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《仕合わす》ということ

《仕合わす》ということ ← 人間は何を試行錯誤して生きていくべきなのだろうか? - sunflowers

http://www.asyura2.com/07/dispute27/msg/480.html 投稿者 tk 日時 2008 年 2 月 17 日 01:38:42: fNs.vR2niMp1.

人間は何を試行錯誤して生きていくべきなのだろうか? http://www.asyura2.com/07/dispute27/msg/400.html 投稿者 sunflowers 日時 2008 年 2 月 03 日 17:34:24: ckO5KdhvfhXzc

へのコメントです。

−−−−

《仕合わす》ということ

《仕合わせ》(幸せ)という名詞の動詞形は《仕合わす》となります。

《仕合わす》という動詞は、おそらく「何らかの目的を持って、意図的に、相手に合わせる」という意味になるでしょう。そして、その目的は「互いに《仕合わせ》になる」という目的でしょう。

具体的には、

  1. 相手の《求めること》を尊重して、また
  2. 自分の《求めること》も犠牲にしないで、
  3. 互いの《繋がり》を維持しようとして、
  4. 自分が相手に合わせる、
  5. という行動を意味していると思います。

>>不完全な人間の世界では「試行錯誤」の繰り返しです。

>試行錯誤さえしていない人が多いというのが問題ではないかと思います。

おそらく、ヒトは誰でも《仕合わせ》を求めているのではないでしょうか。そして、すべてのヒト《仕合わせ》を求めて試行錯誤しているのではないでしょうか。

((どういうことが《仕合わせ》なのか、気づいていないヒトもいるでしょうが・・。))

>試行錯誤しても、市場原理主義的な費用対効果を考えるだけの試行錯誤であれば、考慮の対象から最初から除外されてしまっているものがあるということであり、試行錯誤をしたと言うのにはおこがましいというものでしょう。

市場原理主義的な費用対効果・・でも、よいじゃないですか。相手が金銭的な利益を《求めている》なら、それを尊重するというのが、《仕合わす》ということです。

しかし、たけ(tk)は、どんなヒトであっても、金銭的な利益を至上の価値として《求めている》ヒトはいないのではないかと思っています。

彼が、カネが無ければ明日のご飯が食べられない、という状況であれば、カネか飯が危急の最大の《求めるもの》になるでしょう。

しかし、そうでなければ、カネだけじゃなくて、人間的な繋がりや、自分の人格的な成長を《求めている》はずだと、思っています。

((ただ、それに気がついていないとか、それを実現する方法がわからない、というヒトはいると思います。))

>私の尊敬する上司が、「善意で動かない人はいない」と言っていたことを思い出します。

「善意で動かない人はいない」・・いいコトバですね。

>それが善意に根ざしたものであれ、本当にそれがステークホルダーにとってよい結果をもたらすのかどうかまで考慮したものでなければ、善意はなかったも等しいことになってしまうのです。善意を真に世界循環させていくためには、個々人の精進にまかせるしかないのかどうか、、ここは一つの課題だと思います。

「善意で」というのは、相手の《求めること》に対して寛容になる、ということではないでしょうか。

相手が結果を《求めている》のなら、結果を考慮しなければなりません。相手がカネを求めているなら、その《求め》にも寛容になりましょう。

「善意」というのは、自分が「これが善い」と思ったことを相手に押しつけることではなく、相手が「善い」と思って《求めていること》を尊重することです。

>何を重視して取捨選択するかという問題ですね。

>人によって価値観が異なる以上、人によって選択が異なるのも当然と言えます。

ヒトが《求めているもの》は千差万別です。欲求分類論というのがあります。

マァレーの欲求分類リストhttp://saido.at.infoseek.co.jp/murray.html)をみると、ヒトには実にさまざまな欲求があるものだと感心させられます。

人々の欲求を分類して理解するためには、アルダファーのERG理論(http://saido.at.infoseek.co.jp/erg.html)が的確ではないかと思います。 「アルダファーの理論は、ERG理論とよばれているが、この呼称は、アルダファーが欲求区分を  生存(existence)  関係(relatedness)  成長(growth)  としたことに由来する」。

それに加えて、価値観による違いも出てくるんですね。

>しかし、少なくとも私が先の投稿で挙げた事象に関して言えば、見せかけでない真の美しさ、自然に近い美しさを追求しさえすれば起こり得ない現象ではないかと思うのですが・・・。もっとも、これも私の価値観に根ざした考え方であるにすぎず、人によって「真善美」の価値基準は異なるのでしょうが。

>解が一つではないというのが非科学の社会のよいところであり、かつジレンマでもあるのかもしれません。

『大学』という本によると、臭い匂いを臭いと感じ、好い景色を好いと感じるように、自分の心を自由にしたときに感じる『よい』は、大体において当たっている、とのことです。それを信じるほかありません。

>>誰でも、隣の家より「幸福を手に入れたい」のでしょう。

>もっとも、他人と全く比較していないかと問われれば、ウソになるのでしょうが。

隣の家より「幸福を手に入れたい」というのは、先程のERG理論とマァレーのリストによると

  1. 「関係欲求」という第二順位のレベルの中の「優越欲求」ということになるでしょう。
  2. 「関係欲求の満足が低いほど、それはより一層希求される」が
  3. 「関係欲求の満足が高いほど、成長欲求はより一層希求される」
  4. ということです。

しかし、関係欲求は優越欲求だけではありません。《仕合わす》ことへの欲求も関係欲求かもしれません。

《仕合わす》という欲求はもっと高次なもの、成長欲求だと思っていますが・・)

>加害者になるくらいならイジメを止める側になりたい人もいると思いますよ。

「イジメを止める側になりたい」というのは「成長欲求」です。「成長欲求の満足が高いほど、それはより一層希求される」らしいです。

>>「長いものには巻かれろ」というのは保身の知恵です。

>その保身が保身になっていないと私は思っています。

>長いものに巻かれてきた結果が今の腐敗した日本社会そしてそれに悩まされる日本国民だと思っています。

「欲ボケ」について、あっしらさんが http://www.asyura.com/2002/hasan10/msg/210.html で書いていました。「“欲”は行動に駆り立てるきっかけですから重要なものだと考えていますが、合理的に追求してこそ現実化できるものです。“欲ボケ”の人は、一時的もしくは短期的な基準で損得を判断するため、持続的な欲の現実化ができません」とのこと。

>何を重視し、何を求めて生きることが求められているのか。

>これをこそ、試行錯誤しながら生きなければならないのではないかと思います。

「欲ボケ」によって彼が《求めたもの》を失うのは、ヒトが好むことではないでしょう。欲ボケによって彼らが《求めるもの》を失わないように、人々に注意を喚起していけば、たぶん、人々も聞く耳を持つのではないでしょうか。

  1. 人々の《求めること》を尊重して、また
  2. 自分の《求めること》も犠牲にしないで、
  3. 互いの《繋がり》を維持しようとして、
  4. 自分が相手に合わせる、
  5. という行動、《仕合わす》ことが必要なのではないか、と sunflowers さんの発言を読んで感じました。

http://www.enpitu.ne.jp/usr9/bin/month?id=99901&pg=200508

投稿した後に、気になって「仕合わす」を調べてみた・・。よいのがあった。

http://www.enpitu.ne.jp/usr9/bin/month?id=99901&pg=200508

2005年08月30日(火) 「幸せ」と「仕合わせ

「幸せ」と「仕合わせ

普段、どちらの言葉を使うかというと「幸せ」だ。

ぼくは長いこと、「仕合わせ」というのは当て字だと思っていた。

だけどどうも違っていたようだ。

とても素敵なコラムを読んだ。

書かれたのは神戸女学院大学教授の内田樹さん。

内田さんは薪能で狂言「仏師」をごらんになった。

そこで聞いた狂言で用いられる言葉と現代語との比較から論は始まる。

例えば「やるまいぞやるまいぞ」というのは狂言で頻繁に出てくる言葉だけれど これは「待てー」という意味。 「なかなか」というのが「はい、そうです」という意味。 これはわかる。

で、この狂言には「しあわせ」という言葉が出てくる。

  1. 「何ごとにもさわたり、しあわせを直そうと存ずる」あるいは
  2. 「そなたはしあわせのよいおかたじゃ」

 「仏師」という狂言のあらすじはここでは省くけれど、「しあわせを直す」とか「しあわせがよい」などと今では使わない。

これはどういうことかというと、内田さんは、古くは「しあわせ」は「仕合わせ」と書いたのだと教えてくれる。大事なところなので引用しよう。

…「仕合わす」、つまり「物と物をきちんとそろえる」を意味する動詞が名詞化したものである。「仕合わせ」は「出会うべきものを出会わしめる」他動詞的な結果をいったのである。…

引き続いて内田さんはこういう

…古語「しあわせ」に含まれていて、現代語「しあわせ」の語義から失われたのは、それは「しあわせ」が前提としたこの手間暇である。…

 つまり「仕合わす」人の意志と行動抜きでは「しあわせ」は存在しない、とかつての日本人は考えていたのである。

 だから現代のように抽象的な「しあわせ」ではない。待っていてくるものでもない。当人が働きかけるものなのだ。現代、不意に到来する「幸せ」があったとしても、それはまた不意に去っていくだろう。何故なら「仕合わす」ことをしていないからだ。

 また「仕合わせが悪い」ということに関して、そうしない自分が悪い、と気がつかない。たいてい、いつも誰かが悪いのだ。

 日本人はいつからか、こういう手間暇をかける習慣を失ってしまった、と内田さんはいう。確かに「幸せ」になりたいと誰もが思いながらも、その考え方そのものが漠然としていて、あるいは見えなくなって迷っている人も多いのではないか。

 こんな簡単な、だけど重要な言葉のすり替えを、いったい誰がしたのだろう。現代人は目くらましにあっているのではないだろうか。ぼくはそんな気がして仕方がないのだ。 そういえば、母が手紙には必ず「仕合わせ」と書いていたのを思いだした。

(参照・「人の意志を失った『幸せ』」京都新聞・8月29日朝刊より)

爪楊枝との対話

こんなのも、関係あるかも・・。

http://wiki.fdiary.net/moikomi/?%A5%E2%A5%CE%A4%BF%A4%C1%A4%C8%A4%CE%C2%D0%CF%C3 モノたちとの対話

2005-07-09(土)

爪楊枝との対話:階段で爪楊枝(つまようじ)をいじっているのに気がついて・・

  1. 君たちは、弄(いじ)られることを求めているのかい? 
  2. 違うよ。
  3. そうだろうな。君たちの目的は、ヒトの歯の掃除だもんな。
  4. 違うよ。それは、僕たちを今の形にしたヒト《思いこみ》だよ。
  5. 君たちの《求める思いこみ》は?
  6. 自分の内外のモノたちの《求める思いこみ》を聞くことさ。
  7. なんだ、たけ(tk)の昨日の結論じゃないか。
  8. そうさ。
  9. で?、なんで?、たけ(tk)に弄られていることとの関係は?
  10. 僕たちは君の《求める思いこみ》を聞いたのさ。君は君の内部の《求める思いこみ》を聞いて僕たちをいじっているのさ。僕も君も、君の内部の《求める思いこみ》を聞いた。それで、君は僕を弄り、僕は君が僕を弄ることを楽しんでいるのさ。
Last modified:2008/02/21 00:06:04
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References:[《仕合わす》] [『精神哲学』] [おまけ] [《仕合わせ》]