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《私》

キーワード《私》

記述

  1. 「私」というコトバは、《「私」というコトバを発しつつあるモノ》を指し示すコトバである。《「私」というコトバを発しつつあるモノ》は《自己言及しつつあるモノ》ということになる。
  1. 《混濁》からの分離において、《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》自身と《身体》《他者》とを見つけた。
  2. 《混濁》からの分離において、《自己言及しつつあるモノ》《知りつつあるモノ》自身である。よって、《知りつつあるモノ》《私》である、ということになる。しかし、《私》はもっと身体的なモノであろうから、《知りつつあるモノ》については《我》というコトバを使うことにした。
  3. 「私」というコトバは「他者」との相対的関係において使われることが多い。「我」であれば「汝」であろうか。
  4. 《私》は、《自己言及しつつあるモノ》という自己完結的なモノであるのか、《他者》との相対におけるモノなのか。
  5. 《混濁》においては《知りつつあるモノ》《混濁の世界》の中心であり、絶対的な唯一の世界の中心である。《知りつつあるモノ》は《絶対者》である。
  6. 《知りつつあるモノ》は《絶対者》なのか、《他者》との相対におけるモノなのか。どちらも正しい。そこで、《我》は《絶対者》であるという《思いこみ》の体系を《絶対者公理》と呼び、《私》《他者》との相対におけるモノであるという《思いこみ》の体系を《相対者公理》と呼ぶことにした。また、その結果、《我》《絶対者公理》における《知りつつあるモノ》《私》《相対者公理》における《知りつつあるモノ》、と呼ぶことにした。
  7. しかし、《他者》《知りつつあるモノ》とではサイズが異なる。《他者》《ヒトの個体》としての全体性である。その全体性に対応するのは《身体》《知りつつあるモノ》+αの総体であろう。《他者》との相対における《私》《ヒトの個体》としての全体性であるはずである。
  8. その後、《息しつつあるモノ》に注目して再び《混濁》に入り、《混濁》《混濁しつつある身体》というモノに分離した。《混濁しつつある身体》においては《身体》《知りつつあるモノ》《背後者》などが混濁した状態で、一つの《個体》の形に凝縮したモノである。それが《ヒトの個体》の全体性を指し示しているのであれば、《他者》の相対における《私》の実体は《混濁しつつある身体》であると考えるのがふさわしいであろう。《私》とは、《他者》との相対における《混濁しつつある身体》である。
  9. この《混濁しつつある身体》は《混濁しつつある世界》の中で唯一絶対のモノである。しかし、《他者》もまた、《絶対者》であることを承認する。《私》は、《私》が《絶対者》であることの故に、《他者》もまた《絶対者》であることを承認し、それゆえに、《私》が相対的なモノであることも承認する。《私》は《相対的絶対者》である。《私》《他者》との相対における《絶対者》としての《混濁しつつある身体》である。

定義

* 《混濁》から出発しない定義には意味がない。

区別

《群れの中の個体》と私的利益主体と絶対的認識者

  1. 『仕事』《群れ》《欲求実現手段》である。《群れ》を利益主体とする《欲求実現手段》である。『群れ』は個体の《思いこみ》である。が・・。『群れ』の《思い描き》から生じる一定の思考回路があり、『私』《思い描き》から生じる思考回路からは切り離されている。
  2. システム移行(http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080303/295290/)は『群れからの欲求』である。ヒトの個体は、『群れからの欲求』を感じる。
  3. 「システム移行計画書」という文字の塊を作る『仕事』。文字の塊として『群れからの欲求』を固定すること。文字で表現することによって、複数のヒトによって『群れからの欲求』を作成することが可能になった。
  4. 『群れからの欲求』は、《私》に与えられた『仕事』から、《私》に生じる《欲求》の投影であろう。『仕事』からの《欲求》の投影である。
  5. 『仕事』は『群れからの欲求』から《私》に与えられた命令である。

《混濁しつつある身体》《私》

  1. 《混濁しつつある身体》《私》か?
    1. ○:
      1. 《私》とは「《他者》との相対における《今・ここの・このモノ》」である。《混濁しつつある身体》は「《他者》との相対における《今・ここの・このモノ》」と呼ぶにふさわしいモノである。
      2. 《混濁しつつある身体》は絶対者である。《相対的絶対者》である。《宇宙史》の唯一の中心である。
    2. ×:《私》ではない。

《私》《今・ここの・このモノ》

  1. 《今ここのモノ》は浄化されて透明化した《私》である。透明化されて見えなくなった《私》であり、見通しを妨げなくなった《私》である。
  2. たしかに・・。《思いこみ》噴出しつくし、凝り固まった《思いこみ》噴出させて、《身体》《浄化》するまでに30年かかったよ。で、今では、それを後悔し気味だったりする。・・最初の頃の《呪文》は「これは《苦しみ》である、これは《苦しみ》の原因である、この《苦しみ》の原因はこれである」だったかな?

《私》《混濁》

  1. 第0の定義:《混濁》における不在としての《私》
    1. 《混濁》の中に《私》というモノはない、『私』という《思いこみ》も無い、「私」というコトバも無い。
  2. 第1の定義:《他者》の対概念としての《私》
    1. 《混濁》の中に《他者》はある。
    2. 《他者》との対概念として『あるはずのモノ』への《思い描き》が、『私』という《思い描き》である。
    3. 《他者》の対概念としてあるはずの『私』《思い描き》が指し示すはずのモノ《私》である。
    4. しかし、この段階では、《私》は未知のモノである。
  3. 第2の定義:《『私』という《思い描き》噴出しつつあるモノ
    1. 「私」というコトバは、《「私」というコトバを発しつつあるモノ》を指し示すコトバである。
    2. 《混濁》の中に《「私」というコトバを発しつつあるモノ》はある。《混濁》の中に《『私』という《思い描き》《噴出しつつあるモノ》》はある。
    3. 『私』という《思い描き》《噴出しつつあるモノ》》が《私》である、《噴出しつつあるモノ》《私》である、ということになる。
    4. しかし、第2の定義:《『私』という《思い描き》噴出しつつあるモノ》は、第1の定義:「《他者》の対概念としての《私》」にマッチしていない。
  4. 第3の定義:《他者》の《他者》としての《私》
    1. 《他者》の対概念としての《私》」にふさわしいモノは「《他者》の《他者》としての《私》」である。
    2. しかし、《同質者公理》を前提にしなければ、「《他者》の《他者》としての《私》」は存在し得ない。
    3. また、第3の定義:「《他者》の《他者》としての《私》」は、第2の定義:《『私』という《思い描き》噴出しつつあるモノ》からますます遠ざかっている。
  5. 第4の定義:《今・ここの・このモノ》
    1. 《他者》の対概念としての《私》は、《絶対者公理》を前提とするなら、《今・ここの・このモノ》となる。
    2. 《宇宙史》の絶対的中心である《今・ここの・このモノ》の特異点の周辺にある、《体内直知時空》《体外直知時空》とを分離する領域が、ここでの《今・ここの・このモノ》である。
    3. 《私》《身体》モノである。《他者》モノである。《身体》《近傍物理空間》の中のモノとしては、《身体》《外からの視点》でのモノであり、《他者》もまた《近傍物理空間》の中のモノとして、《他者》《他者の身体》)の《外からの視点》でのモノである。
    4. しかし、《私》《私》《身体》とは同じモノなのか? 《他者》《他者の身体》とは同じモノなのか?
    5. また、《私》《身体》について《内からの視点》があるなら、《他者の身体》についても《内からの視点》があるのか?
    6. 《今・ここの・このモノ》《私》《身体》なのか? 《今・ここの・このモノ》《私》なのか?
    7. 《今・ここの・このモノ》はどのようなモノであるのか?
    8. 《今・ここの・このモノ》《往にし方》《今・ここの・このモノ》《行く末》《今・ここの・このモノ》と同一なのか?
  6. 第5の定義:《相対的絶対者》としての《今・ここの・このモノ》
    1. 《相対的絶対者公理》においては、《私》《宇宙史》の絶対的中心者である、と同時に、《他者》もまた《宇宙史》の絶対的中心者であり、《宇宙史》の中の一切のモノ《宇宙史》の絶対的中心者であるという意味で、相対者(《相対的絶対者》)である。
    2. 《他者》もまた《今・ここの・このモノ》なのである。
    3. 《往にし方》《私》《今・ここの・このモノ》であり、《行く末》《私》《今・ここの・このモノ》である。
    4. 《私》《他者》の中に《鏡》を思い描くことによって、《他者》からの《世界》を思い描くことができる。
    5. 《私》《他者》の中の《鏡》を通して、《他者》からの《世界》の中のモノの一つとして、「《他者》の《他者》としての《私》」を思い描くことができる。
    6. 《他者》の中の鏡の中の「《他者》の《他者》としての《私》」は、《私》への《外からの視点》での《輪郭》の一つである。

《私》《欲求実現手段》

  1. 《他者》《私》《欲求実現手段》である。《私》《他者》《欲求実現手段》である。OK」というのが、《健常者》の発想なのか・・。
  2. 《他者》《私》《道具》である。《私》《他者》《道具》である。OK」。『精神哲学』下、p.47:「記号および道具としての肉体性」。

《私》・100

  1. 《相対者公理》における、《他者》との相対における《我》《身体》の総体。
  2. 《身体》が全体性を獲得するのは《混濁しつつある身体》においてである。
  3. 《他者》との相対における《絶対者》としての《混濁しつつある身体》
  4. 《混濁しつつある身体》は《絶対者》か? ○:。×:。
  5. 《混濁しつつある身体》は《相対的絶対者》か? ○:。×:。

《私》とは、或るモノにとってのそのモノ自身である。

  1. すべてのモノには《私》がある。《私》モノの数だけある。C3POが「《私》はC3POです」と言うことを承認しなければならない。
  2. 「xxにとっての」というコトバは「《極座標の原点》をxxに置いたときには」ということを意味する。
  3. 《私》とは「《極座標の原点》が置かれたモノ」である。
  4. 《他者》とは「《極座標の原点》が置かれたモノ以外のモノ」である。

《私》とは「自己言及しつつあるこの《肉の塊》」である。

  1. 《私》とは「「私」というコトバが指し示すモノ」もしくは「『私』という《思いこみ》が指し示すモノ」である。
    1. (厳密には、「私」というコトバ『私』という《思いこみ》を通して《私》というモノを指し示す。コトバは(《思いこみ》を通さずに)直接にモノを指し示すことはない。「私」というコトバ『私』という《思いこみ》を指し示し、『私』という《思いこみ》《私》というモノを指し示す。そして、《私》というモノ『私』という《思いこみ》をその内部に生じさせる。また、《私》というモノは「私」というコトバを発する)。
  2. 「私」というコトバは、「「私」というコトバを発しつつあるモノ」を指し示す自己言及概念である。『私』という《思いこみ》は、「『私』という《思いこみ》を発しつつあるモノ」を指し示す、自己言及《思いこみ》である。
  3. 『私』という《思いこみ》が指し示すモノは、この《肉の塊》である。
  4. この《肉の塊》は、内部に『私』という《思いこみ》を生じさせ、それを通して、この《肉の塊》自身に言及する。
  5. この《肉の塊》自己言及しつつある時、この《肉の塊》《私》である。
  6. 或るモノが、自己言及しつつある時、そのモノは、そのモノにとって《私》である。
  7. 《私》というモノと、この《肉の塊》との間には論理的な繋がりはない。たまたま、この《肉の塊》《自己言及しつつあるモノ》であったために、この《肉の塊》が、この《肉の塊》にとって《私》であった、ということ。

《私》は、「私」というコトバが指し示すモノである。

  1. 「私」というコトバが指し示すモノは、《今・ここの・このモノ》であると共に、それが、過去・未来に向かって、同一性を保って持続している《このモノ》である。《今・ここの・このモノ》同一性を保って持続する《あの時・あの場所の・このモノ》の総体である。
  2. 「私」とは、「私」というコトバを発しつつあるモノを指し示すコトバである。《私》は「私」というコトバが指し示すモノである。すなわち、《私》とは「私」というコトバを発しつつあるモノである。

《私》とは、今ここのこのモノである。

  1. このモノには《アニマ》がある。
  2. このモノには、《思いこみ》循環と、《思いこみ》循環を支える構造がある。
  3. このモノには、《思いこみ》の蓄積=記憶=がある。
  4. 《今・ここの・このモノ》《今ここのモノ》

《私》とは、今ここにある《ヒトの個体》である。

《私》とは、今ここにある「《ヒトのアニマ》を持った《身体》」である。

《私》とは《同質者公理》において《他者》と同質なモノとしての、《特別者公理》における《身体》に相当するモノを言う。

《同質者公理》において《私》《他者》とをあわせたモノ《ヒトの個体》と呼ぶ。

《私》《混濁》からはじまる認識における《このヒト》である。

《他者》の《他者》としての《今ここのモノ》《私》という。《私》《他者》の一種である。

《他者》の《他者》が成立するためには《同質者公理》を採用する必要がある。《絶対者公理》によれば《他者》とは《今ここのモノ》にとっての《他者》であって、《他者》にとってのものではない。《他者》《今ここのモノ》と同質であるという公理を採用することによってはじめて、《他者》の《他者》ということが可能になる。

* イメージ(ペルソナ、仮面、人格)としての私は『私』と記述する。『』は《思いこみ》であることを意味する。

《私》《背後者回路》

  1. 《私》は行動原理としての《背後者回路》を持っている。
  2. 《他者》の《他者》としての《私》は、《私》《背後者回路》を意味しているだろう。《他者》《私》に関して持っている他者イメージは、《私》《背後者回路》によって形成されるだろう。「《私》《背後者回路》」=「《私》の性格、行動パターン」。
  3. 「私は《背後者回路》を持っている」と言う時の「私」は「この《肉の塊》」を意味している。《いま・ここの・この肉の塊》。《いま・ここの・この肉の塊》は《背後者回路》、それ特有の行動様式、思考様式、《世界》状況《繋がり》を持っている。

《身体》と《コミット》

  1. 『無意味の世界』《ヘラクレイトスの「ロゴス」》→ちっぽけなインスタンスへの《コミット》。
  2. 既に《私》は、《ヘラクレイトスの「ロゴス」》のちっぽけなインスタンスである《身体》に《コミット》しているのである。また、《私》は生きているかぎり、《身体》への《コミット》から逃れられないのである。
  3. 《身体にコミットしつつあるモノ》は何なのか? 《身体》の内部の《極座標の原点》である。「この《身体》の内部の《極座標の原点》」が《私》である。

ヤハウェと《私》

  1. 『ユダヤの世界支配戦略2』p.99:「ヤハウェ」の意味は、「私は存在する」である。
  2. http://www11.ocn.ne.jp/~mare/ego.html
    1. «Ego sum qui sum.» このちょっとヘンテコな文章は、実は、 モーセが神に名を尋ねたときの、神の答えである。英語訳だと、“ I am who(that) I am.” となっている。こんな名前があるものか、 全然答えになってないじゃないか、と怒りたくなるような答えである。 だが、実は、この答えは、神の固有名詞・YHWHの読み方とも関係して いるそうである。
    2. ・・
    3. すぐ後に 続く文章・・«Sic dices filiis Israel: Qui sum misit me ad vos». 「あなたは、イスラエルの子孫らに、 こう言いなさい、「私は存在する」という者が、私をあなたがたのもとに 送った、と」。
  3. http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q148622704
    1. 「神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 新共同訳
    2. ・・
    3. 字義訳である新世界訳聖書の場合、次のように訳されています
      1. すると神はモーセに言われた,「わたしは自分がなるところのものとなる」
      2. そしてさらに言われた,「あなたはイスラエルの子らにこう言うように
      3. 『わたしはなるという方がわたしをあなた方のもとに遣わされた』」
    4. 「なる」と訳されている言葉はヘブライ語動詞「ハーワー」です
    5. この語は、神の名前であるYHWH(エホバ、ヤハウェなどと発音されます。マソラ本文では、エフワーと読むように母音符号が打たれています)と関連があります
    6. 神のみ名「YHWH」は、ハーワーの使役形,未完了態と同じ形をしていますので、「YHWH」には,字義的には「彼はならせる」という意味があります
  4. 「私は成る」=「私は実現する」という名前のモノ

《他者》《私》があるか?

  1. 《他者》《私》はない。《私》《私》である。《特別者公理》
  2. 《他者》にも《私》がある。《相対者公理》
  3. 《私》というコトバの定義しだいである。
  4. 《私》とは「自己言及しつつあるこの《肉の塊》」である、という定義において、《他者》《私》があるか?
  5. 《私》とは《今・ここの・このモノ》である、という定義において、《他者》《私》はあるか?
  6. 《私》とは「たけ(tk)」というコトバが指し示す《肉の塊》である、という定義においては、《他者》《私》はない。
  7. 《私》とは「私」というコトバが指し示す《肉の塊》である、という定義においては、《他者》にも《私》がある。《私》は人の数だけある。《私》は幾つあるのか?

《私》と、たけ(tk)とは同じモノか?

  1. ブッシュの《私》にとっては、ブッシュは《他者》ではなく《私》である。
  2. ブッシュの《私》にとっては、たけ(tk)《私》ではなく《他者》である。

《私》独占暴力団

  1. 《私》は、肉の衣に対する独占暴力団である、か? ○:。×:。

「I、Ich、Je」と《私》

  1. 西欧語の『私』(I,Ich,Je)は《思いこみの世界》の中に描かれた概念である。
  2. 日本語の『私』「わたし」は《モノの世界》の中でコトバを発しつつあるモノである。

《過去の私》との『同一性

  1. 《過去の私》は記憶という《思いこみ》の中にしかない。《私》というモノと《過去の私》という《思いこみ》とが同一であるはずがない。
  2. 《私》は変化しつつ持続し、時間を超えて『同一性』を保って存在する。というのは《思いこみ》である。《相対者公理》《外からの視点》においては正しい。が、《絶対者公理》《内からの視点》では、不十分である。
  3. 《私》は《過去の私》との《繋がり》において、《過去の私》の内側から、世界を見る。
  4. 《他者》は空間的に《私》から離れているが、《過去の私》は時間的に《私》から離れている。《他者》に対する《繋がり》は空間的離隔者への《繋がり》であり、《過去の私》への《繋がり》時間的離隔者への《繋がり》である。《他者》への《繋がり》も結局は《過去の他者》への《繋がり》である。《現在の他者》への《繋がり》は、『現在も生きているはずだ、彼は今も変わっていないはずだ』という《思いこみ》が付加された《過去の他者》への《繋がり》である。
  5. 《私》《繋がり》によって、《過去の私》や《過去の他者》の《内からの視点》世界を見る。
  6. 《過去の私》は《内からの視点》記憶である。
  7. 《内からの視点》も変化しつつ持続し、時間を超えて『同一性』を保って存在する。《今・ここの・この肉の塊》《内からの視点》が、そうである。《永遠の今》も変化しつつ持続し、時間を超えて『同一性』を保って存在する。
  8. 《過去の私》は存在するのか? 《絶対者公理》においては、不明である。絶対者であるのは《今・ここの・この肉の塊》《私》でしかない。絶対者としての《私》は、変化しつつ持続し、時間を超えて『同一性』を保って存在する。であろうが、絶対者としての《私》は、そんなことは認めない。変化しつつ持続することは認めるが、《過去の私》との『同一性』は認めない、というか確認不可能である。数学的帰納法によって証明可能である。が・・。持続するということは、一つ前の《私》と現在の《私》とが同一である、ということを意味する。のだが、一つ前の《私》と現在の《私》とは同一なのか? 《極座標の原点》であるモノと、《極座標の原点》でなくなったモノとは同一ではあり得ない。
  9. 《身体》は『同一性』を保っているだろう。何時から、何時まで? 受精から死亡まで? 出産から火葬まで? 厳格に《同一性》というモノが在ると思ってはいかん。いかん、いかん。
  10. 《知りつつあるモノ》はどうだろうか? 《知りつつあるモノ》は間欠的に存在するモノである。持続するものではない。昨日の《知りつつあるモノ》は《今・ここ》の《知りつつあるモノ》に持続していない。寝る前の《知りつつあるモノ》は起きた後の《知りつつあるモノ》に継続しているか? 寝る前の《知りつつあるモノ》はもうろうとした夢の世界に入ってしまい、起きた時には覚えていない。つまり、継続していない。
  11. 《知りつつあるモノ》は、同一の身体からの《噴出》であるという点では、継続している。しかし、その程度で、同一性が在ると言えるのか? 同一のテレビから流れる連続ドラマは、継続しているか? 一定の条件を満たせば、継続していると判断するのが、進化の結果取得した認知様式なのだろう。《思いこみ》において同一のモノであるという《思いこみ》が生じるなら、同一のモノである。をいをい・・。
  12. この《肉の塊》の内部での《思いこみ》循環、という意味での、心、はこの《肉の塊》が継続している以上、同一性を持って継続すると言ってよい。心の持続性は《身体》の持続性に依存している。《私》の持続性、同一性《身体》の持続性、同一性に依存している。《私》はこの《身体》の状態でしかない。

《我》《私》

  1. 《我》《特別者公理》における世界の中心である。
  2. 《私》《相対者公理》における《ヒトの個体》である。
  3. 《我》とは「自己言及しつつある《知りつつあるモノ》」である。

《私》《自己言及しつつあるモノ》

  1. 《自己言及しつつあるモノ》《私》であるか?
  2. 《自己言及しつつあるモノ》は、そのモノにとって《私》である。そのモノ《視点》から見て《私》である。
  3. そのモノは、そのモノの視点から見て《私》である。
  4. モノ自己言及する、とは、どういうことなのか? モノにはアウトプット、インプット、内部状態、動作規則が在る。モノ自己言及する、というのは、そのモノのインプットに、『そのモノ自身』という情報が入ってくることを意味する。フィードバック情報の一種である。
  5. ロボットが、地図情報の中の『自分の位置』の情報をインプットとして取り入れる時、ロボットは、『位置情報』としての自己に言及しており、その限りにおいて《自己言及しつつあるモノ》である。
  6. インプットには、外部からのインプットとの、そのモノの内部からのインプットが在る。内部的な情報処理の過程で、プライベートメソッドが呼ばれる時、そのプライベートメソッドへの入力・引数は、内部からのインプットである。
  7. 《他者》に「おまえはxxだ」と言われた時、《私》《他者のコトバ》を経由して自己に言及している。《私》が何らかのアウトプットであり、《他者》へのインプットであり、《他者》の内部の《思いこみ》を生じさせており、それが《他者》のアウトプットとしての「お前」という《他者のコトバ》となり、《他者のコトバ》《私》へのインプットとなり、《他者のコトバ》《私》の内部に『私』という《思いこみ》を生じさせている、と知る。
  8. 自己言及していない時に《私》は存在する、か? ○:『私』という《思いこみ》が指し示していたモノ=この《肉の塊》=がなくなるわけではない。×:自己言及していない時には《自己言及しつつあるモノ》は存在しない。自己言及しつつあるかどうかは、このモノの状態による。
  9. 《自己言及しつつあるモノ》でありうるのは、この《肉の塊》だけである、か? ○:《絶対者公理》によれば、この《肉の塊》とその内部存在だけである。×:《相対者公理》によれば、すべてのモノ《自己言及しつつあるモノ》であり得る。

《私》《視点》

  1. そのモノは、そのモノの視点から見て《私》である。

《私》とこの《肉の塊》

  1. 《私》は、この《肉の塊》である。
  2. 《私》は、《今・ここの・このモノ》である。
  3. 『私』という《思いこみ》が指し示すモノは、この《肉の塊》である。
  4. 『私』自己言及概念である、この《肉の塊》自己言及存在である。
  5. この《肉の塊》は、その内部に『私』という《思いこみ》を生じさせ、『私』という《思いこみ》はこの《肉の塊》を指し示す。つまり、この《肉の塊》『私』という《思いこみ》を通して自己言及している。
  6. 《私》とは、自己言及しつつあるこの《肉の塊》である。《私》とは《自己言及しつつあるモノ》としてのこの《肉の塊》である。

《私》モノ

  1. 《私》は、『《私》モノではない』という《思いこみ》をもつモノである。

《私》と主体性

  1. 『私』自己言及概念である。
  2. 『私』《思いこみ》であり、《思いこみの世界》の中のモノである。『私』《指し示す思いこみ》である。『私』は何者かを指し示している。『私』が指し示しているモノ《私》と呼ぶ。
  3. 『私』という《思いこみ》が指し示すモノ《思いこみの世界》の外部に在る。
  4. 『私』という自己言及概念が指し示す《私》というモノを発見した時に、人は《私》クオリアを感じていることに気がつく。
  5. 《私》《思いこみの世界》の外部にあって、《思いこみの世界》を作り出し、操り、破壊するモノである。《私》《思いこみの世界》から見て《思いこみの世界》を作り出し、操り、破壊する『主体』である。《私》《思いこみの世界》を操り、破壊した後に、何かを見つけることがある。その意味で《私》《思いこみの世界》からみれば『創造』的である。
  6. 《私》は主体的であるのか? 「主体」というコトバの意味が問題となる。
  7. 《私》『私』という《思いこみ》表出することによって、「『私』という《思いこみ》表出しつつあるモノ自身」を指し示しつつあるモノである。自分自身を、《思いこみ》を通じて、指し示しつつあるモノである。
  8. 《私》は、『私』という自己言及概念が指し示すモノであり、《私》自己言及的なモノである。しかし、《私》《コトバの世界》の中のモノではないので、論理的な困難は生じない。《私》というモノ『私』という《思いこみ》とは別のモノである。『私』という《思いこみ》が指し示しつつあるモノ《私》《視点》からみれば《私》自身であり、《思いこみ》入り込んだ《視点》においては《私》の鏡像である。
  9. 《自己言及しつつあるモノ》としての《私》を、《思いこみ》を媒介とせずに《見通し》を得ようとすれば、ヒトは《めまい》に襲われるだろう。
  10. 《私》への《見通し》を諦めて、《認識限界》の向こうにある不可知なモノとして捉えると、その《背後者》の存在に気付く。
  11. しかし、《私》への固執がなくなれば、《私》は身体内の《こだわり》に過ぎないことが見えてくる。《私》が《こだわり》であるというのは、そこに《極座標の原点》を置いたということである。
  12. 《動き》をアウトプットする《極座標の原点》という意味で「主体」というコトバを使うかぎりにおいて、《私》は「主体」であると言ってよい。
  13. しかし、「主体」=「《動き》をアウトプットする《極座標の原点》」とするなら、《私》以外のすべてのモノも「主体」なのである。

『私』《私》

  1. 《私》は、《他者》の《他者》としての《今・ここの・このモノ》である。
  2. 『私』は、『《他者》の『《私》に関するイメージ』』という《思いこみ》である。『私』《他者》《思いこみ》に関する《私》《思いこみ》である。
  3. 『私』は、《私》に関する《知った思いこみ》である。『私』は、《私》への《知った思いこみ》である。
  4. 《私》は、《他者》の《他者》としての《今・ここの・このモノ》である。か?
  5. 《私》は、「私」というコトバが指し示すモノである。コトバとは何か? コトバが指し示すとはなにか? コトバ《群有思いこみ》である。人びととの約束である。或るコトバは或るモノを指し示す、という約束である。とするなら、「私」というコトバが指し示すモノ、というのは、《群有思いこみ》の約束に従って、このモノと「私」というコトバとの指し示し関係の約束に従って、指し示されたモノ、ということになる。
  6. 「私」というコトバは、《他者》にとってのコトバの指し示し関係を前提として、その約束に従って指し示されたモノを指し示す。
  7. コトバ《他者》モノである。
  8. 《私》は思考しつつあるモノ(思考主体)。
  9. 『私』は思考されつつあるモノ(思考対象)。
  10. イデア実在論においては『私』《私》である。どちらかというと、《私》は無視されて、『私』の一元論になっている。イデア実在論は『私』一元論で、イデア唯名論は『私』《私》二元論。

《私》と論理的思考

  1. 《私》=論理的思考をしつつあるモノ=は論理的思考の外部にある。
  2. 《私》を論理的思考の対象として取り込むと、《視点》のぶれが生じる。《私》からの思考対象への《視点》と、思考対象としての《私》への《視点》
  3. 『形而上学』上、p.122:同じもの(同じ属性・述語)が同時に、そしてまた同じ事情のもとで、同じもの(同じ基体・主語)に属し且つ属しないということは不可能である。(矛盾律)
  4. 《視点》が異なれば、無矛盾性は維持できなくなる(可能性がある)。

《私》《知りつつあるモノ》

  1. 《私》は漠然とした《今・ここの・このモノ》である。
  2. 《知りつつあるモノ》は、疑わしいモノ《知られつつあるモノ》を排除したのちに残った《今・ここの・このモノ》である。

《私》《視点》と《公》の《視点》

  1. 規範の下からの《視点》。上に規範を見上げる《視点》。私的な《視点》。公私の区別の私の《視点》。規範を《私》の行動を制約するモノだと考える《視点》
  2. 規範を下に見る《視点》が公の《視点》。規範に対する評価する《視点》《ヒトの群れ》《私》《拡大身体》として捉える《視点》
  3. 《私》《視点》《ヒトの群れ》の規範の下にある。か?
  4. 《ヒトの群れ》も『《ヒトの群れ》の規範』も伝聞世界の中にある。

《私》《指し示す思いこみ》

  1. 《私》とは『私』という《指し示す思いこみ》が指し示すモノである。
  2. 人々から、「たけ(tk)」と呼ばれているこの《肉の塊》《私》である。
  3. たけ(tk)」というコトバが指し示すモノ《私》である。
  4. 肉の塊は主観的絶対者である。
  5. すべてのモノは、その主観において、主観的絶対者である。
  6. モノに主観性がありえるか? モノの主観性を定義することができるか? ではなくて、モノはそのモノ自身ににモノの主観性のクオリアを感じることができるか?
  7. モノの主観性は、描かれつつある思いこみではなく、指し示す思いこみである。
  8. 或るモノからのクオリアは、そのモノからのコトバである。すべてのモノコトバを発する。クオリアモノからのコトバである。
  9. この《肉の塊》コトバを発し、この《肉の塊》コトバを聞く。
  10. すべてのモノは、その主観において、他のモノからのコトバを聞く。ビリヤードの玉はキューからのコトバを聞く

《私》と「《他者》の《他者》」 「《他者》の《他者》」と《私》

  1. 《私》《他者》の《他者》として、《他者》《近傍物理空間》の中に出現する。
  2. 《私》《他者》の《他者》である。
  3. 『私』《他者》の『他者』である。『私』は『《他者》の『《私》に関するイメージ』』という《思いこみ》である。『私』《他者》《思いこみ》に関する《私》《思いこみ》である。
  4. 《私》は、《他者》の《他者》であるか?
  5. 《他者》が、《私》を、《他者》の《他者》であると思っているか、など、知るものか。
  6. 《同質者公理》に従うなら、《私》《他者》を「《私》からの《他者》」であると認めるのと同様に、《他者》《私》を「《他者》からの《他者》」であると認めるであろう。
  7. 『私』は「《私》への《思いこみ》」である。《私》からの「《私》への《思いこみ》」も『私』であり、《他者》からの「《私》への《思いこみ》」も『私』である。
  8. 《私》への《思いこみ》」には《知った思いこみ》《求める思いこみ》とがある。「《私》への《求める思いこみ》」も『私』を構成している。
  9. 『私』の役割、『なすべきこと』『私』を構成する要素である。では、《私》の要素なのか? 「《私》への《思いこみ》」は《私》の要素なのか? 「モノへの《思いこみ》」はモノの要素ではない。
  10. 《私》からの《思いこみ》は、《私》の要素である。《私》からの「《私》への《思いこみ》」は《私》の要素である。
  11. 《彼》からの《思いこみ》は、《彼》の要素である。《私》からの「《彼》への《思いこみ》」は《私》の要素である。《私》からの「「《彼》からの《思いこみ》」への《思いこみ》」は《私》の要素である。《私》からの「《彼》からの「《私》への《思いこみ》」への《思いこみ》」は《私》の要素である。従って、《私》からの「《他者》の《他者》としての《私》」という《思いこみ》《私》の要素である。
  12. 《私》からの「《彼》からの「《私》への《求める思いこみ》」への《思いこみ》」は《私》の要素である。従って、《私》からの『《私》の役割』(《他者》からの《私》への《求める思いこみ》)への《思いこみ》《私》の要素である。

《私》《特別者公理》

  1. 《私》のまわりには《近傍物理空間》が在る。
  2. 《私》は、《近傍物理空間》の中に他のモノを知る。
  3. 《私》は、《近傍物理空間》の中の《私》を知る。
  4. 《近傍物理空間》の中の《私》は、《近傍物理空間》の特異点である。《私》《動き》は、他のモノ《動き》とは異なった性質を有する。《私》が右に行けば、他のモノは左に動くのである。

《私》《他者》の《他者》

  1. 《私》《他者》ではありえない(《特別者公理》)。《私》《他者》と同じ性質のモノであるに決まっている(《同質者公理》)。
  2. 《他者》《私》を有する。《他者》《私》がある。に、決まっている。
  3. 《私》《視点》《他者》《視点》を観ることができる。《私》《視点》から、《他者》《視点》の位置に鏡を置いて、鏡を通して観ることによって、《私》《他者》《視点》で観ることができる。
  4. 《他者》の《他者》としての《私》《私》《他者》の《他者》である。《他者》《視点》に鏡をおき、《他者》の《他者》《視点》に鏡を置いて、《私》《視点》から《他者》《視点》の鏡を通して、《他者》の《他者》《視点》の鏡を通して世界を観ると、《私》《他者》の《他者》《視点》で観ることができる。
  5. 《私》《視点》《他者》の《他者》《視点》とでは異なる。か? どのように異なり、どのように同じであるのか?
  6. 《私》の擬他化、《他者》の擬自化。
  7. 《他者》《視点》は特別者の《視点》である。《他者》の《他者》《視点》も特別者の《視点》である。《私》《視点》も特別者の《視点》である。とするなら、《私》《視点》《他者》の《他者》《視点》も同じである。

《私》《撹乱されつつあるモノ》

  1. 《知りつつあるモノ》《他者》によって撹乱される。《他者》の出現によって《知りつつあるモノ》《撹乱されつつあるモノ》になる。

《私》と(日常の)時間

  1. 《私》は眠り、起き、・・
  2. 《私》世界は24時間において、どのように変化するか?
  3. 《私》《知りつつあるモノ》《他者》の出現によって撹乱される。
  4. 《他者》によって撹乱された《私》」がある。
  5. 《他者》によって撹乱された《私》」は《混濁》である。
  6. 《他者》によって撹乱された《私》」と「《他者》によって撹乱されていない《私》」とがある。
  7. 《他者》によって撹乱された《私》」は「《他者》によって撹乱されていない《私》」の《認識限界》の向こうにある。「《他者》によって撹乱された《私》」は「《他者》によって撹乱されていない《私》」の時間的《認識限界》の《背後者》である。
  8. 《他者》によって撹乱された《私》」は《他者》の向こうにある《他者の思いこみ》に注目している。《他者に撹乱されつつあるモノ》。《撹乱されつつあるモノ》

《私》と体細胞の《群れ》

  1. 《私》は体細胞の《群れ》である。
  2. 《私》は体細胞の《仕合わせ》を考えない。か? 《私》は健康を考える。《群れ》の健康は、《群れ》を構成する《個体》の《仕合わせ》である。《群れ》を構成する《個体》の《仕合わせ》とは、その《個体》が相互関係において活発であり、役割を果たし、心地よいことである。
  3. 体細胞の《群れ》としての《私》は、《私》を構成する体細胞の《個体》が害されることを望まない。体細胞の《個体》が、その自然において死滅することには気を止めない。それは自然であり、循環であり、予定されたことであり、日常的に処理される事柄だからだ。だからといって、体細胞の《個体》が病気やケガによって害されることは望まないし、《私》はそれを避けようとする。
  4. 《私》は体細胞の《個体》を支配しているか? 全然、そんなことはないだろう。支配するも何も、《私》は体細胞の《個体》を知らないのだ。
  5. 《ヒトの群れの健康》。《群れの健康》。《体細胞の群れ》

《私》《知られつつある私》

  1. 《知られつつある私》というのは、《ヒトの群れ》の中にあって、《他者》によって《知られつつあるモノ》としての《私》のこと。
  2. Web上で混濁した《思いこみ》を公開している《今・ここの・このヒト》も、《知られつつある私》ということになる。
  3. 《知られつつある私》は、演技しつつある《私》であることが期待されている。
  4. 《知られつつある私》は、一貫した《思いこみ》《こころざし》を持っていることが期待されている。
  5. 期待されている、というのは、《私》を《知りつつある他者》が期待しているはずだということ。そう思うのは、《私》《他者》を知りつつあるときに、期待している、ということだろう。
  6. 《私》は、《他者》を知りつつあるときに、《他者》《こころざし》を期待している、か?
  7. 《他者》の行動は、彼の《こころざし》を通じて、予見可能である。横断歩道で赤信号を見てとまっているヒトは、信号が青になれば歩きはじめるだろう、と予測可能である。彼の《こころざし》は、そのような行動であると、《私》は理解するからである。
  8. 理解社会学=ウェーバー=は《他者》《こころざし》への《理解》可能性に基づいている。

《今・ここの・このモノ》《私》

  1. 《今・ここの・このモノ》は客体なのではないか?
  2. 《私》世界の中に《今ここのモノ》のこのものがあり、《今・ここの・このモノ》の中に《私》がある。相互包含関係。
  3. 《知りつつあるモノ》世界の中に《今・ここの・このモノ》があり、《今・ここの・このモノ》の中に《知りつつあるモノ》がある。相互包含関係。ウロボロス関係?
  4. 《今・ここの・このモノ》の問題は、見失われることである。《私》の生活の中の大部分の時間において、《今・ここの・このモノ》見失われている。何によって見失われているのか? 《他者》《コトバの世界》《私》自身の《思いこみの世界》入り込むことによって、《知りつつあるモノ》《今・ここの・このモノ》見失う。
  5. 《今・ここの・このモノ》《息しつつあるモノ》である。
  6. 《今・ここの・このモノ》《選びつつあるモノ》である。
  7. 《今・ここの・このモノ》は《見通しつつあるモノ》である。
  8. 《今・ここの・このモノ》は《浄化しつつあるモノ》である。
  9. 《今・ここの・このモノ》《求めつつあるモノ》である。
  10. 《今・ここの・このモノ》《繋がりつつあるモノ》である。
  11. 《今・ここの・このモノ》《動きつつあるモノ》である。
  12. 《今・ここの・このモノ》《知りつつあるモノ》である。
  13. 《今・ここの・このモノ》《思いこみつつあるモノ》である。
  14. 《今・ここの・このモノ》は《コトバを立てつつあるモノ》である。
  15. 《今・ここの・このモノ》は《思いこみを循環させつつあるモノ》である。
  16. 《今・ここの・このモノ》《他者のコトバ》を《聞きつつあるモノ》である。
  17. 《今・ここの・このモノ》《他者のコトバの世界》に《入り込みつつあるモノ》である。
  18. 《今・ここの・このモノ》《共振しつつある身体》である。
  19. 《私》は客観的なモノとしての《今・ここの・このモノ》である。《私》は、《私》がそれを知っているかいないかを問わずに存在するモノとしての《今・ここの・このモノ》である。
  20. 《今・ここの・このモノ》《知られつつあるモノ》としての《私》である。実体と現象っていうのかなあ??。
  21. 《今・ここの・このモノ》《今ここのモノ》《今ここのモノ》は「今、ここで、『今ここのモノ』を知りつつあるモノ」らしい。認識主体としての《知りつつあるモノ》と区別がつかないようだ。《今・ここの・このモノ》は基本的には認識客体であり、認識主体を内部に含むモノとしての認識客体である。かなり違うようだ。

《私》と『モノ同一性

  1. 今ここの《私》と、かつての《私》は同一のモノか?

《私》とミードの「主我(I)と客我(me)」

  1. http://www.socius.jp/lec/08.html
    1. 「知られるわたし」と「知るわたし」
    2. では人間の自我はまったく他者ひいては社会によって規定しつくされてしまっているのかというと、そうではない。シカゴ学派の強力な理論的源流となったジョージ・H・ミードは心理学者ウィリアム・ジェイムズの概念を受け継いで、自我にはふたつの局面があるとした▼5。ひとつは「客我」(me)、もうひとつは「主我」(I)である。meとIという表現は「知られるわたし」と「知るわたし」に由来する。客我meは、他者の自分に対するイメージや期待をそのまま受けいれた自我の側面である。〈わが内なる社会〉といってよい側面で、ミードはこれを「他者の態度の組織化されたセット」とのべている▼6。
    3. ところが、人間は他者の態度や期待をそのまま受けいれるロボットではない。かならず客我に対して自然発生的な反応が自我の内部に生じる。ミードはそれを主我と呼ぼうというのだ。反応といっても動物のように単純な「刺激−反応」図式でとらえられるものではない。それだけに主我は複雑な様相をしめす▼7。
      1. まず主我は、思いつき・願望・感情・気分といった本人だけが特別な通路をもつ主観的な世界である。たとえば「気がすすまない」とか「ひらめいたぞ!」といった状態だ。生物学的衝動や本能・生理学的状態などは社会が制御できない、偶発的・非合理的な部分である。
      2. 第二に、主我は、個性的修正をあらわす。ユニークさ・個性的な彩り・感性・個人差といったことがらであり、型どおりでない局面である。
      3. 第三に、主我は、客我に対して働きかけ、新たなものを生みだす創発性の側面でもある。主我は自我の創造性をあらわす。人間は社会によって内面まで一方的に強制され拘束されるのではなく、そこから新しいものを生む。すなわち主我とは自己実現・自由・自発性・自律的抵抗などが生じる基盤であり源泉である。これはとくに人間が問題状況に直面したとき、それを乗り越えさせる能力となる。
    4. 要するにミードによると、自我とは「主我と客我の対話のプロセス」である。しかも、他者との関係を大前提として成立し、本質的に社会的な過程である。しかし、まるっきり社会に絡みとられているのではない。自我は、社会を取り込む能力と、社会に個性的に反応する能力の二つが備わっているダイナミックな過程――社会性と個性のダイナミズム――なのである。
  2. モノの内部の《知りつつあるモノ》の作用、循環作用。《思いこみ》循環《アニマ》。対自的《アニマ》循環運動。

《私》《身体》

  1. 《私》《身体》である。
  2. 《私》は、《知りつつあるモノ》《思いこみ》を内在させ、他のモノとの関係を持ち、過去・現在・未来において存在するモノである。
  3. 《私》《身体》ではない。《身体》《知りつつあるモノ》によって《知られつつあるモノ》である。《身体》は、《近傍物理空間》の中にあって体外感覚によって《知られつつあるモノ》である。
  4. 《私》多次元輪郭空間の中にあって、体外感覚、体内感覚、背後者感覚によって《知られつつあるモノ》である。
  5. 《私》の中に《知りつつあるモノ》があり、《知りつつあるモノ》によって《知られつつある世界》の中に《私》がある、というのは矛盾である。視点の移動がある。相互包含関係。
  6. 《私》というコトバは多義的すぎる。

《浄化球》と「《他者》の《他者》

  1. 《他者》の《他者》」というのは「《私》の『他者』という《思いこみ》が指し示しているはずのモノが持っているはずの『他者』という《思いこみ》が指し示しているはずのモノ」という意味。
  2. 《浄化球》世界《共振しつつある世界》=の中に『他者』という《思いこみ》が指し示すモノを取り出すこと。
  3. モノを指し示すコトバ」と「イデアを指し示すコトバ」。「モノを指し示すコトバ」の意味は『特定のxxというモノを指し示す』という《思いこみ》である。「イデアを指し示すコトバ」は『特定のxxという《思いこみ》を指し示す』という《思いこみ》と『xx』という《思いこみ》そのモノの合成体である。モノ指示語とイデア指示語。
  4. 《浄化球》《他者》《知りつつあるモノ》
  5. 《浄化球》《他者》世界《他者》《共振しつつある世界》《他者》《近傍物理空間》《他者》《思いこみの世界》
  6. 《他者》世界の中のモノ。「《他者》《知りつつあるモノ》《他者》世界の中に見いだすモノ」(タセモ)。
  7. 《他者》《知りつつあるモノ》《他者》世界の中に見いだすモノ」と《今ここのモノ》とでは、「指し示されたモノ」としては同じである。
  8. 《他者》《知りつつあるモノ》《他者》世界の中に見いだすモノ」(タセモ)と《今ここのモノ》とでは、《見通し》としては別である。タセモにおいては、《見通し》《私》《知りつつあるモノ》から発し、《他者》《知りつつあるモノ》を経由した《見通し》《他者》《知りつつあるモノ》での反射によって拡大された《見通し》の中に、指し示されたモノを見通す。反射による《見通し》の拡大。
  9. 《他者》《知りつつあるモノ》《他者》世界の中に見いだすモノ」(タセモ)と《今ここのモノ》とでは、《見通し》の中での位置、《私》からの距離が異なる。モノと「モノの鏡像」とが別のモノであるように、別のモノである。モノと「モノの鏡像」とが同じモノであるなら、同じモノである。
  10. 《他者》の《見通しつつあるモノ》。《他者》の《見通しつつあるモノ》を通して《私》を見通すと、《私》は「《他者》の《他者》」である。
  11. 見通しつつあるモノ》は《見通し》《求めつつあるモノ》であり、《見通し》を求めて世界を《浄化しつつあるモノ》である。

《身体》《特別者公理》における、《近傍物理空間》の特殊な部分である。