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《世界アニマ》

キーワード《世界アニマ》

定義

《私》世界《アニマ》

モノとしての世界」に内在する《思いこみ》

記述

道を歩いていて、小田急線の踏切が近づいてきて、だんだん視界が開けてきて、線路の向こうに町並みと工事現場と緑が見えたとき、世界全体が一つのモノとなって、そこに《アニマ》を感じた。それを、《世界アニマ》と呼んでみた。

区別

《世界アニマ》と『マスメディアによって知り得た世界

  1. メディアによって知り得た世界』は《私》世界ではない。
  2. 《私》《他者》との《繋がり》によって得た『世界』は《私》世界の一部である。
  3. 《私》『仕事』での《他者》との《繋がり》《私》世界の一部である。
  4. 《私》『仕事』での《他者》との《繋がり》は、『仕事』の原理によって自由を制限されている。《私》『なすべきこと』を行えないような原理によって『仕事』の原理が成り立っている。《私》『仕事』は、マモンが支配している。
  5. 《私》には『仕事』以外での《他者》との《繋がり》が必要である。
  6. 《私》のインターネットでの《他者》との《繋がり》は、《私》世界か?

《浄化球》《世界アニマ》

  1. 《世界アニマ》が出てきたのは、《私》世界においてではなく、《浄化球》世界においてなんだよね。《浄化球》というのは単なる《道具的な思いこみ》であり、《私》の内部の《思いこみ》だから、《世界アニマ》《私》世界《アニマ》、と言えなくもないが・・。
  2. 《私》は、直接には、《私》世界《世界アニマ》を感じることができない。なんでだろ? 《私》自身の《アニマ》が強過ぎるのだろう。《私》《世界アニマ》を感じるためには、《私》《アニマ》を浄化しなければならない。『《私》《世界アニマ》を感じたい』という《求める思いこみ》自身が《私》《アニマ》だから、浄化できないのだ。
  3. 《私》《浄化球》という鏡を通してしか、《世界アニマ》を見通すことはできない。
  4. 《浄化球》に写った鏡像としての《世界アニマ》は、「《私》《世界アニマ》」か? これは肯定してよいだろう。《浄化球》というのは、《私》の内部の単なる《道具的な思いこみ》だから。
  5. 《世界アニマ》は、最初、《身体》の外面をたどって《浄化球》噴出していく。
    1. 噴出した後にはドーナッツ状の空間が出来る。《身体》の上部から《世界アニマ》への噴出があり、その噴出がドーナッツの表面をたどって《浄化球》噴出していく。
    2. ドーナッツの上部は下に下がっていき、小さくなり、消滅してしまい、《身体》からの噴出《浄化球》に直接噴出するようになる。無限の噴出。その噴出《身体》からの噴出であって、《世界アニマ》からの噴出ではない。《世界アニマ》は浄化されない。
    3. 《混濁》に戻る。その状態の《混濁》を観察していると、《浄化球》の下部への《世界アニマ》噴出を感じるようになる。《世界アニマ》《背後者》からの噴出
    4. 《世界アニマ》は希薄化していく。《身体》が膨張する。《身体》から《世界アニマ》への噴出《身体》を維持する。《身体》の内部のxxからの噴出が、《身体》を経由して、《世界アニマ》を経由して、《浄化球》の下部に噴出する。その《身体》からの噴出を除けば《世界アニマ》は透明化される。
    5. 街に出る。人々の《身体》から《世界アニマ》への噴出があり、《私》の足元の《浄化球》の下部に噴出していく。
    6. 《私》《身体》からの噴出もある。《私》を含めた人々の《身体》からの《世界アニマ》への噴出
  6. 《世界アニマ》《浄化》されると《モノと思いこみの世界》になる。荒涼たる無意味な世界である。当たり前だ、浄化してしまえば意味がなくなる。
  7. 《モノと思いこみの世界》においては《私》《私》《身体》は相対化され、世界の中のモノたちの一つになる。
  8. 《私》《混濁しつつあるモノ》であり、モノたちもまた《混濁しつつあるモノ》である。人びとは自らの《思いこみ》を語ろうとはしない。人びとは自らの《思いこみ》を知らない。モノたちは《求める思いこみ》を即座に実現して、《私》《求める思いこみ》を投げかけない。
  9. 《私》《混濁しつつあるモノ》《浄化》すると、《私》《知りつつあるモノ》《背後者》を浄化し、《私》《知られつつある世界》からの《思いこみ》《私》《知りつつあるモノ》の背後に噴出することが感じられる。
  10. 《私》《世界アニマ》から《求める思いこみ》を感じるということは、《私》《知られつつある世界》から《私》《知りつつあるモノ》の背後に噴出するモノを感じることである。・・しかし、それは《知った思いこみ》であって、《世界アニマ》《求める思いこみ》ではない、のではないか? まあ、よくわからぬが、当分の間は、《世界アニマ》からの噴出《知りつつあるモノ》《背後者》《動きつつあるモノ》《息しつつあるモノ》という経路で感じ続けることにしよう。

《世界アニマ》と《求めつつある世界

  1. 《世界アニマ》《求めつつあるモノ》か? 《世界アニマ》《求める思いこみ》噴出するか?
  2. 《求めつつある世界》は《求める思いこみ》噴出するか?
  3. 《世界アニマ》は発見当初の《混濁》状態で、《求めつつある世界》は、浄化されて無意味になった後に、再度発見された噴出
  4. 《世界アニマ》の原点は《浄化球》で、《求めつつある世界》の原点は《息しつつあるモノ》?。
  5. 同じモノか? モノ《浄化》によって別のモノになるのか? それとも、モノ《浄化》によってモノとしての同一性を保ったままで、見え方が変わるのか?
  6. 見え方の変化と、モノの変化、モノ同一性の喪失とは、どのように区別が可能か?
  7. 多次元輪郭空間。「xxの視点から見たxx」という言い方。
  8. 視点の違いが、連続的な視点の移動であれば、比較的簡単にモノ同一性の判断が可能。問題は、視点の違いが不連続な場合。視点の違いが不連続な場合には、モノが違うのか、同じモノの視点の違いなのかの判別が困難。
  9. 実際問題としては、《世界アニマ》《近傍物理空間》《共振しつつある世界》も《求めつつある世界》も同じモノであって、視点の違いに過ぎないはずなのだ。が、それが錯覚でないという確証はどうやって得ることができるのか? 錯覚である可能性はゆ留保しつつ、信じる、ほかはないであろう。
  10. 同じモノへの視点の違い、と、信じたうえで、「視点の違い」とはどういうモノなのかを研究すべきであろう。
  11. 「視点の違い」は座標変換で理解すべきであろう。
  12. 「視点」が置かれている位置、の研究。「視点」を特定するパラメータ。
  13. デカルト的客観の「視点」とは? 『神』《思いこみ》の「視点」、『ロゴス』の自動運動の「視点」。
  14. 《視点の移動》《視点》

《世界アニマ》《モノと思いこみの世界》

  1. 《世界アニマ》《浄化》すると《モノと思いこみの世界》になる。世界は、見通しによって意味を失う。
  2. 《モノと思いこみの世界》の中で唯一意味を失わないのは《息しつつあるモノ》である。
  3. 《息しつつあるモノ》《求めつつあるモノ》であり、《求めつつあるモノ》《浄化》すると、《息しつつあるモノ》の背後が《浄化》され、《知りつつあるモノ》《背後者》《浄化》され、《知られつつある世界》から《知りつつあるモノ》《背後者》への《求める思いこみ》噴出が感じられるようになる。そこで、再び、《世界アニマ》《求める思いこみ》噴出が始まる。《求めつつある世界》。

《世界アニマ》《繋がりの世界》

  1. 《繋がりの世界》《世界アニマ》の中の《他者》との《繋がり》であるとすると、《繋がりの世界》《世界アニマ》との《繋がりの世界》であることになる。じつに、そうなのだろう。モノとの対話、《宇宙史》との対話、ガイアとの対話、があって、その後にヒトとの対話に伴う《繋がりの世界》を発見したのだ。
  2. とするなら、おそらく、《繋がりの世界》は、通常人の精神状態における、対話的な精神とは全く異なったモノなのではないか? もしくは、通常人の対話的精神と同じだが、通常人はそれが特殊なモノであると思いこんでいるのか。
  3. もしくは、《繋がりの世界》モノとの対話とは異なるモノなのか?
  4. 《繋がりの世界》モノとの対話とは異なる。《モノコトバ》(モノの現れ、身体表現)と《ヒトコトバ》とでは異なる。
  5. 女性はモノの配置の違いなどからヒトの心を読み取る能力があるらしい。しかし、これは《モノコトバ》ではなく、《ヒトコトバ》としてのモノの配置ということだろう。身体表現は《ヒトコトバ》だということだ。
  6. 《世界アニマ》との《繋がりの世界》と、ヒトとの《繋がりの世界》とでは異なる。
  7. モノとの《繋がりの世界》。たとえば、洋服を着た《私》は、裸の《私》とは別のモノである。洋服というモノたちとの《繋がりの世界》において、《私》は洋服たちと一体のものとして一つのモノになる。洋服を着た《私》は風呂に入ることはないし、裸の《私》は街を歩くことはない。《私》がh洋服を来たり、街を歩いたり、風呂に入ったりするのは《世界アニマ》との《繋がり》である。同様に、他のヒトと対話するのも《世界アニマ》との《繋がり》である。
  8. ただし、ヒトとの《繋がり》は、他のモノとの《繋がり》とは、ちょっと異なる。ヒト《思いこみ》モノである。つまり、ヒトとの《繋がり》《思いこみ》モノとの《繋がり》である。《ヒトの思いこみ》アニマを持ったモノとの《繋がり》である。ヒトとの《繋がり》のためには、彼の《思いこみ》を尊重しなければならないのである。その点が、他のモノとの《繋がり》と異なる点である。

《世界アニマ》《他者のコトバの世界》

  1. 《世界アニマ》モノ《アニマ》も含む。
  2. 《他者のコトバの世界》《ヒトの群れのアニマ》である。《ヒトの群れのアニマ》の群れの内部からの感覚、体内感覚としての《ヒトの群れのアニマ》である。《他者のコトバの世界》《ヒトの群れのアニマ》体内感覚である。

《世界アニマ》と分離

  1. 《アニマ》は上から順に次のように分かれる。
    1. 《混濁》《アニマ》
    2. 《見通し》《アニマ》。上丹田(眉間』)
    3. 関係の《アニマ》《思いこみ》《アニマ》。中丹田(みぞおち)
    4. 生存の《アニマ》。《生き物のアニマ》、下丹田(下腹部)
    5. 存在の《アニマ》。《モノアニマ》、足元
  2. 《世界アニマ》は遠い順に次のように分かれる。
    1. 《地表の出来事》《アニマ》
    2. 近傍の人々の《アニマ》
    3. このヒト《アニマ》
《地表の出来事》《混濁》《アニマ》身近な人びとの《混濁》《アニマ》《このヒト》の《混濁》《アニマ》
《地表の出来事》《見通し》《アニマ》身近な人びとの《見通し》《アニマ》《このヒト》の《見通し》《アニマ》
《地表の出来事》の関係の《アニマ》身近な人びとの関係の《アニマ》《このヒト》の関係の《アニマ》
《地表の出来事》の生存の《アニマ》身近な人びとの生存の《アニマ》《このヒト》の生存の《アニマ》
《地表の出来事》の存在の《アニマ》身近な人びとの存在の《アニマ》《このヒト》の存在の《アニマ》

《世界アニマ》《身近な人びと》

  1. 《身近な人びと》の現れは《世界アニマ》噴出である。
  2. 誰が現れるかは、カオス的な「《世界アニマ》《背後者回路》」によって決まる。だいたい予想可能でもあるし、予想不可能でもある。《身近な人びと》がどのような《他者のコトバ》噴出するかは、予想不可能でもあるし、たいだい予想可能でもある。カオス的な「《世界アニマ》《背後者回路》」によって決まる。《世界アニマの背後者回路》はカオス的である。徴候が在る場合もあるし、無い場合もある。
  3. 《身近な人びと》《思いこみの世界》テレビ《思いこみの世界》。書籍の《思いこみの世界》。書籍は、その一つ一つが一つの《思いこみの世界》である。
  4. テレビは、混濁した《思いこみの世界》である。ばらばらな《思いこみの世界》の、断片的な《思いこみの世界》の集合である。
  5. 《身近な人びと》《思いこみの世界》は、或る《ヒトの群れ》を構成するときには一つの《思いこみの世界》となるが、それぞれのヒト《思いこみの世界》は、《ヒトの群れ》《思いこみの世界》とは別のモノである。《ヒトの個体》《思いこみの世界》と、《ヒトの群れ》《思いこみの世界》ヒトは、《ヒトの群れ》の一員として、一つの《思いこみの世界》を共有する。《ヒトの個体》は、個体としての《思いこみの世界》と、《ヒトの群れ》の一員としての《思いこみの世界》とを持つ。

《世界アニマ》モノの現れ

  1. ヒトの現れ》は《世界アニマ》噴出である。一般に《モノの現れ》は《世界アニマ》噴出である。《他者》の出現は《世界アニマ》噴出である。《テレビの現れ》は《世界アニマ》噴出である。
  2. テレビの《ヒトコトバ》は、《身近な人びと》の文化の噴出である。《身近な人びと》の文化は《世界アニマ》噴出である。《他者のコトバ》は、現実に身近であろうが無かろうが、《身近な人びと》《思いこみ》噴出である。《私》が聞いたコトバの発言者が《身近な人びと》である。その人のコトバを聞けば聞くほど、身近になる。歌を何度も聞けば、その歌手や作者が身近になる。コミュニケーション理論のxx。
  3. モノの現れ》は、《私》《状況》によって決まる。何が現れるかは《状況》しだいである。《私》《状況》《私》《世界アニマ》である。《私》《状況》や、《私》世界《世界アニマ》は唯一絶対のモノである(ただし、もちろん《私》にとって、ではある)。
  4. 『空中ナパーム』という《思いこみ》噴出してきた。その《思いこみ》記憶から噴出してきた。記憶は、かつて《私》が体験した《世界アニマ》噴出の蓄積である。その《世界アニマ》はまるで、《他者のコトバ》世界である。《他者》《思いこみの世界》《私》《世界アニマ》として出現したモノである。実験場の映像であり、図解であり、説明のコトバが構成する《他者の思いこみ》が、《私》《世界アニマ》として出現したモノである。
  5. 《他者の思いこみ》《世界アニマ》として出現する、ということと、《他者の思いこみ》の出現が《世界アニマ》噴出である、ということとの違いは?
  6. 《世界アニマ》には、《モノの世界》《アニマ》と、《他者》《思いこみの世界》《アニマ》とが在る。《他者の思いこみの世界》。《他者のコトバ》《思いこみの世界》《他者のコトバ》が作り出す《思いこみの世界》《思いこみの世界》《世界アニマ》世界には《モノの世界》《思いこみの世界》とがある。《思いこみの世界》には《モノの世界》を正確に反映した《思いこみの世界》と、《モノの世界》を不正確に反映した《思いこみの世界》とがある。
  7. 「小泉純一郎」というコトバが指し示すモノがある、と信じるかどうか・・。半信半疑の態度が正しい。いちおう信じる、という態度。いちおう在るモノとみなす、というたいど。《みなし》という態度。たけ(tk)は「小泉純一郎」というコトバが指し示すモノがある、と、みなす。見なし、見做し、みなし、看做し。擬制する。推定する。
  8. 「※看倣す(みなす)とは?・・・・追認の効果は覆らない、反証を許さないこと」(http://www.naiken.jp/law_min1.htm)。

《世界アニマ》《息しつつあるモノ》

  1. 『なすべきこと』《世界アニマ》《息しつつあるモノ》との間の《繋がり》にあるはずだ。
  2. ジョウキュウ、セカニマ、イシモ、セカニマ。

《世界アニマ》と『愚かな人びと』

  1. 《世界アニマ》を構成する人びとの中に『愚かな人びと』を見つけることができない。
  2. ヒトは皆、それぞれに賢明に懸命に生きている。
  3. 彼の生存に関係しないと思う事柄に関しては、彼らは無責任な放言をするが、それは、軽い冗談に属する事柄だ。
  4. 彼らはモノであり、生き物であり、ヒトだ、それがヒトだ。彼らは世界の全貌を知ろうとはしていない。全貌を知った所で、懸命に生きることの妨げになるだけだと考えている。懸命に生きるにあたって、必要なことを知るのは賢明なことだ。懸命に生きるにあたって、必要以上のことを知ろうとしないのは賢明なことだ。
  5. 彼らは、知るために疑うよりも、信じて知らない方がよいと考えている。騙されても、騙されたことを知らなければ問題が無い。騙されることよりも、疑うことを憎む人びと。共同幻想を疑わない人びと(信じているわけでもない)。疑うことを恐れている人びと。思考を節約する人びと。思考するよりも懸命に生きることにエネルギーを費やす人びと。賢明なモノだ。ヒトは霞を食って生きていくことができない。飯を食いたい、飯が食えるように稼ぎたい。それがヒトというモノだ。モノであり、生き物であり、ヒトだ。
  6. 《世界アニマ》には、善意を信じるモノたちの善意が溢れている。
  7. 天才だけの社会を求めるな。って・・、高校時代に女の子に言われたっけ・・。
  8. ブッダだけの社会なんか面白くないだろう。善人面して、『彼は善人だ』って皆を騙すのが面白い生き方なのではないか? 騙して喜び、騙されて喜ぶ、というのが面白い社会なのではないか? 善人ごっこの騙し合い、って、素敵な社会だね。

《世界アニマ》と人々の《思いこみ》噴出

  1. 《世界アニマ》を構成するのは、モノ《思いこみ》噴出、イキモノ《思いこみ》噴出、性的もしくは関係的な《思いこみ》噴出、人々の対自的な《思いこみ》噴出である。世界を構成するのはモノヒトであり、《世界アニマ》を構成するのはモノ《思いこみ》ヒト《思いこみ》である。ヒト《思いこみ》には、モノとしての《思いこみ》、イキモノとしての《思いこみ》ヒトとしての《思いこみ》とがある。またヒト《思いこみ》には、生存的な《思いこみ》、関係的な《思いこみ》、対自的な《思いこみ》がある。またヒト《思いこみ》には、即自的な《思いこみ》、対他的な《思いこみ》、対自的な《思いこみ》がある。生存的、関係的、成長的というERG理論は、《他者の思いこみ》だから、よくわからぬ。
  2. 重要なのは、《世界アニマ》を構成するのはヒト《思いこみ》噴出には限らない、ということ。

《世界アニマ》『なすべきこと』

  1. 『なすべきこと』《世界アニマ》の中にしか有り得ない。
  2. 『なすべきこと』《息しつつあるモノ》《世界アニマ》との関係の中に在る。
  3. 《繋がり》モノモノとの関係、モノモノとを繋ぐモノモノモノとが繋がって出来るモノモノモノとが繋がった状態、というモノ。状態が継続すればモノである。か? 《繋ぐモノ》は綱であろう、《繋ぎ》。《息しつつあるモノ》《世界アニマ》とを《繋ぐモノ》は呼吸であり、共振であり、知ることと動くことである。

《世界アニマ》と「《私》自身を含めた世界《世界アニマ》

  1. 定義の矛盾が生じるな。「《私》世界」というのは《私》が置かれている場所であって、《私》自身は含まないはず。
  2. 《浄化球》を通して見ると、《世界アニマ》には《私》自身も入ってしまうんだよね。鏡の中に自分自身が写っているのは当たり前といえば当たり前だけど・・。
  3. 《世界アニマ》《絶対者公理》の概念。なのだが、《世界アニマ》の鏡像においては、《私》自身が入っている。《私》といっても、その《私》《私》の外部からの視点での《私》。身体を体外感覚において知るのと同じ。世界の中の《私》《知られつつあるモノ》としての《私》、であり、それを《知りつつあるモノ》としての《私》とは別のモノ《絶対者公理》と鏡像の中の《私》

《世界アニマ》《拡大身体》

  1. 《私》を含めた世界《世界アニマ》というのは、《拡大身体》かもしれない。
  2. 《世界アニマ》の「これは苦しみである、これは苦しみ原因である」。『なすべきこと』を出来ない/しない、のは苦しみである。
  3. 源泉納税は税務署の《求める思いこみ》である。統治集団(国家)の《求める思いこみ》である。源泉納付は委託者の《求める思いこみ》である、受託者(企業主、企業そのものの《ヒトの群れ》)の《求める思いこみ》である。その役割を仰せつかった担当者自身の《求める思いこみ》である。担当者自身を含めた、担当者の《世界アニマ》《求める思いこみ》である。

《世界アニマ》と『大学』の「修身

  1. 格物致知誠意正心

《混濁》《世界アニマ》

  1. 《私》のまわりの世界を一つのモノとして捉えること。一つのモノとしての《私》世界に混濁した《アニマ》を感じること。混濁した《アニマ》から、全体として一つの《アニマ》から、いくつかの《求める思いこみ》を抽出すること。

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Last modified:2008/01/11 02:25:35
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References:[《他者》の《動き》からの《息しつつあるモノ》への《実感》]