FrontPage  Index  Search  Changes  wikifarm  Login

《同質者公理》による再構成

《たけ(tk)の思いこみ》《同質者公理》による再構成

《同質者公理》という視点:

《背後者》への見通しの先には《共振しつつある身体》がありその先には《他者》があるので、そのまま進めれば《他者》への見通しが得られそうである。

しかし、その前に、もう一つ別の視点から、《他者》を再構成する必要がある。この視点からの再構成により、《他者》への見通しに必要な《他者》のモデルが得られるはずだ。また、《知りつつあるモノ》などの《混濁》そのものについても新しい視点が開けるだろう。

その視点というのは『《他者》《私》と同じ性質のモノだ』という視点である。これを《同質者公理》と呼ぶことにする。

* 《思いこみ》の内容であることを強調したいときには『』で囲んで記述する。

《特別者公理》という視点:

《他者》《私》と同じ性質のモノだ』というのは当たり前だ、とは言うことなかれ。《混濁》から始まる今までの視点では、《私》《他者》とはまったく別の性質の存在だったのである。

《同質者公理》の反対の視点、すなわち『《他者》《私》と同じ性質のモノではない』という視点を《特別者公理》と呼ぶことにする。

《特別者公理》は『《私》《他者》に対して特別なモノである』という視点である。《混濁》から始まる今までの視点は《特別者公理》での視点だったのである。

《特別者公理》というのはナンセンスだ、とお思いでしょうが、じつは、人間心理に深く根づいており、様々な場面で、いろいろな形をとって人間社会に現れてくる。 (→《特別者公理》が現れる例、《特別者公理》が好まれる理由、《特別者公理》がいびつな形で現れる理由)

しかし、やはり、《特別者公理》ではまずいのである。(《特別者公理》の帰結)

しかしまた、《同質者公理》もそのままではまずいということを知っておくべきである。《同質者公理》が帰結するものは「客観的」モデルの形成である。この客観的な視点では、そのままでは生きる智慧にはならない。生きる《ちから》を導かないのである。

したがって、《同質者公理》による再構成を踏まえたうえで、再度《特別者公理》に基づいて《他者》への見通しを得るようにしなければならない。

《他者》《私》《ヒトの個体》の定義:

《他者》《近傍物理空間》に現れたモノであり、その出現によって《知りつつあるモノ》を撹乱する性質を有するモノである。

《私》を「他者との相対において、《知りつつあるモノ》の側にある(はずの)、他者と同じ性質を持ったモノ」と定義しておく。

《私》というのは上の定義によって生じた《思いこみ》の中のモノである。未だ、全く未知なるものである。

《私》《他者》とをあわせたモノ《ヒトの個体》と呼ぶことにする。

「客観的」の定義

ここで「客観的」というコトバも定義しておこう。

「客観的」というコトバは「《知りつつあるモノ》の有無に関らず存在する」という意味で使う。もしくは「《知りつつあるモノ》が知っていようが知っていまいがに関らず存在する」という意味で使う。

寝ている時の身体は、《知りつつあるモノ》が知らないモノだが、おそらくは、あるのだろう。毎日朝起きれば、そこにはいつも身体がある、ということを、《知りつつあるモノ》は知っている。従って身体は「《知りつつあるモノ》が知っていようが知っていまいがに関らず存在する」モノ、すなわち、客観的なモノである。

《近傍物理空間》も、眠りから目覚めるたびに、おそらく同一のモノが継続性をもって《知りつつあるモノ》の前に現れる。また《知りつつあるモノ》が電車に乗れば、寝室の《近傍物理空間》認識限界のかなたに移動し、電車の中の《近傍物理空間》からは消えてしまう。しかし、自宅に帰れば、ほぼ同じ寝室の《近傍物理空間》が現れる。従って、《近傍物理空間》も客観的存在と言うべきであろう。

客観的存在としての《近傍物理空間》《客観世界》または《客観的物理空間》と呼ぶことにする。

《他者》もまた客観的存在である。《他者》《私》《近傍物理空間》に現れたり立ち去ったりするが、おそらくは、立ち去った後も、同一性を保ったままに継続し、それが再び現れると考えられるからである。

ただし、ここで言う「客観的」というのは《思いこみ》であることに注意してほしい。『経験上、おそらく、《知りつつあるモノ》が知らない時にでも存在するのであろう』という推測が「客観的」というコトバの内容なのである。経験によって得た記憶《思いこみ》であり、推測も《思いこみ》である、従ってそれらの結論として得た「客観的」というのも《思いこみ》なのである。

* 通常の意味での客観的というコトバとは意味が違うかもしれない。世上で言われている「客観的」というのは、複数の人によって確認されたモノ、という意味合いが強い。しかし、ここでは、まだ他者の存在は疑わしいのであるから、そのような意味での「客観的」とは別の意味である。

《同質者公理》による《身体》の再構成

《同質者公理》によれば《他者の身体》《私》《身体》とは同じ性質のモノである。

《他者の身体》への視点には次の3種類がある。

  1. 《近傍物理空間》の中のモノとしての《他者の身体》
  2. 《客観世界》の中のモノとしての《他者の身体》
  3. 《知りつつあるモノの背後者》《背後者》としての 《共振しつつある身体》《共振しつつある世界》の中のモノとしての《他者の身体》

《私》《身体》への視点にも3個の種類がある。

  1. 《混濁の世界》モノとしての《身体》、体外感覚によって知られたモノとしての《身体》
  2. 体内感覚によって《知られつつあるモノ》としての《身体》
  3. 《知りつつあるモノの背後者》世界の《認識限界》としての《身体》《共振しつつある身体》

まず、「《近傍物理空間》の中のモノとしての《他者の身体》」と「体外感覚によって知られたモノとしての《私》《身体》」とが同じ性質のモノであることは容易に見て取ることができる。

《他者の身体》《私》《近傍物理空間》の中のモノであるから、《同質者公理》によれば、《私》の《身体は》、《他者》《近傍物理空間》の中のモノである。

しかし、「体内感覚によって《知られつつあるモノ》としての《私》《身体》」と「《近傍物理空間》の中のモノとしての《他者の身体》」とではかなり見え方が違う。というより、他者の身体を体内感覚によって知ることは出来ないのである。しかし、《同質者公理》によれば次のようになるだろう。《他者の身体》の中には他者の《知りつつあるモノ》があり、他者の《知りつつあるモノ》はその体内感覚において《他者の身体》を知ることができる、ということである。

《私》《共振しつつある身体》」と「《近傍物理空間》の中のモノとしての《他者の身体》」との関係も同様であろう。《同質者公理》によれば次のようになるだろう。《他者の身体》の中には《他者》《知りつつあるモノ》があり、《他者》《知りつつあるモノ》は《背後者感覚》において《他者の身体》《共振しつつある身体》として感じることができる、ということである。

「客観的存在としての《他者の身体》」と「私の《身体》」との同質性を考えるとどうなるだろうか。その結論は、《私》《身体》もまた客観的な存在である、という帰結になる。《私》《身体》は、《他者》《知りつつあるモノ》が知ろうが知るまいが、あろうがなかろうが、存在するのである。従って、《私》《身体》は、《他者》《知りつつあるモノ》にとって、客観的な存在なのである。

さすれば、体内感覚における身体や背後者としての《共振しつつある身体》もまた、客観的存在である、という結論になるであろう。

また、《他者》《共振しつつある身体》《私》《共振しつつある身体》とが同質であろうということは、それがどういうモノであるかは別として、容易に想像がつく。同じ性質のモノとして共振しあっているのである。(見通しにおいては別物であるが、《同質者公理》の視点から言えば同じである)。

客観的存在としての《他者の身体》に対応する客観的存在としての《身体》も同じ性質であろう。どちらも、《近傍物理空間》の中に出入りする。もっとも、《他者の身体》は、《知りつつあるモノ》が起きているときに出入りするのにたいして、《身体》《近傍物理空間》から消えるのは、《知りつつあるモノ》がなくなったとき、すなわち、《私》が寝たときである。

《同質者公理》による《近傍物理空間》の再構成:

《同質者公理》によれば、《私》《身体》《他者》《近傍物理空間》に入ったり出たりするはずである。

つまり、《他者》にも《他者》《近傍物理空間》があるということになる。

《私》《近傍物理空間》は、《私》《知りつつあるモノ》が直接に感じ取ることができる近傍の物理空間である。《他者》《近傍物理空間》も同様に、《他者》《知りつつあるモノ》が直接に感じ取ることができる近傍の物理空間である。

《近傍物理空間》《ヒトの個体》ごとにある、ということになる。

《近傍物理空間》は、《客観的物理空間》の中にある《ヒトの個体》《知りつつあるモノ》が直接に感じ取ることができる近傍の物理空間である。

この《近傍物理空間》は《客観的物理空間》のうちの《ヒトの個体》の近傍の部分を切り取った、《客観的物理空間》の一部分である、ということになる。

《客観的物理空間》には複数の中心者があるということになる。

《同質者公理》による《知りつつあるモノ》の再構成:

次に、《同質者公理》によれば、《他者》にも《知りつつあるモノ》がある、ということになる。

《他者》《知りつつあるモノ》《私》《知りつつあるモノ》にとっては不可知なモノ、不可直観的なモノである。それは、《私》《思いこみ》において、《私》《思いこみ》としてのモデルとしてしか想像できない。

《私》は、《他者》《知りつつあるモノ》の存在を共感によって知るというべきかもしれない。共感は、身体レベルでの共振を下位プロトコルとして、感じることであろう。

《他者》《知りつつあるモノ》があるとすると、それは、《他者の身体》の内部にしかあり得ないであろう。

とするなら、《私》《知りつつあるモノ》《私》《身体》の中にしかあり得ないことになる。

《知りつつあるモノ》《混濁の世界》の中心であった。《このヒト》に知りつつあるものがあり、《混濁の世界》があるのであれば、《他者》にもまた《知りつつあるモノ》があり、《混濁の世界》がある。

《ヒトの個体》ごとに《知りつつあるモノ》があり、《混濁の世界》がある。《知りつつあるモノ》は複数あり、《混濁の世界》もまた複数あることになる。

《混濁の世界》自体が複数あるということであれば、《混濁の世界》の中心が複数あるといっても、疑問はないであろう。しかし、《他者》《混濁の世界》(及びその中の《近傍物理空間》)と《私》《混濁の世界》(及びその中の《近傍物理空間》)とは「同じ」であるのか? それとも、別の《思いこみ》なのか?

その答えはおそらく次のようになるだろう。《他者》《私》も《客観的物理空間》の中にある身体的なモノである。《他者》《私》もその《身体》の中に《知りつつあるモノ》を持つ。そして、それぞれの《知りつつあるモノ》《混濁》の状態にもなるし、明晰な状態にもなる。明晰な状態で《近傍物理空間》を知るというのも、《混濁》の状態で《混濁の世界》を知るというのも、それぞれの身体に生じた《思いこみ》である。それは別の身体であり、別の《知りつつあるモノ》であり、別の《思いこみ》である。

しかし、それと同時に、《他者》《私》も、『同じ《客観的物理空間》を共有している』とそれぞれに思いこんでいるのである。

《同質者公理》による《思いこみ》の再構成:

《他者》《思いこみ》《他者の身体》の中にしかあり得ないだろう。

さすれば、《私》《思いこみ》もまた《私》《身体》の中にあることになる。

《私》《身体》動きを通じて、身体内部の《思いこみ》表出している。《他者》もまた、彼の身体内部の《思いこみ》を彼の動き(身体的な動きや発言)によって身体の外部に表出しているのである。

さすれば、《他者》《他者の身体》動きとして表出している《思いこみ》の徴表を観察すれば、他者の内部にある《思いこみ》が見通せるかもしれないのである。

《同質者公理》による《背後者》の再構成:

《他者》《知りつつあるモノ》《背後者》は心理学的に観察されている。無意識、潜在意識と言った名前で呼ばれている。

いわゆる『科学的』な学者は、《他者》の心理しか扱わない。《私》の心理は『客観的』ではないので対象外であるとするのである。しかし、《同質者公理》によれば、《他者》《私》とは同質なのであり、《私》の心理もまた客観的な存在なのである。何故に、《私》の心理を対象外とするのか、説明がつかないであろう。

Last modified:2005/03/03 19:17:53
Keyword(s):
References: