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《極座標の原点》

キーワード《極座標の原点》

定義

→「極座標モデル

インプットとアウトプットがあるモノを、一つの点としてとらえた概念。

  1. 入力から出力への変換点(論理的なモノであり、《視点》や状態によって、具体的な場所は浮動する)を《極座標の原点》と呼ぶ。
  2. モノ情報処理の《視点》から、そのモノ情報処理の中心を《極座標の原点》と呼ぶ。
  3. 《極座標の原点》《視点》モノ情報処理を見ると、入力も出力も内部状態も、中心点のまわりの世界に配置されることになる。《極座標の原点》《視点》では、入力は《極座標の原点》からの《世界》の視野の中に入っているが、出力や内部状態は視野の中に入っていない。入力の《思い描き》は『実数の世界』として視野の中に入るが、出力や内部状態は『虚数の世界』ということになる。出力や内部状態が、入力装置を経由して、入力される場合には、『実数の世界』の一部分となる。これを《自覚》、《自己認知》と呼ぶ。

認知された主観点(《知りつつあるモノ》)と主体点(噴出点)とを折り畳んで一つにしたモノ《極座標の原点》という? ○:。×:。

区別

《近傍物理空間の背後者のルール》《極座標の原点》、《極座標の原点のルール

  1. 《他者》《まなざし》を感じるということは、《他者》《極座標の原点》を感じるということかもしれない、《他者》《自己言及》《他者》の内部での《自己言及》《他者》《私》とのあいだの《自己言及》)を感じるということかもしれない。
  2. 《他者》《極座標の原点》は攻撃的である。防御的である。テリトリー防衛的である。
  3. 《極座標の原点》テリトリーを有する。《身体》テリトリーである。《他者》の防衛ラインである。

《極座標の原点》《身体》

  1. 《極座標の原点》《身体》を有する。
  2. 《極座標の原点》は、実際にはモノの内部の点である。モノの内部の点の《視点》からモノを見ると、《視点》モノの内部⇔モノの表面⇔モノの外部の《世界》となる。《視点》からみてそのモノ、とくにモノの内部を《身体》と呼ぶ。

《知りつつあるモノ》《極座標の原点》

  1. 《知りつつあるモノ》は体験されていない、実感されていない、記憶されていない。思い描かれたモノに過ぎない。継続しない。持続するモノではない。持続において《極座標の原点》の体験に統合されるものではない。《極座標の原点》を思い描いても、《知りつつあるモノ》《極座標の原点》の内容ではなく、《極座標の原点》《知りつつあるモノ》でしかない。《知りつつあるモノ》は客体化されない。《知りつつあるモノ》は捉えることができない。《知りつつあるモノ》《知られつつある世界》の中にはない。我々は知られつつある世界史か知ることはできす、それを《知りつつあるモノ》は知ることができない。知りえないものを知ろうとしてはならない。《知りつつあるモノ》を知ろうとしてはならない。《知りつつあるモノ》を捉えようとしてはならない。
  2. 《知りつつあるモノ》は《知ることができないモノ》である。しかし、《知りつつあるモノ》は、「知りつつあるモノ」というコトバで《指し示されつつあるモノ》である。「知ることができないモノ」というコトバで《指し示されつつあるモノ》である。「指し示されつつあるモノ」というコトバで《指し示されつつあるモノ》である。
  3. 《知りつつあるモノ》は《指し示されつつあるモノ》ではあるが、《知ることができないモノ》である。《指し示すことはできるが知ることはできないモノ》である。
  4. 《指し示しつつあるモノ》は二つの要素から成り立っている。《思いこみ》またはコトバという知られつつある世界の中のモノと、《知りつつあるモノ》という知られつつある世界の外のモノである。指し示しは間接的であり、知ることは直接である。直接知はできないが、間接知はできる、というのが《知りつつあるモノ》である。
  5. 《指し示しつつあるモノ》は《指し示しつつあるモノ》自身を指し示すことができ、《知りつつあるモノ》も指し示すことができる。《指し示されつつある世界》は《知られつつある世界》よりも大きい。
  6. たけ(tk)《実感》が欲しいんだよね。《指し示すことはできるが知ることはできないモノ》が在る、というのは実感かもね。《鏡を通してしか知ることができないモノ》は在るのだ。《自分の顔》を、直接に、見たことがある人はいないだろう。
  7. 《思い描き》は鏡に写った像のようなものだ。鏡は信頼できるのか?
  8. モノ世界を的確に指し示しつつある思い描き》というのが重要になるな。

自己中心座標/物体中心座標と《極座標の原点》

  1. 『複雑系脳理論』p.11に「自己中心座標」というコトバを見つけた。

《他者からの思いこみ》《極座標の原点》

  1. 《他者からの思いこみ》が混沌としているのは、それぞれが《極座標の原点》だからである。
  2. 《極座標の原点》は、世界《内からの視点》で理解する。それゆえに見誤る。それゆえに活気があり、衝突し、葛藤し、混乱を引き起こし、混濁した《他者からの思いこみ》を生み出す。
  3. カオスのS(i,n+1)=F(i)(Σ(i=1→M)S(i,n))の関数Fがそれぞれの《極座標の原点》である。
  4. ヒト《極座標の原点》であることから逃れることはできない。
  5. ヒトは、《極座標の原点》からの《思い描き》において、『《極座標の原点》ではない。客観的な《視点》で物事を見ている。《相対者公理》で物事を客観的に理解している』と思いこんでいる。

対数極座標変換における原点とは?

  1. カメラの位置? ○:。×:。
  2. 注目している中心部分? ○:。×:。

ヒト動作に対する観察者の印象とその印象を作り出している運動特性との関連性の定量化に関する研究」と《極座標の原点》

  1. http://okinawa-ric.jp/moais/seedslist03.html
    1. 氏名(ローマ字) ODO Satoru
    2. 氏名 小渡 悟
    3. 所属機関名 沖縄大学

「Pulse-Coupled Neural Network(以下PCNN と略す)」と《極座標の原点》

  1. http://www.hbf.or.jp/grants/pdf/g/16-g-odo.pdf
    1. 猫の視覚皮質のニューロン群で起こる同期発火現象を説明するために提案されたニューラルネットワークモデルとして、Pulse-Coupled Neural Network(以下PCNN と略す)がある。このモデルは
      1. 画像情報をある時系列のデータに分散して埋め込むことができる特徴を有しており、
      2. 画像の特徴がある一定周期内に分散されることで、
      3. 画像中に存在する物体の
        1. セグメンテーションおよび
        2. エッジ抽出をすることが可能となる。
    2. ・・
    3. 本システムでは、ビデオカメラからの取り込み画像の前処理として改良型PCNN を適用することで動画像中の物体の正確な位置抽出、およびエッジ等の抽出を行う。
      1. 改良前のPCNN モデルは
        1. 画像情報をある時系列のデータに分散して埋め込むことができる特徴を有しており、
        2. 画像の特徴がある一定周期内に分散されることで、
        3. 画像中に存在する物体のセグメンテーションおよびエッジ抽出をすることが可能だが
        4. 静止画像を対象としたモデルである。
      2. そのため本研究ではPCNN の入力を動画像のフレーム方向(時間方向)に拡張することで、移動物体の抽出、およびエッジ等の特徴抽出を行う。
    4. 抽出された対象物を中心としてLPM を用いて直交座標系から対数極座標系に変換を行う。このLPM による処理の利点は、少ない画素数で高解像度、広域の作業範囲を得るだけでなく、
        1. スケーリング不変性、
        2. 変換中心に対する回転不変性を持っており、また、
        3. 画像のデータ量を減らし画像処理の計算時間を減少させることが期待できる。
      1. 抽出した領域から高次局所自己相関特徴を算出し、学習ベクトル量子化を用いたニューラルネットワークにて手形状の識別を行なう。この機能を用いてポインティング操作を実現する。手領域の位置の軌跡を用いジェスチャ認識を行うことで、手を用いたポインティング操作とジェスチャ操作という二種類の操作を連携して利用することを実現する。
  2. こわーい!!。認知情報科学系の技術は悪用されれば強大な悪用システムを容易に作ることができる。普通の人々が全然気がついていないうちに、悪用システムの運用者は、強大な人間=家畜=管理能力を有するようになる。
  3. 人間たちは、自分たちの認知能力、行動の意味するところを認知する能力は、機械には無理だと信じたがっているかもしれないが、行動の意味までセンサーで読み取られ、コンピュータでデータベースで管理保存され、自分が知っている以上の情報をコンピュータがもっている、という事態に至るだろう。
  4. まあ、信じたがりやの人間たちにとっては、心配するには及ばないことだ。彼らにとっては「管理者を信じます」と告白しつづければ済む話だ。

「ロボットのSense-Plan-Action(認識、計画、動作)」と《極座標の原点》

  1. http://www.hbf.or.jp/grants/pdf/g/16-g-odo.pdf

『対数極座標空間の高次局所自己相関特徴に基づく物体認識』と《極座標の原点》

  1. http://ci.nii.ac.jp/naid/110003273650/
    1. キーワード 単眼CCDカメラ 対数極座標 高次局所自己相関特徴 重回帰分析 ジェスチャ認識
    2. 抄録
    3. 計算機の入力インターフェースとしてユーザのジェスチャを認識することができれば,従来の入力インターフェースであるキーボードやマウスに加え,更に計算機とユーザ間で円滑なコミュニケーションが可能となる.本稿ではユーザに対して拘束感や不自然な使用感を与えない非接触型センサである単眼カメラを用い,入力された画像からジェスチャを推定する手法を提案する.具体的には,まず,時系列画像を直交座標系から対数極座標系に変換を行ない,時間差分,空間差分,色情報を用いて手領域を抽出する.開始直後は,対数極座標の原点を取り込み画像の中心点とするが,手領域の抽出後は,手の位置と速度から次フレームの手領域の推定重心位置を対数極座標の原点として変換を行なう.手形状の識別は,対数極座標空間の高次局所自己相関特徴を用いた重回帰分析により行なう.これより,手形状と手の運動軌跡によりジェスチャ認識を行なう.対数極座標に変換することで,画像のデータ量を減らし計算コストの削減,特徴量の回転不変性を実現している.
  2. 「開始直後は,対数極座標の原点を取り込み画像の中心点とする」→座標変換→CCDカメラにとっての対象物である「手領域の推定重心位置を対数極座標の原点」とする。対象物の《極座標の原点》からの《視点》で「手形状と手の運動軌跡によりジェスチャ認識を行なう」。

《極座標の原点》の数学的性質は?

モノ《極座標の原点》

  1. 大きさを有するモノが、自らを極座標の原点としてとらえるとき、自らの内部状態を、極座標の原点の周りに広がる虚空間の中に感じる。
  2. モノ世界を認知する。素粒子においても、他の素粒子を認知する。
  3. 認知するモノは内部状態をもつ。認知結果を内部状態として維持し、《動き》原因としての内部状態をもつ。
  4. 認知するモノは、自らを《極座標の原点》として認知する。
  5. 世界を認知し、内部状態をもつモノが、自らを《極座標の原点》として認知すると、内部状態はマイナスの距離世界に放逐され、虚数軸の世界というかたちで、《極座標の原点》の周りに、虚世界を構成するようになる。

《私》《極座標の原点》

  1. 《私》とは「《極座標の原点》が置かれたモノ」である。
  2. 《他者》とは「《極座標の原点》が置かれたモノ以外のモノ」である。
  3. 《我》《極座標の原点》ではない。《我》はじっさいには大きさがあり、内部状態がある。点ではない。大きさや内部状態があるモノを点であるとして抽象すると、《背後者》が座標系の実数軸から消えてしまう。虚数軸の方向に、《背後者》がはみ出してしまう。

《極座標の原点》《サル山のサル》

  1. 《肉をまとった極座標の原点》を《サル山のサル》という。
  2. 肉は《極座標の原点》の背後にあるのか、内部にあるのか、外部にあるのか?
  3. 《極座標の原点》は大きさを持たない点なのか、大きさをもつモノのか?
  4. 『大きさを持たない点』という思考様式。捨象の思考様式。捨象の思考様式は、結果として、大きさのあるモノの内部にあったモノを、この世には存在しない、虚数軸の方向の《背後者》に追放してしまう。
  5. 《肉をまとった極座標の原点》という言い方では、肉は《極座標の原点》の外部にある。肉の内部に《極座標の原点》がある。
  6. 《思いこみ》《思い描き》は肉の内部世界である。《極座標の原点》の外部世界である。《極座標の原点》にとっては、肉の表面よりは内部であるが、《極座標の原点》自体にとっては外部にある世界である。
  7. この「外部世界」を《体内感覚世界》にかぎるのか、《背後者》をも含めた《体内世界》と考えるのか。
  8. 《極座標の原点》がインプット→内部状態→アウトプットという回路であるなら、《極座標の原点》自体の内部状態を必要とする。《極座標の原点》は肉そのものなのである。しかし、肉そのものとしての《極座標の原点》は、対象としての肉の内部世界を外部にもつ。《極座標の原点》にとっては肉は二重化される。《極座標の原点》の内部の世界としての肉と、《極座標の原点》の外部の世界としての肉に二重化される。《背後者》としての肉と、《体内感覚世界》としての肉。
  9. 肉の内部の《極座標の原点》を通過点とする、肉の内部での情報循環
  10. 《サル山のサル》にとっては、もともとは、肉は《極座標の原点》の内部世界であったのだろう。それが、反省によって、内部化されて、外部化された肉と内部の肉とに分離した。《自覚すること》によって、《自覚された肉》が外部世界の中に発見された。それが《こころ》なのだろう。物理的世界の中の身体の中に発見された世界としての《こころ》。
  11. 《こころ》は《体内世界》であり、《背後者》をも含めたモノである。《背後者》も含めた《体内世界》が《自覚された肉》として、外部世界の中に発見される。
  12. 凹型の《身体》を持たない動物にとっては、世界の中に《身体》を発見することは難しい。《知られつつあるモノ》としての《身体》《知りつつあるモノ》としての《身体》。《知られつつある身体》と、《知りつつある身体》
  13. ローレンツがどこかで言っていたこと。《作業しつつある手》が見えるということが重要。
  14. 凹型の《身体》を持たない動物、《知られつつある身体》を知らない動物は、《知りつつある身体》の存在には気づいているだろう。しかし、《知りつつある身体》は知られることができない。《知りつつある身体》の性質は世界とは正反対のモノである。《知りつつある身体》が北に動けば、世界は南に移動するのである。
  15. 目を閉じることは、凹型《身体》を作り出すことである。目を閉じれば、まぶたという《身体》を見ることになる。
  16. マグロは目を閉じることができない。まぶたを見ることもできない。おそらくは、《知られつつある身体》を知ることはできない。マグロは、《知られつつある身体》を知るよりも前に、《知られつつある仲間》を知ることになる。それが『仲間』であって、『敵』や『餌』でないことを、どうやって知るのか? おそらくは、進化価値の結果としての『仲間識別回路』が《知りつつある身体》の内部に形成されているのだろう。マグロは、《知られつつある仲間》が、それを《極座標の原点》とする《知りつつある身体》であることに気がついているのだろか? 『仲間』の特色は、《感じ合い》《動き合い》によって、共生関係に入ることによって相互に利益を得ることができる、というモノであることにメリットがある。そうでなければ『仲間』を識別する進化価値もない。
  17. 『仲間』との《感じ合い》《動き合い》は、しかしながら、《彼》が《私》と同様の《知りつつある身体》であるとの認識に至ることとイコールではない。進化価値としての《感じ合い》《動き合い》は、そのような《背後者回路》が形成されていれば、進化価値を実現できる。『仲間』との《感じ合い》《動き合い》には《私》は必要とはならない。
  18. 『仲間』の識別がなされ、《感じ合い》《動き合い》がなされたとしても、『仲間』と《知りつつある身体》とが同じであると考える必要はない。《知りつつある身体》を想定する必要もない。サルは鏡に興味を失う。《知りつつある身体》に興味をもつことの進化価値が、その段階で、生じるわけではない。
  19. 凹型身体とは、自己認識可能な《身体》である。《知りつつある身体》が《知られつつある身体》を知ることができる《身体》である。
  20. 《知られつつある身体》と《知りつつある身体》とは、残念ながら、性質が全く異なる。《知られつつある身体》は世界の中にあって、世界の中の他のモノと同様の性質を有する。《私》が北に向かえば、《知られつつある身体》も北に移動する。これは《彼》が北に向かえば《彼》が北に移動するのと同様である。しかし、《知りつつある身体》は、《私》が北に向かえば世界が南に移動する、という性質を有するモノである。しかしながら、《知られつつある身体》は、あきらかに、《知りつつある身体》と同じモノであるのである。そこから、自覚によるパニックが発生する。
  21. 『私』を《知られつつある身体》(や《他者》、『仲間』)と同視するのが《相対者公理》であり、《私》《知りつつある身体》と同一視するのが《絶対者公理》である。
  22. 《仲間》というモノが存在するわけではない、『仲間』だと思い込むようなモノが存在するだけ。《私》が『仲間』であるためには、《私》が『仲間』であると思い込まれるような行動様式を演じなければならない。『仲間』は規範概念である。
  23. 《サル山のサル》は《肉をまとった極座標の原点》である。肉は生かさなければならない。《極座標の原点》は肉をまとうことによって、『肉を生かす』という目的をもつ。

《身体》テリトリー

  1. 《とる》という動作は、身体的な支配領域の中に、そのモノ動かすことである。
  2. テリトリー内部に移動する。
  3. テリトリーとは? 所有とは? 占有とは? 専有とは? 共有とは?
  4. 《もつ》というのは、そのモノを自分のテリトリーの内部に維持することである。
  5. テリトリーの多重構造。同心円的多重構造。《身体》は専有度のもっとも高いテリトリーである。
  6. 《極座標の原点》からの同心円的多重構造。

《サル山のサル》と遺伝的アルゴリズム

  1. http://www.asyura2.com/07/it10/msg/135.html
    1. パラメータをちょっとづつずらして試行錯誤する/ときどき突然変異させて試みるアルゴリズムなのだが、そのためには評価のための目的がなければならない。まあ、生物における目的は、生き残り確率の増大である。進化目的
  2. 《ここちよさ》が進化目的の結果であるとするなら、《ここちよさ》自体が進化目的を反映しているだろう。つまり、生き残り確率増大の《予感》が《ここちよさ》に反映されているはずである。

《思い描き》《極座標の原点》、モイエガ・キョザゲ・100

  1. 《思い描き》を行う場合には、《極座標の原点》を、《思い描き》無限遠点に置かなければならない。そうしないと、《思い描き》を維持できない。《極座標の原点》の鏡像。
  2. 《思い描き》《思いこみ》の鏡像である。対象化された《思いこみ》。鏡像とは「対象化されたモノ」。
  3. 《思い描き》《思いこみ》の鏡像である。《極座標の原点》からの距離が逆数になるような鏡像である。《極座標の原点》無限遠点に移動する。
  4. この《極座標の原点》と、あの《極座標の原点》との関係は?
  5. この《極座標の原点》からの世界無限遠点は、四次元体の総体としての《宇宙史》であろう。反転世界における中心は《宇宙史》である。《私》《極座標の原点》《宇宙史》との間にあり、《極座標の原点》に近い所にある。《思いこみ》《私》《極座標の原点》との間に在る。反転世界においては、《宇宙史》が中心の一つの点となり、《私》は中心としての《宇宙史》からみて辺境の地にある。反転世界においては、《極座標の原点》世界全体を包み込む無限遠点の球体となる。

キョザゲ・イシモ・100(3、2007-07-14(土))

  1. 《他者》からの《知った思いこみ》の《コトバ》からの《他者》の《知った思い描き》の受け取り、の主体は《極座標の原点》である。《聞き描きつつあるモノ》。

《他者》の力と《極座標の原点》

  1. 水の分子が隣の分子の運動量を感じとるように、私は他のモノからの力を感じとる。他者からの力を感じとる《極座標の原点》がある。

キョザゲ・イシモ・100(2007-07-13(金))

  1. 存在を論理的に証明することは不可能である。存在というのは、論理の世界の外部に在るモノの存在である。《モノの世界》《コトバの世界》との関係が存在の証明である。論理的証明は《コトバの世界》の中でのコトバの操作の規則である。《モノの世界》との《繋がり》を切断するのが論理的証明であるから、モノの存在を論理的に証明することはできない。
  2. 《我》が思いつつある時には《我》は在る」は「UFOが飛びつつある時にはUFOは在る」というのと同じである。なんらの証明にもなっていない。
  3. 《混濁》の中の《極座標の原点》《混濁》の中の《極座標の原点》《知りつつあるモノ》《動きつつあるモノ》
  4. モノの大きさを捨象すると、モノの内部で行われていた処理は、点の《背後者》に追い出される。マイナスの距離世界に追い出される。内にあったモノが、マイナスの距離世界という外に追い出される。内外の倒錯。さらに、マイナスの距離という虚の世界が、実の世界であるという倒錯も生じる。虚実の倒錯。《私》を点として理解しようとすると、そのようになる。
  5. コトバモノを点として理解しようとする。
  6. 《呪文》コトバ《モノの世界》に放り投げる。コトバを放り投げて、《モノの世界》を観察するのが《呪文》である。
  7. モノを点として思い描くのは、純粋な《外からの視点》からモノを見通すことである。《内からの視点》をとりあえず完全に排除することである。
  8. 空気》・キョザゲ・100。《慰め合い》のコトバが作り出す《空気》。「いいよね」「そうだよね」で作り出されていく《空気》。実体はボス猿への服属儀礼。《空気》への服属儀礼。付和雷同、長いモノには巻かれろ、泣き寝入り。
  9. 評論家の《視点》《外からの視点》。行動者の《視点》《内からの視点》
  10. 制度を、足して二で割って、複雑かつ曖昧にしていく《空気》。制度をあってなきがごときモノに変えていく《空気》。制度は《空気》の『敵』である。《空気》で決めることへの《快》。主体的責任からの逃走。論理的思考は主体的であるが、《空気》への服属は没主体的である。主体的決定には主体的責任の重荷が伴う。没主体的決定には責任の重荷から解放される。
  11. 空気》は状況を見えなくし、恍惚状態を作り出す。《慰め合い》のコトバ状況を見えなくし、恍惚状態を作り出す。念仏の恍惚。弥陀の本願は慰めのコトバである。
  12. 太平洋戦争は一向一揆であった。尊王攘夷の念仏、大東亜共栄圏の念仏を唱えて戦争に突入しただけ。
  13. 空気》の合理性。論理性はないが、《状況》への対応の方式である。『わるい』状況にたいして、慰めのコトバを掛け合うこと。『わるい』状況を忘れるためのコトバを掛け合うこと。精神の安定を重要視すること。『わるい』状況は精神を不安にするから、『わるい』状況を見えなくするコトバが必要である。『わるい』状況が見えなくなれば精神は安定する。
  14. 《極座標の原点》は人々の思い描く《空気》からの情報を受け入れ、処理し、動く
  15. 臭い物に蓋をするコトバ、《空気》。見ぬ物清しの《空気》。心頭滅却すれば火もまた涼しの《空気》。
  16. 政治的決定の誤りの原因は《空気》ではない。《空気》に自覚的に打ち勝つ理性・《見通し》を持ち得なかったことが敗因である。どんな社会にも、その社会特有の《空気》はあるのである。群集心理のない国はない。しかし、政治的決定者の選抜過程も《空気》によって行われると、するなら、《空気》が政治的誤判の原因ということになる。おそらく、どんな国でも、《空気》が制度を破壊して、政治が腐敗し、最終的には革命が必要になる。水に流して一から始めるタイプの国と、前回の制度の欠陥として発展させる国とで、違いはあるか? 制度が腐敗するまでの期間が異なるか? あまり違いはない。世代が変われば記憶はリセットされる。歴史的教訓を学ぶといっても、その《空気》に合致した『教訓』を学ぶだけだ。
  17. 《サル山のサル》には臭い物に蓋をするコトバ《求める思いこみ》がある。『心地よいウソ』への《求める思いこみ》がある。『心地よいウソ』とは臭い物に蓋をするコトバである。

キョザゲ・モトモイ・100

  1. 《極座標の原点》《求める思いこみ》は在るか?
  2. 《極座標の原点》《知りつつあるモノ》《動きつつあるモノ》《知りつつあるモノ》《知った思いこみ》、《知った思い描き》。《知った思い描き》から《未来への思い描き》へ。《思い描き》への評価、『よい』『わるい』の評価。《知った思い描き》への評価と《未来への思い描き》との差が《求める思いこみ》になる。
  3. 認知情報から《動き》への変換。変換過程。変換の仕組み。変換の途中の溜め。記憶
  4. 変換過程における内部循環。内部循環の一部としての『世界』の再構成。《思い描き》《極座標の原点》《思い描き》をもつか? 変換過程における内部循環で説明できるか? 《動き》は統一的でなければならないから、認知情報も統一化されなければならない。認知情報の統一化のための『世界』の《知った思い描き》。
  5. 《極座標の原点》《思い描き》をもつか? 《思い描きつつあるモノ》《思いこみ》《噴出しつつあるモノ》を通して、《極座標の原点》《思い描き》をもつ。《思い描きつつあるモノ》《噴出しつつあるモノ》は、変換過程における内部循環である。
  6. 《極座標の原点》は数学的モデルであるから、大きさを持たない? 《極座標の原点》は大きさをもつ??

《極座標の原点》と主権者意識

  1. 《極座標の原点》《群れ》のあり方を決定するモノとしての自覚をもつことはできるか?
  2. 100億分の1としての、分をわきまえるべきか?
  3. 《私》の選択は《極座標の原点》の選択である。

イシモ・キョザゲ・100

  1. 《息しつつあるモノ》《極座標の原点》である。
  2. 《息しつつあるモノ》《極座標の原点》を置くことができる。
  3. 《息しつつあるモノ》は一つの《極座標の原点》である。
  4. 《極座標の原点》としての《息しつつあるモノ》は、《近傍物理空間》《極座標の原点》である。
  5. 《息しつつあるモノ》《体内世界》《極座標の原点》である。
  6. 《息しつつあるモノ》《背後者世界》《極座標の原点》である。
  7. 《息しつつあるモノ》地球への《極座標の原点》でがる。
  8. 《息しつつあるモノ》《思いこみ》との関係における《極座標の原点》である。《思い描き》との関係における《極座標の原点》である。《知った思い描き》。
  9. 《息しつつあるモノ》《求める思いこみ》との関係における《極座標の原点》である。《求める思い描き》。
  10. 《極座標の原点》のデフォルトの落ちき先は《息しつつあるモノ》である。
  11. プログラミング世界《プログラミング・オブジェクト》世界において、《極座標の原点》であるような《息しつつあるモノ》を両立させるのは難しい。プログラミング世界《思い描き》世界である。プロセ・キョザゲ・100《思い描きつつあるモノ》の原点はイシモである。
  12. 《極座標の原点》は知るものであり、動くものであり、《動き》を選ぶモノである。知るということは思い描くことである。情報を再構成して世界を思い描く。
  13. 主体の実体感覚を回復する。が、まだ、主体的であること、を回復したわけではない。「主体」というコトバで指し示されるべきモノへのクオリア
  14. この《極座標の原点》は『xx』への《求める思いこみ》をもつか? ○:《噴出しつつあるモノ》を通して《思い描き》をもつ。×:。

天文学と《極座標の原点》

  1. 天文学のデータは、観測地点を《極座標の原点》とする極座標データとして蓄積される。観測地点のデータと極座標データで構成される。
  2. 《視点》《極座標の原点》として記述される。
  3. http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~kanamitu/fits/fits_t50/node129.html
    1. topocentric フレームから geocentric に変換するのに必要なパラメータは、恒星時と観測所の位置であるが、従来は位置として、緯度・経度・海抜が使われてきた。 しかし topocentric velocity の計算にはこれらは地球中心の直交座標に変換されるので、・・
      1. OBSGEO-X 観測所の X位置(m)
      2. OBSGEO-Y 観測所の Y位置(m)
      3. OBSGEO-Z 観測所の Z位置(m)
      4. MJD-AVG 観測の平均時刻 (JD-2400000.5)
      5. VSOURCEa 観測天体の見かけの速度 (SOURCEの場合)(m*s**(-1))
      6. ZSOURCEa 観測天体の赤方偏移 (SOURCE の場合)(単位なし)
      7. VELOSYSa 見かけの視線速度(wrt standard of rest に対する)(m*s**(-1))

《私》《知りつつあるモノ》《極座標の原点》

  1. 《他者の知りつつあるモノ》《極座標の原点》であるなら、《同質者公理》によれば、《私》《知りつつあるモノ》《極座標の原点》である。以上。
  2. たけ(tk)科学的な説明を求めているのではない。納得のいく説明を求めているのだ。
  3. たけ(tk)は他人に説明するためのコトバを求めているのではない。《私》が納得のできる説明を求めているのだ。
  4. たけ(tk)は説明など求めていない。たけ(tk)《見通し》を求めているだけだ。《見通し》は、《極座標の原点》からの《見通し》であると説明することができる、というだけだ。

《他者の知りつつあるモノ》《極座標の原点》

  1. 同じじゃん。数学っぽいコトバで言い換えたモノ

《極座標の原点》《群れのアニマ》

  1. 《体細胞の群れ》《極座標の原点》というのは《群れ》の中を流通する情報に過ぎない。・・ここでの《極座標の原点》《知りつつあるモノ》の意味だな。《知りつつあるモノ》《思いこみ》に過ぎない、というのと同じ意味だな。
  2. 《体細胞の群れ》《極座標の原点》というのは、《群れ》の中の情報流通の循環を意味する。情報循環《体細胞の群れ》の外部から体外世界情報を仕入れ、体外世界の中で《群れ》《動き》を作り出す。その情報入手と《動き》の重心が《極座標の原点》である。重心というのは仮想的なモノ《群れ》の重心。・・《思いこみの個体内循環》と言っていた奴だな。
  3. 複数の物体の《群れ》の重心、は、いずれかの物体の中にあるとは限らない。
  4. 《知りつつあるモノ》《極座標の原点》=も重心のようなモノ
  5. 《他者のアニマ》《極座標の原点》からの《視点》にみえる、ということが問題。
  6. 《極座標の原点》というのは《私》《アニマ》の問題ではなく、《他者のアニマ》の問題である。
  7. 《他者》《体細胞の群れ》である。《他者》《我》はないのである。《他者》にあるのは、『我』という《思いこみ》である。とはいえ、《他者》には《体細胞の群れ》の内部の情報循環があり、その循環の重心というべき点がある。知覚情報から当為情報への変換される部分の重心がある。瞬間瞬間で移動する点かもしれないが、それが《極座標の原点》となる。
  8. 知覚情報から当為情報への変換は、徐々に、行われるのかもしれない。
  9. 知覚情報から世界モデルへの再構築。世界モデルの中への『我』情報の貼り付け。
  10. 《体細胞の群れ》が『世界モデル』を情報として保有するというのは? 群体と他のモノとの位置関係の情報とは? 進化の過程で視覚情報がなければ、空間把握はない? モノへの感覚は視覚がなくでも可能だろう。モノへの感覚は世界モデル以前からある。環世界。必要に応じて、必要最小限のモノだけを知覚する世界。見えるモノは全て必要なモノだから見えているのである。『それが不必要なモノである』と判断するために必要な情報だから見えているのである。視覚情報による世界モデルには不必要な情報が溢れている。視覚情報によって得られたモノが必要かどうかは、さらに吟味が必要である。
  11. 極座標モデルは複数の《個体》の相互関係におけるモデルである。《群れ》《群れの中の個体》との関係ではない。
  12. 《群れ》《群れの中の個体》モノモノとの相互関係である。《群れの中の個体》《群れ》に対して、《極座標の原点》を感じることがある、か?
  13. 《群れの中の個体》《群れ》《群れ》体内感覚で知るだけである。自らが属する《群れ》《群れ》の外部から感じることは、自らが属しない他の《群れ》モノとして、モノの外部から、感じることである。

検索

『なすべきこと』 - [#『語るべきこと』の向こう側には、《他者のアニマ》がある。《他者のアニマ》《極座標の原点》とそのまわりの《他者の思いこみ》である。]

ゴミ箱 - [#「主観的表現」とは《求める思いこみ》《視点》から見た世界の記述である。《求める思いこみ》に極座標の原点を置いた時に見える世界の記述である。]

モノ - [モノ《極座標の原点》]

『悪』 - [#『悪』《求める思いこみ》である。『悪』《求める思いこみ》に極座標の原点を置いた時の、モノへの主観的表現である。]

《不快》 - [#「主観的表現」とは《求める思いこみ》《視点》から見た世界の記述である。《求める思いこみ》に極座標の原点を置いた時に見える世界の記述である。]

《快》 - [「主観的表現」とは《求める思いこみ》《視点》から見た世界の記述である。《求める思いこみ》に極座標の原点を置いた時に見える世界の記述である。]

《アニミズム》 - [#《アニマ》とは、モノの内部に置かれた極座標の原点である。《視点》《我》《知りつつあるモノ》も全部、極座標の原点である。]

科学 - [#《モノの群れ》は、《絶対者の群れ》である。《絶対的中心者の群れ》である。《極座標の原点の群れ》である。客観的な直交座標の空間に配置された《極座標の原点の群れ》である。座標変換が可能な座標の《群れ》である。]

《視点》 - [極座標の原点を《我》もしくは《視点》と呼ぶ。]

極座標モデル - [直交座標の中に極座標の原点=《視点》=の群れがあるというモデル。]

《浄化球》 - [#《他者》無限遠点は、極座標の原点としての《他者》《視点》マイナスの距離世界との接点に在る。]

《我》 - [極座標の原点を《我》もしくは《視点》と呼ぶ。]

《特別者公理》 - [#《特別者公理》を数学的モデルで表すと、極座標モデルになる。《私》が特別者であるのは、極座標の原点が特異点(特別者)であることと同値である。]

《共振しつつある宇宙史》 - [#《背後者世界》は、極座標の原点の背後にあるので虚数軸の方向にある。《知りつつあるモノ》を原点として虚数の座標軸を想定すれば、《知りつつあるモノ》は虚数軸方向に《背後者世界》を見通すことができる。実数軸方向の《近傍物理空間》と虚数軸方向の《背後者世界》とを統合したモノが、《複素数の時空》。]

ゴミ箱2006-04 - [#《我》とは極座標の原点である。《知りつつあるモノ》《知られつつあるモノ》への距離を無限に小さくして、《知りつつあるモノ》自身に迫ろうとするのは、無限後退である。無限後退の思考実験では《知りつつあるモノ》に至ることはできない。アキレスと亀との距離を無限に分割しても、アキレスは亀に追いつくことはできない。無限後退の方法に問題がある。無限後退の方法で迫ろうとする《視点》に問題がある。]

《近傍物理空間》 - [#『3次元空間』というのは《思いこみ》なのだ。《思いこみ》において『3次元空間』を理解することは可能であるが、《思いこみ》である。《思いこみ》において《近傍物理空間》を『3次元空間』として理解することは可能であるが、《思いこみ》である。《私》には極座標的な方向と距離があるだけだ。極座標的な世界《思いこみ》である。実際には極座標の原点にある《私》から見た、射影空間が《私》のまわりに広がっているだけだ。]

ゴミ箱2006-03 - [#デカルトのクオリア体験は、たけ(tk)からみると、極座標の原点からの《視点》での体験のようにみえる。]

デカルトの《我》は検証可能か? - [* 《私》から見て《他者》クオリア体験は、《あの時・場所の・あのヒト》を極座標の原点とする体験、極座標の原点に《視点》を置いた体験であるように思われる。それは原点からの方向と距離の世界であり、原点から見通せる範囲での事物への体験である、ように、見える。「一人称的体験」と「極座標」として捉えることによって、客観的観察の「直交座標」との相互変換が可能になるのではないか?]