《群れのアニマ》
《群れのアニマ》に関連する疑問
- 群れは《知りつつあるモノ》であり得るか?
- ○:
- 群れに内外の境界(群れの表面)があるなら、
- 群れの外部・内部での情報の流れを、群れの《内からの視点》でみると、外部からの情報は認知情報であり、群れの動きをもたらす情報は動作情報である。
- これを《外からの視点》でみると外部→表面→認知情報→(情報変換)→認知情報→(情報変換)→動作情報→(情報変換)→動作情報→表面の動き→他者から見てのアウトプット情報、という情報処理が行われているように見える。
- いずれかの時点で認知情報から動作情報への変換が行われる地点がある。もし、その変換が自己言及情報を含めた統一的な認知情報の元に行われるなら、認知情報の入力場所は自らを《知りつつあるモノ》として把握するであろう。
- ×:。
- ○:
- 群れはアニマを持つことができるか?○:。×:。
《群れのアニマ》の記述
- 《私》の《息しつつあるモノ》への《見通し》の先に見通されるモノとしての《群れ》の《アニマ》を《群れのアニマ》という。
- 「《私》をその《群れ》の一つの個体とするような《群れ》」の《アニマ》である。「《私》がその《群れ》の《アニマ》を、その《群れ》の内部から見通すような《群れ》」の《アニマ》である。
- 理論的構築物としての『群れのアニマ』ではない。《群れのアニマ》への理論的構築物を『群れのアニマ』という。((以下の説明は『群れのアニマ』の項目に移動すべきである))。
- 「《モノの群れ》であるようなモノ」(=《群れ》)の《アニマ》を「その《群れ》の《群れの中の個体》の《視点》」から「《群れ》の内部の視点から見通した、その《群れ》の《アニマ》」を《群れのアニマ》という。
- モノの外部の《視点》から見たそのモノの《アニマ》は、《他者のアニマ》である。《他者のアニマ》を、それが《群れ》であることに注目して理論的に再構築した《思いこみ》を『群れのアニマ』という。
- われわれ人間は《体細胞の群れ》である。((と、信じることから思考実験を始める))。
- われわれの主体性・主観性はモノの《群れ》の主体性・主観性から解き明かすべきである。((何故?))。ボルボックスのような均質な《体細胞の群れ》を想定しておこう。
- 《群れ》は、それが《群れ》としてのまとまりを有するかぎりにおいて、一つのモノである。((この行も不要。次の行への伏線なので。あってもよい))
- モノには、《客観的アニマ》がある。《群れ》にも《客観的アニマ》がある。《群れ》は、きわめて原始的なモノであるので、原始的なモノである「モノの《群れ》」から考察するのがよい。((この行は、削除したほうがよいか?))。モノに主観性・主体性を認めないなら、モノとしての我々にも主観性・主体性も見つけることはできない。((モノに主観性・主体性を認めないというドグマを検討する必要がある))主観性・主体性とは直交座標の中の極座標である。極座標の原点への情報流入が主観性で、極座標の原点からの《動き》のアウトプットが主体性である。
- 「《群れ》の主観性」:=モノの《群れ》が《群れ》の外部環境から情報を取得し、《群れ》の内部で情報を循環させることを「《群れ》の主観性」と呼ぶ。((客観的主観性/客観的主体性と呼ぶべきか?、《アニマ》は主観的主観性と主観的主体性。「《群れ》からの認知過程」/「《群れ》からの決断過程」「《群れ》からの《動き》」))
- 「《群れ》の主体性」:=《群れ》がそれらの外部情報・内部情報によって動くことを「《群れ》の主体性」と呼ぶことにする。((「《群れ》からの決断過程」「《群れ》からの《動き》」))
- 「《群れ》への《視点》」:=「《群れ》の外部からの《視点》」。客観的視点。
- 「《群れ》からの《視点》」:=「《群れ》の内部からの《視点》」。主観的視点。
- 「《群れの中の個体》からの《視点》」:=
- 《群れ》が外部から情報を取得し、《群れ》の《動き》へと導くためには、外部情報が、一瞬であれ、内部情報として《群れ》の内部で伝達されなければならない。
- 《群れのアニマ》:=《群れ》の内部に《視点》を置いて、「《群れ》の主観性」と「《群れ》の主体性」を《群れ》の内部から観察すると、《群れのアニマ》が見えてくる。《群れのアニマ》は《群れ》の内部に鏡を置いて、我々がその鏡を通して観察すると見えてくる世界であり、その鏡の位置でそのモノに共感すると感じられる世界である。
- 《群れ》の内部に鏡を置いた場合、前面に見えてくるのは「《群れ》の主観性」である。《群れ》の《動き》としての、「《群れ》の主体性」は鏡の背面に隠れてしまう。主観的世界から鏡に情報が入り、鏡の背面で《動き》を生じる。我々は鏡の背後の《動き》を感じるが、それは感じるだけであって、視野の中には入ってこない。ただしもちろん、その《動き》が再び、鏡の前面から、《私の動き》として、自己言及的な情報として、入ってくることも可能である。((主観的主観性と、主観的主体性。客観的主観性と主観的主観性との異同が問題。なぜ、客観的主体性は見えなくなるのか?))
- 《群れの中の個体》:=《群れ》の内部は《群れの中の個体》と《群れの中の個体》間の《繋がり》で構成される。((《群れ》の中の鏡の《視点》は、《群れの中の個体》の《視点》ではない。《群れ》の外部からの《視点》でもない。3つの《視点》がある))
- 《群れの中の個体》間での情報循環:=《群れの中の個体》間の《繋がり》は《群れの中の個体》への情報入力とその《動き》で構成される。或る《群れの中の個体》は他の《群れの中の個体》の《動き》や外形を情報として取得する。他の《群れの中の個体》からの情報によって《動き》を作り出し、その《動き》が、他の《個体》の入力情報となり、それが他の《個体》の《動き》を作り出す、という循環によって、《群れの中の個体》の《繋がり》が構成される。
- 《群れ》の内部での情報循環:=《群れの中の個体》の《繋がり》は、《群れ》の中での情報伝達を作り出す。とはいっても、『情報』が《群れの中の個体》から独立して伝達されるのではなく、或る《群れの中の個体》Aが他の《個体》Bの《動き》を、《群れの中の個体》Aにとっての情報として取得する、という形で行われる。((《群れ》の外部からの《視点》、《群れ》の内部からの《視点》、《群れの中の個体》からの《視点》の記述を明記すべき))
- 《群れ》が、《群れ》の外部の情報を取得する、というのは、((《群れの中の個体》からの《視点》では))《群れの中の個体》のうちの在るモノが《群れ》の外部の情報を取得することを意味する。その情報が他の《個体》に伝達され、《群れ》の《動き》を作り出す時に、((《群れ》の外部からの《視点》では))《群れ》が外部から情報を取得する、という。((《群れ》の内部からの《視点》では?))
- 《群れ》の《動き》は、《群れの中の個体》の《動き》の総和以上のものである。《群れの中の個体》の位置関係の変化が《群れ》の《動き》の主たるものである。((《群れ》の外部からの《視点》では総和以上。《群れの中の個体》の《視点》では単なる総和。では、《群れ》の中からの《視点》では?))
- 《群れ》の《動き》の、《群れの中の個体》の《動き》からの独立性が、《群れ》の主体性の、《群れの中の個体》の主体性からの独立性が、《群れ》の主観性にも影響する。《群れ》の主観性は、《群れの中の個体》の主観性、すなわち、《群れの中の個体》による情報取得と情報伝達の総和ではあるが、そこで取得され伝達される情報の意味が変化し、内容が変化する。当初においては、取得・伝達される情報は、《群れの中の個体》にとって意味があるモノに限られるが、《群れ》の《動き》の独立性は、その《動き》をもたらす情報の取得と伝達とを要請するようになる。すなわち、《群れの中の個体》にとって意味がある情報に加えて、《群れの中の個体》にとっては直接の意味を有しないが、《群れ》の《動き》にとって意味がある情報が取得・伝達されるようになる。《群れの中の個体》は《群れ》にとって有意な情報を取得伝達して《群れ》を動かすことによって、間接的に《群れ》から守られる存在となる。《群れ》の《動き》を通じて間接的に自らを守る存在となる。((ただし、そのことから、《群れの中の個体》が《群れ》というモノを表象するようになる、というわけではない。表象情報を《群れの中の個体》が持っているとはかぎらない))。
- 《群れの中の個体》は、《群れ》にとって有意な情報を取得伝達することが、自己の生存・再生成に有利であることを、淘汰圧の中で獲得していく。
《群れ》には、どんなモノの《群れ》であろうと、《客観的アニマ》がある。
- 《群れ》であろうとモノであろうと、《客観的アニマ》がある。
- 素粒子であれ、分子の《群れ》であれ・・。
- モノの《客観的アニマ》とは、そのモノに《極座標の原点》を置くことができる、ということを意味する。《視点》の《極座標の原点》と《動き》の《極座標の原点》。
- モノには動きがある、モノには外部情報の入手が在る。モノは外部情報の入手によって動く。
- モノの外部情報の入手と動きとの接点に、《極座標の原点》を置いたモノが《モノのアニマ》である。
- 天文台の望遠鏡の《視点》の《極座標の原点》が、望遠鏡の《客観的アニマ》?
- 天文台の望遠鏡の《モノのアニマ》は《ヒトのアニマ》を感じて動き、天体情報をヒトに提供する。
- 《群れのアニマ》は《群れの中の個体》の《アニマ》とは別に存在する。
- 情報入手に関しては《群れ》の情報入手は《群れの中の個体》の情報入手の総和に等しい。しかし、「知る」ことに関しては、《個体》が「知る」ことの総和+αである。情報の意味の主体が異なると、情報の意味も変わる。情報の意味は主体依存的である。情報の意味の主体というのは《動き》の主体である。《動き》に関して《群れ》は《群れの中の個体》の《動き》の総和以上のモノであるので、情報の意味の主体としては別のモノとして存在する。
《群れ》は、それがモノとしてのまとまりを有するかぎりにおいて、モノとしての《アニマ》を有する。《客観的アニマ》
- 《モノのアニマ》は、情報取得の中心点であり、《動き》の中心点である(その二つが一致しているとは限らないが・・)。
- モノの情報取得と《動き》という視点において《極座標の原点》を想定すれば、そのモノを中心とした主観的世界が拡がる。
- 《モノのアニマ》は《同質者公理》の帰結である。
- 《群れ》もモノである限り、《モノのアニマ》を有する。《群れ》が有する《モノのアニマ》を《群れのアニマ》という。
- 《モノのアニマ》=《客観的アニマ》の要素。情報取得、動き、《快》、『我』情報。客観的主観性、客観的主体性、客観的《快》、客観的『我』情報。客観的《記憶》?
《群れのアニマ》は、《群れの中の個体》の間の情報伝達として存在する。
- 我々は体細胞の《群れ》である。
- 《群れ》は複数の《群れの中の個体》によって構成される。
- 複数の《群れの中の個体》の間で情報伝達が行われるものとする。《群れ》の中の情報は、《群れの中の個体》の間で流通する形で、《群れ》の中に存在する。
- 情報は、最終的には、いずれかの《群れの中の個体》の《動き》として実現される。
- 情報には認知情報と当為情報とがある。ただし、原初的には認知情報と当為情報との区別はない。
- 《群れ》の内部で流通する情報には群外情報と群内情報とがある。
- 群外情報:《群れ》の外部の状況への認知情報。餌、捕食者の存在の有無など。
- 群内情報:《群れ》の内部の状況への認知情報。他の《群れの中の個体》(《群れの中の他者》)の存在の有無、方向、距離、彼の外形=彼からの情報。
- 群内情報による《群れ》の維持。《群れ》を維持することが《個体》にとって有用である場合には、《群れの中の個体》は《群れの中の他者》との距離を一定範囲に維持することによって《群れ》を維持する。《群れの中の他者》の移動は、《群れの中の個体》にとって、「同じ方向に移動せよ」という当為情報となる。(《群れの中の他者》の移動準備の外形は、《群れの中の個体》にとっても「移動準備」の当為情報となる)。
- 群内情報を通した群外情報の取得、伝達。《群れの中の他者》の外形が、餌への接近を示していれば、《群れの中の個体》は《群れの中の他者》の外形を通して、餌の存在と方向の状態情報を取得し、餌への接近と言う当為情報を取得する。
- 情報には、定言情報と仮言情報とがある。
- 仮言情報は《群れの中の個体》による情報の変換規則である。
- 仮言情報には次のものがある。
- 仮言情報は、「そのような情報変換によって、うまい結果を生じた」という時系列的状態情報を取得したときに、強化される。時系列的状態情報は「状態情報→状態情報」という推論的情報である。
- 情報は、当初においては、《群れの中の個体》を基準とする情報である。
- しかし、《群れの中の個体》間での情報伝達によって、《群れ》の中を循環し、《群れの中の個体》によって共有されることによって、また、多数の《群れの中の個体》の《動き》が《群れ》全体の《動き》を作り出すことから、《群れ》の中の情報は、疑似的に、《群れの中の個体》を離れて存在するようにみえるようになる。
- 情報の捨象、統合、再構成。《群れの中の個体》による情報変換。
- 『群体への当為情報』。餌を吸い込んで捕食する。餌にふれた部分の個体は《群れ》の内部に向かって移動し、そのまわりの個体は、吸い込み口の形を、水流に抗して維持する。一つの認知情報が複数の当為情報として分離され、個体の位置によって分離して伝えら、それぞれの個体が別の動きを実現し、《群れ》全体としての一つの《動き》を実現する。
- 『群体への認知情報』。餌を吸い込んで捕食する。群体が捕食可能な形になっていなければ、群体による捕食行動への当為情報の形成はまずい結果をもたらす。『群体への当為情報』を形成するべきかどうかを判断するために、『群体への認知情報』が必要となる。
- 『群体への認知情報』と『世界情報』(固定的なモノとして再構成された群外認知情報)。
- 『群体への当為情報』。
- (助詞を付けないと曖昧になる。群体当為情報:群体への命令としての当為情報(群体への当為情報)/群体からの命令としての当為情報、群体が当為の判断主体となる情報(群体による当為情報)。群体認知情報:群体を認知する情報(群体への認知情報)/群体が認知する情報(群体による認知情報))。
- 『世界情報』は《群れ》の《動き》を決定するために役に立つ情報として必要となるものである。従って、《群れ》の《動き》への原因とならなければ意味がない。『《群れ》への当為情報』が実現されなければ意味がない。
- 世界情報の再構成の種族維持的価値は世界情報の中での群体情報のあるべき姿についての当為情報を実現すること。世界情報における当為情報は仮想的な認知情報と現実的な認知情報との差分でもある。『群体への当為情報』とする。
- 世界情報や『群体への当為情報』は《群れの中の個体》の情報(の総和)である。実際には多数の《群れの中の個体》に分割して保持され、群れの中で流通することによってのみ意味をもつ情報となっているかもしれない。
- 『群体への当為情報』の実現のためには、
- 《群れの中の個体》への当為情報は(群体を変化させ)群体状態情報を変化させる。その原因・結果の仮言情報が取得されなければならない。
- 「世界情報の中での群体情報のあるべき姿」と、「或る《群れの中の個体》への当為情報が結果する群体の状態情報」との比較によって、「好ましいと判断された《群れの中の個体》への当為情報(の束)」が選択される。
- 「群体の《動き》を結果としてもたらす《群れの中の個体》への当為情報(の束)」が『群体への当為情報』としてひとまとまりのものとして記憶される。
- 『群体への当為情報』は、『世界情報』、群体状況情報、群内状況情報から算出される。「状況情報→当為情報」という決断的情報変換である。
- (ここにおいて、群体状況情報と群内状況情報とは統一的に捉えられるようになるかもしれない)。
- 『群体への当為情報』が常態化すると、群体が主体として現れる。すなわち《単細胞生物の群れ》が多細胞生物となる。多細胞生物は《群れ》をつくる。群体が《群れ》をつくる。多細胞生物の《群れ》は、《単細胞生物の群れ》の《群れ》である。多細胞生物は《多細胞生物の群れ》の《群れの中の個体》である。
- 《我》とは《群れ》のシステムに与えられた『我』情報である。意識とは『意識に関する情報』である。『意識がある』というのは『意識に関する情報』が、《群れ》のシステムに与えられているということである。「《我》や《意識》がある」というのは、《我》や《意識》があるということではなく、『《我》や《意識》に関する情報』が《群れ》のシステム内部に存在している、ということである。
- 我々が、クオリアを感じる、ということは、『(我々が、《今・ここの・このモノ》が)クオリアを感じている』というクオリアの情報が、《体細胞の群れ》のなかで、その形で再構成され生成され、循環しているということである。
《群れの中の個体》にとっての情報の意味が失われていく。情報を受け取って、加工して、出力する。《群れの中の個体》の《動き》と《群れの中の個体》の生存的意味との繋がりが、単細胞生物であった頃の繋がりとは全く異なった形になる。《群れ》の生存に役に立つ、《群れ》の生存的意味をもった個体の《動き》を作り出し、それが、個体の生存にも役に立つ、という《群れ》の生存的意味を媒介とした、《群れの中の個体》にとっては間接的な生存的意味となる。全体主義的な情報の生存的意味。
- 《群れの中の個体》は、その個体の《動き》がもつ《群れ》の生存的意味を感じているのか? 「感じる」というのが疑問。進化の過程で、「その個体の《動き》がもつ《群れ》の生存的意味を感じる」《個体》からなる《群れ》は、生存確率が高くなる。進化の結果として、「その個体の《動き》がもつ《群れ》の生存的意味を感じる」《個体》で形成される《群れ》が生き残ってきた。故に、《個体》は「その個体の《動き》がもつ《群れ》の生存的意味を感じる」。「感じる」というのはその《個体》の《動き》が活発になる、ということである。もしくは、「感じる」というのはその《個体》の《動き》が活発になるか、不活性になるか、というように、《個体》の《動き》に影響を与えるということである。我々の体細胞は、全体主義的な《群れ》の生存的意味を「感じ」ているのである。
- 《体細胞の群れ》の《動き》を感じるということではないか?
- 《体細胞の群れ》が『感じる』とは、どういうことか?
- 『感じる』という現象が情報として入ってくる、流通している、ということ。
- 情報によって動く、という現象の情報があることを『感じる』と言っているのではないか? 『情報によって《私》であるモノが動く』という情報。
- 《体細胞の群れ》は《群れ》の外部の《状況》から情報を取得して内部で流通させている。客観的には《感じている》のである。
- 客観的に《感じている》ということと、主観的な、『感じている』という実感の間にはなにがあるのか? 実感があるということは生物的な意味がある、ということだろう。客観的な《感じている》ことは、当然ながら、生物的な意味がある。種族維持的価値がある。その現象に《快》を感じるのは当然だろう。主観的な『感じている』という実感は、《快》の感覚だろう。《快》を『感じている』のだろう。
- 自己言及的存在の「自己言及の次数の座標軸」。「じゃあ、《体細胞の群れ》が《快》を『感じている』ということは、どういうことか?」。
モノの《群れ》には客観的な主体性がある。客観的な主観性がある。客観的な自覚がある。客観的な《快》がある。
- 素粒子は、他の素粒子の引力を感じることによって、間接的に自己の存在の自覚をもっている。
- 素粒子の《群れ》も、それが《群れ》として存在するかぎりにおいて、モノであるかぎりにおいて、客観的な主体性をもち、客観的な主観性をもち、客観的な自覚をもっている。
- 客観的な主観性は、客観的には、そのモノはモノの外部や内部を知っている、モノの外部や内部から情報を得ている、ということを意味する。
- 情報を取得するということは、『モノ』を知るということではない。
- 『世界』は『モノ』で構成されている、という形で情報が再構成された時に、『モノ』が現れる。『私』というモノが『モノ』情報の一種として『世界』情報の中に位置を占めるようになる。
- 客観的な《快》がある。客観的な《快》というのは、そのモノの《動き》の原因となる情報である。
- モノには客観的な《アニマ》がある。
- 客観的な主観性とは、そのモノの情報取得における《極座標の原点》である。
- 客観的な主体性とは、そのモノの《動き》における《極座標の原点》である。
- 客観的な自覚とは、そのモノの《動き》や存在に関する情報をそのモノ自身が取得することである。
- 客観的な《快》というのは、そのモノの《動き》の原因となる情報である。
- コップの中の水、という水の分子の《群れ》。コップが振動すると、水の《群れ》もコップに合わせて動く、さらに、水面に波を起す、波という《動き》を起す。水の《群れ》は『コップの動き』を知る。情報として取得する。《客観的な主観性》。水の《群れ》は波という《動き》をする。《客観的な主体性》。水の《群れ》か感じが『コップの動き』は水の《群れ》の《動き》の原因となった情報であるから、《客観的な快》である。『コップの動き』は水があることによって鈍る。それによって水の《群れ》は《客観的な自覚》をもつ。つまり、水の《群れ》は《客観的なアニマ》をもつ。
情報は、モノAに入力され、モノAから出力されるものではなく、モノAが世界から切り取るものであり、モノAと関係する他のモノBが他のモノBの世界の一部としてのそのモノAから切り取るものである。
- モノBがモノAに情報を伝える意図をもって《動き》を行い、そこからモノAが(モノBが意図した)情報を切り取り、モノAの《動き》からモノBが情報を切り取るなら、モノBからみて、モノAへの情報の入力とモノAからの出力であると判断してもよい。
- モノAがモノBが作成した情報処理の道具であれば、モノAの入力・出力というのは、道具を作成したモノBの意図どおりである。
- しかし、モノBの世界の中のモノはBの道具ばかりではない。残念ながら・・。
主観的主観性。《今・ここの・このモノ》における主観性を主観的主観性と呼ぶことにする。《今・ここの・このモノ》における主体性を主観的主体性と呼ぶ。《今・ここの・このモノ》における《快》を主観的《快》と呼ぶ。《今・ここの・このモノ》における自覚を主観的自覚と呼ぶ。
- 主観的主観性は、モノの客観的主観性とどう違うか? 3次元的に構成され、モノの輪郭が分かる世界の中にある。モノの客観的主観性においては情報の取得であるが、客観的主観性における情報はビット単位で計れるような貧弱なモノである。
- 主観的主体性と客観的主体性とは、共に《動き》の原因であり、あまり違わない。
- 主観的《快》と客観的《快》とでは、客観的《快》は、ただちに《動き》に反映され、実現されて、蓄積されない。が、主観的《快》は、ただちには動きに反映されず、蓄積され、もしくは表象という形で実現される。
- 主観的自覚は、客観的自覚とは異なり、《他者》を媒介としない様である。
- 主観的『我』情報と客観的『我』情報。素粒子レベルでの『我』情報は、意味がないだろう。生きモノレベルになって、《他者》の《動き》を予測する段階になってはじめて『我』情報が意味をなす。生きモノである《他者》の《動き》を予測するためには、《他者》が《私》を知覚している、ということが《他者》の《動き》を予測するための重要な要素になる。ライオンは、シマウマに気付かれては、狩りに失敗する。シマウマにとっての情報である『我』の情報(シマウマにとっての『他者』の情報、《私》にとっての『我』の情報)を、《私》の『我』情報として処理する必要が出てくる。生物における淘汰圧によって、『我』情報が重要性を増す。『他者の他者』の情報としての『我』情報。
- 《今・ここの・このモノ》にとっての『我』情報は、『他者の他者』としての『我』情報、つまり、他者を媒介とした情報ではなく、3次元的な空間の中にある《今・ここの・このモノ》の認識でもある。主観的主観性における《モノの世界》の中のモノへの情報の一つとしての『我』情報。『モノの世界の中のモノ』としての『我』情報。
- 『モノの世界の中のモノ』としての『我』情報。特異なモノである。『我』が動くと世界は反対に動くのである。『モノの世界の中の特異点』としての『我』情報。
- 『他者の他者』にせよ、『モノの世界の中のモノ』にせよ、『モノの世界の中の特異点』にせよ、これらの特徴は客観的『我』情報においても同じである。ただ、客観的『我』情報は、素粒子にとっては意味がないので潜在化しているだけである。
- 実感ということ。クオリアは実感である。実感の本体は《快》であろう。《動き》に繋がり、《動き》を活性化させる傾向がある情報に《快》を感じるということが、モノの実感、『我』の実感であろう。・・うむむ、《快》を「感じる」とは?・・。「感じる」というのは《我》が動くということであろう。『我が動く』という情報が与えられることが「感じる」ということであろう。・・うむむ、《動き》を「感じる」とは?・・・。
- 素粒子は他の素粒子や光を「感じる」。客観的主観性においても、モノは世界を「感じる」。モノは世界を感じている。モノはそのモノ自身を感じている。
- 我々が、《今・ここの・このモノ》が、さまざまな事物を感じ、実感し、クオリアを感じるというのは、素粒子が世界を感じるのと同じである。コップの水のような《モノの群れ》が世界を感じるのと同じである。
- 記憶を取り出す、表象化する、表象を知る。というのが重要な問題であるが、記憶自体は、モノの現在の状態である。モノの現在の状態から過去の記憶を取り出すのである。
- コップの中の水の分子の中の酸素原子は、超新星の中での核融合で生まれたときからの記憶を、現在の状態としてもっている。超新星爆発で宇宙空間に飛び出した記憶、地球に取り込まれた記憶、他の元素と結合して分子を形成し、離散した記憶、最終的に現在の水の分子を形成した記憶、水として地球を循環した記憶、雨になって降り注ぎ、川を流れ、取水口を入り、水道管を通り、《私》の家の蛇口から出てきてコップの中に入った記憶、が彼の現在の状態である。
- その記憶を「取り出せる」かどうかは別の問題である。
- 記憶を取り出せる、ということは、記憶によって現在の状態にバラエティがある場合に可能であろう。現在の状態が過去の記憶によって異なる場合には、異なった状態から異なった記憶を取り出すことができる。
- しかし、(記憶の違いによる)モノの状態の「差異」というのは、そのモノの属性ではない。そのモノAから情報を得ようとするモノCが、モノAとモノBとを比較して『差異』という《思いこみ》を生じるだけである。モノCに生じる、『モノAの記憶』というのは、モノCの《思いこみ》である。モノCがモノAから取得した情報である。
- モノAが有する『モノBに関する情報』というのは、モノAとモノBとの相互関係において生じたモノAのなかの《思いこみ》である。モノが有する《思いこみ》は《客観的思いこみ》であり、《客観的アニマ》の一部である。
- モノAが有する『モノBの有する記憶』という、モノBの《客観的記憶》であるモノBの現在の状態との相互関係において、モノAの内部に生じた《客観的思いこみ》である。
- 情報を「取り出す」のではなく、・・うまい述語が思いつかない・・。「接触によって生まれる」。触発。「触れることによって生まれる」。「触れることによって覚える」。触覚じゃ意味が違う。「《繋がり》によって生まれる」。
区別
- 実感。《群れのアニマ》がクオリアを感じるということ。
- クオリアは群れの中の情報循環の一種である。
- 《群れ》が(《群れ》自身としての)《私》のクオリアを感じるということは、《群れ》の中の情報循環の一種である。《群れ》の中で(《群れ》自身としての)『私』という情報が循環するということである。
- 《群れの中の個体》としての『私』という情報と、《群れ》自身としての『私』という情報。《群れの中の個体》としての『私』という情報は、《群れ》の中で循環することができるか? これは『個人』(「個人」というコトバが指し示すモノ、イデア)として《群れ》の中を循環する。
- 『われわれ』(we)は《群れ》であって、『私』(I)=《群れの中の個体》=とは別のモノではないか?
生殖細胞の機能分化と《群れのアニマ》
- 生殖細胞以外の体細胞にとって、生殖細胞の機能分化は、自らの生存・再生成に、寄与するのだろうか?
- 自らによる再生成を放棄するという自己犠牲の精神で《群れ》に貢献するのだろうか?
- 自らによる再生成を、生殖細胞を通じて、間接的に行う、ということで、満足なのだろうか?
- 何故、個体レベルでの再生成への欲求を放棄してしまうのだろうか?
- 《群れの中の個体》は、他の《個体》を通じて、その総和である《群れ》を通じて、間接的に、自らの欲求を実現する。
- 樹木曰く、生命の《個体》というのは、生命全体の《群れ》のなかの枝のようなものである。本体である《群れ》が生き残るのであれば、枝や花がしおれるのは、当然の循環である。
- 《群れ》が本体である、という倒錯した思考様式。全体主義。
- しかし、むしろ、ヒトという生物が個体的自我を獲得したという進化の理由のほうが問題かもしれない。《群れのアニマ》のテーマは、ヒトという《体細胞の群れ》が個体的自我を獲得することである。
- 体細胞の《個体》は個体的自我を獲得することなく、《体細胞の群れ》を本体であるとする行動様式を獲得した。しかし、《体細胞の群れ》であるヒトは、個体的自我を獲得した。何故か。
- ユダヤ的自我は、ユダヤ人の《群れ》を生命体の本体であると理解しているようだ。((問題なのは人類の《群れ》でないことだろう))。
- 人類が個体的自我を獲得したのは、お釈迦さんの時代、ソクラテスの時代、孔子の時代だろう。《群れ》を単位とする宗教的な統治から都市文明への移行の中で、《群れの中の個体》が淘汰圧から解放されて、《群れ》を単位とする思考が《群れの中の個体》を単位とする思考に変化した、そのときに、個体的自我が発生した。
- しかしその後に、ヒンドゥー教やユダヤ教の、また、神道の(またカトリックの)集団的思考様式に呑み込まれていった歴史もある。
- その後、近代の産業革命以後に、個体レベルの思考が復活した。しかし、再び、プロパガンダテクノロジーによって、集団レベルの思考に変容しようとしている。今日nhkでロボットの軍事技術が紹介されていた。ロボットが人々を監視し、ロボットが人々を攻撃するようになれば、人々は再び奴隷的隷属で満足することを余儀なくされるだろう。ロボットによる権力装置が発展すれば、人々は、不完全なヒトの統治よりは、ロボットによる統治を望むようになるだろう。ロボットによる権力装置は、ヒトの権力者に対しても、その権力を行使するようになるだろう。((まあ、その時代まで、人類が絶滅しなければ、の話だが・・))。
- 記憶は、モノの状態である。モノの現在の状態の中に、そのモノの過去の記憶が反映されている。
- 記憶から、過去の表象を取り出せるかどうかは、別の話である。
- 現在の状況を表象として捉える能力。過去の状況を現在の状態から表象として再生する能力。
- 情報を表象の形で再構成して、表象情報として入力する能力。生の情報と、それを再構成した表象情報。
- マダニが、酪酸によってジャンプする前に、その準備の動きが必要であるなら、ジャンプの臨界値よりも少ない酪酸を検知して、準備の動きをとることになる。準備をもたらす少なめの酪酸の知覚は『獲物が近づいてくる』感覚として自覚されるだろう。
- 視覚。視覚情報の『モノ』への再構成。生の視覚情報の『モノ』情報への再構成。『thing』情報。『モノ』のクオリア。『モノたちの《繋がり》が織り成す世界』のクオリア。
- 過去に知覚した『モノたちの《繋がり》が織り成す世界』のクオリアが、現在のそのモノの状態から、再生成されること、が記憶の想起。『今知覚しつつあるモノたちの繋がりの世界』のクオリアとは別に、『かつて知覚したモノたちの繋がりの世界』のクオリアが、並行して別のクオリアとして再生成されること。
- クオリアは、再構成された情報である。実感とはそのモノの《動き》との《繋がり》における入力情報である。そのモノの《動き》も入力情報として入ってくる。入力情報としてのそのモノの《動き》とその《動き》の原因となるべき外部からの/内部で再構成された情報とが結びついて、ひとまとまりの情報として入力された時に『実感』という入力情報となる。そのモノの《動き》が入力されない限り『実感』はない。入力情報とそのモノの《動き》情報とが合成されて入力されない限り『実感』はない。
- 記憶の想起に『実感』が伴うのは、過去の入力情報と《動き》の情報との繋がりが合成されて、更に、その想起の情報と現在の《動き》の情報とが合成されて、はじめて、『実感』を伴った記憶の想起となる。
《群れのアニマ》とあくび
- あくびは《動き》である。《息しつつあるモノ》の《動き》である。
- 入力情報が、『無意味』であるときに、入力情報が無意味であると宣言する《動き》であり、入力情報をリセットして、捉え直す《動き》である。《動き》に立ち戻って、今までの《視点》からはるか離れた《視点》から入力情報を眺め直す《動き》である。
《群れのアニマ》と法
- 法は《群れのアニマ》であろう。
- 『法学講義』(p.31、アダム・スミス)
- 自然権の起源は、非常に明白である。人がその身体を侵害されないようにしておくこと、かれの自由を正当な理由がないのに侵害されないようにしておくことについて、権利を持つことは誰も疑いをもたない。
- 戦争において「付随的損害」として殺される人々の権利はどうなるのか?
- 自然権の起源は自明ではない。
- 生殖細胞の機能分化は、他の体細胞の自己再生欲求とどう繋がるのか?
- 《群れの中の個体》のレベルでの自己再生欲求の消失。
- 《群れの中の個体》のレベルので自我の喪失。
- 《群れの中の個体》のレベルでの淘汰圧の消滅。
- 自我の発生の種族維持的価値。
- 『意思』や『目的』は表象である。《群れ》の中を循環する情報である。
- モノは情報によって動く。
- 『モノは情報によって動く』ということを情報として取得する。
- モノの動きと情報との因果関係を情報として取得する。
- 『通常モノを動かすであろう情報』を「意思」と呼ぶ。
- 或る情報が出現すると、《動き》が予測される。というタイプの情報の出現を意思の出現という。
- 情報の記号化による操作という《動き》。
- 『あるべき《動き》』という情報。認知情報から当為情報への変換。認知情報から《動き》への変換という直接的変換から、当為情報を媒介とする間接的変換への移行。
- 当為情報は『将来の《動き》のイメージ』である。
- 《動き》を認知情報として取得すること。《動き》の情報を記号化して操作すること。
- ヒトは《他者のコトバ》によって動く。ヒトが、自らに対して《他者のコトバ》で命令すれば、自律的に動くことができる。
- 意思とは、ヒトが自らに投げかけた《他者のコトバ》である。
- 《群れ》の中の記号処理を行う回路。
- 記号は情報である。記号は認知情報とは別の情報である。
- 当為情報は《身体》に刻みこまれてはじめて《動き》に繋がることができる。『《動き》のイメージ』を《身体》化すること。「記号」⇔『《動き》のイメージ』⇔《身体》による記憶⇔《身体》の《動き》。
- われわれは《体細胞の群れ》の《群れのアニマ》でしかない。
- 《私》が『感じる』とはどういうことか、《群れのアニマ》が『感じる』とはどういうことか?
- われわれは『感じる』ように進化してきたのである。『感じる』ことに種族維持的価値があったので、『感じる』《個体》が生き残り、子孫を残してきた。それゆえに、われわれは『感じる』のである。
- 『感じる』ことは、即自的には情報循環であるが、『感じる』ということを情報として循環させているということ。《感じる》べきであるのに《感じない》ときに、『感じるべき』という《思いこみ》が生じて、それを生じさせるべき事象に注目すること、関心を向けること。それによって『感じるべき』ことを《感じる》ようになる。捕食者が視界に入ったのに、それを捕食者であると《感じ》ないことがある、そのような時に、さらにその周辺に注意を向けて、それが捕食者であると見極めて、捕食者であると《感じる》ようにしなければならない。《感じる》か《感じない》かを見極める《動き》を自らに説明する《思いこみ》が『感じる』ということ。『私は捕食者を感じる』かどうかを確かめる《動き》を行うのである。
- 《感じる》=自己言及次数0の感じる。『感じる』=自己言及次数1の感じる。《感じる》ことを《感じる》ことを『感じる』という。
- 自己言及次数0の《感じる》のは、素粒子でも他の素粒子の引力を《感じる》のである。
- 自己言及次数0の《感じる》は、ただちに《動き》を引き起こす。
- 自己言及次数0の《感じる》ことが、自己言及次数1の『感じる』という《思いこみ》を生じさせるのも、《感じる》ことが生じさせた《動き》である。
- 自己言及次数0の《感じる》ことが自己言及次数1の『感じる』という《思いこみ》を生じさせることは、《感じる》ことが生じさせるべき《身体》の《動き》を延期する。《身体》の《動き》を延期することによって、『感じる』という《知った思いこみ》と、『(いずれ)行う』という《する思いこみ》(《求める思いこみ》)を生じる。
- 《する思いこみ》は《隠れた思いこみ》である。具体的な《動き》の代わりに《する思いこみ》が生じることで、具体的な《動き》が延期される。延期された上で、《する思いこみ》が反芻されて実際に行うタイミングで《動き》として実現するか、廃棄されるかする。
- 蝕→受。
- われわれが何か(クオリア)を『感じる』というのは、(《私》がそれを《感じる》と同時に)『私がそれを感じている』という情報を《私》が受け取っている、ということである。自己言及次数1の「感じる」が、われわれが何か(クオリア)を『感じる』ということである。
- 《体細胞の群れ》の《極座標の原点》というのは《群れ》の中を流通する情報に過ぎない。
- 《体細胞の群れ》の《極座標の原点》というのは、《群れ》の中の情報流通の循環を意味する。情報循環。《体細胞の群れ》の外部から体外世界情報を仕入れ、体外世界の中で《群れ》の《動き》を作り出す。その情報入手と《動き》の重心が《極座標の原点》である。重心というのは仮想的なモノ。《群れ》の重心。
- 複数の物体の《群れ》の重心、は、いずれかの物体の中にあるとは限らない。
- 《知りつつあるモノ》=《極座標の原点》=も重心のようなモノ。
《群れのアニマ》と食物連鎖
- 食物連鎖の頂点にたった生きモノは、その種の中で食物連鎖を構成しはじめる。
- 食物連鎖の頂点にたつ→捕食される恐怖が無くなる→個体数が増える→食物が足りなくなる→共食いを始める→食物連鎖が始まる→種が分離する。
。
Keyword(s):
References: