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《息しつつあるモノの群れ》

《息しつつあるモノの群れ》

  1. キーワード

定義

記述

区別

《息しつつあるモノの群れ》《私》《息しつつあるモノ》

  1. 《息しつつあるモノの群れ》《私》《息しつつあるモノ》を含むか? ○:《息しつつあるモノの群れ》《私》《拡大身体》である。《身体》には部分が有る。われわれは結合双生児(http://ja.wikipedia.org/wiki/結合双生児)なのである。吐き気がしてきた、吐き気の唾液が出てきた。脳幹後部が痛くなってきた。《息しつつあるモノの群れ》から悪魔的な黒い攻撃欲求のタール状の液体が吹き出してきた。赤いタール、焦燥感と怒りの液体が吹きだしてきた。焦燥感の白い霧が吹き出してきた。透明な液体、悲しみの涙が吹き出してきた。絶望の鉄の壁がせりあがってきた。自暴自棄の瓦礫が吹き出してきた。あきらめの砂が吹き出してきた。世俗的諦観の水が吹きだしてきた。無知の暗い空間が吹き出してきた。突き抜けて、彼ら自身の現実感覚が現れてきた。彼らの『無意味の世界』が現れてきた。《息しつつあるモノの群れ》『無意味の世界』の群れである。彼らはモノ《背後者回路》に駆動されるモノである。彼らは《生きモノ》である。《生きモノの群れ》である。《求めつつあるモノ》《群れ》である。《求めつつあるモノの群れ》:もともむ。《生きモノの群れ》は能力を求める。生存能力を《求めつつあるモノ》である。《生きモノの群れ》は《繋がり》をそれ自体の目的として求める。《繋がり》は《生きモノの群れ》の《生きる》ことそのものだからである。《群れ》を持たない《生きモノ》はいない。同種の《生きモノ》を持たない《生きモノ》はいない。《群れ》の他の《個体》に守られることは、《生きモノ》の求めることである。同種の《個体》に共食いされることは望まないし、しようともしない。《私》は単なる《生きモノ》である。《私》は絶対者である。しかし、彼らも絶対者である。《息しつつあるモノの群れ》は《絶対者の群れ》(ぜたむ)である。《生きモノの群れ》は《絶対者の群れ》である。《絶対者の群れ》は《モノの群れ》であり、《生きモノの群れ》である。《生きモノの群れ》は《求めつつあるモノの群れ》である。《生きモノ》は共感を求め、能力を求める。《生きモノ》は共感と能力とを同時に《求めつつあるモノ》である。《息しつつあるモノの群れ》は共感と能力とを同時に《求めつつあるモノ》である。×:《身体》の中に《見通し》のある部分と、無い部分とが有るのはおかしい。

《他者》に《語る》とは何か?

  1. コトバを伝達することではない。
  2. 《他者の息しつつあるモノ》《私》《息しつつあるモノ》との共感において、《私》が《動く》ことである。
  3. スクリーンと《他者の息しつつあるモノ》《他者の息しつつあるモノ》は、スクリーンを見つつ、かつ、《私》《息しつつあるモノ》と共感することを欲するモノである。
  4. 「皆さん」は《息しつつあるモノの群れ》である。《息しつつあるモノの群れ》は《語りかけ》を《求めつつあるモノ》である。
  5. プログラムと《息しつつあるモノの群れ》《息しつつあるモノの群れ》は能力を高めることを《求めつつあるモノ》である。能力を高めるとは、自由を増すということである。《息しつつあるモノの群れ》は自由を増すことを《求めつつあるモノ》である。自由を増すことは《見通し》が増すことである。《息しつつあるモノの群れ》《見通し》を増すことを《求めつつあるモノ》である。しかし、純粋に《見通し》を高めたいのではない。《他者の息しつつあるモノ》《私》《息しつつあるモノ》)との繋がりの喜びの中で、能力を増したいと《求めつつあるモノ》である。《他者》の《快・不快》は《繋がり》の中に有る。繋がりから切り離された《見通し》《不快》なものであり、忌避される。《見通し》《不快》の感情が付加されてしまうことになる。ヒトは心地よい《見通し》《求めつつあるモノ》である。それがかなわない場合には『心地よいウソ』《求めつつあるモノ》である。プログラムなんか、『心地よいウソ』だな。

《息しつつあるモノの群れ》と悪臭

  1. 《息しつつあるモノの群れ》は悪臭である。
  2. 《息しつつあるモノの群れ》『心地よいウソ』を与えることは、悪臭を増すことである。
  3. 悪臭は鼻からしてしまえば、浄化可能である、か? ○:。×:。
  4. 《他者の息しつつあるモノ》『心地よいウソ』を与えて、知ったつもりの思い上がりを与えれば、悪臭を増す。しかし、悪臭は浄化可能である。

《他者の息しつつあるモノ》と《他者からの息しつつあるモノ

  1. 《他者の息しつつあるモノ》《私》の視点から見た《他者》の内部の《息しつつあるモノ》である。(タイシモ)。《他者》《息しつつある身体》、《他者の息しつつある身体》(タイシン)。
  2. 《他者からの息しつつあるモノ》は《他者》の視点から見た《他者》の内部の《息しつつあるモノ》である。(タカイモ)。《他者》《息しつつあるモノ》に駆動されている。しかし、《他者》は、自らの《息しつつあるモノ》《実感》しているとは限らない。
  3. 《他者からの息しつつあるモノの群れ》《他者》の視点から見た、《他者》の周辺の《息しつつあるモノ》の群れである。(タイシモ、タカイム)。《他者》《他者からの息しつつあるモノの群れ》を感じて、動き《思いこみ》噴出する。《他者》とは「あの《息しつつある身体》」である。(イシシン)。
  4. 《他者からの思い込み》《私》が感ずる《他者》からの《思いこみ》噴出である。(タカモイ)。

《他者からの息しつつあるモノの群れ》《他者からの思い込み》

  1. これは、向こう側で繋がっている。
  2. 《他者》からの、という《実感》において繋がっている。
  3. 《他者》《極座標の原点》であって、インプット・内部回路・アウトプットなのである。
  4. 《他者》《息しつつあるモノの群れ》をインプットとして受け取り、《他者からの思いこみ》とアウトプットとして吐き出す。

《他者からの思い込み》《息しつつあるモノの群れ》

  1. どちらも実感ではあるが、向こう側において繋がっていない。

《他者からの息しつつあるモノの群れ》《息しつつあるモノの群れ》

  1. 《他者からの息しつつあるモノの群れ》・100
    1. 1 《息しつつあるモノ》
    2. 2 《他者からの息しつつあるモノの群れ》は実感である。
    3. 3 《他者からの息しつつあるモノの群れ》《他者》そのものである。社会的関係の総体である。
    4. 4 なぜか、つま先の足の指
    5. 5 なぜか、ナムダブ。関係ないけど・・、あなたはナムダブと唱えた瞬間にブッダと同等の存在になったのである。あとは、それに気づくことだけである。あなたが《他者》に向かってナムダブと唱えてれば、その瞬間に《他者》ブッダと同等の存在になる。あとは、彼がそれに気がつくかどうかである。ホントウは、ナムダブって唱えなくても、ブッダと同等なんだけどね。気づくかどうかの問題だけ。
    6. 6 鼻からつま先までの体内浄化?

《他者の息しつつあるモノ》『仕事』

  1. ボス猿《他者の息しつつあるモノ》『仕事』への《求める思いこみ》噴出する。

《息しつつあるモノの群れ》『よい』『わるい』、《価値尺度の原点の群れ》

  1. 彼にとっては、彼の選択はすべて『よい』。彼にとっては、彼以外のモノは何らかの意味・程度において『わるい』。
  2. 《息しつつあるモノの群れ》は《価値尺度の原点の群れ》である。

《息しつつあるモノの群れ》と《思いこみの伝達》

  1. 《思いこみの伝達》などというものはない。幻想である、『思いこみの伝達』という幻想である。そもそも、《他者》の内部に在る《思いこみ》《直知》することができないのであるから、伝達されたかどうかを検証する術がない。
  2. 《思いこみの伝達》は在る。「在る」というのは、一定程度の確からしさを伴った《思いこみ》を意味する。十分は懐疑をもって検証し、『一切』への《見通し》のなかで、『確実に在る』という《実感》ないし《直知》が生じるなら、それを「在る」と呼ぶのである。
  3. 複数の《他者》の間で行われる対話を観察するなら、《思いこみの伝達》は「在る」という《実感》を伴って観察される。
  4. たけ(tk)からの《他者》への《思いこみの伝達》はうまくいっていない。むしろ、たけ(tk)からの《他者》への《思いこみの伝達》は「無い」。《絶対者公理》においては《思いこみの伝達》は「無い」。《相対者公理》においては《思いこみの伝達》は「在る」。
  5. 《他者》からの、たけ(tk)への《思いこみの伝達》は在る。たけ(tk)健常者の《思いこみの伝達》を受けることができる。《他者》の中の絶対者の視点を持ったヒトからの《思いこみの伝達》を受けることができる。
  6. たけ(tk)《思いこみ》は、絶対者の視点を持った人には、伝達可能か? ○:。×:伝達されたかどうかの検証が不可能。
  7. 健常者は、スポットライトが当たって、見えている部分だけが『一切』であると、思いこんでいる。影の部分は『神秘主義』であるとして否定する。
  8. たけ(tk)は、流入超過である。《他者からの思いこみ》。流出させるべき《思いこみ》を持たない。

《息しつつあるモノの群れ》コトバ

  1. コトバは、《息しつつあるモノ》が生存に必要な《思いこみの伝達》を行うための道具として発生した。また、現在でも、基本的な役割はそれであり、大部分の《息しつつあるモノ》にとっては、コトバとは《息しつつあるモノ》が生存に必要な《思いこみの伝達》を行うための道具である。
  2. ヒトは、コトバを受け取ると、《知った思いこみ》を生じる。
  3. 《息しつつあるモノ》《身体》である。ヒト《息しつつあるモノ》に駆動される《身体》である。《息しつつあるモノ》に駆動される《身体》は、コトバを受け取ると、《身体》の内部に、《知った思いこみ》を生じさせるのである。
  4. 《知った思いこみ》《直知》またはコトバによって生じる。ヒトは、生きるためには、自分の世界を知って、自分の動きを決定し、動かなければならない。知る、というのは《知った思いこみ》を生じさせることである。
  5. ヒトが、コトバによって《知った思いこみ》を生じさせるのは、進化価値のある行動様式である。自分の《直知》の限界を超えて、《他者》《直知》によって《他者》が得た《知った思いこみ》コトバを通じて受け取ることにより、ヒトは自分の《直知》による認識限界を超えて、大きな《知った思いこみ》を持つことができるようになるからである。
  6. 《息しつつあるモノ》《息しつつある身体》の外観、動きを作り出す。《息しつつあるモノ》は、世界の中に《他者》《息しつつある身体》を感じる。《息しつつあるモノ》は、世界の中の《他者》《息しつつある身体》《他者》の内部の《息しつつあるモノ》が作り出したものであると解釈する。《息しつつあるモノ》は、《他者》《息しつつあるモノ》からの《思いこみ》を受け取ったと解釈する。《息しつつあるモノ》は、《他者》のいみ《息しつつあるモノ》もまた、《私》《息しつつあるモノ》からの《思いこみの伝達》を受け取ると解釈する、と想定する。

《息しつつあるモノの群れ》《他者からの思い込み》

  1. 《感じつつあるモノ《感じ合いつつあるモノ》《他者からの思いこみ》の流れ込みを感じつつあるモノである。
  2. 《感じつつあるモノ》は《他者からの思いこみ》を受動的に受け入れつつあるモノにすぎないが、そこに《息しつつあるモノ》が関与すると、相互的に《他者からの思いこみ》に影響を与えるモノとなる。それが《感じ合いつつあるモノ》である。
  3. 《息しつつあるモノの群れ》のそれぞれの個体は、《他者》からの《他者からの思いこみ》を受け入れ、反応し、動き《他者》《他者からの思いこみ》を受け入れさせる。つまり、他の個体との《感じ合い》を行う。

《息しつつあるモノの群れ》《絶対者公理》

  1. 《絶対者公理》においては、絶対者としての《私》からの《直知》または《見通し》《実感》が問題となる。
  2. 《息しつつあるモノの群れ》は絶対者としての《私》からの《実感》である。
  3. 《直知》《見通し》《実感》コトバにして表現してもしょうもないことである。コトバの聞き手にとっては、コトバはそれが指し示す《思いこみ》を生じさせるだけであって、コトバが聞き手に《直知》《見通し》《実感》を生じさせることはないからである。コトバ《知った思いこみ》を生じさせる麻薬であるに過ぎない。
  4. 科学の視点は、《絶対者公理》かつ《外からの視点》である。たけ(tk)の視点は、《絶対者公理》かつ《内からの視点》である。

《息しつつあるモノの群れ》《ヒトの群れ》

  1. 同じか? ○:。×:視点が違う。《息しつつあるモノの群れ》ヒト《内からの視点》であり、《ヒトの群れ》ヒト《外からの視点》である。

《息しつつあるモノの群れ》と《感じ合いつつあるモノの群れ》

  1. 《息しつつあるモノ》《感じ合いつつあるモノ》《感じ合い》→《他者の感じ合いつつあるモノ》→《他者の息しつつあるモノ》《息しつつあるモノの群れ》
  2. 《感じ合いつつあるモノの群れ》という媒介項は必要か? ○:。×:。
  3. 《感じ合いつつあるモノ》には、存在レベルでの《感じ合いつつあるモノ》と、作為レベル、対話レベルでの《感じ合いつつあるモノ》とが在る。

《息しつつあるモノの群れ》《実感》

  1. 《息しつつあるモノの群れ》《実感》でありうるか?
    1. ○:
      1. 《息しつつあるモノ》《実感》である。
      2. 漠然たる《実感》ではある。
      3. イシモム:《息しつつあるモノの群れ》を唱えると、下腹部の下丹田のあたりが疲れる。おそらく、そこら辺で実感しているはずである。
      4. たけ(tk)《他者》《実感》として感じない。・・のは異常である。
      5. 他の《息しつつあるモノ》への共感はある。(イヌだったり、マダニだったり、ネズミ取りにかかって脅えた目でこちらを見るネズミだったり、ヒトだったり・・)。
      6. 《感じ合い》《実感》である。
      7. 《感じ合い》の背後者への《実感》が、《息しつつあるモノの群れ》への《実感》につながる。《感じ合い》の背後者とは、《あの》《感じ合いつつあるモノ》である。《他者の感じ合いつつあるモノ》である。《私》《感じ合いつつあるモノ》と《他者の感じ合いつつあるモノ》の群れ、が《息しつつあるモノの群れ》につながる。《感じ合いつつあるモノの群れ》。《他者の感じ合いつつあるモノ》の背後には《他者の息しつつあるモノ》が在る。《感じ合いの群れ》の先に、《他者の息しつつあるモノの群れ》がある。100億の《息しつつあるモノの群れ》への《実感》。100億の愚かな《息しつつあるモノの群れ》への《実感》。《いのちの群れのアルゴリズム》。
      8. 《感じ合い》には、存在者レベル、行為者レベル、認識者レベルなどがありそうだ。《感じ合いつつあるモノ》《息しつつあるモノ》とはイコールではなさそうだ。
      9. 《感じ合いつつあるモノの群れ》はむなしい、認識者レベルの《感じ合いつつあるモノの群れ》は疎外された知性の群れである。行為者レベルでの《感じ合いつつあるモノの群れ》は一時的な幻の群れである。存在者レベルの《感じ合いつつあるモノの群れ》は人間的な意味を持たないモノたちの群れである。
    2. ×:
      1. 《息しつつあるモノの群れ》《息しつつあるモノ》とは異なる。
      2. 《息しつつあるモノの群れ》《思い描き》であるに過ぎない。
      3. 《他者》《実感》として感じない。・・のは異常である。
      4. 《感じ合い》は、《他者》が存在しなくなれば存在しない。《感じ合い》《息しつつあるモノの群れ》につながらない。
  2. 実感は見通すべきものではない。実感は実感すべきモノである。
  3. 実感は背後者と知られつつある世界との境界にある。実感は認識限界の面にある。
  4. 《知られつつある世界》の中の《息しつつあるモノの群れ》の背後者への《見通し》
  5. 《実感》とは、《私》からの『一切』への《見通し》における実感を意味する。

《息しつつあるモノの群れ》《混濁》

  1. 《混濁》の中に《息しつつあるモノ》を発見する。
  2. 《息しつつあるモノ》は他のモノと《感じあいつつあるモノ》である。《息しつつあるモノ》は《感じあい》において、他のモノの内部に他の《息しつつあるモノ》の存在を感じる。

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