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《自己言及》

キーワード《自己言及》

定義

《私》が自己に言及すること。

  1. 《私》自己言及
  2. 《私》《私》直知すること。
  3. 《私》《私》を語ること。
  4. 《私》《私》を感じること。
  5. 《私》《私》を思い描くこと。
  6. 論理学での「自己言及」とは区別して、《自己言及》とする。

区別

《私》《動き》」と《他者へのコトバ》

  1. 同じか?
    1. ○:
      1. 《他者へのコトバ》は、《他者》によって認知された「《私》《動き》」である。
      2. 《他者》《知りつつあるモノ》であることによって、《私》《知りつつあるモノ》を背後から撹乱するのである。つまり、《私》《知りつつあるモノ》《他者》《知りつつあるモノ》《自己言及》関係に入るので、《私》《知りつつあるモノ》を撹乱するのである。《他者の知りつつあるモノ》
    2. ×:
      1. 《他者》《知りつつあるモノ》なのか?。《私》《他者》《知りつつあるモノ》を知ることができるのか?

論理と《自己言及》

  1. 論理の世界での《自己言及》はタイムマシンでループする世界での《自己言及》である。

自己言及《コトバの世界》

  1. 「この文章は誤りである」という《ピクセルの集まり》について考えてみよう。
  2. 或るコトバ(《「この文章」》)(a)が何者かを「言及する」ということは《モノの世界》での出来事である。
    1. 《モノの世界》においては、「この文章」というモノは、インクの染み・ピクセルの集まりである。
    2. 《「この文章」》というインクの染み(a)は《私》に『この文章』という《思い描き》を生じさせる。
    3. 《私》の中に生じた『この文章』という《思い描き》は《「この文章は誤りである」》というインクの染み(b)を指し示す。
    4. この《「この文章」》というインクの染み(a)と《「この文章は誤りである」》というインクの染み(b)とは同一のモノである((じゃないけど、同一ということにしておこう・・))。
    5. しかし《この文章》というインクの染み(a)が直接に何かを指し示すということはない。インクの染みは《私》がいなければ何者も指し示さない。
    6. 《この文章》というインクの染み(a)は《私》《思い描き》を生じさせ、そして、《私》《思い描き》が何か(b)を指し示すのである。指し示すモノ《私》《思い描き》であって、インクの染み(a)ではない。
  3. たけ(tk)《コトバの世界》といっているのは、イデア実在論的な《思いこみの世界》のことである。
    1. イデア実在論(実在とはイデアであり、モノの『実在』もイデアであるという考え方)によると、《指し示す思いこみ》と《指し示されたモノ》の『実在』(→イデア)とは同一視される。モノコトバとの離存性が否定される。
    2. イデアを指し示すコトバ》が存在しない、という意味ではない。《イデアを指し示すコトバ》においては『指し示されたイデア』と『指し示すイデア』との間の離存性を否定してもよい。
    3. イデア実在論の問題は《モノを指し示す思いこみ》において、《思い描き》である『イデア』を実在と見なし、モノをその一例(インスタンス、偶有性)に過ぎないものとして、考慮の対象外にしてしまうことである。
  4. イデア実在論的な《思いこみの世界》《コトバの世界》=においては、『自己言及』という《思いこみ》は鬼門である。
    1. 《コトバの世界》においては「この文章」というコトバが指し示す『実在』は『この文章』というイデア《思い描き》)である。インクの染みではない。
    2. それ(『この文章』というイデア(a))が指し示すモノ、「この文章は誤りである」という文章の『実在』も、『この文章は誤りである』というイデア(b)である。
    3. 《コトバの世界》においては、指し示す側の『この文章』というイデア(a)と、指し示される側の『この文章は誤りである』というイデア(b)とは『同一』である((じゃないけど、同一ということにしておこう・・))。
    4. それを前提として、真偽評価を加えると、『この文章は誤りである』が真なら『この文章は誤りである』は真だから、『この文章は誤りである』は偽である。『この文章は誤りである』が偽なら、『この文章は誤りである』は真である・・、という矛盾が発生して、真偽評価不能、とあいなる。
  5. イデア実在論的な《思いこみの世界》《コトバの世界》=から、《モノの世界》における《自己言及》を見ると、『自己言及』が実際には《コトバの世界》からの一時的脱出を含んでいるのだということが分かる。
    1. 《コトバの世界》の論理では、その脱出を捨象してしまう。そのために矛盾が生じる。そして、《コトバの世界》の不完全性を証明してしまう。
  6. 《コトバの世界》《モノの世界》に浮かんでいる《思いこみ》に過ぎない。
    1. 《コトバの世界》が『自己言及』によって破綻するのは、同一でないモノを『同一』と思いこむことから生じる。《コトバの世界》においては、コトバ(a)と、コトバによって語られたことによって生じる《思い描き》(c)と、その《思い描き》によって指し示されたモノ(b)とがすべて『同一』であると思いこんでしまうのである。
    2. インクの染み(a)(b)と《思い描き》(c)とは別のモノであるのに、別のモノを、『同じコトバによって指し示されたモノである』という理由で『同じモノである』と考えるのは理性の暴走である。
    3. 理性の暴走は《モノの世界》の中のヒトの中の《思いこみ》の暴走である。ヒトというモノの頭の中が暴走している状態である。
  7. なお、『自己包含集合』といったモノは、《モノの世界》ではあり得ない。『自己包含集合』という《思いこみ》は、理性の暴走である。
  8. 《モノの世界》におけるコトバの真偽は、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」である。つまり、そのコトバ《モノの世界》の状態を的確に指し示しているなら、そのコトバは真である。的確に指し示していないなら、そのコトバは偽である。コトバが真であるか偽であるかは、《モノの世界》状況による。

《知りつつあるモノ》《自己言及》

  1. 《知りつつあるモノ》について語ること、直知すること、は《自己言及》となる。

《鏡の向こうからの眼》自己言及

  1. 《鏡の向こうからの眼》自己言及である、か?

混濁と自己言及

  1. 自己言及《混濁》を生じさせるモノである、か?

8の字型の自己言及

  1. 他者の《知りつつあるモノ》を知ることも自己言及のパラドックスを導く。

純粋自己言及と不動点

  1. 純粋な自己言及は不動点と対応関係にある。「平面上で1点を中心にした円運動があり、《同じスピード》(角速度ではなく)で回っているとすると、中心点は、不動点であるとともに、無限の角速度で回転する運動である」。純粋自己言及は不動点である。

自己言及《不快》

  1. 自己言及のパラドックスが《不快》なのは何故か?

《思いこみ》無限ループを引き起こし、《思いこみ》の機能を害するからである。 《思いこみ》の機能が害されるのは《不快》である。 《思いこみ》の正常な機能な《快》である。 では、《思いこみ》の正常な機能とは?

《モノの世界》自己言及

  1. 《モノの世界》においては《知りつつあるモノ》自己言及の問題は生じない。
  2. 自己言及のパラドックスはコトバによって語られたことによって生じる『モノ』という《思いこみ》と《モノ》とは同一であるという《思いこみ》から生じる。しかし私が「コーヒーカップ」と言い、あなたがそれを聞いた時、あなたにとっての『コーヒーカップ』はイメージでしかあり得ない。あなたのイメージとしての『コーヒーカップ』が私の目の前にある《コーヒーカップ》という《モノ》とが同じである、ということはあり得ないことである。イメージ(イデア)とモノとは別物なのである。
  3. 《知られつつある世界》《知りつつあるモノ》によって生じた《思いこみ》である。《思いこみ》《モノの世界》とは別のモノである。したがって、『それが同一である』という《思いこみ》から生じる問題は、《モノの世界》ルールからは生じない。
  4. 自己言及のパラドックスは『イデアが実在である』という《思いこみ》世界でしか生じない。
  5. * 「意味の三角形」「イデア実在論とイデア唯名論」を参照のこと

『私』という《コトバ》と自己言及

  1. 『私』という《コトバ》は自己言及概念である。
  2. コトバ」というコトバ自己言及である。
  3. 《思いこみ》という《思いこみ》自己言及である。
  4. 「文字」という文字は自己言及である。

自己言及よみ》を避ける、心理的な仕組み

  1. この「文字」に注意。
  2. 「文字」はその文字自身を指し示すことができるが、一般には、文字一般を指し示すように読まれる。

自己言及と「自己言及的なモノ

  1. 《知りつつあるモノ》は「自己言及的なモノ」である。
  2. 自己言及的なモノ」は不可視のモノである。眼差しを向けるだけで、自己言及の次数があがって、変質してしまうが故に、不可視のモノである。
  3. 自己言及的なモノ」は、自己言及の次数の座標軸の方向への膨らみをもつモノである。
  4. 主観的体験に現れるモノは、すべて「自己言及的なモノ」である。それが「主観的体験」であると言った瞬間に、自己言及の次数があがってしまうのである。
  5. それゆえに、主観的体験は語り得ないモノである。

自己言及無限ループ、《自己言及無限ループ

  1. 自己言及は、無限ループに至る。《自己言及無限ループ》。《自己言及無限ループ》は一つのモノである。《自己言及無限ループ》は、自己に言及すると、《自己言及無限ループ》の自己言及になり、更に《自己言及無限ループ》の《自己言及無限ループ》になる。それが無限に繰り返される。そのような無限ループを含めて、《自己言及無限ループ》と呼ぶことにする。
  2. 自己言及無限ループ》は一つのモノである。それは存在である。しかし、無意味なモノである。世界から意味を失わせるモノである。ブラックホールのようなモノである。
  3. 自己言及無限ループ》は《思いこみ》循環である。一つの《思いこみ》《かたち》である。《思いこみ》循環《かたち》である。『自己を知りたい』という《求める思いこみ》循環《かたち》である。
  4. 命題レベルでの自己言及無限ループにはならない。命題が無限ループするのではなく、命題を解釈しようとするモノ《思惟しつつあるモノ》無限ループに陥る。「《思惟しつつあるモノ》は在る」という命題は自己言及命題である。「《思惟しつつあるモノ》は在る」という命題を解釈しつつある、《思惟しつつあるモノ》は在る。とするなら、「『《思惟しつつあるモノ》は在る』という命題Aを解釈しつつある《思惟しつつあるモノ》は在る」という命題Bが問題になるはずである。命題Aと命題Bとでは同じ命題ではない。

《モノの世界》自己言及

  1. 《モノの世界》にも自己言及が在る、が、アポリアとはならない、なぜなら、言及されたもの(《思いこみ》)と言及するもの(《知りつつあるモノ》)とは別のものだからである。
  2. コトバ世界では「言及されたもの」と「言及するもの」とが同一である、という前提を採る、そのために、アポリアが生じるのである。
  3. ハウリングや無限ループは、《モノの世界》でも生じる。しかし、時間的には、「言及されたもの」と「言及するもの」とは、異なるモノである。
  4. ハウリングやコンピュータでの無限ループ情報のループであって、スピーカやマイクや増幅回路が自己言及しているわけではない。《コトバの世界》《モノの世界》の中にもある、がそれは情報モノの中にあるということであって、《モノの世界》の論理においては情報モノとが混同されることはない。音という情報とスピーカというモノとは別である。
  5. 《モノの世界》時間の中に在る。
  6. 《モノの世界》コトバで説明することも自己言及のパラドックスをもたらす。コトバで説明するということは、《私》《モノの世界》を「モノ世界」というコトバに翻訳して、《他者》コトバを伝達すること。《他者》は「モノ世界」というコトバコトバとして理解するなら、《モノの世界》を説明したことにならない。
  7. 離存性被指示性《モノの世界》の説明方法としてのロゴス。
  8. イデアの偶有性としての《モノの世界》イデア実在論的思考。
  9. 《知りつつあるモノ》《モノの世界》でもアポリアをもたらす。どちらかというと、《モノの世界》において《知りつつあるモノ》はその存在を確認することができない、見ることができない、見れば自己言及の次数があがってしまい、変質してしまうので、見ることができない。「《知りつつあるモノ》がある」というコトバを発した瞬間にアポリアになる。フッサールは《知りつつあるモノ》に言及しなかった。
  10. 自己言及的なモノ自己言及の次数の座標軸に膨らんだモノである。
  11. 《モノの世界》の中に《自己言及的なモノ》がある。

自己言及時間

  1. 自己言及は、時間とともに「自己」が変化する場合には、論理的なモノとしては、存在しない。
  2. ハウリングは時間とともに「自己」が変化する例。音を発生させたモノと、その音を取り込んだモノとでは、時間的に異なるモノ
  3. 無限ループも、時間の中に在る。

メタ認識と自己言及

  1. 「『《私》はxxを認識する』ということを《私》が認識する」ことをメタ認識という。
  2. 即自認識、対自認識。
  3. 自己言及認識。
  4. N次メタ認識。『私は認識する』のN乗。
    1. 『私は認識する』**2=「『《私》はxxを認識する』ということを《私》が認識する」。
    2. 『私は認識する』**3=「『《私》はxxを認識する』ということを《私》が認識する」ことを《私》は認識する。

自己言及と次数

  1. 自己言及を0次、1次、2次、・・N次・・∞次で分けて考える。

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