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《疑いつつあるモノ》

キーワード《疑いつつあるモノ》

定義

デカルトの「全てを疑い、疑いうるモノは全て偽であると(方法的に)断定しつつあるモノ」のこと。

「すでに理性は、まつたく確實でもなく疑ひ得ぬものでもないものに對しては、明白に僞なるものに對するに劣らずに注意して、同意を差し控ふべきだと私を説得するのであるから、もし私がその意見のいづれのうちになりとも何か疑ひの理由を見出すならば、それでこそそのすべてを拒斥するに十分であらう。」

But inasmuch as reason already persuades me that I ought no less carefully to withhold my assent from matters which are not entirely certain and indubitable than from those which appear to me manifestly to be false, if I am able to find in each one some reason to doubt, this will suffice to justify my rejecting the whole.

極めて僅かであれ疑ひを容れるものはすべて、恰もそれが全く僞であることを私がはつきり知つてゐるのと同じやうに、拂い除けつつ、改めて辿ろう。そして何か確實なものに、あるひは、餘のことが何もできねば、少なくともまさにこのこと、すなはち、確實なものは何もないといふことを確實なこととして認識するに到るまで、更に先へ歩み續けよう。

I shall proceed by setting aside all that in which the least doubt could be supposed to exist, just as if I had discovered that it was absolutely false; and I shall ever follow in this road until I have met with something which is certain, or at least, if I can do nothing else, until I have learned for certain that there is nothing in the world that is certain.

私が見るすべての物は僞であると假定する。また、私はひとを欺く記憶が表現するものはいかなるものにせよ嘗て存在しなかつたと信じることにする。私はまつたく何等の感官も有しないとする。物體、形體、延長、運動及び場所は幻想であるとする。

I suppose, then, that all the things that I see are false; I persuade myself that nothing has ever existed of all that my fallacious memory represents to me. I consider that I possess no senses; I imagine that body, figure, extension, movement and place are but the fictions of my mind.

私は、世界のうちに全く何物も、何等の天も、何等の地も、何等の精神も、何等の身體も、存しないと私を説得した

I was persuaded that there was nothing in all the world, that there was no heaven, no earth, that there were no minds, nor any bodies:

http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/library/descartes/med001.html 『省察』のオンライン版。日本語。

http://www.ucs.mun.ca/~fdoull/des-med.htm 『省察』のオンライン版。英語。

区別

《疑いつつあるモノ》《思惟しつつあるモノ》

  1. 《疑いつつあるモノ》は『《疑いつつあるモノ》がある』と気付いて、それが確かであると、疑わなくなったときには、無くなってしまう。という矛盾が在る。
  2. 《思惟しつつあるモノ》であれば『《思惟しつつあるモノ》がある』と疑わなくなったときでも、なくなることはない。
  3. 《私》が疑う、《私》が思惟する、のか?
  4. 《私》とは何なのか』という疑問に答えるための本ではない、ということ。『正しいコトバとは何なのか』という問いに答えるための本。

《思惟しつつあるモノ》と放心状態

  1. ぼけっと見ていたり、ぼけっと聞いていたりするとき、放心状態のときに、《私》というモノを感じることのほうが多い。無我の状態?
  2. 放心状態でも《思惟しつつあるモノ》に含まれるのか?
  3. 《放心しつつあるモノ
  4. 《疑いつつあるモノ》というのは『疑いなく正しいコトバ』を《求めつつあるモノ》であり、『疑いなく正しいコトバ』への《求める思いこみ》に執着している状態だ。『疑いなく正しいコトバ』の《思いこみの世界》に《入り込みつつあるモノ》だ
  5. 《思惟しつつあるモノ》《思いこみの世界》に《入り込みつつあるモノ》だ。
  6. 「しからば私は何であるか。思惟するもの、である。これは何をいふのか。言ふまでもなく、疑ひ、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なほまた想像し、感覺するものである。」
  7. 感覚するだけのときも《思惟しつつあるモノ》に含まれるのか・・。
  8. 「しからば私は何であるか。」でなんで「思惟するもの、である。」という答えが出てくるのか? 「寝るモノである」「食べるモノである」「あるくモノである」ではないのか? 「方法的に疑うモノである」ではないのか? 何故に「思惟」なのか?

「私がそれを見るといふことそのことから、私自身がまた存在するといふことが、結果するからである。」「I am or that I exist myself from the fact that I see it.」

  1. この間のペルー人が「悪魔が《私》に命令した」と言っていたから「悪魔が命令するというそのことから、悪魔が存在するということが、結果する」となる?
  2. 「命令」と「思惟」では違うということか? 《思惟しつつあるモノ》は確実に存在するが、《命令しつつあるモノ》は確実に存在するとは言えない?
  3. 《思惟しつつあるモノ》が確実であるのはそれが、自らの存在を疑いつつあるとき、対自的に思惟しつつあるとき、自己言及しつつあるとき、であろう。というのが、最初の結論であった。《思惟しつつあるモノ》は確実に存在する、《思惟しつつあるモノ》は思惟する、《私》は思惟する、故に《私》は確実に存在する、ううううう。
  4. アリストテレスは「モノには真偽はない」と言っているのだが・・。なぜ、モノに真偽を求めるのか? 《私》モノだ、だから、《私》に真偽はない。「モノへの認識」は《思いこみ》だから、真偽は在る。端的に言おう、『デカルトの我はここにはない』。
  5. デカルトが「我」というコトバで指し示そうとしたモノが、今ここの《私》のことであれば、「デカルトが「我」というコトバで指し示そうとしたモノは、ここにある」。しかし、デカルトは「我」というコトバ《私》のことを指し示そうとしたのか? 或る意味ではYesと言ってもよいかもしれないが・・。デカルトの「我」というコトバが指し示すモノは、デカルトなのか、《私》なのか。出版して読者に理解してもらおうとしたのだから、《私》のことだ、と言えなくもない。しかし、デカルトが《私》を知っていたとはと思えないのだが・・。
  6. 『我』という種類のモノの性質を記述した本だ、と理解すればよいのかな?
  7. 『我』という種類のモノは『自らの存在証明』を《求めつつあるモノ》である。
  8. 『我』という種類のモノは『私は確実に存在する』と《思いこみつつあるモノ》である。
  9. 『我』という種類のモノは『私は《思惟しつつあるモノ》である』と《思いこみつつあるモノ》である。
  10. 『我』という種類のモノ《思いこみつつあるモノ》である。
  11. 『我』という種類のモノ《思惟しつつあるモノ》である。ゴリラも『我』という種類のモノになりそうだ。ヒトは、寝ているときには『我』という種類のモノではない。
  12. 《他者》は『我』という種類のモノであるかどうかは分からない。確認するのは難しい。
  13. 《同質者公理》によれば、《私》のなかに『我』という種類のモノがあるなら、すべてのモノのなかに『我』という種類のモノがある。《私》《我》が在るなら、すべてのモノ《我》が在る。

「しかしながら私は、それは人間である、と判斷する。そしてかやうに私は、私が目で見ると思つたものでも、これをもつぱら私の精神のうちにある判斷の能力によつて把握するのである。」「Yet I judge these to be men. And similarly solely by the faculty of judgment which rests in my mind, I comprehend that which I believed I saw with my eyes.」

  1. 「私の精神のうちにある判斷の能力」ねぇ・・。《私》の精神、《私》と精神との関係は? 精神には判断の能力がある?
  2. 《私》を《このヒト》の全体的なモノ、と見れば、『《私》には判断する能力がある』というのは当然なことなのだが、・・。今までの懐疑的な態度も何のそので、《私》《私》じゃぁ、という態度ではないのか?
  3. まあ、《思惟しつつあるモノ》《私》を発見し、『《私》が何であるか』を明確に理解した、ということなのか?

「この蜜蝋の知覺は、視覺の作用でも、觸覺の作用でも、想像の作用でもあるのではなく、また、たとい以前にはかやうに思はれたにしても、嘗てかやうなものであつたのではなく、かへつてただ單に精神の洞觀である、そしてこれは、これを構成してゐるものに私が向ける注意の多少に應じて、あるひは以前そうであつたやうに不完全で不分明であることも、あるひは現在そうあるやうに明晰で判明であることもできるのである。」「 But what must particularly be observed is that its perception is neither an act of vision, nor of touch, nor of imagination, and has never been such although it may have appeared formerly to be so, but only an intuition1 of the mind, which may be imperfect and confused as it was formerly, or clear and distinct as it is at present, according as my attention is more or less directed to the elements which are found in it, and of which it is composed.」

  1. 「精神の洞観」と言ってもねぇ・・。記憶《背後者回路》の結果でしょ。
  2. イデアを否定するという趣旨なのかな?
  3. 蜜蝋に関するイデアの知識があり、その記憶があって、はじめて、洞観がある。《知りつつあるモノの背後者》記憶が在ること。蜜蝋を溶かせばどうなるか、固めればどうなるか、という記憶があってはじめて、《知りつつあるモノ》はそれが蜜蝋であることを知ることができる。《知りつつあるモノ》がそれを蜜蝋であると知る、というのは、『それが蜜蝋である』という《思いこみ》噴出するということ。《知りつつあるモノ》が、『それが蜜蝋である』という《思いこみの世界》入り込むことができる、ということ。

「私は、この蜜蝋が何であるかを實に想像するのではなく、ただ單に精神によつて知覺する」「I could not even understand through the imagination what this piece of wax is, and that it is my mind alone which perceives it.」

  1. 『xxが何であるか』というのは《思いこみ》だな。《思いこみ》による理解、《思いこみ》による認識だな。《思いこみ》によって《理解しつつあるモノ》は《思いこみつつあるモノ》だろう。理解というのは《思いこみ》だろう。《知った思いこみ》だろう。
  2. 「知覚する」「perceive」というのが《知った思いこみ》のことか?
  3. 《思いこみつつあるモノ》はここでも「mind」だな。
  4. 知覚、理解、《知った思いこみ》が有害無益などとは言わないよ。単に、それは《見通し》ではない、と言いたいだけだ。単に、それは《思いこみ》だよ、と言いたいだけだ。
  5. 《知った思いこみ》が或るモノを指し示すこと、《知った思いこみ》を或るモノ重ね合わせる方法で、《思いこみ》による《見通し》も、あってもよいと思うよ。《思いこみの世界》《モノの世界》への重ね合わせ
  6. 《思いこみ》重ね合わせ《見通し》か?

「私の精神はさ迷い歩くことを好み、そして未だ眞理の限界内に引き留められることを甘受しない」「my mind loves to wander, and cannot yet suffer itself to be retained within the just limits of truth.」

  1. これは《思いこみつつあるモノ》の特徴だな。「mind」が《思いこみつつあるモノ》なのか?

「最後に、私は、感覺する、すなはち物體的なものをいはば感覺を介して認める私と同じ私である。いま私は明らかに、光を見、噪音を聽き、熱を感じる。これらは僞である、私は眠つてゐるのだから、といはれるでもあらう。しかし私は見、聽き、暖かくなると私には思はれるといふことは確實である。これは僞でありえない。これが本來、私において感覺すると稱せられることなのである。そしてこれは、かやうに嚴密な意味において、思惟すること以外の何物でもないのである。」「Finally, I am the same who feels, that is to say, who perceives certain things, as by the organs of sense, since it truth I see light, I hear noise, I feel heat. But it will be said that these phenomena are false and that I am dreaming. Let it be so; still it is at least quite certain that it seems to me that I see light, that I hear noise and that I feel heat. That cannot be false; properly speaking it is what is in me called feeling;11 and used in this precise sense that is no other thing than thinking.」

  1. 思うに、思惟のほうが感覚よりも遥かに偽である。
  2. 感覚への感覚こそが感覚である?? 《体内感覚世界》への感覚こそが感覚である? 対自的感覚? 感覚への《見通し》のことのようだ。《知られつつあるモノ》としての感覚。「私において感覺すると稱せられること」なのね。
  3. ここら辺に来ると、たけ(tk)の、《知りつつあるモノ》《知られつつあるモノ》《知られつつある世界》に近くなる。そこでの主体は、《思惟しつつあるモノ》ではなく《知りつつあるモノ》なのだが・・。たけ(tk)は、感じるには、《思惟しつつあるモノ》《知りつつあるモノ》とでは別の場所に生じる、別のモノなのだが・・。併存し得るし・・。たけ(tk)流の現存在分析とでも申しましょうか・・。
  4. 《思惟しつつあるモノ》が《思惟されつつあるモノ》であることができるか?

「疑ひ、理解し、欲するものが私であることは、これを更に明證的に説明する何物も現はれないほど、明白である。」「 For it is so evident of itself that it is I who doubts, who understands, and who desires, that there is no reason here to add anything to explain it.」

  1. 経験において自明、経験の記憶において自明、なだけだ。
  2. 「私が思惟する間」においてのみ存在するモノ《思惟しつつあるモノ》《私》と異なるのは当然だろう。《私》は「私が思惟する間」においてのみ存在するモノではない。
  3. 経験から推定して言えば「疑ひ、理解し、欲するもの」があなたであることも疑いが無いのではないか?
  4. 《私》は「疑ひ、理解し、欲するもの」である。《思惟しつつあるモノ》も「疑ひ、理解し、欲するもの」である、故に《思惟しつつあるモノ》《私》である。って??
  5. 《私》は「疑ひ、理解し、欲するもの」である。《あなた》も「疑ひ、理解し、欲するもの」である、故に《あなた》は《私》である。って??

「しからば私は何であるか。思惟するもの、である。これは何をいふのか。言ふまでもなく、疑ひ、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なほまた想像し、感覺するものである。」「But what then am I? A thing which thinks. What is a thing which thinks? It is a thing which doubts, understands, [conceives], affirms, denies, wills, refuses, which also imagines and feels.」

  1. 「しからば《思惟しつつあるモノ》は何であるか。思惟するもの、である。これは何をいふのか。言ふまでもなく、疑ひ、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なほまた想像し、感覺するものである。」「But what then is "thinking object"? A thing which thinks. What is a thing which thinks? It is a thing which doubts, understands, [conceives], affirms, denies, wills, refuses, which also imagines and feels.」
  2. 《疑いつつあるモノ》、《理解しつつあるモノ》、《肯定しつつあるモノ》、《否定しつつあるモノ》、《求めつつあるモノ》、《拒否しつつあるモノ》、《思いこみつつあるモノ》、《感覚しつつあるモノ》。かなあ?
  3. 《思いこみ》《操りつつあるモノ》。《思いこみを操りつつあるモノ》、のような気もするが・・。

「ただ私に知られてゐることについてのみ、私は判斷を下し得るのである。」「I can only give judgment on things that are known to me.」

  1. 「ただ《思惟しつつあるモノ》に知られていることについてのみ、《思惟しつつあるモノ》は判断を下し得るのである」。「The "thinking object" can only give judgment on things that are known to the "thinking object".」

「思惟することは?ここに私は發見する、思惟がそれだ、と。これのみは私から切り離し得ないのである。私は有る、私は存在する、これは確實だ。しかしいかなる間か。もちろん、私が思惟する間である。・・私はまさしくただ思惟するもの、言ひ換へれば、精神、すなはち靈魂、すなはち悟性、すなはち理性である。・・私は眞のもの、そして眞に存在するものである。だがいかなるものなのか。私は言つた、思惟するもの、と。」「 What of thinking? I find here that thought is an attribute that belongs to me; it alone cannot be separated from me. I am, I exist, that is certain. But how often? Just when I think; .. to speak accurately I am not more than a thing which thinks, that is to say a mind or a soul, or an understanding, or a reason, .. I am, however, a real thing and really exist; but what thing? I have answered: a thing which thinks.」

  1. 《思惟しつつあるモノ》だよね、《思いこみつつあるモノ》だね。「私が思惟しつつある間」だけ存在するモノは、《私》ではなく《思惟しつつあるモノ》だよね、《思いこみつつあるモノ》だね。《考えつつあるモノ》。《思いこみを操りつつあるモノ》。
  2. 「a thing which thinks」「思惟するもの」。
  3. 《思惟しつつあるモノ》というタイトルにしようか・・。
  4. 《思惟しつつあるモノ》《私》ではない。《私》《思惟しつつあるモノ》ではある。また《私》の思惟しつつある状態ではある。
  5. 《私》にとって《私》《思惟しつつあるモノ》は存在する。《私》《思惟しつつあるモノ》にとって《私》《思惟しつつあるモノ》は存在する。しかし、《私》《思惟しつつあるモノ》にとって、デカルトの《思惟しつつあるモノ》は、その存在は疑わしい。デカルトは「デカルトの《思惟しつつあるモノ》は存在する」と語る、がそのコトバ《私》にとっては疑わしい。《私》《思惟しつつあるモノ》《私》にとっては存在する、があなたにとっては疑わしいだろう。かりにあなたが、あなたの《思惟しつつあるモノ》が存在するといったとしても、《私》にとっては疑わしい。各人にとってしか確実に存在すると言えないモノは、「真に存在する」と言えるのだろうか? 疑問が残るよね。よって、却下せざるをえないだろう。
  6. 《思惟しつつあるモノ》があるということを否定はしないが、それが疑いえない『真なるモノ』として存在するわけではない。

「私は、世界のうちに全く何物も、何等の天も、何等の地も、何等の精神も、何等の身體も、存しないと私を説得したのであつた。從つてまた私は存しないと説得したのではなからうか。否、實に、私が或ることについて私を説得したのならば、確かに私は存したのである。・・しかし、いま必然的に有る私、その私がいつたい何であるかは、私は未だ十分に理解しないのである。」「 I was persuaded that there was nothing in all the world, that there was no heaven, no earth, that there were no minds, nor any bodies: was I not then likewise persuaded that I did not exist? Not at all; of a surety I myself did exist since I persuaded myself of something [or merely because I thought of something]. .. But I do not yet know clearly enough what I am, I who am certain that I am;」

  1. モノが存在しない」と断定したわけか・・。
  2. 《説得しつつあるモノ》は《私》なのか?、《説得されつつあるモノ》は《私》なのか? 「I persuaded myself」「私が或ることについて私を説得した」。

「多分この一つのこと、すなはち、確實なものは何もないといふことであらう。//しかしながらどこから私は、いましがた數へ上げたすべてのものとは別で、少しの疑ふべき餘地もない或るものが存しないことを、知つてゐるのであるか。何か神といふもの、あるひはそれをどのやうな名前で呼ぶにせよ、何か、まさにこのやうな思想を私に注ぎ込むものが存するのではあるまいか。しかし何故に私はこのやうなことを考へるのであるか、多分私自身がかの思想の作者である得るのであるのに。それゆえに少なくとも私は或るものであるのではあるまいか。」「What, then, can be esteemed as true? Perhaps nothing at all, unless that there is nothing in the world that is certain. //But how can I know there is not something different from those things that I have just considered, of which one cannot have the slightest doubt? Is there not some God, or some other being by whatever name we call it, who puts these reflections into my mind? That is not necessary, for is it not possible that I am capable of producing them myself? I myself, am I not at least something?」

  1. 《私》《思いこみ》《噴出しつつあるモノ》。なにモノかによって、《思いこみ》が《噴出されつつあるモノ》。
  2. 「何故に私はこのやうなことを考へるのであるか」。《考えつつあるモノ》が《私》であると断定するのは何故か?
  3. 《考えつつあるモノ》がある、というのはよいが、《考えつつあるモノ》が《私》である、というのは疑わしい。
  4. 「思想を私に注ぎ込む」「puts these reflections into my mind」。「私」と「my mind」とでは異なるな。原文はどうなんだろう?
  5. 《疑いつつあるモノ》と《考えつつあるモノ》。《疑いつつあるモノ》は《考えつつあるモノ》の一つ。ではあるが、同じか?
  6. デカルトの「神」は、たけ(tk)《背後者回路》のことらしい。
  7. 《思いこみつつあるモノ》《思いこみ》噴出するのは《背後者》であり、その《背後者回路》だ。

(神の存在証明につき)「そこで私は眞理の源泉たる最善の神ではなく、或る惡意のある、同時にこの上なく有力で老獪な靈が、私を欺くことに自己(靈)の全力を傾けたと假定しよう。」「I shall then suppose, not that God who is supremely good and the fountain of truth, but some evil genius not less powerful than deceitful, has employed his whole energies in deceiving me;」

  1. アホな仮定を持ち上げている。

「かるが故にこのことから我々は多分正當に、物理學、星學、醫學、その他すべて複合せられたものの考察に關わる學問はたしかに疑はしいといふこと、これに反して算術、幾何學、その他かやうなもの、すなはち極めて單純でいたつて一般的なもののみを取り扱ひ、そしてそれが世界のうちに存するか否かを殆ど顧みない學問は、或る確實で疑ひを容れぬものを含むといふこと、を結論し得るであらう。」「That is possibly why our reasoning is not unjust when we conclude from this that Physics, Astronomy, Medicine and all other sciences which have as their end the consideration of composite things, are very dubious and uncertain; but that Arithmetic, Geometry and other sciences of that kind which only treat of things that are very simple and very general, without taking great trouble to ascertain whether they are actually existent or not, contain some measure of certainty and an element of the indubitable.」

  1. 科学は疑わしいモノである、という宣言。感覚をベースにするものであるから。
  2. 科学者は、自覚しているのだろう。しかし、科学信仰の信者たちはそうではない。まあ、ここでは、科学信仰は無関係。
  3. この論からいえば、「我」の論理学のみが確実なモノとして成立する。「我」は論理的に言えば、自己言及になる。ところが、自己言及は数学的な論理の真実性を破壊してしまった。デカルトが「確實で疑ひを容れぬものを含む」と前提していた数学や論理学も、破壊してしまったのである。かくして、確実なモノはなくなった。

「例えば、いま私が此處に居ること、暖爐のそばに坐つてゐること、冬の服を着てゐること、この紙片を手にしてゐること、その他これに類することのごとき。まことにこの手やこの身體が私のものであるといふことは、いかにして否定され得るであらうか、・・」「For example, there is the fact that I am here, seated by the fire, attired in a dressing gown, having this paper in my hands and other similar matters. And how could I deny that these hands and this body are mine,・・」

「それにしても實際我々は・・この一般的なもの、すなはち、眼、頭、手、また全部の身體は、或る空想的なものではなくて眞なるものとして存在することを、承認しなければならぬ。」

  1. 「真なるモノとして存在する」という言い方に疑問。「身体が存在する」というコトバは真である、「「身体」というコトバが指し示すモノがある」というコトバは真である。ということであろうが、デカルトが「真である」と思ったときの「身体」というコトバが指し示していたモノは、今ここの、たけ(tk)にとっては存在しない。
  2. デカルトにとっては、デカルトの《身体》
  3. 「真なるモノ」は「偽なるモノ」との対比で使われるべきコトバであろう。「偽なるモノ」「そのモノが偽であるようなモノ」など存在しえない。

デカルトの「我」と《疑いつつあるモノ》

  1. デカルトは「我」が疑いつつある、というように、「我」を疑うことの主体であることを疑わなかった。
  2. 「一度たりとも我々を瞞したものには決してすつかり信頼しないのが賢明なことである。」(『省察』)。「it is wiser not to trust entirely to anything by which we have once been deceived.」。

「覺醒と夢とが決して確實な標識によつて區別され得ない」「there are no certain indications by which we may clearly distinguish wakefulness from sleep」と《疑いつつあるモノ》

  1. 経験の反復による、確からしさへの確信の程度の違いだろう。
  2. 論証的な標識は無いだろう。
  3. 「覚醒」というコトバで指し示されているモノ、と、「夢」というコトバで指し示されているモノ
  4. 《疑いつつあるモノ》は夢の中においてもあり得るであろう。
  5. 覚醒といっても、《思いこみ》の中に入り込みつつある状態もある。夢と同じようなモノだ。白昼夢。

《我》《疑いつつあるモノ》

  1. 《我》は《私の身体》の中の動きや知覚の原因となる《認識限界》の部分。
  2. 《疑いつつあるモノ》も《私の身体》の中の「疑う」「断定する」動き原因となる《認識限界》の部分。
  3. したがって、《疑いつつあるモノ》《我》の一種である。
  4. 《我》の概念は曖昧なので使うべきではない。
  5. デカルトは「《我》あり」と言った。つまり《我》《疑いつつあるモノ》とを同一視していることになる。デカルトの《我》《疑いつつあるモノ》と同一のモノか?

《疑いつつあるモノ》と通常の社会的思考

  1. 《疑いつつあるモノ》は通常の社会的思考から《混濁》の思考への入り口である。
  2. コトバで考えることが通常の社会的思考である。
  3. メタ言語。コトバについて考えるコトバ。コージブスキーの「一般意味論」。
  4. ロゴスの思考。説明するコトバ(ロゴス)による思考。
  5. 自己言及カオス
  6. 「論理的思考」、「論理原理主義的思考」。論理が全てという思考。イデア主義的思考。離存性を無視する思考。コトバに依存する思考。
  7. 「通常の社会的思考」は、じつは、もっと健全なような気がする。
  8. コトバにすがる欲求。

《疑いつつあるモノ》《求める思いこみ》

  1. 《疑いつつあるモノ》は『疑いなく正しいコトバ』を《求める思いこみ》に駆動されている。

《疑いつつあるモノ》科学コトバ

  1. デカルトは、感覚的なものどもの存在も疑わしい、と主張しているのに、科学者たちは実験という感覚的な検証について何も疑問を抱いていないようだ。
  2. 追試が成功した、という報告があると、「客観的な検証」であると、素朴に信じているようだ。複数の《ヒトの個体》が同様の体験をした時に、「客観的な体験」と信じるようだ。
  3. 《ヒトの個体》を水につけて30分間放置すると、その個体は自律的運動能力を失う」というのはたぶん、科学的な命題だろう。科学ヒトを殺す知識は提供するが、ヒトを生かす知識は提供しない。

《疑いつつあるモノ》《浄化球》

  1. 《疑いつつあるモノ》コトバに拘泥するモノである。
  2. 《浄化球》『正しいコトバ』。『正しい《思いこみ》』。『この《思いこみ》は正しい』という《思いこみ》。『正しい《思いこみ》』を《求める思いこみ》
  3. 『正しい《思いこみ》』を《求める思いこみ》モノ《アニマ》である。
  4. 『正しい《思いこみ》』を《求める思いこみ》という《アニマ》を持つモノもある。
  5. 「偽とか真とかいうは、たとえば善は真であるとか悪はただちに偽であるとかいうように、自体そのものののうちに存することではなくて、ただ思想(ディアノイア)のうちにあるにすぎない。のみならず単純な概念や事物のなにであるかを示す実体概念については、その真偽は思想のうちにさえ存しない」(『形而上学・上』p.224)。モノ(実在)の離存性意味の三角形
  6. 科学や数学という「正しいコトバ」と《浄化球》《モノの世界》を比較的正確に記述しているコトバ《モノの世界》を《神の視点》から記述するコトバヒトは、物質に対しては、《神の視点》から物質を見おろすことができる。《神の視点》とは《特別者公理》の視点である。客体である物質は、《私》とは何の繋がりも無い、《私》とは質的に異なるモノなので、《私》は、全く冷静に、客観的に、物質を観察することができる。
  7. 科学的な《神の視点》においては、《私》は物質に対して同質者としての共感を持つことはない。《私》は物質に《アニマ》を感じることはない。
  8. 物質世界科学的に観察する《私》は、物質世界の中のモノではない。科学的に観察された物質世界の中のモノは、《アニマ》を奪われたモノである。物質世界を観察しつつある《私》《アニマ》そのものだかが、《私》は物質世界の中のモノではない。科学的に観察しつつある《私》は、モノから《アニマ》を奪い去りつつあるモノである。《特別者公理》における認識者である。

《疑いつつあるモノ》《思いこみつつあるモノ》

  1. 《疑いつつあるモノ》《思いこみつつあるモノ》である。
  2. 『疑いえないコトバを求める』という強い《求める思いこみ》の中にある。
  3. 『疑いうるモノは全て偽であると断定する』という《思いこみ》の中にある。

《疑いつつあるモノ》と「疑いえないコトバ

  1. デカルトは「我あり」というコトバを結論として導き出した。デカルトは、「疑い得ないコトバ」を求めて、「我あり」というコトバを導き出したのであるから、「我あり」というコトバを「疑い得ないコトバ」であると結論したのであろう。「《疑いつつあるモノ》はある」というコトバを「疑い得ないコトバ」と結論したのであろう。
  2. 「金という物質はある」というコトバに似ている。金はここにはない。今ここにある《知りつつあるモノ》の現前には《金》という物質はない。しかし、「金という物質はある」というコトバは正しいであろう。しかし、「疑い得なく正しいコトバ」なのか?
  3. デカルトが体験したデカルトの《疑いつつあるモノ》は、たけ(tk)《知りつつあるモノ》の現前には「ない」のである。
  4. たけ(tk)は、デカルトと同様の思考経路をたどることによって、たけ(tk)の「《疑いつつあるモノ》はある」と判断することもできる。しかし、たけ(tk)《疑いつつあるモノ》は、たけ(tk)が寝ている時には存在しないことも知っている。
  5. たけ(tk)は「《疑いつつあるモノ》がある時には《疑いつつあるモノ》がある」という同義反復が「正しい」と考える。「Aがある時にはAはある」というのは正しいが無内容である。
  6. 「金という物質がある」と同程度の確からしさで「《疑いつつあるモノ》はある」ということは言えるだろう。その程度の明言でしかない。

《混濁》《疑いつつあるモノ》

  1. 《疑いつつあるモノ》は記述の出発点ではあるが、《たけ(tk)の思いこみ》の出発点ではない。

《近傍物理空間》《疑いつつあるモノ》

  1. 《疑いつつあるモノ》は、《感覚によって知られつつあるモノ》も疑う。

《知りつつあるモノ》《疑いつつあるモノ》

  1. 《疑いつつあるモノ》はそれ以前において何かを信じているということを前提としている。未自覚な《思いこみ》への信頼を有している。
  2. 《疑いつつあるモノ》は「疑い」「断定する」ことに意味を見いだしている点において、コトバに対する信頼を前提にしている。未自覚なコトバへの信頼を有している。
  3. 《疑いつつあるモノ》は『疑うことを通じて真なるコトバを得たい』という《思いこみの世界》の中に在る。

目次より

  1. 《疑いつつあるモノ》から《混濁》へ
  1. 《疑いつつあるモノ》から《混濁》へ
    1. デカルトが cogito, ergo sum の確信を持つに至る前段の「全てを疑い、疑いうるモノは全て偽であると断定しつつあるモノ」を《疑いつつあるモノ》と呼ぶことにする。
      1. 「かへつて、すでに理性は、まつたく確實でもなく疑ひ得ぬものでもないものに對しては、明白に僞なるものに對するに劣らずに注意して、同意を差し控ふべきだと私を説得するのであるから、もし私がその意見のいづれのうちになりとも何か疑ひの理由を見出すならば、それでこそそのすべてを拒斥するに十分であらう。」(http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/library/descartes/med001.html)、
      2. 「But inasmuch as reason already persuades me that I ought no less carefully to withhold my assent from matters which are not entirely certain and indubitable than from those which appear to me manifestly to be false, if I am able to find in each one some reason to doubt, this will suffice to justify my rejecting the whole.」(http://www.ucs.mun.ca/~fdoull/des-med.htm
    2. 《疑いつつあるモノ》はその存在は疑わしい。デカルトすでに死んでしまっているので、デカルトの《疑いつつあるモノ》も、いまここには存在しない。またそもそも、デカルトは《私》にとって《他者》であり、《私》《他者》の経験を経験することができない。従って《私》はデカルトの《疑いつつあるモノ》の存在を確認することができない。
    3. 《私》が経験しつつある《疑いつつあるモノ》も疑わしい。《私》が寝ている時には《私》《疑いつつあるモノ》も存在しない。《私》が死んだ後にも《私》《疑いつつあるモノ》は存在しなくなるだろう。
    4. デカルトは《疑いつつあるモノ》を『疑いつつあるモノ』というイデアで捉えて、超自然的に普遍的に存在するモノと捉えた。しかし、イデア《思いこみ》である。《思いこみ》はそれを思いこんでいるかぎりにおいて、それを《思いこみつつあるモノ》にとってのみ存在するに過ぎない。しかも、イデアとしての『疑いつつあるモノ』という《思いこみ》は、実際の体験として確実にあるモノとして発見された《疑いつつあるモノ》とは別のモノである。
    5. たしかに、《私》が起きてきて、《私》が疑いつつあるときには《私》《疑いつつあるモノ》はある。しかし、それでは「《私》が疑いつつあるときには、《私》《疑いつつあるモノ》は存在する」という同義反復的命題にしかならない。
    6. とはいえ、《私》が疑いつつあるときには、《私》《疑いつつあるモノ》は存在するのである。ただし、それは「金という物質が存在する」という命題と同程度の確からしさであろう。今ここには金は存在しない。しかし、状況によっては、可能性としては存在しうる、という程度の確からしさである。この程度では「疑わしいモノの存在を否定する」という《疑いつつあるモノ》のテストには合格しないであろう。《疑いつつあるモノ》は残念ながら、「普遍的に」「空間を超えて」「時間を超えて」「常に」存在するモノではないのである。
    7. 《疑いつつあるモノ》はすべてを疑い、疑わしいモノの存在を否定する。《疑いつつあるモノ》自体も疑わしいとなると、《疑いつつあるモノ》の存在自体を否定せざるをえなくなる。(《疑いつつあるモノ》が疑いつつある時には)確かにあるのだが、(常に)確かにあると言うことはできない、というパラドックスに陥り、《混濁》に突入する。(cogito, ergo sum は自己言及であり、それを突き抜けるとカオスになるのである)。
Last modified:2006/02/05 22:07:31
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