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《混濁》への見通し

《たけ(tk)の思いこみ》《混濁》への見通し

《混濁》の分離

《たけ(tk)の思いこみ》《混濁》から始まる。

"take_tk' thought" begins with "opacity".

《混濁》は次のように分離する。

《混濁》《混濁の世界》
《混濁》《混濁の世界》《近傍物理空間》
《混濁》《混濁の世界》《近傍物理空間》《身体》
《混濁》《混濁の世界》《近傍物理空間》《他者》
《混濁》《混濁の世界》《体内感覚世界》
《混濁》《混濁の世界》《体内感覚世界》体内感覚
《混濁》《混濁の世界》《体内感覚世界》体内感覚表象
《混濁》《混濁の世界》《体内感覚世界》体内感覚《ちから》
《混濁》《混濁の世界》《体内感覚世界》《思いこみ》
《混濁》《混濁の世界》《体内感覚世界》《思いこみ》《知った思いこみ》
《混濁》《混濁の世界》《体内感覚世界》《思いこみ》《求める思いこみ》
《混濁》→《認識限界
《混濁》→《認識限界》→《知りつつあるモノ》
《混濁》《背後者世界》

"opacity" is divided to as follows;

"opacity" > "knowing object"
"opacity" > "world of opacity" > "thought"
"opacity" > "world of opacity" > "physical nearby space"
"opacity" > "world of opacity" > "physical nearby space" > "body"
"opacity" > "world of opacity" > "physical nearby space" > "other body"

《混濁》《知りつつあるモノ》《混濁の世界》

《混濁》は現れ来たモノである。そしてそれは《知られつつあるモノ》である。

"opacity" is something occurred. and it is "object being known"

《混濁》《知られつつあるモノ》であることに気がつくと、それを《知りつつあるモノ》があることに気がつく。

when we know "opacity" is "object being known", we know there is "knowing object" which is knowing opacity.

《知られつつあるモノ》としての《混濁》」を《混濁の世界》と呼ぶことにする。

"opacity" as "object beging known" is called "world of opacity".

《混濁》《知りつつあるモノ》《混濁の世界》とに分離する。

"opacity" divide to "knowing object" and "world of opacity".

* フッサールの用語で説明するなら、《混濁》とはエポケー(判断停止)によって生じる状態である。

* 《混濁》《知られつつある混濁》《知りつつある混濁》とに分離する。《知られつつある混濁》《混濁の世界》と呼び、《知りつつある混濁》《知りつつあるモノ》と呼ぶ。

《知りつつあるモノ》の不可直観

《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》の存在を直接知によって知ることはできない。

なぜなら、《知りつつあるモノ》が知りうるものは《知られつつあるもの》に限られるからである。《知りつつあるモノ》《知りつつあるモノ》自身を知ったとすると、《知りつつあるモノ》は《知られつつあるもの》に変質してしまうからである。

これは《混濁の世界》の《認識限界》の問題として後で検討する。

《混濁の世界》の《認識限界》」というのは《知りつつあるモノ》の能力の問題としてみれば「《知りつつあるモノ》の《認識限界》」の問題でもある。

《混濁の世界》《近傍物理空間》

《混濁の世界》をしばらく楽しむと、《知りつつあるモノ》のまわりには《モノの世界》があることに気がつく。ここでの《モノの世界》というのは《知りつつあるモノ》が直接に知ることができる範囲の物理的空間のことである。これを《近傍物理空間》と呼ぶことにする。

After we enjoy the "world of opacity", we find "world of objects" around "knowing object". "world of objects" at this time is the physical space which can be known directly by the "knowing object". So, we call it "physical nearby space".

《近傍物理空間》というのは《知りつつあるモノ》が目や耳などを通じて「確かにそこにある」と知ることができる範囲の身近な物理空間のことである。

"physical nearby space" is a pyisical space which the "knowing object" can confident "it exists" through eyes, ears or etc.

《知りつつあるモノ》《混濁》の中をさまよっても、ふと気がつくと、そこには「いつもの《近傍物理空間》」があることに気がつく。

《近傍物理空間》《混濁の世界》の中で、確信をもって「その中のモノたちが、存在することが確実である」と言うことができる部分である。

* デカルトの『省察』の次の部分に該当する。

http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/library/descartes/med001.html

しかし恐らく、感覺はあまりに小さいもの、あまり遠く離れたものに關しては時として我々を欺くとはいえ同じく感覺から汲まれたものであつても、まつたく疑ひ得ぬ他の多くのものがある。例えば、いま私が此處に居ること、暖爐のそばに坐つてゐること、冬の服を着てゐること、この紙片を手にしてゐること、その他これに類することのごとき。まことにこの手やこの身體が私のものであるといふことは、いかにして否定され得るであらうか、

  • "Meditations On First Philosophy"

http://www.ucs.mun.ca/~fdoull/des-med.htm

But it may be that although the senses sometimes deceive us concerning things which are hardly perceptible, or very far away, there are yet many others to be met with as to which we cannot reasonably have any doubt, although we recognise them by their means. For example, there is the fact that I am here, seated by the fire, attired in a dressing gown, having this paper in my hands and other similar matters. And how could I deny that these hands and this body are mine, were it not perhaps that I compare myself to certain persons, devoid of sense,

《近傍物理空間》《他者》

《近傍物理空間》は一様ではない。そのなかに《身体》《他者》という特殊な部分を見いだす。

《他者》の特殊性は、《他者》《近傍物理空間》に現れると《知りつつあるモノ》が撹乱されるということである。

しかしながら、《他者》《知りつつあるモノ》を撹乱する様子を観察してみても《知られつつあるモノ》としての《他者》の周辺には《知りつつあるモノ》を撹乱させるような《ちから》を見いだすことができない。また、《他者》《知りつつあるモノ》に影響を与える《ちから》が伝わる様子も《混濁》の中には見いだすことができない。

《知りつつあるモノ》は「《知りつつあるモノ》の背後」から何らかの《ちから》が与えられて、撹乱するように感じられる。この「《知りつつあるモノ》の背後」にあるモノ《知りつつあるモノの背後者》と呼ぶことにする。

《近傍物理空間》《身体》

《身体》の特殊性は、

  1. 《身体》が感じたものはそのまま《知りつつあるモノ》が感じることができること、および、
  2. 《知りつつあるモノ》が意図すると、そのまま《身体》動かす《ちから》になるように思われることである。

《身体》《知りつつあるモノ》との関係を観察してみても、それを関係付けるような《ちから》《近傍物理空間》の中には見いだすことができない。

《身体》《知りつつあるモノ》との関係も、《知られつつあるモノ》《他者》との関係と同様に、「《知りつつあるモノ》の背後」において、《知りつつあるモノの背後者》を経由して、《ちから》のやりとりが行われている。

体外感覚における《身体》

近傍物理空間の中に見つけた身体は、「体外感覚における《身体》」である。《近傍物理空間》の中に置かれた他のモノたちと同様に、《近傍物理空間》の中に置かれたモノとして発見されるモノである。

体外感覚を経由して《身体》を知るというのは、眼で自分の手を見る、とか右手で頭に触ってみる、と言うような方法で手や頭を知ることである。そのようにして知られつつある《身体》は、《近傍物理空間》の中にある。その点では《近傍物理空間》の中に現れる他のモノと同様である。

そこにおいて直接に知ることができるモノは身体の表面であり、身体の内部は、モノの内部が未知であるのと同様に、直接に知ることができない。

他のモノとの違いは、《知りつつあるモノ》《近傍物理空間》を知る時にはいつも《身体》がある、という点と、前述した、感覚神経的な結びつきと運動神経的な結びつきである。

なお、《知りつつあるモノ》《近傍物理空間》を知る経路も体外感覚である。

しかし、《知りつつあるモノ》《身体》を知る経路には、もう一つの経路がある。体外感覚を経路として知る方法のほかに、体内感覚を経路として知る方法とがある。

体内感覚における《身体》

体内感覚を経由して《身体》を知るというのは、

  1. 《身体》の内部で『痛み』を感じたり、
  2. 《身体》の『動き』を感じたり、
  3. 《身体》内の動きを産み出す《ちから》を感じたりすることである。また
  4. 皮膚の表面の自己感覚すなわち、手でモノを触っている時に手がモノを感じるのとは別に、モノを触っている手自体を感じる、という経路での感覚的な知覚を意味する。

《知りつつあるモノ》体内感覚に無関心である時には、体内感覚における《身体》《近傍物理空間》の中に、体外感覚における《身体》と同じ場所に感じられる。

しかし、ひとたび体内感覚に関心をもつと、その空間定位が明確ではなくなる。体内感覚において感じられるモノはその場所、大きさ、範囲がはっきりしないものが多い。いつの間にか場所が変わっていることもある。また、それが《身体》内部のモノであることを忘れてしまうことも多い。体内感覚に集中すると《近傍物理空間》のことを忘れてしまうだろう。また、体内感覚において感じられたモノが、《身体》の外部にあるように感じられることも少なくない。

* ゲシュタルト崩壊か?

* 体内感覚への《入り込み》

* 《体内感覚世界》《背後者》ではない。あくまでも、知られつつある《混濁》の一部である。

* 痛みにとらわれるとき、痛みは《知りつつあるモノの背後者》と結びつく。痛みに入り込むとき、《知りつつあるモノ》は痛みを通じて世界を認識する。

《混濁の世界》《思いこみ》

《混濁の世界》とそこから分離した《近傍物理空間》との間をしばらくさまよってみよう。

すると、《混濁の世界》の中には、「確実に存在する」と言えそうな部分は、《近傍物理空間》の他には、見当たらないことに気がつく。なにか「確実に存在する」と思うものを見つけても、振り返ってみれば、それが《思いこみ》に過ぎないと気がついてしまうのである。

では、「《混濁の世界》の中の《近傍物理空間》以外の部分」はどのようなモノであろうか?

《混濁の世界》において「何かがある」と思っても、《近傍物理空間》の中の《知りつつあるモノ》の立場に戻ると、それらが《思いこみ》であることに気がつく。

それゆえに、「《混濁の世界》の中の《近傍物理空間》以外の部分」を《思いこみ》と呼ぶことにする。すなわち《混濁の世界》《近傍物理空間》《思いこみ》とに分離する。

しかし、本当に《混濁の世界》の中には《近傍物理空間》《思いこみ》以外のモノはないのであろうか?

《知りつつあるモノ》自身は、上記の定義からして、一応「《混濁の世界》の中にはない」としておこう。

《混濁の世界》の中には《他者》《身体》という特殊なモノを見つけることができる。しかし、これらは《近傍物理空間》の中のモノというべきであろう。

《近傍物理空間》の《認識限界》の先にあるはずのモノ」とか「《知りつつあるモノ》の背後にあるかもしれないモノ」といった「未知なるモノ」も《混濁の世界》の中にある。しかし、これらは「未知ではあるが、あるはずだ」という《思いこみ》があるかぎりにおいて《混濁の世界》の中にあるというべきである。宗教的真実といったモノ、客観的事実といったモノ、数学的な真理とか、科学的な法則といったモノは、残念ながら、すべて《思いこみ》である。

どうやら、《混濁の世界》の中には《近傍物理空間》《思いこみ》以外のモノはなさそうなのである。

しかし「《思いこみ》というモノが存在する」ということ自体は、経験上確かだと言ってよいだろう。「《思いこみ》というモノが存在する」ということと「《思いこみ》の中で感じられるモノが不確かである」ということとは別のことである。

《思いこみ》体内感覚世界

(以下は書き直し中)

ここから、いくつかの疑問が出てくる。

  1. 《知りつつあるモノ》自体は《身体》内部にあるか?
    1. 超越的認識者との関係。超越的である必要はない。
    2. 体内感覚における《身体》《知りつつあるモノ》世界か? ハイデガーの世界内存在。二重円の世界
    3. 世界としての体内感覚における《身体》《近傍物理空間》に繋がっているか?
    4. 《知りつつあるモノ》《身体》を感じずに世界を感じることの説明は? 透明化、《浄化》
  2. 《思いこみ》《身体》内部のモノか?
    1. 言語的な思索におけるコトバ《身体》の内部のモノか?
  3. 体内感覚における《身体》は体外感覚における《身体》と同じモノか?
    1. 体内感覚において知りえた《身体》は、体外感覚において知りえた《身体》に繋がっているか?
    2. 視点(始点)は同じで、ルールが違う。射影幾何ルールと位相幾何のルールルールが違う世界の接点において両方の世界《知りつつあるモノ》

《知りつつあるモノ》《身体》内のモノか?

《知りつつあるモノ》は、不可直観的なモノであるから、《身体》内にあるという確認はできない。しかし体外を《知りつつあるモノ》であっても、体内感覚を取り戻して、その近傍を見るなら、《知りつつあるモノ》と体外の《近傍物理空間》との間に《身体》がある。《知りつつあるモノ》の近傍は体内感覚における《身体》に取り囲まれているのである。したがって、《知りつつあるモノ》《身体》の中にあると考えるのが妥当だろう。

《混濁》から《混濁の世界》《知りつつあるモノ》とが分離した時には、《知りつつあるモノ》《混濁の世界》に対して超越的に《知りつつあるモノ》であるようにも感じられた。

しかし、それをもって《知りつつあるモノ》が超越的である、と判断する必要はないだろう。《知りつつあるモノ》世界の中にあって、世界の中から超越的に思われる仕方で(すなわち、自分自身が不可直観的であるような形で)世界の中から世界《知りつつあるモノ》である、としても問題は生じないのである。

《知りつつあるモノ》は前後左右上下を《混濁の世界》に取り囲まれていることに気づく。さすれば、《知りつつあるモノ》《混濁の世界》の中にある。《混濁の世界》の中に《身体》があり、《知りつつあるモノ》《身体》の中にある、という二重の球によって構成された世界の中にあると考えることができる。

《知りつつあるモノ》《身体》内での位置

《知りつつあるモノ》は通常は《身体》内にあるが、《身体》内を移動することができるようである。意識を指先に集中させれば、指先に《知りつつあるモノ》が移動するように感じられる。すなわち《知りつつあるモノ》《身体》内で移動可能なモノのようである。

もっとも、移動するのは、いわゆる、神経を集中させた状態のときに起こる。神経の集中を解除して、《混濁》的な、若しくは傍観者的な状態に戻ると、《知りつつあるモノ》は両眼の裏あたりに感じられるようである。(このことは、《知りつつあるモノ》が視覚的な神経集中のアナロジーで構成されているかもしれないことを示している)

《知りつつあるモノ》が定位置から移動した時、体内感覚世界入り込むように思われる。というのは、そのような状態のときに《近傍物理空間》での空間定位を失い、さらには、《近傍物理空間》の存在自体を忘れてしまうことがあるからである。そのような状態になることを特定の世界に「入り込む」と表現することにする。《近傍物理空間》の中にあった《知りつつあるモノ》が、体内感覚世界入り込むと、空間定位を失う、というように表現する。

《近傍物理空間》の中にあった《知りつつあるモノ》が、体内感覚世界入り込むと、空間定位を失う、ということは、《近傍物理空間》とは別のルール世界入り込んだものと考える。すなわち、体内感覚世界ルールによれば、空間定位は正確である必要がないので、《知りつつあるモノ》はそのルールに従って、空間定位を失うと考える。

《思いこみ》体内感覚か?

《知りつつあるモノ》が何らかの世界入り込み、その世界ルールにしたがって世界《知りつつあるモノ》になる、という理解を前提にすると、《混濁の世界》の中に残った《思いこみ》の正体も明らかになる。

体内感覚を観察しながら、《思いこみ》が発生する状態を観察すると、《思いこみ》《身体》内に発生し、その《思いこみ》世界の中に《知りつつあるモノ》入り込むことによって、その《思いこみ》の中で不確かなモノを感じていることがわかる。そのように感じられたモノ《思いこみ》世界の中のモノなのである。

《思いこみ》《身体》内に発生するが、《身体》を越えて広がるように感じられる。このことは、体内感覚の空間定位の曖昧性によって説明することができるだろう。

体内感覚《近傍物理空間》の中のものか?

体内感覚《近傍物理空間》の中のものか? 体外感覚における《身体》《近傍物理空間》の中のモノである。体内感覚における《身体》は、体外感覚における《身体》の内部に対する感覚を通じて知りえたものであるから、《近傍物理空間》の中のものであると言えるだろう。

《身体》内の《諸々のxxしつつあるモノ》

体内感覚における《身体》に戻る。『私の主体性』を考えるにあたって重要なのは、動きつつある《身体》であろう。私は《身体》動かすことによって主体的な存在でありうる。私が考えること、知ることも《身体》動きである。

《知りつつあるモノ》《身体》動き体内感覚において知ることができる。『主体性』というのは『動き原因』ということであろう。とするなら、体内感覚において知られた《身体》動き原因となっている場所、に注目する必要があるだろう。この場所を《諸々のxxしつつあるモノ》と呼ぶことにする。

《身体》内の《知りつつあるモノの背後者》

《身体》《知りつつあるモノ》の関係を観察すると、《身体》《知りつつあるモノ》に与える《ちから》は、《他者》《ちから》の場合と同様に、《知りつつあるモノ》の背後から与えられるように感じられる。

また、《知りつつあるモノ》が意図することによって《身体》に与える《ちから》《知りつつあるモノの背後者》を通じて《身体》に伝えられているようである。 そのような《ちから》を伝える要素は《知られつつある混濁》の中には見いだすことができないのである。

従って、《他者》《身体》を、《他者》《他者》たる由縁、《身体》《身体》である由縁において理解するためには《知りつつあるモノ》《背後者》を知る必要がありそうである。

次は

次は: 《混濁の世界》の《認識限界》と《背後者》

前は:《疑いつつあるモノ》から《混濁》へ

上は: 《たけ(tk)の思いこみ》

ご意見・ご感想・ご質問

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/home/wiki/hiki/hiki/command.rb:119:in `send'
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おまけ

レベル2の目次

  1. 《混濁の世界》の中心としての《知りつつあるモノ》
  2. 《混濁の世界》モノとしての《思いこみ》
  3. 《近傍物理空間》
  4. 《混濁の世界》モノとしての《身体》
  5. 《混濁の世界》モノとしての《他者》
  6. 《混濁の世界》モノとしての《コトバ
  7. 《混濁の世界》《浄化》
  8. 《混濁の世界》の《認識限界
  9. 《混濁の世界》モノとしての《背後者》
  10. 《浄化しつつあるモノ

エポケーと《混濁》

たけ(tk)《混濁》は、フッサールの「エポケー(判断停止)」に対応するようだ。

フッサールが「エポケー」というノエシス(・・しつつある作用)の用語を使い、たけ(tk)がノエマ(・・されつつあるモノ)の用語になったのか、興味深い。

しかも、フッサールは、《知られつつあるモノ》(ノエマ)と《知りつつあるコト》(ノエシス)で語っており、《知りつつあるモノ》に対応するコトバを使っていない。おそらく、フッサールは、《知りつつあるモノ》というコトバがもつ自己言及への危険に近づかない智恵を働かしたのだろう。

ご意見・ご感想・ご質問

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Last modified:2005/08/03 00:39:42
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