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《触感》

《触感》

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定義

記述

区別

ショッカン・イシモ・100

  1. 《触感しつつある身体》。《身体》の4番目の定義は、《触感しつつある場所》としての《身体》であったな。
    1. 「# 《近傍物理空間》を感じつつあるモノの自己認識としての《身体》。指先がコインを感じつつある時の指先。感覚の場所としての《身体》」。
  2. 《触感》は視覚や聴覚などと異なって、我を忘れた感覚、ではない。《私》《身体》とそれとの《繋がり》の感覚である。
  3. 《混濁》《知りつつあるモノ》《触感》であった。
  4. 《身体》的な《触感》《動き》がなくなると、次第になくなる。
  5. 《身体》《触感》は、世界への《触感》に広がる。モノとの《触感》世界との《触感》。「との」《触感》、「への」《触感》、「からの」《触感》モノとの接触感覚。
  6. モノとの《触感》《生きモノ》との《触感》ヒトとの《触感》コトバとの《触感》、映像との《触感》《思いこみ》との《触感》《世界》との《触感》《混濁》との《触感》『一切』との《触感》、・・。
  7. 不快な《触感》と快適な《触感》とがある。
  8. 《触感しつつあるモノ》。《触感》しつつある《息しつつあるモノ》。ショシモ。《近傍物理空間》《モノの世界》
  9. 《触感しつつある他者》ショシタ。《他者》《繋がり》を求めている。《他者》《繋がり》《求めつつあるモノ》である。《求めつつある他者》。《他者の求める思いこみ》。だからなんだというのだ。《他者の求める思いこみ》に何の義理があるというのか。

http://polylogos.org/hs00 4.html

    1. フーコーの『主体と解釈学』読解
    2. ・・
    3. さて近代になると、主体が真理に到達する条件は認識だけになる。これはデカルトの変革がもたらした大きな違いである。もはや主体のエロスも主体の鍛練も必要とされない。フーコーが「デカルト的瞬間」と呼ぶのはこの違いを示すためである。「真理の歴史において近代が始まるのは、真理に到達するために必要なのは認識であり、認識だけであるとされるようになった瞬間と言えよう」(19)。
    4. ・・
    5. このようにして主体性と真理の間に新しい関係が確立され、真理はもはや主体を「救う」ことはできなくなったわけである。真理の歴史において近代とは、主体は真理に到達できるが、真理は主体を救うことができなくなった時代として定義できることになる。

《繋がり》《触感》

  1. 《触感》とは、モノモノとの《繋がり》の感覚である。

テレビ《触感》

  1. テレビには《触感》が無い。
  2. 幼児にテレビを見せても、コトバを覚えないらしい。同じヒトが、直接話しかけると、覚えるらしい。

《アクター分析》と《触感》

  1. 彼の触感を思い描くこと。

《混濁しつつある他者の身体》《触感》

  1. 《混濁しつつある他者の身体》《動きつつあるモノ》である。か? ○:信じられないことに《他者》《動きつつあるモノ》である。何も見えていないのに、勇敢にも《動きつつあるモノ》である。見えない人は行動的であり、見えるヒトは行動的ではない。なぜ?。《触感》を求めて動くのか?。《触感型行動様式》。《身体》的な《繋がり》の感覚。音楽に浸るときの聴覚。風景や美術品や映画などに感激するときの視覚、も触感である。楽しんで運動しているときの《身体》《動き》の感覚も触感である。×:。

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Last modified:2008/02/06 23:44:29
Keyword(s):
References:[《繋がり》] [《触感》] [《動きつつあるモノ》]