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《特別者公理》

《特別者公理》とは

  1. キーワード
  2. 《同質者公理》
  3. 《絶対者公理》
  1. 《私》《他者》とは性質の異なるモノ=《特別者》=である」という考えを《特別者公理》と呼ぶ。
  2. 反対の概念「《私》《他者》と同じ性質のモノである」という考え方を《同質者公理》と呼ぶ。
  1. コノ此時此処(いま・ここ)は特別であり、他の此時此処とは異なる、という考えを特別者公理と呼ぶ。
  2. それに対して、《宇宙史》の何処をとっても此時此処であり、特別な此時此処は存在しない、という考えを同質者公理と呼ぶ。

区別

《私》《他者》とは性質が異なるのか?

  1. ○:《他者》にも《他者の私》がある。《直知》可能性の違いは、モノの違いではない。
  2. ×:《他者》に《他者の私》があるかは、《私》は確認することができない。《他者の私》は《私》と同じ性質であるかを、《私》は確認することはできない。《直知》可能性が異なる。

認知情報《特別者公理》

  1. 『私』との《繋がり》をもたない認知情報《知った思いこみ》ではない、だろう。
  2. モノは外部世界から認知情報を取得し、モノの内部状態として保持し、決断情報に変換し、《動き》として実現する。
  3. モノは、そのモノ自身を、外部世界の中の特異点として認知し、認知情報として取得し、保存する。それを『我情報』と呼ぶ。『我情報』は『世界情報の一部分であるが、決断において、『我』以外のモノとは性質が異なった、正反対の性質を有するモノ、特異なモノとして認識される。例えば、モノが右に動くことと、《我》が右に行くことでは、正反対の意味を有する。《我》世界のなかの特異点である。《特別者公理》

《特別者公理》と「鏡としての《同質者公理》

  1. 《私》は、《私》と《彼》が同質であることを知っている。「《私》と《彼》とは同質である」に決まっている。《私》《同質者公理》が正しいと信じている。信じると言うことは思いこむということであるが、その《思いこみ》は《正しい思いこみ》である、と信じている。
  2. しかし、確実に言えることは、《私》は《彼》であることができず、《私》《私》世界の中心であり、《私》は《彼》を知ることができない、ということだ。
  3. しかし、《私》は《彼》が《私》と同質であることも知っている。《彼》は《私》であることはできず、《彼》は《彼》の世界の中心であり、《彼》は《私》を知ることができない、と知っている。そして、《彼》は、「《彼》と《私》とが同質であると信じている」ということも知っている。
  4. 何故に、《私》は《彼》を知っているのか? どのようにして《私》は《彼》を知っているのか。 《私》は《彼》を《私》の鏡として知っているのである。
  5. 《特別者公理》を数学的モデルで表すと、極座標モデルになる。《私》が特別者であるのは、極座標の原点が特異点(特別者)であることと同値である。
  6. 極座標は、座標変換によって直交座標に変換することができ、さらに、別の点に原点を置いた極座標に変換することもできる。《私》《視点》を《彼》の《視点》に変換することが、数学的には、可能なのである。
  7. →「自由視点テレビ
  8. さらに言えば、《私》《視点》も、《私》《身体》が取得した情報を演算によって再構成した幻覚に過ぎないのである。((これは《特別者公理》の命題ではない))。
  9. 《私》は実は、3次元世界を感じているだけではなく、色や音を感じるのと同様に、《他者》の位置に《他者の思いこみ》《他者のアニマ》を感じているのである。
  10. 《私》は、絶対的原点としての《私》《視点》から、《他者》の内部に鏡を置くことによって、《他者》《視点》も見通すことができるのである。
  11. ミラーニューロンの働きであろう。
  12. 《私》《視点》から、《他者》の内部の鏡を通して世界を見ることは、《特別者公理》の延長にある。《特別者公理》である。
  13. 《私》《視点》から、《他者》の内部の鏡の《視点》を通して、《私》《身体》の内部に《私》《視点》を見通すこともできる。《私》《視点》《他者》の《他者》《視点》

《特別者公理》と「相対化された《特別者公理》

  1. すべてのモノは絶対的な特別者である。すべてのモノは特別者である、が故に、すべてのモノは相対的な同質者である、という《視点》を「相対化された《特別者公理》」と呼ぶ。
  2. 論理的には、「そうであるなら、《特別者公理》は誤りである」という結論になるだろう。しかし、《特別者公理》は無矛盾である。《特別者公理》には「すべてのモノは絶対的な特別者である」という公準はない。「すべてのモノは絶対的な特別者である」というのは《相対者公理》の命題だからである。《相対者公理》《特別者公理》を取り込もうとして考案した命題である。《特別者公理》の公準は「《私》は特別者である」ということであって、「すべてのモノは」ということは言わない。《私》以外のモノは、《私》世界の中の一部分でしかない。
  3. 複数の公理は、それぞれ無矛盾で併存する。
  4. 我々は、複数の公理を二つの眼で見るべきである。

一神教と《特別者公理》

  1. 一神教というのは、絶対的支配者を必要とする自我構造の人々にとっての《アニミズム》なのだ。《特別者公理》を越えることができない人々の《アニミズム》なのだ。
  2. ブッダは端的に《絶対者公理》を宣言することによって、《絶対者公理》を乗り越えた。その洗礼を受けていないから、絶対的支配者を必要とする自我構造のままなのだ。
  3. →「主観的価値絶対主義と客観的価値相対主義と・・」

一神教的な《神の視点》と《特別者公理》

  1. イスラム的な《神の視点》は違うな。『神』は恵みたまう、許したまう『神』なのだ。ヒトに自由意志を禁止する奴隷主の神ではない。ヒトの自由意志を許したまう『神』なのだ。
  2. ユダヤ的な《神の視点》も違うな。ユダヤ人は神なんか信じていない、ホロコーストの献げ物を送れば裏から操ることができるトンマな神でしかない。→「イスラエルの名前の由来」。
  3. キリスト教的な《神の視点》。『神』が特別者であり、『私』を含めたモノたちは『神』の被造物であり、『神』に動かされるモノである、という《視点》『私』の『外部』から『私』を支配する絶対者としての『神』《視点》『私』は《神の視点》を通して(鏡として)世界を見ることができる、という構造。
  4. キリスト教における《神の視点》とは「モノは自ら動くのではなく、他のモノによって動かされる」「他のモノも他のモノに動かされる、究極的に動かすモノが、この世の世界の外にある」という説明方法。
  5. キリスト教における《神の視点》とは外化された特別者の視点である。
  6. 外化される前の特別者の視点とは、《我》の視点である。世界の中心としての《知りつつあるモノ》の視点である。
  7. 外化された視点とは、鏡である。
    1. 《知りつつあるモノ》世界の中心から逃れることはできない。
    2. 《知りつつあるモノ》は鏡としての《神の視点》に写った世界を見ることができる。
  8. 《神の視点》の《思いこみ》の中に入り込むことによって、《私》は《神の視点》から世界を見る。
  9. 《神の視点》とは外化された《特別者公理》である。
  10. 《入り込み》による認識。
  11. 鏡による認識。
  12. 《神の視点》はヒト《アニマ》である。ヒト《身体》の中の《思いこみ》に過ぎない。《思いこみ》《近傍物理空間》重ね合わせることはできる。《重ね合わせ》心の作用であり、ヒト《身体》内部の《思いこみ》の操作である。
  13. 《視点の移動》
  14. 《知りつつあるモノ》世界の中心から逃れることはできない」というのは、《ヒトのアニマ》である。ヒト《身体》の中の《思いこみ》に過ぎない。ヒト《モノの世界》の中の《身体》の中の《知りつつあるモノ》世界を知るのである。
  15. 科学》はヒト《アニマ》である。ヒト《身体》の中の《思いこみ》に過ぎない。
  16. 科学もまた、外化された《特別者公理》である。
  17. 《アニマ》も、外化された《特別者公理》である。ただし、日本的《アニミズム》における《アニマ》においては、《アニマ》は相対化された特別者である。(すべてのものが特別者であるが故に、すべてのものは同質者である)。

科学的認識と《特別者公理》

  1. たけ(tk)アニミズムは、《今・ここの・このモノ》に認識主体性があるのだから、モノには認識主体性がある、という仮説である。
    1. 「確認 予測が正しく生じるかどうかを検証するために予測の検証実験を実施すること。」確認方法がない、という問題。モノに認識主体性がないなら、モノ《ちから》を加えても、そのモノはその《ちから》を認識できないので、モノは動かないはず。素粒子が《知りつつあるモノ》を持たないなら、引力も斥力も知ることができない。知ることができないなら影響を受けることができない。引力や斥力の影響を受けた《動き》をすることができない。
    2. 「評価 推測が確実な説明であると確信が示せるまで、観測結果に対する可能性ある別の説明を探すこと」。別の説明方法は可能である。「モノは知ることを必要とせずに外部からの力で動かされる」という説明方法。「モノ動く、のではなく、動かされる」という説明方法。しかし、このデカルト的説明方法はもう一つの、説明方法である。どちらでも説明できるなら、デカルト的説明方法が正しい、ということにはならない。どちらかというと、「知る」というコトバの定義、適用範囲の問題である。違うのは超越的な《神の視点》で記述するか、《共感的な視点》で記述するかの違い。《特別者公理》で記述するか、《同質者公理》で記述するかの違い。
  2. モノ動く、のではなく、動かされる」という説明方法は、《我》以外の《他者》動くのではなく、動かされる、という説明方法になる。《他者》の主体性を拒否する説明方法である。ひいては、《我》の主体性も否定する結果になる説明方法。この説明方法は、ヒトは神によって動かされる、というキリスト教的説明方法である。世界は自ら動くのではなく、神によって作られた、というキリスト教的説明法方法である。
  3. 科学や数学という「正しいコトバ」と《浄化球》《モノの世界》を比較的正確に記述しているコトバ《モノの世界》を《神の視点》から記述するコトバヒトは、物質に対しては、《神の視点》から物質を見おろすことができる。《神の視点》とは《特別者公理》の視点である。客体である物質は、《私》とは何の繋がりも無い、《私》とは質的に異なるモノなので、《私》は、全く冷静に、客観的に、物質を観察することができる。
  4. 科学的な《神の視点》においては、《私》は物質に対して同質者としての共感を持つことはない。《私》は物質に《アニマ》を感じることはない。
  5. 物質世界科学的に観察する《私》は、物質世界の中のモノではない。科学的に観察された物質世界の中のモノは、《アニマ》を奪われたモノである。物質世界を観察しつつある《私》《アニマ》そのものだかが、《私》は物質世界の中のモノではない。科学的に観察しつつある《私》は、モノから《アニマ》を奪い去りつつあるモノである。《特別者公理》における認識者である。
  6. 科学的思考とは、《他者》から《アニマ》を奪い去る思考様式である。《他者》《アニマ》なきモノとみなす思考様式である。
  7. 科学的認識は《知った思いこみ》として『正しい』か? ヒトの生き方に何らの判断基準ももたらさない《知った思いこみ》は『正しい』か?
  8. モノの(コトバ《思いこみ》からの)離存性から見て、モノは善でもなく悪でもない、(真でもなく偽でもない)。美でもなく醜でもない。善悪、真偽、美醜は《思いこみ》の中にしかない。
  9. モノ離存性から見て、モノを記述するコトバが、善でもなく悪でもなく、真でもなく偽でもなく、美でもなく醜でもない、というのは妥当な帰結であろう。

「観測者問題」と《特別者公理》

  1. ヒト《他者》を観察者として認めることができるか?

《同質者公理》と同心円的世界観。

  1. 《知りつつあるモノ》のまわりに《体内感覚世界》があり、《体内感覚世界》のまわりに《近傍物理空間》がある、という同心円的世界《近傍物理空間》のまわりに《背後者世界》がある、という同心円的世界観。《背後者世界》のまわりには《共振しつつある世界》があるという同心円的世界観。
  2. 《特別者公理》には同心円的世界観がよく似合う。

《特別者公理》《絶対者公理》

  1. 《特別者公理》は相対的なものではない、という意味で《絶対者公理》というべきか?
  2. 《相対者公理》《絶対者公理》のほうが対になった感じがある。

排他的民族主義と《特別者公理》

  1. 排他的民族主義は《特別者公理》の現れの一つである。

「観測者問題」について http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi 06 名前:たけ(tk)(レス魔社長)さん 投稿日:2/20-15:52 No.4554

    1. 「観測者問題」:
    2. 人は何故に、《他者》を観察者として認めることができるのか?
    3. 《他者》《私》と同じ観察者でありうるというのは《思いこみ》でしかないではないか。
    4. ・・この《思いこみ》《同質者公理》と呼ぶ。
Last modified:2017/06/29 17:47:08
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References:[《他者》の《他者》] [《同質者公理》]