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《同質者公理》

  1. キーワード《同質者公理》
  2. 公理《同質者公理》

定義

《私》《他者》と同じ性質のモノである」という考え方を《同質者公理》と呼ぶ。

《同質者公理》によれば、

  1. 《私》について当てはまることは《他者》にも当てはまり、
  2. 《他者》について当てはまることは《私》にも当てはまる。

* 反対の概念「《私》《他者》とは異なる特別者である」という考えを《特別者公理》と呼ぶ。《特別者公理》においては、

  1. 《私》について当てはまることは《他者》には当てはまらず、
  2. 《他者》について当てはまることは《私》には当てはまらない。

* 《相対者公理》《同質者公理》とはほぼ同じモノ

* モノの内部に入り込直観(ベルクソン、「分析と直観」『哲学的直観ほか』p.5)

* 公理《思いこみ》に過ぎないから『同質者公理』と記述すべきか?

区別

《混濁しつつある他者の身体》《同質者公理》

  1. 《混濁しつつある他者の身体》《同質者公理》か? ○:。×:《混濁しつつある身体》はあくまでも特別者であり、《混濁しつつある他者の身体》《混濁しつつある身体》によって共感された内容でしかない。《特別者公理》の延長である。

「私たち」と《同質者公理》

  1. 《私たち》とか《我々》という主体はあり得るか?
  2. 「我々」というコトバは、彼が《私》に彼の《思いこみ》を強制するときの殺し文句に過ぎないのではないか?
  3. 「我々」はどのヒトの個体でもありえない、《ヒトの群れ》を主体に見立てた表現である。
  4. 《ヒトの群れ》は主体でありうるか?
  5. 《ヒトの群れ》と体細胞の《群れ》《私》は体細胞の《群れ》なのだ。

《同質者公理》《相対者公理》

  1. 《私》の性質と他のモノの性質とが同じか異なるか、という性質についての公理が、《同質者公理》《特別者公理》かの区別。
  2. 《相対者公理》は、おそらく、捨てるべき公理《視点》の出発点が相対者であることはあり得ない。

《絶対者公理》《特別者公理》

  1. 《絶対者公理》《特別者公理》とは別のモノ《見通し》は絶対者でなければならないが、特別者である必要はない。(特別者であってはならない、ということもない)。
  2. 絶対者であるということは特別者であるということである。絶対者は、「絶対者という特別な性質を持ったモノ」なので、特別者である。
  3. 特別者であることは絶対者であるということではない。

《同質者公理》《絶対者公理》

  1. 《同質者公理》《絶対者公理》とは両立する。
  2. 《私》の性質と他のモノの性質とが同じか異なるか、という性質についての公理が、《同質者公理》《特別者公理》かの区別。《視点》の出発点は絶対者でしかあり得ない。
  3. 絶対者としての《私》が、相対者としての《他者》と同質であることはありえない。か? 同質かどうかは、《私》は他のモノではありえないのだから、確実に知ることはできない。確実に知ることがありえない事物について「同質でない」と判断することはできない。「同質である」も「特別である」も成り立ち得る。

《同質者公理》見通し

  1. 《同質者公理》見通しをもたらすことができるか?
  2. 《私》以外を視点とする《見通し》はあり得ない。が、《他者》なり《神》なりの視点を媒介とする《見通し》は可能。その場合には、《他者》や《神》は鏡として機能する。《私》が鏡としての《他者》の場所に出向いて、そこから見通すことになる。ただし、その場合は、《思いこみの世界》への《入り込み》で見通すことになる。
  3. 当為モノに内在する《アニマ》である。モノが存在であるので、モノに内在する当為も存在である。存在としての当為。存在としての《見通し》は相対者の中に存在する。モノ《アニマ》としての《見通し》モノの中に存在する。
  4. 『主体』は当為に関する《思いこみ》である。『当為の主体』という《思いこみ》である。
  5. 『同質者公理』の《思いこみの世界》における見通しはあり得るだろう。しかし、《思いこみの世界》における見通しは、《見通し》とは呼ばない。
  6. 《絶対者公理》《思いこみ》ではないのか?
  7. 《他者》《私》と同質であり、相対的な存在であるという《見通し》を、《私》を絶対とする視点から見通すこと。
  8. 《他者》にとって《他者》が絶対であるということを、《他者》の属性として認めた上での、《私》の絶対的視点から見通すこと。
  9. 《見通し》《絶対者公理》世界の中のモノなので、《同質者公理》の中のものではない。《絶対者公理》の中のものとしての《見通し》《同質者公理》を含ませることは可能であろう。
  10. 《絶対者公理》における《見通し》にとっての《同質者公理》《相対者公理》は可能である。絶対者としての《私》を同質な存在としての《他者》《私》と相対関係において存在すること、への《見通し》《同質者公理》への《見通し》
  11. 《他者》を絶対的認識者として見通すことは、《他者》《アニマ》を認めることである。

《相対者公理》《見通し》

  1. 「相対者」「絶対者」というのはコトバに過ぎない。視点によってその真偽が定まるモノ《コトバの世界》のもの。自己言及
  2. 《見通し》は絶対者としての《我》《見通し》である。相対者としての《私》《見通し》を持つことはできない。
  3. 相対者としての《私》は主体ではない。《私》は客体である。相対者は常に客体であり、主体であることはできない。
  4. しかし、主体は常にモノであり、モノは常に相対者である。主体は常に絶対者であり、同時に常に相対者である。主体は当為においては絶対者であり、存在においては相対者である。
  5. 《見通し》当為であるが故に、相対者は《視点》を持つことができない。
  6. 相対者としての《私》への《見通し》。絶対者としての《私》による、相対者としての《私》への《見通し》
  7. 絶対的認識者としての《他者》《他者》を絶対的認識者として見通すことは、《私》を相対的認識者として見通すことになる、か?
  1. 《浄化球》においては、《私》《浄化球》にとっての《他者》である。

《同質者公理》《思いこみ》

  1. 《同質者公理》《思いこみ》である。
  2. 《同質者公理》の正しさを直接に知ることはできない。
  3. しかし、《同質者公理》によって説明しても、矛盾は生じない。その意味では「正しい」。

《同質者公理》と「正しさ」

  1. 《私》と《あなた》が同じ性質のものであることは証明できない。証明可能な「正しさ」を有しない。
  2. 《私》と《あなた》が相対的な存在であることも、証明できない。証明可能な「正しさ」を有しない。
  3. 《同質者公理》の正しさは自明である』という《思いこみ》はあるが、その《思いこみ》の「正しさ」を証明することはできない。
  4. 《私》の観察によれば、むしろ、《私》世界の中心にある特別のモノであり、絶対的な存在である。《絶対者公理》《特別者公理》のほうが、《私》の観察によれば、正しいということになる。どちらも「正しい」としておこう。複数の公理体系が存在する、としておこう。
  5. 《同質者公理》によって説明しても、矛盾は生じない。その意味では「正しい」。

同類者意識《同質者公理》

  1. 《他者》の識別指標が同類者意識であるとするなら、同じモノである。
  2. 差別的認識様式においては、ゴイムはヒトではない、同類ではない。