FrontPage  Index  Search  Changes  wikifarm  Login

《相対者公理》

キーワード《相対者公理》

定義

《相対者公理》《同質者公理》とほぼ同じ

《私》が相対者である、という《思いこみ》

  1. 《私》は他のモノと同等のモノであり、他のモノと相対的な関係に在る、という《思いこみ》
  2. 見通されたモノとしての『私』の象は相対者である。《見通されつつあるモノ》。
  3. 見通すモノとしての《私》は絶対者である。《見通しつつあるモノ
  4. 見通すモノとしての《私》も相対者である、と、思いこむことは可能である。おそらく、それが正しいのであろう。《正しい思いこみ》であろう。しかし、《私》はその《思いこみ》の絶対的な主体でしかあり得ない。
  5. 《相対者公理》《思いこみ》の中でしか存在しえない。
  6. しかし、《絶対者公理》も、(《相対者公理》からみれば)、相対者としての《私》《思いこみ》に過ぎない。

区別

墨子の兼愛と《相対者公理》

  1. http://home.h00.itscom.net/ichthys/sr2ethiclass38.html
    1.  孟子の活躍した時代に、儒教とならんで大きな影響力をもった学派に墨家がありました。墨家は中国思想のなかで一風変わった特色のある学派で、孟子はこの墨家を激しく攻撃しています。孔子と同じ魯の人であり、孔子の死後生まれ孟子の誕生前に死んだ墨子は、儒教の仁の考えに鋭い批判を加えました。孔子の仁は家族愛がらはじめそれを天下国家にまで広げようとするものでした。しかし、仁という愛は家族愛から人類愛へ直線的に広がるものでしょうか。僕は思うのですが、子どもは小さい頃は自分の家が「内」であり自分の家である「うち」以外の他の人は「そと」の人です。小学校の上がると、たとえば運動会でもあると、自分の属する学年やクラスを応援します。国体にでも参加しようものなら、自分の属する県を応援するでしょう。オリンピックは自国を応援し、もしスターウォーズともなれば地球の仲間を応援するでしょう。それらのすべてを貫いているのはその中心に「自分の」という言葉がつくことです。特定の集団に対する愛というのは本質的にエゴイズムではないかという考えもあると思います。
    2.  墨子は孔子の仁は別愛(差別愛)だと批判します。仁のもとである孝は自分の親に対する愛で、他よりも自分の親を大切にするものです。しかし、他人だって誰かの子であり親であります。孔子の仁は他人より自分の親を大切にする差別愛だというのです。そうではなくて、差別なく「広ひろく愛する」こと、つまり「兼愛」を墨子は主張しました。
    3.  墨子の兼愛に対しての孟子の批判はエクセントリックなほど強烈です。「墨子は兼愛す。これ父を無みするなり。無父無君は是れ禽獣の愛なり」。親を親ともおもわないのは禽獣の愛だというのです。
  2. 墨子のほうが馴染むな。

商売と《相対者公理》

  1. 主観的絶対性の客観的相対性
  2. Aさんが「自分が持っているaの価値は50円で、(Bさんがもっている)bの価値は100円だ」と思っている。Bさんは逆に「自分が持っているbの価値は50円で、(Aさんの)aは100円だ」と思っている。そのときに、交換すれば、Aさんも50円得し、Bさんも50円得する。
  3. Cさんが出て来て、それぞれ60円で買って、100円で売ると、AさんとBさんは10円得して、Cさんは80円得する。ウィンウィンゲーム。
  4. Aさん、Bさんが得するのは、それぞれの価値が主観的に決まるから。Cさんは、その主観的価値が客観的にみれば相対的であることに気がついて、価値の差についての計算をして、大もうけをする。Cさんは大もうけだが、Aさん、Bさんが損するわけではなく、やはり、得している。
  5. 商売の発想は、主観的価値の相対性に気がつくことが重要。
  6. 主観的価値の相対性に気付かないと、たとえば、Aさんは、「Bさんは100円の価値のあるbと50円の価値しかないaを交換して、50円損するなんて、バカな奴だ」と思うだろう。

《相対者公理》と相対主義。

  1. 相対主義は、不善への合理化だな。
  2. 懐疑主義は、善への懐疑であり、善への志向を失っていない。
  3. 相対主義は善への志向を失った状態だ。「なんでもありでしょ、だからxxもありでしょ」というのは、不善への正当化、口実でしかない。
  4. 価値観の相対主義と、存在の相対主義=《相対者公理》、とでは全然違う。
  5. 真摯な相対主義と、居直りの相対主義、という違いもある。

『自我イメージ』と《相対者公理》『我』情報

  1. 『自我イメージ』は《他者》の鏡像として作られる。
  2. 実存的自我も、『自我イメージ』であり、実存的自我をもった《他者》の認知の後に形成される。
  3. 『我』情報は、システムに不可欠ではない。『仲間』の情報は、『我』情報よりも必要性が高い。『仲間』認知、『仲間』情報同類者意識。同類者情報

《知られつつある私》《相対者公理》

  1. 《知られつつある私》は相対者である、か?
  2. 《私》によって《知られつつある私》は、《私》によって知られつつある《他者》と交代することができない。
  3. 《他者》によって《知られつつある私》は、《他者》によって知られつつある《他者》と交代することができない。
  4. とするなら、《知られつつある私》も相対者であることができない。

《相対者公理》《モノの世界》極座標モデル

  1. 「絶対者」というコトバがおかしいのだ。《モノの世界》ではあり得ないモノなのだ。
  2. 座標系の原点と絶対者はパラレルの関係にあるが、座標変換で原点を移動することができるので、原点は相対者である。
  3. 「同質者」と「特別者」とは《モノの世界》でもあり得る。たとえば《宇宙史》というモノは唯一のモノなので、特別者である。特別者だが相対関係にあるモノ、なので相対者である(全体と部分も相対関係にある。交換可能でなくても相対関係)。
  4. しかしいずれにしても、コトバによる説明方法の問題である。モノコトバで説明するためには視点を設定する必要がある。視点が異なればコトバも変わる。それが、公理主義多次元輪郭空間が必要。
  5. 神の視点からみれば《私》は相対的だが、《私》からみれば《私》は絶対的である。神の視点であれ、《私》の視点であれ、《私》《他者》になることはできない。
  6. 《モノの世界》の中で見通された『私』は虚像であり、見通す《私》ではない。
  7. 極座標モデルと言うのは、《神の視点》である直交座標の中に極座標を置くモデルなので、《私》《視点》から《神の視点》に鏡を置いて見通し世界である。
  8. 客観的な(《視点》の有無に関らず存在する)《モノの世界》は存在するか? たけ(tk)は、存在すると信じる。その信仰の《思いこみ》の中において、《私》は相対者であり得る。・・わけはない。信じるのは絶対者としての《私》なのだ。《相対者公理》と言うのは信仰告白である。半信半疑でしかあり得ないが、信仰告白もよいだろう。
  9. 《他者》《視点》から見て《私》が相対者であるのは明らかではないか!! しかし、その物言いは、《私》《他者》《視点》を知っている、ということを前提としている。《私》《他者》《視点》を知っていると言って、何が悪いか!! 悪くはないが、正しくはない。知らないモノを知っているというのは正しくない。誤りである。ウソである。心地よいウソを信じて何が悪い!! だから、悪いとは言っていない。善いウソもあるだろうよ、ということ。
  10. 《私》は、本当に、《他者》《視点》を知らないのか? 《他者》《視点》クオリアを、《私》《視点》クオリアと同様に感じているのではないか? むしろ、《私》《視点》というのは、《他者》《視点》からの類推で知っているだけではないのか? 嬰児は、最初に母親の《視点》を知った後に、その類推で《私》《視点》を知るのではないか?
  11. 《他者》からの類推で構成された『我』を、『我』イメージと呼んでいるのだが、実は《知りつつあるモノ》としての《我》もまた、フロイトの患者たちの『我』や、マルクスに批判されたヘーゲルの『我』や、ブッダの『我』や、カフカやドストエフスキーの『我』、汝自身を知るべく苦悶したソクラテスの『我』などの《他者》の『我』の類推で構成され、論理的に精製されたイメージでしかないのかもしれない。『自我イメージ』。
  12. 類人猿にも人類愛があるという話。
  13. チンパンジーは鏡に写った自己には2・3日で飽きてしまう、という話。

《絶対者公理》と《相対者公理》

  1. 《絶対者公理》と《相対者公理》とは両立しない。
  2. 《私》が絶対者であり、他のモノも絶対者である。《私》と他のモノは相対関係にある相対者である。とコトバでは言うことができる、が、そのコトバには《視点》の移動が混じっている。《私》《視点》からいえば《私》は絶対者であり、他のモノは相対者である。他のモノ《視点》からいえば、そのモノは絶対者であり、《私》は相対者である。第三のモノ《視点》からいえば、《私》も第2のモノも相対者である、がその《視点》は絶対者である。《視点》が異なるコトバを一つにまとめることはできない。
  3. 多次元輪郭空間》の《視点》からみて、《私》は絶対者であるが故に相対者である、と言うことができるか? 鏡を通した万華鏡のような《多次元輪郭空間》において、《私》は相対者であると言うことができるか? 残念ながら、《多次元輪郭空間》の《視点》は絶対者としての《私》《視点》である。《私》《視点》から、《私》のまわりに広がる《多次元輪郭空間》の中のさまざまな《視点》を鏡として見通す世界が《多次元輪郭空間》の世界である。見通された「私」は、見通す《私》ではない。
  4. 見通すモノとしての《私》は絶対者である。《ブッダの「一切」》
  5. 絶対的認識者と相対的認識者との相互包含、相互循環、相互言及、相互的自己言及カオスへ。絶対的・相対的認識者のカオスコトバの問題かも。視点の問題。
  6. 「絶対的」「相対的」というコトバを使うことが問題。ではあるが、問題の所在を明らかにするための説明方法としては、有用なコトバ
  7. 《他者》が、相対的な、絶対的認識者である、という《見通し》では、《他者》は相対的認識者であるというのと同じ。《私》が相対的認識者である、というのと同じ。《私》が相対的認識者である、というのは、「《私》の認識はどうでもよいモノ、当てにならないモノ」という意味ではない。というか「相対的認識」というコトバが持つ、俗的《思いこみ》の内容が「その認識はどうでもよいモノ、当てにならないモノ」という俗的《思いこみ》を持つことが問題。
  8. 「相対的絶対的認識者」。視点のぶれを含んだコトバ《視点の移動》を含んだコトバ。外の視点からみると相対的だが、中からの視点からみれば絶対的であるような認識者。認識者というモノはすべからく「相対的絶対的認識者」なのである。
  9. 《私》が相対者であり得る、というのは、《私》が他のモノ《視点》(または神の《視点》)から見ることができる、ということを意味する。しかし、他のモノ《視点》が鏡であればその鏡を通してみることができるが、鏡を通してみるということと、その《視点》から見ると言うこととは異なる。《私》《他者》になることができない以上、《私》を相対者として見ることはできない。
  10. 見ることができなくても、《私》は相対者であり得る、とは言えるかも知れない。しかし、《私》が見ることができない事物は、語るべきではないだろう。
  11. 見通された《私》は見通す《私》と同じモノであるか? 同じモノであれば、見通された《私》は相対者なのだから、見通す《私》も相対者である、ということになる。

《相対者公理》《群れ》《視点》

  1. 《私》《群れ》《視点》においては、相対者である。
  2. ただし、《群れ》《視点》は、《群れ》に鏡を置いた鏡像であり、《思いこみ》であり、絶対者としての《私》が鏡を通して見通しモノである。《私》《群れ》《視点》においては、相対者であるということは、それを見通しつつある《私》が相対者である、ということではない。鏡像において《知られつつある私》が相対者である、ということである。

《相対者公理》《憎みつつあるモノ》

  1. 《憎みつつあるモノ》《知りつつあるモノ》から《身体》的な《求める思いこみ》《噴出しつつあるモノ》である。
  2. 《知りつつあるモノ》は、《憎み》において、《繋がりつつあるモノ》となる。
  3. 《私》《繋がりつつあるモノ》だからといって、《私》が相対者になるわけではない。《私》は相対者になることはできない。
  4. 《私》が相対者になることができない、ということは、《私》《他者》と同質であることを妨げない。《他者》もまた、絶対者である点においても、《私》と同質である、と考えることが可能である。

《相対者公理》《思いこみ》

  1. 《今ここのモノ》が相対者であることは、《思いこみ》を捨てた時に見えてくるのではないか?
  2. 相対者であることは見えてくるが、同質であるかどうかは確認できない。
  3. 《今ここのモノ》《他者》の《他者》であることは、《見通し》の範囲内ではないか?

《相対者公理》《同質者公理》

  1. 《私》《他者》と相対的であることと、《私》《他者》と同質であることの違い。
  2. 結果的な意味としては同じ。

.

Last modified:2007/05/26 18:32:42
Keyword(s):
References:[《他者からのまなざし》] [《まなざし》]