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《絶対者公理》

キーワード《絶対者公理》

定義

《私》《私》世界の中心であり、原点(0,0)なので、《他者》との相対関係にはない。という《思いこみ》《絶対者公理》と呼ぶ。現実的に見て、《私》《私》の位置から離れることができないのであるから、《私》は原点以外にはあり得ない。現実的に見て《私》《私》世界は唯一の絶対的なモノである。

* 反対の公理は、《相対者公理》

* 類似の公理は、《特別者公理》。その反対は《同質者公理》

  1. 《特別者公理》は、《私》《他者》とは性質が異なる、という《思いこみ》

区別

《他者からの思いこみ》《極座標の原点》

  1. 《他者からの思いこみ》が混沌としているのは、それぞれが《極座標の原点》だからである。
  2. 《極座標の原点》は、世界《内からの視点》で理解する。それゆえに見誤る。それゆえに活気があり、衝突し、葛藤し、混乱を引き起こし、混濁した《他者からの思いこみ》を生み出す。
  3. カオスのS(i,n+1)=F(i)(Σ(i=1→M)S(i,n))の関数Fがそれぞれの《極座標の原点》である。
  4. ヒト《極座標の原点》であることから逃れることはできない。
  5. ヒトは、《極座標の原点》からの《思い描き》において、『《極座標の原点》ではない。客観的な《視点》で物事を見ている。《相対者公理》で物事を客観的に理解している』と思いこんでいる。

「優越感」と《絶対者公理》

  1. 優越感という基準は、《絶対者公理》においてしか成立しえない。《相対者公理》においては、矛盾して破綻してしまう基準。

《極座標の原点》《絶対者公理》

  1. 《極座標の原点》は、どこにでも置くことができるモノである。
  2. 《極座標の原点》は、或る場所に置いた時に、その原点にとって絶対者である。任意の場所に置いた《極座標の原点》において、《絶対者公理》が成立する。しかし、これって、相対者であると言うのと同じである。
  3. 《極座標の原点》においては、《絶対者公理》と《相対者公理》とは、同じモノである。

《息しつつあるモノ》《絶対者公理》

  1. 《息しつつあるモノ》にとっての《私》《混濁しつつある身体》であるとしても、《私》《世界》の中心である、という《絶対者公理》は成立する。
  2. 《今・ここの・この肉の塊》《息しつつあるモノ》は、あのモノにあるはずの《息しつつあるモノ》と交換可能ではない。
  3. 《息しつつあるモノ》は、《私》が絶対者であるか、相対者であるかには、関心がない。ナンデダロ?
  4. 《知りつつあるモノ》は、《私》が絶対者であるか、相対者であるかに、関心をもつ。ナンデダロ?
  5. 《息しつつあるモノ》は、《今・ここの・この肉の塊》が、他のモノと何らの違いがないことに気がついている。《今・ここの・この肉の塊》の中の《私》は、モノの内部の《思いこみ》の一種であることに気がついている。特別扱いする理由は何もない。
  6. 《知りつつあるモノ》には《世界》の半分しか見えていない。《知られつつある世界》と《認識限界》の先の《背後者》とに分割してしまう。《背後者》は感じているのに、知らない、という矛盾を含んでいる。《知りつつあるモノ》は、自己を《世界》に対峙するものとして規定するから、《知りつつあるモノ》《世界》の一部であるとすると、矛盾が生じる。なので、特別者なのか、相対者なのか、という公理を立てて、矛盾を解消しようとする。なので、《知りつつあるモノ》によっては、特別者か相対者かという問題は、《知りつつあるモノ》に内在する矛盾にかかわる大問題となる。

ブッダの無常論と《絶対者公理》

  1. http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_3.html
    1. 原始仏典の中では、無常ということがすべての教えの前提になっている。「すべては無常であり、すべては苦であり、すべては無我である」という文句は、原始仏典のいたるところでお目にかかる。・・・すべてが無常なのだから、すべては苦しみであり、そのように無常と苦にさいなまれている自分と世界の中に、絶対者としての自己、恒常・不変・自在な自我などあるわけはない、というようにである。
    2. (梶山雄一、『空の思想 仏教における言葉と沈黙』、8頁)
  2. 「絶対者としての《我》がある」は、と言うコトバは、それがある時には正しいコトバである。それがないときには正しいコトバではない。論理的に見れば同義反復であるが、「「絶対者としての《我》がある」は、と言うコトバは、それがある時には正しいコトバである」というのは正しい。自己言及命題であろう。
  3. http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_3.html
    1. ブッダは、「アートマンは存在しない」という全称命題的言明を意図的に避け、人間存在を成立させている要素の一つ一つ取り上げて、これも無常であるから(常住であるはずの)アートマンではない、あれも無常であるから(常住であるはずの)アートマンではない、というふうな仕方で、知覚し経験できる範囲内の事柄に関してのみ言及するという方法をとっている
  4. 永遠の実在であるような絶対者は論証不可能である。無常の絶対者は、それが在る時には在る。時間を超越する絶対者はないが、時間の中で生成消滅する絶対者は在る。それを「絶対者」と呼ぶべきか、は、コトバの定義の問題であろう。

《絶対者公理》《繋がり》

  1. 《繋がり》モノであるか?
  2. 《繋がり》は、絶対者である《私》と、他のモノとの《繋がり》である。《繋がり》《私》と、モノと、その間の《混濁》によって構成されるモノである。
  3. 《繋がりつつある混濁》《私》と、モノと、その間の《繋がり》によって構成されるモノである。
  4. 《繋がり》と両端のモノを含まない意味で使うか、含む意味で使うか?
  5. 狭義の《繋がり》は両端のモノを含まない。広義の《繋がり》は両端のモノを含む。

《絶対者公理》《繋がりつつあるモノ》

  1. 絶対者は、世界《繋がりつつあるモノ》である。
  2. 絶対者は、世界への《見通し》《求めつつあるモノ》である。《見通し》《繋がり》であり、絶対者は世界との《繋がり》《求めつつあるモノ》である。
  3. 《繋がり》においては《私》は、《他者》《知られつつあるモノ》である。《知られつつある私》である。
  4. 《知られつつある私》は、絶対者によって《知られつつあるモノ》である。
    1. 絶対者としての《知りつつあるモノ》によって《知られつつあるモノ》であり、
    2. 絶対者としての《知りつつあるモノ》が、《他者》を鏡として見通した鏡像であり、
    3. 絶対者としての《私》が有する《知った思いこみ》の中のモノである。
  5. 《私》が樹を見るとき、樹は《私》を見ている。《私》は樹の環境であり、《私》は彼の《状況》の中の一つのモノである。

「すべてのモノは絶対者である」と《絶対者公理》

  1. 「すべてのモノは絶対者である」と、絶対者である《私》は知っている。《私》は「すべてのモノは絶対者である」という《知った思いこみ》をもつ。
  2. 「すべてのモノは絶対者である」ことと《私》は絶対者である、ということとは、矛盾しない。《私》もまた「すべてのモノが絶対者である」がゆえに、絶対者なのである。
  3. 「絶対者は一つしかない」という《思いこみ》《絶対者公理》《私》《私》世界には《私》が一つしかないことを知っている。《私》《私》《知った思いこみ》の中において、『モノもまた、そのモノ世界において、その世界の中心に在るモノが一つしかない、と知っている』という《知った思いこみ》をもつ。
  4. 《コトバの世界》においては、矛盾であり、自己言及であろう。しかし、《モノの世界》においては、モノとそのモノ《知った思いこみ》とでは、別のモノである。故に、自己言及でもなく、矛盾でもない。《コトバの世界》において、モノと、そのモノ《知った思いこみ》とが同一である、と思いこむ場合には、自己言及となり、矛盾となる。
  5. →『《モノの世界》を《コトバ》で説明することと自己言及

《絶対者公理》と『傲慢』

  1. ルシファーの傲慢は、「私は知っている」という傲慢である。「何をどうすればどうなるかを知っている」という傲慢である。「世界の仕組みを知っている」という傲慢である。
  2. 天上天下唯我独尊、というのは傲慢な表現である。しかし、この時点で「私が知っているのは、世界の中心には私がある」ということだけである。この時点では世界《混濁》の闇の中にある。それゆえに、「世界の中心」から《混濁の世界》への《見通し》を、これから、求めていくモノ、なのである。ソクラテスの、無知の知を《知りつつあるモノ》は、無知の知を《知りつつあるモノ》世界の中心であるということを知っている、ということである。
  3. →『主観的価値絶対主義と客観的価値相対主義と・・』

《絶対者公理》と鏡像の中の《私》

  1. 鏡像の中に《私》を見通すことができる。鏡像においては「《私》世界」の中に《私》がある。しかし、世界の一部として《私》があるというのは定義の矛盾。「《私》世界」というのは《私》が置かれている場所であって、《私》自身は含まないはず。
  2. 《浄化球》を通して見ると、世界には《私》自身も入ってしまうんだよね。鏡の中に自分自身が写っているのは当たり前といえば当たり前だけど・・。
  3. 世界の一部分としての《私》は、《身体》を体外感覚において知るのと同じ。世界の中の《私》《知られつつあるモノ》=相対者=としての《私》、であり、それを《知りつつあるモノ》=絶対者=としての《私》とは別のモノ。鏡像はそれが指し示しているモノとは別のモノ
  4. 《体外感覚世界》における《身体》は、《体内感覚世界》における《身体》とは別のモノか? 《絶対者公理》においては別のモノ多次元輪郭空間《思いこみの世界》においては同じモノ

《絶対者公理》世界の視点依存性

  1. 《絶対者公理》のアポリアは、世界が、特定の視点に依存している、ということに原因が在るのかもしれない。世界の視点依存性。

《絶対者公理》多次元輪郭空間

  1. 《私》《私》の視点から離れることはできない。《私》は鏡を通じて鏡像を見ることができる。《私》が他のモノに写った鏡像を見る時、《私》は一時的に、疑似的に、そのモノの視点に立つことができる。この疑似的な視点の移動は、《思いこみ》への《入り込み》の場合と同じである。
  2. 《思いこみ》への《入り込み》によって生じる世界への認識も、鏡像として、その《思いこみ》の外部から見通すべきであろう。科学世界は、科学《思いこみ》に写った鏡像である。

絶対者と原点者

  1. 座標系の原点は絶対者である。
  2. 座標系の原点は、座標変換によって移動可能である。
  3. 移動可能な原点は相対者である。唯一の原点ではなく、たくさんの可能な原点のうちの一つに過ぎない。
  4. しかし、その座標系においては、原点は唯一者であり、絶対者である。
  5. 座標変換をすると、別の座標系になる。モノの位置は別の形で表現されるようになる。
  6. そもそも、「相対者」とはなにか? 意味不明である。「唯一無二の絶対者でないモノ」という意味か?
  7. 原点は、その座標系においては絶対者であるが、座標変換が可能であるという意味においては相対者である。絶対者と相対者は両立する。「その座標系において」という視点と「座標変換が可能であるという意味において」という視点が異なっている。視点が異なれば排中律は成り立たない。
  8. 《私》は「絶対者」であるというよりは、「原点者」というべきかもしれない。《私》《私》を原点とする世界においては唯一無二の絶対者であるが、《私》《他者》を原点とする世界においてはワン・オブ・ゼムの相対者である。《私》《他者》になることができないという意味では、原点である。
  9. 《私》という概念と「座標系の原点」という概念とがパラレルなのかもしれない。《私》は「原点者」と言うべきかもしれない。

《絶対者公理》《見通し》

  1. 《見通し》を重ねていくと、《他者》《私》との同質性が見えてくる。とはいうものの、同質性が見えてくるという《見通し》は、《同質者公理》を採用した上での《見通し》においては、ということである。
  2. 《絶対者公理》を貫いた《見通し》では、《他者》は現象的なモノであり、《私》との同質性、相対性がない。どこまで言っても観察対象としての現象以上のものではない。

ブッダの「一切」、「天上天下唯我独尊」と《絶対者公理》

  1. 釈迦の『我』は絶対者である。
  2. ブッダの「一切」
  3. 《絶対者公理》は絶対に正しい、という前提で、《相対者公理》を取り込んでいくべきである。

《絶対者公理》と原点移動の座標変換

  1. 《私》が原点であるとしても、座標変換によって、《他者》に原点を移動することができるはず。というのは、《相対者公理》による《思いこみ》
  2. 絶対的なモノを移動することはできない。現実問題として、《私》《今ここのモノ》から離れることはできない。《絶対者公理》世界は現実的な世界であり、《相対者公理》世界《思いこみの世界》である。

《他者の世界》の絶対的原点と《絶対者公理》

  1. 《他者》《私》とが同質であるなら(《同質者公理》を採用するなら)、《他者》にとって《他者》は絶対者である。そうすると、《他者》にとっての《絶対者公理》が成立することになる。しかし、《特別者公理》を採用するなら、「《他者》にとって」という前提があり得るかどうかが怪しくなる、否定される。

《他者の知りつつあるモノ》《絶対者公理》

  1. 《絶対者公理》によれば、《他者の知りつつあるモノ》は(あるかどうかは不明であり、あったとしても)相対的なモノであり、《私》《知りつつあるモノ》は絶対的なモノである。

《絶対者公理》《思いこみ》

  1. 《絶対者公理》《思いこみ》か?
  2. 《思いこみ》を捨てた時に見えてくる世界《絶対者公理》世界

《今ここのモノ》《絶対者公理》

  1. 《今ここのモノ》は絶対者である。

デカルトの『我』と《絶対者公理》

  1. デカルトの『我』は絶対者である。

《相対者公理》《絶対者公理》

  1. 相対するモノがある、か、相対するモノがない、かの違い。

《特別者公理》《絶対者公理》

  1. 絶対者というと、何かすごいモノのように聞こえてしまうので、たぶん、使わないだろう。
  2. 絶対者というのは相対者との対であって、相対するモノがないモノ、という意味。
  3. 特別というのは普通の対であって、質的に相対するモノがない、という意味。

関連

→ 「主観的価値絶対主義と客観的価値相対主義と・・」2004/06/06