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《思惟しつつあるモノ》

キーワード《思惟しつつあるモノ》

定義

デカルトの下記の部分の「私」を《思惟しつつあるモノ》と言い換える。

「しからば私は何であるか。思惟するもの、である。これは何をいふのか。言ふまでもなく、疑ひ、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なほまた想像し、感覺するものである。」「But what then am I? A thing which thinks. What is a thing which thinks? It is a thing which doubts, understands, [conceives], affirms, denies, wills, refuses, which also imagines and feels.」

  1. →「しからば《思惟しつつあるモノ》は何であるか。思惟するもの、である。これは何をいふのか。言ふまでもなく、疑ひ、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なほまた想像し、感覺するものである。」

「私は有る、私は存在する、これは確實だ。しかしいかなる間か。もちろん、私が思惟する間である。」「I am, I exist, that is certain. But how often? Just when I think;」

  1. →「《思惟しつつあるモノ》は有る、《思惟しつつあるモノ》は存在する、これは確實だ。しかしいかなる間か。もちろん、《思惟しつつあるモノ》が思惟する間である。」

区別

《思惟しつつあるモノ》と「心の作用

  1. 同じモノのようだ。《体内感覚世界》ともほぼ同じモノだろう。
  2. 《体内感覚世界》モノたちの《群れ》《思惟しつつあるモノ》と呼ぶ。

《思惟しつつあるモノ》《視点のパラメータ》

  1. デカルトの《思惟しつつあるモノ》《視点》は定まっていない。
  2. 前半の《思惟しつつあるモノ》は、ロゴスを放棄する《視点》であるにもかかわらず。後半の《思惟しつつあるモノ》は、ロゴスにすがる《視点》である。

《思惟しつつあるモノ》《浄化球》

  1. 《思惟しつつあるモノ》は混濁した合成物である。が、ひとまとまりの、持続性、反復性をもったモノであることは認めよう。
  2. 《求める思いこみ》《思いこみ》《噴出しつつあるモノ》と、《思いこみ》《操りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》
  3. 《思惟しつつあるモノ》《視点》は、《思いこみ》《操りつつあるモノ》《視点》であろう。モノ《操りつつあるモノ》と異なり、《思いこみ》は自由に生み出すことができる。
  4. 《思いこみ》を操りつつ、《近傍物理空間》《モノの世界》を感じることもでき、モノ《思いこみ》重ね合わせるという、《思いこみ》の《操り》も可能である。
  5. 《思いこみ》の《操り》によっては、『確かな知』に到達できない、というのは『省察』の最初の考察である。にもかかわらず、《思いこみ》《操りつつあるモノ》に戻っている。「《思いこみ》《操りつつあるモノ》はある」というのはOKである。しかし、「モノはある」でも「身体はある」でも同じ程度の確からしさしかない。
  6. 《疑いつつあるモノ》《思いこみ》《操りつつあるモノ》であるか? むしろ、《思いこみ》を捨てつつあるものであり、《思いこみ》を操ることを放棄しつつあるモノではないのか?
  7. 《思惟しつつあるモノ》《思いこみ》に執着しつつあるものである。《疑いつつあるモノ》《思いこみ》を捨てつつあるものである。
  8. 《思惟しつつあるモノ》においては、《知りつつあるモノ》《思いこみ》の外部にある。外部から冷静に眺めており、《思いこみ》は思惟の道具としての、《道具的な思いこみ》に留まっている。
  9. 《思惟しつつあるモノ》《知りつつあるモノ》は、容易に、《思いこみの世界》に《入り込みつつあるモノ》になってしまう。
  10. 《思惟しつつあるモノ》自己言及的に思惟し始めると、自己言及カオスに陥る。そのカオスへの《怯え》が、《思いこみ》への強い執着を生み出す。そして、《入り込みつつあるモノ》に変質していく。《思惟しつつあるモノ》自己言及において、不安定なのである。
  11. 《思惟しつつあるモノ》《知りつつあるモノ》《思いこみの世界》《モノの世界》との両方を同時に見ている。《複素数の時空》の中にある。これはOK。《思惟しつつあるモノ》《視点》《複素数の時空》への《視点》であり、多次元輪郭空間の中の一つの《視点》である。多次元輪郭空間や、《複素数の時空》も、思惟によって生み出されたモノである。(思惟には、《モノの世界》への《見通し》コトバで表現する、という《動き》も含まれる、と、《思惟しつつあるモノ》の《ドメイン》の構成原理から帰結する)。
  12. 《思惟しつつあるモノ》の《ドメイン》は、自己言及以外では、破綻しない。有用な《思いこみ》を生み出す。理性的な《ヒトのアニマ》の通常の《ドメイン》であろう。《モノの世界》への《見通し》も含まれているので、快適さもある。たしかに、病みつきになりそうな《視点》である。この《視点》を維持するためには、自己言及への《怯え》を規範としなければならない。
  13. 《思惟しつつあるモノ》《視点》からみると、現象学的還元、《モノの世界》への《見通し》は、バランスを欠いた《視点》である。《思惟しつつあるモノ》《視点》《モノの世界》《思いこみの世界》との調和の《視点》であるが、《モノの世界》への《見通し》《思いこみの世界》へ《怯え》に駆動された、偏った《視点》である。
  14. とはいえ、中庸でバランスがとれ、穏当な《視点》は、《思いこみの世界》へを入り込みやすい。両極を正しく知ったうえで、自らの場所、《視点のパラメータ》を正しく知った上でないと、バランスを保つことはできない。多次元輪郭空間における《視点の移動》を自覚的に行うことができなければ、自らの《視点》を保つことはできない。
  15. 《私》《思惟しつつあるモノ》は、多次元輪郭空間《視点》と統合されてしまう。
  16. しかし、それでは、《思惟しつつあるモノ》《視点のパラメータ》を抽出することができない。《他者》《思惟しつつあるモノ》の《怯え》を抽出できなければならない。
  17. 《他者》《思惟しつつあるモノ》の《怯え》は、自己言及がもたらすコスモスの崩壊への《怯え》である。
  18. 《他者》《思惟しつつあるモノ》《求める思いこみ》は、様々な世俗的な欲求である。《思惟しつつあるモノ》は、『科学』などを有用な《思いこみ》を生み出すこともでき、《ヒトの群れ》の中での世渡りの武器にもなる。《他者》を操る快感ももたらす。それらは世俗的な欲求である。関係的な欲求である。ERG理論。対自的な、成長欲求を満たすためには、自己言及を避けて通ることができない、それゆえに、《思いこみの世界》入り込むか、カオスに沈むか、《モノの世界》への《見通し》に進むほかないのである。進むべき道は、《モノの世界》への《見通し》を得た後に、多次元輪郭空間を経由して、《思惟しつつあるモノ》に戻ることである。「戻ってきた《思惟しつつあるモノ》」は、「初めの《思惟しつつあるモノ》」とは別のものであろう。「《混濁》の中で《思惟しつつあるモノ》」と「《見通し》の中で《思惟しつつあるモノ》」。

《思惟しつつあるモノ》《思いこみ》《操りつつあるモノ》

  1. 《思惟しつつあるモノ》は、《他者の思いこみ》であるから、その輪郭は判然としない。「疑ひ、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なほまた想像し、感覺する」モノというのは、やけに雑多なモノの寄せ集めのように見える。「《思いこみ》《操りつつあるモノ》」が一番近いか?
  2. たけ(tk)《操りつつあるモノ》で輪郭を切ってしまうのは、ローレンツの影響だろう。思考は、道具を操る手の認識の発展である、というのがローレンツの考え方。

《思惟しつつあるモノ》は在る」という命題と《思惟しつつあるモノ》

  1. 《思惟しつつあるモノ》は在る」という命題を《思惟しつつあるモノ》は在る、ということは認める。
  2. しかし「《思惟しつつあるモノ》は在る」という命題Aと、「「《思惟しつつあるモノ》は在る」という命題を《思惟しつつあるモノ》は在る」という命題Bとは別の命題である。
  3. 一般に、「xxは在る」という命題の真偽は《状況》による。xxが在る《状況》においては「xxは在る」という命題は正しく、xxが無い《状況》においては「xxは在る」という命題は誤りである。デカルトは《思惟しつつあるモノ》が在る《状況》を作り出しておいてから、「《思惟しつつあるモノ》は在る」という命題を吟味し始めている。それゆえに、「《思惟しつつあるモノ》は在る」という命題は正しいのであるが、実際には「《思惟しつつあるモノ》がある《状況》においては《思惟しつつあるモノ》は在る」という意味でしかない。「酸素/UFOが在る《状況》においては「酸素が在る」/「UFOは在る」という命題は正しい。
  4. 《思惟しつつあるモノ》は在る」という命題は自己言及命題である。《思惟しつつあるモノ》自体は、べつに自己言及というわけではない。ただのモノである。

《思惟しつつあるモノ》《混濁》

  1. 《思惟しつつあるモノ》は、《他者の思いこみ》であるから、その輪郭は判然としない。「疑ひ、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なほまた想像し、感覺する」モノというのは、やけに雑多なモノの寄せ集めのように見える。「《思いこみ》《操りつつあるモノ》」が一番近いか?
  2. 《思惟しつつあるモノ》は、《思いこみ》《求めつつあるモノ》なので、しんどい。
  3. 《思惟しつつあるモノ》は、眺めていると、《思いこみ》噴出しつつあるモノ《思いこみつつあるモノ》《思いこみ》をイメージ化しつつあるモノ《思いこみ》を保持しつつあるモノ)、《思いこみ》を操りつつあるモノ(論理的操作をしつつあるモノ、理解=重ね合わせつつあるモノ)、《知りつつあるモノ》(感覚しつつあるモノ)、に分解してしまう。
  4. 《思惟しつつあるモノ》は、思惟しつつあるときには、確かに在る。《思いこみ》噴出、イメージ化、保持、操作、《重ね合わせ》、感覚等が統合された一つの作用として、ひとまとまりの輪郭を持ったものとして、在る。その背後には《求めつつあるモノ》があるのであろう。『正しいコトバ』《求めつつあるモノ》
  5. 《思惟しつつあるモノ》は、《思惟しつつあるモノ》自身への《見通し》を得ようとすると、分解してしまう。分解して消滅してしまう。

《疑いつつあるモノ》《思惟しつつあるモノ》

  1. 《疑いつつあるモノ》《思惟しつつあるモノ》とが同じであるということは自明ではない。
  2. モノの輪郭をどのように切り取るか、は自明ではない。

《私》《思惟しつつあるモノ》

  1. 《思惟しつつあるモノ》《私》である、ということは、何ら自明ではない。
  2. 「思惟する間」だけ存在するモノは、《私》ではなく、《思惟しつつあるモノ》である。
  3. デカルトは、《私》の存在について何ら疑っていない。《私》がどのようなモノであるか=疑ひ、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なほまた想像し、感覺するものである=ということについて確固たる《知った思いこみ》を持っている。「《私》は疑う」と言う前提として、その主体としての《私》の存在を前提として考えている。
  4. デカルトは、《私》の存在についての疑問を持つが故に『省察』に至ったのではなく、確固たる信念の中の《私》を前提として、『正しいコトバ』《私》を基礎として提出するために『省察』を書いたのだ。
  5. 感覚的なモノを否定するといいながら、《私》に関する感覚的なモノは暗黙のうちに信頼している。記憶を疑うといいながら、《私》に関する記憶は信頼している。

『正しいコトバ』《思惟しつつあるモノ》

  1. 「今ここの何かが思惟しつつあるときには《思惟しつつあるモノ》は在る」というのは正しいコトバである。が、同義反復であり、論理的には意味がない。
  2. モノは離存的であり、離存性がある。モノコトバから指し示すことはできるが、離れて存在するので、「モノがある」というコトバの正しさは状況に依存する。「或るモノがある状況においては、そのモノは在る」というのは、正しいコトバだが、同義反復である。

《思いつつあるモノ》《思惟しつつあるモノ》

  1. たけ(tk)の用語と、デカルトの用語。
  2. 問題は、ぼけっとしているときに《思惟しつつあるモノ》であるかどうかが不明。《思いつつあるモノ》には含まれる。「感覚するもの」とあるので、含まれるということか? となれば、同じモノということになる。たぶん同じだよな。「思惟」は「おもう」の漢語訳だろうから・・。「think」に「feel」を含むのか? 「think」だともっとロジカルの思考(コトバによる思考)のイメージが在るのだが・・。

独り読書会

しからば精神によつてのほか知覺せられないこの蜜蝋は、いつたいどういうものであるのか。疑ひもなく、私が見、私が觸れ、私が想像するものと同じもの、要するに私が始からこういうものであると思つていたのと同じものである。しかしながら、注意すべきことは、この蜜蝋の知覺は、視覺の作用でも、觸覺の作用でも、想像の作用でもあるのではなく、また、たとい以前にはかやうに思はれたにしても、嘗てかやうなものであつたのではなく、かへつてただ單に精神の洞觀である、そしてこれは、これを構成してゐるものに私が向ける注意の多少に應じて、あるひは以前そうであつたやうに不完全で不分明であることも、あるひは現在そうあるやうに明晰で判明であることもできるのである。 But what is this piece of wax which cannot be understood excepting by the [understanding or] mind? It is certainly the same that I see, touch, imagine, and finally it is the same which I have always believed it to be from the beginning. But what must particularly be observed is that its perception is neither an act of vision, nor of touch, nor of imagination, and has never been such although it may have appeared formerly to be so, but only an intuition of the mind, which may be imperfect and confused as it was formerly, or clear and distinct as it is at present, according as my attention is more or less directed to the elements which are found in it, and of which it is composed.

  1. intuition:直観。洞觀?
  2. ここらへんからカントに発展していくのだろう。
  3. 或る「モノが何であるか」を判断するのは、あらかじめ『xxは何々である』という《思いこみ》がなければならない。その《思いこみ》も疑わしいと、カントは判断して、時間・空間なら先験的に在る=疑わしくない、と判断したのだろう。

かくて、見よ、遂に私はおのづと私の欲したところに歸つて來たのである。すなはち、今や、物體そのものも本來は感覺によつて、あるひは想像する能力によつてではなく、もつぱら悟性によつて知覺せられるといふこと、觸れられることあるひは見られることによつてではなく、ただ理解せられることによつて知覺せられるといふこと、が私に知られたのであるから、私は何物も私の精神よりも一層容易に、また一層明證的に私によつて知覺せられ得ないといふことを明瞭に認識するのである。 But finally here I am, having insensibly reverted to the point I desired, for, since it is now manifest to me that even bodies are not properly speaking known by the senses or by the faculty of imagination, but by the understanding only, and since they are not known from the fact that they are seen or touched, but only because they are understood, I see clearly that there is nothing which is easier for me to know than my mind.

  1. understanding=悟性??。
  2. 理解は《重ね合わせ》なんだよね。《思いこみ》を知覚対象に重ね合わせること。直観で「これはタバコである」と理解する、とはいっても、《知りつつあるモノの背後者》の中に『タバコ』のイデアがなければ、「これは何だろう?」と疑問に思うだけだ。そこで、「タバコ」というコトバを聞くと、「これ」のイメージが「タバコ」というコトバに結びついて、『タバコ』のイデア《思いこみ》記憶される。『タバコ』のイデア記憶された後に、タバコを見れば、「これはタバコである」と直観するようになるわけだ。その程度のことも分からなければ、アリストテレスの足元にも及ばないだろう。

Last modified:2007/01/20 11:38:03
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