腕に《ちから》を込める」というように、モノとしては《動き》がないのだが、《ちから》が入っているという状態。作用への《ちから》と反作用への《ちから》を同時に存在させることにより、《ちから》はあるのに《動き》がないという状態。もちろん、作用のみの《ちから》もあるがその場合には《動き》によって《ちから》は解消されてしまう。
  2. 《思いこみ》《ちから》であろう。

《肉の塊》と《正見

  1. これは《肉の塊》である。
  2. これは《動きつつある肉》である。
  3. これは《知りつつある肉》である。
  4. これは《思いこみつつある肉》である。
  5. これは《思いこみ》の内外循環である。
  6. これは、そのようなモノでしかない、と分かる。それが、そのようなものでしかあり得ないのであるとするなら、そのような見方は《正見》である。
  7. 正見》というのは、多角的な傍観を言う。主観的価値のないモノとして、それ(そのモノ)を傍観することである。また、特定の/現在の《視点》にも主観的価値がないものとして、さまざまな《視点》から、そのモノを傍観することである。
  8. 《肉の塊》を《正見》すると、《肉の塊》は緊張を失い、呼吸が荒々しくなる。
  9. 《肉の塊》を《正見》すると、それが《動きつつある肉》であることがわかる。
  10. 《肉の塊》を《正見》すると、それが《知りつつある肉》であることがわかる。
  11. 《肉の塊》を《正見》すると、それが《思いこみつつある肉》であることがわかる。
  12. 《肉の塊》を《正見》すると、それが《思いこみの内外循環》であることがわかる。
  13. 《肉の塊》を《正見》すると、それが《正見》されつつある《肉の塊》であり、同時に《正見しつつある肉》であることがわかる。
  14. これは《正見》しつつある《肉の塊》である。
  15. これは《正思惟》しつつある《肉の塊》である。
  16. これは《正語》しつつある《肉の塊》である。
  17. これは《正業》しつつある《肉の塊》である。
  18. これは《正命》しつつある《肉の塊》である。
  19. これは《正精進》しつつある《肉の塊》である。
  20. これは《正念》しつつある《肉の塊》である。
  21. これは《正定》しつつある《肉の塊》である。
  22. 《正思惟》は、おそらく、《正見》によって生じた《知った思いこみ》を統合する思惟であろう。
  23. なんとなく、やっと、八正道(の聞慧)にたどり着いた感じ。
  24. これは《正見》しつつある《肉の塊》である。というのは、《知った思いこみ》ではない。《求める思いこみ》である。従って、これは『正見しつつある肉の塊』である、というのが正しい。《肉の塊》は、漏尽によって、《かたち》を失う。どのような規定でも可能な状態になる。しかし、何らかの規定が必要である。そこで、『正見しつつある肉の塊』である、という規定を行って、その《視点》から見るようにする、ということ。

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Last modified:2007/06/25 00:21:49
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