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《絶対者公理》と《相対者公理》

おまけ《絶対者公理》と《相対者公理》

[qualia:8826] 《絶対者公理》と《相対者公理》   たけ(tk)です。

[qualia:8823] 実体=意識 にて

Jacques_Amano さん 曰く:

> 意識が存在するのに他のいかなるものも必要としない
> 意識はそれ自体で存続する

意識が存在するためにはその人の身体を必要とする。

意識は、その人の身体が意識を失ったり、寝たり、死んだりすれば存続できない。

---

もっとも、Jacques_Amanoさんのように(?)、 《私》の意識がなければ、意識がない間の身体の存在を確認できない、という 《視点》も可能である。その《視点》でも無矛盾な世界を構成できるだろう。そ のような《視点》《絶対者公理》と呼ぶ。

《絶対者公理》はつぎのように記述してみた。『《私》《私》世界の中心で あり、原点(0,0)なので、《他者》との相対関係にはない』という《思いこみ》《絶対者公理》と呼ぶ。現実的に見て、《私》《私》の位置から離れること ができないのであるから、《私》は原点以外にはあり得ない。現実的に見て《私》《私》世界は唯一の絶対的なモノである。

それにたいして、 《私》の意識があろうとなかろうと、意識がない間の身体は存在する、という 《視点》も可能。そのような《視点》《相対者公理》と呼ぶ。

《相対者公理》はつぎのように記述してみた。『《私》は他のモノと同等のモノ であり、他のモノと相対的な関係にある』という《思いこみ》《相対者公理》 と呼ぶ。この《視点》からいえば、《私》《他者》と同様なモノであるはずで あり、《他者》《私》と同様なモノであるはずである。《私》《他者》と同 様なモノであるなら、《私》の意識があろうとなかろうと、意識がない間も身体 は存在する、はずである。

《絶対者公理》を選択しても無矛盾な世界が構成できるし、 《相対者公理》を選択しても無矛盾な世界を構成できる。 どちらの公理を選択しても無矛盾な世界を構成できる(はずである)。

《絶対者公理》と《相対者公理》との選択は、 極座標系と直交座標系との選択に似ている。

《絶対者公理》《視点》は、極座標の原点に置かれた《視点》であり、世界を 原点からの方向と距離で観察する、世界《内からの視点》である。

《相対者公理》《視点》は、世界の外部もしくは無限遠点に置かれた《視点》 であり、世界を直交座標として観察する、世界《外からの視点》である。

座標変換の手法を応用すれば、《絶対者公理》世界《相対者公理》世界と の間の対応関係を示すことが可能になるに違いない。

[qualia:8835] Re: 《絶対者公理》と《相対者公理》 - 相対とは?

[qualia:8832] Re: 《絶対者公理》と《相対者公理》 - 相対とは? にて Kinnosuke さん 曰く:

> 上の " 相対 " とは変換しても変わらぬ何かを見るときのひとつの態度を表す概念なのか?

ここで言う相対・絶対というのは、 《私》というモノが、相対的なモノなのか絶対的なモノなのか、です。

《相対者公理》は、『《私》《他者》と相対的関係に在る、《他者》と交換可 能な存在である』という《思いこみ》のことです。

《絶対者公理》は、『《私》《他者》と交換することができない絶対的な・唯 一のモノである』という《思いこみ》です。

> むしろ問題は、ある思い込みで立ち現れる構造が、別の思い込みでは潰れてしまっている、そのような思い込みの臍のような所を見つけることではないだろうか。

たけ(tk)の予想では、《相対者公理》《絶対者公理》も、「別の思い込みでは 潰れて」しまうような弱点は見つかりません。

アリストテレスは、『形而上学』岩波文庫、上、p.122で「同じもの(同じ属性 ・述語)が同時に、そしてまた同じ事情のもとで、同じもの(同じ基体・主語) に属し且つ属しないということは不可能である」(矛盾律)と言っているのです が「同時に、そしてまた同じ事情のもとで」というのが曲者で、これは、 (a)同一の《視点》を維持するかぎりは矛盾律が成立するが、 (b)《視点》が異なれば、別の体系になり、その体系で矛盾律が成立するよう に組み立てることができる、 というようにも読める。

たぶん、《相対者公理》《視点》を維持するかぎりは、それなりの体系が成立 し、《絶対者公理》《視点》を維持すれば、そこにもそれなりの体系が成立す ると思います。

> 己の思い込みが描く世界の一貫性に責任を持つ。そうでない限り世界の変換(翻訳)は不可能であり、臍も見つからない…と思う。

合成しなければそれぞれ無矛盾な公理系が在るときに、それをどの様に統一的に とらえ直すことができるか、ということが問題だと思います。

* クオリア《視点》脳科学《視点》もその問題の一部。

公理系の場合には、基礎となる公理の選択が問題なりますが、これを《視点》の 選択に置き換え、さらに座標系の選択に置き換えて、座標変換の方法で統合する ことはできないか、というプランです。

[qualia:8829] Re: 《絶対者公理》と《相対者公理》

座標変換の手法で、《絶対者公理》世界《相対者公理》世界が対応関係にある とするのは、ちょっと怪しい。w

「絶対者公理》と《相対者公理》との選択は、極座標系と直交座標系との選択に似て いる。」と、たけさんがその類似性を指摘したあたりから論点がずれてきたのではな いかと思います。つまり、《絶対者公理》と《相対者公理》との選択は、 極座標系と 直交座標系との選択に似ていない、と思います。

ゴミ箱

《絶対者公理》と《相対者公理》との選択は、極座標系と直交座標系との選択に似て いる。」と、たけさんがその類似性を指摘したあたりから論点がずれてきたのではな いかと思います。つまり、《絶対者公理》と《相対者公理》との選択は、 極座標系と 直交座標系との選択に似ていない、と思います。

  1. ふむ・・。
  2. 思考実験において、《絶対者公理》の言明を《相対者公理》で否定し、その《相対者公理》の言明を《絶対者公理》で否定する、ということを繰り返す。その繰り返しを自己観察して、《相対者公理》《絶対者公理》がどの様に違うのかを観察する。
  3. 《絶対者公理》において「私あっての世界」であるという言明があったとする。
  4. 《相対者公理》において、その言明を観察すると、《世界》の中の或るヒトが『私あっての世界である』という《思いこみ》を持っているに過ぎない、ということになる。
  5. 《絶対者公理》において、その言明を観察すると、『《世界》の中の或るヒトが『私あっての世界である』という《思いこみ》を持っているに過ぎない』というのは、その言明をするヒトが、そのヒトが絶対的な中心であるという前提で、彼にとって唯一のモノである《世界》について、そのような《思いこみ》を有つに至った、ということを意味するに過ぎない、となる。
  6. 《相対者公理》。そう思っているのは、《世界》の中の或るヒトでしょ? 《世界》の中の或るヒトが思い込んでいるだけでしょ?
  7. 《絶対者公理》。そう思っているのは、《私》が唯一絶対の中心として、《私》の唯一絶対の《世界》について、そのように思い込んでいるんでしょ?
  8. 《相対者公理》。そう思っているのは《世界》の中の或るヒトでしょ? 《世界》の中の或るヒトが思い込んでいるだけでしょ?
  9. 《絶対者公理》。そう思っているのは、《私》が唯一絶対の中心として、《私》の唯一絶対の《世界》について、そのように思い込んでいるんでしょ?
  10. ・・
  11. 《相対者公理》《世界》のなかに《私》がある、という《視点》
  12. 《絶対者公理》《私》によって知られたモノとして《世界》が在るという《視点》。「《私》《世界》」という全体構造の中に《世界》があるという《視点》。広義の《私》のなかに《世界》が在る。
  13. 相互包含関係に在る。・・というのではNG。
  14. 《相対者公理》《世界》から《私》への《視点》
  15. 《絶対者公理》《私》から《世界》への《視点》

たけ(tk)です。

[qualia:8830] tk氏へ にて Jacques_Amano さん 曰く:

> tk氏 > >『《私》《私》世界の中心であり、原点(0,0)なので、 > > 《他者》との相対関係にはない』 > > 私がいっていることとは違う。 > > まず、私は、身体の位置が世界の中心だとか原点だとかいう > 点については、言及していないし、今のところは重要とは > 考えていない。

否定形の言明なので、これだけではコメント困難。

> また「他者の世界」を考えない理由は、 > 世界における身体の位置とは全く関係がない。

《絶対者公理》によれば、 「私の世界」は可知であるのにたいし、 「他者の世界」は不可知である。 この対比ひとつを見ても分かるように、性質が異なる。

《相対者公理》によれば、 《私》に「私の世界」があるなら、 《他者》には「他者の世界」があるはずである。 (その《他者》にとっての「私の世界」があるはずである)。

Jacques_Amanoさんは『「他者の世界」を考えない』と言っているので、《絶対 者公理》の立場に分類されるだろう。

> 世界における身体の位置とは全く関係がない。

《絶対者公理》においては《世界》における《私》の位置は問題にならない。 《絶対者公理》における位置とは、《私》との関係における(《私》以外のモノ の)位置である。 《私》自身の位置というのは、(原点であるが故に、常に(0,0)であるがゆえに) 意識されることはない。

> >『《私》は他のモノと同等のモノであり、他のモノと相対的な関係にある』 > > このことは > 「意識されざる世界が存在する」 > というのとは異なる。

《相対者公理》=『《私》《他者》との相対的なモノである』という《思いこ み》と 『《私》によって意識されざる世界が存在する』『私ぬきの世界がある』という 《思いこみ》(※1、《客観公理》)とは異なる。

《私》によって意識されざる世界が存在する』『私ぬきの世界がある』という 《思いこみ》(※1、《客観公理》)と 『《私》によって意識されざる世界が存在するとは明言できない』『私あっての 世界しか確認できない』という《思いこみ》(※2、《主観公理》)と の違いは、

《相対者公理》=『《私》《他者》との相対的なモノである』という《思いこ み》と 《絶対者公理》=『《私》が絶対唯一のモノである』という《思いこみ》と の違いとは、異なる。

※1 「《知りつつあるモノ》による認識の有無に関らず存在するモノがある」 という《思いこみ》《客観公理》と呼ぶ。

※2 「《知りつつあるモノ》の存否に関らず存在するモノがあるかどうかは疑 わしい」という《思いこみ》《主観公理》と呼ぶ。

> 『・・・』内は、他のモノを<<私>>によって模擬できることを根拠としている。 > つまり、この場合にも、「世界=私」の考えがもとにある。 > したがって、私の主張と反するものではない。

「<<私>>によって模擬された他のモノ」と《私》とは同等なモノなのか?

《絶対者公理》によれば、「<<私>>によって模擬された他のモノ」は《私》とは 同等なものではない。

《相対者公理》によれば、そもそも他のモノ《私》と同等なモノである(※)。

※ 「<<私>>によって模擬された他のモノ」を《相対者公理》で観察すると複雑 な関係になる。《私》が「他のモノ《私》に模して考える」なら、他のモノが 「《私》を、その他のモノに模して考える」ということを承認することになる。 《私》が「他のモノがそのモノに模して考えた《私》」を《私》と同じモノであ ると考えるかどうか、肯定、否定の二つの立場が生じる。《コトバの世界》にお いては肯定に傾き、《モノの世界》においては否定に傾く。「他のモノがそのモ ノに模して考えた《私》」は他のモノ《思いこみ》であるから、他のモノ《思いこみ》《私》とは異なる、というのが《モノの世界》の帰結。

> つまり、この場合にも、「世界=私」の考えがもとにある。

《相対者公理》の下で、「他のモノを<<私>>によって模擬できる」とし、それを 「世界=私」と呼ぶのであれば、他のモノにおいても「世界=私」が成り立つの で、「世界=他のモノ」となる。

> > どちらの”考え”を選択しても無矛盾な世界を構成できる(はずである)。 > (中略) > > ”両者”の選択は、極座標系と直交座標系との選択に似ている。 > > 「私あっての世界」と「私ぬきの世界」の違いをいうのに > 極座標系と直交座標系の喩えは適切でないと考える。

「私あっての世界」は《主観公理》、「私ぬきの世界」は《客観公理》なので本 件とは多少異なる。

「私あっての世界」「世界=私」というのは、「私」と「世界」とはどちらも唯 一の存在である、常に共に在る、という意味において「世界=私」なのだろう。

しかし、「世界」と「私」との区別ができないという意味ではないだろう。(境 界線を明確に引くことができる、という意味ではない)。《私》《世界》とを 区別して観察するなら次のようになるだろう。

《絶対者公理》=『《私》が絶対唯一のモノである』という《思いこみ》におい て、 《私》《世界》との関係を考えるなら、 《私》は意識するモノであり、《世界》は意識されるモノである。 《世界》《私》の周りにあり、《私》《世界》の中心に在る。

《絶対者公理》において「《私》《世界》の中心に在る」ということを 《相対者公理》の立場で観察するなら、 「すべてのモノは、それの《世界》の中心に在る」ということになる。 《相対者公理》の立場においては、《私》も他のすべてのモノ《世界》の中に 在る。 《世界》の中のモノたちが、それぞれ「《私》《世界》の中心に在る」という 《思いこみ》を持っているということになる。

* 《絶対者公理》に言わせれば、《相対者公理》の立場で「《世界》の中のモ ノたちが、それぞれ「《私》《世界》の中心に在る」という《思いこみ》を持っ ている」というのは、《私》から見た《私》《世界》への一つの《思いこみ》 だということになる。・・それを《相対者公理》から言わせれば、《世界》の中 の一つのモノが『それぞれのモノたちが・・というのは《私》《世界》への 《思いこみ》である』という《思いこみ》を持つことがある、というまとめにな る。

《絶対者公理》と《相対者公理》は、互いに、相手の見解を自分の見解に取り込 んで、相手の見解を否定することができる。取り込むごとに反照の次数は高くな るが、否定し合いは無限に可能である。

その無限の否定し合いを観察するなら、それが《視点》の違いに基づくことが見 えてくる。

《絶対者公理》モノの中から、《私》を原点として《世界》を見る《視点》で あり。《相対者公理》《世界》の側からモノ《私》)を外部から見る《視点》 である。

《絶対者公理》の、《私》を原点として《世界》を見る《視点》に近い数学的モ デルを捜すなら、極座標(原点からの方向と距離で世界を表現する《視点》)が ヒントになりそうだ、ということ。

> > 極座標の原点に置かれた《視点》= > > 世界を原点からの方向と距離で観察する、世界《内からの視点》 > > > 世界の外部もしくは無限遠点に置かれた《視点》= > > 世界を直交座標として観察する、世界《外からの視点》 > > で、双極座標(注:双曲座標に非ず)だったら > 視点は2つになってしまうのであろうか?(w

双極座標」については知らないので、何ともいえない。

* ざっと見たところでは、2点からの方向角(u,v)(u=点Uからの方向角、v =点Vからの方向角)で表現された座標系なのでしょうか?

弾性学で使われているところを見ると、二つのモノの関係、二つのモノの視点か ら見た世界をうまく表現できる座標系なのかもしれない。「我と汝」の関係を表 現するヒントになるか?

> > 座標変換の手法を応用すれば、"両者"の間の > > 対応関係を示すことが可能になるに違いない。 > > 私は無責任な法螺を好まない。

(^^;)


http://documents.wolfram.com/v5/Add-onsLinks/StandardPackages/Calculus/VectorAnalysis.ja.html

双極座標系Bipolar[u, v, z, a]は, aによりパラメータ化されており,2a によっ て分けられる2つの焦点を中心として構築される.座標u を常に固定しておくこ とで,両方の焦点を通過する円の族が生成される.座標v を固定すると,焦点の 内の1つについて退化楕円の族を生成する.座標z は共焦点の軸に沿った距離を 指定する.パラメータa のデフォルト値は1である.

* これだけではイメージが涌かないな・・。

http://ruby.gfd-dennou.org/products/ruby-dcl/ruby-dcl-doc/math1/node169.html http://liver.ld.infoseek.co.jp/etc/20030528/index.shtml

双極座標から直交座標への変換の式があった。逆が欲しいな。

www.lib.yamagata-u.ac.jp/kiyou/kiyoue/kiyoue-17-1.html

流体力学問題への応用(2円柱まわりのストークス流)

* 2点からの方向角(u,v)(u=点Uからの方向角、v=点Vからの方向角)で 表現された座標系なのか?


「ごく普通の反論」を《相対者公理》と呼び、デカルトの立場を《絶対者公理》と呼ぶ、という点に関して問題ないでしょうか。

ここで「公理」というのはその立場において無矛盾である、という意味を含めています。 二つの、それ自体としては無矛盾の理論体系があり、それぞれが相手の体系を否定する根拠を持っている、という意味での「公理」です。

そこで、《相対者公理》《絶対者公理》の否定し合いの無限ループを観察する、という思考実験してみよう。

((思考実験開始))

《絶対者公理》曰く:私が、その間、(身体や世界が)存在していた、と信ずべき何の理由もない。

《相対者公理》曰く:『私が、その間、(身体や世界が)存在していた、と信ずべき何の理由もない』というのはデカルトの確信にしか過ぎない。私も同様に確信し、他の多くの人もそのように確信する。ということは、デカルトが『私』はある、というのは、多くの人が『私』はある、ということのワン・オブ・ゼムである。デカルトの『私』は多くの人々の『私』と同等の、相対的なモノでしかない。

《絶対者公理》曰く:君がそのように『デカルトの『私』は多くの人々の『私』と同等の、相対的なモノでしかない』と確信したのは、君の世界に於いてである。君の世界は君とって唯一絶対なモノである。君の世界についてそのように確信した君自身、君の『私』も唯一絶対なモノである。

《相対者公理》曰く:《私》がそのように判断したのは、《私》がワン・オブ・ゼムであることを前提として判断したのである。《私》も君と同様に相対的なモノなのである。

《絶対者公理》曰く:君が「《私》はワン・オブ・ゼムの相対的なモノである」と判断したのは、君の唯一絶対の世界《我》に於いてである。

《相対者公理》曰く:君がいかに「唯一絶対の世界《我》に於いてである」と言おうと、その言明はワン・オブ・ゼムの人の言明でしかない。

《絶対者公理》曰く:君が「ワン・オブ・ゼムの人の言明でしかない」と判断したのは、君の唯一絶対の《我》に於いてである。

《相対者公理》曰く:君がいかに「唯一絶対の《我》に於いてである」と言おうと、その言明はワン・オブ・ゼムの人の言明でしかない。

・・以下無限ループ・・

デカルトの『解』は《私》というモノを、『私』というイデアにすり替えたことである。イデアとしての『私』は永遠普遍であり、私の身体や世界《モノの世界》)とは別の世界《思いこみの世界》)の存在である、とあいなる。『私』は現実世界に存在しない幽霊になってしまった・・。

しかし、ここでは、もう少し、無限ループを味わい続けよう。

《絶対者公理》《相対者公理》を批判するのは、《相対者公理》の言明の背後にあって、それを言明しつつあるモノ、の存在を指摘している。《我》が先にあって、言明がその後にある、という《視点》で批判している。

《相対者公理》《絶対者公理》を批判するのは、《絶対者公理》の言明者は、《世界》の中にある人々のうちの一人に過ぎないということである。つまり、《世界》が先にあって、人はその後に在る、という《視点》で批判している。

《絶対者公理》と《相対者公理》とでは《視点》が違う。どの様に違うのか、という興味をもって、無限ループを再開して、その《視点》の違いを観察してみよう。

((思考実験再開))

《絶対者公理》曰く:君が「ワン・オブ・ゼムの人の言明でしかない」と判断したのは、君の唯一絶対の世界《我》に於いてである。

《相対者公理》曰く:君がいかに「唯一絶対の世界《我》に於いてである」と言おうと、その言明はワン・オブ・ゼムの人の言明でしかない。

・・以下無限ループ・・

《絶対者公理》《視点》《我》にある。《我》の周りには《世界》や言明が在るが、《我》はその中心に位置しており、中心としての《我》から、周辺の《世界》や言明を見ている。

《相対者公理》《視点》《世界》にある。《世界》の中にヒトが在り、そのヒト《絶対者公理》をほざいている、と見ている。ヒトを外から見ているのである。

《我》の周りに《世界》があること、逆の表現では《世界》の中に《私》があること、についてはどちらの「公理」においても異論はないであろう。

したがって、《絶対者公理》《我》から見る《視点》《内からの視点》であり、《相対者公理》《世界》から見る《視点》《外からの視点》である。

《内からの視点》《外からの視点》という興味で無限ループを再開しよう。

((思考実験再開))

《絶対者公理》曰く:君が「ワン・オブ・ゼムの人の言明でしかない」と判断したのは、君の唯一絶対の世界《我》に於いてである。

《相対者公理》曰く:君がいかに「唯一絶対の世界《我》に於いてである」と言おうと、その言明はワン・オブ・ゼムの人の言明でしかない。

・・以下無限ループ・・

《視点》《外からの視点》になったり《内からの視点》になったり、移動していることが分かるだろう。((《めまい》に注意・・気分が悪くなったら深呼吸しよう))。

この二つの《視点》をうまく統合できるようにするためのモデルはないものか、というのが次の段階になる。

Last modified:2008/02/13 04:26:36
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