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《知りつつあるモノ》

《知りつつあるモノ》に関連する疑問

  1. イコイサ《此時此処からの一切》を知っても展望は開けない?○:《此時此処からの一切》であれば、その内に《知りつつあるモノ》への展望も含まれる。×:《知りつつあるモノ》からの《一切》では展望が開けない。
  1. 《知りつつあるモノ》から始まる世界の記述は破綻したのか?
    1. ○:イコイサ《此時此処からの一切》を知っても展望は開けない、と気がついた。
    2. ×:《この身体が知り得た一切》を知りたくなっただけ。興味が移っただけ。
  1. デカルトの「我」と《知りつつあるモノ》とは同じか?
    1. ○:。
    2. ×:
      1. 他者の思い込みは不可知である。
      2. デカルトは、「我」を「思惟しつつあるモノ」であると言っている。
      3. 「思惟しつつあるモノ」は《思い描きを噴出しつつあるモノ》、《コトバ噴出しつつあるモノ》、思い描きやコトバ《知りつつあるモノ》コトバや思い描きを《操りつつあるモノ》、背後者からの関心や注意に分解しちゃうんだよな。
  2. http://www.aozora.gr.jp/cards/001029/files/43291_21543.html
  1. http://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/5f9e7ad5cfd92c4108d6e29cafb2c2c4
  2. 釈迦「…あらゆるものを認識(知覚)する主体であるとされる真我も、真我自身を、自らが知覚することだけは出来ないのだ。…そしてこれが、真我の持つ『不可知』と呼ばれる特異性なのだ。」
  3. これだと、「真我」は《知りつつあるモノ》を指すことになってしまう。
    1. しかし、《知りつつあるモノ》は「識」の主体であり、「識即是空」なのではないか。
    2. また、《知りつつあるモノ》は背後者に駆動されているので「真我」にはふさわしくない。
  4. 《身体が知り得た一切を知りつつあるモノ》(いさしも)は自分自身を知っているように見える。

《知りつつあるモノ》と不可直知

  1. 《知りつつあるモノ》は、《知りつつあるモノ》自身を直接に知ることはできない。
  2. 《知りつつあるモノ》は知るという作用の始点である。
  3. 《知りつつあるモノ》が知ることができるモノ《知られつつあるモノ》=は知るという作用の終点である。
  4. 知るという作用の終点に置かれたモノは、知るという作用の視点ではありえない。
  5. それゆえに、《知りつつあるモノ》は、不可直知的なモノである。直接知が原理的に不可能なモノである。
  6. 自己言及的なモノ》、《知りつつあるモノ》の不確定性原理。

《知りつつあるモノ》

  1. キーワード

定義

《混濁》を知りつつあるモノ《知りつつあるモノ》と呼ぶ。

  1. 一般に、《世界》《直知》しつつあるモノ《知りつつあるモノ》と呼ぶ。

記述

特徴

《知りつつあるモノ》の特徴(b)・・《息しつつあるモノ》《視点》から見た《知りつつあるモノ》の特徴

  1. 《知りつつあるモノ》は挫折した認知主体である。
  2. 《知りつつあるモノ》《肉の塊》の中の情報循環の一つの点である。《知りつつあるモノ》《肉の塊》の中の作用である。
  3. 《まなざし》の認知情報が背後者情報記憶、欲求、決断)に変換する場所である。《感じ合い》の認知情報《知りつつあるモノ》が集結点ではない。

《知りつつあるモノ》の特徴(a)・・《知りつつあるモノ》《視点》から見た《知りつつあるモノ》の特徴。

  1. (1)《混濁》は在る。《混濁》《知られつつあるモノ》である。従って、《混濁》《知りつつあるモノ》が在る、はずである。((《混濁》は在る、か? この《肉の塊》《混濁》の状態にある時には、《混濁》は在る。この《肉の塊》《混濁》の状態にないときには、《混濁》はない。《混濁》はあり得る。《混濁》は、この《肉の塊》《思いこみの世界》の状態から《モノの世界》への《見通し》の状態にいたる途中にある状態である))
  2. (2)《知りつつあるモノ》は《自己言及的なモノ》であり、眼差しを向けただけで逃げてしまうモノである。それゆえに、《知りつつあるモノ》は知ることができない。いまここで《知りつつあるモノ》は、《知りつつあるモノ》自身によって直観されることができない。直観というのは、《知りつつあるモノ》がその世界の中のモノを知るのと同じような方法で知るということ。《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》自身を直観しようとする努力は無益である。原理的に不可直知的な存在だからである。《知りつつあるモノ》によって《知られつつあるモノ》となった《知りつつあるモノ》は、もやは《知りつつあるモノ》ではないからである。((《知りつつあるモノ》は、この《肉の塊》情報循環の一つの門である。この門に情報が入ってくることを「知る」と言う。この門自体を情報として入れようとすると、ループしてしまう。))
  3. (3)自己言及のアポリアを捨象して、《混濁》の状態のままでそれを《知りつつあるモノ》がある、《知りつつあるモノ》は《認識限界》の先に在る、と仮定して観察する。情報の流れを観察する。((ループが生じるが故に知りえない、ということは、壁があるので知りえない、とはちょっと違うが、同じ面もある))
  4. (4)情報の流れは《身体》《動き》を引き起こす。外部的《動き》、内部的《動き》《動き》への衝動、《思いこみ》を引き起こす。
  5. (5)《身体》《動き》は、《知られつつあるモノ》となって情報として再び流れ込んでくる。情報循環する。
  6. (6)《知られつつあるモノ》世界から《身体》《動き》への変換部分、通過部分が《知りつつあるモノ》として意識される。
  7. (7)「いまここで《知りつつあるモノ》」は世界の中心であり、原点であり、特別者であり、絶対者である。いまここで《知りつつあるモノ》はそれ以外のモノになることが出来ない。『それ以外のモノになった』と思いこむことはできるが、それは《思いこみ》である。((この《肉の塊》情報循環の一地点が、絶対者であるとは? その門にとっての絶対者である。「その門に入ってくる情報で構成される『世界』」の一切は、その門を経由して《背後者》に送り込まれる。その『世界』においてはその門自身は絶対的な中心者である))
  8. (8)いまここで《知りつつあるモノ》は、「知りつつあるモノ」というコトバによって指し示すことができるモノである(被指示性)。しかし、《知りつつあるモノ》は「知りつつあるモノ」というコトバやその言葉から生じる《思いこみ》からは離れて存在する(離存性)。「知りつつあるモノ」というコトバは『知りつつあるモノ』という《思いこみ》を生じさせる。『知りつつあるモノ』という《思いこみ》イデアであるが、そのイデア《思いこみ》であり、《知りつつあるモノ》というモノとは別のものである。((この《肉の塊》コトバクオリアを感じる。コトバが指し示している《思いこみ》クオリアを感じる。《思いこみ》が指し示しているモノ(またはイデア)のクオリアを感じる。この《肉の塊》《知りつつあるモノ》が「知る」ことのほかに、『からだ』で感じるクオリアも感じる。『感じた』というクオリアを、《知りつつあるモノ》は知る。《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》を『からだ』で「感じる」ことができる、が、《知りつつあるモノ》が「知る」のは『『からだ』が《知りつつあるモノ》クオリアを感じた』ということである。そこから『知りつつあるモノ』のイデアを感じることになるが、《知りつつあるモノ》が知ることができるのは『知りつつあるモノ』のイデア《思いこみ》=が精一杯である))
  9. (9)《知りつつあるモノ》《思いこみ》の中に入り込むことができる。《入り込み》《思いこみの世界》。((《知りつつあるモノ》《肉の塊》の中で移動する。《思いこみ》《肉の塊》の中にある。《知りつつあるモノ》《肉の塊》の中で移動して、《思いこみ》の中に入り込むことができる))
  10. (10)「知る」ということには(a)《見通し》によって知る、ということと、(b)《思いこみ》によって知る、ということとがある。《知りつつあるモノ》《思いこみ》入り込んだときに、『知った』という《思いこみ》を持つことがある。《知った思いこみ》たけ(tk)は、《見通し》によって知ることを望む。《見通し》によって知ったモノ《他者》に伝達するためには、そのモノ《知った思いこみ》に変換し、その《知った思いこみ》を指し示すコトバを捜して、コトバ《他者》に伝達するほかない。((《見通し》も実際には《知りつつあるモノ》への情報入力である。《知りつつあるモノ》をこの《肉の塊》の全体に一致させること。《思いこみ》に捕われることなく、《知りつつあるモノ》に捕われることなく、この《肉の塊》の全体で世界からの情報を受け止めること。《知りつつある思いこみ》、《背後者》に保存された《隠れた思いこみ》《背後者》から噴出された《知った思いこみ》《知った思いこみ》に対する《知りつつある思いこみ》、という循環《知った思いこみ》が強化される。あたかも『実在』であると思い込まれる。モノへのクオリア《思いこみ》とを重ね合わせることによっても《知った思いこみ》が生じる。モノクオリア《思いこみ》から切り離して感じる方法でも、《知った思いこみ》を生じる))
  11. (11)ヒトの通常の社会的心理状態から、《知りつつあるモノ》を自覚する状態になるためには、自覚のカオス《混濁》現象学的還元、エポケー)を経由しなければならない。《知りつつあるモノ》から通常の社会的心理状態を観察すると、《群有思いこみ》(共同幻想)の《思いこみ》入り込んだ夢遊病状態に見える。《健常者》相変異。群生モードと孤独モード。群生相と孤独相。
  12. (12)《知りつつあるモノ》は、それの世界の中に在る。《体外感覚世界》《体内感覚世界》《背後者世界》
  13. (13)いまここで《知りつつあるモノ》《身体》の中に在る。《身体》は物理的な世界の中に在る。《知りつつあるモノ》《近傍物理空間》の中の《身体》の中に在る。《知りつつあるモノ》の直近を観察すると、《知りつつあるモノ》の直近のものがすべて《身体》内部のモノだということが分かるからである。
  14. (14)いまここで《知りつつあるモノ》の背後には《背後者》が在る。《知りつつあるモノ》の関心は《背後者》によって操られる。また、《知りつつあるモノ》が知ったことは《背後者》記憶となって《背後者》の中に蓄積される。記憶《隠れた思いこみ》としての《知った思いこみ》である。《知りつつあるモノ》《知られつつある世界》から《背後者》への《知った思いこみ》《噴出しつつあるモノ》でもある。
  15. (15)世界には《認識限界》が在る。しかし、《認識限界》はその《見通し》を妨げているモノ《透明化》すると後退し、世界への《見通し》を広げることができる。

区別

《知りつつあるモノ》《妄想しつつある肉の塊の群れのルール》

  1. 《知りつつあるモノ》は、『知りたい』という《欲求》から生まれた《りきみ》である。

情報取得欲求の《無限遠点》世界認知欲求。世界認知欲求の《無限遠点》《動き》の適正化、効率化への欲求。

《知りつつあるモノ》と情念

  1. 《知りつつあるモノ》そのものが、グリッド妄想の《噴出点》になっている。何らかの情念が噴出している。アルゴリズムへの情念だな。

《他者》とは、その出現により《知りつつあるモノ》を間接的な《自己言及》関係に陥らせるために、《知りつつあるモノ》を《撹乱しつつあるモノ》である。

  1. 《他者》が《撹乱しつつあるモノ》であるのは、《知りつつあるモノの背後者》にあるからではなく、《知られつつある世界》の中の《他者》の向こう側の《背後者世界》の中の《他者の知りつつあるモノ》が、《知りつつあるモノ》と相互に知りつつある関係に入ることにより、《知りつつあるモノ》に間接的な《自己言及》関係を生じさせるからである。「《他者》の向こう側の《背後者世界》」=《他者の背後者世界》。
  2. 《他者の背後者世界》の中の《他者の知りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》との《自己言及》関係が、《撹乱しつつあるモノ》としての《他者》の本質である。
  3. ・・って、やっぱ《背後者》か・・。向こう側の《背後者》とこちら側の《背後者》とは繋がっているのだ。
  4. 《混濁》にとって《自己言及》とはなにか? が先決問題になる。

《まなざし》・100

  1. 《まなざし》は厄介である。《まなざし》は恐怖である。《まなざし》は憎しみである。《まなざし》は獲物を殺す意図である。《まなざし》は破壊する意図である。
  2. 《まなざし》は鏡の恐怖である。《まなざし》は鏡の憎しみである。《まなざし》は鏡の軽蔑である。
  3. 1:《息しつつあるモノ》
  4. 《まなざし》《息しつつあるモノ》への《破壊欲求》である。《思い描き》としての《まなざし》であれば、力は弱い。しかし、現実の《まなざし》は、《息しつつあるモノ》を停止させる。《息しつつあるモノ》を忘れさせる。《息しつつあるモノ》《世界》から追放する。
  5. 現実の《世界》《まなざし》は、《息しつつあるモノ》《世界》から追放しない。追放したように見えるのは、《知りつつあるモノ》《思いこみの世界》入り込ませるので、《息しつつあるモノ》が忘れられるだけである。《思いこみの世界》からは追放されても、《モノの世界》からは追放されない。
  6. 《まなざし》は純粋で強力な《思いこみ》《ちから》である。ということは、《知りつつあるモノ》《思いこみ》《ちから》なのか?
  7. 《まなざし》はと《外からの視点》であり、《知りつつあるモノ》《内からの視点》である。

ヌースと《知りつつあるモノ》

  1. アリストテレスのヌース。
  2. 『ニコマコス倫理学』p.226。
  3. 《思いこみ》はドクサ(憶見)。

『興味』『注意』などの《求める思いこみ》《知りつつあるモノ》

  1. 《知りつつあるモノ》《背後者》は『興味』『注意』といった《求める思いこみ》《噴出しつつあるモノ》である。
  2. 知ることは、それに、注意することである。
  3. 知ることを《求める思いこみ》《知りつつあるモノ》は、知ることを《求める思いこみ》《噴出しつつあるモノ》である。

《思い描きつつあるモノ》《知りつつあるモノ》

  1. 《他者のコトバ》を聞くと《知りつつあるモノ》の背後から《思い描き》噴出する。
    1. 《他者のコトバ》による《思い描き》噴出点は《知りつつあるモノ》自体である。
    2. 《他者》の出現によって《知りつつあるモノ》が撹乱されるのと同様である。
  2. 《他者のコトバ》による《思い描き》は、意識の表層では上丹田である。
  3. 《知りつつあるモノ》《思い描きつつあるモノ》とが同じモノだというのはどういうことか?
  4. そもそも《知りつつあるモノ》の直接知は《思い描き》の一種なのではないか。
    1. 諸感覚との整合性に最大限の配慮を伴った《思い描き》を、直接知であると感じる。
    2. 《身体》の感覚の再構成が《モノの世界》である、とするなら、《モノの世界》《知りつつあるモノ》から噴出された《思い描き》である。
  5. 《モノの世界》《思い描き》だとして、その噴出点は、《思い描き》の向こう側か、《知りつつあるモノ》か?
  6. 窓のない潜水艦のモニターから写しだされた外部世界を見ていること。
  7. 《モノの世界》は、感覚との整合性のために、外部世界《背後者》に張り付いている。
  8. 《コトバの世界》は、《知りつつあるモノ》から噴出する。

イシモシリモ・100

  1. イシモ《息しつつあるモノ》
  2. シリモ《息しつつあるモノ》
  3. 《視点》の相互否定関係。
  4. 《知りつつあるモノ》《絶対者公理》に似ている。
  5. 《息しつつあるモノ》《相対者公理》に似ている。
  6. 《知りつつあるモノ》《動き》から切り離されている。
  7. 《知りつつあるモノ》《動き》を知る、が《いま》が瞬間であるなら、《動き》を知ることはできないはず。《知りつつあるモノ》によって《知られつつあるモノ》としての《いま》にはある程度の時間的な幅がある。《永遠の今》ではあるが、《動き》への認知を許す程度の時間的な幅がある。《動き》は無時間でも、認知可能なのか? 動体視力は、静態視力とは別の経路をたどって、意識に入ってくるらしい。
  8. どちらもモノからの《視点》である。どちらも《体内世界》の内部からの《視点》である。
  9. 《諸々のxxしつつあるモノ》のなかの二つである。・・というのは、《知りつつあるモノ》からの《視点》である、か?
  10. どちらも、《体内世界》の中での《こだわり》の結果として、モノであるかのごとき輪郭が生じたモノであるに過ぎない。・・というのは、《息しつつあるモノ》からの《視点》である、か?

マダニ《知りつつあるモノ》

  1. マダニ《近傍物理空間》を知っているか?
  2. マダニは、たぶん、《近傍物理空間》を知っている。知っているが、必要のない情報は捨ててしまうのだ。情報切り捨て。生存に必要のない情報には反応しない。反応しない情報は捨てられる。捨てられた世界は知らない。知っているけれど知らない。関心がないから知らない。
  3. 情報切り捨てには種族維持的価値がある。生存に余裕があれば、切り捨てないことも可能になる。
  4. たぶん、ヒトは自我を知らない。《知りつつあるモノ》を知らない。知っているけれど、関心がないし、行動に必要がないから、知らない。
  5. サル山のサルにとっては、情報の切り捨てが自然である。なんでもかんでも情報を保存して、統合しようとするなどというのは、特殊な・異常な行動様式である。
  6. コトバを聞くと、コトバの意味を理解する必要が発生する。ので、切り捨てられていた情報が、選択され、選択されていた情報が切り捨てられる。一つの窓を開けると、別の窓が閉まる。
  7. 情報処理能力の限界。弁証法。二つを一つにしていく方法で、処理可能対象を増やす。

《知りつつあるモノ》と《動かしつつあるモノ

  1. 《息しつつあるモノ》が自発的に《動きつつあるモノ》であるとき、《息しつつあるモノ》自身が《動かしつつあるモノ》である。
  2. 《知りつつあるモノ》《息しつつあるモノ》に注目し、意図的に、自覚的に動かしているとき、《息しつつあるモノ》は、何らかの《動かしつつあるモノ》によって《動かされつつあるモノ》である。
  3. 自覚的呼吸をしつつあるときに、《動かしつつあるモノ》は何か、どのようなモノか?
  4. 《息しつつあるモノ》を《動かしつつあるモノ》は、《知りつつあるモノ》の背後に《知りつつあるモノ》を一塊であるように見える。
  5. 動かしつつあるモノ》とは、認知情報から決断情報への変換場所である。動作情報、欲求情報、決定情報
  6. 《極座標の原点》《知りつつあるモノ》に置いたとき。
  7. 《知りつつあるモノ》は通常は認知情報から内部情報への変換場所である。内部情報から、別の場所で決断情報に変換される。《知りつつあるモノ》が《動かしつつあるモノ》と結合するというのは、《知りつつあるモノ》→認知情報→内部情報→決断情報→《動かしつつあるモノ》が同じ場所で行われるということ。
  8. 動かしつつあるモノ》とは、内部情報→決断情報への変換場所である。

《知りつつあるモノ》と知的欲求

  1. ヒトは知ることを求める。(アリストテレス)。か?
  2. 知ったつもりになることは快感である。知ったつもりになることへの《求める思いこみ》。成長欲求。知的成長。《発達段階》。知的《発達段階》。ブッダのような《見通し》が欲しいなぁ・・・。彼は本当に《ブッダの「一切」》への《見通し》を持っていたのだろうか? 「心の作用」への《見通し》を持っていたのだろうか? 《見通し》を持ちつつ生きることへの意欲を持ち続けることができたのだろうか?

《知りつつあるモノ》と《知りつつある肉の塊》《肉の塊》

  1. 《肉の塊》《知りつつあるモノ》クオリアとして実感することができる。情報循環《背後者》への噴出点があることを、クオリアとして実感することができる。
  2. 『知りつつあるモノ』は《肉の塊》の中の状態であり、《肉の塊》の中を循環する情報である。
  3. 《知りつつあるモノ》《肉の塊》の中の情報循環のうち、《知った思いこみ》《背後者》に保存される場所である。「《肉の塊》《体内感覚世界》」と「《肉の塊》《背後者》」。
  4. この《肉の塊》《知りつつあるモノ》である。《知りつつある肉の塊》である。
  5. 「肉」という文字は「内」なる「人」って書くんだね。((常識的には「人」の「内」というべきか、(^^;)))
  6. 《知りつつある肉の塊》は《自己言及的なモノ》である。《知りつつある肉の塊》は《知りつつある肉の塊》自身を知っている。しかし、自己言及のアポリアは生じない。《知りつつある肉の塊》は《肉の塊》というモノの状態・作用に過ぎない。《知った思いこみ》としての『知りつつある肉の塊』は《思いこみ》であって、《知りつつある肉の塊》自身ではない。
  7. 《思いこみつつある肉の塊》
  8. 《肉の塊》《体細胞の群れ》の別名である。
  9. 《知りつつある肉の塊》にとって《知りつつあるモノ》とはなにか? 《知りつつあるモノ》とは《知りつつある肉の塊》が《思いこみ》にとらわれた状態である。
  10. 《知りつつあるモノ》《思いこみ》にとらわれているが故に、《知りつつあるモノ》《肉の塊》とは別個の存在であると思い込む。属性に過ぎないものを基体であると思い込む。
  11. 《知りつつある肉の塊》にとって《知った思いこみ》個体内循環とは何か? 《知りつつある肉の塊》は《思いこみの個体内循環》をしつつある《肉の塊》である。
  12. 《思いこみつつあるモノ》と《思いこみつつある肉の塊》。

《知りつつあるモノ》モノ

  1. 《知りつつあるモノ》モノか? すなわち、モノといえる程度に安定的な輪郭をもっているか?
  2. 《知りつつあるモノ》が、《他者》の出現によって撹乱されるモノであるとするなら、《知りつつあるモノ》は、《今・ここの・このモノ》の中で安定的な輪郭を持っているとはいえない。
  3. 孤独相と群生相。孤独相における《知りつつあるモノ》と、群生相における《知りつつあるモノ》。孤独相における《今・ここの・このモノ》がないわけではない。
  4. そもそも、不可直知的なモノである《知りつつあるモノ》は、モノとしての輪郭を有しない。不可直知的なモノモノではない。か? 《思いこみ》によって推測されることができるだけのモノモノか? ((イデアモノか?、ではないな。《知りつつあるモノ》イデアではない))。
  5. 《知りつつあるモノ》は『語りえないモノ』か? そうではなくて、それ以前に、『知りえないモノ』。か? 徴候によって(その存在や性質・状態を)知り得るモノ
  6. 《知りつつあるモノ》の徴候とは? 現に、今ここで、《知られつつある世界》が知られつつあるということ、が《知りつつあるモノ》の存在の徴候である。
  7. 《知られつつある世界》が、「関心」によって、知られたり、知られなかったり、詳しく知られたり、無視されたりする、というのが《知りつつあるモノ》の関心の徴候である。
  8. 《知りつつあるモノ》は《自己言及的なモノ》であるということは、《知りつつあるモノ》モノである、ということか?
  9. 《知りつつあるモノ》自己言及軸への膨らみを持ったモノである、か?

《知りつつあるモノ》《身体》《動き》

  1. 《身体》《動き》《知りつつあるモノ》が知る以前に決定され、始動されている。
  2. 《知りつつあるモノ》は、始動された《身体》《動き》を監視し、抑制するのが、種族維持的価値である。
  3. 《知りつつあるモノ》《動き》を監視するだけで、抑制するのは《身体》の機能だろう。《知りつつあるモノの背後者》の機能だろう。
  4. 獲物を見つければ、《身体》が自動的に動く。しかし、それがホンモノの獲物であるか、《わな》であるかを、《知りつつあるモノ》は見分けようとする。《知りつつあるモノ》がそれを見分ければ、《知りつつあるモノの背後者》は獲物であれば《動き》を抑制せず、《わな》であれば《動き》を抑制する。
  5. 《群れのアニマ》ヒトであれ素粒子であれ《群れ》であれ、知ることは動くことである。知ることは動くことの原因である。
  6. 知ることは必要だが、《知りつつあるモノ》は、まだ、必要ない。
  7. 《知られつつある世界》《近傍物理空間》は、動く生きモノにとっては、衝突を避けるため、獲物を捜すため、捕食者から逃れるために有用である。
  8. 《近傍物理空間》の中のモノとしての《身体》としての《私》は、《動き》を決定するために有用な情報である。
  9. 《近傍物理空間》は視覚的情報を3次元的に再構成した情報である。モノ《群れ》《体細胞の群れ》にとっての情報とは、《体細胞の群れ》全体の《動き》に繋がる情報である。
  10. 《私》とは《体細胞の群れ》全体の《動き》情報であり、存在の情報、状態の情報である。《私》《体細胞の群れ》《動き》原因としての情報の一つである。《私》とは《体細胞の群れ》《動き》原因としての、《体細胞の群れ》自身に関する情報《体細胞の群れ》の存在、位置、状態、《動き》情報である。《私》とはそのように再構成されて、《体細胞の群れ》の中を循環する情報である。
  11. 《群れ》動くということは《群れ》が知るということである。《群れ》《動き》《群れの中の個体》《動き》の総和である。《群れ》が知るということは、《群れの中の個体》が知ることの総和である。《群れ》《知りつつあるモノ》《群れの中の個体》《知りつつあるモノ》の総和の重心(仮想的な計算上の位置にあるモノ)である。《群れ》の形は《群れの中の個体》の位置関係である(《群れの中の個体》の形の総和ではない)。《群れ》の形の《動き》は、《群れの中の個体》の位置関係の変化である。《群れ》の位置は《群れの中の個体》の位置の重心である、《群れ》の位置の《動き》《群れの中の個体》の位置の重心の《動き》である。《群れ》の状態は《群れの中の個体》の状態の総和にプラスして《群れの中の個体》の位置関係、《群れの中の個体》間での情報循環の状態である。《群れ》《動き》《群れの中の個体》《動き》の総和ではない、それ以上のモノである。《群れ》が知るということは、《群れの中の個体》が知ることの総和以上のモノである。《群れの中の個体》が知るというのは、《群れの中の個体》《動き》原因となる情報を取得することであるが、《群れの中の個体》《群れ》《動き》原因となる情報も取得するようになる。《群れの中の個体》は、個体自身の《動き》に加えて、《群れ》《動き》をもたらす《個体》の《動き》を行うようになる。《群れ》の内部で、《群れ》動かす情報循環するようになる。
  12. 『知る』情報と『する』情報の分離。『する』情報は不思議だ。情報《動き》に実現されて終わるはず。記憶《動き》記憶である。『する』情報は将来の《動き》のシミュレーションの《思いこみ》である。《求める思いこみ》より、強い感じだな。

《知りつつあるモノ》と「《混濁》の自己認識」

  1. 《身体》内部のモノとしての《知りつつあるモノ》(b)と《混濁》そのものとしての《知りつつあるモノ》(d):
  2. 《混濁》の自己認識としての《知りつつあるモノ》
  3. 《混濁》の自己認識」といった概念を立てる必要はない。
  4. 《混濁》内部での情報循環である。
  5. 《混濁》内部ではない。《混濁》脳科学的な《身体》の現象である。《身体》内部での情報循環《知りつつあるモノ》を生み出す。
  6. 脳科学的な《身体》とは、《共振しつつある身体》のことである。脳科学的な《共振しつつある身体》脳科学には《共振しつつある身体》などという用語はないよ。《脳科学的な身体》。
  7. われわれは《脳科学的な身体》を直観することはできない。
  8. われわれは、《脳科学的な身体》自身が《脳科学的な身体》自身に関して得た情報を、《脳科学的な身体》が再構成し、われわれに提供した情報を感じることができるだけである。
  9. われわれは《脳科学的な身体》を《共振しつつある身体》として感じるだけである。
  10. 《混濁》の自己認識」ではなく「《脳科学的な身体》の自己認識」である。《脳科学的な身体》の内部での情報循環における、認知情報から行動情報への変換部分が《知りつつあるモノ》である。
  11. しかし、脳科学的な説明は意味を持たない。《知りつつあるモノ》世界の中心であって、対象物ではないから。
  12. しかし、《知りつつあるモノ》世界の中心は、《極座標の原点》として相対化することができる。
  13. 脳科学的な身体》の内部での情報循環における、認知情報から行動情報への変換部分に《極座標の原点》を置いたモノ《知りつつあるモノ》である。

《混濁》から分離した時点での《知りつつあるモノ》(a)と《身体》の一部分の作用としての《知りつつあるモノ》(b):

  1. 同じか?
  2. 連続性を保ったまま、認識が変わる。
  3. 《混濁の世界》《知りつつあるモノ》、と、《身体》内部のモノとしての《知りつつあるモノ》
  4. 《身体》内部のモノとしての《知りつつあるモノ》も、《混濁の世界》《知りつつあるモノ》である。
  5. 《混濁》から分離したモノとしての《知りつつあるモノ》は存在しない、仮説でしかない。

《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノの背後者》

  1. 《知りつつあるモノ》は背後者の噴出点である。《知りつつあるモノ》は背後者の関心という志向性に操られる。《知りつつあるモノ》《操られつつあるモノ》である。

《知りつつあるモノ》モノ

  1. 《知りつつあるモノ》モノか?
  2. 輪郭を有するか?
  3. 不可直知的なモノモノか?

《知りつつあるモノ》と《自己言及的なモノ

  1. 自己言及的なモノ》はモノか?
  2. 輪郭を有するか?
  3. 不可直知的なモノモノか?
  4. 素粒子は、不可直知的なモノである。不確定性原理。《自己言及的なモノ》の不確定性原理。眼差しを向けると輪郭が消える。存在感の不確実性と輪郭の不確実性の積が一定以上である、
  5. 自己言及の次数の座標軸。自己言及次数軸方向への膨らみをもつモノ

《知りつつあるモノ》の物理的イメージ、モノとしてのイメージ、モノとしての輪郭

  1. 《知りつつあるモノ》
    1. 点であるのか、
    2. 面であるのか、
    3. 体であるのかは不明である。最初は点であるように思われ、そのうちに面であるように思われ、さらに、体であるようにも思われる。さらに、
    4. 四次元チューブであるようにも思われる。

《知りつつあるモノ》《動き》原因

  1. 《知りつつあるモノ》《身体》《動き》原因となる情報の通過部分である。
  2. 《知りつつあるモノ》情報自己言及的に捉え返したり、情報によって生じた《思いこみ》自己言及的に捉え返すことによって、《身体》《動き》をコントロールしているようにみえる。
  3. しかし、《知りつつあるモノ》のそれらの働き自身が、《知りつつあるモノの背後者》からのコントロールの下に在るようにもみえる。脳科学的には、《背後者》からのコントロールが《知りつつあるモノ》の認識と《身体》《動き》とに同時に働いているようである。《身体》による認識が先にあり、それが再構成されて《知りつつあるモノ》への情報として与えられる。《身体》による認識が、《身体》動かすと同時に、その情報を再構成して《知りつつあるモノ》に提供しているようである。
  4. むしろ、問題は、自由意志論、無原因論が出てきた背景であろう。何らかの《求める思いこみ》が、意志の自由・無原因《知った思いこみ》(幻想)を産みだしたのである。
  5. 機械論的「原因」観。循環的「原因」論。

《知りつつあるモノ》《極座標の原点》

  1. 《知りつつあるモノ》《極座標の原点》である。

《知りつつあるモノ》《入り込み》

  1. 《知りつつあるモノ》《思いこみ》の中に入り込むことがある。
  2. 《思いこみ》《身体》内部のモノである。
  3. 《知りつつあるモノ》がその中に入り込んだ《思いこみ》《思いこみの世界》と呼ぶ。
  4. 《思いこみの世界》においても、《知りつつあるモノ》はその世界の中心であり、絶対者である。《極座標の原点》である。

《知りつつあるモノ》《混濁》ノイズ

  1. 《混濁》に、「知る」というノイズを付加すると、《混濁》《知りつつあるモノ》《混濁の世界》とに分離する。
  2. 《混濁》を記述するためには、「知る」というステップが必要になる。しかし、「知る」というノイズによる分離は、《混濁》の「自然な分離」ではない。
  3. 《混濁》を記述すると言うのは、《コトバにしつつあるモノ》の作用である。《コトバにしつつあるモノ》は《知った思いこみ》を《コトバ》にすることである。《知った思いこみ》を取得するのは《知りつつあるモノ》の作用である。
  4. 《たけ(tk)の思いこみ》において《混濁》を記述するためには「知る」というノイズが必要である。しかし、それは自然な分離ではない。

《知りつつあるモノ》と《認識限界

  1. 《知りつつあるモノ》が《自己言及的なモノ》であるが故の認識不能性は《認識限界》か? 論理的な《認識限界》であって、面を構成するような《認識限界》ではない?
  2. 認識限界》はそれ自体として《自己言及的なモノ》か?
  3. 不確定性原理と《自己言及的なモノ》。

《知りつつあるモノ》と「自己言及的なモノ

  1. 自己言及的なモノ」は不可視である。眼差しを向けただけで、自己言及次数があがって、変質してしまうモノである。
  2. 不可視なモノは、知り得ないモノであり、語るべきではないモノである。
  3. 自己言及的なモノは、自己言及の次数の座標軸の方向に膨らんだモノである。
  4. 自己言及的存在。自己言及的な存在。

《混濁》の自然な分離」と《知りつつあるモノ》

  1. 《知りつつあるモノ》は知り得ないモノである。《知られつつある混濁》の中には存在しないモノである。
  2. 《混濁》《知られつつある混濁》になる。しかし、それを《知りつつあるモノ》はそこにはない。たぶん、「客観的」には在るのだろうが、知り得ないモノを知ろうとするのは、『なすべきこと』ではない。
  3. たぶん、《知りつつあるモノ》《知りつつある混濁》なのだろう。《混濁》自身が《知りつつあるモノ》なのだ。
  4. 《知りつつある混濁》は、「知りつつある《近傍物理空間》」と「知りつつある《体内感覚世界》」とに分かれる。「知りつつある体外感覚空間」と「知りつつある体内感覚空間」とに分かれる。「知りつつある体外感覚空間」からは《知りつつある身体》と、《知りつつある他者》と、《知りつつあるモノたち》とが分離する。
  5. 《知りつつあるモノ》への認識の断念は、自己言及のパラドックスを避けるため、といった、消極的な理由ではない。
  6. 《知りつつある混濁》自己言及である。しかし、それは《モノの世界》自己言及であって、無限ループではあっても、パラドックスにはならない。《知りつつある混濁》《知った思いこみ》を生成するが、《知った思いこみ》《知られつつある混濁》とは別のモノであり、《知りつつある混濁》とも別のモノである。
  7. 《知りつつあるモノ》《知りつつある混濁》

《混濁》《知りつつあるモノ》

  1. なんか、本物の《混濁》においては、《混濁》は、3次元の空間知覚と《混濁しつつあるモノ》とに分離する。3次元の空間知覚は《近傍物理空間》だろう、が、聴覚的な《近傍物理空間》かも知れない。視覚的な《近傍物理空間》と聴覚的な《近傍物理空間》とは異なる。幻覚的な《近傍物理空間》もある。《他者の思いこみ》を感じるのは幻覚的な《近傍物理空間》だ。客観的なこの街とか東京とかいうのは幻覚的な《近傍物理空間》だ。
  2. 視覚的な《近傍物理空間》においては、《身体》がその中にみえているので、《知りつつあるモノ》《身体》の中にあるはずだ、という《思いこみ》が生じる。しかし、聴覚的な《近傍物理空間》では、《身体》の音が聞こえないので、《知りつつあるモノ》が出てこない。
  3. 六処なのか・・。
    1. 器官:眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処の「六処」
    2. 能力:眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根の「六根」
    3. 世界:眼境、耳境、鼻境、舌境、身境、意境の「六境」
  4. 《混濁》《知りつつあるモノ》《混濁》自身か?
  5. 《混濁》《知りつつあるモノ》はあるのか? 《知りつつあるモノ》は、「知る」というノイズが生み出した《思いこみ》に過ぎないのではないか? 「混濁」というコトバで記述すること、記述するために「知る」ということ。《記述しつつあるモノ》の前提としての《知りつつあるモノ》。《コトバにしつつあるモノ》。

《知りつつあるモノ》と認識者の集合

  1. 認識者の集合を考えてみよう。
  2. 認識者は、自己が属する集合を再生成するモノであるとする。
  3. 写像生成関数の集合。
  4. 《知りつつあるモノ》は写像生成関数である、ということになりそうだ。
  5. 再生された集合と元の集合とは同じか?
  6. 《コトバの世界》ルールによれば、同じコトバで指し示された同じモノである。
  7. 《モノの世界》ルールによれは、別のモノである。モノ世界を知っただけで世界を作るなんて、できっこないではないか。
  8. 《モノの世界》ルールによれば、認識者の集合は、それぞれの認識者が『自分が属する集合(世界)』という《思いこみ》を作り出すだけのモノである。
  9. 《知りつつあるモノ》《群れ》
  10. 《群れ》モノモノとが具体的な《繋がり》を有するモノの集まり。
  11. 集合は、モノの性質(属性)でモノを分類した集まり。観念上の集まり、という《思いこみ》《思いこみ》の性質を研究するための《道具的な思いこみ》

《知りつつあるモノ》《群れ》

  1. 《ヒトの群れ》《知りつつあるモノ》《群れ》でもある。
  2. 《知りつつあるモノ》《群れ》は、妥当ではない。《知りつつあるモノ》は他の《知りつつあるモノ》と直接な具体的な《繋がり》を有しない。《ヒトの群れ》《身体》《群れ》であり、それぞれの《身体》の中に《知りつつあるモノ》があり、《知りつつあるモノ》は他のヒト《身体》《知りつつあるモノ》である。

《知りつつあるモノ》と「知りつつあるモノ」というコトバ

  1. 「知りつつあるモノ」というコトバが指し示すモノ、・・。で、十分ではないのか? 基体。
  2. 問題は、《知りつつあるモノ》=「知りつつあるモノ」というコトバが指し示すモノ=を、人々が、そのコトバを聞いても、そのコトバを聞いて生じるイメージを知ることによっては、知ることができない、ということ。つまり、「知りつつあるモノ」というコトバが指し示すイメージは《知りつつあるモノ》ではない、「知りつつあるモノ」というコトバ《知りつつあるモノ》を指し示していない、ということが問題。《知りつつあるモノ》は「知りつつあるモノ」というコトバでは指し示すことができない、ということが問題。

《知りつつあるモノ》と「知るという作用」

  1. 「知るという作用」か「知りつつあるという状態」か?
  2. 《混濁》《知りつつあるモノ》に分離するのは「知るという作用」という言語的なノイズによって生じた分離ではないか?
  3. 《混濁》が「ある」ということと、《混濁》を「知る」ということ。
  4. 《混濁》は「動く」という言語的なノイズによって、別な形で分離するのではないか?
  5. 《混濁》は「苦しみ」とか「楽しみ」とかいった言語的なノイズによって、別な形で分離するのではないか?
  6. 《混濁》は「モノ」という言語的なノイズによって、《混濁しつつあるモノ》に分離する。
  7. 記述の出発点として、どのようなノイズを選択するか、どのようなノイズが記述の出発点として分かりやすいか、という問題。
  8. 記述の出発点としての《視点》の選択。出発点の《視点》から次の《視点》への《見通し》を記述していくこと。
  9. 《混濁》から分離したモノとしての《知りつつあるモノ》《視点》と、《息しつつあるモノ》を発見するモノとしての《知りつつあるモノ》《視点》とでは異なる。《動き》時間を発見することにより、《視点》は移動する。「《混濁》《動き》」ないしは「《混濁》時間」というテーマ。
  10. 《混濁》に「《動き》」「時間」という言語的ノイズを加えたモノか?
  11. 《混濁》に「時間」というノイズを与えると、《時間の中を流れゆく混濁》と時間の軸に分離する。
  12. 《混濁》に「動き」というノイズを加えると、《動きつつある混濁》になる。
  13. 《混濁》に「時間」と「動き」というノイズを加えると、《時間の中で動きつつある混濁》と時間の軸とが分離する。
  14. 《混濁》と言語的ノイズとしての「動き」から生じた《動きつつある混濁》の《視点》《知りつつあるモノ》《視点》とは異なる。統合することは可能であるが、統合される前の《視点》は異なる。
  15. 《混濁》《視点》が、「動き」というコトバの意味の虚数軸方向へ僅かに移動することによって、《動きつつある混濁》の《視点》の位置に移動する。その位置から見ると《混濁》は《動きつつある混濁》として見える。同様に、「知る」というノイズは、「知る」というコトバの意味の虚数軸方向に、《視点》を移動させ、その位置からみると、《混濁》《知られつつある混濁》《混濁の世界》=として見えるようになる。
  16. 二つの《視点》の統合とは、「動き」というコトバの意味の虚数軸方向への移動と、「知る」というコトバの意味の虚数軸方向への移動とを加算した位置に《視点》が移動するということ。
  17. 《視点》という概念には《知りつつあるモノ》という概念が含まれているのではないか? 《知りつつあるモノ》が前提とならなければ《視点》はあり得ないのではないか?
  18. 動きつつある混濁》の《視点》というのは、《動きつつある混濁》に「視点」という言語的ノイズが加わったものではないか? たしかに、そうなのだが、《動きつつある混濁》と「《動きつつある混濁》の《視点》」とでは《視点》の移動は無いように見える。たんに、《動きつつある混濁》の世界《視点》というモノを置いただけの様に見える。《視点》は客体的なモノなのである。《視点》は、それを世界の中においても、世界を変化させないような、モノ、なのである。
  19. まあ、厳密には、世界が変化しているのかもしれない。《視点》というモノをその世界に置くことによって、世界の捉え返し=自己言及=が行われていることは確かだ。《動きつつある混濁》に《視点》というモノを追加すると、《動きつつある混濁》は、即自的な世界から、対自的な世界に変化する。
  20. 動きつつある混濁》は「《動きつつある混濁》」というコトバで表現しただけでも変化する。か? モノは、コトバで指し示されても、変化しない、か? モノコトバで指し示すということは、《モノの世界》コトバを置くことである。《動きつつある混濁》の中にコトバを出現させることである。「《動きつつある混濁》とコトバからなる世界」に変化する。《混濁》は、それに「《混濁》」というコトバを与えると、「《混濁》コトバからなる世界」に変化する。コトバは「《混濁》コトバからなる世界」を指し示し、コトバは、「《混濁》コトバからなる世界」の中にある。自己言及というよりは、相互包含関係。相互包含関係は、《視点の移動》において、相互に包含する。コトバ《視点》からはコトバは「《混濁》コトバからなる世界」を指し示し、コトバは「《混濁》コトバからなる世界」を包含する。《モノの視点》からは「《混濁》コトバからなる世界」というモノが「コトバ」を包含する。
  21. モノの視点》から見て、《コトバの視点》は、どの方向にみえるか? 逆に、《コトバの視点》から見て《モノの視点》はどの方向にみえるか? 《モノの視点》から見える世界《モノの世界》=の実数軸の方向には、《コトバの視点》は見えない。《コトバの視点》は《モノの世界》の虚数軸方向にある。《コトバの視点》から見て《モノの視点》は虚数軸方向にある。《コトバの視点》から見て、《モノの視点》は、コトバによって指し示されたモノの中にある。《モノの中の視点》である。《コトバの視点》から《モノの視点》に移動するためには、コトバによって指し示されたモノの、《モノの中の視点》に入り込むこと、そこに鏡を置いてその鏡を通して世界を見ること、によって可能になる。そこで見える世界は、《コトバの視点》で見える世界と同じとは限らない。
  22. ニューロンの発火は、《科学の視点》ではニューロンの発火でしかない。そこに《視点》(鏡)を置いて見た時に(鏡を通して)みえる世界は、ニューロンの発火ではなく、リアルな主観的世界クオリア世界である。《視点》としてのニューロンの《群れ》は、《ニューロンの群れ》の公理によって世界を見る。《視点》としての科学者は、科学者の公理によって世界を見る。《ニューロンの群れ》と「科学者」とでは《ドメイン》が異なる。公理系の違いによる《視点》の違いは、意味の体系の違いによる。意味という虚数軸方向への《視点》の移動。《混濁》《視点》から「科学者」の「意味の体系」の虚数軸方向への《視点》の移動と、《混濁》《視点》から《ニューロンの群れ》の「意味の体系」の虚数軸方向への《視点》の移動。「意味の体系」=公理系。公理系が異なる《視点》《視点の移動》は、いったん、《混濁》《視点》に戻って別の《視点》に移動する必要があるかもしれない。
  23. 科学の視点》から見て、《混濁》《視点》はどの方向にみえるか? 《科学の視点》から見て、科学者自身の主観的体験の《視点》はどの方向にみえるか? 《主観的体験の視点》。《科学の視点》から見て、科学者の《主観的体験の視点》は、科学者というモノの、《モノの中の視点》として見えるはずである。しかし、これは科学にとっては禁断の《アニミズム》である。しかし、《アニミズム》を導入しない限りは、《科学の視点》からは、科学者自身も心を持たないゾンビにならざるをえない。((そのようなゾンビ科学者、科学者ゾンビがいるのではないか?))。まずは《科学の視点》が一つの《視点》であることを認めること。《モノの視点》、《モノの中の視点》を極座標モデル、鏡のモデルで科学世界に取り込むこと。科学者ゾンビ=ヒトの心を持たない科学者、ヒトの心の存在を科学世界の中に認めない科学者。
  24. 《私》の主観的体験とは、《ニューロンの群れ》が、ニューロンの発火の情報を、《ニューロンの群れ》の「意味の体系」によって解釈した世界である。

《知りつつあるモノ》《撹乱されつつあるモノ》

  1. 《知りつつあるモノ》《他者》の出現によって《撹乱されつつあるモノ》になる。
  2. 《撹乱されつつあるモノ》《知りつつあるモノ》である、か? 《撹乱されつつあるモノ》は、《他者の思いこみ》を、《近傍物理空間》《他者》の存在する場所に、《知りつつあるモノ》である。

《混濁しつつあるモノ》《知りつつあるモノ》

  1. 《知りつつあるモノ》は『《知りつつあるモノ》の不存在』への《怯え》が生み出した幻である。
  2. 《知りつつあるモノ》《混濁しつつあるモノ》《混濁》の中にあり、不透明な《混濁》の中にある。可知、不可知の曖昧な《混濁》の中にある。
  3. 《知りつつある混濁》《知りつつあるモノ》《混濁しつつあるモノ》自体である。
  4. 《知りつつある混濁》から《知りつつあるモノ》を分離する』ことを《求める思いこみ》。分析のステップとしては有用である。しかし、結局《知りつつあるモノ》《混濁》の中に消えていく、という結論になる。
  5. 《流され行く自我》。《他者の群れ》からの圧倒的な《他者のコトバ》に流され行く自我。《流され行く自我》は『《知りつつあるモノ》の不存在』への《怯え》をもつ。実際、《流され行く自我》の《知りつつあるモノ》は、《他者のコトバ》への条件反射の機械でしかなくなる。《知りつつあるモノ》ではなく、《他者のコトバの翻訳マシン》でしかなくなる。《流され行く自我》→《撹乱されつつあるモノ》
  6. 実際、ヒトは、誕生直後においては、《他者のコトバの翻訳マシン》でしかない。か? おそらく、そうであろう。ヒトは基本的に、《他者のコトバの翻訳マシン》である。しかし、その翻訳過程の中で、翻訳マシン自身の存在に気がつく。《他者のコトバを翻訳しつつあるモノ》を翻訳しようと試みるようになる。それが『《知りつつあるモノ》の不存在』への《怯え》である。
  7. 《他者のコトバ》を翻訳して、そのまま《動き》として噴出するタイプの《他者のコトバの翻訳マシン》と、《他者のコトバ》を翻訳して、いったん、表象記憶に溜め込んで、それを翻訳して《動き》コトバとして噴出するタイプの《他者のコトバの翻訳マシン》。
  8. 《知りつつあるモノ》の幻をでっち上げることは有用である。『《知りつつあるモノ》が存在する』と確信することは有用である。そして、《知りつつあるモノ》を探究することは有用である。そして、《知りつつあるモノ》の正体が《知りつつある混濁》であることを知ることは有用である。《知りつつあるモノ》の実体が《混濁しつつあるモノ》であることを知るのは有用である。《知りつつある混濁》とは、《知りつつあるモノ》としての《混濁しつつあるモノ》である。
  9. 《繋がりつつあるモノ》は《他者のコトバを翻訳しつつあるモノ》である。
  10. 《他者のコトバを翻訳しつつあるモノ》は《他者のコトバ》から《思いこみ》を取り出して、自らの《身体》の中の《隠れた思いこみ》に翻訳するモノである。
  11. 《混濁》《知りつつあるモノ》に分離するのは、「知る」という概念のノイズが作り出した幻である。そして、同時に「《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》自身を知ることはできない」というアポリアを作り出す。

《憎みつつあるモノ》《知りつつあるモノ》

  1. 《憎みつつあるモノ》《身体》的な《求める思いこみ》《知りつつあるモノ》から《噴出しつつあるモノ》である。
  2. 《憎みつつあるモノ》《他者》が害されることを予想しつつ《他者》に接近するモノである。《他者》に接近すれば、《他者》か害されることは当然に予測される。《憎みつつあるモノ》は、《他者》が害されることに怯えつつ、《仕合わせ》のために《他者》に接近するモノである。《憎み》がなければ《仕合わせ》を実現することはできない。(《憎しみ》ではなく、《憎み》。「にくいね」といえば、差異に対する親愛と尊重を表現している)。
  3. 《憎みつつあるモノ》《他者》に執着しつつあるモノである。
  4. 《知りつつあるモノ》《求める思いこみ》噴出するのは矛盾か? 《知りつつあるモノ》の興味・関心は《求める思いこみ》噴出である。『知ること』を《求める思いこみ》によって《知りつつあるモノ》の興味・関心が決まるばかりでなく、それ以外の《求める思いこみ》によって《知りつつあるモノ》の興味・関心が決まることもある。

《知りつつあるモノ》と《ステレオタイプに知りつつあるモノ

  1. ステレオタイプに知りつつあるモノ》とは、世界から自らの《動き》に関連する事象を選び出して、自らの《動き》と直結するかたちで世界《知りつつあるモノ》である。行動的なヒト《知りつつあるモノ》である。
  2. ステレオタイプに知りつつあるモノ》は世界を『正しく』見通すことを目的としているのではなく、『良く』動くことを目的とする《知りつつあるモノ》である。
  3. 昼間は《ステレオタイプに知りつつあるモノ》であり、夜は《知りつつあるモノ》であることが望ましい。《懐疑的に知りつつあるモノ》というべきか? 《行動的に知りつつあるモノ》というべきか?
  4. 《動きつつあるモノ》は《懐疑的に知りつつあるモノ》と《行動的に知りつつあるモノ》の両方を必要としている。《行動的に知りつつあるモノ》だけでは、『より良く』動くことはできない。《懐疑的に知りつつあるモノ》だけでは、動くことができない。
  5. 《行動的に知りつつあるモノ》というのは《ステレオタイプに知りつつあるモノ》と《懐疑的に知りつつあるモノ》の両方を含んだモノ? (日本語の「肯定的なコトバ」は複合的な意味を持っていることが多い。「否定的なコトバ」は純粋な意味を持つことが多い)。

《動きつつあるモノ》《知りつつあるモノ》

  1. 《動きつつあるモノ》《知りつつあるモノ》《求める思いこみ》を持つ。
  2. 《息しつつあるモノ》の背後に、《知りつつあるモノ》への《求める思いこみ》を感じる。
  3. 《動きつつあるモノ》動くために、《知りつつあるモノ》を必要とする。
  4. 《知りつつあるモノ》世界《知られつつある世界》無限遠点《浄化球》を置くと、《知りつつあるモノ》《求める思いこみ》を感じることができる。
  5. 《息しつつあるモノ》は、《知りつつあるモノ》《求める思いこみ》噴出する。
  6. 行動的なヒトにとっては、《知りつつあるモノ》《動き》のための手段である。
  7. 主知主義者にとっては、《動きつつあるモノ》《知りつつあるモノ》の認識対象である。

《他者の知りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》

  1. たとえば、ヴィトゲンシュタインとかブッダとかの《他者》《知りつつあるモノ》は? 仏にあったら仏を殺せ、と言っている臨済和尚の《知りつつあるモノ》は?
  2. 《他者》《知りつつあるモノ》はあるか?
  3. 《特別者公理》によれば、《他者の知りつつあるモノ》は、あったとしても、《他者の身体》の中での情報処理過程の一地点にしか過ぎない。《他者の身体》の中での情報出力=言動、内心的行動、記憶=を産み出す過程の一地点にしか過ぎない。
  4. 《他者》《知りつつあるモノ》を発見したとしても、それは、彼の特殊な《思いこみ》にしかすぎない。
  5. 《他者》《知りつつあるモノ》は、彼が眠っているときにはないであろう。
  6. 《同質者公理》によれば、《私》《知りつつあるモノ》も、かくのごときものである。
  7. 《他者の知りつつあるモノ》は、《私》にとっては取るに足らない《他者の思いこみ》である。同様に、《私》《知りつつあるモノ》は、《他者》にとっては取るに足らない《他者の思いこみ》である。しかし、《私》にとっては《私》《知りつつあるモノ》《私》を知るための重要な《思いこみ》である。同様に、《他者》にとっても《他者の知りつつあるモノ》は、彼自身を知るための重要な《思いこみ》である。
  8. 《絶対者公理》によれば、《他者の知りつつあるモノ》は、(あるとしても)《他者の身体》内部のモノであるから、《私》にとっては不可視である。《同質者公理》によれば、《私》《私》《知りつつあるモノ》がある以上、《他者》にも《他者の知りつつあるモノ》がある。
  9. モノは《認識限界》の先にあっても見通すことができる。《私》《知りつつあるモノ》は、《他者の知りつつあるモノ》《他者の身体》という《認識限界》の先にあっても、見通すことができる。《同質者公理》によれば、《私》は、《他者の知りつつあるモノ》《私》《知りつつあるモノ》と同様なモノであることを、既に知っているのである。
  10. 《他者の知りつつあるモノ》は《見通しつつあるモノ》である。《私》《他者の知りつつあるモノ》を見通すことということは、《他者の知りつつあるモノ》《見通し》を見通すことである。《他者の知りつつあるモノ》を鏡として、その鏡像として《他者の知りつつあるモノ》《見通し》を見通すことである。

《知りつつあるモノ》と独我論

  1. http://ja.wikipedia.org/wiki/独我論
    1. 独我論 (solipsism) にはいくつかの形態がある。
      1. 一つ目は世界には「私」しか唯一確実に存在せず、一切の世界はその「私」の意識内の現象だと考える。バークリの知覚したものだけが真に存在するという物質世界の客観性を否定した素朴観念論的、デカルト的な哲学的立場。この独我論は観念論の不可知なる世界(見えない世界)の蓋然性を克服しようとした極端な形であると言える。
      2. 二つ目はウィトゲンシュタインにおいて、自己と他者の非同一性の考察から出発した、世界の人間のうち、一人だけ本当の私がいて、他の人間は意識的な存在者ではあっても、この私ではない。すなわち、本当の私は自分一人のみであるという主張。また、彼においては「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」ということで表現される。
    2. 古来はその世界観(世界の存在を通して)を批判されていたが、現代ではその「私」とは何であるかという形で批判を受けている。
  2. 「その「私」とは何であるか」っていう批判て?
  3. 《特別者公理》と独我論というべきか?

《同質者公理》《知りつつあるモノ》

  1. 残念ながら、《知りつつあるモノ》は、《同質者公理》が正しいということを見通すことはできない。
  2. 《知りつつあるモノ》がその見通しにおいて知ることができるのは、いまここで《知りつつあるモノ》世界の中心であり、原点であり、特別者であり、絶対者である、という《特別者公理》の方なのである。ブッダの「一切」
  3. 《浄化》において視点を移動していけば、《知りつつあるモノ》は相対化される。しかし、《視点の移動》における《知りつつあるモノ》は移動した先にあるのであるから、やはり、その移動先の《知りつつあるモノ》は絶対者であり、原点である。また、視点の移動によって《知られつつあるモノ》となった、元の「知りつつあるモノ」は、じつは、もはや《知りつつあるモノ》ではない。記憶の中の『知りつつあるモノ』という《思いこみ》でしかない。
  4. 《知りつつあるモノ》は、『《同質者公理》が正しい』と信じるほかない。それを《信じつつあるモノ》は特別者なのであるが・・。《同質者公理》によって構成された世界も無矛盾であろう。

《知った思いこみ》《知りつつあるモノ》

  1. 《知りつつあるモノ》《知った思いこみ》を生み出すことがある。(修慧)
  2. 《知った思いこみ》は、《他者のコトバ》を聞いても生じることがある。(聞慧)
  3. 《知った思いこみ》は、《思いこみ》《操りつつあるモノ》が生み出すことがある。(推論、思慧)。
  4. 《知りつつあるモノ》《知った思いこみ》を生み出さない。《知った思いこみ》を生み出すのは《背後者》である。《知りつつあるモノ》が生み出す《知った思いこみ》は、《背後者回路》を経由したのちに《背後者》から噴出されるモノである。
  5. 《知った思いこみ》は、過去の《知りつつあるモノ》が知ったという体験の記憶である。
  6. 《知りつつあるモノ》は、《知られつつある世界》から《知りつつあるモノの背後者》《知った思いこみ》噴出する。《知りつつあるモノ》《背後者》《隠れた思いこみ》としての《知った思いこみ》噴出する。
  7. 《知りつつあるモノ》《思いこみ》か? 『知りつつあるモノ』というイデア《思いこみ》)が指し示すモノ《知りつつあるモノ》である。《知りつつあるモノ》を見つけたという体験は《知った思いこみ》を生成する。

見通しつつあるモノ》と《知りつつあるモノ》

  1. たけ(tk)《見通し》を求めているのだから、ある程度において《見通しつつあるモノ》である。
  2. 《知りつつあるモノ》は、《見通し》を求めつつあるモノであるか?
  3. 見通しつつあるモノ》は、《見通し》のために《浄化》を試みたりするので、純粋な《知りつつあるモノ》ではない。

《知りつつあるモノ》《今ここのモノ》

  1. 《知りつつあるモノ》《今ここのモノ》である。
  2. 《今ここのモノ》とは、、ここで、『今ここのモノ』を知りつつあるモノ。なので、《今ここのモノ》《知りつつあるモノ》である。
  3. 《知りつつあるモノ》《混濁》から分離したモノである、《混濁の世界》の中で消極的に存在するモノである。
  4. 《今ここのモノ》《混濁の世界》《浄化》された後に、透明化された世界の中で漠然とした領域を占めるモノである。

《知りつつあるモノ》《モノの世界》

  1. 《知りつつあるモノ》《モノの世界》の中にある。
    1. 《知りつつあるモノ》《身体》の中にある。(《身体》《モノの世界》の中にある)。
  2. 《知りつつあるモノ》は、自らが《モノの世界》の中にあることを見失うことがある。
  3. 《知りつつあるモノ》《思いこみの世界》の中に入ることがある。
  4. 世界を知りつつあるモノは、《知りつつあるモノ》のほかにはあり得ない。(《特別者公理》
    1. 《相対者公理》によれば、すべてのモノ《知りつつあるモノ》である。
  5. 《知りつつあるモノ》世界、宇宙の中心である。(《特別者公理》
    1. 《相対者公理》によれば、すべてのモノ世界・宇宙の中心である。
    2. 《客観公理》によれば、《知りつつあるモノ》は客観的な空間の中の相対的なモノである。
  6. 《知りつつあるモノ》は不可直知的である。原理的に直接に知ることはできない。存在することは明らかだとしても、それを直観によって知ることはできない。
  7. 《知りつつあるモノ》は、それがあるときにはあるが、それがないときにはない。

《知りつつあるモノ》《操られつつあるモノ》

  1. 《知りつつあるモノ》《操られつつあるモノ》である。
  2. 《知りつつあるモノ》も、その《背後者回路》の結果として生じる。《知りつつあるモノ》が何に関心を持つかも、《背後者回路》によって決定される。《知りつつあるモノ》が何に《見通し》を持とうとするかも、《背後者回路》によって決定される。
  3. たけ(tk)《知りつつあるモノ》が、生じたのも、デカルトの本を読んだからだろう。デカルトという《他者》コトバによって操られたのだ。

《知りつつあるモノ》時間

  1. 《知りつつあるモノ》時間との関係は、時間に関する公理によって、いくつかの説明方法が可能である。
    1. 時間公理《知りつつあるモノ》には時間がない。永遠も、持続も、座標軸も、瞬間もない。
    2. 永遠の今公理《知りつつあるモノ》永遠の今の中にある。《知りつつあるモノ》は今の中にしかない。が、常に今の中にあることによって、永遠の今の中にある。《知りつつあるモノ》の今は永遠の今である。「永遠の今」というのは時間の観念の無い世界における「今」。持続を外部から観察すれば時間の中にあるが、持続の中から観察すれば、「永遠の今」の持続である。
    3. 持続の公理《知りつつあるモノ》は持続する。持続によって、時間を知る。
    4. 座標軸の公理時間は座標軸の中の一点で表される。《知りつつあるモノ》は座標軸としての時間の中の一点を今として感じる。
    5. 四次元チューブ公理。宇宙史は一つの四次元チューブである。《知りつつあるモノ》四次元チューブである。初め−持続−終息の全体が一つの四次元のチューブとして存在する。
  2. イデアとしての『知りつつあるモノ』が時間を超越しているかどうかは、モノとしての《知りつつあるモノ》には無関係。

《知りつつあるモノ》とその所在場所

  1. 足の指で、それが触っているモノが何かを知ろうとしているときには、《知りつつあるモノ》は足の指にあるだろう。
  2. 《知りつつあるモノ》《身体》の外には出ないように思われる。が、空間定位が曖昧なので、《身体》の外に出ているように感じられることもある。
  3. 通常は、目の位置の後ろあたりにあるように感じられる。脳で処理される情報の70%は視覚情報だということなので、そうなるのだろう。
    1. http://www.mars.dti.ne.jp/~araiguma/atta/sokucho.html
    2. 人間は情報量の約70%を視覚から得ると言われている。

《知りつつある身体》《知りつつあるモノ》

  1. 緊張して一点に集中した状態を、狭い意味での《知りつつあるモノ》と呼び、
  2. 弛緩して身体内に拡散した状態を《知りつつある身体》と呼ぶ。
  3. 広い意味での《知りつつあるモノ》はその両方を含む。
  4. 単純に《知りつつあるモノ》と言ったときには狭い意味での《知りつつあるモノ》を指す。

《知りつつあるモノ》と『知りつつあるモノ』という《思いこみ》イデア

  1. 《私》が「《知りつつあるモノ》がある」というコトバを発するのは、《私》が『知りつつあるモノ』のイデアにマッチする何モノかを発見したということを意味する。
  2. 《私》が「《知りつつあるモノ》がある」というコトバを発する以上、《私》は『知りつつあるモノ』のイデアを提出しているのである。
  3. モノ−記号−意味の三角形
  4. しかし、その事は、《知りつつあるモノ》というモノと『知りつつあるモノ』というイデアとが同じであることは意味しない。イデア《思いこみ》であり、モノモノである。
  5. 『知りつつあるモノ』のイデアは明確にしていこう。《私》はそのイデアにマッチするモノ《知りつつあるモノ》を発見した。

《知りつつあるモノ》」という《あなたのコトバ》を、《私》が聞くことと、《知りつつあるモノ》

  1. 《私》は、《あなたのコトバ》を信じない。《あなた》が「《知りつつあるモノ》がある」と語っても、《私》は《あなたのコトバ》を信じない。
  2. 《私》は《あなたの体験》を直接に知ることができないから、《私》は《あなたのコトバ》を信じない。

《知りつつあるモノ》」という《私のコトバ》を、《あなた》が聞くことと、《知りつつあるモノ》

  1. おそらく、《あなた》は何も理解できないだろう。

《知りつつあるモノ》とサブシステム

  1. 《知りつつあるモノ》はサブシステムか?
  2. 《知りつつあるモノ》モノか?
  3. 《知りつつあるモノ》モノであるが、システム性を有しない? それ自体の《背後者回路》を持ち、それ自体のインプットとアウトプットを持つ時にシステム性を有するという。
  4. 《知りつつあるモノ》を「表面の特異点」と捉える場合にはシステムではない。
  5. 《知りつつあるモノ》を背後者を含めたモノと捉える場合にはシステムである。
  6. 自己言及という《背後者回路》を持つ?

《知りつつあるモノ》《体内感覚世界》

  1. 《体内感覚世界》《知りつつあるモノ》によって《知られつつあるモノ》である。
  2. 《体内感覚世界》は本当に《身体》の内部にあるのか?

《知りつつあるモノ》《身体》

  1. 《知りつつあるモノ》《身体》の外部にあるか? 《混濁》から《知りつつあるモノ》《混濁の世界》とが分離した時点では、《知りつつあるモノ》《混濁の世界》の外部にあり、《身体》《混濁の世界》の内部にある。したがって、《知りつつあるモノ》《身体》の外部にある。
  2. 《混濁の世界》の理解が進むと、《知りつつあるモノ》《身体》の内部にあることに気がつく。《知りつつあるモノ》の直近は、前後左右上下どれもが《身体》であることを知る。(ホントか?)《身体》の内部において、《知りつつあるモノ》の周囲に《混濁の世界》が広がっていることになる。
  3. しかし、その時点では《混濁の世界》を区別する意味がなくなる。《知りつつあるモノ》《混濁》の中にあり、そのまわりに《身体》があり、そのまわりに《身体》外の《近傍物理空間》が広がっている、という構造になる。
  4. さらに、《知りつつあるモノ》へのこだわりがなくなると、《知りつつあるモノ》《身体》と一体化して、《身体》の中を移動したり、《身体》全体となったり、特定部分に集中したりする。《身体》状況によって《知りつつあるモノ》は変化する。

《知りつつあるモノ》《入り込み》

  1. 《知りつつあるモノ》がxxにある』という《思いこみ》が生じるのは、《知りつつあるモノ》がxxに入り込んだ結果を示しているようにも見える。

《混濁》《知りつつあるモノ》

  1. 《知りつつあるモノ》《混濁》の中にあるのか? 《混濁》の外にあるのか? は直接には分からない、《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》自身を直接に知ることができないからだ。
  2. 《知りつつあるモノ》《混濁》から分離したモノか? 《混濁》の外部から来たモノか? 《混濁》自身を自らを知りつつあるのか?
    1. 《混濁》から分離したモノ。狭い意味での《知りつつあるモノ》《混濁》の内部の点。
    2. 《混濁》の外部から来たモノ。(《知りつつある超越者》。《混濁》の外部の点
    3. 《混濁》自身が自らを知りつつあるモノ《知りつつある混濁》《混濁》自体。

《知りつつあるモノ》《知りつつある身体》

  1. 広い意味での《知りつつあるモノ》は、《知りつつある身体》と狭い意味での《知りつつあるモノ》に分かれる。
  2. 狭い意味での《知りつつあるモノ》は、緊張して一点に集中した状態の《知りつつあるモノ》である。
  3. 記述上は狭い意味での《知りつつあるモノ》が先行する。《知りつつある身体》を記述するためには、身体の記述が先行していなければならないため。

《思いこみ》によって知ったつもりになっているモノ《知りつつあるモノ》

  1. 《知りつつあるモノ》直観によって知りつつあるモノである。《思いこみ》によって知りつつあるモノではない。《思いこみ》を全て廃棄した後に、それにもかかわらず現象するモノを知りつつあるモノである。
  2. 《思いこみ》によって知ったつもりになっているモノ《思いこみつつあるモノ》に含まれる。

脳科学《知りつつあるモノ》

  1. 感覚情報系から動作情報系への情報伝達の接点、境界面が「モノ《我》」である。
  2. 感覚情報系から動作情報系への情報伝達の間に、循環的なサブシステムがある場合には、そのサブシステムが「生き物の《我》」である。
  3. 《知りつつあるモノ》によって知られつつある世界は、身体→脳現象で再構成された幻である。
  4. 《知りつつあるモノ》がある、というのも脳現象によって生じた幻である。
  5. 《知りつつあるモノ》は自らの脳現象を直観することはできない。
  6. 《知りつつあるモノ》にとって自らの脳現象とは、背後者である。脳現象は《知りつつあるモノ》の現象世界全体を生み出す背後者である。
  7. 脳現象は《思いこみ》である。
  8. 脳現象は、浄化によって見通すことができる。脳現象への見通しとは、脳現象と現象世界との対応関係を知ることである。

《混濁》《知りつつあるモノ》

  1. 《知りつつあるモノ》《混濁》の一部か? 定義からしてYes。
  2. 《知りつつあるモノ》《混濁》の自己認識の特異点か? Yes。
  3. 《知りつつあるモノ》《混濁》の一部分か、全体か? 全体において、ズ部手のぶずべてのぶぶsすべての部分において《知りつつあるモノ》であろう。しかし、この《知りつつあるモノ》が『《知りつつあるモノ》である』として知ることができる《知りつつあるモノ》は、《身体》の内部、または、《身体》自体である。

《混濁の世界》《知りつつあるモノ》

  1. 《混濁》から《知りつつあるモノ》《混濁の世界》とが分離した時点では、《混濁の世界》《知りつつあるモノ》とでは別のモノである。
  2. 《知りつつあるモノ》《混濁の世界》の一部か?
  3. 《知りつつあるモノ》《身体》の一部分の状態である。

モノ《知りつつあるモノ》

  1. 《混濁》から《知りつつあるモノ》《混濁の世界》とが分離した時点では、《混濁の世界》《知りつつあるモノ》とでは別のモノである。というか、《知りつつあるモノ》モノではない。
  2. 《知りつつあるモノ》《身体》の一部分の状態であると分かった時点では、《知りつつあるモノ》モノである。《混濁の世界》の中で、輪郭によって他から区別された部分で、ある程度の持続性をもって他から区別された部分を「モノ」という。

《思いこみ》《知りつつあるモノ》

  1. 《知りつつあるモノ》《思いこみ》か?
  2. 《思いこみ》《知りつつあるモノ》によって《知られつつあるモノ》である。
  3. 《知りつつあるモノ》《思いこみ》の中に入ることができる。

《知りつつあるモノ》と意味

  1. 《知りつつあるモノ》は何らかの《思いこみ》の中に入らない限り、モノ世界から意味を感じることができない。

《知りつつあるモノ》自己言及

  1. フッサールは《知りつつあるモノ》という概念を避けている。ノエシス(《知りつつあるコト》)とノエマ(《知られつつあるモノ》)で世界を語る。
  2. 何故に、《知りつつあるモノ》という要素を欠落させるのか、の答えは、彼が自己言及のパラドックスに近づくのを恐れているからだ、と言ってよいだろう。
  3. 彼が超越的認識者を重要視するのも同じ理由である。超越的認識者は「語られることを拒否する《知りつつあるモノ》」である。

分類

《身体》内部のモノとしての《知りつつあるモノ》(b)と《身体》そのものとしての《知りつつあるモノ》(c):

  1. 《身体》の状態が変わると《知りつつあるモノ》の状態も変わる。