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《群生相》

《群生相》《孤独相》に関する疑問

  1. 子どもや、子供っぽい大人は、他者との比較にこだわる。ということは、生来的には、ずっと、《群生相》に在るということではないか?○:一番分かりやすい、見られつつあるものは、世界は、体外世界であり、対人世界である。。×:。

《群生相》《孤独相》とは

  1. 仕事に行く時、一人の部屋から出て、駅まで歩き、電車に乗り、事務所まで歩き、事務所のドアをあける。《孤独相》から《群生相》に移行して行く。
  1. たけ(tk)は、子供のころから、人々の中にいるときの自分と、部屋に閉じこもったときの自分とでは、別のモノだと思っていた。人々の中にいるときの自分を《群生相》と呼び、部屋に閉じこもったときの自分を《孤独相》と呼ぶ。
  1. http://www5e.biglobe.ne.jp/~kurenai-/ominaeshi.htm
    1.  大量発生したイナゴが大群を作って飛びながら移動し、農作物に深刻な被害を与える事は勿論、草原や森林を裸にしてしまうという現象がある事は皆さんも御存知ではないかと思います。イナゴの大群についての記述は聖書にもありますが、現在ではアフリカ大陸の農業国などでは、深刻な問題の一つです。十数年前には、我が国でも、とある無人島でイナゴの大発生のニュースがあった事を憶えています。
    2.  これらの大群を作るイナゴは、突然現れる新種ではなく、ごく普通のバッタが、ある条件を得ると、群れをなして飛行するように体質変化を起こす事によって発生します。狭い地域に大量のバッタが集まると、恐らくは餌不足の解消の為に、跳ねる事よりは長時間の飛行に適した体に変質する訳です。アフリカでは、雨期後に大量に孵化したサバクトビバッタがイナゴの群れとなりますが、日本では、トノサマバッタがイナゴの群れになる可能性を持っているようです。学術的には、単独で跳ねているバッタを「孤独相」、イナゴの大群となって飛ぶバッタを「群生相」と呼んで区別しています。

区別

《特別者公理》《視点》《相対者公理》《視点》

  1. 現象学 - [たけ(tk)はフッサールのように《知りつつあるモノ》の視点での記述から始めているが、それは《特別者公理》世界であろうと見ている。それに対峙するように《同質者公理》をぶつけて新たな視点を開きたいと思っている。]
  2. 《特別者公理》《視点》は、『私』《内からの視点》である。《絶対者公理》《視点》《孤独相》での《視点》である。
  3. 《相対者公理》《視点》は、『私』《外からの視点》である。《相対者公理》《視点》《群生相》での《視点》である。
  4. 《健常者》《視点》は、『私』の《表面からの視点》なのか?
  5. しかし、なんで《特別者公理》《相対者公理》なのか?
  6. おそらく、たけ(tk)は、《孤独相》《群生相》との分離において、《群生相》での『自我』を放棄してしまったのだろう。それで『私』の《表面からの視点》を失って、『私』《外からの視点》もどきの、へんな、《視点》になってしまった。しかし、残念ながら、『私』《外からの視点》は失敗したのだ。全然、『私』が見えない状態に陥った。

《群生相》《体内直知時空》

  1. 《群生相》からの《息しつつあるモノ》への《連想のトンネル》はできた。
  2. しかし、《息しつつあるモノ》への《見通し》を維持しようとすると、眠ってしまう。ように見える。
  3. しかし、体外感覚を残すと、うまく繋がらなくなる。
  4. 《群生相》においては《視点》が生体遊離しているのだ。幽体離脱というのが一般的らしい・・ってゆうか、全然意味が違うが・・。

《息しつつあるモノ》《群生相》

  1. 《孤独相》《息しつつあるモノ》にとって《群生相》記憶である。《思い描き》である。《記憶》《背後者》からの《噴出》である。
  2. 《息しつつあるモノの世界》《視点》からみれば、《群生相》《孤独相》の違いは、《私》の違いではなく、《世界》の違いである。《他者》の現存の程度の違いである。《世界》における《他者》の現存性の程度の軸という座標軸の発見である。
  3. 《私》の探求は《あなた》にとっては『意味』がない。なぜなら、《あなた》は《私》ではないからだ。
  4. 《群生相》《私》への《外からの視点》である。《孤独相》《私》への《内からの視点》である。
  5. 《混濁》は、《群生相》からの《孤独相》への《相変異》の一つの形態であった。
  6. 《群生相》《孤独相》《世界》の違いである。しかし、《世界》の違いは《私》に《相変異》を引き起こす。
    1. 《群生相》においては《私》への《視点》《私》の外にでる。
    2. 《孤独相》においては《私》への《視点》《私》の中に入る。
    3. 《群生相》においては《私》からの《視点》《混濁しつつある身体》の表面にあり、《私》《世界》の中に見つける。《群生相》における《視点》は生体遊離の《視点》であり、《客観》の《視点》である。デカルトの幽霊(「我」)の《視点》である。《視点》《世界》の外にあり、《世界》『一切』を客観的に理解する《視点》である。ただし、ただ一つのものを除いて。《我》を除いては、『一切』を理解する《視点》である。《群生相》《世界》には、あるはずのモノが無い。《群生相》《世界》には、あるはずの《我》がない。《群生相》においては、《私》《身体》は、理解に従って自動的に動く機械でしかない。《私》《身体》《我》ではない。《群生相》における《私》《身体》には《我》が無い。《私》《群生相》《欲求実現手段》であるべきだったのだろうか? 《群生相》《欲求》とは? 《身近な人びと》の細々とした葛藤、複数の個体のそれぞれの《欲求》の衝突の解消が《群生相》《欲求》であった。なんと、細かいことよ。爪の垢ほどの価値しかない《欲求》に奉仕せよと?
    4. 《孤独相》においては《私》からの《視点》《混濁しつつある身体》の中にあり、《私》《世界》の中心に見つける。

《群生相》《混濁》

  1. 《混濁》《群生相》における《孤独相》噴出であった。

タカウゴ《群生相》

  1. タカウゴ《他者からの思いこみ》《動きつつあるモノ》との《繋がり》)は《群生相》『一切』であるか? ○:。×:。
  2. 《他者からの思いこみ》《動きつつあるモノ》《繋がり》は、《孤独相》においてもある。モノからの《他者からの思いこみ》もある。モノへの《動きつつあるモノ》もある。

《群生相》における《思いこみの世界》

  1. 《群生相》における《思いこみの世界》とどう向き合うか、という問題。
  2. 《群生相》における《思いこみの世界》とは、『そのように思い込むと、うまく立ち回ることができる』と個体的経験から確信している《思いこみの世界》である。

《群生相》と《対話相》

  1. たけ(tk)《群生相》と《対話相》と《孤独相》
  2. 《群生相》は《対話相》の準備モードである。
  3. 《対話相》とはなにか?
  4. 《対話相》においては、無意識的な、無制御的な、対話が為される。
  5. 相手があることだから、制御するのは無理である。即応しなければならないので、制御している時間はない。制御すれば不自然な対話になる。意図的な対話になる。
  6. 専門分野において、相手に対して慎重にコトバを選んで語りかける必要がある場合には、意図的な対話である。相手のコトバも、専門的な解釈を経由して理解し、そのコトバに対して、専門的な知見から目標を立て、コトバを選んで、語りかける。しかし、そういった対話は、自然な対話であるとは言えない。
  7. 《群生相》においては、《他者》が見えているので、《他者》からの語りかけに準備し、身構えており、《他者》を観察して、どのような意図で彼が動いているのかを観察している。
  8. 《群生相》における観察と《動き》は、それ自体として対話であるか? かもね。

《繋がりつつある肉の塊》《群生相》

  1. 《繋がりつつある肉の塊》《群生相》における《私》のあり方である。
  2. 《孤独相》においても、《群生相》記憶がある。
  3. 《孤独相》における《肉の塊》は、《群生相》における《肉の塊》と継続性が在る。

《群生相》《視点》《孤独相》《視点》

  1. 「われわれの想像力は、苦痛と悲哀の中にあっては、我々自身の身に限定され閉じこめられるように思われるが、安楽と繁栄のときにおいては、われわれをとりまくすべてのものに、広がる」『道徳感情論』下、p.21。
  2. 対自的かつ対他的な《視点》。反省的かつ積極的な《視点》。対自他的な《視点》。自他超越的な《視点》
  3. 「成長欲求」は《孤独相》《視点》か?

《群生相》と虚栄欲求、関係欲求。

  1. 《孤独相》においては、虚栄欲求は意味を為さない。関係欲求は意味を為さない。『道徳感情論』下、p.20。
  2. 《群生準備相》においては、意味を持つ。《群生準備相》は、《群生相》《思いこみ》の中にある。
  3. 虚栄欲求は、他者からの評価への欲求である。他者からの評価は、大きな《快》である。まあ、それだけだな。
  4. 社会的成功者が、死に近づいて衰弱したときに、《孤独相》に引きこまれる。その時に、虚栄欲求の空しさを悟る。
  5. 人類が絶滅に近づいて衰弱したときに、《孤独相》に引きこまれ、人類文明の繁栄の空しさを悟る。

《群生相》と《自灯明

  1. 群生相においては自灯明は他者の身体の中にある。
  2. 群生相においては、私の身体は、他者のコトバに反応する仕組みに過ぎない。

《群生相》《孤独相》、《睡眠相》、《性行為相》

  1. どのように違うのか、それぞれ、どのようなモノか?

《群生相》と《鏡像感覚》

  1. 共感は鏡像感覚である。
  2. この《肉の塊》は鏡像感覚を持つ。あの《肉の塊》は鏡像感覚を持つ。
  3. スネのレベルでの鏡像感覚には、自他の質的差異は見当たらない。か?
  4. 下腹部のレベルでの鏡像感覚には、男女の差異はあるが、それ以上の差異はない、か?
  5. あの《肉の塊》からの鏡像感覚への《感じ合い》への《見通し》

《群生相》《求める思いこみ》

  1. ヒト《群生相》は、《求める思いこみ》によって維持されている。

《群生相》《他者のコトバ》

  1. 《群生相》《他者のコトバ》を実現する《ヒト動き》である。

《群生相》《肉の塊》

  1. 群生相では、この肉の塊との接点が見当たらない。足下の浄化球との接点も見当たらない。
  2. 群生相の無限遠点の浄化球。
  3. 見通しの層と感じあいの層。層を区切る壁。人々の固定観念。

《群生相》『一切』

  1. 《群生相》『一切』は、《私》《思いこみ》《他者》《思いこみ》である。
  2. 《群生相》においても『一切』が、六処であることには変わりはない。ただし、「心の作用」が大きな位置を占めるようになること。「心の作用」が、《他者》の「心の作用」と《私》の「心の作用」の相互作用に変質すること、に特徴がある。《他者のコトバ》への即応体制、待機状態、準備状態になる。
  3. ヒトの「心の作用」は、《群生相》におけるそれであろう。ヒトは孤独を恐れ、孤独を紛らわそうとする。《寂しさ》は否定的な感情であると、思われている。
  4. 『個人主義』は《群生相》における《思いこみ》の一つの形であろう。《共有思いこみ》の一つの形であろう。日本的な『隠遁的個人主義』、吉田兼好。芭蕉。《ヒトの群れ》から孤立した場所での個人の確立。西洋的な個人主義も、個室から始まる。プライベート空間を各人が持っている、各人はプライベート空間と、パブリック空間とを持っており、その境界にパーソナリティという建物がある、という構造の西洋的な個人主義。各人は、《ヒトの群れ》に対して受動的に振る舞う《わたくし》であるか、《ヒトの群れ》に能動的に振る舞う《おおやけ》であるか、《ヒトの群れ》から隠遁した個人であるか、という選択的な、日本的な個人主義。『詫び寂びの個人主義』。詫び寂びにおいて、始めて個人の全体性が回復される、という『個人主義』。建物型の個人主義、なんとか庵。仮面型の個人主義。防衛的で動かない、働きかけない個人主義と、能動的に働きかける個人主義。仮面型の個人主義では、個人の全体性を回復しない、救済には繋がらない、という考え方。仮面型の参加と、《おおやけ》の参加。滅私奉公的な《おおやけ》への参加。プレイヤーとしての仮面型の参加、審判としての《おおやけ》型の参加。ルールの下のプレイヤー、ルーラーとしての《おおやけ》。プレイヤーか、部品か? すべてのヒトが同一のルールの下に在る《ヒトの群れ》か、ルールの下のヒトと、ルールの上のヒトで成り立つ《ヒトの群れ》か。ルールのイメージが違う。
  5. 《群生相》での《思いこみ》は、《孤独相》では存在理由を失う。
  6. 《孤独相》《群生相》への準備状態であるかぎりにおいて、《群生相》での《思いこみ》は意味を持つ。
  7. 孤独者の著作を読むことは、《群生相》における、《孤独相》への準備状態である。
  8. 孤独者の著作は対話ではない。独白である。独白が出版によって伝達されたモノである。
  9. 《群生相》では、この《肉の塊》との接点が見当たらない。足下の浄化球との接点も見当たらない。
  10. 《群生相》無限遠点の浄化球。
  11. 《見通し》の層と《感じあい》の層。層を区切る壁。人々の固定観念。

《群生相》《動きつつあるモノ》

  1. 《群生相》における《動き》とは、《他者》への《働きかけ》である。
  2. 《今・ここの・このモノ》《孤独相》である。《今・ここ》には《群生相》《動きつつあるモノ》はない。《今・ここ》には《孤独相》からの、《群生相》での《動点》への《見通し》が在るだけ。
  3. 《孤独相》における《動き》とは、モノ《思いこみ》に対する《働きかけ》である。
  4. たけ(tk)は、《群生相》における《動き》《他者》に対する《働きかけ》を嫌悪する。
  5. 「行動」というコトバは、《群生相》における《動き》を意味する。
  6. 《他者》の眼前における《動き》は、《他者》への《パフォーマンス》である。人に知られる可能性があることを知って行う《動き》《他者》への《パフォーマンス》である。《プレゼンス》?
  7. 《群生相》の中の《視点》《群生相》からの《視点》
  8. 「無為の時間」と言うのは、無為の《群生相》からの《視点》である。自らからの働きかけを放棄した《群生相》からの《視点》である。
  9. 能動的な働きかけを放棄した《動き》も、行動である。受動的な行動も、能動的な選択の帰結である。

《ブッダの「一切」》と群生相、『一切』への《見通し》

  1. 「あの《肉の塊》からの『一切』への《見通し》」は「この《肉の塊》からの『一切』への《見通し》」とは違いが在る。「この」の場合には、《今・ここ》の6処世界『一切』であるが、「あの」の場合には、12因縁や《背後者》や彼の記憶なども、《見通し》の中に現れてくる。((なんでだろ?))。「あの」は《群生相》であり、「この」の原イメージは《孤独相》であるからか? 「あの」は外部からの鏡を経由した《見通し》であるのに対し、「この」はモノの内部からの《見通し》であるからか?
  2. 《群生相》における『一切』への《見通し》には、あの《肉の塊》からの『一切』への《見通し》への《見通し》も含まれる。《群生相》においては、「あの《肉の塊》からの『一切』への《見通し》」からのクオリアが現れる。
  3. 《群生相》における『一切』とはどのようなモノか?
  4. 《群生相》においては、この《肉の塊》は、《他者のコトバ》への応答状態に在るか、応答への待機状態に在る。
  5. 《群生相》においては、この《肉の塊》の「心の作用」は、《他者》との《感じ合い》として現れる。
  6. 《ブッダの「一切」》は群生相の問題を処理できない。?
  7. 群生相においては、《肉の塊》は、《他者のコトバ》への即応体制にある。
  8. 群生相における《ブッダの「一切」》と、孤独相における《ブッダの「一切」》とは、別のモノとして並立している。唯一性を欠く。どちらの《ブッダの「一切」》『一切』ではない。
  9. 群生相における《ブッダの「一切」》はあり得るか?
  10. 《他者》の「心の作用」のクオリアに対する《私》の「心の作用」。
  11. 《他者》の「心の作用」と《私》の「心の作用」の相互作用としての、《他者》《私》の「心の相互作用」。《私たち》の「心の作用」。《私》《拡大身体》としての《私たち》の「心の作用」。《私たち》は一時的に存在するモノである。
  12. 群生相における現象を、在るがままに見よ。
  13. http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_3.html
    1. もし、自己や世界をあるがままに観察し、「これはわれに属するものではない、これはわれではない、これはわれのアートマンではない」と知るならば、自己や世界に関する誤った見方を捨てることができるであろう。(マッジマニカーヤ 8:3)
    2. このような「あるがままにこれを見なければならぬ」という表現には、アートマンや永遠不変の魂などの観念は、あるがままにものを観察した結果ではなく、そこに「あって欲しい」と願う人間の執着心の産物である、というブッダの批判が含意されています。自己や世界に関する誤った見方とは、いうまでもなく、自己や世界を無常であるとあるがままに観察せず、観察できない常住不変なる何者かを、存在の「背後」や「根底」に読み込もうとする見方のことです。

群生相と《群生相》

  1. トノサマバッタの群生相と、たけ(tk)《群生相》

群生相と、たけ(tk)

  1. たけ(tk)の人生における最大の難問は、群生相と孤独相のギャップである。
  2. たけ(tk)には孤独相における記憶しかない。《ヒトの群れ》の中にあっても、ふと我に返った瞬間の、《群れ》の中の孤独、という孤独相においてしか、記憶がない。幼稚園のときの鋸の恐怖、小学校の新入生歓迎演説、鏡の恐怖、中学・・
  3. 群生相における《他者》記憶はあるが、群生相における《私》記憶はない。まあ、初恋のヒト、みたいな、関係では、《他者》に対してときめいた、という記憶はあるか・・。しかし、為す術を知らなかった、と言う感じだな。《私》は群生相において、為す術を知らなかった、という記憶はある。
  4. 《私》は群生相において、相手にあわせる、ことしかしていない。まあ、誰でも、そんなものかもしれないが・・。

「群生相」と『群生相』と《群生相》

  1. 生物学の用語としての「群生相」と、《たけ(tk)の思いこみ》キーワードとしての《群生相》『群生相』とは分けるべきであろう。
  2. 『群生相』はこの《肉の塊》《ヒトの群れ》の中にある時の状態を言う。《群生相》はそのような状態の《肉の塊》を言う。
  3. 《群生相》モノであり、《指し示す思いこみ》だろう。定義することができない「あれ」である。
  4. モノは『どのようなモノであるか』という説明のコトバを付加することはできるが、定義によって描き出すことはできない。
  5. トノサマバッタの群生相とはかなりちがってきているので、項目を分けるべきだ。

この《肉の塊》と群生相

  1. この《肉の塊》は、孤独相と群生相とを往復する。

群生相と《感じ合い》《感じ合いつつあるモノ》

  1. 《感じあいつつあるモノ》は《肉の塊》の中のモノである。それを《指し示す思いこみ》である。
  2. 心の作用》の中のモノである。
  3. 心の作用》は《肉の塊》の中のモノである。
  4. 心の作用》というモノと、体内感覚世界というモノと背後者世界というモノ。多分、視点が違う。
  5. 心の作用》は、体内感覚世界と私と背後者世界とで構成される
  6. 《今・ここの・このモノ》は《感じつつあるモノ》であり得るか?
  7. 《今・ここの・このモノ》は背後者を通じて《感じつつあるモノ》である。
  8. 《感じつつあるモノ》は自己言及的に感じつつあるモノであり、感覚の限界の向こうにある。
  9. 《感じつつあるモノ》の根元を感じようとすると、脳みその上の方が引き締まる、縮小するような感覚を得る。
  10. 《感じあいつつあるモノ》、《共感しつつあるモノ》。感じることは、《感じつつあるモノ》と《感じられつつあるモノ》との《感じ合い》である。《感じ合いつつあるモノ》は皮膚であり、目であり、耳であり、身体である。
  11. 《感じあいつつあるモノ》は《共振しつつある身体》である。
  12. 《他者》と《感じあいつつあるモノ》は、私の《魂》である。
  13. 《他者》《私》とが正面から向かい合ったときに、私の背後で《感じあいつつあるモノ》を、私の《魂》と呼ぶ。
  14. 《感じあいつつあるモノ》は危険である。他者の《魂》を奪ってしまう可能性がある。《魂》を奪われたヒトは危険である。
  15. 鏡の体験。たけ(tk)は、鏡の向こうの《感じあいつつあるモノ》に《魂》を奪われた。
  16. パウルを思い出した
  17. 《感じあいつつあるモノ》の自己言及地獄。魂の自己言及地獄。
  18. 《感じあいつつあるモノ》の自己言及地獄への恐怖。

群生相と《混濁》

  1. この《肉の塊》《混濁》である。《混濁》の中にある。《混濁しつつあるモノ》である。
  2. あの《肉の塊》もまた、《混濁しつつあるモノ》である。《混濁》の中にある。《混濁》に針孔をあけて、そこからしか世界を見ない人々。《混濁》世界を描いて、それを世界だと主張する人々。
  3. 人間は猿の子孫だから?
  4. モノたちは、ヒトのやり方で、知ろうとしないから、《混濁》の中にはない。
  5. 動物は、思い描きをするから、《混濁》の中にある。《動きつつあるモノ》だから、《求めつつあるモノ》だから、《描かれつつある思いこみ》を持ってしまう。それが《混濁》を引き起こす。
  6. 《無明》と《混濁》とはどう違うか? 同じか?
  7. この《肉の塊》は、この《肉の塊》『一切』《混濁》への《見通し》を持つ。
  8. この《肉の塊》は、《混濁しつつあるモノ》への《見通し》を持つ。この《肉の塊》《混濁しつつあるモノ》であり、あの《肉の塊》《混濁しつつあるモノ》である。
  9. 《混濁》のカンバスに描いた幻を世界であると信じる人びとは《混濁しつつあるモノ》である。
  10. この《肉の塊》は混濁の中にある。無明
  11. この《肉の塊》は《主観の因果関係》の中にある。12因縁。
  12. 客観とは自らを省みない《視点》である。
  13. あの《肉の塊》は《主観の因果関係》の中にある。
  14. 「××は××である」という言明は、《見通しつつあるモノ》の《視点》からの言明である場合には、「××と××との繋がりへの見通しを得よ」という意味である。

群生相と無為の時間

  1. 昼間に感じるのは「無為の時間」だ。
  2. 無為の時間とは刻々と変わり行く思い込みの時間である。
  3. スナップショットされない思い込みの時間である。
  4. 空回りの時間
  5. 感覚の時間
  6. たわいない思い込みが淡く流れる時間
  7. 《他者》は、《私》にとっての意味があるか?
  8. おそらく、たけ(tk)は、《他者》《私》にとっての『意味』を感じたことがない。《私》《求める思いこみ》《他者》によって実現された体験がない。記憶がない、幼児体験がない。公園で、幼稚園くらいの兄貴が、その弟に、「xxしろ」と命じているのを見て、たけ(tk)には、命令者になった記憶がないことに気がついた。母親に対して命令する、という体験も見当たらない。
  9. ヒトは、何かをやっているとき、自分が何をやっているかを知らないものだ。熱中してプログラムを作っているとき、自分が何をやっているかは分かっていない。後で考え直して、作品に感心するかもしれない。作品なり、仕事の成果で、意味が決まるのか?
  10. 背後者において、自分の行動への意味を感じない、《他者》の意味を感じない。《他者》からの意味は、《私》からの意味ではない。
  11. 背後者において怯えを感じる。他者への怯え。
  12. 他者への怯えへの見通し
  13. 他者への親和感情を感じないということ。親和感情は幻であろう。安心感は幻であろう。ごくごく幼児期の記憶では、他者への信頼感と安心感の記憶がある。はるかかなたの幻である。それに戻ることを期待すべきではない。別の見通しを確保すべきである。
  14. 他者への怯えへの見通しを通じて、それを克服すべきだある。
  15. V字型の谷間の底にある我という自己認識。
  16. 保護され、支配され、攻撃されるだけの我という自己認識。
  17. V字構造への見通し。V字構造の世界への見通し
  18. 無為の時間とは、無意味の動き時間である。
  19. 動きに意味を感じることができない時間
  20. ヒトの群れの世界動きに意味があるか?
  21. 意味はこの肉の塊が、それを感じるかどうかの問題である。

群生相における『一切』とは

  1. 孤立的個体における『一切』と社会的関係における『一切』とでは異なる
  2. モノたちとの共振関係は『一切』に含まれ、心の作用に含まれる

群生相におけるモノとは?

  1. この《肉の塊》
  2. あの《肉の塊》
  3. この《肉の塊》とあの《肉の塊》との共振関係
  4. この《肉の塊》《思いこみ》
  5. あの《肉の塊》《思いこみ》
  6. この《肉の塊》《思いこみ》とあの《肉の塊》《思いこみ》との共振関係

[qualia:7914] 我考えず、故に我無し(w

    1. > 熟考するジャックさんの姿(考えるジャック)を見てみたいですね。(笑)
      1. 書いているときは考えない。
      2. 考えているときは書かない。
    2. > ジャックファンを幻滅させないためにも、遁走だけは避けてください。
      1. ファンとやらに告ぐ。
      2. 幻滅しろ(w
      3. 仏に逢うては仏を殺せ
  1. 《健常者》における群生相はどのようなモノか?
  2. 群生相における《私》は記号の「私」でしかない。記号の「私」は《群れ》の参加当事者にとっての《群有思いこみ》としての『私』を指し示す。《群れ》の中での共通のお約束としての『私』である。モノとしての《私》は、《コトバの世界》の中には現れることが出来ない。

《楽しみ》と群生相

  1. 孤独相における《楽しみ》、と、群生相における《楽しみ》
  2. 相変異は《認識限界》である。
  3. 孤独相と群生相とでは《ドメイン》が異なる。構成原理が異なる。
  4. 孤独相における《生きつつある身体》と、群生相における《生きつつある身体》
  5. 群生相においては《生きつつある身体》は死んでいる、か?
  6. 群生相においては《生きつつある身体》は死んでいる。イデア化してしまう。群生相とは《他者》とのイデアの約束の世界である。

検索

自発的服従 - [#群生相における行動様式。]

『なすべきこと』 - [#群生相において『なすべきこと』と孤独相において『なすべきこと』とでは異なる。]

《混濁しつつあるモノ》 - [#群生相において『なすべきこと』と孤独相において『なすべきこと』とでは異なる。]

《浄化球》 - [#反省=孤独相における群生相の記憶噴出は、過去の記憶噴出である。]