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《呼吸停止の実験》

《呼吸停止の実験》

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定義

記述

区別

MLより

[qualia:7547] 《思惟しつつあるモノ》の《背後者としての身体》、呼吸停止の実験← 私がこの身體なしに存在し得るといふこと

たけ(tk)です。

[qualia:7538] 私がこの身體なしに存在し得るといふこと にて ジャック天野 <fwappy@hotmail.com> さん 曰く:

> > 實際に區別せられたものであるといふこと、そして私がこの身體なしに
> > 存在し得るといふことは、確かである。
>
> つまり主体としての私と、身体との対応に、何ら論理的な関係を
> 見出せないから、主体としての私は身体なくしても存在すると
> 考えることができる、といってるんでしょう。

「私がこの身體なしに存在し得る」かどうかは、簡単な実験で調べることができ る。

30秒間息を止めるという実験をすればよい。

実験をしてみれば、「論理的な関係を見いだせない」はずの身体が呼吸という動 きを止めることによって、《思惟しつつあるモノ》は撹乱され、最後には錯乱状 態になって呼吸を再開することを懇願するようになるだろう。

では、《思惟しつつあるモノ》を撹乱する力は、《思惟しつつあるモノ》から見 てどの方向から与えられるのか?

《思惟しつつあるモノ》を撹乱する力は、《知られつつあるモノ》としての《身 体》から、感覚や知覚可能な経路を通って《思惟しつつあるモノ》に伝わるわけ ではない。

《思惟しつつあるモノ》の背後から、巨大な圧力となって《思惟しつつあるモノ》 を錯乱させるのである。(たぶん・・)。

デカルトの《我》《思惟しつつあるモノ》=は《背後者》としての《身体》の 存在に気づくべきであると思う。

[qualia:7551] 実証は論証に非ず(Re: 呼吸停止の実験)

たけ(tk)氏:

> 「私がこの身體なしに存在し得る」かどうかは、
> 簡単な実験で調べることができる。
>
> 30秒間息を止めるという実験をすればよい。
>
> 実験をしてみれば、「論理的な関係を見いだせない」
> はずの身体が呼吸という動きを止めることによって、
>《思惟しつつあるモノ》は撹乱され、最後には錯乱状態
> になって呼吸を再開することを懇願するようになるだろう。

tk氏は実証は論証だと考えているようだが これは基本的かつ初歩的な誤りである。

呼吸停止によって意識が失われるとしても それは身体と精神の間の関係が論理的に 示せるわけではない。あくまで神秘的に 示されるだけである。

> 《思惟しつつあるモノ》を撹乱する力は、
> 《知られつつあるモノ》としての《身体》から、
> 感覚や知覚可能な経路を通って
> 《思惟しつつあるモノ》に伝わるわけではない。

これが「論理的関係」がない、ということ。

> 《思惟しつつあるモノ》の背後から、
> 巨大な圧力となって《思惟しつつあるモノ》を
> 錯乱させるのである。(たぶん・・)。

そして、これが非論理的な「神秘的関係」ということ。

> デカルトの《我》=《思惟しつつあるモノ》=は
>《背後者》としての《身体》の存在に
>気づくべきであると思う。

tk氏のいう《背後者》は実は《身体》ではない。 身体と精神をつなぐ論理では表せない 神秘的関係である。

[qualia:7554] 仮説の検証は神秘の追認

ジャック天野です。

ネット界の***レスといわれる私は 最近ゴミ箱あさりが趣味になってしまいました。 tkさんのところには私好みのゴミが沢山でるので嬉しいです(w

http://wiki.fdiary.net/moikomi/?%A5%B4%A5%DF%C8%A2

> 論証よりも、仮説と検証の方法をとるべき。
> 仮説と検証は神秘主義を越える。

科学は論理ではない。それが私の一番言いたいことです。 科学における基本法則の根拠は論理からは決して得られません。 それは実験という神秘的体験(笑)から得られるのです。

仮説の検証は、神秘主義を超えるものではなく むしろドップリと神秘に浸かって それを意識しなくなることなのです。

理解するということは実は慣れることなのです。 慣れたからといって神秘が神秘でなくなるわけではない。 神秘とは驚きのことではないのです。

なお、いわゆる超常現象云々が胡散臭いのは、 それが神秘的だからではなく実際には起きてないことを 起きているかのように騒ぎ立てるからです。

MLより

[qualia:8852] 呼吸停止の実験←意識の前提。《ブッダの「一切」》←「一切は意識」

> そもそも、意識に何らの前提も必要としない。

意識には身体が呼吸していることが前提のような気がするんですが、どうなんでしょう?

ためしに、「意識に何らの前提も必要としない、かどうか?」と念じながら、30秒ほど息を止めてみると、たけ(tk)の場合には意識が錯乱状態になります。

この実験で生じる現象と「意識に何らの前提も必要としない」との関係はどうなりますでしょうか?

[qualia:8854] 呼吸停止は何を明らかにするのか?

私:

> > そもそも、意識に何らの前提も必要としない。

tk氏:

> 意識には身体が呼吸していることが前提のような気がするんですが、
> どうなんでしょう?

それは前提ではない。

単に呼吸していない身体を意識することがないだけである。

> ためしに、
>「意識に何らの前提も必要としない、かどうか?」
>と念じながら、30秒ほど息を止めてみると、
>たけ(tk)の場合には意識が錯乱状態になります。

だからなんなんだろう?

> この実験で生じる現象と
>「意識に何らの前提も必要としない」
> との関係はどうなりますでしょうか?

「意識と身体の間には共時的関係がある」 という主張は 「身体なくして意識は存在しない」 という主張とは同じではない。

重要なのは共時的関係である。

つまり身体を意識から切り離した瞬間 「心脳問題」は問題ではなくなる。 心がなくなるのだから。

[qualia:8865] 《呼吸停止の実験》への《絶対者公理》からの解

たけ(tk)です。

[qualia:8854] 呼吸停止は何を明らかにするのか? にて

Jacques_Amano <fixpoint@hotmail.co.jp> さん 曰く:

> > ためしに、
> >「意識に何らの前提も必要としない、かどうか?」
> >と念じながら、30秒ほど息を止めてみると、
> >たけ(tk)の場合には意識が錯乱状態になります。
・・
> > この実験で生じる現象と
> >「意識に何らの前提も必要としない」
> > との関係はどうなりますでしょうか?
・・
> つまり身体を意識から切り離した瞬間
> 「心脳問題」は問題ではなくなる。
> 心がなくなるのだから。

いまいち意味が採りづらいが、《呼吸停止の実験》への《絶対者公理》からの解 は次のようになるだろう。

《絶対者公理》曰く:《呼吸停止の実験》で意識が錯乱状態になったとしても、 その錯乱状態は意識されたものである。従って、意識なしには錯乱状態が意識さ れることはない。意識なしには「錯乱状態がある」とも「錯乱状態はない」とも 言えない。同様に、意識なしには「《呼吸停止の実験》によって意識が錯乱状態 に陥るという因果関係」が在るとも、ないとも言えない。

これに対する《相対者公理》からの見解は・・・

[qualia:8868] 意識なしには何も理解できない

tk氏:

>《絶対者公理》曰く:
>意識なしには錯乱状態が意識されることはない。
>意識なしには「錯乱状態がある」とも「錯乱状態はない」とも言えない。
>同様に、意識なしには
>「《呼吸停止の実験》によって意識が錯乱状態に陥るという因果関係」
>が在るとも、ないとも言えない。

呼吸停止の実験によって、意識と身体の間にある共時的関係が 成立しなくなることはいえるかもしれない。 この場合、重要なのは共時的関係である。関係を無視した身体ではない。

「意識についても同じではないか?」といわれるかもしれない。 しかしながら、身体は意識現象の一部なのであって、 意識とは対等というわけではない。

意識が身体を実現するという不可思議については探求のしようがあるが 意識ぬきに身体なるものが存在して、それが意識を実現するとかいうのは 探求のしようがない。

検索

《息しつつあるモノ》 - [#《息しつつあるモノ》《知りつつあるモノ》との関係を、《呼吸停止の実験》で確かめてみた。《息しつつあるモノ》が呼吸を止めると、《知りつつあるモノ》は背後から撹乱される、というような関係があることが分かった。なにやら、《知りつつあるモノ》《息しつつあるモノ》との間には秘密の繋がりが在るようである。]

《ユートピア》と《ベーシック・インカム》 - [#人間の欲求はさまざまであり、本性と呼べるような欲求はない。あるとすれば、「生きる意思」(呼吸停止の実験で自覚されるような欲求)であろうか。]

今・ここ - [《ちから》 - [《今・ここの・この肉の塊》 - [《選びつつあるモノ》 - [#《私》が『呼吸停止の実験をしてみよう』と思って、しばらく息を止めて観察するのは、選択である、か? そういう《思いこみ》が生じたのは《背後者》からの《ちから》の故であるかもしれない。《私》がこの《肉の塊》であるなら、この《肉の塊》の内部に在る《背後者》も含めたモノ《私》である。《背後者》も含めて考えれば、《私》《選びつつあるモノ》である。]]]]

《今・ここの・この肉の塊》 - [《選びつつあるモノ》 - [#《私》が『呼吸停止の実験をしてみよう』と思って、しばらく息を止めて観察するのは、選択である、か? そういう《思いこみ》が生じたのは《背後者》からの《ちから》の故であるかもしれない。《私》がこの《肉の塊》であるなら、この《肉の塊》の内部に在る《背後者》も含めたモノ《私》である。《背後者》も含めて考えれば、《私》《選びつつあるモノ》である。]]

動かしつつあるモノ - [#呼吸停止の実験で自覚的呼吸を《操りつつあるモノ》は、《息しつつあるモノ》である。]

《ちから》 - [《今・ここの・この肉の塊》 - [《選びつつあるモノ》 - [#《私》が『呼吸停止の実験をしてみよう』と思って、しばらく息を止めて観察するのは、選択である、か? そういう《思いこみ》が生じたのは《背後者》からの《ちから》の故であるかもしれない。《私》がこの《肉の塊》であるなら、この《肉の塊》の内部に在る《背後者》も含めたモノ《私》である。《背後者》も含めて考えれば、《私》《選びつつあるモノ》である。]]]

概要 - [##《知りつつあるモノ》が背後から影響を受けていることを実験的に確かめるためには《呼吸停止の実験》をしてみるとよい。《知りつつあるモノ》は背後から影響を受けて錯乱状態になるだろう。]

古い概要1 - [##《呼吸停止の実験》を行うと、《知りつつあるモノ》は錯乱状態になる。]

ゴミ箱2007-06 - [#しかし、「何らかの関係」を我々は知ることができる。《呼吸停止の実験》は意識を錯乱状態に陥らせる、という関係を知ることができる。「身体の状態は意識の状態に影響を及ぼす」「身体状態が原因となって、意識状態に結果を及ぼす」という関係を知ることになる。]

cogito, ergo sum. - [#《思惟しつつあるモノ》には物体的な属性がない、というコトへの反証は、呼吸停止の実験を行ってみればよい。「《思惟しつつあるモノ》には物体的な属性がない」と念じつつ、呼吸という物体的な《動き》を30秒間停止してみればよい。]

《選びつつあるモノ》 - [#《私》が『呼吸停止の実験をしてみよう』と思って、しばらく息を止めて観察するのは、選択である、か? そういう《思いこみ》が生じたのは《背後者》からの《ちから》の故であるかもしれない。《私》がこの《肉の塊》であるなら、この《肉の塊》の内部に在る《背後者》も含めたモノ《私》である。《背後者》も含めて考えれば、《私》《選びつつあるモノ》である。]

多次元輪郭空間 - [呼吸停止の実験は、《今・ここの・この視点》から見ると主観的体験である。《今・ここの・この視点》から《脳科学の視点》を通してみると、ニューロンの現象である。《今・ここの・この視点》から《他者》《視点》を通してみると、アホな変人の奇妙な行動である。]

ゴミ箱2006-05 - [[qualia:7551] 実証は論証に非ず(Re: 呼吸停止の実験)]

ゴミ箱2006-04 - [[qualia:7550] Re: 《思惟しつつあるモノ》の《背後者としての身体》、呼吸停止の実験← 私がこの身體なしに存在し得るといふこと]

ゴミ箱2005-07 - [#私にとって《息しつつあるモノ》(身体)は必要である。その必要性を、呼吸停止の実験によって実感せよ。]

《混濁の世界》の《認識限界》と《背後者》 - [## 呼吸停止の実験]

《背後者》への見通し - [!!呼吸停止の実験]

Last modified:2008/01/10 23:00:02
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References:[《呼吸停止の実験》] [《混濁しつつある身体》] [《息しつつあるモノ》]