FrontPage  Index  Search  Changes  wikifarm  Login

《他者》への見通し

《たけ(tk)の思いこみ》《他者》への見通し

《他者》《混濁》の中にある。

《他者》《近傍物理空間》の中に現れる特殊な部分である。《知りつつあるモノ》を背後から撹乱する、という特殊な《ちから》をもつモノである。

《知りつつあるモノ》を背後から撹乱するモノとしての《他者》は、《近傍物理空間》の中にではなく、《知りつつあるモノの背後者》への見通しの先に見いだされるべきモノである。

《他者》に至る《知りつつあるモノの背後者》《共振しつつある身体》に至る。《共振しつつある身体》は、世界共振する、モノ共振し、《他者の身体》共振する。

《共振しつつある世界》への《他者の身体》の出現が《知りつつあるモノ》を背後から撹乱する。

《同質者公理》によれば、《私》の出現もまた、《他者》《知りつつあるモノ》を背後から撹乱しているだろう。

撹乱の正体は、《思いこみ》循環が、個体内に留まっている状態=《思いこみの個体内循環》=から《思いこみ》が、《私》《他者》との間の共振状態を通じて、個体間で循環するようになること=《思いこみの個体間循環》=にある。いわば、《私》《思いこみ》循環のモードが変化するのである。

《私》《他者》の内部に《背後者回路》を感じる。《他者》の構造を感じる。

《私》《他者》の内部に《他者の我》を感じる。《他者の我》とは、《他者》の認識と志向性の主体性として、彼が感じているであろうモノである。

《他者》《私》に語るときに、彼の自覚的世界の一部を語る。

しかし、《他者》《私》に語ることの背後には、それを彼に語らせている何ものかがある。それを《他者》《背後者回路》と呼ぶ。

《同質者公理》によれば、《私》の背後にも《背後者回路》がある。しかし、それは、原理的に認識不可能であると思われる。というのは《私》《私》《背後者回路》に気づくことがあるが、《私》によって自覚的に認識された《背後者回路》は、背後から《私》動かすものではなく、《私》の自覚的自我の一部になってしまうからである。


《他者》が理解した所の『《私》はxxと思っている』という《思いこみ》は、《私》《思いこみ》とはかなり違うのではないかと思われる。《私》は、《私》《思いこみ》の極一部分しかコトバとして表出しない。《私》が無意識的に表出したコトバ(表情など)は《私》が自覚した《思いこみ》でないにもかかわらず、他者に伝わっているであろう。いずれにせよ、《他者》《私》が自覚的・無自覚的に表出した《私》コトバをもとにして、《私》《思いこみ》を理解する。その理解は、《私》《身体》の中にある《思いこみ》のごく一部分であると考えられる。

さすれば、《同質者公理》によれば、《私》が理解した《他者》《思いこみ》も、実際の《他者》《思いこみ》のなかの極一部分であることになる。

《私》《他者》に何らかのコトバを伝え、《他者》がそれを理解したと《私》が認識したときに、『彼は、《私》がxxと思っていることを理解した』という《思いこみ》《私》の身体の中に生じる。《私》は『《私》のxxという《思いこみ》《私》《他者》との間で共有された』と認識する。《同質者公理》によれば、《他者》《私》に何らかのコトバを伝えた場合でも同様である。これを《思いこみの共有》と呼ぶことにする。

《他者》共振しつつある《他者の身体》の中にある。

《他者》《他者の思いこみ》噴出する。

《私》《共振しつつある身体》は、《他者》《共振しつつある身体》共振して、《私》《身体》の中に《他者の思いこみ》を受け取る。

《私》は、《他者の思いこみ》を保持し続けられるほど頑丈ではない。それゆえに、《私》《共振しつつある身体》を通じて、受け取った《他者の思いこみ》噴出し続けなければならない。

《私》《他者の思いこみ》を受け取り、《私》《共振しつつある身体》を通じてそれを噴出し続けると、《他者の身体》から《他者の思いこみ》噴出する様子、さらには、《他者の身体》の中での《他者の思いこみ》様子が見通せるようになる。

《他者の思いこみ》には、モノとしての《身体》《思いこみ》、生き物としての《身体》《思いこみ》、《我の思いこみ》、様々な《個有思いこみ》、および、《群有思いこみ》がある。

また、《他者の思いこみ》には、《知った思いこみ》《求める思いこみ》とがある。

他者を動かしている《思いこみ》は、《他者の身体》の中にある《求める思いこみ》であり、《他者の身体》が感じた彼以外の《他者》《求める思いこみ》である。そして、それは主として、《群有思いこみ》によって規制され、生き物としての《求める思いこみ》によって駆動されている。

* 生き物としての《思いこみ》≒「欲望」、《群有思いこみ》≒「エピステーメー+社会的自画像」、であろう。

《共振しつつある世界》への見通し

《共振しつつある身体》の先に見通されるモノ《共振しつつある世界》である。この《共振しつつある世界》は感じられているに過ぎない混濁したモノである。

しかし、《共振しつつある世界》《近傍物理空間》との対応を見てとることができる。 《近傍物理空間》の中のモノに対応する《共振しつつある世界》の中のモノを感じることができる。

* 近傍物理空間は、共振しつつある世界から、「存在」の抽象において再構成されてモノのようである。

《共振しつつある世界》の中のモノたちとの対話は心地よい。

《共振しつつある世界》の中の《他者》も感じることができる。《他者》の出現により、《共振しつつある世界》も撹乱されるようである。

《他者》《共振しつつある世界》の中に《共振しつつある他者の身体》を見つけることができる。これは《共振しつつある世界》の中の他のモノたちと同様の性質を有すると思われる。 他者が出現した時に《共振しつつある他者の身体》を見通しておくと、撹乱の度合が少なくなる。

共振しつつある他者の身体》への見通し

《共振しつつある世界》の中に《共振しつつある他者の身体》を感じていると、《私》《身体》の中に『彼の言動の意味はxxである』と理解する《思いこみ》が生じる。《他者理解の思いこみ》?

《他者理解の思いこみ》と《共振しつつある身体》の間を観察すると、《共振しつつある他者の身体》の出現とともに、《身体》内部にもやもやした《思いこみ》が発生し、それが次第に認識可能な《他者理解の思いこみ》に変化していくようにみえる。

私が身体的な共振関係を通じて、私の身体の中に『彼の言動の意味はxxである』という《他者理解の思いこみ》を生じ、それが近似的にでも実際に《他者》《身体》内部にある《思いこみ》のコピーとみなされるのであれば、他者の《共振しつつある身体》からは、《他者の思いこみ》噴出していると考えることもできるだろう。(情報としての噴出)。

《同質者公理》によれば、《私》《身体》内部の《思いこみ》も、身体的な共振関係を通じて、《他者》《身体》内部に《他者理解の思いこみ》を生じさせていることになる。

《私》《私》《身体》内部に生じた《他者理解の思いこみ》をもとにして、私が彼に伝えたいことの《思いこみ》をもつ。その《思いこみ》《身体》共振関係を通じて、《他者》《身体》内部に《私》《思いこみ》に関する《他者理解の思いこみ》を生じさせ、《他者》はそれに対して、《私》に対して伝えたい新たな《思いこみ》をもち、それが《私》に伝えられる。これは《思いこみ》循環と読んでもよいだろう。これを、《思いこみの個体間循環》とよんでおく。この状態における《身体》を《思いこみを交流しつつある身体》とよんでおこう。

《同質者公理》によれば、《共振しつつある他者の身体》は、《私》《共振しつつある身体》と同じ性質のものである。すなわち、《他者の身体》の内部には《知りつつあるモノ》《息しつつあるモノ》があり、《思いこみ》循環している、ことになる。そして、《思いこみ》《身体》の表面を通じて言動として噴出し、《身体》世界を感じることによって《身体》内部に《思いこみ》を発生させていることになる。

共振しつつある」というのはこのような、《身体》の表面を通じた《思いこみ》《身体》外への噴出や、《身体》内への噴出を伴った《身体》動きであると考えられる。

しかし、見通しにおいては、《他者の身体》共振は、僅かに、《私》《身体》共振しているかどうか、というかすかな感覚でしか捉えることができない。

ところが、その《身体》レベルでの共振の結果、《私》《身体》の中には『彼はxxを思っている』というかなり確かな《思いこみ》をもつに至るのである。また、『私は彼にxxと伝えたい』という《思いこみ》のもとで《私》《身体》が彼の《身体》との共振関係において動くと、『彼に、私がxxと伝えたいという気持ちが伝わった』という《思いこみ》を感じることができるのである。

それは、あたかも、私の心と彼の心とが直接に通じ合ったようにも感じられる。しかし、物理的な共振関係がなければ、彼に私の《思いこみ》が伝わることはないのである。(私が彼について必死に理解しようと考えて、彼の気持ちが分かる、逆に彼が私に思い悩んで私を理解するに至る、というのは、それ自体として物理的な共振関係から直接生じた理解ではない。しかし、その前提として、私と彼との間での共振関係がなければ、つまり、相手を事前に知っていなければ、そのような理解もありえないのである)。

多層プロトコルによる《個体間関係》

《身体》レベルの共振の結果として、私の《身体》の内部には『彼はこう思っている』という《思いこみ》が生じる。

《身体》レベルでの共振と、《思いこみ》レベルでの理解とは、どういう関係にあるのだろうか?

人間同士の《個体間関係》の分析に、コンピュータ用語を使うのは申し訳ないが、多層プロトコルの構造が、人間同士の《個体間関係》にもあるのではなかろうか?

《身体》レベルの共振のレイヤ

コンピュータ同士の通信は、一本のケーブルで行われる。そこで流れているデータは、単なる電流であり、電流のON/OFFでしかない。そこに電流計をあてたとしても、何も分からないだろう。しかし、それがなければ電子メールを送ることもできないのである。通信ケーブルのレベルでも二つの機器の間で通信規約があらかじめ設定されていなければ接続さえできない。イーサーネットのコネクタに電源ケーブルを繋いでも無駄だ。これを物理層でのプロトコルという。

おそらく、《身体》レベルの共振関係は物理層でのプロトコルと言うべきであろう。この物理層でのプロトコルがあるゆえに、二つの《身体》共振するのである。そして、その共振がより上位の相(レイヤ)での通信を可能にするのである。

《共振しつつある身体》のレベルでの共振には、眼で《他者》の行動を見る、耳で《他者》の声を聞く、眼で文字を見る、手で点字を読む、肌に触れる、などなどがある。

《共振しつつある身体》のレベルでの手段はいろいろであるが、どれも、《他者の思いこみ》に関する《思いこみ》《身体》の内部に生じさせる。これはインプット系である。

アウトプット系は、《身体》内部の《思いこみ》《共振しつつある身体》に「《他者》《共振しつつある身体》にその《思いこみ》に関する《思いこみ》を生じさせるような《身体》動き」を生じさせる、ということによって成り立っていると考えられる。相手に《思いこみ》が伝わるような《身体》動きが自然に生じている、ということである。

おそらく、《他者》においても、《他者》《思いこみ》《他者の身体》に、彼の《思いこみ》《私》に伝わるような、《身体》動きを生じさせているのである。そして、《私》《共振しつつある身体》はその動きを感じて、《私》《身体》の内部に『彼はxxと思っている』という《思いこみ》を生じさせるのである。

身体的共振への見通し

《知りつつあるモノ》から《身体》レベルでの共振を見通すと、どのように見えるであろうか?

《共振しつつある身体》は、《知りつつあるモノ》の背後の世界の身体的な《認識限界》にある。しかし、その視点からでは、《共振しつつある身体》《思いこみ》を生じさせている様子は見えない。また、なにより、《知りつつあるモノ》《他者》の出現によって撹乱され、視点が定まらない状態になってしまうのである。《他者》が出現すると、《知りつつあるモノ》《他者》から《他者の思いこみ》を受け取ることに専念してしまうように思われる。

《知りつつあるモノ》が、《思いこみ》《他者》に伝えるために、《身体》動かす、ということは可能であるが、おそらくは、その動きはぎこちなく不自然であり、《思いこみ》を伝えることよりも、そのぎこちなさを伝えることになってしまうであろう。下手な演技になってしまうのである。

《息しつつある混濁》の視点から見てみよう。《息しつつある混濁》の視点では、《他者》がいない時の状態は、《思いこみ》《身体》内を循環している様子が見えている。

《他者》が出現すると《息しつつある混濁》はどうなるであろうか?

《他者》が出現すると、《息しつつある混濁》の存在を忘れてしまうことが多いだろう。しかし、《息しつつあるモノ》は確実に息をしているはずである。したがって、《他者》の出現によって《知りつつあるモノ》が撹乱された状態になっても、《息しつつあるモノ》を感じ続けることは可能である。したがって、《他者》《私》との交流関係を《息しつつある混濁》の始点から眺めることが可能なのである。

《息しつつある混濁》の始点から《他者》との交流の様子を眺めてみると、《他者》の出現によって《知りつつあるモノ》が撹乱され、《私》のモードが変わること、《身体》共振関係に入ること、彼から《思いこみ》を受け取って《身体》内部に『彼はxxと思っている』という《思いこみ》を生じさせること、逆におもいこみ《私》の身体の中にあった《思いこみ》が彼に伝わっていると感じること、などが見えてくるだろう。

《思いこみのパイプ》のレイヤ

《他者の身体》の内部の《思いこみ》《私》《身体》の中に伝わり、《私》《身体》の中の《思いこみ》《他者の身体》の中に伝わる、ということに注目すると、第2層目のレイヤが現れる。

《私》《他者》の出現により、《他者》から《思いこみ》を受け取る準備を始める。また《他者》《思いこみ》を伝える準備を始める。《他者》もまた《私》から《思いこみ》を受け取る準備と《思いこみ》を伝える準備を始める。その関心は《身体》から《他者》に向かって伸びていく。《他者》の関心も《私》に向かって伸びてくるのであろう。そして、対話を始めると、二つの関心は融合して一つのパイプになる。《私》《他者》とはその《思いこみのパイプ》を通じて、《思いこみ》レベルでの交流を始めるのである。

この《思いこみのパイプ》は実際には《身体》レベルでの共振関係を通じて繋がっているのであるが、下位のプロトコルである《身体》レベルでの共振関係は透明化されてしまう。透明化された《身体》レベルでの共振関係を通じて、直接に繋がっているように見えるのである。

《思いこみ》個体間循環個体内循環

《思いこみのパイプ》で繋がった状態においては、つまり、対話においては、《私》《他者》との間で《思いこみ》循環しはじめることになる。

《私》《思いこみ》《他者》に伝わると、《他者》の内部に《思いこみ》が生じて、それが《私》に伝わる、《私》《他者》《思いこみ》を受け取って新たな《思いこみ》を生じ、それを《他者》に伝える、という《思いこみ》循環が生じる。その《思いこみ》循環の中で、《私》はもともと彼に伝えたかった《思いこみ》を彼に伝達し、彼もまた私に伝えたかったことを《私》に伝えるのである。

* もちろんこの循環は厳密な意味での《思いこみ》の移動ではない。あくまでも、それぞれの個体が、『相手はxxと思っている』と《思いこみ》、また、『《私》の思いが彼に伝わった』と思いこむだけである。あくまでも近似的に《思いこみ》が伝わるだけである。しかし、それで十分なのであろう。近似的な伝達では不十分な場合には、双方で《思いこみ》の内容の確認作業を行い、十分なレベルまで正確に双方の《思いこみ》の内容の突き合わせを行えばよいのである。

《思いこみのパイプ》を通した《他者》への見通し

《思いこみのパイプ》を通せば《他者》への見通しが開ける。 しかし、その見通しは、《他者》《私》との関係における《思いこみ》への見通しである。

《他者》《私》以外の《他者》との関係においては別の姿を見せるかもしれない。 《私》との関係では《私》を誉め称えつつ、他の人との関係では《私》をけなしているかもしれない。 《私》との関係では本心を隠して、《私》を騙しているのかもしれない。

また、《思いこみのパイプ》の関係は、駅の売店でタバコを買う場合にも生じる。 売店のおばさんに《私》の『タバコを買いたい』という《思いこみ》が伝えられて、おばさんは《私》にタバコを手渡してくれる。 それも、《思いこみのパイプ》を通した《他者》への見通しには違いない。 しかし、《私》と彼女との関係は、《私》がお金を手渡した瞬間に、終わる。

孤立モードと共振モード

《他者》の出現は《知りつつあるモノ》に撹乱をもたらす。

これは、《私》の状態が、孤立的な《私》だけのモードから、《他者》《私》との共振関係のモードに移行するためだと思われる。

《思いこみ》個体内循環と、個体間循環

《思いこみのパイプ》。コネクション:接続。セッション:コネクションが時間的に継続した一つのモノとしてみた場合にセッションという。

孤立モードから関係モードへ。《他者》の存在を認めた時点から《私》の状態が変わる。《思いこみ》個体内循環から、《私》《他者》との間の《思いこみ》個体間循環のモードにかわる。

《思いこみ》個体間循環のための《思いこみのパイプ》が形成される。《思いこみのパイプ》は第2層目のプロトコルである。

『彼はxxと思っている』『私は彼にxxと伝えたい』『彼は私が彼にxxと伝えたいということを知っている』という《思いこみ》《私》《身体》の中に生じる。

《同質者公理》によれば、彼の《身体》の中にも同様の《思いこみ》が生じているはずである。《他者》は『《私》はxxと思っている』『私は《私》にxxと伝えたい』『《私》は私が《私》にxxと伝えたいということを知っている』。『たけ(tk)はxxと思っている』『私はたけ(tk)にxxと伝えたい』『たけ(tk)は私がたけ(tk)にxxと伝えたいということを知っている』という《思いこみ》《他者》《身体》の中に生じている。

これによって《私》《他者》との間ではそれそれが思っていることについての共通の認識ができた、という《思いこみ》が生じる。『私と彼とは《思いこみ》を共有している』という《思いこみ》である。これを《思いこみの共有》と呼んでおく。

この《思いこみの共有》は、同一の《思いこみ》を二つの個体が実際に共有している、ということではない。錯覚かもしれないし、騙されているのかもしれない。正確に内容が同じということもあり得ないだろう。しかし、『私と彼とは《思いこみ》を共有している』という《思いこみ》をもつことが、《私》《他者》とを特別な関係に導くことになる。道で歩いている見知らぬ人と《私》との関係と、『彼』と《私》との関係は別の性質の有するに至る。もちろん、この『関係』というのも《私》《思いこみ》《他者》《思いこみ》である。しかし、この『関係』の《思いこみ》によって、《私》行動様式が変わるし、《他者》行動様式も変わるのである。《私》が《彼》に対する態度は、《私》が《見知らぬ通行人》に対する態度とは異なったモノになるのである。《彼》の態度もまた然りである。

これが第3のレイヤだろう。《思いこみの共有》のレイヤである。

《私》は《彼》を認知した瞬間に、《彼》との間で共有している《思いこみ》を思い出す。そしてその《思いこみの共有》を前提として新たな《思いこみの共有》を付け加えていくのである。

なお、《思いこみの共有》は対話によってだけではなく、共通の体験をすることによっても生じる。共通の体験によって共通の《思いこみ》が生じているはずだからである。

では《他者》への見通しはどうなるか。

《他者》《私》とは、《共振しつつある身体》《思いこみのパイプ》《思いこみの共有》などで繋がっている。《思いこみ》個体間循環《思いこみ》個体間循環に変化する。その先にある《他者》とはなにか?

《他者》《私》とは別の生活をしている個体である。《私》とは別の《近傍物理空間》を見ており、別の《知りつつあるモノ》である。彼が彼の生活の中で彼の《身体》の中に生じた《思いこみ》の一部を《私》は共有しているのかもしれないが、彼の《思いこみ》の大部分は彼の《身体》の中に隠されたままである。(そうであるが故に、《他者》との交流は面白いのである)。

親友や家族や仲間はそうであろう。しかし、そうでない《他者》もある。

売店で新聞を買うおばさんはどうか? マクドナルドで笑顔で迎えてくれる娘さんはどうか? 銀行の窓口のお姉さんはどうか? 近寄っていく《私》を疑いの眼で警戒している警官はどうか? 仕事として《私》と関係する《他者》はどうか?

《共振しつつある身体》《思いこみのパイプ》は同じである、《思いこみの共有》も実は同じである。《私》がタバコを買いたいという《思いこみ》をもっていることを、売店のおばさんも共有するがゆえに、彼女はタバコを《私》に渡してくれるのである。しかし、彼女がタバコを渡し、《私》がお金を渡した瞬間に、ビジネスとしての関係は終了する。《思いこみの共有》はその時点で目的を達して、その後は、《思いこみの共有》があったことも忘れてしまうだろう。『関係』はそれでおしまいだ。

要するに『関係』は千差万別である。しかし、どんな関係であれ、《共振しつつある身体》《思いこみのパイプ》《思いこみの共有》という関係が生じ、その関係の先には《私》と同質だが別の個体としての《身体》、生活、世界があることには変わりはなく、そのようなモノとして《他者》を見通すことができるのである。

そのように《私》と関係し、《私》におって見通された《他者》は、《私》以外の《他者》との関係ももっている。《ヒトの個体》の関係のネットワークができているのである。

《他者》への見通しの先には、《ヒトの個体》のネットワークへの見通しが広がっているのである。これを《ヒトの群れ》と呼ぶことにする。

しかし・・この程度の見通しでは、未だ「《他者》見通した」ということはできない。 《他者》《他者の思いこみ》動くモノである。 それゆえ、《他者の思いこみ》の中身と《他者》動きとの関係を見通さなければならない。 しかし、《他者の思いこみ》は千差万別である、また、《ヒトの群れ》と関係する点も多い。したがって、ここではまだ語ることができない。

Last modified:2005/07/12 23:14:29
Keyword(s):
References: