《他者からの思い込み》
《他者からの思いこみ》に関連する疑問
- 《他者からの思いこみ》の《噴出点》には?
- ちゃんと、《噴出点》を《見通し》ませう。
- 次の5種類か?
- 《他者からの思いこみ》の《噴出点》は、最初のうちは、漠然たる《体外時空》の全体の《背後者》みたいなものから《他者からの思いこみ》が噴出しているように感じていた。というより、退職して、人たちとの交流を極度に制限する前は、というべきかな。ブッダで不満なのは、人的交流や感覚を断って初めて涅槃が実現する、ということなんだよね。もっとも、交流を断つというのは当事者の内心の状態で十分なので、実際には断っていない、でも可能、ということではある。
- ブッダ的には《他者からの思いこみ》が漠然と感じられるというのは無明のなせる業だね。感覚の門を管理していないから、記憶に残った行が《向こう側の背後者》から噴出しているように見えるのだ。
- 《近傍物理空間》の《認識限界》の表面の『一切』。
- 《近傍物理空間》からの《他者からの思いこみ》の《噴出点》の向うの《背後者》、《背後者世界》。→《近傍物理空間》が縮小して、《息しつつあるモノ》に吸い込まれ、《背後者世界》の中に入り込む。《混濁しつつある近傍物理空間の背後者世界》、《近傍物理空間の背後者世界》。→《近傍物理空間の背後者世界》を噴出しつくし、浄化し、縮小させると、《いま・ここの・この肉の塊》に戻る。→《欲求実現手段の世界》になる。《他者》は《私》の《欲求実現手段》であり、《私》は《他者》の《欲求実現手段》である。
タカモイ《他者からの思いこみ》の正式名の単数・複数に関する疑問
- 全部単数で良いと思います?○:。×:。
- 一人か、多数か、群れ自体か?
- 一人に限る?○:《他者からの思いこみ》。×:。
- 多数に限る?○:《他者たちからの思いこみ》。×:タタモイ。
- 一人もしくは多数、小数?○:日本語では単数か複数かを区別しない。×:。
- 群れ全体に限る?○:。×:。
- 《他者からの思いこみ》?○:特定の一人の他者からの『思いこみ』。×:。
- 《他者からの思い込み》?○:。×:。
- 《他者たちからの思いこみ》?○:多数の他者の集団からの『思いこみ』。×:。
- 《他者たちからの思い込み》?○:。×:。
- 《他者の群れからの思いこみ》?○:。×:。
- 《他者の群れからの思い込み》?○:。×:。
- 《群れからの思いこみ》?○:。×:。
- 《群れからの思い込み》?○:。×:。
- 《ヒトの群れからの思いこみ》?○:。×:。
- 《ヒトの群れからの思い込み》?○:。×:。
《他者からの思いこみ》(タカモイ)とは
- 《呪文》は「タカモイ」。
区別
- 《繋がり》におけるインプットは《他者からの思いこみ》であるか?○:。×:。
- 《他者からの思いこみ》は不快である。捨ててしまえ。
《他者からの息しつつあるモノの群れ》と《他者からの思い込み》
- これは、向こう側で繋がっている。
- 《他者》からの、という《実感》において繋がっている。
- 《他者》は《極座標の原点》であって、インプット・内部回路・アウトプットなのである。
- 《他者》は《息しつつあるモノの群れ》をインプットとして受け取り、《他者からの思いこみ》とアウトプットとして吐き出す。
- どちらも実感ではあるが、向こう側において繋がっていない。
- 『仕事』は《他者からの思いこみ》である。《他者》からの《求める思いこみ》である。《他者からの求める思いこみ》である。
- 《私》の《思いこみ》は捨てるべきモノであり、《他者からの思いこみ》は尊重すべきモノである。
- タカモイ1:《他者からの思いこみ》から《息しつつあるモノ》への噴出、《息しつつあるモノ》からの噴出。
- タカモイ2:《力みつつある身体》
- タカモイ3:《近傍物理空間》
- タカモイ4:《動きつつある身体》・・モノたちの賞賛、モノたちとの対話、《循環しつつある身体》?
- タカモイ5:《動きつつあるモノ》の《背後者》?、《知りつつあるモノ》の《背後者》?、凹型身体?
- 『決まり』は《他者からの思いこみ》である。『モノからの決まり』であろうと、『ヒトからの決まり』であろうと、《私》を支配する『決まり』であろうと、《他者からの思いこみ》である。
プログラムと《他者からの思いこみ》
- ヒトが作ったプログラムは《他者からの思いこみ》である。
- 《他者からの思いこみ》が混沌としているのは、それぞれが《極座標の原点》だからである。
- 《極座標の原点》は、世界を《内からの視点》で理解する。それゆえに見誤る。それゆえに活気があり、衝突し、葛藤し、混乱を引き起こし、混濁した《他者からの思いこみ》を生み出す。
- カオスのS(i,n+1)=F(i)(Σ(i=1→M)S(i,n))の関数Fがそれぞれの《極座標の原点》である。
- ヒトは《極座標の原点》であることから逃れることはできない。
- ヒトは、《極座標の原点》からの《思い描き》において、『《極座標の原点》ではない。客観的な《視点》で物事を見ている。《相対者公理》で物事を客観的に理解している』と思いこんでいる。
《他者からの思いこみ》と《外からの思いこみ》
- Rubyは《他者からの思いこみ》の《混濁》の中の一部分である。
- Rubyは《他者からの思いこみ》の中の『道具』である。別の目的があって、その目的のために役に立つモノ、である。看板屋のハケである。
- コンピュータ=IOボックス。情報の出力を目的とする、そのための情報の入力と、情報の変換を目的とする。欲しい情報の出力を目的とする。欲しい情報が何であるかをコンピュータに教えるための入力が必要となる。入力から出力への情報の変換が必要である。
- Rubyはコンピュータによる情報変換の道具である。
- 道具には道具の構成原理がある。
- 道具には、道具の《作り手》と、道具の《使い手》とがある。Rubyを作るヒトと、Rubyを使うヒトとがある。
- Rubyを使うためのノウハウと、Rubyとはどのような道具であるのか、という本質論。
- RailsとRubyとは異なる。RailsはRuby(やhtml、yml、rdb、JavaScript等々)で作られた、Webアプリ作成に特化した、利用体系。RubyはC言語で作られた利用体系。
- フリー(無料)でオープン(ソース公開、開発への参加自由)。
- 人類が注目する全てのモノは人々の《楽しみ》のためにある。人々の《楽しみ》は《他者からの楽しみ》として、《他者からの思いこみ》の本質的な部分として、現れる。
- 《他者からの楽しみ》には、自体的な《他者からの楽しみ》と、期待的な《他者からの楽しみ》とがある。
- 人々は《楽しみ》をカネで買おうとする。
- 《動きつつあるモノ》は、《息しつつあるモノ》とイコールではない。
- 《動きつつあるモノ》は《他者からの思いこみ》に反応する。
- 《他者からの思いこみ》は《動きつつあるモノ》に反応する。
- タカモイ・ウゴモは《動きつつある混濁》である。
- タカモイ・ウゴモはヘーゲルの人倫である。
- アリストテレスの人の動きの7原因
- 必然
- 偶然
- 強制
- 習慣
- 欲求
- 怒り
- 意図
- 《他者からの思いこみ》には《うめき》と『決まり』が在るように見える。
- モノの《決まり》とヒトの『決まり』、ヒトの《うめき》とモノの『うめき』とがある。仮言命題と定言命題か? ○:。×:ヒトに対する強制力の有無だな。
- 主として中丹田での循環であるようの感じられる。
- 《他者からの思いこみ》からの《動きつつあるモノ》への噴出を、《息しつつあるモノ》がトラップして、取り込むこと。
- タカウゴ=《他者からの思いこみ》と《動きつつあるモノ》との相互作用=は《群生相》においてのみ存在し、《孤独相》になると消えてしまう。
- 《私》のコトバは表出されると《他者からの思いこみ》になる。しかし、《私》のコトバは、その噴出元について完全に支配しており、意外な反応を心配する必要はない。
- 逃避的に《動きつつあるモノ》。《逃げる》べきときに《逃げる》のは『よい』、《逃げる》べきでないときに《逃げる》のは『わるい』。
- タカウゴ・イシモを観察しつつあるモノも、《動きつつあるモノ》である。《観察しつつあるモノ》は《他者からの思いこみ》への交互作用か? ○:《知りつつあるモノ》は《動きつつあるモノ》であり、《知られつつあるモノ》は《他者からの思いこみ》である。×:自律的な《動き》である。
- 《息しつつあるモノ》は《動きつつあるモノ》である。《息しつつあるモノ》は《他者からの思いこみ》への交互作用か? ○:水中でないこと、空気があることへの反応である。×:自律的な《動き》である。自律的な《動き》と交互的な《動き》。
- タカウゴは苦痛である。憎むべきモノと出会う苦しみである。
- 《他者からの思いこみ》は《人々の好み》の噴出である。
《意味》と《他者からの思いこみ》
- 《意味》とは本来、《他者からの思いこみ》にとっての《意味》である。《他者からの思いこみ》と《動きつつあるモノ》の循環における《意味》である。
- 《意味》は《私》にとっての《意味》ではない。
- 《他者からの思いこみ》と《動きつつあるモノ》の循環において『仕合わせ』もある。
- 《私》は《他者からの思いこみ》の『決まり』と戦うためには《決める》覚悟を決めなければならない。
- 戦う必要はあるのか? 《見通し》のほうが重要ではないのか?
- 《決める》というのは、《群有思いこみ》の世界に『決まり』を投入することである。
《他者からの思いこみ》と《うめき》
- 《他者からの思いこみ》の大部分は、俗人の《うめき》である。
- うめき:うなるような声を出すこと。・・何を言いたいのかよくわからぬ発言。
- 《うめき》は感情の表出であろう。《なぐさめ》を求める声か?
- コトバは消費財である。嗜好品である。《心地よいウソ》は嗜好品と同様の価値を持つモノである。
- 《他者からの思いこみ》の大部分は、『決まり』である。『決まり』は《固められた思いこみ》である。
- 『決まり』は人々を操ろうとする意思の現れとしてのコトバである。
- 人々は『決まり』に近づくまいとして『決まり』に操られているのである。柵に近づくまいとして柵に行動を制限されている家畜と同じである。
- 《他者からの思いこみ》は、《混濁》というにふさわしく、混沌としている。
- 《他者からの思いこみ》への《見通し》を得ることが《致知》である。
『パソコンが一台壊れたので、新しいパソコンを購入する必要がある』という《思いこみ》は、《他者からの思いこみ》なのではないか?
『種類』は《他者からの思いこみ》である。
- だからなんだ??
- 『パソコン』という『種類』、『サーバ』という『種類』
- 分類概念と分析概念。動物的《身体》のためのコトバと、論理的《身体》のためのコトバ。
- データベースで扱う概念は分類概念である。モノを分類する為の概念。モノを分析するための概念ではない。
「確実に《在る》という実感を有するモノ」と《他者からの思いこみ》
- 《他者からの思いこみ》は「確実に《在る》という実感を有するモノ」である、か? ○:《身体》の内部に、《身体》の外部から流れ込んでくる《思いこみ》の《混濁》が《他者からの思いこみ》である。×:。
- 《息しつつあるモノ》を見失ってはいけない。
- 《他者からの思いこみ》の《混濁》の中で、《息しつつあるモノ》は鎮座していなければならない。
- 《他者からの思いこみ》が《息しつつあるモノ》を通過すると、とりとめのない人間的な《思いこみ》が生じる。上方無限遠点の《浄化球》で処理するのが妥当であろう。
- 体内世界の《浄化》。足下の《浄化球》への《見通し》。足下への《他者からの思いこみ》。《他者》の《身体》の内外の《思いこみ》の循環。
- 《他者》の《極座標の原点》からの《他者からの思いこみ》。
- 《他者》の《背後者》からの《他者からの思いこみ》。《極座標の原点》の《背後者》、マイナスの距離の世界、内部状態。
- 《他者》の《身体》の外部世界からの《他者》の《極座標の原点》を通した《他者からの思いこみ》。《他者》の体外世界→《他者》の《身体》による認知→《他者》の体内世界、《知った思いこみ》→《他者》の《極座標の原点》→《他者》の背後者世界→《他者》の《極座標の原点》→《他者》の《動く思いこみ》→《他者》の体内世界→《他者》の《身体》の《動き》→《他者》の体外世界→《私》の《他者からの思いこみ》。
- 《他者の極座標の原点》からの《噴出》を《浄化》すると、穴穴から粘膜が《噴出》してくる。《他者の極座標の原点》からの粘膜の《噴出》は、《他者の極座標の原点》を保護するための粘膜である。粘膜は無明である。真実を認識するのは、苦痛である。真実は複雑で悲惨で絶望的である。心地よいウソは単純で楽しい夢に満ちている。ヒトは、そもそも、知りたいことしか、知ることができない。ヒトが真実を知るのは、実際に直面して、それから逃れることができなくなったときに、やむを得ず、知るときだけである。傲慢無礼な地表のカビどもを愛せよ。あなたのコトバは、彼らには届かない。知るべきことを知りたいと求めないかぎり、彼らが知るべきことを知ることはない。
- 《他者からの思いこみ》と《息しつつあるモノ》の戦いである。勝ちとは、《息しつつあるモノ》が《他者からの思いこみ》を吸いつくすことである。
《他者からの思いこみ》とアリストテレスの『弁論術』
- いま、『弁論術』を読んでいるのだが、まさしく《他者からの思いこみ》が主題となっている。
タカモイ・100(2007-09-02(日))
- 1:《他者からの思いこみ》は混濁である。ok
- 2:《他者からの思いこみ》は《知りつつあるモノ》からの圧力、もしくは、《知りつつあるモノ》の崩落である。もしくは、《知りつつあるモノ》の問題である。《他者からの思いこみ》は《知られつつあるモノ》である。ので、《知りつつあるモノ》は《他者からの思いこみ》と対決する。しかし、《知りつつあるモノ》は、《他者からの思いこみ》の前に崩壊してしまうのである。
- 3:《他者からの思いこみ》は《息しつつあるモノ》の問題である。《他者からの思いこみ》と対決して、辛うじて存在を維持できるのは《息しつつあるモノ》である。
- 4:《他者からの思いこみ》は《身体》の問題である。特に、下半身、尻、腰、股の問題である。《息しつつあるモノ》も維持できなくなると、《身体》だけが存立可能な存在となる。
- 5:《他者からの思いこみ》は足の体内世界からの噴出である。《身体》は《他者からの思いこみ》からの《思いこみ》によって、埋め尽くされてしまう。上半身が埋め尽くされてしまわないのは、すでに、前回の《混濁》において浄化力が強化されているためであろう。下半身は浄化力が(今のところ)弱いので、埋め尽くされてしまっている。それを、《噴出》させなければならない。
- 6:《私》の足元への《他者からの思いこみ》は、《他者》の足元からの《他者からの思いこみ》である。下半身は泥に埋まったような状態だ。泥の上の方は手ごわいので、《浄化球》のある足下から浄化していく。足下の《浄化球》から《知りつつあるモノ》へのトンネルは確保しておこう。《息しつつあるモノ》による噴出口も用意しておこう。足下の《思いこみ》は、《身体》と体外世界との《思いこみ》の循環である。《私》の足下への《他者からの思いこみ》は、《他者》の足下からの《思いこみ》である。すなわち、《他者》の《身体》と《他者》の体外世界との《思いこみ》の循環である。それが、《私》の足下への《他者からの思いこみ》となって飛び込んでくる。
- 7:《他者》の内部状態からの、《私》の内部状態への《他者からの思いこみ》。《他者》の足下への《思いこみ》は、《他者》の《身体》の内部状態からの《思いこみの噴出》である。それが《私》の足下への《他者からの思いこみ》となって《私》の足下に飛び込んでくる。《私》の《身体》は、そこから、《他者》の内部状態の《思いこみ》を感じ取る。多層プロトコルである。
- 外部循環の《他者からの思いこみ》と、内部状態の《他者からの思いこみ》。
- 他者の内部状態からの、他者の動きへの、他者の思い込みの噴出。
足下(あしもと)への《他者からの思いこみ》と《他者からの思いこみ》
- 足下の《他者からの思いこみ》は《私》の足下に流れ込んでくるように感じられる《他者からの思いこみ》である。《私》の足下は《私》の《身体》の外部にある。《私》と体外世界との《繋がり》が《私》の足下である。《私》の足下への《他者からの思いこみ》である。
- 《私》が足下において《他者からの思いこみ》を感じるのは、おそらく、《他者》と体外世界との《繋がり》の《思いこみ》が、そこに流れ込んでくるからである。
- 《他者》と《他者》の体外世界との《繋がり》には、アウトプット=《動き》とインプット=世界認知とがある。《動き》は《他者》からの物理空間へのアウトプットであり。世界認知は物理空間からの《他者》へのインプットである。
- 《私》の足下への《他者からの思いこみ》には、
- 《他者》からの世界への《動き》からの《他者からの思いこみ》と
- 《他者》への世界からの世界認知からの《他者からの思いこみ》とがある。
- 《他者の思いこみ》など知らぬ。《私》が苦しんでいるのは、《他者からの思いこみ》が《私》に流れ込んでくることである。《私》は《私》に流れ込んでくる《他者からの思いこみ》が《他者》の《思いこみ》であるかどうかは知らない。
- 《他者からの思いこみ》は《私》にあり、《他者の思いこみ》は《他者》にある。
- 《他者からの思いこみ》は、《他者》からの《私》への《他者の思いこみ》である。
- 《他者からのコトバ》。
- 《群生相》において《混濁》から分離してきたとき、見えてくるのが《他者からの思いこみ》である。
- テレビの喧騒は《他者からの思いこみ》である。
- 《他者》からの《私》への、《私》を愛する《思いこみ》、《私》を憎む《思いこみ》、《私》を試す《思いこみ》、《私》を頼る《思いこみ》。
- 《他者からの思いこみ》は、《他者の身体》の内部にある(はず)の《思いこみ》=《他者の思いこみ》=ではない。《他者からの思いこみ》は、《私》と《他者》との《繋がり》における実感として伝わってくる《思いこみ》である。
- 《他者からの思いこみ》は、観察によってその存在や内容が検証されるモノ、ではない。《他者からの思いこみ》は、《混濁》から目覚めたときに《私》がさらされている《他者》からの暴風である。
- 《他者からの思いこみ》は、《他者》の行動の原因として想定された《思いこみ》ではない。《他者からの思いこみ》においては《他者》は見えない。ただ、《私》に《他者からの思いこみ》が吹きつけているのであり、その先に《他者》が在るかどうかは、未だ知らざる問題である。
タカモイ・100(2007-09-02(日))
- 私の足元へのタカモイは、他者の足元からのタカモイである。
- タカモイは一切の一部分である。
- タカモイは混濁している。
- タカモイは私からのアウトプットであり、私へのインプットである。
- 無明の思い込みをコトバにし、文字にすることは、その思い込みを安全に捨てても良い状態にすることである。文字にすることは、記憶を不要にすることである。
- 文字にすることは、視界を固定することである。ある視点からの視界は、視点が動くと見えなくなり、忘れられる。視界を文字にしておくと、視点が動いても、その視界を通して、見ることができるようになる。
- 他者からの近傍物理空間への動き
- 近傍物理空間からの他者への世界認知
- スネのレベルのタカモイ。道具的思考様式は、道具の使い手の思考様式である。
- タカモイは層をなしている。
- タカモイは、重層的で固まった《ネットワーク》の塊である。
- タカモイを観察すると、イシモがひどく疲れる。なれない筋肉を使うトレーニングのようなもの。思考は、すべからく筋力トレーニングである。
- 何故か、切腹。切腹は腹に溜まったタカモイからの解放である。切腹の覚悟がなければ、タカモイからの恐怖に耐えられないのだ。ヒトを凄惨な死に至らしめること。前方無限遠点へのハラワタの噴出。
- 無明の暗闇を恐れない人々。マダニは三種類の情報だけの光で、それ以外の世界の暗闇を恐れていないよ。光を信じれば、暗闇が怖くなくなる。
- 光で照らして見えるようにする、というのは、私、の力であり、私の動きである。
- 世界を照らすのは私のつとめである。
- 世界を照らすというのは、モノ、コトの真実に至る思考経路を切り開くことである。
- ヒトは思考経路に沿ってしか思考することはできない。
- 新しい思考経路を切り開くには?
- 《息しつつあるモノ》の苦痛。身体の苦痛。ベルトの苦しみ。
- 下丹田への噴出。冷静な観察対象。
- 上丹田への噴出。激こうした時。
- 中丹田への噴出
- 他のモノたちにも、イシモがある。
- 脳が下に引っ張られる感じ。というより、脳の上部が引き締まる感じ。収縮する感じ。イシモの困惑。過呼吸に注意。イシモは息するだけである。静観するだけである。それで良い。
《他者からの思いこみ》の種類
検索
《サル山のサル》 - [#《たけ(tk)》は《サル山のサル》との《繋がり》を有する。《たけ(tk)》からの《サル山のサル》への《繋がり》。《サル山のサル》からの《たけ (tk)》への《繋がり》。《たけ(tk)》は社会的関係の総体である。・・関係する実体を抜きにした関係の総体というのはありえないな。関係に実体を含む、という定義なのか?。《繋がり》の《編み目模様》。下丹田。《他者》からの《思いこみ》の《噴出》。]
《サル山のサルの群れ》 - [#《サル山のサルの群れ》からの《思いこみ》の《噴出》。《サル山のサルの群れからの思いこみ》。《他者》からの《思いこみ》。《他者からの思いこみ》。]
《混濁》 - [#《他者》からの《思いこみ》。《他者》からのコトバ。《他者》からの知識。]
《息しつつあるモノ》 - [##《他者》からの《思いこみ》の《噴出》。]
《他者》 - [#観察によれば、《他者》からの《視点》と、《私》からの《視点》とでは、大きく異なっている。《他者》からの《視点》は、《他者》からの《思いこみ》の《世界》の中に在る。]
ゴミ箱2006-10 - [#ふむ・・。これは、当然のような気もするが・・。「自我」というコトバの定義の問題ではあるが・・。《他者》からの《思いこみ》としての『自我』であれば、死後でも、生者からの《思いこみ》としての『彼』は存在する。しかし、あまり問題にはならないのではないか? ブッダは死んで、弟子は悲嘆にくれたが、ブッダが死んで彼の自我が無くなるから、悲嘆にくれたのだ。]
《暴力》 - [《他者》からの《思いこみの噴出》と《暴力》]
《他者からの思いこみ》 - [タイトルに一致 他者からの思いこみ]
《他者の思いこみ》 - [《他者からの思いこみ》と《他者の思いこみ》]
アレーテイア - [#「アレーテイア」は《他者からの思いこみ》だから、検証しようがない。]
《サル山のサルの群れ》 - [#《サル山のサルの群れ》からの《思いこみ》の《噴出》。《サル山のサルの群れからの思いこみ》。《他者》からの《思いこみ》。《他者からの思いこみ》。]
《思いこみの世界》 - [#《他者》は《思いこみ選択回路》である。《他者》の《思いこみの世界》は、《他者》の欲求傾向を反映する。《他者の思いこみの世界》。《他者からの思いこみの世界》。]
『絶望』 - [##左右から、《他者からの思いこみ》。《他者の思いこみ》]
。
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References:[《思いこみの世界》] [《息しつつあるモノ》] [《息しつつあるモノの群れ》] [《息しつつあるモノの世界》] [《息しつつある身体》] [《他者》] [《他者からの思い込み》] [《他者の求める思いこみ》] [《他者の思いこみ》] [『仕事』] [《他者》の《動き》からの《息しつつあるモノ》への《実感》]