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《今・ここの・このモノ》

キーワード《今・ここの・このモノ》

《今・ここの・このモノ》(イコモ)とは?

  1. 《今・ここの・このモノ》とは、直知時空の中の、直知されつつあるモノである?○:。×:。
  1. 《今・ここの・このモノ》今・ここの・このモノである。
    1. 今・ここ》で《知りつつあるモノ》である。
    2. 今・ここ》で《感じつつあるモノ》である。《感じ合い》しつつあるモノ
    3. 今・ここ》で《動きつつあるモノ》である

イコモ

どのようなモノであるか

区別

イコモ・100

  1. 《息しつつあるモノ》《今・ここの・このモノ》である。《知りつつあるモノ》《今・ここの・このモノ》である。《身体》《今・ここの・このモノ》である。《混濁しつつある身体》《今・ここの・このモノ》である。《自己言及しつつあるモノ》《今・ここの・このモノ》である。
  2. コーヒーカップは《今・ここの・このモノ》である。パソコンは《今・ここの・このモノ》である。《近傍物理空間》《身体》《今・ここの・このモノ》である。
  3. 《群生相》において《近傍物理空間》に現出した《他者》《今・ここの・このモノ》である。
  4. 《他者からの思いこみ》《今・ここの・このモノ》である。《思い描き》《今・ここの・このモノ》である。
  5. 《今・ここの・このモノ》《内からの視点》と、《今・ここの・このモノ》《外からの視点》とがある。
  6. 《今・ここの・このモノ》『一切』である。《今・ここの・このモノ》『一切』を生じさせるノイズである。

《今・ここの・このモノ》「AならばB」

  1. 《今・ここの・このモノ》には「AならばB」がある。
  2. モノには運動様式がある。運動様式は「AならばB」である。

《たけ(tk)の思いこみ》《今・ここの・このモノ》

  1. 《今・ここの・このモノ》がどのようなモノであるかをコトバで記述すること」が《たけ(tk)の思いこみ》の記述の目的である。
  2. 《思いこみ》をすべて捨てて《今・ここの・このモノ》に至った状態から記述を始める。どうやって《思いこみ》を捨てるか、すべて捨てるにはどうすればよいかは、各自工夫してくれ。
  3. 《今・ここの・このモノ》はどのようなモノであるか
    1. 《思いこみ》コトバ《噴出しつつあるモノ》〜それを《捨てつつあるモノ》。
    2. 《噴出しつつあるモノ》噴出した《思いこみ》コトバ
    3. 《知りつつあるモノ》
    4. 《息しつつあるモノ》
    5. 《身体》
    6. 《近傍物理空間》
    7. 《近傍物理空間》の中の《モノたち》、《ヒトたち》。
  4. 出発点としての《今・ここの・このモノ》はどのようなものではないか
    1. 《思いこみ》に《入り込みつつあるモノ》ではない
    2. 《他者》と対話しつつあるものではない。《他者》がまわりにいるものではない。《他者》に《気を使いつつあるモノ》でもない。
    3. 歩きつつあるモノ、食べつつあるモノ、生活しつつあるモノではない。
  5. 《今・ここの・このモノ》の諸要素は《体内感覚世界》モノ《体外感覚世界》モノとに分類できる。

《今・ここの・このモノ》《混濁》

  1. 「今」は「時間」を前提としており、「ここ」は「空間」を前提としており、モノ《モノの世界》を前提としている。無前提にあるのは《混濁》だけである。《混濁》から《モノの世界》《思いこみの世界》とが分離し、空間が分離し、時間が分離する。
  2. 《今・ここの・このモノ》というのは、《混濁》からの諸々の分離を前提とした、通俗的に分かりやすい表現、というに留まる。

《今・ここの・このモノ》《肉の塊》

  1. 《今・ここの・このモノ》《肉の塊》である、か?
  2. 《肉の塊》は、このヒトの生活の全部の時間において、《生きつつあるモノ》である。《共振しつつあるモノ》である。《今・ここ》という《視点》と、《生活の全時間》という《視点》。《生活の全時間》において同一性をもって、持続的に《今・ここの・このモノ》を傍観する《視点》。持続しつつある《視点》。《今・ここ》の《視点》と、《持続する時間の・ここ》の《視点》
  3. 《今・ここの・このモノ》《肉の塊》である。《体細胞の群れ》である。
  4. 《体細胞の群れ》の内外で循環する《思いこみ》である。その内外で《思いこみ》循環する《体細胞の群れ》である。
  5. 違いが在る。
  6. 《今・ここの・このモノ》《肉の塊》ではない。《今・ここの・このモノ》は輪郭しか有しない空間領域である。
  7. 《肉の塊》は実感であり、《今・ここの・このモノ》は実感を失った領域である。
  8. 緊張すると実感を失い、弛緩すると実感を回復する。その主体は《肉の塊》であり、《今・ここの・このモノ》である。主体は同じモノである。《肉の塊》が緊張して実感を失うと《今・ここの・このモノ》になり、《今・ここの・このモノ》が弛緩して実感を回復すると《肉の塊》になる。
  9. 《体細胞の群れ》は思考実験の空想《思いこみ》である。それは《思いこみ》の中にしか存在しない。そもそも、体細胞を実感も直観もできないので、《体細胞の群れ》が実感できるはずがない。

《私》《今・ここの・このモノ》

  1. おそらく、《今・ここの・このモノ》は「私」というコトバが指し示しているはずのモノにかなり近いのではなかろうか?
  2. 《私》は未知なるものであるが、《今・ここの・このモノ》は、現実に在るモノである。
  3. 《今・ここの・このモノ》は「私」というコトバが指し示すモノである。か? 「私」は代名詞だからね。彼が「私」と言えば、《彼》のことだ。
  4. 「私」というコトバが指し示すモノは、《今・ここの・このモノ》だけではない。《あの時・あの場所の・このモノ》も指し示す。《このモノ》が《今・ここ》に限定されず、《あの時・あの場所》においても、同一性を保って持続していると信じられている。
  5. 《今・ここの・このモノ》は《あの時・あの場所の・このモノ》と同一であるか? 『同一性』を保って持続しているか? 『同一性を保って持続している』と信じる。
  6. 「私」というコトバが指し示すモノは《このモノ》であって、《今・ここ》に在るとともに、《あの時・あの場所》においても同一性を保って持続的に存在する《このモノ》である。
  7. 「私」というコトバが指し示すモノ《私》と呼ぶ。従って、《私》は《このモノ》であって、《今・ここ》に在るとともに、《あの時・あの場所》においても同一性を保って持続的に存在する《このモノ》である。

《今・ここの・このモノ》《知りつつあるモノ》

  1. 《今・ここの・このモノ》は、《知りつつあるモノ》か、《近傍物理空間》の一部分か?
  2. どっちかっちゅーと、「《近傍物理空間》の一部分」のニュアンスで語っております。
  3. 《近傍物理空間》《身体》を含むが、《身体》の内部は含まない。《身体》の内部は《近傍物理空間》の《認識限界》の先のモノ《身体》の内部は《近傍物理空間》《背後者》である。
  4. 《体内感覚世界》《近傍物理空間》とを統合するのは《複素数の時空》である。《複素数の時空》において《今・ここの・このモノ》が現れる。《体内感覚世界》は虚数軸方向への膨らみとして、近傍の《複素数の時空》、《近傍複素数時空》に現れる。《今・ここの・このモノ》《複素数の時空》における《身体》である。虚数軸方向は、《視点》によって、さまざまな方向に伸びている。「《体内感覚世界》の虚数軸」というように特定して記述する必要がある。

《今・ここの・このモノ》《混濁しつつあるモノ》

  1. 《混濁しつつあるモノ》《今・ここの・このモノ》である。
  2. 《今・ここの・このモノ》は混濁したり、透明になったりする。
  3. 《今・ここの・このモノ》は透明になった、と思っても、じつは、その状態になり得る、ということを意味するに過ぎない。
  4. そのモノ時間的全体においては、混濁したり、眠ったりするモノであり、それらの状態までも見通すのでなければ、透明であるとは言えない。
  5. 透明な状態では、生活しつつあるモノではない。むしろ《混濁》である方が、この《今・ここの・このモノ》の全体性に近い。
  6. 《今・ここの・このモノ》《混濁しつつあるモノ》として捉える方が、そのモノの全体性に近い。

《今・ここの・このモノ》《今・ここの・このヒト》

  1. 《今・ここの・このモノ》ヒトか? 『ヒト』という種類のモノである。《今・ここの・このモノ》はその時間の全体性において、大部分の時間を『ヒト』として動いている。《今・ここの・このモノ》は、その時間的全体性において《今・ここの・このヒト》である。《相変異》。《今・ここの・このヒト》は《相変異》を通じて《今・ここの・このモノ》になるが、それは一時的な状態である。《今・ここの・このモノ》が一時的に《今・ここの・このヒト》になるのか? 相変異は《ドメイン》の移行であり、《ドメイン》はそれぞれの原理に基づいて世界を構成している、ヒトの《ドメイン》の原理においては《今・ここの・このヒト》が本来の姿であり、モノの《ドメイン》においては《今・ここの・このモノ》が本来の姿である。《視点》の移行、多次元輪郭空間。絶対者の《視点》を出発点とするなら、モノの《ドメイン》における《今・ここの・このモノ》《視点》が出発点となる。《視点のパラメータ》
  2. ヒトとしての《今・ここの・このモノ》《今・ここの・このヒト》という。
  3. 《今・ここの・このヒト》の状態は、《思いこみ》入り込みつつある状態である。『ヒト』の《思いこみの世界》に《入り込みつつあるモノ》である。
  4. 8次元の16個の座標軸方向の無限遠点《浄化球》を置いて《浄化》する。
    1. 8次元時空の全ての方向の無限遠点《浄化球》を置いて、《浄化》する、と。
    2. 無限遠点が崩壊して、再び《混濁》に陥る。
    3. 結局《このヒト》でしかない。『結局《このヒト》でしかない』ということを認めたくないのだ。そうではない、『結局《このヒト》でしかない』ということを認めても、では、《このヒト》はどういう世界の中にあるのか、の見通しが必要になるのだ。崩壊によって生じた《混濁》を浄化せよ、《浄化》→崩壊→《混濁》《浄化》無限ループを実践せよ。

《今・ここの・このモノ》と虚数の座標軸

  1. 《今・ここの・このモノ》は3次元の空間と1次元の時間軸の中にある。が、マイナスの距離とマイナスの時間距離をもたらす虚数の座標軸の中にもある。全部で8個の座標軸の原点にある。
  2. 《他者》は複素数の座標軸の原点である。《他者》にも虚数軸の時空がある。
  3. 《私》は実空間の中の《他者》の虚空間を見通すことによって、複素数空間の中に《他者》《思いこみ》を見る。
  4. 《私》《思いこみ》虚数軸の世界)の中から実空間の中の《他者》を見通すことによって、複素数空間のなかに《他者》を見る。
  5. 複素数の時空8次元時空
  6. 虚数空間は、《思いこみ》か?、《背後者》か? 定義からすると、《背後者》である。原点から実空間を見通すのはプラスの距離に見通すこと、そのプラスを減じていくと、0になり、マイナスの距離世界(距離の二乗がマイナスになる世界)になる。虚数の距離世界である。
  7. 実数の距離の世界虚数の距離世界の統一体が複素数の距離の世界であり、8次元の時空である。

《今・ここの・このモノ》と死者たち

  1. 二郎おじちゃんが死んじゃった、斉藤のおじいさんも死んじゃった、おともおばさんも死んじゃった。でも死んでいない。
  2. 《他者》というのは、《私》《思いこみ》の中で、『生きたヒト』という確信を伴ったヒトである。
  3. 空間的に離れているヒト時間的に離れているヒトとは、どこに違いがあるのか?
  4. 再会の可能性? って、ない人もたくさんいる。
  5. 心の中で語り合うには、むしろ、モノとしての実体のない人のほうが、容易である。『実は違うのではないか?』という疑いを持つことなしに、語り合うことができるからである。

《今・ここの・このモノ》《他者》

  1. 《今・ここの・このモノ》《他者》との共通性を有する。
  2. 《今・ここの・このモノ》《他者》との共感関係にある。共振関係にある。
  3. 《今・ここの・このモノ》コトバを発することができるモノである。
  4. 《今・ここの・このモノ》《身体》の内部においてコトバを転がすことができるモノである。《他者》は、おそらく、同様に、彼の《身体》の内部においてコトバを転がすことができるモノであろう。
  5. 《今・ここの・このモノ》《他者》との接触によって『彼はxxと思っている』という《思いこみ》を生じる。《他者》もまた、おそらく、《今・ここの・このモノ》との接触によって『彼はxxと思っている』という《思いこみ》を生じるのであろう。
  6. 《他者》との共通性・共感性における《今・ここの・このモノ》《今・ここの・このヒト》と呼ぶ。

《今・ここの・このモノ》《知りつつあるモノ》

  1. 《今・ここの・このモノ》《視点》《知りつつあるモノ》《視点》とでは異なる。
  2. 《今・ここの・このモノ》《知りつつあるモノ》」はある。が、最初の《知りつつあるモノ》とは異なる。
  3. 最初の《知りつつあるモノ》世界の中心であり、中心としての存在感を持った《知りつつあるモノ》である。
  4. 《今・ここの・このモノ》《知りつつあるモノ》」は、忘れられたモノであり、忌避すべきモノであり、せいぜい、《今・ここの・このモノ》の内部での《思いこみ》循環の一つの通過点に過ぎない。

《今・ここの・このモノ》《今・ここの・このヒト》

  1. 《今・ここの・このモノ》ヒトという種類のモノである。従って、《今・ここの・このヒト》である。・・そうではない。『ヒト』という種類が先にあるのではない。《今・ここの・このモノ》《他者》との共通性を抽出して、『ヒト』という種類の《思いこみ》を導くのである。
  2. 《今・ここの・このモノ》《今・ここの・このヒト》《アニマ》である。
  3. 《今・ここの・このヒト》《アニマ》は空の《身体》である。
  4. 《今・ここの・このヒト》《アニマ》《共振しつつある身体》である。
  5. 《今・ここの・このヒト》《アニマ》《知りつつあるモノ》である。
  6. 《今・ここの・このヒト》《アニマ》は歩きつつあるモノである。
  7. 《今・ここの・このヒト》《アニマ》は眠りつつあるモノである。
  8. 《今・ここの・このヒト》《アニマ》は食事しつつあるモノである。
  9. 《今・ここの・このヒト》《アニマ》コトバを転がしつつあるモノである。
  10. 《今・ここの・このヒト》《アニマ》《他者のコトバ》に押しつぶされつつあるモノである。
  11. 《今・ここの・このヒト》《アニマ》《今・ここの・このモノ》《アニマ》とではどう違うのか? 《今・ここの・このモノ》《アニマ》ヒトとしての《他者》を拒否しつつあるモノである。《今・ここの・このヒト》《アニマ》ヒトとしての《他者》を共感しつつあるモノである。
  12. 《今・ここの・このヒト》《アニマ》《ヒトのアニマ》である。ヒトとして生活しつつあるモノ《アニマ》である。
  13. 《今・ここの・このモノ》ヒトという種類のモノか? 『ヒトという種類』という《思いこみ》に依存しているのではないか? モノは『種類』に分類可能か? 『(ヒトという)種類』という《思いこみ》とは?
  14. 《今・ここの・このヒト》《視点》《同質者公理》《視点》である。《今・ここの・このモノ》《視点》《特別者公理》《視点》である。
  15. 《今・ここの・このモノ》《視点》は、《知りつつあるモノ》モノとの同質性に基づいた《視点》であり、その意味では《同質者公理》に基づく《視点》である。
  16. 《今・ここの・このヒト》という《視点》は、《今・ここの・このモノ》《他者》とが似ている、という限度において、その共通性の限度において、その共通性を『ヒト』と呼んでいるに過ぎない。『ヒト』という種類の《思いこみ》があって分類されたモノではなく、共通性を抽出して見通しモノを『ヒト』という《思いこみ》にまとめていくのである。

《今・ここの・このモノ》《他者のコトバの世界》

  1. 《知りつつあるモノ》は、《他者のコトバの世界》入り込むと《今・ここの・このモノ》見失う。
  2. 《モノの世界》《他者のコトバの世界》
  3. 《他者のコトバの世界》は、多数の《他者》噴出する多数のコトバの、動的で予測不可能なカオス世界である。本質的にはカオスだが、ある程度予測可能。《私》に定型的な反応を要求する《アニマ》である。
  4. 『仕事』《他者のコトバの世界》である。
  5. 書籍は《他者のコトバの世界》である。
  6. インターネットは《他者のコトバの世界》である。
  7. 法律は《他者のコトバの世界》である。
  8. 論理は《他者のコトバの世界》である。
  9. テレビ《他者のコトバの世界》である。
  10. 人ごみは《他者のコトバの世界》である。《他者》《身体》の出現自体が《他者》コトバである。
  11. 《他者の思いこみの世界》。《世界アニマ》

俳句は《今・ここの・このモノ》の記録である。

Last modified:2017/05/07 03:14:31
Keyword(s):
References:[《今ここのモノ》] [《混濁しつつある身体》] [《私》]